Episode.7
頬に走る痛み。太腿に這う岩のような硬い手。絶えず襲う下腹部を殴るような痛みに、ずっと耐えてきた。自身の一部を殺しながら、それでも奥底で眠る自分の本質だけは死なないように、必死に生きてきた。
足掻いても、もがいても、先が見えない。深海の中に漂う藻屑のように、水の流動に身を任せている。真っ暗で、寒い。藁の一本すらも掴めなくて、海底に引きずられる。
あんな先の見えない生活は、もう嫌だ。骨が軋む。皮膚が裂ける。痛い。苦しい。だれか――
……だれか、なに?
「ッ」
掬いあげられる睡魔。ひくッ、と痙攣した喉で目が覚めた。口の中でも心臓の鼓動を感じるくらい、胸が跳ねて苦しい。頭も、上に誰かがのしかかっているように鈍く痛い。ひゅ、ひゅ、と隙間風のような音を立てながら、は不安定な呼吸を繰り返していた。
薄い暖灯に染まった部屋。ここは――そう、ホテル、だ。ここで寝泊まりしている経緯を思い出していると、遠くで水音がした。の視界に薄い影が生まれて、目だけを動かすと、ベッドの脇にしゃがみこんだ理鶯がいた。
「安心していい。ここに、を脅かすものは何もない」
――悪夢から引っ張り出してくれた、やさしい声。
「水だ。飲みたくないかもしれないが、幾分か楽になるだろう」さきほどの切羽詰まったものよりも穏やかになったその声は、の緊張をするすると溶かした。カラン、と涼やかな音を奏でたコップ一杯の水を受け取り、はグラスを傾ける。上手く嚥下できないそれを、無理やり喉奥に追いやった。
……頭に浮かぶ五文字。しかし、すぐにそれも煙になって消えてしまった。
「……言うかどうか、迷っていたのだが」
消えたその穴を埋めるように、理鶯の声がすっぽりはまる。がゆっくりと顔を上げると、珍しくこちらから視線を外す理鶯がいた。
「ホテルで生活を始めてから、はずっと魘されている」
「……起きていたんですか」
「すまない。に叱られると思い黙っていたが、今夜は特にひどかったものだから、起こしてしまった」
「ちがう」
そうじゃ、なくて
「……あなたは、ずっと寝ていないの」
「いや、翌日の活動に支障がない程度に仮眠を取っている」
叱られるだなんて、子供みたいに理鶯は言う。確かに、最初からそれを知っていたら色々言ったかもしれない。どうしてそこまで自分を犠牲にするのか、とか、なんのメリットがあるの、とか……理鶯の予想はあながち間違いではない。
――ホテルに泊まってから、ずっと。そのワードを反芻して、は弾けたように理鶯を映す。彼との思考が合致した瞬間を察してしまって、の胸がひと足早くずきりと痛んだ。
「……おそらく、のルームメイトも知っているだろう」
は悲痛に口をゆがめた。彼女は、そんなことは一度も言っていなかった。自分よりも早く家を出る彼女は、が起きる頃にはキッチンに立っていて、はそこでひと足早い朝日を見る。けど、やさしい彼女なら、胸の内に秘めていてもおかしくない。
この生活に至るまで、彼女には返しきれない恩があるのに、また迷惑をかけてしまった。はシーツをぐっと握りしめて皺を作る。すると、こちらの心中を察した理鶯が、空になったグラスを受け取り、サイドテーブルにそれを静かに置いた。
「が思っているようなことはきっとない。彼女は、に幸せになってほしいと願っている。きっと、あの国で眠るの友人も――」
「そんなことはない」
「小官も同じ気持ちだ」
のひねくれた言葉すら、理鶯の前では柔く包まれるばかりだった。
理鶯は相変わらず、自分によくしてくれる。尽くしてくれる。施してくれる。たとえそれが納得のいかない理由でも、は飲み込む以外の対処を知らなかった。
……そろそろ、吐き出してしまいそうだ。理鶯の善意での胸が満たされる中、朽ちていくのは昔守っていたはずの自分自身だった。
「リオは……私が心配だからと言った。でも私は、リオに何も返せていません」
「は何もしなくても――」
「私は、なにも出来ません。だから、スズみたいに……せめて、お礼を言いたかった」
鈴は、頻りにに礼を言った。シャッターを切る度、満面の笑みで。時には拍手すら送られた。お礼を言われることは何もしていないのに、にとって、彼女の言動は不可思議で、理解し難いものだった。
しかし、だんだんと分かってくる。こういうのは理屈ではなくて、噴水のように溢れ出てくる感情がそうさせるのだと。それでもなお、は最後までこの喉を震わせることができなかった。
言いたいという気持ちも、この国の言語でそれをどう言うのかも頭にあるのに、その上に覆い被さるのは過去の亡霊ばかり。市場に出れば人々に見下される屈辱、住処に戻れば暴力的な痛みに自分を殺される。
目の前の平和よりも、過去に与えられた傷が大きすぎた。
「言いたかったのにッ。ずっと……っ。なのに、出ないっ。いつも、喉でつっかえて――っ」
報酬と代償。それが、のすべての原動力。対価として成り立つものを返せない以上、貰ってはいけない。手に取っても、眺めてもいけない。どれだけ相手が勧めても、無償なものより恐ろしいものはないのだと。これから未来、どんなことを天秤にかけて目の前に現れるか、こんな平和な国に来てもなお、は猜疑心を捨てられなかった。
しかし、その思想はひどくよごれているものだと、最近知った。
「私はまだ、あの国での生き方を忘れられない……」
語尾は、掠れて消えた。声色は、ひとたび風が吹けば飛ばされる綿毛のように弱々しい。こんなにも情けない声を出したのは生まれて初めてだった。自覚することが少なかった自身の脆い部分を、こうして人前で――よりにもよって彼の前で、さらけ出してしまうなんて。以前の自分では、考えられない。
ああ……消えてなくなりたい。こちらの意思が伝わったのかいないのか、理鶯は布擦れを起こして、ベッドの端に手をついた。一部、彼の重みでマットレスがぎし、と浅く沈む。
「……小官では、駄目だろうか」
はゆっくり顔を上げる。薄明かりの中で光る彼の目。どこか弱々しい眼差しで今にも消え入りそうなを照らした。
「小官では、を守る盾にはなれないだろうか」
「ッ、だから私はあなたに何も――っ」
不意に、理鶯がジャケットを脱いだ。現れたのはタンクトップ越しに浮かぶ胸筋と無防備に曝けだされた腕。肩から上腕に向かって、大きさ問わず傷跡が目立つ。そこには、もよく見知った跡もあって、思わず目を逸らした。
それでも、理鶯は容赦なくの目の前に腕を差し出す。それも、あの国で負傷した左腕を。あの出来事が夢ではなく現実で、彼と出会ったきっかけを記憶に焼き残すようにして、理鶯の左腕には肩に向かって縦に一本の深い線が刻み込まれていた。
「この腕を介抱してくれたのはであり、小官の命を繋いでくれたのもだ」
「……大袈裟、です。私は、死んだ彼女に頼まれたからやっただけ。そこに善意なんてありません」
「それでも小官は生きてここにいる。命以上に大きいものはないことを知っているのは、も同じだろう」
饒舌な理鶯に圧倒される。腰を浮かせてが距離を取ろうとすると、表に出ていた手を咄嗟に取られた。
皮膚の硬い手のひら。暖かくて、厚みのあって、岩のようにごつごつとした男の手。もう二度と、触られたくないと誓ったのに、どうしてこの手を振り解けないのか。
すぐ耳元で、自分の鼓動の音が聞こえるくらい大きくなっている。それは徐々に加速していって、数年分の心拍数をも消化してしまいそうだ。緊張で、ひくりと喉が震える。
はず、かしい。羞恥でどうにかなりそうな気持ちを受け止めるよりも、は手から伝わってくる理鶯の熱に浮かされていて、それどころではなかった。
「リオ……っ」
「小官は、二度とに苦しい思いをしてほしくない。痛みを知らず、悲しみを知らず、飢えを知らず……これからも、豊かな生活を送ってほしいと願っている」
「まって……」
「どうか、健やかに生きてほしい。小官の手の届かない場所でも、それが叶わないのであれば、いっそのこと――」
「リオッ……!」
その続きはなかった。我に返った理鶯は、夢からぱちんと覚めたようにその手を離した。次の言葉が理鶯の口の中で消滅していくのを、は目で辿る。理鶯はひどく悔やまれる顔で、指で自身の唇に触れている。言ってしまった――そんな音を感じ取れるくらいに。
ああ、もしかすると……彼からずっと感じていたのは。
「……ずっと、閉じこもっていればいいと?」
理鶯は肯定も否定もしなかった。彼は正直者だが聖人ではないから、おそらく前者だろう。分厚い雷雲が被ったように、彼の目は複雑な感情が入り交じっていて、ひどく濁りきっていた。
中華街に行く――がそう言った時、理鶯が言いかけた言葉は、きっとの行動を制するものだったのだろう。行かない方がいい、と。変化は時に自身を滅ぼすことを彼は知っているから。街に繰り出した後も、ふらつく足取りを見守りながら、の口から休みたいという言葉が出るのを待っていた。でなければ、理鶯といえどあんなにも素早く座れる場所を見つけることはできないだろう。
本心を殺してまで、理鶯はこちらの意志を尊重してくれている。正直、苦しそうだ。なぜ、他人に対してそこまで心を傷められるのか。なぜ、彼にとって自分がそういう対象になるのか、理解が出来なかった。
昔、理鶯という男が心底気に食わなかった。遠ざけたかった。軍人だからという理由を抜きにしても、あの嫌悪の炎は凄まじく、の体内を焼き付くさんとばかりに燃え広がっていた。その理由が今、ようやく分かった。
――中身の知れない箱には、誰だって触れたくないだろう。
「あなたは……見返りを求めないでしょう。それが、私は怖いんです。どうしてリオが私にそこまで尽すのか、理解できないから」
双葉が開いたように、理鶯の気配がぱっと目覚める。ギシ、と耳元でマットレスが不気味に鳴る。理鶯の気配がさらに濃くなったのを感じて、はその身を強ばらせた。
「の目には……そう見えるのか」
体に這うような声だった。ゆっくり、しっとり、の四肢をそっと撫でるような。思わず、布団に被っている足を折りたたんだほどだ。そんな色をした声を聞いたことがない。恐ろしさは不思議とない。なのに、胸がざわざわとして、彼から視線が外せなかった。
理鶯の言葉が、重くのしかかる。そして、の手を握る彼の手に、力がこもる。大きな図体とは裏腹に、その力は赤子のように繊細で、柔らかかった。泣きたくなるくらい、眠ってしまいたいくらい……をいつも困らせる、理鶯から向けられる慈愛そのものだった。
「小官は、ほど見返りが欲しいと思った人間に、出会ったことがない」
――刹那のことだ。
ピーッ、と小さな電子音が鳴る。の肩が震えると同時に、理鶯が胸元のマイクのスイッチを切った。ゆっくりと手を離され、その場から立ち上がる理鶯。陸に上がってようやく息ができたように、彼はゆるゆると口から息を吐き出す。それは、熱で荒ぶった何かを鎮めているようにも見えた。
「リオ――」
「今のは忘れてほしい。突然手を掴んでしまい、すまなかった。定時報告の時間なので少し席を外すが、先に消灯してもらって構わない」
理鶯にしては早口で話しているのが、余計にさっきのことは夢ではないのだと思えた。ジャケットを羽織りながら、こちらに投げる言葉もなく、理鶯は部屋から出ていった。ドアのオートロックがかかった音を最後に、部屋からは一切の音が消える。
浅いところで、胸を下ろす。の臀部がずる、とシーツの上を滑り、引きずられるようにして上半身がベッドに預けられた。いざとなれば、あの手はこの腕をへし折ることもできるし、頬を叩くことだってできるのに、どうして、彼はあんな使い方をするのだろう。
困る。とても困る。嫌なら振り解けばいいだけだから、簡単なのに。あんなことをされたら、困る。この逆上せた顔をどうやって冷やせばいいのか、分からないから。
「――。起きろ」
暗闇に馴染んだ低音。もはや聞き慣れた声なのに、それは有無を言わさないものだったので、は反射的にぱちんと目を覚ました。
そこには、やはり理鶯がいた。は眠り眼を擦りながら、薄暗の中で彼の姿を捉える。リオ、とが彼の名前を呟く前に、理鶯は唇の前に人差し指を立てて、こう言った。敵襲だ、と。
「このまま南館の下に降りる。ついてこい」
が疑問を抱く前に、その上から言葉を被せられる。寝起きのが床に足をつけるや否や、理鶯は手首を鷲掴み、部屋を出た。荷物も持たず、靴を履き替える時間すら与えないまま。
寝静まっているホテルの廊下を歩き、エレベーター内の沈黙をくぐり抜けて、ようやく外の空気が吸えた。あいにく雨が降っていて、冷たい雫が体を濡らすたびに、この状況下が現実なのだと思い知らされる。
――寒い。ブランケットかカーディガンか何か羽織ってこればよかった。そんな暇もなく、は理鶯に連れられている。先日、窓際に立っていただけでお節介にも上着を羽織らせてきた、彼に。
――歩幅が大きい。こんなにも、理鶯との歩く速度は違っていただろうか。いや、違う。彼は、いつもこちらに歩幅を合わせてくれていた。理鶯について行くたび、泥水になった地面がパシャンと跳ねて、履きっぱなしで来たルームスリッパがだんだんとその役割を果たさなくなる。
――腕が、痛い。引っ張られている腕はぴんと張り、手首は締め付けられて、血の巡りが悪くなる。気持ちが悪い。あと少しでも力を加えられたら、骨が軋みそうだ。
でも……でも、いまは、緊急事態。たぶん、きっと、大丈夫。リオなら……リオのこの手は、いつだってやさしかった。だから、だから――
「……リオ?」
不意に、音もなく理鶯が振り向いた。もう、こちらに迫る脅威はいいのだろうか。体は雨水で冷え、足の腱は鋭く痛むし、呼吸も整わない。それでも、は彼と繋がっているその手を振りほどかなかった。
――ああ、この感情を“信頼“と名づけるまでに、随分と時間がかかってしまったようだ。
「……愚かな」
……だれが?
の手首に激痛が走る。思わず声が漏れるほど唸り、が顔を歪めながら膝を折ったところで、理鶯はその細い手首ごと地面に押し付けた。
抵抗する頭がなかった。唖然呆然とするだけで、指の一本も動かせない。背中に感じる固い地面の感触と、何年か振りに嗅いだ湿った土の匂いに、頭がまっしろになる。は、理鶯によって押し倒されていた。
喉元に、分厚い手が這う。それは、寝る前に触れていたあの手と何もかもが違った。冷たくて、乱暴で、殺意しかない。の首をぎりっと締めるその力は、彼女のよく知る脅威そのものだった。
どうして、あの国にいた彼らと同じことをするの
どうして、私を優しく包んだ手で首を絞めるの
どうして、あなたは――
「ッ、ぐッ……!!」
“男”の体が横に飛んだ。
突然入ってきた酸素に、は地面の上で思いっきり噎せる。体が泥水に濡れるのも構わず転がり込んで、一頻り発作が治まるのを待った。涙か雨水か分からないものを目頭から拭い、は虚ろな目で周囲を見渡した。
「……、」
……“影”が、立っている。それは、輪郭も色もない。空間を人型に切除したように、そこには“無”があるだけだった。影は、さっきまでいなかった見も知らぬ男の胸ぐらを掴み、片方の手は鋼よりも硬そうな拳を作っていた。
の視線に気づいた影は、意識不明になった男をぞんざいに地面に落とし、ゆっくりとこちらに近づいてくる。獲物を狙うハンターのように。標的を捉えた殺人鬼のように。背筋が凍って身動きが取れないは、未だ荒ぶる呼吸を整えるので精一杯だった。
「、」
影は、頻りにの名前を口にする。雨の音に交じって耳に届くその音は雑音がかっていて、さらに不気味さを増した。四肢を動かせば、膝と手の甲に鋭い痛みが走る。どうやら、地面に倒された拍子に擦り傷ができたようだった。そのあいだにも、影がこちらに近づいてくるのを悟って、は咄嗟に胸元からナイフを取り出した。
「こな、ぃでッ……!!」
この際、枯れきった喉が裂けても構わなかった。決死の叫びに、影は静止する。理鶯からもらったナイフは持ち手側の先端を押すと、鋭利な刃が飛び出した。はそれを影の前に突きつけ、その瞳の奥には生存本能を宿した。
自分が、敵うわけがない。だから、隙を見つけて逃げ出そうとした。
また、呼吸が荒くなる。目眩すらしてきて、口の中は電気が走ったように痺れる。意識が深いところに沈んでいってもなお、
「……」
影が蠢く。それを切り口に、は声にならない音を上げて、立ち上がった。もう二度と、自分の生を脅かされたくない。やられるがままは、もういやだ。その術を教えてくれた彼に背中を押され気分になって、は、その切っ先を影に向かって突き出した。
地面を殴りつけるような豪雨が暗空を切っている。
いつの間に、こんな大雨になったのだろうか。乾いた紙を破くような激しい雨音に、は耳を塞ぎたくなった。ゆっくりと目を開けて状況を確認しようとするも、ひどく頭が重たくて、視界がぼやけてしまった。
私はなにを……そう、変な影が近づいてきて、動けなくて、慌ててナイフを出して、それから――
「……目が、覚めたか」
つん、と臭ってきた鉄のにおいと共に、頭上から平坦な声が降ってくる。曖昧な意識の中で五感が拾い上げた情報に、の思考は徐々に加速していった。
の背中と正面を覆うように被さっている熱。体に当たる雨は相変わらず冷たいのに、それらのおかげで寒さはあまり感じなかった。
とくん……とくん。のものではない鼓動が、熱に押し付けた頬を介して伝わってくる。は地面に腰を下ろし、理鶯に正面から抱きとめられていた。
「り、お……?」
どうして……リオのお腹から血が出ているの
あの国で、負傷していた彼と重なる。あの時も、今のように雨が降っていた。ただ違うのは、血が流れている部位とお互いの体制……そして、その時には“なかったもの”が在ること。理鶯の腹を刺しているナイフと、それを力強く握っているの両手。雨に混じった生暖かい血液が、の手首からぽたりと垂れていた。
――ひゅッ、と音を立てて息を吸い込む。は咄嗟に両手を離そうとするも、伸びてきた理鶯の手によってそれは制された。ナイフの刃がまたさらにぐッ、と深く腹にめり込んだ感触がして、はたちまち目が回った。
「な、なん、でっ、ど、して……ッ」
「大丈夫だ。。落ち着いてほしい。幻惑系の、ヒプノシスマイクの影響で、は、先程まで敵が見せていた幻覚に、囚われていた」
「幻覚なんて知らないッ……。私はっ、リオに連れられて外に出ただけッ……! っ、離して、その手を離して……ッ!!」
「小官は、を外に連れ出していない。定時報告から戻ってきたら……部屋にの姿はなかった」
理鶯が喋る度に、握っているナイフが蠢く。幻惑系って、なに。幻覚って、いつから。は乱れるばかり呼吸で、二つの肺が焼け落ちてしまいそうだった。
――「。起きろ」
――「このまま南館の下に降りる。ついてこい」
……そう。リオは、決して命令口調でものを言わない。私が昔、その願いを口にして以来、ぜったいに
――「命令、しないで……っ。私は……私達は、あなた達の所有物じゃない……ッ!!」
――「このタグに誓って、小官がの傍にいるあいだは、貴女の自由を約束しよう」
また、息が止まる。は再度ナイフから手を離そうとするも、理鶯の手がそれを許さない。体をも離さないというように、もう一方の手は変わらずの背中に回されていた。ナイフで腹を刺されているのに、どこからこんな力が湧いてくるのか――今は考えている余裕はなかった。
……やさしい手だった。本物だ。をいつも困らせる、彼の暖かい心そのものだった。
「このままで、いい。急所は外したが、抜くと……余計に出血して、致死量になってしまう。浅いところに刺さっているので……が手を離せば、すぐに抜けてしまう」
「ならあなたは朝までこのままでいるつもりなの……!?」
「すまない……。定例報告が、長引き、を、危険に晒してしまった」
「そんなこと今は聞いてない……!!」
どうして避けなかったの。あなたなら、こんな小さなナイフくらいかわせたはずなのに――気が動転しているせいで母国語で零れた小さな声だったのに、彼の耳は器用にその音を拾った。
「避ければ、を混乱させると推測した。を覚醒させることを……最優先として、最善の行動をとった」
遠くで、サイレンの音が聞こえる。声が遠くなる。なにが最善だ。それでリオが傷ついていたら、意味がない。
「銃兎には……先程連絡した。時期に警察が来て、あそこで倒れている男も……他の仲間達も、捕えられるだろう」切れ切れに紡ぐ言葉が痛々しい。理鶯の呼吸は長く、浅い。おそらく血の巡りを抑えるためだろう。が動けば、理鶯の血がどっと溢れる。じっともしていられず、かといって暴れるわけにもいかない。にとって、それは飢餓を味わった時よりも地獄だった。
「そういえば……あの時も、雨が降っていたな。あいにく、今回は腰紐はないが……」
「リオは黙っててッ……! また血が――ッ」
「今なら、分かる。やはり……あの時の暖かい手は、のものだ」
美しく、繊細な……の手だ。
分からない。彼が私に尽くす理由も、私が幸せにならなければいけない理由も。少なくとも、恩を仇で返す女なんて、夜と共に消えてしまえばいい。そんな幻想の中でさえ、朝日の下に引っ張ってくる存在があって、は静かに涙を流した。
