Episode.7



 昔の、夢を見た。つめたくて、息苦しくて、それでいて、この世に二つとない美しいものと対話をした、尊い記憶の海を泳いでいた。


 その日の理鶯は、ぼんやりとしていた。夢現というのか、後頭部に睡魔が張り付いているように、頭の中が靄がかっていた。
 それでも、三百六十度……どこから奇襲を受けても対応出来るくらいには、一切の隙もない佇まいを見せている。なにせ、今歩いている場所が場所だ。気を抜けば先手を取られる。理鶯は今、左馬刻の事務所に足を踏み入れているのである。白くて冷たい床をブーツで踏み、すれ違った舎弟が自分に頭を下げている姿を横目で捉える。いくら左馬刻のテリトリーとはいえ、彼らの肩書きは決して可愛いものではないし、名目上味方とはいえ、やはり理鶯の胸は警戒を帯びている。いつ相手が襲いかかってきてもいいように、心の準備は怠らなかった。
 さて、左馬刻がいるという部屋を訪問してみれば、理鶯の目の前には色とりどりの紙の山が広がっていた。予想もしていなかった展開に目を丸くしていると、「おう。来たか理鶯」とその山を超えたところから声がぽんと飛んでくる。左馬刻だ。それに加えて、部屋の壁にもたれかかる銃兎も視界に捉えた。

「おはようございます。朝早くから呼び出してすみませんね」
「ああ。小官は問題ないが……」

 これは一体。視線だけで二人にそう訴えると、「“うち”宛てのファンレターですよ。中にはプレセントらしきものもあります。左馬刻だけではなく、私と理鶯の分も中王区を経由してこの事務所に送られてきたそうです」と銃兎は言う。心なしか、その声色はいくらか疲弊しきっているように聞こえた。

「下のもんが仕分けたからよ。理鶯のはそこの塊な」
「読むも良し、読まずに捨てるも良し。とりあえず一通り消化して頂けますか。まったく……メディアに出始めてからこれですよ。せっかくの休日が駄目になりました」
「俺のせいじゃねえだろうが」
「何もあなたに言っているわけではありませんよ。自意識過剰も程々にしてください」
「あ゙?」

 今にも戦争が勃発しそうな口論を左から右に流して、理鶯は指定された紙の山に歩み寄る。
 二人に比べると量は少々控えめであるが、やはり多いものは多い。ふむ、としばらく思案して、とりあえず小包があるものは今ここで開けて、手紙は持っていけるだけ持って帰ることにした。途方もない量とはいえ、人が書いたものを読まずに捨てるというのは心が痛む。表でああは言っているが、なんだかんだで二人も同じ気持ちだろう。
 山の中から立体的な梱包物だけを取り出して片っ端から開けてみると、その中身は様々だった。高価なものと見受ける市販の菓子から迷彩柄の衣服やシルバーアクセサリーまで……菓子類は顔も名前も分からない人間から送られたものである以上、口に入れるのはリスクが高い。もったいないがここで破棄させてもらうことにして、その他は実用的なものだけ持ち帰ることにする。いざというときに使えなくなってしまっては困るので、もちろん検品も怠らない。
 これが銃兎曰く、“プレゼントらしきもの”。二人は、多くの人から恨みを買われている故に梱包物には一切手をつけていない(手紙ですら慎重に吟味している)。開けてからでは遅い、と分かっているからだろう。二人を見習って、まずは危険物と思わしきものを排除するべきか、と理鶯はテーブルに残った梱包物にざっと目を通す。
 そんな中、やけに長細い形をしたものがあって、理鶯はふと目に止める。手に持ってみると、それはずしりと重たく、どこか手の平に馴染む感覚があった。理鶯の頭に警鐘が鳴る。どこか性急な手つきで包装を取ってみると、それは、昔よく懐に入れていた――

「おい、ぼさっとしてんじゃねえよ理鶯。さっさとここらへん片して――」

 固まった理鶯を見兼ねた左馬刻が歩み寄ってくる。しかし、理鶯の手の中に収まったそれを見て、左馬刻はその赤い目をかっと開く。理鶯の肩口からそれを覗きこみ、「おいおいおい」と面白げにそれを奪い取り、手の中でくるくるとそれを……一本のナイフを弄んだ。

「真っ向から喧嘩売られてるじゃねえかよ。おい銃兎、差出人は」
「書いてあるわけないでしょう。まあ、理鶯が望むのであればこちらで差出人を特定することもやぶさかではありませんが――理鶯?」

 なぜ、この国にある。てっきりもう、売られていると思っていた。ならば、輸入物として紛れ込んだのか。
 いや、違う。そもそも、なぜ自分の元に戻ってきたのか。理鶯はひどく混乱していた。頭の中は子供が描いた落書きのようにぐちゃぐちゃで、ついに思考回路も限界を越してしまい、なぜだか、昔の記憶が眠りから覚めたような感覚がした。あの頃は、尊い何かを抱いていた。それでも、大切なものと天秤にかけて、どちらかを捨てなければならなかったから、あの小さな町にすべて置いてきた。その感情が花弁のように散っていくのを感じながら、理鶯は船の上にいたのだ。
 今頃、芽吹いたところで、やり場のないこの気持ちはどうしたらいいのだろうか。理鶯は、声の出し方を忘れた。久方ぶりに潜る海の底は真っ暗で、息が出来ないほかに感じるものは、未知のものに足を引きずり込まれそうになる、確かな恐怖だった。







 何かを為したいわけではなかった。ただ、彼女との記憶が深海に眠る財宝を見つけたように放っておけなくて、もう一度話がしたいと、漠然と思った。
 ナイフを送った差出人のおおよその住所を割り出すまで、そう時間はかからなかった。ポスト投函ではなく郵便局を介しての郵送物だったことが幸いし、銃兎が部下との電話を終えて、投函された郵便局から記載された差出人の住所のメモを指で挟みながら、「行きますよ」とクレバーに言ったのはほんの数時間前。サツカン暇人すぎんだろ、という左馬刻の呟きは理鶯の耳だけに届いた。
 銃兎に車を出してもらい、向かった先はシブヤ・ディビジョンにある穏やかなアパート街。もうじき四月……並木道に立っている桜の木には蕾が膨らんでいる。そして、一軒の三階建てアパートの前に車が停まると、ここまで運転してくれた銃兎と暇だからと同行した左馬刻に礼を言って、理鶯は車から降りた。

 コンクリート製の階段を上がり、三階の角部屋の前で止まる。一際跳ねる心臓を落ち着かせるように、理鶯は深く息を吸って、ゆるりと吐いた。
 黒色のインターホンを一度押すと、複雑に絡み合う理鶯の胸の内とは反対に、ぴんぽーん、とそれは軽快な音を奏でた。

「はーい!」

 部屋の中から快活な声がする。彼女の声ではなかった。
 気の抜けない脱力感を覚えたと同時に、少し時間が空いて、おそるおそるといった風にドアが開く。その先にいたのは、見た目二十歳前後の女。理鶯を一目見た彼女は明らかに困惑した様子でこちらを見上げている。それはそうだ。迷彩服を身にまとった大男が、女性の住むアパートにいきなり押しかけてきたのだから。

「突然の訪問を許してほしい。という女は、この部屋の中にいるだろうか」

 女の目の光が揺れる。彼女は何度か瞬きをした後、首を小刻みに横に振った。
 しかし、理鶯には分かってしまった。彼女が嘘をついていること、そして、身も知らぬ男に住処を脅かされて警戒していることも。
 そんな子鹿のような彼女に対して、理鶯は威圧的に問い詰めたりはせず、「そうか」と素直に呟いた。もう、手の届く場所にいるというのに、彼女とコンタクトが取れないことに寂しく思う反面、どこか安堵している自分がいた。

「小官は、毒島メイソン理鶯という。に……もちろん貴女にも、危害を加えるつもりはない。もしも今後、に会うことがあれば、これを返しておいてくれないだろうか」

 理鶯はお守りのように入れていた腰紐を懐から出して、彼女の手のひらの上にゆっくりと落とした。長い年月をかけて、それは灰色に近い色になるくらい汚れているし、布の端は所々ほつれており、細い糸が風にあおられている。
 決して綺麗とはいえないそれを見て、彼女は腰紐から顔を上げた。どこか悲しそうに目をきゅ、と細めて、あなたはこれでいいのか、と言っているようだった。
 いいのだ。会うことを、彼女が望んでいないのであれば。理鶯は踵を返して、上ったばかりの階段を下る。背後でドアが閉まる音がしたのを最後に、緊張の糸がふつりと切れた感覚がした。
 もう、とっくに売られていると思ったナイフ。それを今日まで彼女が持っていた。それが意味することとは何なのか、きっと、会って問うても、彼女は真実を教えてくれはしないだろう。いずれ、過去として時間に葬られること……こちらで都合の良いように想像するのを、彼女は許してくれるだろうか。

「リオ!」

 ――不揃いなことば。ただ、昔よりもどこか丁寧な発音で、理鶯の頭を揺さぶるように木霊した。
 理鶯は目を見開いて、声のする方を振り返る。階段を下りきった理鶯を、三階の共用廊下から焦ったようにこちらを見下げている女がいた。彼女は早足で階段を下り、こちらに向かって走ってくる。……だ。理鶯にはすぐ分かった。髪が綺麗に結われていようと、日本固有の衣服を身にまとっていようと……その声と表情は、理鶯の記憶にある、以外の誰のものでもなかった。
 は理鶯の前まで来ると、はあ、はあ、と息を切らし、弱りきった眼差しでこちらを見上げている。その荒れた呼吸を落ち着かせたい気持ちになりながらも、理鶯は子供に童話を読み聞かせるように優しくこう言った。

の話せる、言語でいい。昔のように完全ではないが、おおよそ分かる」

 どうやら日本語は伝わるようで、返事をするようにの体はぴく、と震えた。は頻りに上下する胸を手のひらで抑えて、すう……はあ……と、大きく深呼吸をした後、彼女の唇はゆっくり動き出した。

「……どうして、ここが分かったんですか」

 久方ぶりに聞く、異国の言葉。理鶯は、一度耳に入れたの声を何度も頭の中で行き来させて、その言葉をゆっくり飲み込んだ。

「小官のチームメイトの中に、警察官の男がいる。本来ならば、こうして住所を特定することは違法だが、物が物だったので彼に協力を仰いだ」

 「しかし、は小官がこうすることを分かっていたのだろう」メディアを見て、が理鶯の存在を知ったのなら、もちろん銃兎が警官であることも知っていたはずだ。理鶯との関係を完全に絶つつもりだったならば、ナイフを送るということはまずしない。理鶯の記憶にあるは、予想をしていなかった、などと思って、こんな安い判断をする女ではなかった。

「それより、はなぜ日本にいる。クーデターはあれからどうなって、あの町は一体――」
「待って」

 理鶯は言葉を止める。待て、と言われた次は話せ、と指示があるのを待つ理鶯だが、は何も言わずに、近くの原っぱにあるベンチに理鶯を誘導した。ひと一人分距離を開けてお互いに腰をかけた後、は鈍い口の動きで話を始めた。

「……あなたが私に忠告をした日の翌日、夜が明ける前に、町は人々の怒号に覆われました」

 曰く、はあの住家にずっと身を潜めて、まるで生きた心地のない時間を過ごしていたらしい。それを聞いて、理鶯は驚いた。てっきり、逃げているものとばかり思っていたから。
 言葉こそなかったが、理鶯の言いたいことを汲んだらしいは、ふ、と息を零した。

「置かれた環境に自分が振り回されることに、疲れたんです。今まで、自分の意思とは反対の環境下に置かれて、その度に、身のねじれる思いをしてきました」

 「でも、あなたが……あんなことを言ったから」は途端に震えた声を潜めた。あんなこと、とは。理鶯が思い出すよりも早く、は言葉を続ける。

「気がついたら、家から飛び出して、町の中を走っていました。火の届かない場所……港の船着場まで行くと、小さな貨物船が停まっていたので、無我夢中でその船に乗り込みました。どこの国のものなのかとか、どこに行く船なのかとか、そんなことを、考えている余裕もありませんでした」

 「必死だったんです。まるで、瀕死の動物みたいに目の前の餌にすがって。傍から見たら、きっと滑稽だったことでしょう」は自嘲しながらそう言った。しかし理鶯は笑えなかった。もしも、その時の彼女を嘲る者がいたなら、きっと理鶯は怒りを露わにして、その胸倉を引っ掴んでいただろう。そして、今過去に戻ることができたのなら、そんな瀕死の彼女の元にこの足で駆けていきたいとも思った。

「船が出港して、何日……何週間揺られていたか、分かりません。食べ物は、船の中にあった水と食糧を少しずつ口に含んでいました。何度か船が停まったような気配はしましたが、外の様子も見れなかったので、自分が今海の上にいること以外は、何も分かりませんでした」

 そして、太陽の光を忘れた頃……最終的に着いた先は、ヨコハマの港だったという。
 船員の目を盗んで、は貨物船から降りた。しかし、地面を踏んで進む先には、知らない世界ばかり広がっていた。道を覆うほどの雑踏も、背の高いビルも、耳の傍で右往左往する理解できない音も……何もかもが初めて感じるものばかりで、はひどく恐ろしかったと言う。
 そこまで聞いて、理鶯はどこからか視線を感じた。周囲を警戒しつつ木の影に目を映すと、それを注いでいた主と目がぱちんっと合って、ぴゃっ! とモグラ叩きのように引っ込んだ頭。そしてまた、そろりとこちらを覗きこむ顔。先ほど、玄関にて理鶯を迎えてくれた彼女だ。その手に持っているのは、大ぶりのフライパンだろうか。おそらく、の身を案じているのだろう。理鶯がに何かしようものなら、そのフライパンを武器に襲いかかってくるにちがいない。良い判断だ、と理鶯は感心する。
 そんな彼女の存在にも気づいたようで、その木の影を見ながら、やや頬を緩めた。

「彼女は、私の同居人です。街をさまよっていた私に声をかけてくれて、この国で生きていけるように今日まで色々と助けてくれました」

 日本で暮らすことを決めたとき、は戸籍をつくった(予想していたことだが、あの国ではの戸籍はそもそも存在していなかった)。そして、今は多国籍企業の工場で働いているとのこと。はしばらく彼女の実家で厄介になっていたが、彼女の就職と独立を機に、二人でこのアパートに移り住んだという。
 こんなにも近くにいただなんて、理鶯は夢にも思わなかった。ただ、同じ空の下……が生きていることを信じて、軍が解体されても、組織の復活を願いながら彼女のことを想っていた。
 そんな中、同じ街でさまよっていた彼女を見つけたのがなぜ自分ではなかったのだろうと、理鶯は少しだけ苦く思う。あの町を出航した時は、後悔はおろか迷いもなかった。今もなお、自分の選択が間違っていたなどとは思わないが、後悔をしていないそんな自分を、理鶯は少しだけ嫌悪した。

「あなたからもらったナイフ以外、あの国から持ってきたものは何もありません。死んだあの子も、今もなおあの町で眠ったままです」

 「だから、いっそ、あの過去をなかったことにしたかった。ほんの数年前まで身も知らぬ男達に体を売っていたなど、誰が好き好んで昔話にしようと思うでしょう」は苦しそうに顔をゆがめながらそう言った。
 持っているのは心が痛む。かと言って処分するにも困るそれを、はずっと手元に置いていた。にとって、自分の存在は思い出したくない過去の異物の一つなのだろうか。
 理鶯がそう問おうとするも、の表情を見て、言葉が詰まってしまった。は両手を握りしめながら、苦々しく言葉を落とした。「……嘘です」

「私がただ、忘れられなかっただけ。あの町で親に捨てられたことも、彼女と一緒に生きて、かつ見殺しにしたことも、あなたを介抱し、ほんの少しの時間のあいだ話をしたことも……。この国で新たな暮らしを始めてからも、まるで呪いのように、私の頭から離れなかった」

 善人にもなれず、かといって非道にもなれず、は中途半端な人間である自分に、ずっと悪夢を見せられていたと言う。
 もう、話すことさえ精一杯とばかりに両手を震わせるの手を、理鶯は自身の手で上から覆うように握りしめる。痺れたようにびりっと震えたの手だったが、意外にも叩かれもせず、互いの熱が交じっていく感覚をゆるりと味わった。

「その悲しみは、の心が清い証だ。小官が大切に思う自身を、どうか憎まないでほしい」

 介抱された礼より、あの時助けられなかったことへの謝罪より、これが、理鶯の言いたかったことなのかもしれなかった。それも、昔よりその想いが大きくなっている気がする。会っていないのに、夢の中で残像がたまに過ぎるだけだったのに、本当に、のこととなると自分の身に不思議なことばかり起こる。しかし、それは特段苦痛ではなかった。
 喉の奥にあった、長らくつかえて取れなかった棒が取り払われたように、の体がふ、と脱力する。さらに、理鶯の手のひらからするりと手を抜いて、「相変わらず……知ったような口を利くんですね」と。その声は、あの町では聞けないようなやわらかな色をしていた。

「すまない。そういうつもりで言ったわけではないのだが――」
「分かっています。昔から、あなたは私が思ってもない言葉ばかりくれる」

 ゆっくりと立ち上がるを習って、理鶯もまた、ベンチから腰を上げる。ここに来るまで吐き出せない不安を纏っていたが、どこか吹っ切れた表情をした彼女を見て、少なからず、理鶯はここに来てよかったと思えた。

は、今後もシブヤ・ディビジョン内で暮らすのか」
「国に、連れ戻されなければ。でも、女性亡命者への措置は中王区が取り仕切っているので、可能性は低いでしょう」

 ……いる。が、この国に。それも、会いたいと思えば、会える距離に。理鶯は、長年無意識に押さえ込んでいた感情を抑えきれず、溢れたそれを丁寧に掬い上げた。

「また、こうして会いに来てもいいだろうか」

 変なことを言ったつもりはなかった。しかし、それを言った後に互いの間に妙な空気が流れたのを、理鶯は察した。自身の内側を見直してみると、せっかく結び直した繋がりを絶ちたくないと、どこか焦燥的になった自分がいた。
 性急が過ぎた、と反省するよりも先に、表情を固まらせたはばつ悪そうにこう呟く。

「……あなた、かなりの有名人でしょう。そうでなくとも、あなたのような大男と一緒に歩くだけで目立ちます」

 「注目されるのは、嫌いです」凍えるように腕を組みながら、はふっと目を逸らす。許可が下りる可能性は低く見積っていたが、いざ面と向かって言われると、こんなにも心寂しくなるものか。
 しかし、の嫌いなことは、理鶯もしたくない。がそう言うのなら、仕方がない。ただ、そうか、とも、分かった、とも言う余裕がなく、理鶯はただ地面に視線を落として静止してしまった。放心、と言った方がいいのか。
 そんな理鶯を見兼ねたは忙しなくうろうろと視線を迷わせた後、またぼそぼそと呟いた。

「ま、まあ……。文通くらいならしてあげても、いいですが……」
「本当か?」

 どんな小さな声であれ、の言葉を理鶯が聞き逃すはずがなかった。突然差し出された救いの手に、ずい、と体を前のめりにさせた理鶯。体がくっつきそうになるくらいに近づいたことに狼狽えたは、「待って、待ってください」と早口で言った。

「文通といっても、読むのはいいとして、私は自分の国の言葉さえまともに書けません。日本語も不完全で、まだほとんど分かりませんし――」
「ならば、が白紙で出した手紙に、小官がの国の言語で文字を書こう。それを繰り返せばいい」
「それは文通と言えるんですか……。それに、そのやり方だとあなたばかりに不利益が被っているのでは」
「どんな形であれ、小官はとやり取りができるのならそれで十分だ。が気に病む必要はない」

 「それでも、駄目だろうか」理鶯が若干眉を下げながら問うと、うぐ、と言葉を詰まらせる。しばらく沈黙が続いたが、ついに、見ていられない、というように彼女は渋々とため息をついた。

「書くのは……日本語でいいです。私も、文字を書きます。字の読み書きの勉強にもなりますから」
「では――」
「ただし、私も忙しいので。手紙を送る頻度も、私の都合によりけりですよ」
「ああ。了解した」

 一日に数時間会うよりも、何日もかけて一つのやり取りをする方が、長く一緒にいる感じがする。それに、実際会っていなくても、手紙として形に残り、それを読み返せばいつでもと対話している気分に浸れる気がして、理鶯はとても良いことだと思った。
 もう、夢の中で溺れなくてもいい。これからと共に続くであろう近い未来を想像して、理鶯の顔が柔く綻ぶと、こちらを見上げていたは耳から頬にかけてじわじわと赤く染まっていった。「?」

「すまない。季節の変わり目にも関わらず、外で長く話し込んでしまっただろうか」

 春先とはいえ、まだ冷える時期だろう。自分のことばかりで、を気遣う余裕がなかった。理鶯は猛省しながら、の顔の輪郭に手を当てると、彼女はわなわなと震えた後、ものすごい勢いで顔を逸されてしまった。そして、声もなく理鶯が固まっている間に、は背中を向けて走り去ってしまう。
 その様子を見ていた同居人である彼女も木の影から出てきて、走り去ったと直立不動の理鶯をおろおろと交互に見た後、理鶯にぺこっと会釈をして、の背中を追いかけていった。アパートのドアが閉まるまで、理鶯は二人の後ろ姿を見つめていた。
 もう、あの腰紐はない。しかし、もう二度と、手に触れたこの感触は忘れない。忘れるものか。再び、胸に宿った彼女の記憶。以前よりも色鮮やかで、きっと、雨が降っても、海に落ちても、色褪せることはない。生まれたばかりの感情を大切に愛でながら、理鶯は春芽吹く原っぱに佇んでいた。