Episode.1



 入間銃兎は苛立っていた。
 それはもう、稀に見る機嫌の悪さだった。廊下ですれ違う人が皆、銃兎の存在を確認したら、顔を青ざめてわざと視線を逸らしてしまうくらいの。何か直接害を与えているわけでもないのに、意味も分からず腫れ物扱いされるのがさらに彼の不機嫌のボルテージを上げる原因となっているが、銃兎はそれでもなお目の前の業務に勤しんでいる。銃兎自身、自分がどんな表情をしているか分からないが、いつものポーカーフェイスをどこかに置き忘れているのは確かだった。
 というのも、ここ数週間はとある事件に追われていて、ろくに家に帰れない日が続いていた。デスクに溜まるのは証拠の見えない捜査資料。最近は、時折起きる眉間の痙攣すら煩わしく思い始めて、自分の限界を冷静に悟った。
 とりあえず、今は外に行って頭を切り替えたい。ちょうど、新たに被害の出た現場に向かう時間。立場上、事件の大小関わらずに急行しなければならないし、今はどんな些細な手がかりも欲しいところだ。
 早々に銃兎がロッカーにかけたロングコートを手に取った、その時。カチャリ、と部署のドアがゆっくりと開いて、銃兎は思わず顔を顰めた。

「失礼します~」

 ――やっぱりお前か
 間延びした声と、ひょっこりと覗いた顔。「わあ~。入間さんの怖い顔」と自分のデスクまで歩いてくる女に、銃兎の機嫌はさらに降下した。この気持ちをどう表せばいいのか。とにかく、悪い感情をごった煮にしたようなものが銃兎の中で渦を巻いていた。

「……亀崎かめざきさん。入室時はノックをしなさいと再三言っていますが」
「えー? ちゃんとしましたよ。入間さん、集中してるかと思ってやさしーくコンコンと」

 亀崎はそう言って、指を軽く曲げ、ドアをたたくジェスチャーをしてみせる。本当に、こっちの気を察しようともしないのんびりとしたその声がひどく耳につく。おまけに、「あ、そういえば、掃除のおばちゃんにお菓子もらったんですけど、入間さんもどうです?」などと暢気に言うものだから、なんとか落ち着くべく、わなわなと震える息を吐き出しながら、銃兎は彼女を見下げた。

「結構です。それより、頼んだものは」
「もちろん終わってますよー」

 亀崎は、脇に抱えていたファイルをデスクの上にどさりと置く。今朝のうちに、には過去一ヶ月に起きた関連事件の鑑識結果をまとめろと指示を出していた。それを、この短時間で完遂させたという。
 銃兎はいったんコートから手を離して、有に五センチはあるファイルを取り、ぺらぺらと流し読む。結論、良い出来だ。何の文句も出ない。あんな言動をしている反面、期待以上に仕事ができてしまうのだから、彼女を怒るに怒れない彼は少々複雑な気分だった。
 そして、銃兎は再びをちらりと見る。にこにこにまにま。どうでしょーか、と言わんばかりに煩い笑みを浮かべている彼女に、思わず眉間が震える。八つ当たりしたい衝動をぐっと飲み込んだ銃兎は、から視線をさっと逸らして、「そうですね」とため息混じりに呟いた。

「まあ、上が寄こしたクソみたいな資料よりかは使い物になりそうです」
「入間さーん。表情と台詞が一致してないですー」

 「そんな顔するなら別の人に頼めばよかったんじゃないですかあ」とはぼやいた。銃兎とて、出来ることならそうしたいと思っている。

「あなた以上に手際の良い人材がここにいないんですよ。かなり癪ですがね」
「あれ? 今わたし褒められてます? やった~」

 はグレーのパンプスをこつこつと鳴らしながら、銃兎の隣に並ぶ。女にしては高身長である。銃兎の手の中で広がっているファイルをひょいと覗き込んで、ぽつりとこう呟いた。

「……捕まるといいですねえ。ツルの運び屋」

 の言葉に、銃兎の目も細くなる。その名が、最近の銃兎の頭を悩ませている元凶だった。

 薬物をいくら抹消しようと、それらを海外から運んでくる輩が減らなければ意味がない。ツルの運び屋とは、数十年前から報告に上がっていた運び屋の通称だが、最近になってかなりの規模で活動をしていることが分かった。目撃証言もあり、四、五十代の男という犯人像までは特定できている。しかし、その足が全くと言っていいほどつかなかった。
 近隣の住民に聴取をすればするほど情報がひどく断片化しており捜査は難航。時には、全く真逆の目撃情報が右往左往するので、犯人に振り回されているようで非常に腹が立つ。次に現れるであろう取引現場を張っていても、検討もしなかった場所で密輸者を逮捕するものだから、本当に人間の仕業か、と疑う者さえいた。もちろん、密輸者も密輸者で、間接的な取引のみで実際のツルとは面識がないというので、まったくもってお手上げ状態だった。

 ――鶴の恩返しという昔話がある。娘は、機を織っている間は決して部屋を覗かないでくれと言う。しかし、ある夜におじいさんとおばあさんはその部屋を覗いてしまう。するとそこには一羽の鶴がおり、命を助けていただいた恩返しに来ましたが、もうお別れですと言って、鶴になった娘は空へ飛び立っていく。
 反物の代わりに粉や葉っぱをその地域にばら撒き、人の目につくと姿をくらませることから、いつからか“鶴の運び屋”……通称ツルと誰かが囁き始めるようになった。恩返しというより仇を返されている気分である。
 その被害規模は対策本部の設置も懸念されているほどで、銃兎の業務量はおかげさまで右肩上がり。上からの嫌味も比例して、ストレスと苛立ちがいつもの三倍増しで頭上で往来していた。同業といえど、鬱陶しい奴らはまとめて豚箱にすし詰めにしたいと毎日思ってしまうのは仕方の無い話だった。

「そう思うなら、あなたも協力しなさい。でなければ、いつまで経ってもうちから異動できませんよ」
「もちろんです~。早く交番勤務に戻って登校中の小学生に手ぇ振りたいです」

 何週間か前までは制服警官だったも、今や自分と同じ黒のスーツに身を包んでいる。こんな女をここに連れてきたのはまぎれもない銃兎自身。気の迷いが過ぎた、と頭を抱えても、もう時すでに遅しだった。

「異動条件として、あなたからの希望は多少呑んでやっているんです。こちらの命令には従って頂きますからね」
「署勤務ってかなりのブラックとは聞いてましたけど、こんなにも堂々としたパワハラは予想外です~」
「こんな超多忙期に、何のためにあなたみたいな女をわざわざ引き抜いたと思っているんです」
「んー……。あっ、男だらけの職場に潤いを、ってやつ――」

 瞬間、思わず殺気に似た眼差しをに浴びせてしまう。すると、「冗談ですよ~」と彼女はあはあはと笑い始めた。にぶつけたくなる怒りをいとも容易くすり抜けられているようで、言葉にならない苛立ちがさらに増した。
 ここで泣き言の一つでも言ってくれさえすれば、早々にこいつを手放せるものを。これだから思い通りにいかない人間は嫌いなんだ。

「入間さん、今さっき人ひとり殺せそうな目ぇしてましたよー」
「誰のせいだと思っているんですか」
「えーっ。おツルのせいじゃないんですかあ」

 それはほんの一部であり、六割方は間違いなくのせいである。本来ならクビにするところだが、それでは本末転倒であるし、正直な話、がここへやって来てからは業務が捗っている。まあ、現実面とストレス面を合わせて利害がプラマイゼロなのは変わりないのだが。
 難儀な話だ、と銃兎がファイルを閉じてデスクに置く。これは帰ってきてから詳細に目を通すことにする。となれば今夜もここに泊まりか、などと思っていると、「でも、」とはひょいっと銃兎の顔を覗きこんだ。

「わたしはどっちの入間さんも好きです」

 一体何の話だ。銃兎はしばらくのその結託ない笑顔を軽薄な眼差しで見下げていた。婦警にしては態度が緩く、言っていることもかなり軽率。正直、なぜこんなストレスフルの女を引き抜いてしまったんだろう、と銃兎は後悔すらしていた。
 ……まあ、今更どうしようもならないことをいつまでも考えていても仕方がない。今は溜まったタスクを消化させることが最優先である。銃兎がようやくバサッ、とコートを羽織ると、は「お出かけですかー?」と首を上半身ごと傾げた。

「あなたも来なさい。どうせ暇でしょう」
「メイク直してからでもいいです?」

 本当に、ことごとく会話の流れを切る女である。銃兎は呆れ顔を隠しもせず、「……十分後、私の車まで来なさい」と言うと、は「りょーかいです~」と形だけの敬礼をして見せた。この事件が終わったら、速攻異動させてやる。残念なことに……本当に残念なことに、今いる人間がガラクタすぎて、今はのろい亀にも縋りたい気持ちなのである。



 ――そうして、銃兎が車にエンジンをかけて待つことぴったり十分。助手席に乗り込んだが、「煙草、もうないですよね?」と言って、銃兎が普段使っていた銘柄をぽんと渡してきた。なぜ分かった。礼を言うのもなんとなく憚れて、銃兎はそれを無言で受け取り、気を紛らわすようにアクセルをぐんっと踏んづける。本当に、ここまで中身の読めない女と出会ったのは初めてだった。