Episode.6
“撮影”は楽しかった。
女は――鈴はきまって、何か想像してみてと言う。ある時は緑豊かな森林の中、ある時は地面が枯れた荒野の中心に自分がいて、その時の空の色、空気の味をも自分でつくりあげて、深呼吸をする。すると、その情景に合った匂いがしてくるような感じがするのだから不思議だ。その世界に没頭した瞬間、バシャッと水を叩いたような音とともに、フラッシュが生まれる。我に返って正面を見ると、カメラマンである彼女は満足気に笑って、指でオッケーのサインを作っているのだ。
渡される衣装は色鮮やかなものばかりだ。その色によって、が創りあげる世界も違う。胡粉色なら荒んだ荒地、薄青色なら氷雪の大地、実際見たことない風景に思いを馳せるのは、両の羽を広げるようで、とても自由だった。
――「私は、あなたの純粋さも買ってるのよ」
まだ、女の体以外に、自分の価値を見いだせないでいる。それでも、確実に一歩……鳥籠の外から出ようと踏み出している自分がいた。
「はい。お賃金」
は目を丸くした。
いつもなら、撮影が終了すればスタジオを出るだけだが、今日は違った。“お試し期間”の最終日ということもあって、決して薄くはない厚さの茶封筒を鈴から手渡されたのだ。
鈴と封筒を見比べて、は蛇のいる穴のように、封筒をそうっと覗き込みながら中身を取り出した。出てきたのは札束。枚数を数えると、それは工場で半年働いただけのお金が入っていた。
「気を遣うと思ってそのくらいにしたけど、もし足りないということであればその倍出すわ。あ、そういえば理鶯君にもあげなくちゃね。機材運びとか手伝ってくれたから――」
「スズっ」
「なあに?」鈴は穏やかな笑みを浮かべながらを見つめている。嘘も冗談も含まれていない顔だ。しかし、今はそれがとても困っていた。
「楽しかった。撮られている時、すごく……楽しかったの。だから、これは受け取れない。私は、あなたにこの金額に見合う対価を払ってない」
鈴は一瞬目を大きくさせたが、すぐにそれは細められる。には意味が分からなかった。なぜ、おつかいのお釣りを子供にあげる母親のような、そんな優しい顔をするのだろうと。
「もらったわよ。十分ね。あなたがこの仕事に楽しさを見いだしてくれたこと、とても嬉しかったわ。私も芸術家としていい刺激になった。あなたがこの仕事を選んでくれなくても文句はない」
「但是、但是――っ」
「。どうかしたのか」
背後から聞こえてきた声には振り向く。理鶯だ。今まで機材を運んでいたのか、迷彩柄のジャケットは腰に巻かれ、太くて強剛そうな腕が露になっている。タンクトップ姿の理鶯になぜか一瞬思考が止まりつつも、は理鶯に向かってわっと言い放つ。
「リオっ、告訴你っ。我不要這個、她說她會給兩次――ッ」
「。少し落ち着いてほしい。早口で何を言っているのか理解できない」
リオからも言ってほしい。私はこんなこと望んでいないのに、スズは聞いてくれない――たどたどしい日本語で改めて言うが、理鶯は首を傾げながらと鈴を見比べるだけだった。
「理鶯君に助けてもらっては駄目よ。これは形に残るお礼。このお金で彼とデートにでも行ってきなさいな」
デートとはなんだ。今はスマホで検索する余裕もない。何か言える言葉もなく、は金魚のように口をぱくぱくと開閉するばかり。そのあいだに、鈴と理鶯の間でトントン拍子に話が進んでいく。
「理鶯君もありがとう。機材とか運んでくれて。人手が足りなかったから助かったわ。これはあなた分のお給金」
「いや、これはに渡してほしい。小官は彼女に付き添っていただけだからな」
「リオっ!」
「あらそう? じゃあ一緒に入れておくわね」
さらに分厚くなった封筒がの手元に戻ってくる。これでは状況が悪化しただけだ。はぶんぶんと首を横に振りながら、鈴に否と訴える。ここには、の味方は一人もいないのだと分かっていても、だ。
「これを機に学んでちょうだい。あなたの外見と中身には、それだけの価値があるということ。自分を疎かにしてはだめ。まずは、自分のことを自分で好きにならなくちゃ」
鈴の細い指で額をこつん、と弾かれて、は静止した。まるで、今までの人生を見透かされているようだった。
封筒に皺ができるくらい、はそれをぐっと握り締める。昔なら、喉から手が出るほど欲しかったものなのに、今はこの金額に見合うくらいの自分の価値を欲している。それもこれも、生きることに余裕がでてきたからだ。それは良いことであるはずなのに、様々な色に入り交じった感情が、の手のひらから溢れてしまって仕方がなかった。
「今日はこのままあがっていいわ。数日間、どうもありがとう」
「ああ。こちらこそ、が世話になった。今後のことについては彼女自身が判断するだろう」
――また、先に言われてしまった。頭ではその五文字が浮かぶのに、喉元にはやって来ない。私は、非情な人間だ。人生の分岐点を与えてくれた彼女に、お礼の一つも言えないなんて。
が状況を飲み込む前に、理鶯に連れられて後にしたスタジオ。後ろを振り返ると、未だにこちらに手を振っている鈴が見えて、は苦しそうに口元をゆがめた。
目の前で、噴水がわっと湧く。とある公園のベンチに座ったは、お札を何度も数えている。それでも、その枚数が最初の数から減ることはなかった。
「(我該怎麼辦……)」
お金の使い道が分からない。あれだけ欲しかったものが、今手元に十分にある。同居人と折半している家賃と諸々の生活を差し引いても、まだ手に余ってしまう金額はの身には重すぎた。
以前の自分は、何が欲しかったんだろう。明日のご飯はある。屋根付きの家もある。それ以外に欲しいものなんて、他に考えたことがなかった。
「……リオ」
「なんだ」
「あなたなら、このお金で何をしますか」
理鶯はの手の中にある封筒に視線を落とす。彼は一考する様子を見せたが、表情は変わらなかった。
「この額では、小官の望みは叶わない。自分の力でどうにかしなければいけないことばかりだからな」
「……変わってる」
「それはよく言われるが、なぜだろうか。理由を教えてもらえると助かる」
「助からなくていい」
「そうか。なら自力で答えを探すことにしよう」
そういうところですよ。話の終わりが見えなくなるので、は口を噤んだ。理鶯から答えらしい答えを期待していたわけではないが、この大金をちらつかせても彼らしい回答が聞けて、少しだけ安堵した自分がいた。
……ふと、一つのワゴン車が噴水の向こう側で止まるのが見えた。ファンシーな外装と徐々に香ってくる甘い匂い。あれは……前に見たことがある。車の側面に記されたロゴに、の胸がわっと騒いだ。
「?」
クレープ屋だ。クレープが、ある。それも、同居人が「ここのお店のクレープ、すごく美味しいみたいだよ!」と言っていたお店だ。カランカラン、と営業開始のベルが鳴り、公園に歩いていた人達の目線を奪う。昼も折り返しで、間食するにはうってつけの時間。近いうちに行列ができるだろう。
列もまばらで、今ならすんなり買える。同居人がいないのが惜しいところだが、好物を欲す本能には抗えない。浮きそうになる腰を懸命にベンチに押さえつけながら、はワゴン車の前に人の列ができていく様をじっと見つめていた。
「……欲しいのか」
落ちてきた声。その声に、頷くか迷う。は忍ぶようにして彼を見上げると、そこには何かに耐えているような理鶯の顔があった。
「……リオ?」
「なんだ」
「どうかしたの」
「なんのことだろうか」
「今まで見たことないような顔、してる」
理鶯だって、自覚がないわけではないだろうに。いつもから隕石が降ってきても動じなさそうな硬い表情をしているのに、今は、顔の中央に何かしら力が集められているようにぎゅっと絞られている。
……顔を、顰めている。あのリオが。は彼とクレープ屋を見比べて、一つ合点がいったことがあった。
「あの匂い、嫌い?」
「嫌いではない」
「なら、苦手?」
この場合の沈黙は肯定だろう。頑固者、と心の中で悪態をついたは深々と息を吐いた。
「ここから離れましょう。体調が悪くなってからだと遅いので」
「問題ない。それより、はあれが食べたいのだろう。小官が買ってこよう」
「この距離で顔を顰めている人に頼めません。それに、そんな人の隣でクレープが食べられるものですか」
そもそも、あれは同居人と一緒に食べると約束している。一人で食べても美味しくない。誰かと食事をする喜びをはすでに知っていた。
それでも、理鶯はが思っている以上にテコでも動かない石だった。理鶯はどこか挑戦的な顔をしながらすくっと立ち上がった。
「はここで待っていてほしい」
「リオッ」
脱兎の如くワゴンへ入っていった理鶯。そして最後尾に並び始めた様を見て、は溜息をつく。あの大男がファンシーなワゴンの前にいるのは異様すぎる。周りからも刺すような視線を集めていて、彼と知人であるこちらが恥ずかしい思いをした。
しばらくして戻ってきた理鶯の手には、不本意ながらクレープがあった。持ち帰り用にビニール製のバルーンに入って。両手で大切そうに持っていたそれを渡されると、彼の険しい表情に反して、の心はふわっと浮き足立った。柔らかそうな生地に苺と生クリームがぎっしり詰まっているのを見ると、それは小躍りまでしてみせた。
――私の、一番好きなもの。理鶯を見上げると、彼はどこかやりきった顔でいる。
「一番人気と書いてあったものを買ってきた」
なるほど。たしかにそれは間違いないだろう。
再び、理鶯はベンチに腰を下ろす。さきほどよりは顔の皺が減っているが、には彼の強がりに映った。さっきよりも匂いがより濃くなって食欲をそそるが、理鶯にとっては毒だろう。
「もう行きましょう。これはホテルで食べます」
「、小官に気遣いは不要だ。遠慮なく食べるといい」
「リオ」
「不要だ」
しばらく無言の攻防が続いていたが、折れたのはだった。好物を目の前にして、幾分か天秤が有利に傾いてしまった。
バルーンを割ると、苺の甘酸っぱい香りがわっと飛び込んでくる。包装紙の上からクレープを手に取ると、分厚い生地とたっぷりの生クリームの質感が手のひらに伝わった。紙をぺりぺりと破って、一口食む。溢れそうになる生クリームを舌先で掬いながら、舌全体に広がった甘酸っぱい味に思わず目元がゆるっと垂れて、口角がじわっと上を向いた。
……こんな近距離で食べていて、彼は平気だろうか。隣を盗み見ると、あろうことか理鶯はこちらを凝視していた。さっきまで苦しそうにしていたくせに、その眼光は太く強いものだから、は居心地が悪くなった。
「……そんなに見られると、食べ辛いのですが」
「すまない。ずいぶんと美味しそうに食べるのだな、と」
「日本に来て、初めて食べたものだから」
「はそれが好きなのか」
「……すき」
「そうか」
会話は終わるが、理鶯からの視線は刺さったままだ。生クリームを舌の上で転がしながら、は味覚に神経を集中させた。彼に何か言うよりも、自分がこれを食べてしまった方が早いと思った。
美味しい。甘い。甘酸っぱい。食感も、風味も、全部好きだ。こういうふうに、好きなものを少しずつ増えていけば、持て余していた自由も喜ぶのだろうか。
そして、が最後の一口を頬張ろうとした時、今まで黙っていた理鶯が静かに口を開いた。
「……小官は、甘味をあまり好んで食べないし、目に映すのも躊躇してしまうのだが」
は内心でやっぱり、と呟いて、包装紙をぺりぺりとめくる。それでも、耳だけは理鶯の方に向いていた。
「がそれを食べている姿は、ずっと見ていたくなるな」
――ビリッ、と紙が一際大きな音を立てた。
隣を、見てはいけない。熱の上がった顔がそう訴えていた。は聞こえていないふりをして、最後の一口を頬張ったが、理鶯のせいでそれは無味無臭だった。
役目を終えた包装紙を丸めて、手のひらの中に収める。小官が捨ててこよう、という理鶯の提案を断って、は一人ゴミ箱の傍に寄って、それを捨てた。その後ろを、小さな子供が走り回ったので、はふと公園全体を見回した。
……随分と、人が多くなった。特に子供連れがの母親の姿が目立って、噴水の前では小さな子が遊んでいる。その横には、地面から噴き上がるタイプのものもあって、その周りにはさらに多くの子供がいた。
幼子は動くものに目を奪われるもの――水に濡れるのも嬉しいと言わんばかりに、子供達の笑顔が絶えない。姿かたちの変わる水の舞を、は風景としてぼんやりと映していた。
……早く戻ろう。理鶯が待つベンチに駆け寄ると、それこそ幼子のように、風景に穴が空いてしまいそうな目で噴水を見つめている理鶯がいた。
すぐ隣に来ても反応はない。呼びかけようか悩んでいる時にようやく彼がこちらに気づいたので、は噴水を見ながらこう言った。
「リオも、あの中に入りたいと思いますか」
「なぜそう思う」
「分からない」
同居人の言葉を借りるなら、なんとなく、だろうか。すると、理鶯は噴水を一瞥して、首を横に振る。
「水と戯れるのも魅力的に見えるが、どちらかというと、海の上にいる方が落ち着く」
「海の上……?」
「ああ。陸地での生活も長くなるが、時々、足元が揺れている感覚が恋しくなる」
ぱちん、ぱちん――今まで、彼の本質を隠していた泡が次々に弾けた。
は息を呑む。目の前をあぶくが覆って、気がついたらここは海の中。理鶯は我が世界のように自由に泳いで、水と触れ合っている。
そして……その手には鋭利な刃物と長銃が握られている。あの国にいた陸軍のように。を虐げてきた男達のように。
「?」
違うと、否定してしまいたい。彼は確かに軍人だが、を脅かしていた彼らとは違う。しかし、彼の物言いが、服装が、それを決定づける。どんな形であれ、理鶯が軍人である以上、彼のことを――
「……あなたが、軍人でなければよかったのに」
ほろりと零れた言葉が、せめて母国語だったなら。
降りた沈黙に、は我に返る。理鶯が薄青の瞳を丸くしてこちらを見上げているのが分かった。はぐっと拳をつくって、噴水から目を逸らした。
「ごめんなさい。あなたを否定するようなことを言った」
「――」
「帰りましょう。ホテルまで、連れて行って」
聞かないでほしい。なにも。そういう意味で話を切る。こうしてお願いしたら、彼は言ってくれる。が望む言葉を。彼なら、そうしてくれると信頼している。いや、期待するようになってしまった。
――矛盾していた。軍人は忌み嫌うものなのに、彼のもう一つの本質がを柔く包み込んで、離さない。あの国で別れて二度と出逢わなかったら、こんな一面を知ることはなかったのに。拮抗する二つの思いに、気づくこともなかったのに。
「……承知した」
ちがう。彼は、何も変わらない。あの国にいてこのやり取りをしたとしても、彼はきっと同じことを言うだろう。
難なく答えた理鶯はベンチから立ち上がる。の声のない叫びが届いたのか、道中、彼は一言も口を開かなかった。元来無口である理鶯が、意図的に口を閉じていると分かるくらいには。
の見えていない理鶯の一部は、きっと海の底に眠っている。彼が帰ってくるのを待ち侘びている。国を守るために戦うことを望んでいる。
は想像する。痺れを切らした青い悪魔が波となって、理鶯を攫う。そして、おぞましく思った。のまれていく彼を見て、一瞬……ほんの一瞬だけ、彼に向かって、の指先がぴくりと伸びたことに。
