Episode.1
軟体動物のような黒い影が、四肢の上にくっきりと浮かぶ。振り払おうとしても、それは空気を掴んだようにすり抜けていって、そのくせ、実態があるように体を拘束していくので、夢であるという確信とともに、底のない穴に落ちたような恐怖に陥った。
叫びたくなる。自分の体が思い通りにならないことが、こんなにも苦痛だ。数年前までは当たり前だったのにも関わらず。現状、とても裕福な環境に身を置いていることを改めて痛感する。
自分でも、行き過ぎた待遇だと思っている。だから、いつの間にか抵抗を止めていた。蠢く黒い影は、諦めを悟ったをせせら笑うかのように、体の付け根まで四肢に絡みつく。わらいたければわらえ。それは、強がりにも似たの本心だった。私も、今の脆弱な私をわらいたくて堪らない。
なぜならば……どうしても、一昔前に出会ったお人好しの残像がちらつく。橙と、薄青の光。他人が見せている幻影のように、それはこれみよがしにの視界の端から出たり入ったりを繰り返している。彼ならば……この夢の中でも手が伸びてくるかもしれない、と。まるで、水分の多い絵の具のような淡い期待を抱いてしまう。その音を紡ぐだけで、少しはこの恐怖が和らぐかもしれない、と。あまりにも孤独で、あまりにも心寂しい。一度そう思ってしまったら、それ以外に何も考えられなくなった。
……が脳裏に過った彼の名を形付けようと、ついにその口を開いた。
――暗転。そして、覚醒。いつものことだ。寸のところで、地上に引っ張り上げられるような感覚がして、気がついたら、現実世界で朝を迎えている。まるで、遊び飽きたと言わんばかりに、その脅威は夜のうちに去っていた。しかし、明日こそは逃がさない、とも言っているようで、の四肢には拘束の余韻らしき感覚が残っていた。それが一時の錯覚だと、分かっていても。
「……噁心」
生え際に滲んだ汗も、喉にまで伝わる激しい心音も、深層にある自身の弱味も……すべて。乾いた喉を潤すように唾を呑みこみ、は布団からふらりと立ち上がった。
リビングと隣接しているドアを開けると、卵の匂いが鼻腔を満たす。そして、パチパチと水の弾ける軽快な音。今朝は目玉焼きだろうか。同居人の小さな背中をぼんやりと映していると、振り返った彼女が起きたばかりのを笑顔で出迎えた。
「おはようさん!」
「今日はお仕事お休みなのに早いね~」エプロンを翻しながら、にこやかにフライパンを操る同居人。夢見が悪かった、という言葉をはばかられたので、その代わりに曖昧な笑みを零した。
「おはよう。あとは私がやるから。準備、してていい」
「ほんと? ありがとう! 冷凍のご飯、チンしてレンジの中に入ってるからね~!」
未だに部屋着姿の同居人を促して、はキッチンの前に立った。卵も、ガスコンロも、綺麗な陶器も……今ではすっかり見慣れてしまった。それでも、は見様見真似の手つきで、コンロの火を落とす。
白い膜に覆われた黄身がぷるぷると揺れる。すでに湯気をあげている分厚いベーコンの横に熱々の目玉焼きを盛った。レンジから出したのはラップに包んである白米。色違いの茶碗に米を黙々と盛っていると、「そういえば、今朝も来てたよ~」と身支度を整えた同居人がリビングから声を張る。主語がなくてもその真意が分かってしまって、は複雑そうに顔を歪めた。
「べつに……気にしてない」
「そお? あっ、ほら来た!」
同居人の視線は天井に向けられている。彼女に釣られるようにも同じように見上げるが、それよりも早く、その来訪者はの肩に落ち着いた。クルルッ、と軽快に喉を鳴らすのは鳥。見た目鳩のようだが、実際のところはよく分からない。家に訪れるたびに餌をやり、ホームセンターで鳥籠を買ってきた同居人ではなく、なぜか自分の肩に留まるのが多かった。
は、鳥の脚に取り付けられてある小さな容器を外してから、彼――彼女かもしれないが、便宜上そう呼ぶことにする――をリビングのテーブルの上にある籠に入れる。容器の中身は飼い主からの手紙だ。が手紙の返事を書き、それを容器の中に入れて鳥を窓の外に放すまでは、ここが彼の一時の住処となる。
「この子って、どうやってさんの居場所分かってるのかな? 匂い?」
朗らかに首を傾げている同居人の思考を切るように、は「朝ご飯、食べましょう」と誘った。
この鳥が初めて我が家に訪れたのは、理鶯と再会してから一週間後のことだった。早朝、「鳥がうちの窓叩いてる!」と同居人から報告を受けて、起きぬけのは窓を見た。たしかに、鳩らしき鳥が尖ったくちばしで窓ガラスをトントンと叩いている。こんなことはここに越してきて初めてのことだ。どことなく他人事ではないのを察したは、窓の鍵を開けて、その鳥を家に招き入れた。鳥の脚には筒状の小さな容器が取り付けられており、その中には特定の人物からと思われる小さな紙が一枚。そこでようやく、は理鶯の言っていた“文通”という言葉が過ったのだった。こういうものは普通ならば郵便でやり取りするものではないのか、この鳩は一体どうやってうちの場所が分かったのか、そもそも苦し紛れに言ったあの言葉を本気にしたのか――あまりの予想外な展開には言葉も出なかった。文句をつけたい相手も今は彼方にいる。鳥に言うのもお門違いだろう。
手紙といっても、小さな紙に三文程度文章が綴られているだけ。なので、最初にきた手紙の内容もかなり些細なものだった。の自宅以外の室内を除き、この鳥はのいる場所へ飛んでいくということ、紙は文庫サイズのものを丸めて容器に入れてくれればいいということ、近頃は桜がよく咲いていて花弁が地面に落ちている様をよく見るが、そちらはどうかということ……。紙を探してから読める程度の文字で何度も書き直した末、がその手紙に返事を出したのは、鳥が訪れて二週間後のことだった。それからは、三日と空けず返事が来る。
「――さん?」
気がつくと、フォークの先で目玉焼きの黄身を割っていた。濃厚な黄色が皿の上にとろりと溢れている。
もったいない、とは目尻を下げ、「なんでもない」と首を横に振る。目の前にある同居人の皿はすでに空っぽになっていた。
「私、そろそろ行くけど……大丈夫? 調子悪いなら寝てた方が――」
「大丈夫。玄関まで、送る」
太陽のような彼女の表情を曇らせてはいけない。は半ば強引に同居人の背中を押して、玄関に誘導した。しかし、ドアが閉まるまで、薬が仕舞ってある場所や喉に良いはちみつレモンジュースの作り方など伝授される。あまりにも勢いがあったものだから、「我了解、我了解」とは思わず口から出た母国語で、彼女を何度も宥めた。
ようやく閉められたドアに、はふっと息をつく。残った朝ごはんを食べて、皿を洗い終えると、鳥の鳴き声がより大きく聞こえてきた。リビングに戻って鳥籠を覗けば、いつの間にか餌が与えられていて、美味しいと言わんばかりに鳥は喉をクルクルと鳴らしている。それでも、量はそれほど減っていない。おそらく、ここにくるまでに食べてきたのだろう。彼が、使役している動物に餌をやっていないというのは、あまり考えられない。
お前には立派な羽があるのに、その羽で自由に飛ぼうとは思わないの。そもそも、不自由な身でも、その口に含んでいるものは美味しいと感じるものなの。少なくとも、私はここに来るまで食料はお腹に蓄えるものでしかなかったのだけど。
は鳥籠を開けて、今日も鳥の脚に括ってある容器から紙を取り出した。夏も終わりに近づき、夜は少し冷えるようになった。のところはどうだろうか――いつも通り、些細な近況とこちらの安否を問う内容に、はどこからかわき起こる名前の付けられない衝動を覚えて、胸を押えた。
「(……平和)」
彼がこんな浮ついた文章を送るくらい、この国はきっとそういう場所なのだ。
は、自身の唯一の贅沢品といってもいいレターボックスを開く。淡い色を放つ紙の列から、若葉のような淡い若草色の便箋を一枚摘む。そして、手紙を書くならと、同居人が買ってきてくれた万年筆を握った。特に趣味のないにとって、文字を書くことはそれだけで生きがいに値するものがあった。
便箋を脇において、その横に真っ白な自由帳を出す。文章を考えて、最初に自由帳に下書きをし、その後に便箋へ清書をする。辞書を引きながら、伝えたい文字を辿っていく。この国に来た頃は母国語の読み書きすらできなかったが、今では難しい本も丸々完読できる。この国の言語も理解できない言葉の方が少なくなってきて、話し言葉も比較的詰まらないようになった。元来、何かを学ぶことは苦ではなかったらしい。だから、この作業も特段苦ではない。
――むしろ、苦ではない以上の、なにか。
「……ぁ、」
筆が止まっていることに気づき、白い紙に黒の水たまりができている。箇所書きで綴られた文字は、お世辞にも綺麗とは言えない。読みにくいだろうか、汚いと思われるだろうか、そもそも今書いている文章についてどう思われるだろうか――言い知れぬ思いが募って、白い紙には同じような文章が何度も何度も書き綴られていった。
自分のことしか考えたことがなかったにとって、それはほどほどに疲労を伴うことだった。人に伝えることを考えるだけで、遠くにいる相手と同じ糸を摘んでいるように思える。それがひどくむず痒くて、手放したくて、しかし……離れがたくも思う。
……逃げ出したい。漠然と、このままではいけないと思った。せっかく羽を与えられているのに、もったいない。しかし、飛び方が分からないのではまったく意味がなかった。は途方に暮れて、溜息をつく。返事を書かなければ手紙は来ないのだから、書かなければいい。ただ、それだけの話なのに。
「……我想做的事」
複雑に絡み合う糸を、丸ごと仕舞うかのように。書き終えた手紙を容器に入れた後、は鳥を窓から放す。その様は、今の自分よりも自由に生を謳歌しているように見えた。
遠くにあった喧騒が止む。理鶯は気配のある方へ視線を傾けるが、何か勘違いしたらしい銃兎が、吸い終わった煙草を携帯灰皿の中に仕舞いながら申し訳なさそうに眉を下げた。
「すみませんね、理鶯。なんでしたら、私から追って連絡しますが」
「いや、問題ない。小官もちょうど暇を持て余していた」
普段なら、人目の気にならない左馬刻の事務所に案内されることが多いが、こうして屋外で待ち合わせるのは珍しい事だった。なので、寂れた廃墟地にこうして彼が自分達を呼んだのも、何か訳があってのことだろう。
しかし、休憩中だったという銃兎はかなりご立腹の様子。「ったく、左馬刻のやつ……。人を散々待たせやがって……」小さな悪態も、そろそろ山になって崩れ落ちてきそうだ。
時期に来る――理鶯がそう言う前に、後方から聞き慣れた足音がする。ピリッとした気配が理鶯の頬を掠めて、振り返る。どうやら、呼び出した彼も彼でご機嫌斜めらしい。ふと、理鶯は何か食材は走っていないかと地面に視線を這わせた。
「おー。待たせたな」
「ったく……お前は何分人を待たせれば気が済む――」
何か一言文句を言ってやろうと思っていたのだろうが、銃兎の口から紡がれるはずだった言葉はすぐに消失した。代わりに、「……お前、しばらく寝てねえのか」と左馬刻の身を案じるような声色に変わる。彼の面倒見の良さが存分に発揮されるが、左馬刻は色の悪い顔を顰めたまま、無言で煙草を咥えるだけだった。ただでさえ色白な肌から、さらに色素が抜けている。おまけに目も幾分か座っていた。こんなことなら、ベースキャンプにある手作りの飲料物を持ってこればよかった。理鶯は、隣に立つ廃工場の屋根に鼠でもいないかと、今度は遠くにまで目を凝らした。
「ここ何日か親父に扱き使われんだよ察しろや……。あー……くそ、火出ねぇ」
もはや怒る気力もないのか、左馬刻は火の出ないジッポを地面に投げつける。小さな金属音を聞くやいなや、銃兎が自分のジッポを左馬刻に放ると、彼は片手でそれを受け取った。
「そんなに荒れてんのか」
「荒れまくりだ。特に、最近はうちのシマで身売りが増えて堪ったもんじゃねえ」
「でけえのは粗方片したが、雑魚はまだちらほらいやがる」左馬刻は喉を潤すように煙草を吸う。彼の口から吐かれた横暴そうな紫煙が理鶯の身を囲むと、銃兎は合点が言ったように上品な煙をふっ、と吐いた。
「要するに、私達は残飯処理係ということですか」
「まァ、そういうこった。お前はお仲間連れて指定の場所で待機してくれりゃそれでいい」
警察官である銃兎には、必要以上の汚れ仕事はさせないつもりなのだろう。左馬刻の隠された人間性を垣間見つつ、理鶯は彼の視線がこちらに配られたのを察した。まるで、刃物でも突きつけられているような眼光だ。理鶯は顔色一つ変えず、その赤い目の中に自分を閉じ込めた。
「理鶯は俺と来い。どうせ体鈍ってんだろ。ちょうど良い運動させてやんよ」
「承知した」
体のどこかで、血が騒ぐのを感じた。特段戦闘は好みというわけでもないが、これも野性というものだろう。それに、左馬刻のいつもの調子が戻るのであれば、血を流すこともやぶさかではない。
ひとまず、どこかに食料となるものはないかと至る所に目を配らせていると、遠くから羽音が聞こえる。不意に、理鶯は空を見上げて片腕を伸ばすと、灰色の鳥が上腕に向かって降り立ってきた。
「んだその鳥はよ」
「小官の伝書鳩だ」
左馬刻の問いに簡潔に答える。理鶯が鳥の脚についている容器から一枚の紙を出すと、朗らかな匂いが微かに鼻を掠めた。懐に手紙を仕舞い、すぐさま鳥を空に放して、何事もなかったかのように正面を向くが、意味ありげな眼差しを向けた銃兎と目が合った。
「このあいだの女性ですか」
さすがである。この場で言うのもはばかられたが、理鶯は小さく頷いた。中身は見ない。なぜなら、まだ軍議の途中だ。今の理鶯の脳内はあまり平和とはいえない殺伐とした情景に染まっている。そこに私事の介入は許されない。「……言い忘れてたけどよ」
「身売りの的になってんのは日系人の女子供だ。国籍のねえ奴から所帯持ちまで捌かれてやがる」
左馬刻の言葉は、理鶯の心に少なからず波紋を生んだ。おそらく、同じ軍人ならば見破られていた、些細な隙。一瞬だけ過った彼女の背中を思い描くも、それはすぐに消え失せて、理鶯は一瞬だけ目を伏せた。「……そうか」
「敵の標的がなんであれ、小官は任務を遂行するのみだ」
左馬刻が言ったことに対して、本人も特段意味を込めていないことは理鶯も察していた。左馬刻は長い紫煙を吐き終えた後、打ち合わせとは名ばかりの一方的な説明を並べる。それが終わると、短くなった煙草を地面に放り、靴の裏で踏み潰した。
「んじゃまァ、あとはよろしく頼むわ」
言いたいことを言って、左馬刻はジャケットを翻して去っていく。まるで、雷雲が去ったような場の雰囲気に、理鶯は張り詰めていた気をさっと払う。銃兎はというと、重々しくため息をついて、「付き合わせてすみませんでした。よろしければ、森の近くまで送りますよ」そう言ってくれた彼に甘え、理鶯は黒い背中について行った。
――戦火渦巻く上空に、鳥が飛ぶはずもない。それに、彼女は今、安全な巣の中にいる。だから、気に留める必要性は皆無だ。想像の上でさえ、もう二度と、彼女を不出来な世界で呼吸をさせたくない。
ふと、理鶯は容器を開けた時に香ったものを思い出す。指先に残った匂いをすん、と嗅ぐと、口先がほんの少しだけ緩んだ。
「(……金木犀か)」
そうか。の身の回りでは、もう金木犀が咲いているのか。
あの国にはなかった花を見て、彼女は何を思うだろう。無垢な生命が、この世界に触れるたびに少しずつ色付いていく。それはとても素晴らしいことで、喜ばしいこと。まるで、生まれたばかりの雛鳥の鼓動を手のひらの中で感じているような。綺麗な世界をもっと知ってほしい反面、このまま無色透明のまま、ずっと庇護していたいとも思う。
こんなことを思っていることを知ったら、きっとは怒るだろう。そんな、誰も見ることのない彼女の一面も、自身の胸中にだけ留めておきたい。心優しい彼女を怒らせるのは、おそらく、軍人である自分だけだろうから。
