Episode.6



 は、とある料亭の下働きの女の子供として生を受かり、生まれた時から奴婢の身分だった。そして、十の時にこの町に捨てられ、同じような境遇を持った女子と二人で、細い肩を寄せ合った。毎日のように市場から食べ物を盗み、平気で人を騙す日々……すべては、自身の明日のため。自分の体に虫がたからないように、生きていくため。年頃になって、自分のこの身体が金銭になって返ってくるようになってからは少しだけ生き方が楽になるが、心は廃れていった。
 たとえ、世界が終わる瞬間になっても、使いどころがある女の身体でよかったと思うと同時に、仕事の最中はこんな体に生まれてしまった……こんな掃き溜めのような環境に捨てられた自分を、は何度も呪った。

ねえさん。わたしね、恋をしたんだよ」

 そんな中、自分と同じ苦痛を味わった彼女が……この世界から飛び立とうとしていた。
 曰く、常連だった陸軍の男と懇ろになったらしい。軍を抜けて、君と幸せになりたいなどと愛を囁かれ、彼女はまるで天国の果実を啄んだようにうっとりと頬を綻ばせていた。他の男よりも手持ちがあり、いくらか多く稼げるので、も何度か軍人の相手をしたことがある。しかし、我が物顔で町を歩き、娼婦に払うものを払って、あとは家畜のように手酷く抱いてくるので、は彼らに対してあまり良い感情は抱いていなかった。そもそも、彼らがどんな理由にこの町にいるかも分からないのだ。町を守るためだとかなんとか声高らかに言っているが、普段の素行から、頭の螺子が外れた故の戯言ではないかと思う。
 そんなの危険よ、相手をした時はいつも泣きながら帰ってくるじゃない、もう少し様子を見たほうがいい――とにかく、は彼女をこの世界に繋ぎ止めようと必死だった。ただ、生まれて初めて見る彼女の幸福そうな顔を見たら、騙されているとだけは、とてもじゃないが言えなかった。固くないパンを食べる時より、泥の交じっていない水を飲むより、その“あい”とやらはとてもおいしいものなのだろうか。には理解できなかった。
 唯一の拠り所である彼女の知らない部分……自分だけこの世界に置いていかれる焦燥感と、顔も名も知らない男に向ける嫉心。そんなどろどろとした感情を露にする自分を、彼女はのすべてを分かったような表情で大丈夫、と笑った。大丈夫、彼は大丈夫だよ。本当に、ねえさんは心配性だね。優しい彼女は、この世界よりも泥まみれた自分の内心など、これっぽっちも理解していなかった。

 結局、彼女はその男とこの町を出る約束を交わしてしまった。その夜は雨が降っていて、視界は頗る悪いし、足場もぬかるんでいる。とてもじゃないが外に出る気になれない日だ。それでも彼女は、まるで干ばつ期の恵みの雨だと言わんばかりにはしゃいで、雨降る夜の町へくり出してしまった。港近くの大木の下で待ち合わせしているの、とまるで遊びに行くように彼女は言った。
 いやだ、と駄々をこねる自分を、は押し殺した。こんな掃き溜めのような場所で暮らしてきた彼女が、ようやく人並みの幸せを掴もうとしている。この汚染まみれた世界から飛び立とうとしている。それを、こんな……身勝手な理由で邪魔をしてはいけない。今自分が抱いている感情は墓まで持っていって、この針のように胸に刺す思いは一気に飲み込んでしまおうと、はえづきそうになりながらも必死で嚥下した。
 だって、あの子は、あんなにも嬉しそうに笑っていたのだから。邪魔をしてはいけない、羽をもぎとってはいけない、籠の中に閉じ込めてはいけない――そう、頭の中で念じ続けた。

「え……?」

 それでも最後に、家族同然だった彼女を見送ろうと、その後をこっそりとつけていた。しかし、の目の前に飛び込んできたのは、男と共にこの町を発つ彼女の背中ではなかった。灯台の明かりに照らされる港。地に這っているのは、彼との新しい人生のためにと奮発して買った衣服を無残に破かれた彼女。その周りを五、六人の男が取り囲み、彼女の全身を余すことなく蹂躙していた。
 は頭が真っ白になった。耳を塞ぎたくなるくらい煩かった雨の音すら気にならなくなるくらい、まるで、鈍器で後頭部を殴られたような衝撃だった。他人であるですらそうなのだ。今あそこにいる彼女は、一体どれだけの絶望の底に叩きつけられているだろう。彼女は騙されていた――は瞬時に悟った。
 しかし、腸が煮えたぎるほどの怒りを抱えつつも、足はすくんで、声すら出なかった。彼女は今、あんなひどい目に遭っているのに。この場に、彼女の味方は自分しかいないのに。早く助けなくては、でもどうやって……あの中に飛び込んだとして、自分も奴らの餌になるだけだ。そう考えているうちに、あれだけ泣き叫んで助けを求めていた彼女の声は、いつのまにか止んでしまった。残ったのは、地面を叩きつける雨音と、それに交じって聞こえる男達の下品な笑い声だけだった。

「そこで何をしている」

 唖然としていたの意識が、微かに現実に戻ってきた。ふと顔を上げると、何がどうなっているのか……新たに来た男が奴らと交戦していた。あの男は誰だ。奴らの仲間か、それとも港の漁師か……困惑しているに分かることは、奴らの注意が男に向いていて、彼女が一時の痛みから開放されているということだけだった。
 その男は一人だった。人数的に不利な状況にも関わらず、一矢報いる形で奴らに痛手を負わせている。しかし、彼らが手負いになって去る頃には、男もまた、地に伏して動かなくなってしまった。
 再び雨音しか聞こえなくなって、の体はようやく動いた。

「ねえっ……ねえッ、起きてっ、起きてったら……!!」

 は、あられもない姿で地面に転がされていた彼女の体を抱き上げる。彼女のうつろな目は、灯台の光を浴びてもなお、その瞳の奥にあったはずの光を取り戻さなかった。私の太陽は、どこへ行ったの。もう、全部、雨に流れてしまえばいいのに。彼女の身体に散らかされた体液も、彼女が一時見ていた泡になって消えてしまった幸福な夢も、崖から落とされたような胸に刺さった痛みも……すべて、この雨が、無に還してくれたなら。
 ……不意に、かひゅッ、と彼女の喉が乾いた音を立てた。今のは、声のつもりだったのか。小鳥が朝を告げるような……あんなにも美しかった彼女の声の面影はとうに失せていた。その最後の灯火が消える間際、息音だけで彼女の意思はへと伝わる。

 ――あの人を、助けてあげて

 あの人――は雨に打たれて倒れている男を見る。意識を失っているのか、ぴくりとも動かない。どれだけお人好しなの。どうしてこの期に及んで他人の心配をするの。そう思いつつも、は彼女を非難する言葉をぐ、と飲み込んで、彼女を木の下に一旦避難させた。
 ……そうだ。彼女は、こんな地獄のような世界で生きるにはもったいないくらい、とても優しい子だった。


 ――それから、数日後。彼女が受けたかなしみは計り知れないもので、男を見るだけで震え上がるような体になってしまった。の懸命な慰めも無駄に終わり、ある朝、路地に寝そべっていた彼女は、虫の集り場になっていた。はその時、声を忘れてしまった。ただうつろな目で、死体を見る他なかった。その目が燦々と輝くことも、その頬がやわらかく綻ぶことも、二度とない。が全身に浴びた途方もないこの喪失感は、いったい、どこで洗い流せばいいのだろう。彼女は、これ以上の苦い思いを抱えていたのだろうか。体が八つ裂きになるような、いっそ殺してくれと懇願したくなるような……それほどに辛く、苦しくなるような幸せを、夢見ていたというのか。そんなものを知らなければ、彼女はいつものようにの元へ朝を告げに飛んできたのかもしれないのに。







 優しい子だ。最期まで、彼女は優しい子だった。だから、自分にあんなお願い事をしたのだ。



 彼女の死から数日が経った。相変わらず後ろからついてくる声に構わず、は人を掻き分けて、ひたすら前に突き進んでいく。あの夜、あの人を助けてあげて、と彼女に言われたから、そうしただけ。包帯なんてなかったから、自分の腰紐を巻いて、止血をしただけ。彼女がそう言ったから、はそうしただけだ。その男が死のうとどうなろうと、にとってはどうでもいいことだった。なのに、こんな面倒なことになるなんて、誰が予想しただろう。
 この小さな町で、男は彼女を見つけ出してしまった。件の腰紐を律儀に持って、自分を助けた女を探しているなどと言う。這いつくばった彼女に話しかけているところを見た時はどうしようかと思った。それでもなんとか注意を逸らして、住家へ誘い込んだ。鎌でその項を掻き切ってやろうと思うも失敗に終わり、代わりに、こんな無意味な時間を強いられてしまった。自分を探している理由も、礼だとかなんとかそれらしいことを言っているが、どうせ巻き込まれた腹いせをしようだとか、ろくでもないことに決まっている。見れば、彼も軍人のような風貌をしていて、彼女と接触した時は殺意すら芽生えた。何が礼だ。あなた達が彼女をこんな目に遭わせたんでしょう。は世界のすべてを焼き尽さんとばかりに、彼のことを憎く思った。
 ……それでも、本当はすべて分かっていた。港に停泊し始めた大きな船の存在も、陸軍の素行が少し大人しくなったことも、この男と奴らが、まったく別種の人間であることも――あの日の夜、この男の目的は何だったのか分かりかねたが、結果、彼女はあれ以上の辱めを受けることはなかった。分かっていた。敵でないことくらい、その意図がなくとも、彼女を助けてくれたことくらいは。しかし、この腹から溢れ出す憎悪をぶつける場所が、他に見つからなかった。奴らに向けてしまえば、次は自分が彼女と同じ目に遭う気がして、夜も眠れないくらい怖くなった。彼女を死に追いやったのはこの優男だと言い聞かせることしか、は彼女の死を受け入れることができなかった。
 
、今日はいつもより人が多い。そんなに急いでは危険だ」

 もう、彼女はここにいない。なのに、自分はいつまでこんなことを続けるのだろう。丁寧に名を名乗り、時にはこんな奴婢の心配までして、他人の侮辱を聞いたくらいで怒る、この男に――

 ――「小官は、に対して命令するつもりも、ましてや自身を支配するつもりもない」

 は後ろをちらりと見る。かなり早く歩いていたつもりだったが、元々の歩幅が違うのだろう。距離を離すどころか、彼は自分の後ろにぴったりくっついている。目が合うと、こてん、と首を傾げて、はぐ、と息を詰まらせてしまう。自分よりも遥かに大きい体格をしているくせに、時折大型動物のような仕草をする彼に、は何度も調子を狂わされる。このまま海に入ったら一緒に死んでくれるのだろうか。いや、その前にその自由のきく片腕で止められるだろう。自分が憎しみを滾らせているとは知らない顔で、非情なくらいその無垢な目で――

 ――「美しく澄んだ水面には月が映し出される、という意味だ」

 ……あの子が、あんなことを言わなければ、こんなこと。
 はふん、と顔を逸らして、再び歩き出す。後ろからついてくる足音を聞きながら、本当に、いつまでこんなことを続ければいいのだろう、と。そう自問しても答えられない自分自身が、は心底嫌になってしまった。







 雨は好きだ。嵐の日は特に好きだ。狭いあばら屋に一人だけ……誰も招かない唯一の日。それに、この雨の下では同じ人……身分関係なく、皆平等に思えた。あの男も、今日ばかりはここに来ないだろう。
 ……しかし、はふと思う。最近ようやく彼のことが分かってきて、自分が思っている方向とは逆のことを思っているような男だ。今回もまさか、いやそんな――一縷の予想を思い描いてしまって、はぶんぶんと首を横に振る。なぜなら、今回の嵐は今年一番と言ってもいいほど荒れている。ひとたび外に出ようものなら、海に沈められたようにびしょ濡れになるか、荒れ狂う風に体が飛ばされてしまうかのどちらかだ。いくら馬鹿とはいえ、大の大人がそこまで頭が回らないはずはない。
 それでも、は少しだけ……ほんの少しだけ、外を覗いてみることにした。普段通る道に木々が倒れていないか見るだけ……そう、それだけだ。別に、万が一彼がそこにいたところで、どうとも思わない。見て見ぬふりをするだけだ。そう思って、がそうっと荒家から顔を覗かせると、件の大木の下には、晴れた日と同じように彼がそこに立っていた。

「リオッ!!」

 考えるよりも早く、の足は、声は、彼へと向けられていた。そして、自分に気づいた彼は目を丸くしていた。なぜあなたがそんな顔をする。そうしたいのはこちらの方だ。そして、は気づいたことがあった。いつから彼を――リオという男のことを名で呼ぶようになってしまったのかと。
 木の下まで駆けていって、こんな嵐の日にここにいる理由を聞いてみれば、本当に馬鹿馬鹿しいものだった。彼のことを考えていたこの数分間を返してほしい。半ば自暴自棄になってしまって、は理鶯を住家に引っ張っていく。は雨でぺっとりと潰れている理鶯の髪を横目で窺いながら、彼に向かって薄汚れた手拭いをばさりと投げた。
 理鶯という男が、は正直恐ろしかった。もちろん、いつ手酷く犯されるか分かったものではないし、いつ命を奪われるかも分からない。それ以外にも、まるで同じ人間ではないような気を含んでいて、彼についての情報が少なすぎた。実際、くしゃみをした彼は自分の暖になると言いのけて、本当に、何を考えているのか分からない。……いや、これはただ馬鹿なだけなのだろう。は理鶯の未知の部分をそう埋めることにして、彼の頑固さを窘めた。

が嫌なのなら、仕方がない」

 支配するつもりはない――あの言葉を言われた日から、意識するようになったことがある。たしかに、理鶯はに何か命令することはない。ただ、彼なりに我慢ならない時は、何も言わず、その二つの瞳でこちらに訴えてくる。今も、きっと無意識なのだろう。まるで、の体内に宿る寒気に殺意を向けているようで、は途端に居心地が悪くなった。なぜ、軍人にそこまで心配されないと――

「……五千ウォン」

 ……なにが、心配だ。そんな期待など、したくない。
 は彼の真意を汚い対価で覆った。すると彼は、金銭はないからと一本のナイフを差し出したので、は拍子抜けした。こんなものを与えて、今自分が襲いかかったらどうするつもりなのだろう。もう味方と思っているのか、ひ弱な女に自分が負けるはずがないとでも思っているのか、それとも、もう襲うつもりがないと分かっているのか……そんな終わりのない迷路から逃げるようにして、は理鶯の胸の中にすっぽりと収まった。背中を向けているのに、理鶯は律儀に両腕を回してきたので、の全身はぞわ、と逆立つ。初めて男に抱かれるわけもないのに、なぜだ。このむず痒いものは、一体なんなんだ。

「ところで、私がここから出てこなかったら、どうするつもりだったんですか」
「そこまで考えていなかったな」

 「しかし、結果的には出てきてくれた。何か用事があってのことだと思うが、偶然が重なってよかった」本当に、彼は心からそう思っているのだろう。自分のことを考えられていたなんて知らずに。そこでようやく、は彼の存在を意識していたことに気づいて、身を固くし、その口から重々しい溜息を吐き出した。本当に、彼と出会ってから、自分はどうしてしまったのだろう。笑っている理鶯は、特に嫌いだった。彼を見ているあいだ、胸の奥がずっと擽られているようで、ひどく気持ちが悪いのだ。

「……左腕。まだ、痛みますか」

 未だに白い布で覆われている腕を見つめていたら、そんなことがぽろりと零れた。きっと、生きていた彼女ならば心配しただろう、と思っただけ。自分のせいで怪我をさせてしまった、と。あんなことをされてもなお、他人を気遣って、それこそ、天使のような子だったのだ。だから、今の言葉はの本意ではない。
 本意ではない……のに、なぜだろう、彼の未知の部分に、光を当てたいなどと。ただの娼婦のために怒り、跪き、こんな嵐の中外に飛び出す……おろかな軍人。軍人でなくとも、こんな人間を、は知らない。見たことがない。もしかしたら、理鶯という男はの知るような人間ではないのかもしれない。
 それこそ……異国からやって来た渡り鳥のような。

「あなたは……どうしてこんな怪我を負ったんですか」

 こんな話をするつもりなんてなかった。それでも理鶯は、子どものような素直さでぽつぽつと語りだした。港一人歩いていたところに五、六つの人影を見たこと。話しかけると、彼らが突然襲ってきたこと。その中心には女が一人いて、あられもない姿で辱めを受けていたこと……彼は、あの女のせいでという恨み言は一切吐かず、ただ淡々と、あの夜にが見た出来事をそのまま語っていた。
 「朦朧とした意識の中、手当てをされている感覚はあった。しかし、気がついたら朝で、倒れていた女も男達もすでに消えていた」それは、彼に負傷を負わされた男達が去っていった後、隠れていることしかできなかった自分が、彼女を運んだからだ。その後、男達によって彼女の喉が潰されていることを知り、は理鶯の腕に処置を施した。自分の心臓の音が、背中を伝って、彼に聞こえているように感じた。嗅覚で人を探そうとするような野生児だ。きっと、もう、彼の中で答えは出ているのだろう。
 ……嫌な沈黙が体を刺す。は、爪が手のひらに食い込むくらい両手を強く握りしめた。

「あなたが見たのは、奴らに喉を潰され、後日自ら命を経った娼婦です」

 怖かった。だからまた、嘘を重ねた。何もできなかった自分がどう思われるのかが……世界のすべてをまっすぐでまっしろなものだと疑わない、その澄み切った瞳が濁る瞬間が、空腹であることよりも、喉が渇くことよりも、おそろしくてたまらなくなった。
 しかし、の言ったことを、理鶯は静かに肯定して、それ以上何も言わなかった。雨が止むのを静かに待つように、それきり彼は動かない。これで、よかったはずだ。なのに、先ほどよりもいっそう理鶯の脈動を感じてしまって、またしばらく胸がねじれるような苦痛がを襲った。頬に流れ始めたこれが、稀に上から降ってくる雨に混じらないかと切に願っていた。







 いつからだろう。男に抱かれながらも外を意識して、彼がもういるのではないかと考えるたび、羞恥を覚えるようになったのは。あの木の下で変わらず彼が佇んでいるのを想像して、いっそう、は自分が醜く見えて仕方がなかった。

 ――「が自身のことをどう思っていようと、小官にとって、ずっと、は慈しむべき存在だった」

 あなたは、私に、何を運んだの。あなたはこの短い期間に、私に何を与えたの。ねえ、まるで、全身で火の棒をたたかれたように、胸が痛いの。これ以上、その澄み切った瞳の中に、私のような醜い女を閉じ込めないで。
 理鶯と最後の会話をしたその夜……は一睡もできなかった。長かったはずの人生で、思い出すのはたった数週間の数時間出会っていた、彼のことばかりだった。夜が明けるのを待たず、このまま眠るように死んでしまえたらいいのに。幸福の輪から自分を遠ざけた神様は、それすらもさせてくれないらしい。

 ――「ねえさん。わたしね、恋をしたんだよ」

 ねえ、あなたはどうやってその想いを見つけたの。この胸がえぐれるような痛みに名前を付けたいのに、おそろしくて堪らないの。だって私、あなた以外の誰かを、こんなにも想ったことなんて一度だってないのよ。
 朝を知らせる小鳥のさえずりが聞こえるよりも早く、遠くで怒号と爆発音が聞こえてきて、は長年悪夢を見てきた住家の中で身を固くさせる。業火がくるが先か、人為的な痛みがくるが先か。それとも、誰にも見つけてもらえず、このまま骨の皮だけになるのを待つのみか……もう、この際なんでもいい。早く、この息苦しさから解放してほしい。
 なんでもいい。どこでもいいから……せめて、幸せだの、極端な不幸がない、最後まで広げられなかったこの羽で、羽ばたいてみたいと思う。できれば、きれいなうみのみえる、どこか、とおい国まで――