Episode.5



 その日はツルと別件で、銃兎はとある暴力団を取り締まっていた。
 数ヶ月前より、海外から密輸した薬物を市内にばら撒き、汚い金を巻き上げている連中だった。今夜はようやく突き止めた奴らの活動拠点に突入する。他の課は前もって持ち場についており、ホシがその場で取引したところで一気に叩いて現行犯逮捕――銃兎も最近はデスクワークばかりで体がなまっていたので、久々の戦場にどこか血が滾っていた。
 しかし、いつもと違うことが一つ。助手席に座る新入りのは暢気に鼻歌なんか歌ったりして、緊張感の欠けらも感じられなかった。

「相手は少人数なのに、こんな大人数でいっても警戒されるだけじゃないです?」
「実戦経験ゼロに等しい婦警が何を言っているんですか。ヤー公舐めてかかると死にますよ」
「だから今日は大人しく車の中で見張ってるって言ったじゃないですかあ」

 本当はついてこなくてもよかったが、今は仮にも組対に身を置かせているので、女といえど特別扱いはできない。しかしまあ、現実問題としてができることは限られるので、ひとまずは待機メンバーとして同行してもらった。余計な動きをされても上司である銃兎の仕事が増えるだけなのだ。
 とはいいつつ、銃兎も今回に限っては美味しいところを持っていくだけ。執行隊の報告を待つだけの、比較的楽な仕事だった。
 無線機で外にいる仲間からワッパをかけたという報告を受けて、「ご武運を~」とひらひらと手を振るを一瞥し、銃兎は車を降りた。



「これで全員です」

 他の車に乗っていた仲間とも合流し、銃兎はふむ、と周りを見渡す。寂れた倉庫内、丁寧に積まれた荷の中には透明な袋に入った微細な粉が顔を出していた。鑑識に回さなくとも正体など明白である。汚らしい彼らを銃兎は顔色一つ変えずに絶対零度の眼差しで見下す。このまま署に連行して、他の密輸場所も吐いてもらうことにしよう。

「(……いや待て)」

 おかしい。左馬刻からの情報によるとメンバーは全部で五人のはずだ。今銃兎の目の前にいるのは四人。先ほどから忙しなく動いている彼らの目線をじっと観察すれば、外の方へちら、ちらと目配せをしていた。時には笑みすら浮かべて。
 ……まさか、と銃兎が外の方を振り返った瞬間。ジジッ、とインカムより通信が入った。

《――亀崎から入間。倉庫より男性一名が逃走。丸棒を二本所持している模様。現在各PCの窓を毀損中です》

 ――弾けたように銃兎は走った。
 こいつらは囮。本命は外にあったバイクで逃げるつもりなのだろう。しかし、バイクはすでに撤去しているので彼らの持つ足はない。となれば、移動手段は一つ。こういう、自分の嫌な予感が的中するのところは頗る大嫌いだった。
 倉庫から出ると、バリンッ、と一際大きなガラスの割れる音が夜のヨコハマに響く。見れば、男が丸棒を一本放り投げて、もう一本のそれで銃兎の乗ってきた車の窓をガンッ、ガンッと叩いて割っている。エンジンのかかっている車がそれ一つだけだったのか、ひどく取り乱している様子だった。
 ……待て。助手席にはも乗っていたはず。もしもの時は身の安全を考えるよう指示をしたが、今遠目ながら見た限り、の姿はない。逃げたのか、しかし通信を受けた場所はたしかにここを指して――

「ッ、は……?」

 つんざくようなスピーカー音が聞こえる。驚きのあまり、走っていた銃兎がその場で立ち止まると、肺からすべての酸素が吐き出される。目の前にいた男がゆっくり前のめりに倒れると、その背後にはマイクを握りしめているの姿があった。彼女の背後に表れていたヒプノシススピーカーはみるみるうちに消失していく。
 呆然と立ち尽くす銃兎。マイクを片手に肩で息をしているとぱちりと目が合う。ばつ悪そうに目を泳がせつつ、彼女は困ったように笑った。

「……これ、正当防衛として始末書免れますかねえ」







 署に帰ると、ささやかな打ち上げが開催された。
 今回のMVPとして持て囃されているは同僚達に囲まれて、「亀崎すげえな」「やったな亀崎」「現場でマイク使ったの初めてです~」などと言って、終始でれでれとしていた。極めて不快である。自分の本日の労力と微々たる……本当に微々たる心配を返してほしい気分だ。
 まあ、打ち上げといってもすべてが終わったわけではない。他の業務も溜まっているので早々に切り上げ、帰宅する者をちらほらと見送った後、銃兎は今回の報告書を書き上げた。最後の一人に関しては後日に上へ報告してもらうことにする。始末書は免除してやったんだ。上への言い訳くらいは自分で考えさせる。
 椅子の背もたれに体重を預けて、銃兎は思いきり背伸びをする。骨は軋み、筋は固い。今日は久々に家に帰るか、と首を鳴らして、部署内の戸締り確認のために一度廊下へ出た。

「……亀崎?」

 もう自分しか残っていないと思いきや、自販機の窪んだ部分になぜかが蹲っていた。声をかけても反応がないし、なんとなく様子が変だ。
 まさか酒でも呑んだんじゃねえだろうな、と思い、銃兎は一歩彼女に近づいて、その肩にぽん、と手を置いた。

「っ、おい……!?」

 ふっ――と力なく床に崩れ落ちるを寸のところで支えた。目をぎゅっと瞑っているは左腹を両手で抑えており、額に浮かべる脂汗の量もひどいものだった。意識の有無は半々と言ったところ。目の前で血が走った銃兎は、を抱えて救護室へと駆けた。なんだお前、さっきまでへらへらしてたじゃねえか。
 しかし、よく考えれば不自然だった。男が車を覗いた時点で、とは一度接触しているはず。コンクリ上に転がされていたもう一方の丸棒をに使用したのならば……、と考えて、銃兎はそんな簡単な予測さえしていなかった自身に反吐が出た。
 という巡査を信用しきっていた。平気そうに見えるのなら平気なのだろう、と。馬鹿野郎か。こいつは組対に入ったばかりのど素人。平和の裏側ではそういう世界が広がっていることは、銃兎が一番分かっていたはずだった。







 救護室に着くと、銃兎は乱暴にカーテンを開け、をベッドに寝かせる。脇腹を抑えている彼女の両手を退かせて、パンツの下に入っているカッターシャツをも抜き取ってぐいっと上へたくしあげた。左側腹部は青紫を通り越して赤黒く変色しており、そっと触れるだけで、は微かに呻いて、びくんと体を揺らした。
 とりあえずは応急処置だ。銃兎は棚から湿布や包帯などを出して、小さなトレイに入れる。ベッド脇に戻れば、の首の下と臀部から両腕を通し、肩と骨盤を掴んでぐっとベッドの端まで彼女の体を引き寄せた。
 ……一瞬だけ迷って、やはり効率を重視した銃兎はのスーツを肩からずらし、腕を抜く。カッターシャツの釦も下から数個外した。肌着から腹部のみが露わになり、すぐさま銃兎はをくるりとうつ伏せにさせて、いざ湿布を貼ろうとした……その時だった。

「……交番の婦警がなんてもの付けてんだよ」

 力み切った声は思った以上に震えた。銃兎の目の前に広がるのは、根性焼きらしきクレーター跡、蚯蚓脹れ、濃淡の違う複数の青痣……腰だけでも、綺麗な皮膚の範囲は狭いほどだった。となれば、さらに上部はどうなっているか……など、想像したくもなかった。
 銃兎は歪みそうになった顔をぐっと堪え、腹側部から背中にかけて広がる青痣を湿布で覆う。その上を包帯でぐるりと巻こうとすると、がうっすらと目を開けた。
 くる、との首が横を向く。うつろな目でぼーっと銃兎を見つめる。銃兎は彼女を静かに見下ろしながら、故意的に義務的な声色で言葉を落とした。

「……湿布は貼りました。骨までいっているようなら救急車を手配しますが」

 すると、は首を横に振る。仰向けになって、トレイの中にあった包帯をゆっくり巻き始める彼女の手つきは意外にもしっかりしていた。
 不要ということなのか、それともそれほど大事ではないということなのかは分かり兼ねる。しかし、廊下の隅で蹲り意識が朦朧するほどなのだから、無理矢理にでも病院を放り込みたい気分だった。
 ――それとも、単に痛みに慣れているだけなのか。

「通信を終えてから私が到着するまでの間、何があったんです」
「くるまから、引きずり出されて……お腹なぐられて……きぜつしたふりしたあと……落ちてたまるぼーをけっとばして、マイクで……」

 あとは見ていた通り、と言わんばかりには弱々しく笑む。「相手がマイク持ってなくてよかったですー……」そう言って、彼女は包帯を切って、その先端をテープで止めた。
 そこで始めて、は薄着になった自分の格好に気づいたようで、ぴたりと動きが止まる。包帯からゆっくりと銃兎を視界に映したかと思えば、自嘲じみた表情を浮かべた。

「……みちゃいましたよねえ。ここ」

 背中に手を回すはやはり笑んでいる。その顔止めろ、と口の中に含むだけになってしまった銃兎は、何も言わなかった。
 ……ゆっくりと、細い腕が伸びてくる。に掴まれた銃兎の手は彼女の腰に宛てがわれる。普段は子どものようなのに、今はまるで夜に女が浮かべるような……その表情はひどく艶めいていた。

「これ、どうやって付いたか気になります……?」
「うるせえ」
「たとえばここの丸いの……いつも入間さんが咥えてるものをこう、ぐりぐりっと潰せばですねえ……」
「うるせえっつってんだろ」

 銃兎はの手を払い除ける。手袋越しでも分かる。深いくらいに抉られている根性焼きの感触が指の腹に嫌なくらい残ってしまった。
 そんなことを言わせるために手当をしたわけじゃない。出来うるのなら、首筋の痣も見たかったことにしたかったし、他人の……それも部下の家庭環境に首を突っ込む真似などしたくなかった。銃兎は奥歯を噛み締めて、張り上げたくなる声を懸命に腹の中に留めた。

「親が腰やったってのは嘘か」
「はい。うそです」

 呼吸をするように、は法螺を打ち明ける。との間にゆっくりと築かれていた信頼。それが目の前で砕け散って欠片すら消えていくのを、銃兎は冷えた頭で見送っていた。

「ふだんは、すごいやさしいんですけど、お酒入るとちょっとあれで。ご近所さんには、マイペースな親子で通ってるんで……怪しまれるの、いやなんです」

 「でも、さすがに朝っぱらからは呑まないでほしいですよねえ」とは言う。おそらく、あの時は酔っ払った父親から電話がかかってきたのだろう。応答する言葉もいい加減なことを言って、壁越しにいる自分に下手な芝居を打ったのだ。
 ……しばらく嫌な沈黙が続いたが、はカッターシャツを着ながら人が変わったように、「今夜、ここで泊まってもいいですかー? 今、歩くのちょっと辛いので~」と普段の胡散臭い口調に戻った。「あと、」

「たぶん大丈夫だと思うんですけど、念のために病院行ってくるので、半休もらっても?」
「半分意識ぶっ飛んでたくせに、大丈夫って言うのはどうかと思うけどな」
「入間さんと話してたらだんだんよくなってきましたあ。湿布も冷たくてきもちーですー」
「勝手に言ってろ。どちらにしろ、強制的に病院にぶち込んでたからな」

 すると、は「入間さん、今自分がどんな顔してるか分かってます?」などと言う。知るか、と銃兎は心の中で悪態をついた。

「入間さんのこと、そんなふうに困らせたいわけじゃないんですよ。わたし」

 不自然な間が開く。沈黙を破ることもできなくて、銃兎は短い呼吸を繰り返していた。お互いの呼吸音まで聞こえてきそうで、銃兎はわざとらしくふう、と肩を落とす。

「……明日から、ツルの件に関して本腰を入れます。経過がよければ、来週にはガサ入れするでしょう」

 思いのほか掠れてしまった声でそう言うと、「そうですかあ」と、は再びベッドにごろりと寝込む。すると、若干痛みで顔をゆがめた後に、不意に彼女はこちらを見上げた。

「さっき触って思ったんですけど、入間さんの指、手袋あってもそんな細いんですねえ」
「セクハラまがいなことをしておいた感想がそれですか」
「それです~」

 だから、もう一回だけ触ってもいいですか
 意図を察せないほど、銃兎は鈍くなかった。ぴく、と震えた指はなぜかゆっくりとの方に伸びていく。引っ込めたい、と今更後悔しても、すでにが指を数本掴んで、きゅ、とその手の中に収めた。十分、銃兎が振り解ける力で。でも、どうしてか……銃兎はが眠りについても、その冷たい指先から伝わる孤独を感じた。
 立っているのが馬鹿みたいだ、と思って、銃兎は近くにあった椅子に腰掛ける。の寝顔を見ていたら、無意識にこんな独り言が漏れた。

「……なんつー顔してんだ」

 痛かっただろう、怖かっただろう。丸棒で強打された苦痛と、初めての取り締まりでの襲撃。幼い頃より永遠と繰り返される暴力と、いつ降ってくるか分からない痛みの数々。銃兎はそんな事情は知らないし、理解もできなかった。こういう風に上手く立ち回れない辺り、自分はひどく不器用だと思った。
 それでも、夢の中のはしあわせそうだった。いつもの胡散臭い顔はどこにもなく、まるで、子ども時代に置き忘れてきた純粋無垢な顔がそこにはあった。