Episode.6



 A4サイズの資料の一面を覆い尽くした作戦を確認しながら、銃兎は喫煙室にて煙草を吹かしていた。きっと、ここ数ヶ月の間で煙草の消費量はこれまでの新記録を優に塗り替えているだろう。煙草がなくなっているのも気がついたら、という日が続いていたので、買いに行く労力の削減のために何箱かストックしてあった。もう溜めておく必要もないだろうから使い切ってしまおう、と残り一カートンのそれを今日と明日で片付けようとしていた。さすがに肺癌になるな、という意識とは裏腹に、煙草を口に持っていく指は止まらない。

「――そんなまずそうなもの、よく何本も吸えますねえ。ツルの捕獲間近でテンション上がってる感じですか?」

 非喫煙者なのにも関わらず、喫煙ルームに入ってからずっと隣にいるはそうぼやいた。
 別に、そんなことはない。自分は怖いくらいに冷静だ。むしろ、そうでなければ明日のガサ入れは乗り越えられない。変に情を持ち出すとその場の空気に流される。被疑者の話を聞いて、途中で席を外す人間を何度も見てきたし、仕事に身が入らなくなって、退職する同僚の背中もいくつか見送った。
 そんな中でも、銃兎の意志は硬かった。この国から薬物を撲滅させる……そのためなら汚職だろうがなんだろうが手段を厭わないし、使えるものはなんでも使ってきた。わざわざ心を鬼にしなくとも、銃兎は身も心も元から鬼神だったのだ。
 ……そうだと、思っていた。

「いやあそれにしても、まさか最後の張り込み先がうちの地元だとは思いませんでした」
「結果的に取引の報告を受けた件数もなかったですからね。でも、もうここしか残っていないんですよ」

 銃兎が秘密裏に採集していた土。明日ガサ入れをする付近にある畑から同じものが検出されたのだ。地主に聞いてみれば、とある男がベランダ栽培がしたいからと、一部の土を毎月買っているとのことだった。銃兎とて、それが野菜だったら文句は言わないが、人間を内からぶっ壊す葉っぱは取り締まり対象だ。
 その男は近所からの評判も良く、きわめて温厚な男だという。逮捕されてニュースで事が公になったら、近隣の住人のインタビューで“そんなことをするような人ではなかった”と評す……そんな人間だ。しかし、元々の特徴と完全一致していたし、そういう人間こそ嫌な匂いがするものだった。

「もう足はついてるんですか?」
「ほぼほぼ、と言ったところですね。今も別の人間が張っている最中ですが、証拠は十分です」
「じゃあ、突入する時が勝負ですねえ。さーいしゅーうけっせん! なんちゃって」
「人の古傷抉るの止めてもらえます? あと、あなたはこの日来なくていいですよ。元々公休でしょう」
「えー。なんかタイミング良すぎやしませんかー?」
「生まれ育った土地でサイレンの音が聞きたいのなら話は別ですが」

 「じゃあ、お言葉に甘えて」はころりと寝返った。

「はあ~。来週から組対ともお別れですかあ」
「そうですね。ちょうどいいです、あのおもちゃもそろそろ持って帰りなさい」
「はあい」

 結局、交通安全教室が開催される前にカタがつきそうなので、あのパペット共も用無しだろう。あれが他の同僚に見つかっていたらどうなっていたことか。あまり考えたくない。


 部署に戻ったはキャビネットを開けて、その中から私物を出してはデスクの上に並べていく。出てくるのはまったく菓子や小物類。お前は一体ここに何しに来たのかと問いたくなった。

「……あなた、元々組対志望だったらしいですね」

 物音が止む。振り向いたからは表情が消えている。初めて面白い顔が見れたな、と思ったが、思いのほか銃兎は素直に喜べなかった。

「わたし、そんな話しましたっけ?」
「あなたがいた交番の巡査部長から聞いたんですよ。ツルの件に関して、最近話す機会があるので」
「なるほどー。部長、元気でした?」
「元気……いえ、少しやつれてましたね。こちらの都合で忙しくさせているので」

 銃兎は目を閉じる。瞼の裏で、彼の苦痛にゆがんだ顔が浮かんだ。気づいてやれなかった自身の不甲斐なさ、守るものがある身の上では助けられないことを涙ながらに悔やんでいた。離れて暮らしている娘とも歳が近いそうで、ずいぶんと愛のある厳しさで一人前の婦警に育てたらしい。
 警官としては、家族以上の絆があっただろう。しかし、一個人として……やはり他人では踏み入れない境界がある。それが、は一塩に強い女だ。誰も信用していないその笑顔で、どんな茨の道をも潜ってきたのだろう。それゆえ、人に頼り方も分からず、今もなお。

「……もしも望むなら、このままここにいても構いませんよ」

 ああ……ついに魔が差してしまった。
 地位も、プライドも、彼女の身の上も……すべてとっぱらって考えるとする。のおかげで、ここ最近の業務をとてもスムーズに片付けることができた。ツルのせいで手が回らなかったものもが先陣切って処理をしてくれたおかげで、各島のデスクの上はまっさらも同然。立ち回りが上手く、ムードメーカー気質の彼女は周りの士気を上げてくれる。の能力に関して、なんだかんだで銃兎は一目置いていたのだ。どんなに性格に難ありでも、このまま、自分の下においてもいいくらいには。
 しかし、そう……あくまで、それをが望むのなら。銃兎には、彼女が意図的に張っている境界が見える。触れてしまえばビリッ、と電流が走って、そのうちに手の届かないところまで消えてしまいそうな危うさがあった。逃げ道を与えるなんて、らしくない。ほんとうに……らしくない。
 こんなにも銃兎は分岐点を与えている。それでも、は苦いものを口に含んだようにくしゃりと笑うだけだった。

「……それ、今まで言われた言葉の中で一番嬉しいです」

 銃兎の手からこぼれ落ちるなにか。が再び作業に戻ると、「あっ。なくしたと思ったらこんなところに」と声を上げて、ひとつの封筒を取り出した。
 銃兎も見覚えがある茶封筒。「全国警察剣道大会の案内ですか」と呟けば、「あれ。ご存知でした?」とが顔を上げた。「ええ」

「私のところにも来ましたからね」
「えーっ。入間さんも剣道選択だったんですか?」
「はい。もう鍛える暇もありませんし、不参加の予定ですが」
「入間さんの剣道着姿見たかったです~」

 警察庁が主催する、警察官の剣道個人戦日本一を決める大会。毎年日本武道館で開催されており、たしか今年は再来月にあるはずだ。もうすでにその頃にはツルは捕まえているはずだし、ももう、ここにはいないだろう。

「……あなたは、出場するんですか?」

 やめろ。もう、何も言うな。それでも、銃兎は未だに魔が差していた。聞かずにはいられなかった。
 で、いつまで経ってもらしくない顔をしている。案内に指を滑らせて、銃兎を見て微かに首を傾けた。

「もしも優勝したら、ご褒美とかくれます?」

 彼女には似合わない小さな声だった。より上の段位取得者などごろごろといるし、彼女は比較的若年層。センスがあってもそれを上回る経験を積み重ねてきた者の前では、手も足も出ないだろう。
 しかし……が思っているのは、きっと、そういうことではない。

「……まあ、検討くらいはしてあげますよ」

 意外だと言わんばかりに、は目を見開く。今日は本当に、彼女の珍しい顔ばかりをよく見る。
 いつもみたく、乾いたようにへらりと笑えばいいものを。どうしてか、その時ばかりははゆるりと目を細めて、その瞳に初めて闇の深い影を落とした。

「なら……がんばっちゃおうかなあ」

 結局、は銃兎が退勤するまで部署に残っていた。持って帰れと言ったおもちゃはきちんと持ち帰ったようだが、剣道大会の案内が入った茶封筒は、のデスクの上に放置されたままだった。