Episode.2
「サンドイッチと水筒、トートバッグに入れておいたからね! ハンカチは持った? お金は? あっ、もしも道に迷ったら近くの交番に――」
「大丈夫。それに、もう何度も同じこと聞いた」
自分よりも忙しない同居人に向かって、は宥めるように笑う。「そ、そお?」とそわそわしながらも引き下がる同居人からトートバッグを受け取ると、彼女は申し訳なさそうに眉を下げた。
「ごめんねさん。一緒に行けたらよかったんだけど、午後から急にお仕事入っちゃって……」
は首を横に振る。自分の旅に、彼女を付き合わせるわけにはいかない。それに、今回は一人で行かなければ意味がないのだ。
「いってきます」
意識をして声を張り、はややぎこちなく手を振った。ドアの向こう側へ飛び出した世界は、いつもよりも広大かつ未知なものに映った。
ゴミの掃き溜めのような国を出て、日本での暮らしを――人間らしい暮らしを始めて、自分が一体何をしたいのか。ようやく、考える余裕が出てきた。夜も眠れなくなるくらい思考して、最初に出た望みは、母国でいくらでも見てきた海をこの目で見ることだった。 理由は、特にない。ただ、母の温もりに焦がれるような心持ちに、どこか似ている気もした。
はこの国に来て最初に降り立った地……ヨコハマを目的地として定めた。場所に迷いはなかった。短い間ではあるが、ヨコハマに留まっていた時期があるので比較的土地勘もある。電車に揺られること一時間半……駅を降りたは、未だ慣れないスマホのマップに頼りながらバスに乗り、陸の端へと向かった。
隙は見せない。口も、極力開かない。誰が、敵かも分からないのだから。自分は日本人なのだと言い聞かせて、この土地に馴染む。それはもはやの癖のようなもので、あの国と天と地ほど環境が違うといえど、彼女の過去がそうさせた。きっと、この癖は死ぬまでこのままだろう。
バスを降りると、都市圏から少し離れた住宅街に到着する。降りた直後から潮の香りが微かに匂ってきて、は全身の毛が逆立つのを感じた。自然と早足になって、コンクリートの道をひたすらまっすぐ進んだ。
「(……海、)」
広いコンテナヤードを抜けると、すぐそこは馴染みのある海が広がっていた。海の色は、こんなにも白濁帯びた色をして、忙しなく波を立てるものだっただろうか。の知る海は色素が薄く、幾分か穏やかなものだったような気もする。少しだけ駆け足になっている心臓に誘われるように、は砂浜に足を踏み入れた。
視覚以外の感覚も研ぎ澄ます。海の音も、砂浜の柔らかさも……あの国のものと何も変わらない。平日の昼過ぎの浜辺は人もまばらにいるだけで、のことを気にする人間は誰もいなかった。
この光景を、見たかっただけ。目的は果たした。でも、ここにはまだ少しいたい。理由を探すように、は波打ち際に沿って歩いていくことにした。
歩いているあいだ……母国に思いを馳せた。未練は、ただ一つだけ。土の中に沈む彼女を、この国に連れてきたかった。しかし、それも叶わないこと。にできることは、同居人のアイデアで作った簡易な仏壇に手を合わせるだけだ。
――浜辺の端に着いたので、は方向転換して今来た道を戻る。そう……大事なのは、これからどうするかだ。いつまでも低賃金の工場で働いて、同居人ばかりに生活費の負担を強いるわけにはいかない。日本に慣れるまではと気遣ってくれたが、この暮らしを始めてもうすぐ二年になる。いつまでも歳下の彼女に甘えているわけにはいかない。そろそろ、自分の足でこの世界を歩かなければ。
未来に目を向けると、不安ばかりが募る。もしも、またあの日々に戻ることになったらと考えるだけで、今のぬるま湯に浸かっていたいと望む自分がいる。大丈夫、大丈夫よ。ここは、のどかな国。危険な目に遭うこともそうそうない。大丈夫、大丈夫……あの国にいた頃もそうやって聞かせてきて、今日まで生きてきた。だから……きっと、大丈夫だ。
――また、浜辺の端に着く。同じことを繰り返す気にはなれず、はちょうど立ち止まったところで腰を下ろした。やわい砂が自分を招き入れるようにずずっと下に沈んだ。ちょうどお腹も空いたので、同居人が詰めてくれたサンドイッチを口に含みながら、はぼんやりと海を眺めることにした。
「(……回家)」
気がつくと、日が落ちかけていた。
時間をおきながらちまちまと食べていたサンドイッチだったが、ランチボックスの中に残ったのは小さく丸めたラップだけ。水筒に入っているお茶を最後まで飲み干し、は臀部についた砂を払って立ち上がった。
バスの時間を調べながら、コンテナヤードを歩く。バスを降りたら中華街に寄って、同居人に頼まれた肉まんと焼売を買って帰ろう。彼女の笑顔を頭の上で咲かせると、足取りも自然と軽やかなものになった。
「(……什麼)?」
なんだか、とある一画が騒がしい。気にするつもりはなかったが、コンテナを横切るついでに、は声のする方へ視線をやった。
大型トラックが一台と、コンテナから車への花道を作るように、何人かの男が屯っている。コンテナの中からは麻袋を被せられた荷物が次々と歩いて出てきては、男達に押されながらトラックの中へと吸い込まれている。
……否。歩いて、いる?
の足はぴたりと止まっていた。その光景を、は知っていた。忘れたくても、この体に焼き付いている。どこへ運ばれるか分からなくするための目隠し。検品を終えた“品物”が次に陽の光が拝めるのは、自分が買われた時だということを絶望とともに知る。
――背筋に悪寒が駆け抜ける。はやく、逃げなくては。すぐさまがコンテナヤードを抜けようと駆け出すと、別のコンテナの視覚から出てきた男と……目が合った。
「おい! 待ちやがれッ!!」
はつま先の向きを百八十度変えて、反対方向に走り出した。後ろを振り返る余裕もなく、その先に助けがあることも分からず、ただ目の前に広がる道を駆け抜けていく。大して走ってないのに、すでに息は切れ切れだった。
「一人逃げてるぞッ! ちゃんと見張りしとけよ!!」後ろから飛んでくる刺すような怒声に背中がひりつく。その声が、昔聞いた言葉通りのものなら、自分は囚われの身だと言われているようだった。どうして、いつから、監視されていた? シブヤに住み始めてから? ヨコハマで暮らしていた時から? それとも、あの国から逃げ出した船の中から、ずっと――
咽頭がかひゅッ、と悲鳴を上げる。感覚的に体に鎖が絡まっているようで、四肢が重たく、上手く動かせない。男の声が近くなっても、強い力で肩が後ろに引かれても、油臭い手で口を押えられ、地面に押し付けられても――は沖に打ち上げられた魚のように、体をじたばたと無意味に跳ねさせることしかできなかった。
「ったく、大人しくしてろ……ッ!」
「おい、数は合ってるぞ。どこから来たんだそいつ」
「ああ? んじゃあおまけってことでいいだろ。一人増えたところで関係ねえ」
嫌だ、いやだ、離せ、はなせ……ッ!! 男に腹上で馬乗りにされていても、は体をくねらせて必死に抵抗する。男に拘束されていることよりも、体を纏っていた自由が煙のように消えていく感覚の方が何倍も恐怖を覚えた。犬のように呼吸を荒らげ、言葉を紡ぐ余裕もないくらい、は取り乱していた。自由と平和の味を知ってしまった自分だからこそ分かるのだ。今まで自分が生きていた世界が……これから待ち受けている未来がどれだけ酷いものなのか。
――元々、勝算などなかった。の目の前に鋭利な刃が光り、ひゅッ、と喉が鳴る。男の片手がの細い首を締め上げたせいで、あぶくのような短い息が漏れる。くるしい、頭が、いたい。つかまえられた。見えない鎖がついに全身を包み、の耳元でたわむれるようにじゃらじゃらと音を鳴らしていた。
「もうすぐ引渡しの時間なんだよ……。あんま手間ァ取らせんな」
殺すぞ
残酷な国を出ても、平和な国のどこに行っても……結局、自分はこういう末路を辿るのか。人権も、権利も、何も通らない。呼吸の一つでさえ監視されているような、不自由な世界だ。もし、それが世の摂理というものなら、自分がもがいたところで、何も変わらないのではないか。そう思うと、の目はうつろなものに変わり、眠るように体から力が抜けた。
「ッ、なんだお前――ッ!?」
――刹那のこと。馬乗りになっていた男が横に飛ぶ。そう、横にだ。まるで何かの力が加わったように、男はの腹上から姿を消した。半ば放心状態だったは、状況を把握するまで些か時間がかかった。起き上がる頃には、その場にいた男二人はコンクリートの上で虫の息になっており、彼らを制圧した人間だけがその場に凛々しく立っていた。
「――大丈夫か」
男が振り返る。耳の奥をくすぐるような低音が、を捕らえていた鎖をばりん、と弾けて散らせた。声を聞くのは、何ヶ月ぶりだろうか。目の前が白と黒でちかちかと光りながらも、最後の力を振り絞って、は、その顔を上げた。
「……?」
なぜ、ここに。
彼の口から漏れたものなのか、自分が思ったことなのか、もはや判別がつかなかった。意識が途絶える瞬間、土臭いにおいが顔面に飛び込んできたことだけは、記憶にある。
脅威に侵されて荒ぶった心臓がみるみるうちに沈んでいく。かたい。でも、人のように、あたたかい。それは、慣れ親しんだ潮の香りよりも、身を預けられるものだった。その中でなら目を閉じても大丈夫だ、と言い聞かせられるほどには。
この国に来てから、勝手に寝床に侵入され、起き抜けに犯されることはなくなった。今日も、は自分の意思で瞼を開ける。素色の天井を映して、はたどたどしくも五感から入ってくる情報を掴んでは取っていく。どうやら、自分はベッドの上に寝ているらしかった。
「あ。目ぇ覚めました?」
無臭の空間に響く、ゆるやかな声。重たい体はどこを動かすにも億劫に感じて、は音のする方に視線だけ這わせた。すると、黒色のスーツを来た女がこちらの顔をちろっと覗き込んでいる。若い女だった。
何か反応を……と思うだけ。思うだけで、は視覚から入ってくる情報を飲み込むのに精一杯で、女の声に対して意思表示ができるほどの余裕はなかった。
「何か飲みますー? あいにく水しかないんですけど」
そんなの心境を分かっているのか、いないのか。女はみずみずしく水滴のついたペットボトルを見せて、の目の前にちらつかせる。幼子に語りかけるような、まろやかな音。しかし、きっと、彼女はの心からの味方ではない。張り付けたようなその笑顔を、は以前いた国で虚偽のものとして何度も見てきていた。
は、ペットボトルを受けるだけ受け取って、上半身をゆっくり起こす。彼女の間に隔てた壁を分厚くしながら、ぽつりと呟いた。
「我在哪裡……」
間違えた。は一考してから、「……ここは、どこ」と改めて尋ねる。すると、女は笑顔を崩さずに「ヨコハマ署にある仮眠室ですよー」と答えた。
「ヨコハマ、ショ……。けー、さつ……?」
「そうです。まあ、詳しい話はあとでお話しましょー。ところでおねーさん、お腹すいてません? お菓子ならめちゃくちゃあるんですけど、甘いもの好きですか?」
甘いもの、と聞いて、少しだけ心に隙が生まれた。間を置かずにずいっと差し出されたものを、は思わず受け取ってしまう。渡されたのは個包装になった高価そうなクッキー。正直食欲はなかったが、拒否する時間も同じくらいなかった。
が何も話さないのをいいことに、目の前の女はぺらぺらとよく喋った。どうやら、彼女は婦警らしい。あなたは人身取引に巻き込まれた後、気を失ってこの部屋に運ばれた、という簡易すぎる説明の後は、他愛のない話ばかりが繰り広げられた。
「おねーさん、お肌めちゃくちゃ綺麗ですねえ。コスメとスキンケアなに使ってますー? あと普段なに食べてますー?」脳の覚醒とともに、自分が今置かれている環境を把握して、それなりに警戒心が生まれるも、女の口から飛び出る話の内容がまるで友人相手にでも話すようなことだったので、は拍子抜けしてしまった。ほとんどの質問について上手く答えられなかったが、女は終始にこやかに接した。
……不意に、ドアが数回ノックされる。婦警の顔色が一瞬固まったのを、は見逃さなかった。しかし、こちらに向けられた時には笑顔に戻っていて、「ちょっと出てきますね~。そのクッキー、ぜんぶ食べていいですよー」そう言って、女はささ、と退室していった。
なんとなく、この後に何が起こるか、雰囲気で察した。心臓が握りつぶされるような圧力を覚えながらも、は深く呼吸をして、分厚い壁を作り直す。布団の上に置かれていた両手も中に潜りこませて、少しでも心中を悟られないようにした。
「――失礼します」
婦警と代わるように入ってきたのは、眼鏡をかけた長身の男。レンズの奥で目を細め、薄い唇は人の良さそうな笑みをつくっていた。彼のことは……どこかで見たことがある、ような。街中の広告だったか、雑誌の中か、はたまたテレビの――とにかく、胡散臭いという印象を受けたことがある。が過去の記憶を探っている途中で、男の後ろから見覚えのある迷彩服がついてきた。
思わず、は彼を――理鶯を凝視する。どうやら、意識が途絶える直前に出会ったのは、幻影ではなかったらしい。彼もまたその瞳にを映しているが、その強固な表情から紡ぎ出される言葉は一つもなかった。
「さん……で、よろしいですね。気分はいかがですか」
代わりに、眼鏡の男が一声を発する。こちらの身を案じる社交辞令は、の心に一切響かなかった。事情は婦警から聞いているので、こちらから聞くことは何もない。がだんまりを決め込んでいると、眼鏡の男は低姿勢でこう述べた。
「私、ヨコハマ署組織犯罪対策部巡査部長の入間と申します。起き抜けで申し訳ないのですが、今からするいくつかの質問に答えて頂きたいのです」
案の定、といったところか。は男もとい入間に静かに問うた。
「……答えたら、家に帰してくれるの」
「ええ。私も、あなたをすぐにでも解放して差し上げたいと思っていますから」
「そちらに座っても?」入間が指したのは、ベッドサイドにある椅子だった。さきほどの婦警が座っていたところだ。しかし、は首を横に振る。来るな、と視線でも訴えた。ただでさえ同じ空間にいるだけで皮膚がぴりぴりとするのに、これ以上この男に近づかれたら堪ったものではない。
快いとは思えない対応をしたのに、入間は笑みを崩さず、その場に立ったまま再び口を開いた。
「まず、なぜあなたはあのコンテナヤードに?」
「……海が、見たかった。私の住むシブヤに、海はないから」
「なるほど。では、彼らに捕らわれそうになった経緯を詳しく――」
単調に投げかけられる質問に、は淡々と答えていく。目の前に垂らされている解放に縋るように。そのためなら、自分の素性を明かすことすら小さいことのように思えた。入間の質問に答えている間、彼の背後に控える理鶯のことは見ないようにした。
人身取引……こんな平和そうな街にでも、あの国と同じようなことはあるのだ。は頭の隅でそんなことを思いながら、自分が見たことを脚色することなくありのまま話す。まだ終わらないのか、次で最後か、早く帰りたい――布団の中で、クッキーのプラスチックの袋を指でかさかさと撫でて、は口を動かしながら時間が過ぎるのをただただ待っていた。
「……ご協力、ありがとうございました」
入間が一区切りつけるようにそう言うと、の目の前に光が差した。
やっと、帰れる。そう思って、が胸を撫で下ろした矢先、彼はふむ、と何か思案するような仕草をして、バインダーに挟まれた書類をぺらぺらと捲り始めた。
「あなたの周りを取り囲んでいたという男達の数……。捕らえた犯人達の人数と彼らの証言を含めても、どうも数が合いません。よって、その何人かは今もなお逃走していると考えていいでしょう。別の場所に他のグループの本拠があり、彼らを匿っているかもしれない」
顔を見られている以上、あなたをこのまま釈放というわけにはいきませんね
目の奥で血が走る。はベッドから起き上がる勢いで、入間に向かって声を荒らげた。
「あなたは、私が話したら帰すと言った……! だから私は答えたのに、話が違う!」
「あなたの話を聞くまではそのつもりでしたよ。しかし、話によっては状況も変わる。それに、これはさんを守るための処置です。あなたを護衛もなしにシブヤに帰せば、残党に襲われる可能性も十分有り得ます」
「焦燥に駆られた犯人は、証人であるあなたをなりふり構わず消そうとするでしょう。現在、私達も逃走中の犯人の行方を追っていますが――」声がくぐもって、遠くなっていく。手を伸ばせば届いたはずの光は、いつの間にかの前から消えてなくなっていた。まっくらだ。とても、さむい。徐々に脱力していく体の感覚だけが、の恐れていた現実を教えていた。
ああ……ここでも、そうなのか。虚偽で縛り、誰かの手のひらの上で管理される息苦しさ。言いもしれない恐怖に冷や汗すら浮ぶ。二度と、あんな日々には戻りたくなかったのに。どうして、こんなことばかり起きるのか。どうして、自分ばかりこんな目に遭うのか。見えも触れもしない成り行きに、は憤りを覚える。布団の中で、爪に食い込むくらいシーツを握りしめた。そうしなければ、胸の中ではとても抑えきれない情動が暴走して、今にも叫び出しそうだった。
呼吸が、ままならなくなっていく。目頭がじわじわと熱を帯びるのを感じて、が咄嗟に俯いた……その時だった。
「銃兎」
荒野のように広々として伸びやかな、耳の奥にすとんと落ちる低音。が顔を上げると、今まで黙っていた理鶯が口を開いていた。ジュート、というのは入間の下の名前のようだ。そして、は思い出した。ああ、そうだ、彼らはラップという娯楽のチームの一員だった、と。
「五分でいい。彼女と、二人きりにしてくれないだろうか」
は目を見張る。入間は理鶯の言葉にしばらく沈黙していたが、やれやれ、といった風に肩を竦めた後、何も言わずにそのまま部屋から出ていった。
取り残される二人。未だ、はシーツを握りしめる力を弱めていない。なぜなら今の彼は、入間の味方なのだから。沈黙が皮膚をちくちくと刺して、痛い。こつ、とブーツが鳴る音に鼓膜が裂かれそうになりながらも、は強気な眼差しで理鶯を見つめた。
「……随分と日本語が上手くなったようだ」
「さっそく私のご機嫌とりですか」
「そんなつもりはない」理鶯は機械的にそう言う。あの頃は、男の機嫌を損なわないために表面上下手に出ており、あの丁寧な言葉遣いもいわゆる保険のようなものだった。しかし、この国に来てからは立場も異なる。よって、彼に丁寧語を使う必要もなくなったのだが、どうしても心の距離は置きたかった。たとえ、慣れない日本語だとしても。
「銃兎の対応については、代わりに小官が詫びよう。彼も立派なソルジャーだ。目的の為ならば、敵ではない他人すら欺くことがある」
「……謝罪なんて、必要ありません」
はしずかに拒絶する。理鶯が入間の肩を持っていることは容易に察したし、謝罪をされたところで、自分がトラウマの海に突き落とされたことには変わりないのだから。
ブーツの音が近づいてくる。ついに、理鶯はベッドの脇にまで来て、その場で膝を折った。椅子にも座らずに、まるで、と視線の位置を合わせるのが目的のように。は今にでも布団を剥いで、部屋の隅に逃げたい気持ちになった。しかし、それすらもままならないくらい、体が硬直して、動かない。足裏を擦り合わせて、両指を何度も交差させては理鶯の視線を避けるのが精一杯だった。
「このままをシブヤに帰せば、だけではなく、のルームメイトも敵に狙われる可能性がある」
は、とは息を呑む。しかし、すぐに目を座らせて、声を震わせながら目の前の脅威に爪を立てた。
「……それは脅しですか」
「小官は事実を言ったまでだ」
「昔から、“あなた達”がよく使う手口でしょう。だから、私は信じない。できないから、私は、ここにいたくないの。かえりたい。かえして」
日本語が徐々に不自由になっていく。言葉が伝わっているかなんてどうでもいい。ただ、全身に渦巻いている願望を言葉にしなければ気が済まなかった。理鶯を鬱憤の捌け口にして、その口を閉ざすまで、はかえして、とそればかり繰り返した。
しかし、心臓の方が耐えきれなくなった。理性的な自分が、こんな無意味なことを言ったところで、と囁いている。こんなのは彼に向けて鈍らになったナイフを振り回しているだけだ、とも。完全に利己的になれず、“いらないこと”ばかり考えてしまうはこの質のせいで日本に来てもなお、どうしようもない生き辛さを覚えていた。
「……分かった」
理鶯は立ち上がりながら、声をひそめてそう呟いた。の頭上に、影が落ちる。理鶯は靴の音一つ立てず、窓にそうっと近づき、警戒するように外の様子を伺っている。理鶯の奇異な行動に、は訝しげに眉をひそめた。
「なにをしているの」
「ここから出たいのだろう。ドアの向こうには銃兎がいる。脱出するのなら、この窓しかない」
小声で話しながら、理鶯は迷彩柄の上着を脱いだ。すると、肌着の上から露になったのは彼の体に巻きついた太いロープ。が驚くよりも早く、彼は窓を僅かに開けて、その隙間からロープの端を地上に垂らし始めた。
今いるこの部屋は地上ではなかったのか。一体何階だ。……いや、今気に留めることはそんなことではない。は布団を剥いで、冷たい床に足裏をつける。それでもなお動きを止めない理鶯の手の甲を、の両手が掴んだ。ぴくりと震えた後に静止した理鶯に、は焦燥の色を顔に浮かべながら詰め寄った。
「私を逃がして、リオはどうなるの。あなたは今、彼の下についているんでしょう」
「銃兎はチームメイトだ。主従関係を結んでいるわけではない。共通の作戦を遂行するにあたり、彼から指示を出されることもあるが、それも一時的なものだ。今回はもう一人のチームメイトの依頼で、敵勢力を鎮圧しただけのこと」
「なら、もうあなたの役目は終わったはずです。大方、私を説得しろとでもあの男に命令されたんでしょう」
「小官がここにいるのは、小官自ら銃兎に願い出たからに過ぎない。任務とは無関係だ」
は理鶯の化けの皮を引っペ剥がそうとするが、剥いでも剥いでも彼の本性が出てこない。何を言ったところで、どうせあなたもあの男と同じなんでしょう。鋭く尖った心で、は理鶯の言葉を弾き返すが、彼は目を伏せながら、その僅かな隙間から彼女の懐に入ってきた。
「たしかに、いざという時はを説得しろと銃兎から言われている。しかし、小官は伝えることは伝えた。あとはそれを聞いて、がどうするかは自身の問題だ」
もしもがここから出たいというのなら、小官は惜しみなくこの力を貸そう
――今と同じようなことが、昔にあった。あの国での最後の会話……理鶯がクーデターの存在を知らせた時、彼はに何かしら選択を迫ったわけではなかった。ただ、生きてほしい、と。たかが娼婦だった自分に対して、そんなことを曰わった。結果、彼は最後までの意志を尊重させた。思えば、彼から何かを命令されたことは、一度だってなかった。
――「このタグに誓って、小官がの傍にいるあいだは、貴女の自由を約束しよう」
この男は……昔から何も変わっていない。昔から、彼の人間性の根本から理解し難かった。途端に、は目の前の男がおそろしくなって、理鶯の手の甲から両手を退け、数歩後退する。理鶯はロープを垂らす手を止めて、恐怖で揺らぐの瞳を見つめるだけだった。
……しばらくして、ドアが控えめにノックされる。「理鶯、さん。入ってもよろしいですか」入間の声だ。は喉元に何かつっかえた感覚がして、応答しようにも声が出なかった。すると、こちらを一瞥した理鶯が、垂らしたロープを再び体に巻きつけながら、「ああ」と、の代わりに短く返事をした。
ドアが、開かれる。部屋の奥には向き合う男女。一人は苦しげに顔を歪ませており、もう一人はロープを自分の体に纏わせているという、傍から見ればなんとも異様な光景。こほん、と一つ咳払いをした入間は、眼鏡のブリッジを上げながらこう問うた。
「……さん。捜査にご協力して頂けますか?」
は何も言えなかった。目の前の理鶯を見上げては視線を落とすのを繰り返すだけで、男に意識を向けることすらできなかった。
すると、またしても理鶯が助け舟を出す。入間に目配せをして、深く頷いたのをは捉えた。それを見て、ふ、と短く息を吐いた彼は革靴を鳴らしてこちらに近づいてくる。思わず、は一歩だけ理鶯と距離を詰めた。
「さんにはしばらくのあいだ、こちらが指定したホテルで寝泊まりして頂きます。諸々の費用はこちらで負担するのでお気になさらず」
最初からこうなることを分かっていたように、入間は流れるようにして今後のことを説明する。は一切信用のない眼差しを向けるが、彼はにこやかに笑うだけだった。やはりこの男、胡散臭い。
「……何日、そうしていればいいの」
「最低でも一週間。しかし、一日でも早くあなたが家に帰れるよう、私達も尽力するつもりです。犯人は違法マイクを所持している可能性もありますので、外出もできる限り控えて頂きたいところですが……」
なぜか、入間は一瞬だけ理鶯に視線をやった。はというと、一週間という途方もない期間にため息をついて、「仕事があるから、それはできない」と言い切ってしまった。「ええ。分かっていますよ」
「あとのことは彼に一任するので、何かあっても話し合いで折り合いをつけてください」
「彼……?」
「では理鶯、頼みましたよ。元々、左馬刻からの要請ですからね。これから火貂組へ顔を出しに行かなければいけません」
「ああ、了解した。銃兎は自分の任務に専念してくれ」
え……?
意味不明な会話が音速で通り過ぎ、が我に返るころには、入間が退室した後だった。
呆然と立ち尽くすに、「さて、」とロープを巻き終えた理鶯がジャケットを着始める。
「の家に一度寄ってから、指定のホテルに向かおうと思う。荷物を取りに行かなければいけないだろうからな。それに、の同居人への説明も必要だ。その際、さきほどの婦警が同行してくれるそうだが――」
「等等っ!」
は大声で言った。理鶯は首を傾げて、「……怎麼了?」と言語を合わせて尋ねてくる。首を傾げたいのはこちらの方だ。
「なぜあなたが着いてくるんですか」
「今この時から、小官はの護衛を務めることになった」
は絶句した。そんなことは聞いていない。あの男から説明もなかった。となれば、理鶯がそれを口にしなかっただけ。嘘をつかれていたというより、言う必要がなかった、というような雰囲気だった。
「さっき、任務は終わったって……」
「ああ。がもしもここから逃げていたのであれば、そういうことになっていた。しかし、こちらに協力してくれるのなら話は別だ。を脅かす敵から守る剣と盾が必要だからな」
「これも、小官が望んだことだ」感情の読めない表情で、彼はさらに言葉を続ける。
「銃兎の部下は優秀だろう。しかし、見も知らない人間に、の護衛を任せるのは些か不安だった」
理鶯は軍人だ。の知る軍人は、誰かの命令の上で行動する。自分の意思と相対するものがあれど、上司の命令は絶対のはずだ。しかし、理鶯は今主従関係はないと言った。ならば、これは――
「リオの、意思で……」
「そうだ」
「どうして……。どうして、そこまで他人の事情に首を突っ込めるの……?」
純粋な疑問だった。自分を守ったところでなんのメリットもないはずだ。昔の吉見というやつなのか。それにしても、一週間もの期間、自分の時間を他人に費やすだろうか。そんなことをされるほど、自分という存在は大きいものではない。もはや、の考えだけでは彼への理解が追いつかなかった。
理鶯は少しだけ思案するような素振りを見せて、こちらの心臓を射抜くような眼差しを向けて、こう言った。
「が心配だからだ」
は、久々に解せない日本語を聞いた気がした。
