Episode.5
終わりを見据えていなかったわけではなかった。一つの航海において目指す場所は港であり、戦闘において迎えるべきは敵の敗北。ただ、理鶯は生きた人間との別れに慣れていなかった。再会の未来が描ける苦痛を知らなかった。まるで、体を鎖で巻き付けられて、錨とともに海に沈められるような感覚だ。彼女と会う目的が宙に浮いてしまった以上、この出会いの終止符をどう打てばいいのか、理鶯は今日まで分からないままでいた。
今朝、全体周知として上官の口から発せられた指令を、理鶯は頭の中で巡らせる。そして、その足が向かうはあの嵐の日以来遠ざかってしまったの住家。あれだけぬかるんでいた地面は太陽に干されてすっかり乾ききっていて、水溜まり一つない。ただ、そびえ立つ木の幹が折れていたり、脆かった土壁が風化して崩れていたりと、嵐が残した傷跡は町の所々に生々しく残っていた。
と出会った路地を横切り、彼女とともに何度も行き来した細道を通る。しかし、辿り着いた住家には人の気配が一つもなかった。理鶯が知る中で、がいると考えられる場所は二つしかない。理鶯は、住家の裏にある草陰をかさりと覗く。案の定、は例の墓前にしゃがみこんでいた。胃を持ち上げていた不安が一気になくなって、それは元の場所にすとんと落ちた。
理鶯はわざと足音を立てるも、彼女は一切振り返らず、石のように動じない。理鶯ということが分かっているのか、それとも、誰に何をされたところで何も感じなくなってしまったのか。どちらにしろ、いやな寂しさが理鶯の胸をするりと撫でた。
「……」
久々に紡いだその音は、理鶯の腹の奥でじんわりと滲んでいく。しかし、は相変わらず石像に成りきっている。理鶯は困ってしまった。いつもなら、名前を呼べば鬱陶しそうに顔を顰めるも、話だけは聞いてくれたものだから。
異国にしか見ることのない生物を見るたびに目を奪われていた理鶯は、好奇心に溢れた子が母親にするように、あれはなんだ、これはなんだ、とに尋ねては目を輝かせていた。二、三度くらいなら、彼女も渋々受け答えてくれるも、四度目以降は「少し黙ってくれますか」と鋭く言われてしまう。最初そのように言われた時は、少しとは具体的にどのくらいだろうか、と聞いてしまい、まるで蜘蛛の巣が顔にかかったようにむしゃくしゃとした表情で、に睨みつけられてしまった。出来うるのならば、あんな顔をしたはもう二度と見たくない。
ふと、砂利が擦れる音がする。見れば、目の前でが立ち上がっていた。しかし、理鶯の視線から隠れるように、その顔は伏せられたまま。加えて、その場を立ち去ろうとまでしている。理鶯は横切ったを振り返り、性急気味に彼女の背中に語りかけた。
「少しだけ、小官に時間をくれないだろうか」
砂を蹴る音が止む。しかし、はこちらを振り返らず、そこに佇むだけだった。渡したナイフで襲いかかってくることもなければ、金銭を要求することない。思えば、捜索の協力を仰いだ時も、彼女は自分に何も求めてこなかった。
……そうか。あの時から……すべて。理鶯は顔の筋にきゅ、と力を入れる。に伝えるべき言葉は、すでに用意していた。なのに、皆まで言えないもどかしさを感じてしまって、まだ何も成していないのに、すでに終わりを迎えているようだった。
「……明朝、この町を発つことになった」
途中、大雨に何度も見舞われたせいか、滞在期間は比較的長かったように思う。理鶯の包帯が取れたのを待ち侘びたかのように船内の物資は整い、次の目的地も滞りなく決定した。
しばらくの間、理鶯の足が土を踏むことはない。故郷への帰還のように待ち侘びていたはずの出港なのに、慎ましやかな幻が奪い取られるような寂しさは、一体何なのだろう。
「だから、礼を言いにきた。一方的であることは承知だが、小官は――」
「聞きたくありません」
戸をぴしゃりと閉めるように言い放たれて、理鶯は言葉を止める。石のように固まった沈黙の中、「では一つだけ……伝えさせてほしい」と重々しく口を開いた。
「近々、この町でクーデターが起きる」
が息を呑む瞬間を耳で感じた。ようやくはこちらを向いて、その黒曜石のような目をいっそう黒く光らせていた。
「他国との貿易による資源不足と物価の高騰……おそらく、駐屯している陸軍が鎮圧するだろう」
無感情にそう言っている最中も、理鶯の目はを捉えて離さなかったし、彼女もまた、初めてと言っていいくらい理鶯を目の奥に絡め込ませるように凝視していた。
それは、外回りをしていた仲間からの情報だった。町を出回る人間の動きが不穏で、港の倉庫内は輸入品に紛れて武具が目立つ。一般人は、参加する者しない者関係なく鎮圧対象だろう。無力な女子供も例外ではない。クーデターを起こす一派の情報を政府に報告をしたのはつい数日前のこと。しかし、所詮他国……同盟国ではあるものの、指令がない以上、それ以上手を出すことはできなかった。
「……それを言って、あなたは私にどうしてほしいんですか」
無力な女性……それも娼婦のが、そんな事情を知るわけもない。理鶯に言われていなければ、明日起きる町の異変に慌てふためいていただろう。
なので、理鶯は伝えた。しかし、にそう問われても、なぜ内部機密であるこの件を……上官に知られたら処罰対象であるこの行為を、してしまったのだろう。疑問に思うばかりで、理鶯は明確な回答を見つけられなかった。の眼差しは、まるで、ただの自己満足だろうと耳元で囁いていているようだった。たしかにそう言われてしまえばその通りだと、素直に自答する自分がいた。
「小官は……に、生きていてほしいのだと思う」
「思うって……」
「分からない。は、そう簡単に命を捨てない女だと分かる。しかし……」
まるで、針でも詰まったように、喉が痛い。今、この胸に芽生え始めているものをこのまま抱いていいものか、今ここで摘んでおくべきなのか、大きく育ちすぎてしまった感情の在り所に悩んでしまった。捨てることもできず……かといって、このまま持って海を出るには、軍人としての面目が立たないとも思えた。
「私は、ただの娼婦。誰も、道端に転がっている小石を意識しないでしょう。その小石が必要になった時、この体が欲しい人にだけ初めて、人として、女として見える。それだけです」
違う。理鶯の全身で逆立つ毛がそう叫んだ。皮膚がぴりぴりと痺れて、捌け口のない陰鬱な圧迫感が理鶯を脅かした。そんな迫り来る脅威を、今までも何度も排除してきたはずだった。火ならば水をかけ、武器ならばそれ以上に巨大な戦機を用い、人ならば頭か心臓を狙って……。しかし、理鶯には今の敵が分からない。目に見えない敵ほど恐ろしいものはないと心の底に刻み込んだ。
どうして、彼女は分からないふりをするのだろう。自分自身を愛することがどれほど……そもそも、幸福の味を理解したくないとでもいうように。どこから汲んできたかも分からない水は、触れたら熱いとでも思っているのだろうか。
「が自身のことをどう思っていようと、小官にとって、ずっと、は慈しむべき存在だった」
知っていてほしい。これから、が馳せるべき未来を見据えて。彼女が自分を愛せるように、理鶯はその石ころを景色のまま終わらせるつもりはなかった。
しかし、理鶯の望む彼女は、やはり咲いてくれなかった。は傷ついたように顔をみにくく歪めて、目尻に皺をつくる。震えた声で、今にも、この晴天から土砂降りの雨が降りそうな表情で、はこう絞り出した。
「最初会った時から、あなたの、愚かなくらいに無知で、純粋を装ったその目が……私は大嫌いです」
見なければよかった。言わなければよかった。最後まで残る彼女との記憶が、こんなにもかなしい表情だなんて。これを全部、船の上に持っていけというのか。それではまるで……生き地獄ではないか。
理鶯は、去っていくの背中をただただ映す。呼ぶことも、追うこともない。胸に宿る膨んだ蕾が、自分の肉体を毒で蝕むように……全身が砲弾に吹き飛ばされて負傷した時より、見せしめに海に沈められた時より苦しく、生きたいと叫ぶこの体は、まるで言うことをきいてくれなかった。
療養中も自主鍛錬をしていたとはいえ、理鶯は筋力の衰えを感じた。なので、以前にも増して訓練に取り組むようになり、食事も人一倍取るようになった。しかし、体を無視するように心はまるでついてこないし、フォークを持つ手も鈍くなるばかり。皆との遅れを取り戻そうとしていたのか、それとも己の無力さを悟ってヤケになっていたのか……帰船してからの理鶯は、名も付けられない喪失感に取り憑かれていた。
いつも以上に眠れない夜を過ごし、待ってもいない夜明けが迫る。理鶯はその日、甲板の見張りをしていた。まだ、町は朝を迎えていない。そんな中、予定時刻に問題なく出港できるよう、理鶯だけではなく、船全体は密かに動き出していた。
――「私は、ただの娼婦」
――突如聞こえた、爆発音。町が、不本意に眠りから覚めたようだった。
見張り台から仲間の声が轟き、船内にサイレンが鳴る。理鶯は、空っぽだった町から荒れ狂う人々が次々と現れてくる様から、目を離すことができなかった。
どこに潜んでいたのかと問いたくなるくらい、道という道に濁流のように人が押し寄せていく。その足がどこに向かっているのか、怒りの矛先や、武器にのせられた殺意の意味も、部外者である理鶯には分かりかねてしまった。ただ、巻き込まれる人々が荷物のように転がって、怒号とともに泣き叫ぶ声がとめどなく聞こえ始める。目的のない戦乱は、終わりを迎えることはない。
この町で、彼女は何を望んでいた。今にも崩れそうな家の中で、ただ、は生きていただけだ。人である自身を卑下しながらも、その他の娼婦よりも人らしく、強く、地に根を張って咲いていただけの、ただの――
「メイソン」
全身の神経がぴん、と張る。理鶯は声がした方へ俊敏に体を向ける。そこには、理鶯直属の上官が立っていた。
滞在中、理鶯の外出届をすべて受理していたその男は、今の理鶯の心情を見透かすような目で睨みつけている。
「貴様のその体は、何に捧げている。そして、貴様は何の為にこの船に乗っている」
上官の声が鎖のように思えたのは生まれて初めてだった。軍隊こそ理鶯の世界、ある時は剣となり、ある時は盾となる自身が、何よりの誇り。そんな生き方しかしたことがなかったし、知らなかった。
だから、こんな軟弱なものは本来不要なもの。捨てるべき害悪。こんな半端者では、剣は錆び、盾には綻びが生まれるだけ。分かっている、分かっているのに――
――「あなたのその目が、大嫌いです」
なぜ、この体はこんなにも泣いている。
陸で覚えた匂いは潮の香りに塗りたくられてしまった。残っているのは、ごく僅かな……それも、胸を殴られているような記憶しか残っていない。理鶯は、煙が上がる町に背中を向ける。その目は、曇りない眼で上官を捉え、体は鋼を纏ったように固く強ばっていた。
「……国を、守る為に」
理鶯の生きる世界は、海の底ではない。痛みから逃げ、すべての感情に蓋をした。あれだけ大切だった何かすら捨て、燃えゆく町を見ても、揺らがなかった精神。これが、理鶯の出した答え。生きる道と、その目的。その為ならば、人も殺す。幻滅されて、軽蔑されて、当然だ。彼女は何も、間違ったことは言っていなかった。
だから……その時だけ、理鶯は自分のことを人間だと名乗ることはできなかった。利己が過ぎた真似をしておきながら、あんな気高く尊く生きている彼女と自分が同じ生き物だと、どうして言えるだろうか。
