Episode.3



 ビジホですけど、広い部屋をとっておきましたよー――ホテルのエントランスまで同行し、数分前に警察署へ戻っていった婦警は得意げな顔でそう言っていた。から言わせれば余計なお世話である。渡されたルームキーを使い、部屋に入ってすぐ飛び込んできた二つのシングルベッドと二人がけのテーブルセットに、自分以外の存在を意識せざるを得なかった。
 かちゃり、と静穏にドアが閉まる音を聞く。背後に感じる理鶯という存在の圧。は彼が持つと言ってきかなかったボストンバッグを奪い、椅子を引きずってきてその上で荷解きを始めた。そのあいだ、理鶯は警備員のごとく部屋の隅で立っているだけ。エントランスから部屋に入るまでの間といい、彼は自分の後ろについてくるだけで一言も言葉を発しないし、一つ一つの行動からも感情が全く読めない。時が経っても気味が悪いのは健在らしい。
 そこで、ははたとする。別に、彼のことはいいのだ。理鶯に取られていた意識をかき集めて、ベッド下についていた引き出しに部屋着を次々に仕舞っていく。元々私服の量が少ないので、一週間分といえど、それはベッド幅の二分の一に収まった。
 ……一瞬でもやることがなくなると、不本意に意識が別方向に傾く。は再び理鶯に視線を向けてしまった。時間を巻き戻したように、彼は先ほどの状態から微動だにしていない。今日から一週間、あの状態で過ごすつもりではないだろうか。冗談にしたいが、彼なら有り得ない話でもなかった。
 すると、理鶯もまたを捉えた。視線を逸らすタイミングを逃し、彼のまっすぐな眼光に縫いつけられる。薄青の瞳が、森の中の湖のように深く、静謐で、のまれそうになる。
 交わり、絡まり、逃げることを許してくれない。むしろそうしては負けだと意固地になったところで、理鶯がその薄い唇をすっと開いた。

「小官のことは気にせず、好きなことをして過ごすといい」

 こんな監視体制の中好きなことを過ごせ? どの口が言う。はこの国に来て初めて舌打ちしたい気分になった。おまけに、ようやく顔を背けることができただったが、彼の顔が脳裏に焼き付いてしばらく離れなかった。


 ――さて、理鶯にそう言われてから、なんだかんだで三十分は経過した。時刻は二十一時前。普段なら仕事が終わって、帰路を辿っている最中だ。その仕事も、こんな状況だからしばらくのあいだ休暇をもらっている。同じ日系人である上司には怪訝そうな顔をされたが、婦警が出てきて説明――内容は世間的に差し支えないものに留められていた――し終える頃には、その口もすん、と閉じていた。ただ、次に出勤する時が億劫だ。何かしら小言や嫌味を吐き捨てられるに違いない。こちらも好き好んで雑音だらけの工場で同じ作業を何時間もやっているわけではなかったので、これを機に新しい仕事でも探すことも念頭に置いている。

 ……閑話休題。好きなこと――ベッドの端に腰を下ろしたは一考する。自分は、時間がある時はいつも何をしていただろう。ちら、と理鶯を盗み見ると、彼はようやくテーブルの前にある椅子に座って、銃の手入れらしいことをしていた。たしかこの国は銃器の所持は禁止されているのではなかったか。まあ、彼が捕まろうがどうでもいい話だが。
 ――ぱちん。理鶯と視線がぶつかる。また、いつの間にか彼を見ていた。気がつくのは、きまって理鶯がこちらに目を向けたときだ。が自分に何か言いたいのだと勘違いしたのか、彼はまたしても的はずれなことを曰わった。

「何か入用のものがあれば、遠慮なく言うといい。必需品はホテルに用意されているが、それ以外は街へ買いに出なければならない」
「外出は最低限にと、あの男は言っていましたが」
「小官の同行の元であれば問題ない。に不自由な生活を強いたくないからな」

 白々しい物言いに、はふん、と鼻を鳴らす。そして、思い出した。空いた時間、最近はもっぱら理鶯に宛てた手紙を書いていたのだと。それどころか、休みの日には便箋を選びにわざわざ町へ赴いている。彼がつくってくれた時間。彼のための行動。当たり前のようにしてきたことが事実として胸に収まると、どうもむず痒くなって、今すぐにでもそれらを追い出したくなった。
 ……だんだん、頭が疲れてくる。そういえば、昼過ぎにサンドイッチを食べてから何も口にしていないことに気づいて、は室内を散策する。たしか、ここには“るーむさーびす”というものがあって、なんでも電話一本で食事が届くそうだ。本当に裕福な国だと思った。皆が貴族のようで、その施しを自分が受けられると思うと地面に足がつかないような気持ちになる。そんな環境にも、これから慣れなければいけない。生きるためなら、昔からなんでもしていたのだから。

「……リオ」

 応えられなくてもいい。ただ、最低限の義務として言っておきたいだけ。それでも――かなり小さな声だったのにも関わらず――理鶯は作業していた手を止めた。やはり、この瞳にまっすぐ見つめられるのは苦手だ。は理鶯と二度と視線がぶつからないようそれを避けながら、彼の目の前にメニュー表をぱっと広げる。理鶯はとメニュー表を交互に見やって、文字の上に指を置いた。

「オムライス、きのこのパスタ、ローストビーフ――」
「馬鹿にしないでください。これくらい読めます」
「そうか。それはすまない」

 どうやら文字を読めと言っているのと勘違いしたらしい。は小さく息を吐いて、「夕ご飯。あなたは何が食べたいんですか」と尋ねる。しかし、理鶯は首を横に振るだけだった。

「小官は必要ない。だけ頼むといい」
「今日から飲まず食わずで過ごすつもりですか」
「水と携帯食料は持参している。この部屋も、元々のために用意されたものだ。小官が利用するわけにはいかない」

 ご飯どころか、遠回しにお風呂に入らない宣言もされて、はかちんとくる。目の前にありったけの贅沢が差し出されているというのに、それを掴まないとはどういうことか。その行為そのものが贅沢に思えて、は言葉に怒りを含ませた。

「必要なものがあるのにも関わらず、それを手放すのは命を落としたい人間がすることですよ。喉が渇いていて目の前に清涼な川が流れていれば、あなただって飲むでしょう」
、それは極論だ」
「私はあなたを使役するつもりはありません。リオが望んだ状況なら、目の前にある恩恵くらい受けて」

 理鶯の言いたいことを言わせるものかと、は間髪入れず言葉を投げつける。それは、相手の拳や足が飛んでこないのを想定しているからこそだった。の中で、今なお根強く生きている男の固定概念とは別に、理鶯という人間の説明書きもこれでもかというほど書き留められている。彼は、手を上げるよりもまず言葉を使うのだ。
 すると、「……承知した」と。意外にも素直に頷いた理鶯。妙な沈黙が皮膚を刺したは、彼の幅の広い首元に目を落とした。

「……それに、お風呂にも入って。あなたからはいつも土の匂いがします」

 会話の切れが悪かったので、最後にそう言い捨てた。はテーブルにあった受話器を早々に手に取る。プラスチック製のそれは、鈍器ではないかというくらいやけに重々しく感じた。


 食事はすぐに運ばれてきた。はきのこのクリームパスタを注文した。特に嫌いなものはないが、箸は未だに苦手だったので、家で食べる時以外は和食は避けている。理鶯は一通りメニューを流した後、結局と同じものを注文していた。
 少しだけ水っぽいクリームをフォークに絡ませて口に運ぶと、なんだか機械的な味がした。味の奥行きがないというのか、舌の上で転がしてもクリームはクリーム、きのこはきのこで味が独立している。アクセントとして加えられたはずの塩こしょうも、中身のない黒胡麻のようであまり意味を成していなかった。可もなく不可もなく。落ち葉や川の水――本来人間が口に入れるべきではないものでも口に入れるだけで十分だったのに、ずいぶんとこの舌も肥えてしまったものだ。
 一刻も早く家に帰りたいと思っていると、目の前に座る理鶯が皿から顔を上げる気配がする。はあえてパスタから目を離さなかった。

「こちらの国の食べ物は口に合うか」
「それなりには。あちらではろくなものを口に入れていなかったので」
「それはよかった。は普段何を食べている?」

 無視をしたかったが、この場に生まれる沈黙が耐えきれなかったため、ははあ、と重い溜息をつく。

「……同居人が、色々作ってくれる。天ぷら、煮物、グラタン、チャプチェ……どれも、とても美味しい」

 再びフォークにパスタを絡ませながら、そういえば彼女は大丈夫だろうかと、はシブヤにいる同居人に思いを馳せる。元来素直な彼女は婦警に上手いこと言い含められて、が一週間家を空けることに同意した。は彼女に対して申し訳ない気持ちになるも、過度な心配をさせることなく、一週間あの家を離れることができたわけだ。しかし、それとこれとは、というやつで、彼女自身に危険が伴わないとは一概には言えない。
 彼女があの人身取引の集団に襲われたら――今頃、彼女は代行先で夕食を賄われているだろうが、もしも自分の身元が調べあげられていて、彼女の存在まで知られてしまっていたらと思うと、身の毛がよだつ。特に、帰り道が不安だ。最寄りの駅からアパートまでは少し歩かなければいけないし、街灯も少ない。こんなことなら、しばらくはタクシーで帰ってきてと念を押しておけばよかった。自分のせいで平和な世界で生きてきた彼女に脅威が降りかかると思うと、身が縦に裂けるような気分になる。
 護衛は自分ではなく、むしろ彼女につけるべきではなかったかと、はクリームの上で泳いでいるきのこに八つ当たりするように、フォークの先端できのこのカサをつんつんとつついた。

「……は何が好きだ?」

 ――考え事をしている時くらい静かにしてほしい。
 それでも、聞こえてきた声には顔を上げてしまう。視線を合わせてしまったのは、その声が走り気味だったからだ。加えて、普段は壁のように濃淡ない表情が、今は少し焦燥の色が見られる。は、先ほどまでクリームの中で泳がせていたきのこをフォークでぷつっと刺した。

「どうしてリオに教えないといけないの」
「知りたいからだ。なんでもいい。教えてほしい」

 なぜ。
 これ以上深くまで掘り下げても、理由にならないことを言われるのは目に見えていた。特にないと言っても中々引き下がらないように思えたので、きのこを咀嚼して飲み込んだは、メニュー表にあった適当な文字列を口にする。

「……オムレツ」
「オムレツか。承知した。いつかの日のために尽力しよう」
「ですからなにを――」

 そう言おうとして、はすぐに口を閉ざした。羽毛のようなやわい笑顔が、そこにあったものだから。どんなことを思ったら今の流れでそんな笑みを浮かべられるのか。はぐ、と喉を奥に引っ込めて、食事を再開する。
 私は、何も悪くない。悪いのは、妙なことを聞いてきたリオだ。そう思っていても、彼に嘘をついたことに対して、胸がぎしぎしと軋む。特段、はオムレツが好きというわけではなかった。

 食事を終えてすぐに入浴もすませた。急かされるようにシャワーを浴びて、着慣れたワンピースタイプのルームウェアを着る。薄手のそれだけではなんとなく心許なくて、念の為にと持ってきた厚手のカーディガンも羽織った。
 部屋に戻ると、やはり銃の手入れをいている理鶯がそこにいる。不本意にも、またしてもぱちんと目が合ってしまった。なぜ彼はわざわざ私と目を合わせるのか。はいっそ目を閉じてしまいたかったが、現実的にそう上手くいかない。テレビでも付けて音のない空間に彩りをもたせようともしたが、いまいち笑いのツボが掴めないバラエティも、悲しい出来事ばかり取り上げるニュースも、作り物の人間の人生を描くドラマも、今はどれも煩わしくて聞く気になれなかった。
 は、テレビ台の引き出しにあったドライヤーを手に取る。ちろっと振り返ると、さっきまでいた理鶯が忽然と姿を消していたので思わずは二度見をしたが、浴室で小さな音がしたので入れ替わりで風呂に入ったのだろうと確信する。それにしても早い。何の音もなかった。
 ……いや、別に、何も驚いてはないのだけど。邪念を吹き飛ばすように、はコンセントに指したドライヤーで長い髪を乾かし始めた。

「(まだ、あの部屋に軟禁されていた方がよかった)」

 ここは、息が詰まる。慣れない環境が二割、彼との共同生活であることが八割。こんなが日々最低でも七日続くのだと思うと気が滅入った。なぜ理鶯はこんな面倒なことをやっているのだろうか。誰に言われたわけでもないことなら、護衛だって理鶯の気分次第で止めるなりなんなりできるはずだ。途中で飽きて、この部屋から出ていってくれないだろうか。

 ――「が心配だからだ」

「……我不明白意思意味が分からない


 ドライヤーを切ったと同時に声がして、の肩が大袈裟に跳ねる。幸い、小さく漏らした心の声は、ドライヤーの音でかき消されたらしい。風呂から上がったばかりの理鶯は何も触れてこなかった。
 を呼び止めた理鶯は、やや申し訳なさそうに目尻を下げている。普段立ち上がっている髪も、今は濡れているせいかぺしょんと頭を垂れているようだった。

「すまない。驚かせてしまったか」
「リオ、今、浴室に入って――」
「入浴は今しがた終えた」
「終えた、って……あなたが入ってまだ三分も経ってない」
「軍にいた頃は二分以内に入浴を済ませていた。それに、を長時間一人にしておくわけにはいかない」

 また軍か。暴力的でも独裁的でもない彼が、なぜそんなに組織に拘るのか、はいまいち理解できない。様々なことを押し黙った後、何か用か、と聞けば、入浴を終えたと報告をするために呼んだだけだと理鶯は言う。なんだろう、こんなにも相性の悪い人間は彼以上にいないのではないかと思えてきた。
 ――もう、いいだろう。今日は疲れた。あとは布団に入って寝るだけだと思いきや、理鶯との馴れ合いはまだ続いた。

「小官はここで休息をとる」

 理鶯が指したものは、テーブルセットの椅子。いくら貧困街育ちのとて、椅子は眠るための家具ではないことは分かっていた。何を言ってるんだこの男は。そんな意志を含ませて理鶯を睨むと、何を睨んでいるんだろう彼女は、という目で彼は首を傾げた。いつぞやにもこんなことやり取りがあった気がした。
 椅子で寝なくとも、ここにはベッドがある。それに、料理とちがって、この寝具は満点をあげたいくらい上等なものだ。紙のようにぱりぱりのシーツで、マットレスもマシュマロのように弾力がある。掛け布団もずしりと重たそうで見ているだけで眠気を誘う。大きさだって、高身長の理鶯が横になってもはみ出さないくらいサイズだ。わざわざ椅子を選ぶ理由はどこにもなかった。

「さっきも言ったはずです。必要なものがある時、それを手放すのは命を落としたい人間がすることだと」
「横になるより椅子に座っていた方が、何かあった時に素早く行動に移せる」
「ベッドに寝ていても動けるようにするのが真の軍人なのでは?」
「む……」

 我ながらよく口が回ると思った。口ごもった理鶯に畳み掛けるように言葉を紡いでいきたかったが、それはにとって言いづらいことだったので、少々歯切れが悪くなった。

「……あなたは、私がいやなことはしないのではなかったんですか」

 普段、あまり変化のない理鶯の顔が崩れた瞬間だった。理鶯が目を見開いて薄く唇を開けたのが分かった。なんだ、その表情は。そう問い掛けたい気持ちをぐっと堪え、はそれ以上理鶯の反応を窺うことなく、彼から逃げるようにベッドに潜り込んだ。

 しばらくして、理鶯が立てたであろう布擦れの音が聞こえ、ゆっくりと明かりが落ちていく。ずしりと重たい掛け布団を頭まで被って、は昼から力んでいた肩の力をふっと抜く。ああ、やはり想像通り、いいベッドだ。数秒もしない間に眠りにつけそうだった。


「今度はなん――」
「おやすみ」

 理鶯の声に苛立ち気味に反応したが、その勢いが消沈したはすぐに、「……おやすみなさい」と返した。こんな生活、七日間も続けていられるだろうか。かなり自信がない。帰る頃には心臓は無事でも、胃に三つほど穴が空いているのではないか。気が重い。ついでに瞼も重い。
 昔も、そして今も……理鶯の言動に振り回されるばかりだ。今度は何があっても目が覚めるまで喉を震わせるものかと、は身を固くさせてぎゅっと目を閉じた。







 規則正しい寝息が、部屋の一角で生まれている。理鶯は目を開けて、僅かな布擦れにも気を使いながら、上半身をゆらりと起こす。人ひとり通れる幅の通路を隔てて配置されたシングルベッド。その一方で、こちらに背を向けて眠る。布団を深く被った彼女の頭部が少しだけ見える。普段の生活からか、理鶯は夜目がよく利いた。
 片膝を立てて、組んだ両腕を膝小僧に乗せながら、それを枕にするように頬をつける。力みのない呼吸で穏やかに上下する寝具を、理鶯は飽くことなく見つめていた。元々、寝るつもりなどなかった。しかし、それは彼女がいやだというから、が起きる気配がするまでこうしていることにした。

 ――「銃兎。頼みがあるのだが」

 ヨコハマ署の仮眠室で眠るを映した時、理鶯は怒りを覚えた。ただ、その矛先は珍しく自分に向かっていた。怖い思いをさせてしまった。なぜ守れなかった。彼女は自分の手の届く場所にいたのに。あと少し発見が早ければ――そう考えているうちに、理鶯は銃兎にの護衛を名乗り出ていた。本来であれば別の人間があたるはずの任務を、理鶯は横からかっさらった。これが軍内ならば、隊を乱す行為としてなにかしら罰則があっただろう。しかし、は知人だ。恩人だ。それにまだ、あの時の礼も返せていない。それでも、護衛を名乗り出た理由は、それだけでは足りなかった。
 そもそも、はあの国以外の世界で生きていれさえすればよかったのだ。そして、一人ではなく、他人と何かを分かち合える幸せを味わってほしかった。それがどんなに尊いものか、知ってほしかった。港を離れた時から、その思いは変わらない。今もそうだ。だから、彼女が同居人と暮らしていると聞いて、嬉しかった。もちろん、と別れてからも、理鶯はという女の存在を記憶の引き出しから消したことはなかった。
 ――しかし、彼女はこの国にいる。今、自分の、目の前にいる。
 今でも、理鶯の根本の願いは変わらない。しかし、目を凝らせばどうだ。そこから枝分かれするように派生した願望が湧いて出てきている。絶えず溢れ出るそれの止め方を、理鶯は知らない。蛇口の一つでもあればいいのに、雨のように降り注ぐそれは、抗いようもない自然現象のようだった。が生きているなら、なんでもいい。それには、違いないはずなのに。
 理鶯自身、正常な判断が出来かねている自覚がある。合理性をかいて招いた現状に、憤りすら覚えている。なのに、後悔の気持ちは微塵もないことが、また彼の胸に矛盾を生んだ。

 ――「私はあなたを使役するつもりはありません。リオが望んだ状況なら、目の前にある恩恵くらい受けて」

 の言葉を、理鶯はゆっくり反芻する。以前の関係ならば、それは理鶯がに言っていた言葉だったかもしれない。それが真逆になるほど、彼女の環境が変わったという証拠。そして、彼女の価値観も。それは、理鶯にとって喜ばしいことだった。同じ文化を歩んでいるのなら、彼女を理解できる側面も増える。理解できる側面も増えれば、が歩む人生の足場となることができる。

「……ぅ、」

 ぱちん、と集中が切れる。隣のベッドから聞こえた小さなうわ言が、そよ風に揺らいだ水面のように理鶯の胸を打つ。無意識に上がった腰をゆっくり下ろした。夢から現実に戻すことはできても、それがの望むことか分からなかったからだ。
 心臓の裏側でまとわりつく欲を見つけて、理鶯は腹の奥にいる獣を鎮めるように、細く息を吐く。は、たまにうなされる夜があるのだと、彼女のルームメイトからこそりと聞いた。おそらく、それは本人も知らないことで、ルームメイトの彼女も見守ることに徹しているのだろう。訳は、の過去にあるのだと推測する。そこに土足で踏み入れる権利はルームメイトの彼女にはない。もちろん、それは理鶯にも言えることだった。

「(耐え忍ぶ、か……)」

 ――今、彼女がみている悪夢を取り払うには、どうしたらいいのだろう。
 それは彼女自身にも分からないこと。分かったとしても、きっと自分の耳には入ってこないだろう。それを解決できるのは、自分ではない。分かっている。分かっているのに、の気持ちを踏みにじってまで我を押し通そうとする獣が、今でも暴れ出そうとしている。
 獣に、言い聞かせる。は、自分を必要としていないと。苦しそうな唸り声が聞こえるたび、理鶯は細く長い呼吸を繰り返す。それは、カーテンの色が朝日の光で薄がかるまで永遠と続いた。