Episode.2
向かった先は一軒の集団住宅。すでに数台のパトカーが広い駐車場を占領しており、多くの住民が何事かと外に出て野次をつくっている。仕事でもないのにご苦労なことだ。銃兎は彼らの注目をお構いなしに、目的の部屋まで涼しい顔で歩く。その斜め後ろに控える形でがコツコツとついてきて、「市営住宅って、どうしてどこもこんなに階数えぐいんですかねぇ」などとぼやいているが、もちろん銃兎は聞く耳を持たなかった。
ブルーシートに覆われた玄関。入口に立っている同業者に手帳を見せて入室すれば、なかなかに天井の低い小さな家だった。廊下の突き当たりの部屋はリビングで、そこではすでに何人かの警官が容疑者らしき女を囲んでいたり、部屋の隅々までガサ入れをしている。
襖を隔てた隣の部屋では、彼女の子どもらしき男児がぽつんと放置されており、彼は手元に転がっているブロックで遊んでいた。はそれを見るなり子供に話しかけて一緒に遊び始めたが、それを制止する気力さえも無駄だと思ってしまい、銃兎は深い溜息をついて終わった。
亀崎はこの際どうでもいい。こちらはこちらで職務を全うするまで。銃兎は一人の警官に「お疲れさまです」と労いの言葉を一つかけると、彼は銃兎を見るなり緊張した様相で敬礼をしてみせた。片手でそれを制して、銃兎は会話を続ける。
「報告願えますか」
「はい。容疑者は葉っぱの栽培及び運送の犯行を認めており、今現在婦警が聴取の最中です。葉っぱの種類も今までのケースと同一しているので、ツルが関与しているのは間違いないかと」
男ならば無理矢理にでも吐かせるものを、女ならばいつまでかかることやら。銃兎は嘆息を吐く代わりに彼に礼を言い、本日の目玉であるベランダへと足を運んだ。
そこにあったのは、柵に沿うように並べられた三つのプランター。一見無害そうな植物が、銃兎を煽るように寒風を受けて揺られていた。外に散らばっているスリッパを履いて柵の外を覗いてみると、地上にいる鑑識係がベランダの写真を撮っている様子が伺えた。おそらくだが、あそこからこの葉っぱは死角だ。人の往来が少ない時間と太陽の動きに合わせて、誰の目にも触れないようにプランターを移動し、丁寧に育成していたとみる。育成するものは他にあるだろうに。そんな簡単なことにも気づかないくらい、あの女はこの植物に取り憑かれていたのだろう。金と狂気と死を運ぶ、こいつらに。
今度はブツをじっくり観察すれば、たしかに化学肥料の種類やプランターの形……今月に入って現場検証した例と類似している。しかも、やり方から見てもあの女はど素人。今回は比較的当たりだろう。銃兎は人目がないことを確認して、手袋をした後その土を一掴みし、それをビニール袋に素早く入れた。
室内に戻ると、リビングにて椅子に腰掛けた容疑者が肩を震わせながら、涙混じりにぽつぽつと口を開いている。婦警はありがちな同情話に流されてしまっていて、上手く本題に切り出せていないようだった。
この調子だと署まで連行した方が早いか、と思っていたら、背後から「入間さーん」と呼ぶ声。銃兎が嫌々に振り向けば、先程の男児をだっこしたが鳥の形をしたブロックを見せつけてきた。
「……何をやっているんですか」
「この子との共同作品ですよー」
「ね~」が子どもに笑いかけると、彼はこくこくと頷く。見た目、四、五才くらいだろう。母親が何をやらかしたのかも、なぜ大勢の大人が家に押しかけているのかも、まるで分かっていない顔をしている。
可哀想なことだ。銃兎は容疑者の方に視線をやった。
「時期にあの女は連行します。あなたも現場は見ておきなさい」
「了解です~」
が子どもをゆっくりと下ろすと、彼は一気に不安を帯びた目へと変えた。おまけに、がベランダの方へ行こうとすれば、子どもは彼女のスーツの裾をくいっと掴む。この短時間でこうも懐かれるとは。
早くしろ。そんな冷ややかな視線に気づいたのか、は「一緒にいこっかー」と再び子どもを抱っこして、ベランダまでてこてこと歩いていった。
「これねえ。わるい葉っぱなんだよ」
「わるいの?」
「育てちゃダメな葉っぱなの」
「でもママ、これでごはん食べれるって言ってた」
「ごはんは食べれるけど、いけないことなんだよ」
「ママ、いけないことしてたの?」
「そうだよ」
「ぼくのせい?」
の声がぴたりと止む。するとしばらくして、は子どもの頭をゆるく撫でながら、ぽそりと囁くようにこう言った。
「きみはなーんにも悪くないよ」
は片手で器用に業務用のスマホで現場の写真を数枚撮った後、子どもを抱き直して、容疑者の方を見ながら銃兎の傍まで戻ってきた。未だにうわ言のようにぶつぶつと身の上話をしている女に、そろそろ嫌気がさしてきたところだった。
「母親連れてくなら、この子も一緒の方がよくないですか?」
「子どもに情けをかけてどうするんです」
「そんなんじゃないですよ~。身体検査のために必要じゃないですか」
がさらっと言った言葉に、あれだけ騒がしかった現場が静まり返る。まさか子どもの体内にそれが巡っているなど、誰が思っただろう。突如、意気消沈していた容疑者が血眼になって、婦警の声と手を押しのけて、の足に縋りついた。
「こッ、子供には触るな、って、言ってあります……っ! ぜったいに、口にも入れさせてないですッ!」
「ねッ……? 触ってないよねっ……?」容疑者は子どもにそう問いかけるが、自分の母親を見る彼の目は困ったように揺らいでいた。そして、なぜか今日会ったばかりのと顔を見比べている。
はゆっくりと子どもを下ろして、ぽん、と彼の両肩に手を置く。母親を見つめるその眼差しは銃兎も初めて目にするもので、かなり冷淡な色を帯びていた。
「子どもって、こっちが思ってる以上に大人のこと見てて、真似しちゃうんですよ」
すると、は子どもの耳のそばで何かを囁いて、とん、と彼の背中を優しく押す。不安そうな眼差しをする子どもに、はにこやかに頷いていた。
子どもはおそるおそるズボンのポケットに手を突っ込んで、ごそごそと何か取り出そうとしている。まさか、と銃兎が目を見開くと同時に、その小さな手の中には、くしゃくしゃになった葉っぱが握りしめられていた。
「ママの……おてつだい」
残酷なまでに無垢な笑顔。それを見た母親は谷底に突き落とされたような顔をして、大声で泣きながら床に臥した。
後日。検査の結果、幸いにも子供の体に異常は見られなかったが、母親である彼女は陰性だった。おそらく、商品になったブツに手をつけてしまっていたのだろう。依存性の低いもので、比較的短期間の入院で済むだろうが、それでも薬物に関与し、子どもの手に触れさせてしまったことへの罪は重い。子どもは施設に入れられ、母親との接点は完全に絶たれる。それが母子共に良いことなのか、銃兎の判断だけでは致しかねることだった。
あの時、が子どもに何を言ったのか――銃兎は未だに想像もできないでいる。もしも、のあの一言がなければ、誰も子どもに見向きもせず、あの母親の罪は少しは軽くなったはずだ。大勢が目の前の大きな物事に取り掛かる中、些細なことすぎて皆が眼中にもないことに焦点を当てる。それは、の武器だ。大した経験もないというのに人一倍あるその観察力は銃兎も一目置いている。しかし、今回ばかりは少し目を引き過ぎた。ちゃらんぽらんな言動とは裏腹に、随分と非道なことをするのだと。やはり、腹の底の見えない女だ、と銃兎は評価を与えざるを得なかった。
しかし、隣で歩いている当の本人はポケットに仕舞っている時計を見るなり、「わー。もう日付越えちゃってますよ~」などと不平を言っている。そろそろ身の程をわきまえてほしいところだ。銃兎はげんなりとした表情を浮かべているを一瞥して、ぽつりと独り言を零した。
「……あの母親、今は子どものせいだの一点張りで、取調室で反乱狂しているようです」
そう言うと、は銃兎を見上げて、「ですよねー」と笑った。こいつ――銃兎は渋く眉をひそめて、眼鏡のブリッジを上げながら彼女に問うた。
「知っていたんですか」
「典型的なネグレクトですよ。部屋はインスタントとコンビニのゴミが多かったですし、子どもの服の下には複数の痣がありました。手足の指もかなり霜焼けてましたし、時々裸足で玄関に出されてたんじゃないですかね」
最初からすべて分かっていたということか。銃兎は薄ら目でを見下すが、彼女は「そんな端正なお顔で見つめないでくださいよ~」とおちゃらけるだけ。睨んでんだよ、というのは心の中で留めておいた。
「葉っぱに手を染める前は良い母親で、手を出した理由も子供を食べさせるためにお金が欲しかったから……とかだったら、いい話ですよねえ」
「ドラマの見すぎです」
「それに、そう思うなら変に口添えしなければよかったのでは?」と言うと、は目を伏せて、口角だけ上げて見せた。
「だって……今のうちに悪いことは悪いことって教えなくちゃ、大人になってから子どもがかわいそうじゃないですか」
さっきと言っていることがあべこべなことに気づいているのか、いないのか。しかし、それがの信条というのなら、銃兎は何の口出しもできまい。回数の増えた溜息も隣にいる女に向けたものだが、本人は気にもしていないだろう。
「それより、さっきの続き……署に帰ったら聞かせて頂きますよ。今日もバッジをぶら下げただけの上層部共に遮られてしまいましたからね」
「また今日も残業ですかあ」
警官に定時という概念はない。加えて残業も。事件が片付くまでは日付が越えようがなんだろうが業務時間なのだ。
今しがた、本部の人間に今回の件の報告を済ませたところだった。銃兎が事の見解を述べれば、腰と頭の働かない年寄り共はぐちぐちと文句ばかり垂れる。そして、最近はを連れて歩いているせいか、彼女への風当たりも強くなっていた。
最初の頃は女が口を挟むななどと言っての発言の余地もなかったが、しなかったらしなかったでただ女を侍らせている男だと銃兎が罵られる。何度心の中でその汚い面を蹴り上げたか分からない。
今回も今回で、に発言の機会を与えたら、途中ではばかられて身を下げられてしまった。正直、銃兎も耳に入れておきたい意見だったのであの時はほんとうに堪忍袋の緒が切れるかと思った。
……冷静になろう。元来、銃兎は本部の人間があまり好きではなかった。同期の中でも上の連中に唆されて悪事に手の染めたものもいて、自分も今、誰の、いくつの弱みを握っているか分かったものじゃない。上司への憧憬は今まで歩いてきた道へ落としてきた。青かった時代があったからこそ、堕ちたところまで堕ちたと言える。
「入間さん?」
不意に、我に返る。なんだ、と銃兎が隣を見れば、おーい、と言わんばかりに、が目の前で手を振っていた。
「わたし、やっぱり今度から車の中で待機してましょうか?」
「あのくらいの罵詈雑言は耐えなさい。もしも交番勤務から昇進した時に生き残れませんよ」
「いやあ、わたしは痛くも痒くもないのでいいんですけど。入間さんみたいな良い人がめちゃくちゃに言われると、なんというか……ねえ?」
「はあ?」と言いたくなったし、実際声に出た。訝しげにを見れば、「あっ」と彼女が声を上げた。
「入間さんが裏で何してるかは存じ上げないですけど、黒い噂はかねがね聞いてるので、まったく知らないわけじゃないですよ~」
「それを知っていてもなお、私を“良い人”と言うのはあなたくらいですよ」
「そうですか? でもわたし、入間さんから引き抜きの話された時、けっこう嬉しかったんですよ~。政府が無理矢理決めた女性覇権社会の鬱憤は、全部下の人間にきてますから」
ああ、そういうことか。銃兎は合点がいく。今更だが、のような人物が交番に在中していたのも頷けた。
「世の中の流れが男尊女卑だろうと女尊男卑だろうと、私は優秀な人間には対等に接するつもりです」
「じゃあ、わたしは入間さんの言う優秀な人間のままでいますね」
廊下に響く足が止む。意表をつかれた銃兎は振り返ると、そこには、少しばかり距離を開けたが無邪気なくらいににんまりと笑んでいる。今のの言葉の真意を問うのは彼女の思うツボのような気がして、銃兎は黙ったまま、早く来い、と視線だけで訴えた。
コツコツ、と急いたパンプスの音を聞きつつ、銃兎は考えていた。自分の下にいることで、にとって何のメリットにもならないし、彼女が金銭や名誉にまるで興味がないのも、銃兎はうっすら気づいている。それに、あくまで彼女は臨時の人材。ツルを逮捕すればすぐに元の職場へと復帰させる……そういう約束だ。
なのに……なぜだろう。どこかもったいないと思ってしまうのは。だからといって、どうするというわけでもないのだが。ただ、もしも最初から署へ配属になっていたのなら、そしてこの部署へ……自分の手の届く場所にいたのなら、泣こうが喚こうが扱き倒したのに、と思う。思ってしまう。それが叶わなくても、採用の時点で無理矢理にでもこの部署に配属させたような気がする。変な噂を立てられようが、事件解決には替えれない。人にはない観察眼といい絶妙な心理操作といい、にはそういう方面の才能がある。銃兎はそう確信していた。
ここまでに夢を見てしまうとは、相当疲れていると思う。しかし少なからず、彼女の可能性を見据えている自分がいる。でなければ、こんなにも相性の合わない人間を傍におくなんて、普段なら考えられないことだった。
「ところで入間さん、今ラーメンとか食べたくないです?」
「ないです」
「近くに超絶美味しい豚骨のお店があるんですけど~」
「おい」
ほんとうに……疲れているのだ。きっと、自分が思っているよりも、かなり。
駐車場に着くやいなや、銃兎よりもいち早く運転席に乗り込んだは嬉々としてナビを操作する。行き先はもちろんヨコハマ署ではない。渋々と助手席に乗り込んだ銃兎は、「せめてバッジは外しなさい」と言いながらシートベルトを締めた。すると、「えーっ。それってデートってことですか?」と言うので、ついにぷちりと切れた銃兎はを鋭い眼光で睨んだ。平均睡眠時間四時間、一日に消費する煙草は約二ダース。正常な思考をキープするために、その日から銃兎は彼女に対して我慢することをやめようと思う。
余談だが、悔しくもその日食べたラーメンは美味だった。チームメイトとたまに足を運んでもいいかと思うほどには。
