Episode.8



 ホテルの裏庭でを襲ったのは、先日出会った人身取引グループの一人だった。
 警察が睨んだ通り、コンテナヤードから逃げた犯人は別のグループに匿われていた。加えて、彼はの顔を覚えていたらしく、あのコンテナヤードの件を隠匿するため、独自の情報網を使って、が宿泊しているホテルを突き止め、隙あらばマイクを使っての口を塞ごうと目論んでいたらしい。
 しかし、それも未遂に終わる。は無傷で事なきを得たし、警察側も今回の主犯及びその仲間を一網打尽にできた。しばらくは事情聴取のために何回かヨコハマ署に通わなければいけないが、新しい仕事のついでに寄ることができるので、にとっては別になんでもないことだ。
 しかし、事件から二週間経った今でも――の心の中はいっこうに晴れなかった。

さん?」

 不意の呼びかけに、は顔を上げる。見れば、同居人が大皿を両手に持って、の浮かない顔を覗き込んでいた。今日は珍しくお互いに仕事が休みで、朝食として大量のフレンチトーストを作ることになった。は彼女が用意してくれた材料をかき混ぜて、そこに切ったトーストを浸す係だった。割った卵は数知れず。卵液と牛乳をかき混ぜるその手も、今はぴたりと止まっていた。

「うちに帰ってきてからずっと元気ないけど……大丈夫? 新しいお仕事、大変そう?」

 眉を下げながら問う彼女に申し訳がなくなって、は首を横に振る。
 鈴の下で、モデルとして働くことになったのは一週間ほど前のことだった。女はもちろん、同居人である彼女はそれはもう喜んでくれた。どうやら、彼女も待遇が良いとはいえないの前職を快く思っていなかったらしい。我が事のように手を叩いて嬉しがって、その日、彼女が作った夕食はいつも以上に豪勢だった。
 こうして彼女は、当たり前のように誰かに尽くす術を持っている。なら、私は? 私は、人のために何ができるのだろう。どんな取り柄があるのだろう。彼への贖罪として、相応しいものをあげられるくらいの、何かを――

「あっ。もしかしてさん、毒島さんのお見舞いの品、迷ってるの?」

 ジュウゥゥ、とフライパンが唸る音がした。鉄板にバターを落とした彼女はこちらを見ずに、明るい口調で話し始める。
 初めて聞いた単語には目が点になって、首を傾げた。

「オ、ミャイ……?」
「お、み、ま、い。ええっと、病気の人とか、怪我した人とかに何か差し入れること……かなあ? 果物とか、お花とか!」

 「毒島さん、怪我したって聞いたから、てっきりそうかなって思ったけど……違った?」今度は同居人が首を傾げる番だった。何かを送る……という意味では合っている。しかし、花なんて水と日光がなければ枯れてしまうし、果物は口に入れればすぐになくなる。それらは、が求めているようなものではなかった。傷は何ヶ月もかけないと治らないのに、そんな消えものでは釣り合いがとれない。
 彼女は、何も知らない。理鶯がなぜ怪我をしたのかも、誰がその怪我を負わせたのかも……。もしもこの場で、が声高らかに自分が加害者なのだと言ったのなら、きっと考えを改めるだろう。それどころか、幻滅されるかもしれない。人でなしと謗られるかもしれない。
 ……それでもいい。この際言ってしまおうかと、がおそるおそる口を開いた時だった。「そんなにむずかしく考えなくていいと思うけどな~」と同居人の緩やかな声が届く。彼女は、が卵液に浸したトースト第一軍を次々に焼いていく。香ばしくも甘い匂いがキッチンに充満すると、彼女はフライパンから目を離して、に向かってへらりと笑った。

さんは、背ぇ高いし美人だし手先も器用だし、日本語もすぐ話せるようになるくらい頭もすっごくいいけど、ちょっと考えしいと思うんだ」
「……褒めすぎ」
「そんなことないよ! もしもお見舞いになに送っていいか思いつかなかったら、話し相手になるだけでも嬉しいものだよー。私も高校生の時に部活で足怪我して入院してたことがあって――あっ、そうだっ」

 彼女は菜箸でフライパンの端をカンッ、と鳴らし、「ちょっとだけ火見ててくれる?」とにコンロの前を譲った。そのあいだに、彼女は冷蔵庫から次々にタッパーを出してはテーブルに並べていく。
 そういえば昨夜、夕食が終わってから何かこそこそと作っていた。てっきり仕事用に調理したものだと思ったが、どうやら違うらしい。

「それは、なに?」
さんがお世話になったから、私も毒島さんへお見舞い品をこっそり作ってたのです! ヨコハマ署に通うのも、今日で最後でしょ? だから、ついでに毒島さんに届けてもらおうと思って!」
「え……」
「嫌いなものとかアレルギーとかあるといけないから、使った食材はメモに書いてあるよ。タッパー渡す前に毒島さんに確認してもらってね!」
「で、でも――」

 理鶯のいるところなんて知らない。そもそも会ってくれるかも分からないし、まず心の準備が――が当たり障りのない言葉を探していると、不意に、ピィ、と部屋に高らかな鳴き声が響く。見れば、彼の鳥が羽を広げて籠の中で飛び回っている。先日まで手紙を運んでくれていたが、しばらくはお役御免になっていたので、もしかすると外の世界が恋しいのかもしれない。
 その気持ちは、痛いくらい分かる。あれから、は理鶯に返事を出していない。出そうとしてもペンを持った瞬間に止まってしまう手が嫌になってしまい、最近は便箋を選ぶ気にすらなれなかった。
 は、冷蔵庫から出されたタッパーの蓋を指でなぞる。ここ数日、彼女は上の空である自分を気遣ってくれている。理由が分からなくても、用がなければヨコハマに足を運べないの代わりに、こうして会う口実を作ってくれる。深い意味はなく、自分ができることをやっているだけ。彼女にとってはなんでもないことなのだろうが、その行動で救われた人はきっと何人もいるだろう。
 こちらの決意が固まっていなくても、が行かなければ食べる相手を見失った彼女の料理の行く末が気の毒で、はこくん、と小さく頷いた。

「わかった……」

 すると、彼女はにっこり笑った。
 「フライパン代わるね!」そう言って、彼女はとバトンタッチするや否や、手際よくフレンチトーストをひっくり返し始めた。ほどよく焦げ目のついたそれに生唾を呑むも、はそれに背を向けて、真っ白な食パンに包丁を入れ始めた。
 ヨコハマから帰ってきたら、彼女にもお礼を言おう。その前に、最初にそれを言うべき相手に向けて、は今まであったことを思い返す。手紙を書く時のように、頭の中で自分の言葉を丁寧に書き留めていた。







 会いに行って歓迎されなかったとしても、その場で突き返すような男ではない……と思う。しかし今更、どんな顔で会えばいいのか。鏡の前で相談しても、自分の浮かない表情ばかり映されてしまう。
 あの日の雨夜を思い出す。あの後、すぐに警察がやってきて、負傷した理鶯の応急処置と半ば錯乱状態ののメンタルケアが行われた。いっそ責めてくれればよかったのに、誰も彼もが違法マイクの影響を知っていて、むしろ哀れみを向けられた。その三日後、やるせない心持ちのまま、は帰宅許可を得たのだった。
 一人でヨコハマに行くのも慣れたもので、入間とのマンツーマンの取り調べも今日が終わりだと思うと、悩みの種が一つ摘まれる。以前よりも、自分の中にあった人間不信は軽減されたと自負しているが、理鶯のチームメイトである彼とは最後まで馬が合わなかった。

「――それでは、本日ですべての聴取は終わりです。長らく捜査にご協力頂き、ありがとうございました」

 中身のない、上辺だけをなぞるその声も聞き慣れた。なので、今更二言三言耳に入れるくらいどうということない。
 書類に何かを書き込み終えた入間に向かって、は理鶯と彼らの仲間が呼んでいた音をそのまま真似をした。

「ジュート」

 まず、発音は間違っていなかったことに安堵する。彼は書類から顔を上げて、針のように鋭い眼差しでこちらを見つめる。やはり、先ほどまで向けていた笑みは営業的なものだったようで、目の色は今までのものとがらりと変わっていた。
 夜空を連想させるような、深く、冷たい眼差し。は手に汗を握りながらも、その目から視線を逸らさなかった。

「……なにか?」
「リオがいる病院を教えて」
「なぜ?」

 銃兎の眼光がを射抜く。それでも、は怯まず蛇の目を見るばかりだ。一度逸らしたら、理鶯に会うための道が閉ざされてしまうと思った。

「まさか……今更理鶯を見舞うとか思っていませんよね? 彼の強い希望もあって正当防衛ということで片付けましたが、あなたが彼に刺し傷を与えたことは事実。加えて、先日郵送で送られたナイフのこともあります。捜査に協力してくださったことに関しては感謝していますが、それとこれは話は別。私は、あなたを完全に被害者とは思っていませんから」

 私だってそうだ
 天敵である“男”に自尊心が削られる。そうなるのを分かっていて、銃兎がこういう言い方をしているのは分かる。なぜ、彼のようなずる賢い男が理鶯と知り合いなのか未だに分からなかった。
 荒ぶる心を深呼吸で鎮める。ここで喧嘩を買えば、何もかもが水の泡だ。ヨコハマまで来たことも、理鶯に会う決意も、背中を押してくれた彼女の気遣いも……すべて。慎重に言葉を選びながら、はゆっくり口を開いた。

「これは……私なりのけじめ。リオに言いたいこと言ったら、すぐに帰ります」

 もう、関わりを持たない方がいいとも思っている。あの国にいた頃と同じで、彼とは住む世界が違うのだ。
 別に、顔が見たいわけでも、言葉を交わしたいわけでもない。ただ……鳥を空に返した時、その羽が理鶯の元へ帰れる距離に自分はいて、今この瞬間にも、彼が身も知らぬ誰かにお節介とも呼べる親切心を振り撒いているのだと想像できるのであれば、それで十分だった。

「……あなたに大人げないことをすると、後で私が理鶯に叱られますね」

 不意に、銃兎の瞳の中にあった夜が明ける。糸がほつれたように部屋の空気が緩くなり、薄ら笑みすら浮かべた彼。が首を傾げると、「こちらの話です」と銃兎は言った。

「ちなみに、彼は病院にはいません。自分の寝床で療養していますよ」

 銃兎の言葉に、は耳を疑った。

「あんな怪我を負ったのに?」
「それに関しては私も同意します。彼は軍人ですからね。私達のような一般人とは感覚がズレているんでしょう。治療を終えるとすぐ、自分の森に帰っていきましたよ」

 「念の為に入院するよう、私も再三言ったんですがね」銃兎は呆れた顔でため息をつく。あまりにも信じられないが、それを断る光景が目に浮かんだので、も口を閉ざした。

「私はこれから用事があるので、案内は別の者に頼みますが、それでよろしいですね?」

 銃兎が早くもドアに手をかけている。よく考えれば、理鶯の居場所など些細なことだ。病院にいようがいなかろうが……彼がどこにいたって、会わないという選択肢は生まれないのだから。
 は深く頷いた後、部屋を出た銃兎の背中について行く。すると、彼は廊下を歩いていた婦警を捕まえて対話を始めた。いつぞやにお菓子をくれた、あの彼女だ。その大半はには理解できない内容だったが、最後の方での名前が出てきて、婦警はちらりとこちらを一瞥した。
 「いいですよ~」という彼女の軽い返答がの耳に届く。またさらに近くなった理鶯の存在を感じて、心臓がざわざわと騒ぎ立てた。







「本当に一人で大丈夫ですかー?」

 帰りは自分で帰って来れるから平気――ここまで車で送ってくれた婦警に感謝すると同時に、第三者からの援助に申し訳なさを覚え、はそんな婦警の言葉を押しのけた。は助手席から降りて、彼女に向かって頭を下げる。運転席の窓を開けて、心配そうにこちらの様子を伺っていた婦警だったが、突如かかってきた電話に応答し始めたので、はその隙に灯り一つない鬱蒼とした森の中に潜っていった。


 ――それが、今から一時間前の話だ。

「(遠的遠い……)」

 警察署を出たのは正午を少し過ぎた頃だったのに、辺りはもう真っ暗だ。先日冬至を迎えたばかりで、夜が支配する時間はまだ長い。加えて、街中とは比較にならない冷気がの皮膚を痛いくらい刺して、体力をじわじわと奪っていった。
 一方で、歩くのはそれほど苦ではない。以前いた国では、特定の住処に住み着く前は色々なところを転々としていたものだから。大木の幹に空いた樹洞に身を寄せていたこともあったし、落ち葉の中に潜って秋の寒さを凌いだこともあった。なので、寒かろうが暗かろうが、今更どうということはない。今のにとっての脅威は、もっと精神的なものからくるものだ。
 途中で後ろを振り返りながら、帰る時のために道を覚えていく。端末のライト機能を頼りに足場が安定していそうなところを見つけて、道無き道を進む。婦警は、車を停めたここの場所からまっすぐ進めばいいと言っていたから、彼の拠点地との距離は確実に近くになっているはずだ。
 ……そう、“近く”に。そのワードを意識すると、体に緊張が迸った。理鶯に会う意思が水面のように揺らぐ。その一瞬の気の迷いで、は足場の確認もなしにその一歩を踏み出してしまった。

「っ、え――」

 ――不意に、地面が崩れる。何の変哲もなかった土から突然現れた穴に、は小さく悲鳴を上げた。近くに捕まるものはなく、の体は重力に従って前のめりに倒れていく。ライトを当てて穴底に見えたのは、緑色のネットらしきもの。がそれを落とし穴だと確信したのは、恐怖のあまりに目を瞑った時だった。

「――怪我はないか」

 ……冷たい土の匂いも、硬い地面による痛みもない。その代わり、腹部に回った何かの感触があって、はうっすらと目を開けた。
 耳の奥に落ちてきた声とともに、体がふわりと後ろに退く。気がつくと、の足の裏は再び地面と垂直にぴたりとついていた。目の前に広がる落とし穴を呆然と見つめ、は自身の腹から退いた太い腕を見送る。

「侵入者用の落とし穴だ。事前に来ることが分かっていたら、近くまで迎えに行ったのだが……」

 リオの声――はゆっくりと後ろを振り返った。ライトに照らされた理鶯は相変わらず無表情で、何を考えているのかまったく分からない。彼と対峙するのは何度もあったし、その度に嫌悪やらなんやらが付き纏っていたが、こんなにも自分が緊張しているのは初めだった。
 ……やっと、会えた。は息を呑んで、呼吸を整える。こんなに動揺していては、用意してきた言葉も泡になって消えてしまう。しっかりしなくては。

「どうして……ここが分かったの」
「先ほど、がここに来ると銃兎から連絡を受けた。一時間ほど前から誰かの気配があったが、てっきりマイクを狙う輩かと思って放置していたのだ。出迎えが遅れてすまない」

 「ホテルの件から音沙汰がなかったので心配していたが、息災で何よりだ」しゃぼん玉のようにどことなくふわふわとした声色だった。口元には笑みすら浮かべて、理鶯はこちらを見下ろしている。
 ……何が“何より”だ。そんな捻くれ者の言葉をはぐっと飲み込む。これでは、いつもと同じだ。悪態をつくために、わざわざこんな森の奥まで足を運んだわけではない。
 しばらく、無音の時間が続いた。からのアクションを待っているのか、理鶯はここから立ち去ろうともしなければ、何か言う素振りも見せない。覚悟を決めたは、無意識につくっていた拳からふっと力を抜いた。

「……今日は、リオに言いたいことがあって、ここに来ました」
「小官の伝書鳩はいなかったか?」
「いたけど……直接、あなたに言いたかったから」
「そうか」

 二人の会話を切るように、隣の草陰からガサッと音がする。が肩を震わせると、すぐに目の前が理鶯の背中で覆われる。なんの躊躇いもなくこちらを庇うような所作に、の動悸がさらに強くなった。
 が理鶯の後ろで大人しくしていると、周囲を警戒するように四方八方に視線を撒き散らしながら、彼は言った。

「このエリアは毒蛇の巣があるので立ち話には向かない。この先にある小官のベースキャンプまで移動しよう」

 すると、理鶯がこちらに向かって手を差し伸べる。自然すぎる動作にの頭が真っ白になっていると、じきに彼の指がばつ悪そうに引っ込んだ。

「……すまない。不躾だった。この先は特に足場が悪いので、小官の衣服のどこかを掴んで――」

 は、一度引っ込んだ理鶯の指に触れる。冬の森にいるとは思えないくらい熱を帯びた太い指は、の悴んだそれが触れていいものかと躊躇するほどだった。
 理鶯の人差し指と中指だけでが片手が埋まり、そこからは他の指も這うように手繰り寄せて、最終的には理鶯の親指以外の指を手のひらに収めていた。

「これで……いいんでしょう」

 が理鶯を見上げると、そこには見たことのない彼の顔があった。驚きと緊張が不思議な文様を描いて、理鶯の表情を形どっている。その感情を、彼はなんと名付けるのだろう。
 「……ああ」時間をおいて漏れた理鶯の声は、やはり無感情に聞こえた。それでも、泡をも壊れないような力で手を握り返されて、彼が持つライトによって道が拓く。
 不思議だ。ほんとうに、不思議だ。不安も、恐怖も……今はなにもない。時にの髪を引っ張り、胸を掴み、腰に爪をくい込ませた、男の手。嫌で、汚らしい、男の手。それでも、今は全然嫌ではなかった。
 この手は、男である前に理鶯という心優しい人間のものだ。







 そこは、拓いた平地だった。周りを囲む林に溶け込むようにして大きなテントが張ってあり、その前には薪の火が火花を散らしながら轟々とした炎を蠢かせている。
 「少し散らかっているが、適当なところに腰掛けてほしい」理鶯の言葉を受けて、は薪の前にあった石の上に腰を下ろす。火の前に手を翳すと、冷えきった指先が徐々に感覚を取り戻していった。
 見れば、薪の上には網とフライパンが乗っている。その周りには半分に割られた卵の殻がタワーのように何個も積み重なって散乱していた。殻に付着した白身が火に反射しててらてらと光っている。
 比較的新しいものだろう。が卵の殻をじっと見つめていると、厚手のブランケットを手に持ってきた理鶯がの隣に座った。その距離は人一人分空いており、理鶯は宙でブランケットを靡かせながら、の肩にそれを羽織らせる。高身長のの脹ら脛までも覆ってしまうほど大きなものだった。

「先ほどまでオムレツを調理していた。形はそれらしくできるのだが、味がどうしても整わない。まだ試作の段階なので、もう少し待ってもらえるだろうか」

 薪をひとつ、ふたつと火の中に放る理鶯が、紙皿の上に置かれた複数の三日月を一瞥する。どれも綺麗な黄色をしていて、ホテルの朝食に出てきていたようなものと形が似ていた。
 理鶯は、その内の一つを別の皿に取ってフォークに掬って食べる。すると、しおっとした顔をして、また一口含む。オムレツを口に運ぶ度に顔が険しくなっていくので、制止する意味では彼に尋ねた。

「……甘くしたの?」
「ああ……」
「どうしてそんなことを……。リオは甘いものが苦手なんでしょう」
は、甘い方が好きだろうと思った」

 理鶯の言葉を受けたはぽかんとする。すると、一口、また一口と、理鶯はオムレツを口に運ぶ。皿の中が空になる時には、彼の顔色はとてもじゃないが快調とは言いがたいものになっていた。
 理鶯は、ホテルでと話したことを律儀に覚えていた。真意の欠片もない適当な返答だったのにも関わらず。尽力すると言ったのは――余程の自意識過剰でなければ――おそらくはそういう意味だろう。
 大量に散らばった卵の殻の数を見るに、あのサイズのオムレツ一つ作るだけでは卵液が余る。きっと、がここに来る前は他にも複数個のオムレツができていたはずだ。それを、理鶯自ら食べて消化していたと。わざわざ自分の苦手な味付けにしたものを、苦い顔をしながら口に入れていたと。
 この人は……どこまで他人に尽くせば気が済むのだろう。は罪悪感で今にも胸が爛れてしまいそうだった。

「……リオ、」
「なんだろうか」
「私、とくに、オムレツが好きなわけじゃ、ないの」

 浅く長く息を吸って、小刻みに吐いていく。こんなにも誰かの心の中を覗きこみたいと思ったことはない。軽蔑と幻滅の色を含ませた理鶯の目を想像しただけで、は身の縮む思いだった。
 この場に流れる沈黙のせいで、寒気が一気に増した気がする。今すぐここから逃げてしまいたかったが、頭上から感じる理鶯の視線がをこの場所に縫いつけていた。

「では、オムレツは嫌いだろうか」
「嫌いでも……ないです」
「そうか。ならば、いつか食してくれると嬉しい。最初は是非ともに食べてもらいたいと思っている」

 の心中とは裏腹に、理鶯の返答は軽く、涼やかなものだった。は狐に化かされたような顔をして、彼を見上げた。

「どうして……怒らないんですか」
「なぜ?」
「私は、あなたに嘘をつきました。卵も、あなたが苦い思いをして食べた甘いオムレツも、全部無駄になっているのに……」
「無駄ではない。元々、には小官が作った料理を食べてもらいたかった。その品目が指定されていただけで、どのみち小官のやることは変わりない。加えて、が嫌いでないのなら、引き続きオムレツの試作を行う理由になる」

 「が別のものを所望するなら話は別だが」紙皿をビニール袋の中に片付けながら、理鶯はなんでもないように言う。
 は嘘をついたことについて言及しているのに、理鶯は話の核をまるで分かっていない。人の話を聞いているのか、いないのか。こういうところも、昔から何も変わっていなかった。人が不安がっていることを上手く避けて、今のように平然とした顔で対話を続けようとする。
 理鶯が問題ないといえばそれまで。はこれ以上何かを言う権利はなかった。
 オムレツを食べ終えた理鶯の前に、は同居人から預かったタッパーを鞄から出した。タッパーとを見比べて、未だに口の中の心地が悪そうにもごもごとしている理鶯は、こてんと首を傾げる。

「これは?」
「オミャイ……じゃなくて、おみ、まい……?」
「なるほど。見舞い品か」
「同居人が、リオに作ったものです。私が世話になったからと。この紙に使ったものが書いてあります」
「む。そうか」

 は材料の書かれた紙と共にタッパーを手渡す。文章に一通り目を通した理鶯に、「食べられそうですか」とは尋ねるが、「食べられないものはないが……」と、理鶯の声色の雲行きはひどく怪しいものだった。
 もしかすると、軍人は人が作ったものを軽率に口に入れてはいけないのかもしれない。軍人の世界はの知る由ではないが、毒を盛って盛られの世界であることくらいは想像に容易い。しかし、理鶯だって食べたくないわけではないはずだ。
 キッチンに立ってご機嫌で調理をする同居人の背中を思い出して、は口を開く。

「食べて、あげてくれませんか。害のあるものは入っていないので」

 それでもなお迷っていた理鶯だったが、ついにタッパーを複数個開けた。中身は五目ごはんと蓮根の煮物、付属で入っていたタンブラーには豚汁が入っていた。和風料理のオンパレードだ。我が家の食卓の匂いに、の緊迫した心がするすると解かれていく。
 一度その場から立った理鶯は箸を持ってきて、木でできた簡易テーブルの上にタッパーを並べる。少したどたどしい指使いで箸を操り、まずは蓮根の煮物を一口。理鶯の目がぱっと華やいだのが分かった。五目ごはんを一口食べ、次に豚汁を啜ると、理鶯ははあ、と暖かい息を漏らした。

「どうですか」
「どれもとても美味だ。特に、この煮物は七味がよく効いている。レシピを請いたいくらいだ」
「彼女、上手なんです。料理。作れないものはないくらい、何でも作ってくれる」

 ヨコハマの街を彷徨い、汚らしい体をしたに対して、心優しい彼女は料理を振舞ってくれた。その時に味わった料理は、未だにの舌の上に鮮明に残っている。彼女の人柄を表すような、優しい味がした。今もなお、彼女の作るものはの毎日に彩りを与えてくれている。
 甘いオムレツの後なら口直しになるだろう。持ってきてよかった。が心からそう思っていると、突然理鶯の箸を持つ手が止まる。そして、をじっと見てその目を離さなくなった。さっきまで美味しいと食べていたのに、急にどうしたのだろう。

「……小官の趣味も、料理だ」
「そうなの」
「材料さえあれば、一通りのものは振舞えると自負している」
「リオ?」
のためならば、スイーツを作ることもやぶさかではない」

 理鶯にしてはよく喋ると思った。それでも、言葉の意味が分からないのことはないので、雰囲気を察して、は頷いておく。それに満足したのか、理鶯は再び箸をたどたどしく動かしながらご飯を咀嚼していった。


 数分もしない間に、タッパーとタンブラーは空になった。「とても美味だった。から彼女に礼を言っておいてほしい」そう言って、理鶯は祈るように手を合わせた。
 頭の中で思い描いていたやり取りを一つずつこなしていく。ここからは、私が頑張る番。はタッパーを鞄に仕舞いながら、すっかり腰の落ち着いた理鶯に尋ねた。

「お腹の傷は、どうですか」
「ああ、順調に回復している。この調子ならば、あと一週間もあれば縫った傷も塞がるだろう」

 一週間も待たなければいけないのか。の表情の濁りを察した理鶯は続けてこう言った。

「傷を負ったのは小官の落ち度だ。が気にすることは何もない」

 また、あなたはそういうことを言う
 意を決して、は理鶯との距離を詰める。緊張か、もしくはそれ以外の理由か……鼓動がやけに煩くなって、の四肢の動きを鈍らせる。不思議そうな顔をしている理鶯の両手を取って、は喉から飛び出しそうになる心臓をごくんと飲み込んだ。


「このまま、聞いてください」

 なるべく、ゆったりと深呼吸をする。息の流れを感じながら、は頭に残る音を繰り返し唱える。一つも、間違えないように。真面目で純真な理鶯に、言葉のまま伝わるように。

「……怪我を負わされても、私を責めないでいてくれて、ありがとう」

 ひとつ、鎖が外れる。唇の形がその五文字を覚えると、あとは水の流動のように口がさらさらと動いた。

「人売りから守ってくれて……ありがとう。盗みをしたこの手を綺麗だと言ってくれて、ありがとう」

 順番に、記憶を辿っていく。現在から過去へ――忌まわしいと思い、蓋をしてきた過去の中で、数少ない尊いものを手に取っていく。理鶯がしてくれたこと、自分が受け取ってきたものを、ひとつひとつ丁寧に汲み取っていった。
 微睡みの中にいるように、頭がふわふわと軽くなる。お礼を言うのは、こんなにも心地いいものだったのか。

「クレープを買ってきてくれて、ありがとう。中華街に連れて行ってくれて、ありがとう。コンテナヤードで助けてくれて、ありがとう」

 記憶が巡る。言葉が生まれる。彼の好意を、彼の親切を拒絶し続けてきた過去の自分に変わり、人並みの情を知ったは、何度も何度も理鶯に礼を伸べる。今まで見て見ぬふりをしてきた人でなしの自分に罪悪感を覚えながら、は最後まで口を閉ざさなかった。

「何人もの男に善がったこの身体を、綺麗と言ってくれて、ありがとう」
、もういい」

 強く、強く、理鶯の手を握る。何度この手に守られ、価値を見出されてきたのか。今更噛み締めて飲み込む資格がないとしても、私は――

「あの国で、あの子を助けてくれて、ありがとう……っ」

 ――あの日の、雨音が聞こえる。ようやく、あの国に戻ってこれた。
 これを言うようになるまで、長い時間を要してしまった。この街で理鶯に出会わなければ、ずっと言えないままだっただろう。小さな幸福も、深い怨恨も、姉妹のように日々を過ごした彼女の存在をも、すべて一括りにしてなかったことにしていただろう。それは、未来を歩くための理由にはならないと知った。どんなものでも、今のを形成するもので、そんな自分を受け入れ、求めてくれる人達がいた。
 消えない傷は、抱えて生きるしかない。その正体さえ知ってしまえば、少し行儀の悪いペットを飼っているようなものだと受容することができた。
 あれだけ絡み合っていた頭の中が空になる。もう、言いたいことはほとんど言った。緊張の糸がぷつんと切れて、は理鶯の指の間に自分の指を差し込んだ。

「あなたは、前にこう言いましたね。私ほど見返りが欲しいと思った人間に出会ったことがないと」
、それは――」
「教えて。リオは、私に何を望みますか」

 きもちがいい。きもちがいい。頭が痺れて、自分が遠ざかっていく。は、深く考えることを拒否していた。でなければ、この続きはどうしても言えない。汚くても、醜くても、は、彼に報いたかった。

「私はあなたの欲しいと思うものを必死に探したし、ずっと考えました。お礼を言うこと以外で、あなたに何ができるかを……ずっと」

 理鶯の指をすり抜けて、は彼の厚い胸に片手を添える。と同時に、娼館にいた女を思い出す。あんなにも煌びやかに男を饗したりはしなかったが、最終的にやることは同じだ。これが恩情というのなら、使わない他ないだろう。
 今から、吐き気すら覚えていた人間になろうとしているのに、幸い、今は不思議と熱に酔っていて何も感じなかった。

、手が震えている。虚言は控えた方がいい」
「噓じゃない。震えているのは、ここが寒いからでしょう」
「……そうか」

 理鶯の胸板が、目の前に迫る。
 突然、の両手首が理鶯の手によって掴まれる。それが下に降ろされるやいなや、予期せぬ浮遊感を全身が覚えた。理鶯によって横抱きにされていることが分かると、は先の読めない未来に体が竦むばかりだった。
 理鶯がテントの中に入ると、は毛布の上に割れ物を置くように降ろされた。そして、元々羽織っていたブランケットとは別に、テントの隅に畳まれていたもう一枚のブランケットを広げ、理鶯によって全身をぐるりと一周巻かれる。
 まるで、荷物の梱包だ。確かに寒いとは言ったが、こんな対応をされるとは思いもせず、は困惑した。

「……には、小官がを傷つけていた男達と同じに見えるのだろうか」

 ランタンに灯りを点した理鶯の眼光が、を鋭く刺した。ぞくん、と背筋に悪寒が走る。こんなにも氷柱を連想させる声は、今まで聞いたことがなかった。
 これ以上言ってはいけない、と頭が警鐘を鳴らすも、一度立ち上がってしまったは引き返す術を知らなかった。

「でもっ、こんなことでしか私は何も――ッ!」
「小官は、そのような目的でと共に過ごしていたわけではない」

 空気を裂いた理鶯の言葉。冷水を浴びた頭が、の酔った思考を目覚めさせてくれた。
 理鶯が、怒っている。彼に怒られるのはこれで二度目だった。自分の恩人とは知らなかったに、自身がぞんざいな言葉を吐いた時、彼はその瞳に毒矢よりも鋭利な眼光を宿した。理鶯の反感を買った事実と、盲目的であろうと口にした言葉の醜さに我に返ったは、ブランケットの中で身を凍らせた。
 穢らわしい。惨たらしい。こんなことを、言うつもりなかった。……本当に? 自覚してなかっただけで、本当は根底にあった想いだったのでは?
 体の震えが止まらない。お腹の中にある臓器がこねくり回されている感覚がして、は思わず口を抑えた。
 ――すると、の体を引き寄せるものがあった。ブランケット越しに回された腕と目の前に広がった迷彩柄に、の熱量ががぐん、と上昇する。

「……すまない。冷たい物言いになってしまった」
「り、お……」
「あの頃のにとって、それだけが生きる術だったのだろう。それを、小官は否定しない。しかし、今は生きる国も環境も違う。今ここにいるは、そんなことをしなくても平和に暮らせるはずだ」

 その後に、理鶯はこうも付け足す。「が自分を蔑ろにしたことと、小官がそう見えていたことに対して、少々憤ってしまったようだ」その言葉の割に、の背中と頭を抱く彼の腕は鳥の羽のように柔らかかった。
 未だに、は自分の価値が正しく測れない。他人を幸福にできる方法を知らない。そもそも、自分などが他人を幸福にできるわけがない。もしかしたら、という思考も所詮は驕りだと自分をいじめてきた。そうして、あらゆる変化を拒んだ。
 その先にあったのは一縷の安堵と底なしの虚無だけだった。

「ごめん、なさい……。私は、どうかしていました……」
「それ以上、が気に病む必要はない。分かってくれたのなら、それでいい」

 「それと、一つ尋ねていいだろうか」理鶯の問いを拒む理由もなく、は静かに頷いた。

「あの夜、は言っていた。小官の幻影によって、ホテルの外に連れ出されたと」
「ええ……」
「後で銃兎に聞いた話なのだが、犯人が所持していたマイクは、対象者の深層心理を呼び起こす作用があったらしい。犯人は、が今最も信用する人間の幻影を見せたと供述した」

 そんなことができるのか。後頭部に感じる手のひらの温もりに呼吸を乱されながら、はぼんやりと考える。この国の法律にあるヒプノシスマイクというワードは、未だによく分かっていないが、つまりは心の中を覗くような行為をしたということだろうか。
 悪趣味な。が怪訝に思う中、まろい声をした理鶯がの耳に息を吹き込んだ。

「それを聞いて……小官は嬉しかった」
「はい……?」
「昔同様、小官はに嫌われていると思っていた。しかし、にとって、少なくとも小官が信頼に足る男だと認めてくれたようで、とても嬉しかった」

 無意識のうちに、の根底にあったものを拾い上げられる。理鶯が本当に嬉しそうに言うものだから、は気恥しさのあまり、俯いた。全身に熱が篭もって、上手く頭が回らない。

「……ほんとうに、リオは変な人」
「変な人、か。にそう言われるのは二度目だな」

 そうだっただろうか。自分が過去に言ったことは覚えていないが、理鶯が前向きすぎて皮肉も通らない人間だということは覚えている。彼に好まれない甘味物が可哀想と思えるくらいには。

「軍が再興すれば、小官は再び海に出るだろう。この街は……ヨコハマは、一時の宿り木に過ぎない」

 理鶯の腕の力が緩められる。お互いの胸の間に空間が空いて、に纏わりついていた熱が幾分か逃げていく。それでも、上から降りてくる視線に耐えきれず、はいっこうに顔を上げられなかった。

「なので今後……互いの環境が変わろうと、小官にの幸福を願わせてくれないだろうか」
「え……?」
「それが、小官がに望むことなのだと思う」
 
 耳を疑いたいくらい、甘い言葉だった。あれだけ自分の太腿に釘付けだったの頭はいとも簡単に上がって、理鶯の視線とぱちんと合わさる。

「それだけ……?」
「ああ」
「それだけで、いいの?」
「他のことを願っていないわけではないが、それを言ってに嫌われるのは小官の本望ではない」
「他のことって……」
「場合によっては、を困らせ、傷つけてしまう。小官が軍人として軍に貢献できなくなくなり、軍人ではない生き方を選ばない限り、この感情が表に出ることはない。命を落とすまでこの胸中にあり、墓場で小官の肉体と共に眠るだろう」

 大声を上げたいほどの異論はあった。そこまで言って、なお本音をひた隠すなんて。この男は、どこまで他人のために生きようと奮闘するのだろうか。
 ……否。本来、人はそういう生き方をして幸福を見いだしていくのかもしれない。個人のために生きるのは寂しいし、虚しいこと。そういう生き方で満たされるのは、空いたお腹くらいだろう。
 しかし、理屈は分かっていても、内なる自分は納得しない。は理鶯に上半身を預けるように、彼の胸に額をあてた。一定の脈を刻む鼓動は、まるで穏やかな海の波打ち際を見ているようだった。

「……ずるい人」
は、狡い男は嫌いだろうか」

 嫌いなら、とっくにこの腕を振り解いている。返事をする音もなく、またはそれを答えとするように、は理鶯の胸から頭を上げようとしなかった。
 すると、再び理鶯の腕の力が強まる。彼との空間がなくなり、緩やかに、それでいて拒否を許さない力で頬に胸板を押し付けられた。
 恥ずかくて、うれしくて、とても……困る。頭に靄がかかって、呼吸が少しだけ苦しくなる。が深く息を吸い込むと、それを感じ取った理鶯が、の頭頂部に唇を寄せた。

「……すまない。から、離せと言ってくれないか」

 理鶯の唇の動きが伝わってきて、は思わず呼吸をとめた。ブランケットがあって本当によかった。こんなにも火照るばかりの体を、今にも胸を破いて飛び出してきそうな心臓を、彼に悟られた時には、泣く赤子のように四肢を無茶苦茶に動かして叫んでしまいたくなるから。

「情けないことなのは、重々承知だ。しかし、体が言うことを利かない」

 は、さらに強い力で抱きしめられる。離さないと言わんばかりに、離せと言うなとばかりに。密着なんて優しいものではない。理鶯の体に自分の体が溶けて沈んでしまいそうだ。冬の森の中とは思えないくらいの熱量に、は汗すら滲んだ。
 彼から手向けられる愛に、目が眩む。甘くて、濃厚で、癖になる情愛の味に、はすでに酔ってしまっていた。全てを飲み干す時には、私は私でなくなってしまうかもしれない。それでもなお恐ろしいと感じないのは、そんな恐ろしいことを彼は差し向けたりしないと、どこかで確信しているからだと。
 だから……もう、いい。虚ろ眼のは、消え入る声で呟いた。

「いや……です」

 手持ち無沙汰になっていたの両手は、理鶯の服を掴んだ。どこかに縋っていないと、きっと戻れなくなる。深い海に溺れたまま、地上までの帰り道が分からなくなる。
 一瞬硬直した理鶯の腕はさらに優しさを増して、その片手はの髪を緩く梳いた。

「そうか。それは……困ったな」

 苦しい。熱い。嬉しい。溶けて、混ざって、元娼婦も軍人も関係なく、ただの人になって。息を吐いていると、さらに体の力が抜けて、深淵まで沈んでいく。理鶯の吐息が耳にかかって、愛に慣れていない体が羞恥で震える。でも、それでいい。この動悸こそが、彼に抱いていた感情の答えなのだと。



 ――意識がおちる。飛ぶことを忘れた鳥は、最後まで互いの巣に辿り着けなかった。一時だけ、長く留まった宿り木。唯一、二羽が翼を伸ばせる細くも丈夫な幹の上。世界中のどこを探しても、故郷を忘れず、南の方角に迷うことなく、互いがその羽を休める場所はないことを知った。