Episode.4
一度も通ったことのない道を歩く時に不安を伴うような底知れぬ感情を、理鶯に抱いている。それは、今も昔も姿形を変えず、の胸の中に鎮座していた。得体が知れなくて、まるで暗闇の森に灯りを向けている感覚。人間としての相性が悪いのか、はたまた理鶯という男が特殊なのか――彼と互角に対話ができる人間がいれば、是非とも見てみたいものだった。
そうしたら、今抱いている違和感も当たり前のものだったと諦めることができるのだと……そう思っていた。
「。どこに行く」
夜が明け、ホテル生活一日目。はヨコハマの街へ繰り出していた。
行き先はない。あの部屋から出られるのなら、なんでもよかった。もちろん理鶯は後ろからついてくるが、広い空の下にいればどうということはない。は理鶯の存在を少しでも薄めたかった。
しかし、早くも後悔している。平日の昼間とはいえ、ここは都市の一角――道幅の広い通りだというのに、人が多くて歩きづらい。そのくせ、喧騒の中でもなぜか理鶯の声だけはきちんと耳に届いてしまうのだから厄介だ。あまりにも鮮明に聞こえるものだから、頭の中に直接語りかけているのではないかと疑ってしまう。
「さきほどから、目的地もなく歩いているように見えるが」
呼ばれても振り返るものかと思っていたが、図星を突かれて、は思わず足を止めた。周囲の雑音が小さくなって、代わりに理鶯の声がより鮮明に浮き上がる。背中がひどくむず痒い。
「……目的が、ないわけでもないです」
「では、道に迷っているのか。先刻、この道はすでに通ったが」
相変わらずああ言えばこう言う。言い逃れはできそうにないと、準備していた文字が頭から消えてしまった。
すると、人の波の途中で立ち止まったに、容赦なくぶつかってくる人々。一方通行、立ち止まるな――そんな看板が立っているわけでもないのに、全員が鰯のように一方向に泳いでいく。この国には、目には見えない規則が沢山あって、はそれを読み取るのが苦手だった。人を避けようにも、その先に人がいてにっちもさっちもいかなくなる。
前に押され、後ろに引かれ……ついには千鳥足になる。踊り狂わされるように制御の効かない足がついに地面から浮いた。息を鋭く吸い込んだ瞬間、目の前に濃い影が落ちる。
「、至急ここから離脱する。背中と膝裏に触れるぞ」
返事をする前に行動に移されていた。剛強な腕が先ほど言われた部位に回り、硬い胸元に体を密着させられる。理鶯の腕を椅子のようにして座らさせたは、人の波を掻き分けていく彼によって壁際まで運ばれた。
何が起きたのか、飲み込むまでに時間がかかった。理鶯の腕から自分の体が下ろされたのを見て、彼に触れ、触れられた場所にぐん、と血が集まる。全身が雑草に擽られているようにぞわぞわとして、気持ちが悪い。目眩すら起こす熱量に、は視線をうろうろと彷徨わせた。
「すまない。の気分を害することだと分かっていたが、さっきの状況ではあれが最善策だと判断した。非難は甘んじて受け入れよう」
「……なにもありません」
「しかし顔色が――」
近づいてきた理鶯の手の平……は一歩下がってそれを避ける。肩に微かに残った彼の体の感触が、未だに体の中で燃えている。これ以上距離を縮められたら、自分の中で何かが爆発しそうだった。
……はたとする。が顔を上げると、大雨でずぶ濡れになった大型犬のような表情をした理鶯がいた。「……本当に、すまない」小さく落とされたその言葉が、またしてもの胸を抉った。
「リオ――」
「行きたいところがあれば、小官が案内しよう。街にはあまり出ないが、ヨコハマの地理は一通り頭に入っている」
先ほどの行動について弁解しようと思ったが、何事もなかったように話し出す理鶯によってかき消されてしまう。てっきりホテルに帰ることを強制されると思っていたが――いや、強制は、おそらくない。あくまで推奨される程度だろう。
今の彼は、過剰なくらい協力的だ。街中を歩かれると困るのは彼の方ではないか。それとも、いつ来るか分からない敵を撃退できるという絶対的な自信があるのか。たしかに、彼以上に体格のいい人間が都合よく現れるとは思えないし、現れたところで彼が膝をつく姿は想像できなかった。
……ううん、今はどうでもいいでしょう。そんなこと。
「……中華街に、行きたい」
「なるほど。中華街か。たしかに、あそこはの国の文化に似るところもあるだろう」
理鶯は合点のいった顔で頷く。しかし実際は、の知っている場所はそこしか分からないだけだ。行きたいと思う理由は特にない。
そこは、ヨコハマに滞在していた時、ルームメイトに是非行ってみてほしいと勧められた場所でもある。しかし、あの大きな建造物をみたら突然吐き気がして、とてもじゃないが中に入るどころの話ではなかった。
……似ているのだ。理鶯の言う通り、あの町と、空気感が。聞くところによると、そこは自分の国を写し鏡のように再現した場所なのだという。自国から逃れたばかりのが行くのはまだ早かった。シブヤで生活し始めてからもあの街だけは思い出さないようにしてきた。
それなのに……自ら首を絞めてどうするのか。行きたい、と口にしてから途端に体が重たくなった気がする。訂正したいが、今更どう言えばいいのか分からなかった。が口を噤んでいると、またしても理鶯の気配が近くなる。
「、やはり顔色が悪い。もしも良くないことを思い出させるのであれば――」
黙って聞くつもりだったが、言葉の続きはいつまで経っても来ない。不思議に思ったが顔を上げると、理鶯はそっぽを向いて口元に指を添えていた。
「リオ……?」
「すまない。今の発言は忘れてほしい。中華街だな。承知した。最短距離で案内しよう」
彼が言い淀むことはめったにないため、は眉を顰めた。問いただす前に、こっちに進もうと思っていた反対の道に誘導される。自分に目的がないということも、理鶯はすでに察しているかもしれない。
理鶯は、何も気にならないのだろうか。こんなにも反感を買う言動ばかりしているのに、そんなことは些事というように、彼の態度は変わらない。むしろ、以前より手厚くなっている。こうして生活の一部に自分をくい込ませて世話を焼くなんて、善人にも程がある。未だに軍服を着ているくせに。
それが彼の性分だと片付けられるほど、は聞き分けが良い方ではなかった。
「(……最喜歡的人)」
どちらにしろ、彼のような人をきっとそう呼ぶにちがいない。
赤色の建物、煌びやかな金物、耳の傍で鳴り続ける華やかな音――ここほど綺麗ではないが、あの国を連想させるものがいくつもある。中華街の門を潜れば空気感が本当によく似ていて、の体が石のように強ばった。
中華街を歩いて数分しか経っていないが、はすでに元来た道を引き返したいと思っている。やはり、ここに来るのは早かったのかもしれない。あと、先ほどから理鶯の視線が痛い。振り向こうとすれば、その前に彼の方から視線を外される。言いたいことがあるならはっきり言えばいいのに。
――ちがう。私が、なにも言わないから
「……リオ。どこかに座りたいのだけど」
「分かった」
待っていたと言わんばかりに、それからの理鶯の行動は早かった。数分もしない間にはベンチに座らされて、理鶯は膝を曲げてこちらの様子を窺うような図が出来上がる。腰が落ち着くと、幾分か呼吸が楽になる。どうやら、この体は自分が思っているよりも疲弊しきっていたようだった。
「何か飲みものを買ってくるが、は何がいい」
まただ。はじとっとした視線を理鶯に向けるが、彼の目は一ミリも揺らがなかった。
「気を遣わないでください。それとも、あなたも飲みたいんですか」
「……ああ」
「嘘」
「、」
理鶯の表情は変わらないが、困っているということはなんとなく分かった。来るだけで体調が悪くなる場所に案内させて、さらには飲み物まで買わせようとしている。感じの悪い女だ。そう思われても仕方がない。だから、早く手放してほしいのに。しかし、彼の中で、それだけでは手放す理由にすらならないことをは知っている。の口から手放せと言う時くらいしか、きっとこの男は――
……しかし、この口は言いたくないらしい。それどころか、理鶯に対して意地悪を言っているこの現状が、息苦しいと感じている。この国に来て、彼と再会してからの自分は、とても変だ。
「……水」
ようやく出た言葉も、ほとほと困ったものだ。飲み歩きができるらしい街中でただの水が手に入るところなど、むしろ少ないだろうに。
それでも、理鶯は首を横に振らなかった。「了解した。少し待っていてほしい」そう言って、彼は人混みの中に飛び込んでいった。あれだけ離れたかった理鶯がいなくなると、今度は心許なくなってしまった。意味が分からない。いったい、私はどうしてしまったの。
ないものを望んでも手に入らないと分かっているから、いずれ諦めがつく。昔がそうだった。しかし、ひとたび裕福になると、今度はそれと同等……もしくはそれ以上の施しを求めてしまう。理鶯がしてくれることすべてが、今の自分にとって救いなのだと自覚してしまう。
……嫌になる。今の環境が。は邪念を振り払うかのように立ち上がる。少しふらつくも、まだ足の裏は地面についている。は胸を膨らませて大きく深呼吸した。
すると突然、ガリッ! と石を削る音がして、は反射的に背中を反らした。
「(……什么?)」
音のする方を見れば、改装中らしきテナントが見える。その中では、ヘルメットを被った複数の男達がコンクリートを削っていた。そこの一角にあったものに目を奪われたは、吸い込まれるようにテナントの前までふらふらと歩いていった。
真新しいガラス張りのショールームの中に、それはあった。薄青の文様が浮き上がるようにあしらわれた白の短衣。銀色の線が引かれた交領は太陽に反射して、ガラス越しでもきらきらと煌めいている。そよ風が吹けば雅に揺れそうな裙は、白とも青とも紫ともとれない――まるで、朝焼けの空に溶けているような淡い色をしていて、の目の奥をじりっと焼いた。
は、この服を見たことがある。あの国で眠る彼女が上民が集まる街を遠目から眺めるたびに「あんな女の人より、ねえさんの方が絶対似合うのになあ」と、頻りに言っていた。変なこと言わないで、とはその度に一蹴したものだ。伝統服をお巫山戯で着て自分を着飾る余裕など、これっぽっちもないというのに。
今思えば、あの子はこの服が着たかったのだろう。そのたびに私は冷たくあしらって……あんな――今にも叫び出しそうな衝動を抑えるために、はゆっくりと息を吐く。嫌なことを思い出した。それなのに、目の前の漢服は今まで見たものの中で一等綺麗だ。目が離せない。の視線はいつまでもガラスの奥に張り付いていた。
「――綺麗でしょう」
耳元に吹き込まれた声に、は肩から飛び跳ねる。振り返ると、自分よりも頭一個分高声の主は目を丸くしていた。
「あら、ごめんなさいね。驚かせて」驚いたのは一瞬だけ。すぐに悪戯っぽく笑った女は、から漢服に視線を変え、それを愛でるようにガラスに手を這わせた。
「この子、中国から取り寄せた一等品なのよ。今のところ展示品のつもりなんだけど、やっぱり服は着てこそ価値があるわよね」
例えば……そう、あなたみたいな子が
蛇のように絡まる声が、の四肢を鈍らせる。顔から熱が消える感覚を味わいながら、は浅い呼吸を繰り返すばかりだった。
「もしかして、チャイニーズだったかしら。你聽懂這個詞嗎?」
――にげ、なくては
あの時のように。しかし、足には見えない鎖がかかっていて、身動きが取れない。はく、と空気を食べても、肺は縮まる一方で、胸が苦しくなるばかりだった。
伸びてきた手が二度と離れられなくなる蜘蛛の糸のように見えて、が女から一歩引いた時だった。背中が硬い何かにとすん、とぶつかる。そして、強く……それでいて痛みのない力で腕を掴まれた。
「――彼女に何の用だ」
気がつくと、の目の前には大きな背中があった。それは壁のようになってと女の間に立ち塞がっている。
は、理鶯に掴まれている腕を見る。彼は、身を呈して自分の盾になってくれているらしい。
「あなた、この子の彼氏さん?」
「質問に答えろ。彼女に何の用だ」
「私のスタジオを覗いてたから、声をかけただけよ」
「それだけか」
「あとはスカウト半分ってところかしら」
背中越しでも分かる。理鶯から怒りが滲み出ていることが。今は味方のはずなのに、は別の意味で足がすくんでしまった。
いっこうに警戒を解かない理鶯に、女はため息をつく。コツ、という音が数回したかと思うと、理鶯の足の隙間から黒い靴のつま先が見えた。
「あなたから彼女に渡してくれる? 興味が湧いたらいつでも連絡して、って」
「勝手に破いてはだめよ」女はそう言った後、ヒール音とともに視界から消えた。
そこから落ち着く余地もなく、再び聞こえてきたコンクリートを削る荒い音に、は息を止める。体も一緒に震えてしまい、理鶯が素早くこちらを振り返った。
「(……あ、)」
何も、考えていなかった。縋るように理鶯の腕に指の力を込めたことも、唇が“リ”の音を形作ったことも……すべてが無意識だった。それは、自分の知らない間に、理鶯が自分の支柱になっていることを決定づけた瞬間だった。
夜半。入浴を済ませた後、は理鶯が買ってきてくれたペットボトルの水を半分まで飲み干した。部屋に帰ってきてからずっと人肌に触れていたので、それは幾分かぬるくなっていた。
熱いお湯を浴びたら、体調も少し回復した。昨日の夜に時間を巻き戻したように、綺麗にメイキングされたベッドの端に座り、は理鶯から手渡された名刺をじっと眺める。“Suzu”と太字で書かれた文字を指でなぞり、その斜め上にある小さな文字を読んだ。
「すたい、りすと……」
初めて発音する単語だ。彼女の肩書きがどういうものか、たった六文字では察せない。分からないことはすぐにスマホで検索するのが常。その答えはすぐに見つかった。
スタイリスト――モデルの演出家。モデルとは、容姿を主体として見世物にするもの。たしか、同居人の彼女が毎月買っている雑誌に映っているような人間の類だったと記憶している。そのモデルを時には着飾り、時には指導する……スタイリストはそんな役柄だと、この薄い板は言っている。文章の意味は理解できたが、なるほど、と心から納得できたわけではなかった。
ひとまず、あの場所は様々な媒介によって世間の目に触れることになるのだろう。自分は、彼女らの仕事場になる場所を勝手に覗いていたことになる。
不躾なことをした。取り返しのない自己嫌悪に陥りながら、ぺたん、とは壁にもたれかかる。
「――行くのか」
ふと、は顔を上げる。そこには、濡れた髪をタオルドライしている理鶯がいた。相変わらず入浴が早い。緩やかなスラックスを着た理鶯は、の指に挟まれている名刺を静かに見下ろしている。
行くのか、と。彼は言った。どこに。夜の外出は危険だと言ったのはリオでしょう。が要領の得ない顔をしていると、理鶯にしては珍しく、どこか歯切れの悪い言葉を紡いだ。
「……彼女が名刺を渡した理由は、を雇いたいと思ったからだ」
「やといたい……?」
「小官の目から見ても、は見目美しい。世間の評価も同等もしくはそれ以上だろう」
「リオ。いつも以上にあなたの言っていることが分かりません。どういうこと」
――曰く、彼女は、をモデルとして雇用したいのだと言う。
はいまいちピンとこない。その言葉を飲み込む前に、何の目的で、どんな理由で……言葉が伴う意味を探していた。唯一分かることといえば、雇う――つまり、金銭の入口が今目の前に用意されているということ。それは今、が喉から手が出るほど欲しいものだった。
「……リオは、安全だと思いますか」
内緒話をするように、は静かに尋ねた。じっと見なければ分からない程度に、理鶯は苦い顔をしている。
「少なくとも、彼女の言葉の中に虚偽はなかったように思う。この名刺も偽造ではなく本物だろう」
「それにしては、かなり警戒していたように見えましたが」
「それは個人的な理由だ。任務とは関係ないので安心してほしい」
あんなに敵意をむき出しにしておいて安心なんてできるものか。理鶯の物言いにはどこか引っかかったが、流してほしそうにみえたので、は特段問い詰めたりはしなかった。
「……今、私は工場で働いています」
「ああ。たしか、組立の作業だったな」
「ええ。刺激臭も、騒音もひどい。朝早くから夜遅くまで体を動かしても、稼げるお金は少ない。昔ほどではないけど、今の場所もいい環境とは言えません」
異国人の扱いなどそんなものだ。国全体の風潮が間違っていると否定するわけではないが、苦言を漏らすくらいは許してほしい。
には、何もかもが足りないのだ。金銭も、精神的余裕も。自由の使い方を、未だによく知らない。焦っていることは、自分でもよく分かっている。早くこの国に馴染もうとやっけになっていた。
「……金銭が欲しいという意味だけなら他にもあてはあるが、はそれだけではないのだろうな」
他人から見れば枯れた井戸だが、理鶯の目には水があるように見えるようだった。言ってもないの意志を、理鶯は難なく汲み取っている。
「この国で生きていくためには相応の労働しなければならない。人によっては、一日の半分以上労働している者もいるそうだ。であれば、内容が楽しいことに越したことはないだろう」
仕事を楽しく――そういえば、同居人の彼女も得意なことを生かして様々な家でその腕を振舞っている。しかしそれは他人事で、あくまで夢の話だと思っていた。周囲と自分は住む世界が違う。
そんな中で、自分ももう同じ土俵に立てるのだと、彼は言っているように思えた。
「……あなたは今、何をしているんですか。この国に軍隊はないんでしょう」
どこか、こそばゆい。は話を逸らしたくて、話題を切りかえた。それでも、理鶯は怪訝な顔一つしない。
「ああ。数年前に解体された。小官はヨコハマにある森の中で暮らしているので、街にいるより出る金はほぼないが、たまに臨時収入がある」
「臨時収入?」
「小官は不要だと断るのだが、知人の仕事を手伝った時に報酬として金銭を貰うことがある」
「コンテナヤードの時のような?」
「ああ」
内容は聞かない方がよさそうだ。理鶯も理鶯で、今は特殊な立場にあるのだろう。
は、再び名刺に視線を落とす。紙の上に印刷された文字がミミズのように這って蠢いているように見えて、できるのなら、今すぐ手を離してしまいたい。でも、そうしたら二度と手に取れないという確信も持てた。
怖いと思う。不安に思う。未知なものを目の前にすると、こんなにも足が竦む。国を出る船に乗り込んだ時は死にものぐるいだったから、その先の未来を考えることなかった。おそれを感じる余裕がなかった。しかし今は、命の危険が脅かされているわけではない。今の環境でも、息はできる。生きてやろうとやっけにならなければ、尽きる命ではない。
この国は、平和だ。そう暗示かけても、暗がりの森に光を当てるこの手はひどく震えていた。
「……戦線離脱は敗北ではない」
やさしい声が降ってくる。そのまま胸にすとんと落ちてきて、まるで日向雨のように体をぬらす、あたたかい声が。
「今後の敵の出方を探り、こちらの兵力を温存する。敵を壊滅させる一手が決まれば、再び行動を開始し、勝利を収める。小官の上官がよく言っていたことだ」
「私は軍人じゃない」
「重々承知している。例え話だ」
知っている。彼がそんなつもりで言ったわけではないことも。その優しさを突き放したいがゆえに出たの悪あがきだった。
昼の時のように、理鶯はの足元で膝を折る。それは、昔にあったとある記憶を引き起こした。彼の纏う雰囲気が、そうさせた。
――「このタグに誓って、小官がの傍にいるあいだは、貴女の自由を約束しよう」
「恐れる必要はない。がしたいと思うことをするといい。小官が、貴女の歩む道を邪魔する輩から守る盾となろう」
とん、と背中を押された気がした。じめじめとした水溜まりに浸かっていたのに、陽の当たる世界に引っ張られる。
あつい。お腹の奥が、胸の内側が、焼けるように、燃えるように。指先まで灰になってしまうくらい。この感じは、いったい。なぜ、そこまでして、彼は、私を――
――「ねえさん。わたしね、恋をしたんだよ」
……どうして今、それを思い出すの。
「……また、少し、かんがえる」
おやすみなさい。はそう言って、しっぽを巻くように掛け布団を被った。「ああ、おやすみ」くぐもって聞こえた理鶯の声にまた胸がむずむずとしてしまい、掛け布団がもう一枚欲しいと思った。
理鶯の言葉が頭を巡る。自分の手足を自由にさせる、甘美な音。掛け布団から僅かに顔を出しても、心臓は駆け足するばかりだった。おさまって。しずまって。せっかく環境から、他人から、自分を解放できたのに、次は見覚えのない自分自身に振り回されてしまって、訳が分からなくて、なのに幸せで、ひどく、泣きたくなった。
