Episode.4



 一匹の魚が、小さな果実のような泡をごぼごぼと吐き出す。体を覆う紅梅色の鱗は地上から差し込む光にきらきらと反射して、尾鰭は水中の流動に従って生き生きと靡いている。
 まるで、こちらを焦らすように誘惑しているようで、そんな魚の口から生まれた泡は、食したらさぞかし美味なのだろうとぼんやり思う。理鶯は地上へと導かれる泡の一つを手の中に収めようとするが、それはいとも簡単に手のひらの間からするりと逃げてしまった。
 不意に、魚が口を開いて、小さな波がさざめくのを感じる。音波として理鶯の耳に届いたそれは、エコーがかって理鶯の脳に直接語りかけてきた。

 ――「リオ」

 万人を魅了する歌声よりも、腕のいい技工士が作った楽器よりも、その声は、音は、理鶯の全身に欲しいと叫ばせた。
 閉じ込めてはいけない。この魚は、自由に泳ぐからこそ美しいのだ。しかし、その美しさを他の者に見せたが最後、なんとも言えない空虚で体がばらばらになってしまいそうだった。
 それならばいっそ、このまま地上に出してしまおうか。彼女に見合う綺麗な水槽の中に海藻……それから、小さな洞窟のオーナメントも飾ろう。毎日透き通った水に替えて、彼女が好きな餌も欠かさず与えよう。彼女が泥を噛むような苦しみを味わうことのないような世界を、自ら創りあげてしまおう。
 すると、彼女の尾鰭が理鶯の頬を撫でた。まるで、こちらの意図を見透かして、それを窘めるように。そして再び、彼女の口から泡が生まれる。それも、理鶯の目の前を覆い尽くすくらい、たくさんのものだ。それらが消える頃には、彼女は綺麗な体をくねらせながら、深海の底へと潜ってしまった。人間の理鶯では、これ以上彼女の世界に侵入することはできなかった。
 ただ……叶うことならば、もう一度。あの美しくしなやかな身体をこの目に映させてほしい。そして、あの強い眼差しで、自分を射抜いてほしい。頭の中で響いていたエコーも、もう時期止みそうだ。いづれ、頭に描いた彼女の姿形まで泡になって消えてしまうだろう。"彼女を忘れた"ということが、理鶯が残しておける唯一の記憶。それも含めて忘れることができるのならば、こんな褪せるだけの記憶を抱えておくこともないのに。
 ああ、そろそろ息絶えそうだ。それでも、理鶯は地上にある生命線よりも恋しいものを求めている。いけないな、軍人として、こんなにも欲深くては。もう一度、あの美しいあぶくを吐き出してはくれないだろうかと、彼女の消えた深海を見る。しかし、そこに広がっているのは、生物が生存できるのかと疑いたくなるほどの、息苦しそうな闇。だからこそ、彼女を構成するすべてのパーツはより一層輝いて見えるのだと、理鶯はひとり、薄ら笑みを浮かべた。
 彼女を捕らえようとした罰だといわんばかりに、体を巡っていた酸素が限界を迎える。喉が絞まり、頭がぎゅう、と収縮する。意識の消えた理鶯の体は、海底に沈むことなく、地上に上がることもなく……どちらにも還れない名もなき生命体として、海の中を揺蕩いていた。







 その日は稀に見る大嵐だった。
 墨をぶちまけたような黒雲が天を覆い、雷は地割れでも起きるのではないかというくらい、天空の間にある空間をばりばりと割いていた。そして、この町をすべて海に還してしまいそうな横殴りの雨……その勢いは一向に止むことない。船が海原ではなく港に停泊していたことに安堵するほど、船全体は大きく揺れ、船員一同、早朝から外に積んである荷を船内に運ぶ作業に追われていた。
 しかし、理鶯の頭にあったのは、住家にいるであろうのことばかり。少しでも風が吹いたら飛んでいってしまいそうな荒屋に住む彼女は、はたして無事だろうか。雷の音に怯えてはいないだろうか。冷たい雨で凍えてはいないだろうか――。
 気がつくと、理鶯の足は濁流まみれた町に飛び出していた。跳ねた泥が足を汚すのも、体が雨に撃ち抜かれそうになるのも一切気にしなかった。もちろん、船を出る時には傘を差していったが、途中で雨宿りしている孤児にそれを渡した。途中から身一つになった理鶯は、の住家へと駆けていった。


 落雷に打たれることなく、目的地に無事到着した理鶯。腹の中で抱えていた心配は杞憂に終わり、の住家は風に飛ばされず、そこに残っていた。
 しかし、荒風に煽られるたびに、粗末な壁はがたがたと揺れて、その光景を見ているだけでも不安が募る。中にいるは大丈夫だろうか。理鶯が住家の中に神経を巡らせると、案の定気配は一つ。しかし、が出てこない以上、ここで待つしかない。
 いつもの木の下――幸い、大葉がいくつも重なっていて、雨粒もあまり落ちてこなかった――に佇んだ理鶯は、雨を吸った上着を脱いで雑巾のようにぎゅうぅぅ、と絞る。滝のように水がビシャビシャと地面に落ち、水溜まりすら作った地面を見て、理鶯はふむ、と分厚い曇天を見上げた。この調子だと、朝になるまでこの雨は止みそうにない。
 そしてすぐに、理鶯の目は住家へと注がれる。あの中は雨漏りしないのだろうかとか、は心細くないだろうかとか、そんな考えばかりを巡らせていた。こんなことなら、暖かいスープでも作って持ってこればよかったとも思う。しかし、こんな大雨では、食材達も自分たちの住処に引っ込んで出てこないだろう。理鶯は心底残念に思った。
 ふと、目を閉じる。怒号のような風の音と、それに脅かされるように悲鳴を上げる雨音。体も徐々に冷たくなっていって、指先の感覚がなくなっていく。まるで、ここは海の中だ。魚一匹泳いでおらず、在る生命は、自分だけ。海底にも、地上にも、どこにも行けない、中途半端な意志をもった、哀れな命だ。
 ああ、なんだか……とても、息苦しいな。

「リオッ!!」

 ぱちん、と泡が弾ける。夢にまで聞こえたその声は、嵐の中でも理鶯の鼓膜をきぃんと震わせた。
 目を開け、顔を上げる。雨を凌ぐものを身にまとっていないが、嵐で荒ぶる長い髪を手で押さえながら外に出ていた。遠目からでも、なぜ、という声が聞こえてきそうな表情をしている。理鶯は喉を震わせようと口を開くも、事前に用意していたはずの彼女に向ける言葉は、腹の奥にすとんと落ちていってしまう。そのあいだにに、はバシャバシャと泥を跳ねさせて、こちらに向かって走ってきた。

「あなた、こんなところで何をやってるんですか!」
「何を、とは」

 いつものように、が出てくるのを待っていただけだ。そう言った瞬間、突然強い風が吹き荒れたので、その声もかき消されてしまう。強風のせいでよろめいたを右腕で抱きとめると、ふと、ほのかに普段の彼女とは別の匂いが香ってきて、理鶯は目を見開いた。

――」
「こんな日に何しに来たんです!」
に、今日はこの大嵐だから捜索は中止にしようと言いに来た。それから――」
「馬鹿なんですか!?」

 風が絶えず吹き荒れる中で、はずっと叫んでいる。そんな彼女に強引に手を引かれた理鶯は、ふと下を見てみる。沼のような地面を歩いたの草履は、足首まで分厚い泥にまみれていた。

 何かを言う暇もなく、理鶯はそのままの住家に連れ込まれる。すると、そこでも先程の香った匂いが鼻腔にぶわっと広がって、理鶯は目を見開く。の方を振り返ろうとすると、目の前にばさッと何かが飛んでくる。理鶯の顔を覆ったそれを受け取って見ると、灰色に薄汚れた手拭いのようだった。

「拭くものはその一枚しかないんです。汚いですが我慢してください」
はどうする」
「あなたほど濡れていませんからすぐに乾きます。つべこべ言ってないで早く拭いてください」
「しかし――」

 またしても、理鶯の声は途中で制されてしまう。に手拭いを奪われて、自身の後頭部がぐいっと下げられる。理鶯がきょとんと目を丸くする間にも、彼女が頭全体に被せたそれによって、雫が滴っている髪をがしがしと拭かれた。

……少々痛いのだが」
「軍人でしょう。我慢してください」
「いくら軍人でも、さすがに頭皮までは鍛えられない」

 そう言っても、は手を休めてくれない。「こんな嵐なのに外に出るなんて」「これだから軍人は」「本当に馬鹿」と、ついにはぶつぶつと小言まで聞こえてきて、これ以上何か言うと彼女が不機嫌になるだけだと、理鶯は世話を焼かれる大型犬のようにされるがままにしていた。
 は、口調こそ丁寧だが、少しだけせっかちだ。話は最後まで聞いてくれないことが多いし、歩く速度も早い。そのくせ心配性で、骨と皮だけになって壁にもたれかかった娼婦に食べ物を与えた日には、歩き始めても後ろばかりをよく振り返る。だから、当たりが少々きつくなるのも、それは相手のことを思うが故だと、理鶯は理解していた。客に見せる薄っぺらい笑顔には何の感情も感じられないが、今のは、彼女なりの優しさが垣間見えて理鶯は好きだった。
 頭皮から、小さな指の腹をやわらかさを感じる。力は強いのに、どこか気持ちがいい。きっと、そろそろ終わってしまうな。もう一度濡れてしまいたいと思ったのは、今日は雨に打たれたい気分だからか。視界から手ぬぐいが消えて目の前が明るくなると、しかめっ面のがこちらを見上げていた。

「脱いで」

 ……沈黙が生まれる。理鶯がぱちぱちと瞬きをしていると、「私のせいで風邪を引いたと文句を言われても困るので」とは早口で言った。
 のせいにするつもりは毛頭ないが、このままでは風邪を引くリスクが高まるのは事実。せっかく傷が癒えたのに、これではまた療養期間が長引いてしまうだろう。
 理鶯は言われるがままに片手と口を器用に使って衣服を脱ぐと、それもにバサッと奪い取られて、代わりに藁でできた簔を渡される。

「軍人様からしたら粗末なものかもしれませんが、何もないよりかはいいでしょう」
はどうする」
「あなたはそれしか言えないんですか」
が風邪を引いたら、小官が困るのだが」

 すると、顔を顰めたはうぐ、と黙ってしまう。しばらくして、「……たかが娼婦が、なんでも無数に持ってるわけがないでしょう」と呟いたので、やはり、これも一つしかないらしかった。
 ふむ、と思案した理鶯は、に向かって両手を大きく広げてみせる。「……なんですか」先程奪い取った理鶯の服を壁に干したに対して、理鶯はぽんと言った。

「小官がの暖になろう」
「はい?」

 ついに頭がおかしくなったか、というような目を向けられる。しかし、理鶯は本気だった。

「体温が低下した時は、人肌で温め合うのが一つの解決策だ。生存率も高いという報告も――」

 くしゅん。不意に止まった理鶯の声に、は言葉もない、とばかりに目を細めた。

「……むしろ、私があなたの暖になりそうですが」
「そんなことはない」
「一丁前にくしゃみをしておいてよく言いますね」
「駄目だろうか」
「……体を貸してくださいとお願いしたら、してあげないこともないです」
「小官に暖は必要ない。必要なのはだ」
「あなたのその頑固癖……そろそろどうにかなりませんか」

 理鶯は残念そうに少しだけ腕を下ろす。「が嫌なのなら、仕方がない」と簔を受け取って、蓑虫のように上半身にもぞもぞとそれをかけた。
 ただ、その目はから逸らさなかった。真っ青になった悴んだ指先も、血の気が失せた唇も、もう二度と色が戻らないのではないかと気が気ではない。そんな理鶯の視線から逃げるようには体を背けるが、それでもなお背後から感じる圧に耐えきれなかったのか、彼女は険しい顔で「……五千ウォン」とだけ呟いた。理鶯ははて、首を傾げる。

「言ったでしょう。対価を払えば、誰にでも身体を貸すと。五千ウォンで暖を取らせて――ああもう、取ってあげますから。これでいいんでしょう」
「あいにく、この国の通貨は持っていないのだが」

 物言いたげな理鶯から何かを察して言い直しただが、彼女の目当てとなるものがないことが心苦しく思う。何かないかと体をまさぐると、細長くて硬いものが理鶯の指先を掠めた。

「……それはなんですか」
「携帯用ナイフだ。無理矢理男に襲われそうになった時に役に立つだろう」
「私を人殺しに仕立て上げるつもりですか」
「殺さなくとも脅しにはなる。正当防衛の範疇だ」

 忌々しいものを見るような目をしていただったが、そろりとナイフを無言で受け取った彼女は、鞘から刃を控えめに出す。錆一つないそれを見つめて、「……まあ、売ったらいくらかにはなりそうですね」と吐き捨てるように言った後、はナイフを懐に仕舞った。
 次に、は足を立てていた理鶯の股の前に来て、すとんと腰を下ろした。無防備な背中だ。いつも凛々しく、背筋を伸ばして、理鶯の行く道を先導する彼女が、今だけは受け身……何をされても音を上げるものか、と語っている。
 人形のようになってしまった彼女に物申したい気分になりながらも、理鶯は静かに藁の音を立てて、の背後から腕を回す。ぐ、と無意識に胸の方に引き寄せてしまって思わず腕の力を緩めるが、彼女はされるがままに理鶯の胸板に背中をくっ付けた。
 脈動を感じる。冷たいと思っていたの体は、火傷しそうなくらいに熱を帯びていて、奉仕するつもりが、これでは本当に彼女の言う通り、暖を取っているのは自分の方だと思ってしまった。

「……暖かいな」
「生きているのですから当然です。仕事でも、こんなことは絶対にしません」
「しないのか」
「当たり前でしょう。あって堪るものですか」

 「そうか」少し、彼女の特別になれた気がして、名もない感情が理鶯の胸の中にじわ、と滲んだ。しかし、がこうしてくれるのも、相応の対価があってのこと。きっと、普段はこんな風に触れさせてはくれない。だからそれが、少しだけ寂しかったりもする。
 でも、必要があれば、名前を呼んでくれるようになった。ぎこちない発音だが、ひとたび聞けば、のものだとすぐに分かる。それだけで、最近は特に乾いて仕方がない心が少しだけ潤っていく。は砂漠に咲く花のようでもあり、稀に降る小雨のようにも思えた。

「ところで、私がここから出てこなかったらどうするつもりだったんですか」
「そこまで考えていなかったな」

 「しかし、」間を置かず、理鶯は続けた。

「結果的に、は出てきてくれた。何か用事があってのことだと思うが、偶然が重なってよかった」

 すると、はぐ、と身を固くして、その口から重々しい溜息を吐いた。その意図も、やはり理鶯は問いかねてしまった。
 意外にも、あばら家の天井からの雨漏りは少なかった。時折雫がぽたぽたと落ちてくるが、を抱いていたら、あまり気にならない。もう少し、力を込めてもいいだろうか。逃げはしないだろうか。葛藤する胸の内に反発するように、自身の体はを捕える籠のように固く強ばっていった。

「……左腕。まだ、痛みますか」

 の声に、理鶯は彼女の顔が左腕に向けられていたことに気づく。そういえば、この怪我のことについて詳細を話したことがなかった。
 「いや、ほとんど癒えている」この包帯は念の為に処置をしておくようにと、医者に言われた旨を伝えると、はまたすん、と黙ってしまう。

「……前にあなたは、自分は海軍だと言っていましたね」
「ああ」
「駐屯している陸軍とは、本当に無関係なんですか」
「もちろんだ。小官は米軍……彼らとは守る国も違う」

 そんな彼らが、ここに住む娼婦達を苦しめているのは、皮肉なものだ。の流れている血がもし同じだったのなら、自分が彼女を害悪から身を呈してでも守るのに。
 ――守る、のに?

「(……そうか)」

 自分は、に、そうしたいのか。未熟に生まれてしまったこの国の法から、それを美味と言わんばかりに私欲を満たす男から、彼女のような美しい命を見捨てたこの世界から……もしも、と自分が同じ国に生まれていたなら、軍人として、彼女を守る対象として見ることができたのに。別の国の軍隊に身を捧げている理鶯では、に手を伸ばす行為はご法度。本来ならば、こんな逢引のような真似も許されるべきではないはずなのだ。

「あなたは……どうしてこんな怪我を負ったんですか」

 そう言われて、理鶯もまた、自身の腕を見つめる。あの時感じたものを、胸の中で一つ一つ指折り数えていきながら、理鶯はあの夜の出来事を懐古した。 

「……その日、小官は夜間巡回の当番だった」

 本来、船周囲の巡回は二人制。しかし、その日の相方を務めるはずだった彼は上官に呼ばれて、理鶯一人が役を担うことになった。その日は、この嵐ほどではないが強雨が頻りに降っていて、視界も良好とは言えなかった。しかし、そんな雨の音に紛れて女の叫び声が聞こえたので、理鶯は港の外れにある倉庫まで駆けていった。
 そこにいたのは五、六つの人影。持っていた電灯を当てて声をかけたら、いきなりその影達が理鶯に襲いかかってきた。任務外のこととはいえ、相手に敵対意志があるのなら、抑制しないわけにはいかない。相手が軍人だと分かったのは、彼らの身のこなしをこの身で感じてからだった。
 状況から察するに、彼らは一人の女性を輪姦をしていたようだった。服を脱がされ、絞首されながら、見るに堪えないことをされていた。理鶯も相討ち間際まで彼らを追い込んだが、相手も同じ軍人……数もあちらが圧倒的有利だったため、理鶯は不意をつかれて傷を負った。一時期は動けないくらいに昏睡しきっていたが、朝には目が覚めて、サバイバルナイフで刺された腕は件の腰紐で止血されていたのだった。

「朦朧とした意識の中、手当てをされている感覚はあった。しかし、気がついたら朝で、倒れていた女も男達もすでに消えていた」

 自分がこの目で見たことは夢と片付けなかったのは、この怪我のおかげ。触れても泡になって消えない腰紐は、やはり、あの夜のことは現実であることを示唆していた。
 ……胸が膨張して、喉にこみ上げてくる何かがあった。ついに理性を繋いでいた糸が一本だけ切れて、理鶯は静かにこう囁いた。

。小官は、あの日介抱してくれたのが――」
「あなたが見たのは、奴らに喉を潰され、後日自ら命を経った娼婦です」

 きっと、その処置も、死んだ彼女が施したのでしょう
 雨音が、大きく聞こえる。ついに、町が海に消えてしまうだろうと思えるくらい、水が地上に落ちてきているのが分かる。それ以上何も聞くな、と尾鰭ではたかれたような感覚がして、理鶯は腕の力をふっと抜いた。

「……そうか」

 がそう言うのなら、そうなのだろうな
 は、何も言わなかった。きっと、自分の声が雨の音でかき消されて、何も聞こえなかったのだろう。理鶯は無理やり、そう思うことにした。
 との意思疎通は難しい。言語だとか、体の器官で感じるものではなく、なぜそんな言葉が生まれるのかが、理鶯には理解できないことが多かった。国の文化の違いだとか、娼婦と軍人の在り方だとか……たしかに、世間が定める生き方というものはあるかもしれない。しかしそれは、が元来持っている美しい心とは、また別ではないのか。は、自分が醜い存在だと思っている。実際、は、とても綺麗だ、と。道中、そんなことをぽろりと言ったらその日は二度と口を利いてくれなかった。
 と、もっと話がしたい。彼女の底深くまで潜って、の生きてきた世界を感じたい。しかし、彼女自身がそれを望んでいないのなら、あの日あったことを過去のものとして蓋をしたいと思うなら……自分は手を引くしかない。理鶯が、彼女を支配することはない。それが、彼女の美しさを阻害する最もな行為だと分かっていた。
 雨が、未だ止まない。声を発したら、もう二度と、をとらえられないと分かっていた。理鶯は今、たしかに褪せた荒野の上に立っている。あの朝に嗅いだ時のような湿った藁のにおいは、腕の中にいる彼女を、然とした美しさを纏う人だと伝えていた。