Episode.3
亀崎との出会いは偶然だった。
銃兎はその時期、ヨコハマ市内で住宅地が一際密集している地域を調査していた。今回は都市圏内からぽつんと離れた小さな町で、寂れた市営住宅がずらりと並んでいるのがよく目立つ。たしかに、こういった住宅街の中で薬物の流通や取引が頻繁にあるのは過去の例から見ても多いが、上からの“とりあえずしらみ潰しに”、という効率の悪い意図が見えて、その足となっている銃兎からしても堪ったものではなかった。
だがしかし、敬愛も何もない穀潰し共にお前らが行け、と言っても時間の無駄。無能な上司を持つと、下の人間の苦労は日々耐えない。そういうこともあり、今回の外回りにも、銃兎はあまり良い収穫は期待しておらず、時間の浪費になることは目に見えていた。それでも現状、有力な手がかりは皆無なので、こんな非効率かつ生産性のないことを永遠と繰り返しているわけだ。
たしか、この近くに派出所があったはず。土地勘のない銃兎よりも、近辺に駐在している同業者に聞いた方が話は早い。ひとまずは、そこで最近あった事件や補導状況を伺いたいところだった。
そう思いながら、銃兎が道の角を曲がる。すると、とすんっ、と小さな衝撃が膝を襲う。それなりに鍛えている銃兎はびくりともしなかったが、一方で、彼の膝にぶつかった小さな女児は尻もちをついて、高身長である銃兎を不安を帯びた瞳で見上げていた。
「失礼。怪我はありませんか?」
銃兎は片膝をついて、ぶつかった幼女に手を伸ばす。目立った外傷はないが、自分の顔を見るなり、びくりと肩を揺らされ、目には涙が浮かび始めていた。
これは……ひどく怯えさせてしまったようだ。制服警官だった頃もあまり目付きがよろしくなく、夜間に職質をかけた人間に怖がられることがしょっちゅうだったが、スーツとなるとさらにそれを助長してしまうのだろう。銃兎は辺りを見渡すが、幼女の親らしき人間は見当たらない。迷子ならばついでに派出所へ連れていくところだが、今以上に距離を縮めれば、彼女に恐怖を与えてしまうだけだ。
これは困った、と銃兎が言葉をかけることもできず固まっていた、その時。新たな人影が幼女の背後から伸びて、彼女の隣にしゃがみこんだ。
「そんなとこに座ってどうしたの~」
紺のジャケットとズボン、鮮やかな緑の腕章が銃兎の視界に映り、目を見開く。幼女は女を見るなり、慌てたように起き上がって彼女の背中にぴゃっと隠れた。これはバッドタイミング。まさか、こんなところで同業者と遭遇するとは。
若干ネクタイの緩めている婦警は、怯えた幼女と銃兎を見比べた後、にっこりと銃兎に向かって笑いかける。それが作られた表情だということを銃兎はすぐに察した。
「いやあ、すみませーん。この子、今連れの人とはぐれてまして」
「こちらこそ。先程、その子とぶつかってしまいましてね。私のせいでひどく怖がらせてしまったようです」
「そうでしたかあ」
「いたいとこなかったかな~」婦警が聞くと、幼女はしきりにこくこくと頷く。よかった、と銃兎は内心安堵しながら立ち上がる。そして、特に理由もなく僅かに覗いた幼女を見下げていると、その視界を遮るように女がさりげなく体をずらした。
「ところでおにーさん。この近くで中高生くらいの男の子二人、見てたりします?」
……今、明らかにその子から意識を逸らされた気がする。
しかし、銃兎はそれを顔に出さない。見ていない、と首を横に振ると、立ち上がった婦警は銃兎の足の爪先から頭のてっぺんまで舐めるように見た後、「そうですか。ご協力感謝します~」と言って、形だけの敬礼をしてみせた。
そして、彼女は幼女と手を繋ぎ、自分の横を通り過ぎる。銃兎は小さく溜息をついて、婦警達を振り返りもせずそのまま目的地へと足を進めた。
あれは……完全に変質者だと疑っていた。たしかに、こんな黒スーツの男が夕方近い住宅街を歩いていたら明らかに不自然だろう。警察手帳を出す暇もなかったのが悔やまれる。タイミング的に仕方のないことだが、なにがどうであれ、あの迷子の女児が同業者に保護されているのなら安心だ。
――そうして、歩くこと五分。銃兎は目的である派出所に着き、少しだけ重たい引き戸をカラカラと開く。すると、デスクの前に座っている巡査部長らしき中年の男とばちりと目が合い、銃兎は会釈をして彼に警察手帳を掲げた。
「お仕事中失礼致します。私、ヨコハマ署組織犯罪対策部の入間という者ですが」
「ああ、あなたがそうですか。話は本部から聞いてますよ」
「寒かったでしょう。どうぞお入りください」と若造である自分にも男はにこやかに接してくれ、詰所の奥に通される。
顔は厳ついが、話してみると心なしか穏やかな男だった。階級こそ同じのようだが、自分よりも一回り時代を生きている彼の背中は随分と広く感じる。
銃兎は小さな休憩室に通され、畳の上に正座をする。着ていたコートを脱いで脇に置きながら、さっそく本題に切り出した。
「最近、市内の住宅街で葉っぱの栽培現場が取り押さえられているのはご存知ですか?」
「ええ。よく本部の方から通知が来ますよ」
「現段階ではこの付近の報告は上がっていませんが、可能性がゼロではないので、ここ最近三ヶ月間の事件簿や補導資料を見せて頂きたいのです」
銃兎の言葉に、男は「少しお待ちを」と言い、いったん席を外した。
手持ち無沙汰になった銃兎は、ぐるりと部屋を見渡してみる。壁には、近所の子供からだろうか……クレヨンで書かれた絵が何枚か貼ってあった。そこに書かれているのは三人の制服警官で、今の男らしきしわの目立つ男、若い男、もう一人は婦警だ。その他にも子供が作ったらしき折り紙や感謝文などが至るところに飾ってある。
平和なこったな、と銃兎がぼんやり思っていると、きゃーっ、と外でも子供の駈ける音と笑い声が聞こえる。そういえば、もう十六時を回っている。ちょうど、学校から解放された子どもが遊ぶ時間だ。
それからまた数分後。どこからか戻ってきた男は、外に目をやりながら、「すみませんね。賑やかで」と言いながら、微笑んでいる。彼の腕の中には分厚いファイルが何冊も抱えられており、意外にも量があるそれを見て、銃兎は軽く目を開いた。
「この地区は子供が多いのですか?」
「ええ。見ての通り、公営住宅が密集してるものでね。比較的、ここらへんの店は深夜近くまで営業してるから、片親にとっては育てやすい環境ですよ。まあその分、深夜歩き回る子どもも後を絶ちませんがね」
なるほど。銃兎は置かれた一冊のファイルを手に取る。たしかに、補導対象も子供が目立つ。素行の悪い中高生から、まだ物心着いたばかりの幼児まで。親の数が増えれば、その分育て方を間違える者も増えるということか。銃兎はファイルの中身に一通り目を通すが、自分の探している中年の男はどこにも見当たらなかった。
やはり今回もハズレか。ファイルを漁りながら感づいていると、カラカラ、と外の引き戸が開く音がする。ゆっくりとこちらに近づいてくる足音に、銃兎はふと入口へと目をやった。
「若槻部長ぉ~っ。さっきの子のお連れさんからお菓子貰ったので一緒に食べましょ~」
休憩室まで響く大きな声に、若槻と呼ばれた男の肩がガクッ、と落ちる。「ちょいと失礼……」とさっきよりもトーンの落ちた声で、彼は立ち上がる。しかし、若槻が襖を開けるよりも先に、すとーん、と軽やかなまでにそれは開いた。
そこに立っていたのは、先程出会った婦警だった。その腕には、大きな菓子箱らしきものが抱えられている。
「亀崎ィ……一般人からものを貰うなとあれほど言ってるだろうが!」
「えー。でもこれインスタで話題沸騰中、超有名なとこのやつですよ? ヨコハマ駅の近くのお店で~」
長くなりそうな会話を断ち切るように銃兎がわざとらしく咳払いすると、婦警の声がぴたりと止む。たしか……亀崎と呼ばれていたか。銃兎と彼女の目がぱちりと合うと「あれ?」と首を傾げられた。
「さっきのお兄さんじゃないですかあ」
先ほどはどうも~、などと声が出そうな顔で会釈をされると、若槻が小声で彼女に言う。「この人は組対の巡査部長の入間さんだ」「えっ。あなた警察官だったんですか?」顔色を変えた亀崎はそう言いながら、銃兎と若槻を見比べた。まあ普通はそうなるだろうな。不審者と思っていた男がまさかの同業者だったのだから。
すると、思い出したように若槻が「そういや、」と亀崎に言葉をかけた。
「亀崎、最近なんか市内のヤクのことで色々調べてたろ。お前の捜査資料、入間さんに見せて差し上げたらどうだ」
「えーっ。ちょっと部長~、組対の人の前でそんなこと言わないでくださいよー」
「捜査資料……ですか?」
銃兎が尋ねると、自分に視線をやった若槻が「ああ、」と話を続けた。
「こいつ、ヤクの事件起きるたびに地図使ってマーキングしたり、捕まえた犯人の家庭環境を調べたり……とりあえず何かこそこそとやってんですよ。暇だからって」
「こそこそだなんて心外ですねえ。わたし、そんな不審者みたいな動きしてましたー?」
「してただろ」「え~」という会話をバックミュージックに、ふむ、と銃兎は顎に指を添えて思考を張り始めた。
このまま手ぶらなのも本当の意味で無駄であるし、署に帰っても特に捜査で必要な手がかりはない。素人の作った資料だろうと、何か変わったものを見れば新たな糸口が閃くかもしれない。
ここは一つ賭けるか、と銃兎はふっと顔を上げた。
「その資料とやら、少しばかり興味があります。あなたがよければ、ぜひ拝見させて頂きたい」
すると、亀崎はまじですか、と言わんばかりに驚いた顔を銃兎に向ける。しばらくはその場で固まっていたが、若槻に呼びかけられて我に返り、彼女はいったん退室していった。
銃兎は再度、壁に貼られている絵を視界に映して、その中に描かれている婦警をじっと見つめる。
「彼女、ここは長いので?」
「まあ、そうですねえ。新任でここに配属されてきてずっとだから……もう四年近くなりますかね。地元がここらしくて、住民とも顔馴染みでカメちゃんカメちゃんって、よく話しかけられてますよ」
なぜそんな事を聞く、とでも言いたげだったが、外の方でカラカラ、と引き戸が開いた音がしたので、「失礼、」と若槻も部屋を出ていってしまった。
そして、彼と入れ代わりで戻ってきた亀崎は茶菓子とB2サイズの丸めた紙を持って、「部長、今自治体の方とお話しているのでしばらく席外しますけど、大丈夫です?」と言う。構いません、と銃兎は返した。
「それは?」
「市内地図のコピーです~」
畳の上でそれを何枚かを広げて見せられると、それはたしかにヨコハマ市全体の縮図だった。所々にプラスチック製の付箋が貼られており、それをまた地域ごとに拡大した別紙の地図に赤と青の点がぽつぽつと記されている。
その近くには黄色の付箋で何やら書き込みがされていて、よく見ると、日付、薬物の種類、人の名前、年齢、家族構成らしき系統図など……。とりあえず、それらをざっと流し見た銃兎は思い当たったことをぽつりと零した。
「これは……ヤクを押さえた現場ですか」
「さすが組対の巡査部長さん。ここ半年にあったところをマーキングしてます」
「この色は?」
「赤のところは法則がみられるんですよー」
亀崎は赤い点の上に指をとん、と置いた。
「ここ三ヶ月間で、組対の方々が取り押さえた現場は全部で十一件。そのうち九件の犯人が子持ちの親、内八件は生活保護を受けています」
「別部署のあなたがそんなことまでわざわざ調べたんですか?」
「交番勤務も事件がなければ暇なもので~」
警官なら誰でも警察独自のネットワークを使って他部署の事件簿や民間人の個人情報は閲覧できるが、自分の持ち場の仕事以外に首を突っ込む物好きはそうそういない。銃兎が訝しげな目で亀崎を見るも、それすらもスルーした彼女は話を続ける。
「生活難の家なんてたくさんあるので予測も特定もできませんけど、その弱みに漬け込んだ同一人物のはたらきなんじゃないか……なーんて思っちゃったり」
「弱み、とは?」
「子供を食べさせるためのお金がないー、とかですかねえ。ほら、特に公営住宅なんかはその年の収入で翌年の家賃が決まるじゃないですか。もしも翌年よりも給料が減っちゃったら、年内は地獄なわけですよ」
たしかに、不思議とそういう点が各々の事件で共通していることは銃兎はもちろん周りの人間も周知していたが、そこをあえて着眼点として見ていなかった。
結論、彼女の推測はこうである。特定の人物が金に困った……特に子持ちの親をターゲットにして、彼らに栽培及び運び屋を担わせている。となると、住宅街での取引が多いことにも結びつくと同時に、運び屋から運び屋へとヤクを運搬しているのだから、ツルの足が中々つかないのも頷けた。
ほのめかされた側からすると、違法だとは思いつつ、生きるために藁にもすがる思いで活動しているのだろう。子がいればなおさらの話だ。そして、彼らにとってツルは蜘蛛の糸を垂らした仏。人助けを気取ってはいるが、やっていることは偽善そのものだ。ヤクなど、いつの時代でも一般の人間が手に入れていい代物じゃない。
「なるほど。ツルがまるで鼠小僧のような真似をしていると」
「ツル? 鶴の恩返しの鶴ですか?」
「私達の間で使われている隠語です。数十年前から報告に上がっている事件の同一犯として、今現在追っていましてね」
銃兎は地図を指でなぞる。署に帰ってここ三日で起こった現場を再度洗えば、これと似たような事例が見えてくるかもしれない。これは予想もしていなかった一筋の光明だ。
ふむ、と銃兎は顔を上げて亀崎にこう尋ねた。
「ちなみに、これはあなた一人で?」
「はい~。半ば趣味みたいなものですけど」
「趣味にしては随分と出来の良い資料ですが……。上への報告は?」
「部長にも言われて、一回会議で出してもらったんですけど、小さな派出所で勤務してる婦警が作ったものなんで、誰も相手にしてくれなかったんですよー」
その光景が目に見えるようだ。銃兎は無能な上司らに心の中で舌打ちをしつつ、地図をくるくると丸めながら、「この資料、署に持ち帰っても?」と銃兎は問う。すると、亀崎は快く頷いて、加えて「それ、持ってく時にかさばりますよね? 輪ゴムと紙袋あったかな~」と言いながら、部屋の押し入れを開けてガサガサと中を漁りだした。
こう見ると、少しばかり頭の切れる普通の婦警。しかし、銃兎の違和感はそれをも凌駕するほど、さきほどから彼女と話す度に頭の中で警鐘を鳴らしていた。
「……ところであなた、先程は私のことを不審者扱いしていましたね」
「あ、バレちゃってました?」
適当な紙袋を掘り当てた亀崎はわざとらしく、あちゃー、と額に手のひらを当ててみせる。態度を変えられたら変えられたで鼻でせせら笑ったところだが、一向にぶれやしないので、銃兎はどこか居心地の悪さを感じた。
「いやあ、数日前にここ近辺で女児の猥褻事件がありまして。犯人の特徴とかなり似てたんで、つい」
「まあ、そうですね。あれは誤解を招いた私も悪いです。ですが――」
わざわざこんなものまで付けるのは、些か行動が過ぎるのでは?
銃兎はそう言うと、自分のコートの裾を持ち上げて、パール大の機械を一つ外す。それは、うちの部署でも使用している型と同じGPSだった。赤いランプがちかちかと淡く点滅しており、今もなお起動している。亀崎に向けてGPSを掲げると、先程までへらへらとしていた表情がすっと消えた。
変質者として自分を疑った――本当にそれだけなら、銃兎も嫌味たらしく表立って言いもしなかっただろう。しかし、こんな大それたことをされては銃兎も警官として黙ってはいない。誤って付いたにしては場所が場所であるし、そもそもいち巡査がこんなものを所持していいはずがない。
どこで手に入れたのか……というのは、とりあえずおいておくとして。おそらく、亀崎としては後から尾行するつもりだったのだろう。残念だったな。同じ立場の人間で。
「プライバシーの侵害に値する行為だという自覚は?」
「……部長には内緒にしてくれたりします?」
「それはあなたの回答次第です」
まさかこんなところに来てまで同業者をしょっぴくことになるとは。銃兎は指の腹同士でGPSを転がしながら、亀崎の返答を待つ。
しばらくして、観念したようにふう、と息をついた亀崎はポケットからスマホを出した。と思えば、数回のタッチとスワイプでとあるアプリを起動した。そこには、真っ黒な地図に白い線が引かれていて、派出所を位置するところにGPSと同じく、赤いランプが点灯していた。
なるほど、これで位置情報が確認できるというわけか。銃兎がスクリーンから顔を上げると、そこには、目を三日月型に細めた亀崎がいた。
「規則は大事です。それを破る人がいたとしても、最初から全部が模倣状態なら、辿る結末は破滅一択ですから。でも、それを超えて平気で犯罪を犯す人間に対して、わたしは手段を選びたくないです」
その表情に嘘はない。彼女の瞳の奥には凍傷しそうな青い炎がちらちらと浮かんでみえて、銃兎は背筋から首筋にかけてぞわりとしたものが這ったのが分かった。
核爆弾のような思想を掲げている人間が、こんな寂れた派出所に在中していたとは。銃兎は込み上げる笑みを腹の奥に隠して、持っていたGPSをの手の中に預けた。
「分かりました。資料のこともありますし、今回の件は一つ貸しということで」
「わあ~。よかったです~」
先程の表情は幻かのように、亀崎の顔がぱっと変わる。これだから女は、と内心突っ込みつつも、銃兎は言葉を続けた。
「ですが、法に触れるような行為は金輪際止めるように。まさか、これ以外にも何か仕掛けているわけではないですよね?」
「はい。ここまで踏み込んだのは今日が初めてですよー」
「それは重畳。私でよかったからいいものを、無関係な一般人に見つかったら法廷で言い訳もできませんよ」
「じゃあ、今あるものは全部停止させておきますね」
「は?」
「あっ」
てへ、と言いたげな亀崎に、銃兎は今度こそため息をつかざるを得なかった。
結局、見つかったGPSは最初のものと合わせて三つ。鞄と膝裏に貼り付けてあった。こんなもの、いつの間に付けたのやら。まったく油断も隙もありやしない。
銃兎がコートを羽織って、休憩室を後にすると、後ろからぱたぱたとの足音がついてきた。
「おや、もうおかえりで?」
「はい。長々とお邪魔しました」
自治体の人間らしき老人と話していた若槻が声を上げるが、その間にも銃兎は引き戸を開ける。瞬間、刺すような寒風が銃兎を襲い、「今日は一段と冷えますねえ」と一緒に出てきた亀崎も腕を抱いている。見送りのつもりだろう。わざわざ律儀なことだ。
最後に、銃兎はじっと彼女を見つめる。不思議そうにこちらを見上げる亀崎だが、さっき見た彼女の面影はどこにもなかった。
面白い、と銃兎は口角だけを上げて、彼女に軽く会釈をしてみせた。
「ではまた……いづれどこかで会いましょう。亀崎さん」
亀崎は首を傾げつつも、こちらに向かって手を振った。銃兎はコートを翻して、彼女に背を向ける。さて、これから忙しくなりそうだ。情報操作や上への圧制などの雑用も含めて。
ここ最近は、骨のある人間が入ってこなかったからちょうどいい。久々に腕が鳴りそうだ。くす、と黒い笑みが絶えない銃兎は、これ以上ない収穫物を手に入れた気分だった。
「本日より配属されました亀崎です~」
三日後、銃兎は彼女を引き抜いた。
こんな繁忙真っ只中に臨時の人材、加えて交番勤務からの引き抜き、女性、巡査部長の自分から直々という要素が揃っては、皆がぎょっとした表情を隠せないのも無理はない。銃兎は何食わぬ顔で上からの指示であることやこちらもあまり歓迎していないような素振りを見せて、嘘も真もごちゃまぜな演技をしてみせる。そんな中でも、主役であるは終始笑みを絶やさなかった。
紹介後、銃兎はに署内の大まかな施設を説明しつつ、部署で必要な知識が詰め込まれたマニュアルとツルに関する捜査資料を渡す。決して薄くはないそれに対して、「二日で叩き込んでください」と端的に言うと、はここに来て初めて苦い顔をした。
「不服ですか?」
「いいえ? この宿題はそれほどでも。ただ、部長が昇進と勘違いして泣いちゃってたのがちょっとあれですねえ」
「あくまで臨時異動です。今回の事件が解決したら、すぐに戻して差し上げますよ」
「じゃあ、できる限り尽力させていただきますね~」
そう言って、はさっそく興味深そうに資料をぱらぱらと捲っている。そんな彼女に銃兎が手を前に差し出すと、はふっと顔を上げた。
「では、改めて。この部署の主任を務めています、入間です。ツルを捕獲するまで、ご協力のほどよろしくお願いします」
すると、はしばらく何か思案した後、「ああ!」と言わんばかりに、ぱっと顔を綻ばせた。
「巡査の亀崎です~」
「入間です」
「亀崎です~」
「……入間です」
「亀崎です~」
沈黙が流れる。ここで銃兎は気がついた。の才能には興味があるが、彼女の人格とは波長が合わないことに。
しかしまあ……それもじきに慣れるだろう。今は捜査の方が重要だ。一瞬だけ外向きの表情の崩した銃兎はすぐに取り繕い、愛想を取りつけた笑顔を貼り付けた。
「入間銃兎です」
すると、は満足そうに手を出して、お互いに握手を交わした。「これからお世話になります。入間さん」と言った彼女は、やはり笑っている。それが自分と同じ、外向けの笑顔であることを心の底で見破りながら、銃兎は胸糞悪ぃ顔だ、と悪態をついていた。
――その後、毎日のように緊迫とした雰囲気に包まれている部署がいつの間にか交番のような緩やかな空気が流れたり、備品を仕舞うキャビネットの中に補充した覚えのない茶菓子が増えたり、銃兎が上司以外の人間に対してストレスがふつふつと溜まっていくのは、また別の話である。
