Episode.5



「正直、あまり自信なかったの」

 女はそう言いながら、未だ建設中のスタジオの奥に併設された事務所にと理鶯を通した。そこにあるものといえば、四人がけのテーブルとソファーしか置かれていなかったが、壁を覆いつくさんとばかりに飾ってある写真たちは、どれも異世界に繋がっている窓のようで、の視線を次々に奪っていった。
 一昨日ぶりに訪れた中華街は、の心の中を変わらず掻き乱した。街中に毒ガスが充満しているかのように顔を強ばらせながら、は女と出会ったテナントまでなんとか足を運んだのだ。昨日は一日中ホテルで名刺とにらめっこしを、今朝方、は名刺を握りしめながら理鶯に言った。彼女ともう一度会って、話だけでも聞きたいと。
 理鶯は快く頷いた。まずは名刺の主に連絡を取り、互いの時間の都合を合わせて、訪問。追い返されるとは思っていなかったものの、思っていた以上に女は快く二人を迎え入れてくれた。
 目の前に置かれたコーヒーと洋菓子。冒頭の彼女の台詞に、は首を傾げた。

「自信……?」
「ええ。あの時は突然話しかけてしまったから、第一印象最悪だったわって。だから、連絡くれた時は本当に嬉しかったの。ありがとう」

 聞き慣れない単語が耳に入ってきて、はそれを飲み込むまでに時間がかかった。なぜ、彼女は、いま、お礼を言ったんだろう。とにかく、後味が苦手に思って、は瞬きを繰り返す。体がむずむずとして、この違和感を言葉にして今すぐ吐き出してしまいたい。しかしも、何を言っていいのかまったく分からない。
 険しい顔になったを見て、今度は女が首を傾げる番だった。そして、の真横で番犬のように座る理鶯に問うた。

「わたし、何か失礼なこと言っちゃった?」
「……

 理鶯の呼び掛けに、ははた、と我に返る。平気か、と目線だけで理鶯にそう訴えられていることに気づいて、一つ、ゆっくりと頷く。
 は喉をぐっと緩め、息を吐きながらたどたどしく唇を動かした。

「日本語……。まだ、そんなに上手く話せない」
「あら、充分上手よ? でも、分からない言葉があったら彼に聞いてね。あなた、中国語できる? 私、少ししかできないの」
「完全ではないが、一通り習得しているつもりだ」
「じゃあお願いね。さんも、気分が悪くなったら言ってちょうだい」

 女は、さっそくテーブルの上に複数の冊子を滑らせた。
 女は写真家だった。各国の民族衣装を現代風にアレンジして、衣装に見合う場面をセッティングし、一枚の写真に収める。たしかに、どの写真も独特の世界観をつくりだしていて、過去か現在か判別しがたい不思議な空間だった。
 個展もいくつか経験があり、彼女がプロデュースした衣装も、一部の業界では人気を博しているらしい。

「そこに写ってくれている子達は、現地に行って、その場でモデルをお願いした子がほとんどなの」

 女の声を受けて、はその冊子の一ページをめくった。
 それは、ポートフォリオと呼ばれる作品集の一種らしい。本来ならば、クリエイターが就職活動において、採用企業側に自分をアピールするために提示するものだが、この仕事を説明する上で手っ取り早いというのが女の見解だった。
 ページを開くと、の知らない世界ばかりが飛び込んでくる。牧場で軽やかに踊る、襟に鮮やかな刺繍を施した少女。頭には鳥の羽、左肩に藁を被せて荒野に向かって叫んでいる青年――この写真達に、どんなメッセージが込められているのか分からないが、どの“絵”もページをめくる手が止まるほど、思わず見入ってしまうものだった。

「色々な国を回ったわ。ガーナ、フィリピン、メキシコ、オランダ……どの国もその土地ならではの伝統があって、とても興味深かった」

 そして、私が次にプロデュースしたいのはこの国よ
 女はさらに資料を出す。そこには、あのショールームの中にあったような衣装がずらりと並んでいる。アオザイ、チャイナドレス、漢服――どれも彩り豊かで、の目の前でちかちかと星が舞った。
 女のいう“国”がなんたるか、は察した。しかし、これらを着ていた女は大概男に媚びへつらい、“その場”を盛り上げるために身につけている印象があるせいか、さっきの写真達よりも感動は薄かった。
 ……嫌な思い出だ。過去の記憶がまざまざと蘇ってきて、いらないものを出すまいと蓋をする。生唾をのんで、は膝の上で拳を作った。

「中国は少数民族国家だから、民族ごとに衣装は異なるわ。いつもなら現地に行ってその場でモデルを探すんだけれど、衣装ごとにそんなことしてたらキリがないし、私が理想とする作品が作れないの」
「……あの国に、行くの」
「本来ならね。でも、他の仕事の兼ね合いもあって、これからの撮影場所は日本に固定することにしたのよ。だからこそ、この国でこの子達の良さを引き立ててくれる人材を探してるの」

 衣装が掲載されている資料を指先で愛でながら、恍惚とした顔をする女。金や性――この衣服に集まる人間には、きまって粘着質な欲が付き纏っていたが、目の前の彼女は、今まで見た人間とは何もかもが違った。
 ……分からない。には、この女の真意が。

「……あなたは、その仕事をして何を得ようとしているの」

 の言葉を聞いた女は目を丸くする。「何を得る、ねぇ……。初めて聞かれたわ」そう言って腕を組んだ女は一考した後、ぴん、と閃いたように顔を上げた。

「性癖ね」
「せぃー、へき?」
「その人間に現出するこだわりや嗜好のことだ」

 横で理鶯が説明したことを、は腑に落ちない顔で頭の中で巡らせてみる。それでも、やはり喉の奥につっかかってしまって上手く飲み込めなかった。

「子供の頃から好きなのよ。国問わず、昔使われていた道具とか、風習とか、そういうの。特に衣装ね。個展の時は、過去から切り抜いたみたいに額縁の中に過去の世界が広がってるのを見ると、まるでタイムスリップしたような気持ちになれるの」
「タィム、スリップ……」
「ええ。もしも過去に生きた人間がこの厳しい現代社会でどんなことを思って、主張して、生き延びるのか、自分の手で表現したかった」

 「まあ要するに、この仕事そのものが好きだからよ」女はなんともないように言って、目の前にあるコーヒーを一口飲んだ。
 好きだから――名刺を受け取った夜、理鶯も似たようなことを言っていた。そんな理由で、金銭を稼ぐ手段を選んでいいのだろうか。お金はあるに越したことはないし、安全であればあるほど、明日の命は保証される。そんなことよりも、好きだからという安易な理由に、明日の自分を託していいのだろうか。

「好きだから……する……」
「ええ。あなたにとって、そういうものはない?」

 嫌いなものなら、沢山あった。生きながら、それらを避けてきた。好きなものを考える余裕などなかったから。しかし、今はちがう。
 紙の上でペンが滑る音、同居人が作るご飯、秋の紅葉、クレープ……あと、それから……それから――?

さんは、日本に来てどれくらい?」
「二年と、少し」
「二年? それにしては本当に日本語が上手ね」
「……あの国で、人には言えないようなことを、ずっとしてきた」

 意味深なことを言ったのにも関わらず、女は何かを問うことはせず、「そう、」とだけ零して、ティーカップをテーブルの上に置いた。

「……会ってまもなくで図々しいけど、さんに足りないのは経験だと思うわ」
「経験……?」
「きっと、慎重な性格なのね。石橋を叩いているうちに橋が壊れてしまうタイプ。この仕事を引き受けるにしろ引き受けないにしろ、何かをやっていくうちに、その何かのことを好きになることだってあるってことも知ってほしいの」

 石橋のくだりは意味がよく分からなかったが、慎重という言葉は初めて言われた。会ってまもない人間の言うことは信用しづらいが、女の微笑みを見て、その言葉はの胸にすとんと落ちてきた。

「余裕がない時に決断するのは確かにお勧めしないわ。でも、嫌じゃなければやってみる。嫌ならやめればいいだけの話だし、やめるっていう選択肢も逃げじゃなくて、元の道に戻るだけ。それが、新しいことを始めるコツよ」

 恐れを知らないことは、悪いことばかりじゃないの
 の世界が、いとも簡単に書き換えられていく。自分の中の法律としてあった常識が、目まぐるしく変わっていく。今まで許さなかったことが受容されていく。きたないやり方で金銭を稼いできた自分は、何かを選ぶ権利などないと。手短なところで妥協して、藁を掴む気持ちで何かを選択するしかないのだと……そう、思っていたのに。
 まるで、普通の人のように与えられた自由を謳歌していいように、彼女は言う。は、薄く、長く、息を吐いた。知らない言葉を反復して、覚える時みたいに。

「……さて、ここからは真面目な話になるけど、簡単な話、あなたには私の専属のモデルになってもらいたいの。お給金は相応の額を払うわ。価値のあるものを作るのはあたしの仕事。あなたにはその手助けをしてほしい」
「手助け……?」
「モデルっていったら雑誌に大々的に載るイメージがあるけど、それはないから安心して。私は、あなたに可愛い服を着てもらって、自分の作品として形に残したいだけ。だから、私の作品以外にあなたを公の場には出さないっていうことは約束するし、日本以外の国では撮らない。もちろん、あなたが嫌と思うことは都度言ってもらえれば考慮するわ」

 女の言葉は石のように硬い。それだけ強い意志を感じて、も体が力んだ。この人は、どこまでこちらの気持ちを汲みとってくれているのだろう。
 その他、交通費や福利厚生諸々の説明を受けて、「これまでが大まかな概要だけれど……」と女の目はを捉えた。

「ちなみにさん、モデルの経験は?」
「……ない」
「えっ、本当? 顔も整ってるし、身体のラインも綺麗なのに。街中で声かけられたりもしなかった?」

 女に問われて、はふと思い出す。同居人の付き添いでヨコハマの街を歩いていた時、男女問わず声をかけられたことは度々ある。訳の分からない話をされたのが怖くて、同居人の背中にずっと隠れていたが。
 同居人が話をつけてくれた後、「さんよかったの? 今の読モのスカウトだったよ? ほんとによかったの?」と頻りに尋ねてくれた。あれが……もしかして、そうなのだろうか。

「……そういうこともあったかもしれない。けど、人前に晒されるのは、あまり好きじゃないから」
「なるほどね」
「あと、愛想も、良い方じゃない。だから、あなたが私を気にかける理由が、よく分からない」
「あら、それは簡単ね。あなたが好きだからよ」

 きっぱりと言い放った後、は目が点になる。女はからかうように笑んだ。

「媚びらないところが余計に気に入ったわ。言っておくけど、これは商売じゃないから私に対してはどんな風に接してもらっても問題ないわ。私のことは近所のお姉さんくらいに思ってちょうだい」
「どう、して……」
「だって、私は芸術家アーティストだもの。正直、お金よりも世間からの称賛が欲しい。だから、あなたには私の作り上げる世界の中で好きに生きてほしいの。私はあなたの容姿だけじゃなくて、その純粋さも買ってるのよ」

 何者からの侵入もゆるさなかった。二度と他人なんかに蹂躙されるものかと気を張って生きていた。そんな強がりがつくりあげた氷の壁が、みるみるうちに融けていく。
 ――好きに、生きていいと。この人は言っている。
 しかし、こんなにも簡単に信じて、判断していいものか。女に返事を出そうと開いた口は寸のところで躊躇して、結局閉じてしまった。
 そんなを見かねた女は内緒話をするように人差し指を立てて、唇の前にそっと当てた。「じゃあ、こういうのはどう?」

「まずは数日間だけ、あなたのことを撮らせてほしいの。お試し期間というか、インターンみたいなものね。話に聞いてたのと違うなら、その日のうちにやめてもらっていいわ。待遇が嫌でも……あ、でもそこは要相談って形にしてもいい? 出来うる限り、私もあなたの要望に添いたいから」

 が迷っていることを察しての言葉だと、すぐに理解できた。は、隣に座る理鶯を見る。彼は薄青の目を曇らせたりはせず、敵意のない目でまっすぐ女を見つめていた。
 の視線に気がつくと、理鶯はこちらを見下ろす。彼女への眼差しがぎらつく夏の太陽ならば、今は春の午睡を連想させるような穏やかなものだった。
 微かに頷いた彼を見て、は女にぎこちなく頭を下げた。

「……なら、数日間、私を使ってほしい」
「使うんじゃなくて“雇う”の。そんな自分をものみたいに言わないで。はい、やり直し」
「……やとって、ほしい?」
「はい、採用! というか、元々は私がお願いしている側なんだけどね」

 途端に女は体の力を抜いて、テーブルに広げた資料をせっせと片付け始める。見るからに安堵の表情だった。この街を探せば、自分のような人間はいくらでもいそうなものなのに、最初から最後まで不思議な人だ。
 「でも、驚いたわ」と女が唐突に言葉を発する。その時、彼女はではなく理鶯に目線を傾けていた。

「MTCのCrazy Mに恋人がいただなんて。世間に知れたらメディアの餌場よ?」
「恋人? が?」
「あら、違った? 昨日から否定しないからそうかと思ってたけど」

 コイ……ビト?
 こい、ビト、こい人、恋人――言葉を反芻して、理解するために余計なものを振るいにかけていく。残ったのは恋人の二文字。
 かあッと首から上に熱が集まる。は思わずソファーから立ち上がって、普段冷静を保っている声を雑に荒らげた。

「違っ――ちがう……! 彼は――っ」
は昔馴染みだ。貴女が思っているような関係ではない」

 すぱん、と。風を切るように理鶯が言う。ひややかで、それでいて棘のない物言いに、沸騰した顔が冷めていく。「あらそう? それは失礼したわ」と、女も言葉の割には悪びれていない声色でそう言って、やけにしんとした沈黙が降りた。
 ――彼は、なに。その後は? 私は、いま、何を言おうとしていたの
 その何かが自分の中で用意されていなかったことに、ようやく気づく。彼は、理鶯は、自分にとってなんだ。中華街までついてきてくれた人間。今、自分の護衛を任されている男。昔、成り行きで顔を知っただけの仲。
 ……ほんとうに、それだけ?
 それ以上の何かが、彼との間にある気がする。しかし、それがなんなのか、さらに言えば、どうしてそんなことを考えるのかも分からなくて、はソファーに座り直した後も、理鶯の言葉を心の中で呟いてばかりいた。







 その日は、あっという間に時間が過ぎていった。
 女との仮契約を結んだ後、事務所で過ごす時間は続いた。むしろ、それが本命のように。「そうと決まれば、今日からさっそくレクチャーしていってもいいかしら?」と、メジャーを片手に持った彼女に興奮気味に言われて、は是非もなく頷くしかなかったのだ。
 体型維持のために今後の食生活やストレッチ、加えてスキンケア方法など、あれやこれやと指導を受け、最終的にそれらを一枚の紙にまとめてびっしりと書いて渡してくれた。正直ちんぷんかんぷんだったが、とりあえず、手間とお金がかかることということだけは分かった。
 よく考えれば、公の場に晒される媒体に載るのは、今の状況的にあまりよくないことだと思った。人身取引をしていた人達の格好の餌ではないかと。しかし、そんな心配はすぐに杞憂に終わった。

を守るのが小官の役目だ。は好きなことをするといい」

 あの理鶯がここまで短絡的なのだ。新しい環境に適応するのに精一杯だったは考えることをやめた。
 女のレクシャーの後は、手始めにということで撮影用のメイクを施され、一着の漢服を身に纏った。スタジオは来月末に完成するそうなので、今は事務所でできる範囲の設備で撮影を行うことになった。以前、自分があの国で身につけていたものと形は同じだが、生地といい装飾といい色合いといい、あんな布切れとは何もかもが比べ物にならなかった。

「……やっぱり、本場の人間が着ると違うわね」

 試着室から出ると、うっとりとした表情をした女にそんなことを言われる。どこかむず痒くて、無言を貫いてしまっただったが、女はさして気にしないとばかりに機器のセッティングを始めた。褒められていることは分かるが、どうしてもあの華美な館にいた娼婦たちを思い出してしまって、手放しでは喜べないところがある。
 女が嬉々として作業に励んでいる中、は事務所の隅にぽつんと立っている。ふと、壁際に立っている理鶯の様子を窺うと、彼もまたこちらを見据えていたので、首を傾げた。
 ――なに。視線で理鶯に訴える。すると、ぱち、と夢から覚めたように彼の目の色が変わった。

「……すまない。あまりにも綺麗だったものだから見惚れていた」
「……は、」

 太陽から分離した熱の塊が、胸の中でばちんと弾けるように。マグマのように溶けだしたそれは、指の先にまで侵食していって、下腹部にがつんとした熱を孕んだ。鏡を見なくても、自分の顔色が一発で当てられるくらいには。
 なに……これ。こんなの、しらない。は呼吸を止める勢いで片手で口を覆う。不可思議な動きをしたを見た理鶯は、どこか不安げな雰囲気を纏いながら一歩距離を縮めた。

、大丈夫か。吐き気があるのなら今すぐに――」
「今日一日、私に話しかけないで」
「む」

 「なぜだ」「せめて理由を教えてくれないだろうか」「」しきりに呼ぶ声にも、は応えなかった。腹の熱を抑えるのに必死で、聞こえていないふりをした。幸い、タイミング良く女の準備が整ったので、理鶯にそれ以上しつこく問い詰められたりはせず、撮影に移った。
 自由に動いていい。女はシャッターを切る度にそう言う。その言葉通り、用意されていた小物類が物珍しく、それらを手に取りながら眺めていると、時折フラッシュが起きる。最初は驚いたものだが、徐々に気にならなくなっていった。
 撮影が終わる頃には、充実そうに笑んだ女の顔があり、復元できたらあなたにも見せるわと言って、半年分の変化を味わった一日は終了した。



「(我累了疲れた……)」

 ホテルまでの帰り道。工場勤務は肉体的に疲れるが、今回は精神的な疲労が上回る。これも慣れなのだろうか。お試し期間という気楽なものだから、こんなことで根を上げてはいけないとも思うが、疲れたものは疲れたのだ。
 それはそれとして――は、隣を歩いている理鶯がいつも以上に無口なことに気まずく思っていた。先ほどから視線を感じるも、彼は何も言ってこない。リオ、と。呼びかけても、理鶯はちら、とこちらを一瞥するだけで、声に応えることはなかった。
 ――ほんとうに、律儀な男だと思う。

「……リオ。もう、話していい」
。今まで私語を禁止していた説明を求める」
「それはできない」
「む」

 じっとりと目が据わる理鶯。彼がここまで駄々をこねるのも珍しいことだが、にも意地がある。理鶯にもそういう時もあるだろうと、さして気にしなかった。明日になれば忘れているだろう。

「今日はどうだった。新たな道へ踏み出して、後悔しているか」
「……まだ、分かりません。でも、彼女は私の意思を尊重してくれる。それは、とても嬉しいことだと思います」
「そうか。それは良いことだ」

 目尻に薄いしわをつくって、理鶯は笑む。それは、海の浅瀬で生まれる波のように穏やかで、やわらかい。打ち寄せてくるそれを受け止めることが出来ず、はさっと顔を逸らしたが、理鶯は気にしない素振りで言葉を続けた。

がこの仕事を継続するしないに関わらず、彼女には猶予を設けてもらった」
「猶予?」
「ここ一週間、自身の作品としてを媒体に載せ、世間へ発信しないということだ」

 の記憶の中の彼女はずっとカメラと向き合っていたのに、理鶯はいつの間にそんなことを言ったのか。そもそも、それは自分が言うべきことだったのでは。
 護衛を引き受けたからといって、ここまでやってもらう必要は彼にはないはず。私事極まりないのに、あまりにも自分に対して至れり尽くせりだったので、が一つ物申そうと口を開いた時だった。

に渡しておきたいものがある」

 が喉を震わせる前に、理鶯は懐から細長い何かを取り出した。それは、の手のひらに収まる程度の大きさで、先端を軽く押すと鋭利な刃物がゆっくりと繰り出された。

「……これはなんですか」
「携帯用ナイフだ。護身用に一本持っておくと便利だろうと思い、調達した。以前渡したものは小官の手元に返ってきてしまったからな。従来のものより持ち運びやすく、でも使いやすいはずだ」

 これは、この国で持っていていいものなの。そう尋ねようとするも、現在進行形でライフルを背負っている彼に何を言っても無駄だと悟って、は無言でそれをポケットに入れた。
 こんなものも、一体いつ調達したというのか。昔馴染みと評した女に、彼の優しさはどこまで通用するのだろうか。
 ――ああ、まただ。むず痒い。体が熱い。頬が痙攣して、今にも蹲ってしまいたい。名前の付けられないこの衝動は、自分をどうしたいというのか。

 ――「連絡くれた時は本当に嬉しかったわ。ありがとう」

「(……あ、)」

 ……分かった。ようやく、気づけた。理鶯に何かしてもらうたびに生まれていた、違和感の正体を。
 どうして、じゃない。考えるべきは、そういうことじゃない。ありがとう。そのたった五文字を伝えたいのだと。謝ることと怒ることしかしてこなかったは、この国に来るまで、誰かに感謝し、感謝されたこと対して、未だに慣れていなかった。
 問題は、まだ残る。理鶯から向けられる、返しきれないほどの愛。さらに、見返りを求めない無償の愛。その受け止め方を、返し方を、は何一つ知らなかった。