Episode.3
左腕を負傷してから五日が過ぎた。首からぶら下がっていたギプスがようやく外れ、一日に数回包帯を巻くだけの簡易処置になった。船医曰く、常人よりも治りが早いとのことだが、中途半端に傷が癒えても意味がない――集団行動が軍の要である以上、完治するまでは訓練への参加許可は下りなかった。
その代わり、理鶯は船内の書庫に出入りするようになった。と会話をする時、彼女の言っている言葉が時々理解できないことがあるので、この国の言語を今以上に知る必要があると感じたのだ。今までは海の上か厨房の前にしか立ったことがない理鶯だったが、ここ数日は、本棚か机の前から片時も離れようとしない。そんた理鶯の事情を知らない仲間達は、懇意にしている女のためか、と本人の知らないところでひそひそと井戸端会議をしていたのだった。
自主鍛錬をし、夕食の仕込みを終えた午後からは町に出る。理鶯はの協力を得ながら、相変わらず人探しをしていた。やはり、周囲の人間は理鶯が女遊びを覚えたと茶化し、なんなら本を漁る理由も女とのきっかけが欲しいからだとか、それらしいこじつけをして、わあっと熱を上げた。言い方に少々語弊を感じつつも、内容はあながち間違いでもなかったため、理鶯は膨れ上がって手に負えなくなった噂話に対して、肯定も否定もしなかった。
本日もまた晴天なり。日当たりもよく、風のない昼下がりが訪れる。しかし、今日はいつもと違って、の住家に伸びる足は錨のように重く感じていた。先日、に鋭い言葉を吐いてしまったことへの罪悪感で、寝具の上に横になっても、理鶯の就寝時間は明け方近くになるばかりだったのだ。
そして、なにより意外だった。が、他人を罵る言葉を言うなんて。とはまだ会って間もないが、彼女から自分に対して向けられている嫌悪のおかげで、の本質は大方把握しているつもりだった。軍人を忌み嫌い、娼婦の仲間には遠くから手を差し伸べる。先日も、身ぐるみを剥がされた娼婦に自らの替えの衣服を渡していた。
なのにあんな……もはや理鶯の中で幻になりつつある恩人の彼女が心底気に食わないと言わんばかりに、人の心臓を抉るような皮肉を吐いたものだから。あの時は理鶯もついむっとしてしまったが、帰船してから今まで……の言動をゆっくり思い返してみると、このなんとも言えない不快感はすぐに払拭された。代わりに、もしかしたら自分の知らないところで彼女は何か別の事情を抱えているのかもしれない。それが本当なら、自分はに針を刺すようなことを言ってしまった、と。そう思い始めたら止まらなくなって、まるで、理鶯は海の中に沈没していくような息苦しい気分になった。
一方で、にそろそろ陸と海の違いを教授したいとも思っていた。終始、彼女から理不尽な嫌悪を向けられている理鶯としては、自身が所属している組織がなんたるかを理解してもらいたい。それは、理鶯の中でいつからか恩人を探すことと同等の目的となっていた。
外部への意識が疎かになるほどの考え事をしている最中でも、理鶯の足はの住家への道を覚えてくれていて、一度も迷うことなくそこまで連れて行ってくれる。しかし、住家の前に着いても、いつものまぐわる二つの気配どころか、一人のものすら感じられない。はて、と理鶯は首を捻った。今日は珍しく客を取っていないのだろうか。
おろらく、は不在だ。彼女が戻ってくるまでこのまま木の下で待っていてもよかったが、体を動かしていないと、またのことで答えのない暗闇を歩いてしまいそうだった。理鶯はその底なし闇から退却するように、特にこれといった目的もなく、その辺りを散策することにした。
すると、不意に吹いてきた風がどこからか焦げたにおいを運んできた。すん、すん、と理鶯は犬のようにそのにおいを辿って歩いた末、の丸まった背中を見つける。住家の裏手にある草陰で、彼女はその場にしゃがんでじっと手を合わせていた。
意図的に足音を隠さず、理鶯はの背後に立つ。ぴく、と体をこわばらせた彼女は、なにやら目元部分を腕で拭うような仕草をしてみせた後、少しだけ首を横に向けて、顔をすっと伏せた。
「……今日は、かえってください」
いつも彼岸花のような物悲しい美しさをまとっているその声は、今日はずいぶんと枯れていた。よく見ると、の前に広がる地面は、他の場所と比べて色濃くなっており、いくぶんか柔らかそうにも見えた。そして、その中心部に立っているのは木棒。幾度も似たようなものを見送ってきた理鶯は、それがどういう意味で地面に刺さっているのか察してしまった。そして、今のの状態からして、その下で眠っている者とはとても親しい間柄だったのだ、とも。
理鶯もを真似て、墓の前に肩膝をついて手を合わせようとすると、「やめて」と錐のように尖った声が隣から飛んできた。
「軍人に手を合わせられるなんて、彼女への冒涜です」
今日初めて、と視線がぶつかる。彼女の目元は痛々しいくらい赤く腫れているのに、胸を射抜くような鋭い目からは、涙など枯れたと言わんばかりに強い眼光を放っていた。
「……小官が、最初に声をかけた娼婦か」
言わなければよかったのかもしれない。哀傷帯びたの顔を見て、そんな思いが理鶯の中で水のように広がっていった。
唇をわなわなと震わせて、今にも叫び出しそうな。彼女は怒りを鎮めるように力んだ息を吐き、熱を孕ませた声でこう言った。
「……あなた達軍人は、なんのためにいるんですか」
その言葉は、問いというより嫌味のような色をまとっていた。自身を大半形成しているその要素……理鶯は迷うことなく即答した。
「国を、守るために」
「お国は、土地と民がいなければ成り立たちません。土地を奪っている最中、いくつの命がなくなっているとお思いですか」
犠牲のない戦いなど、存在しない。国に命を捧げることは軍人として大変名誉なことであり、自国を守った暁にはその命が尽きるまで、この体に誇りとして刻み込まれる。軍人ではないには、きっと理解できないことなのだろうが。
胸から溢れ出たその言葉達を……なぜだろう、理鶯は思わずこくりと飲み込んでしまった。言ってしまえば、の顔が今以上に歪んでしまう気がして、どうしても吐露できなかった。その問いに関して、未だ要領得ないことが多いが、が軍人を憎んでいることは火を見るより明らかだ。その軍人の自分が何を言ったところで、彼女を傷口を増やすだけだと思った。
しかしは、理鶯の飲み込んだ言葉を見透かしたように、はっと嘲笑する。
「領土だとか名誉だとか……結局は外見だけ気にしているだけじゃないですか。そこに住まう民の声を聞いたことがありますか。あなた達が町を歩いている姿を見て、怯える人達の顔を見たことがありますか」
「それは――」
「上に座る人の声ばかりを聞いて、下々で這って生きている人間なんて、どうせ見向きもしていないんでしょう」
陸は内部、海は外部から迫る敵を排除する。理鶯の戦いは海の上にしかないため、町を歩くことはおろか、そこで生きている人間の顔を見ることはできない。しかし、今の言ったことが軍人全般に向けられている以上、その囲いの中に自分は入っていないなどと、軍人の肩書きを背負っている理鶯の口から言えるわけがなかった。
国こそ違えど、自国を守る志を持った同志。所属も、顔も知らない同胞達が、この町で国の一部である民を苦しめている。を慰めることすら許されない立場にあることが、どこか窮屈に感じた。どんなにいじらしく思っても、自分は彼女の腹に溜まったかなしみを受け止めることしか出来ないのだと悟り、理鶯はそっと目を伏せた。
「……すまない」
――ああ。また、間違えてしまったようだ。
ぱんッ、という乾いた破裂音とともに、背中に冷たく硬い衝撃が襲う。胸ぐらを掴まれて押し倒されたのも、頬に平手を受けたのも、訓練生の頃以来。ましてや、女性相手なんてことは生まれて初めてのことだった。振りかぶる手が見えた瞬間、これは、の怒りの象徴だと悟り、そう思ったら、甘んじてその感情をこの身で受け止めたかった。
しかし……やはり、だめだったようだ。のかなしみは癒えるどころか、傷口を深いところまで抉ってしまったようで、彼女の目からは乾いたはずの涙がぼろぼろと零れている。
「謝るくらいなら……っ、返してください……ッ」
理鶯に降りかかったのは、体が二つに割れてしまうような、の悲痛の叫び。土だらけになった両手で服を強く掴まれ、全身をぶるぶると震わせたは、理鶯に牙を向いていた。
「そこにいるだけで害悪しかもたらさない人達のせいで、なぜ彼女が辱めにあった挙句自ら命を絶たなければならないんですか……っ。中身のない謝罪なんていらないから……っ。あの子の手も、足も、目も、魂も……っ、全部……ッ……ぜんぶ……返してぇ……ッ」
ぽた、と雫が流れる。理鶯の顔に落ちたそれは、頬の上をするりと撫でて、耳の横を通り過ぎた。唇の上にも落ちたそれは、大粒で、あたたかくて、海の味がした。もしも、憎む対象が自分ならば、恨み言も、体罰も、いくらでもこの身に受けるのに、軍人という概念を憎んでいるに、理鶯はなんと声をかければいいのか分からなかった。に与えられた頬の痛みを感じながら、ただ、徐々に熱の消えていく涙を浴びることしかできなかった。
……数分後、は力なく理鶯から退いた。理鶯が上半身を起こすと、はふらふらとした足取りでどこかに向かおうとする。「」そんな状態で歩いては、危険だ。どこまで行く。途中まで、小官が付き添おう。呼び止めて、そう切り出そうとすると、理鶯も予期していなかった言葉が彼女の口から飛んでくる。
「早く……帰ってください。今日は……あなたに付き合う余裕なんて、ありませんので」
「駄目だ。そんな体で歩いては今にも倒れ――」
手を、伸ばした。しかしそれはすぐに土色になった手に払い退けられて、手の甲に新たな痛みが加わる。苦々しく振り返ったの顔を見て、理鶯は思わず息を止めてしまった。
「命令、しないで……っ。私は……私達は、あなた達の所有物じゃない……ッ!!」
気がつくと、は理鶯の目の前からいなくなっていた。我に返って、忘れていた呼吸を再開してから、きっと、は住家に戻ったのだと頭の中でぽつんと思った。
港へ帰る途中、理鶯は一瞬だけあばら屋を見る。見るだけで、中に向かって声をかけることもなく、彼女の姿を見ることもない。そのまま、港に停泊している船に、から受けた二つの痛みを持ち帰った。
何をしても、何を言っても……理鶯の存在から生まれるものは、理不尽にを傷つけてしまうらしい。自分のなにが、にあんな涙を流させてしまうのか。軍人の何に対して、殺意に似た感情を抱いているのか。どうしたら、彼女の鬱々と溜まる感情を呑みこむことができるのか……仲間が夕食を食べ終えた後の食器を片付け、入浴、その後の就寝時間になっても、理鶯はの中にあるであろう、かなしみの海に潜っていた。
もう、は会ってくれないだろうと思っていた。しかし、いつもと同じ場所、同じ時間――の姿を夢幻の世界に思い浮かべ、理鶯はいつもの木の下の前まで行くと、すでに彼女は住家から外に出ていた。こんなことは今までになかったので、理鶯は目を丸くした。
それからはいつも通りで、やって来た理鶯をは一瞥し、言葉を発することなく前に伸びる道をすたすたと歩いていく。その後ろを、理鶯は雛鳥のようについていった。
むせ返るような重たい沈黙が続く。普段からと交わす言葉は少ないが、今日はそれ以上に音がなく、鳥のさえずりも、二つの足音も、周囲の喧騒も……どこか聞こえづらく感じる。だから、たとえ言葉を発しても、この重たい空気がそれを覆い尽くしてしまって、自分の声は彼女の耳まで届かないと思ってしまった。
今回はまた、先日とは別の場所に案内してくれた。が路地の片隅でぴた、と立ち止まって、しばらくそこから動きそうになかった。そして、理鶯は一人前進する。捜索が始まったと言うのに、いざ考えるのはのことばかり。今日は付き合ってもらってよかったのだろうかとか、体はもう大丈夫なのかとか……。腰紐の持ち主のことなど、まったく、これっぽっちも、理鶯の頭の中になかった。
あの時……自分はどうしたらよかったのだろう。の嫌うことは、あまりしたくない。しかし、軍人である自分が何をしても、は喜ばないだろう。むしろ逆効果だ。なら何もしなければいいという結論も、自身の腹の奥がむず痒くなって仕方がなかった。
いっそ、離れるべきだ。しかし、に救済の手を差し伸べたいのも事実。拮抗し合う感情に悶々としつつ、結局、何の収穫もないまま地区を一周するだけで終わった。捜索のつもりが意味のない散歩になってしまった。
もう一度同じ道を歩く気にもなれない。ここまで来る道は覚えたし、明日は一人で来ようか、と胸の中で低い波を打つ。地面の硬さをブーツ越しに感じながら、理鶯はざっ、ざっ、とのいるところへ戻っていった。
すると案の定、は見知らぬ男に声をかけられていた。彼女に近づこうとした足は止まってしまい、理鶯は二人の様子を瞬きすら忘れてじっと凝視する。は客にしか見せない表情をつくって、まるで椛が舞うような淑やかな微笑を浮かべていた。理鶯はまだ、あの彼女を知らない。それもこれも、の目の前にいる男が軍人ではないからだ。すると唐突に、じりッ、と我が身を我が身で焼き尽くしてしまいそうな熱に襲われて、理鶯ははて、と首を傾げた。
「ごめんなさい。今は別の方がおりますので」
聞こえてきたの声に、理鶯の意識が現実に浮上する。よくよく耳をすませば、男から発せられる声はどこか刺々しいもので、「ここでぶち犯してやるから早く足を開け」と、少し人目につかない場所だからといって、こんな真昼間に股間を露わにして、衣服越しからの太腿にそれを擦りつけていた。
ふつ、と理鶯の胸の奥に青火が宿る。思わず一歩足が出て、それも二歩目が出る寸のところでぴく、と止まった。が男にどんな暴言を吐かれていても、彼は彼女にとっての客。男の持つ金が、明日のを生かすのだ。もしもまた、自分がの生き方に口を出して、彼女の意志に背いてしまったら……理鶯は未来のを殺めることになる。ふつふつと煮えたぎっていく胸を強制的に冷却して、理鶯は大きく深呼吸をし、荒ぶった心を無に還そうとした。
しかし次の瞬間……は男に突き飛ばされて、彼女は小さな悲鳴を上げながら地面に倒れる。男はそんなの足を無理矢理持ち上げ、衣服をたくしあげながら、泥でも吐くようにこう言った。
「痩せた溝鼠みてえな汚ねえ体しやがって。股開くことしか価値のねえ女のくせに口答えするんじゃねえよ」
――電流のように鼓膜を刺激した、その言葉。理鶯の腹の中の残り火を一気に燃え広げ、強固な理性を無残に焼き殺した。
羽根のように軽く、足は俊敏に動く。理鶯は男の肩に手を置いて、彼が振り返ったところを拳で顔を殴打。の腹の上から飛んでいった男にまた足を伸ばし、加減も忘れて、理鶯は男の胸ぐらを掴んで片手で持ち上げた。
手を下ろして、やめて、死んでしまう――遠くで、の声が聞こえる。野次の気配が徐々に増えていくのも分かっていたが、目が、腕が、筋力が、言うことを聞かない。死にかけの蝿の羽のように体を震わせて、顔を青ざめさせる男に、理鶯は猟犬のような容赦のない眼差しを向けた。
「貴殿の視界のどこに痩せた溝鼠がいる。小官の前でもう一度言ってみろ」
「リオッ!」
背中から、冷水のような声を浴びる。しゅうぅぅ、と白い湯気が立ちこめて、全身を焼いていた業火が鎮まったおかげで、手の力がするりと抜けた。男が地面に落ちると、彼は言葉にもならなかった悲鳴を上げ、へっぴり腰で路地から去っていく。理鶯はもう男のことなど眼中にない。今は、額に汗すら浮かべて、焦った顔をしているを見て、どうかしたのか、と問いたい一心だった。
しかしそれも叶うことなく、そのままの手に引かれ、理鶯はその場から連れ出される。群がってきた人々の視線に刺されながら、は元来た道を駆けていき、理鶯もまた、彼女の歩幅に合わせて走った。その途中、包帯の巻いていない方の右腕を掴んだの細い指を、理鶯は物珍しい光石と言わんばかりにぼうっと見つめていた。
到着した先は、の住家。大した距離を走ったつもりはなかったが、すでにの息は切れていて、頻りに肩が上下している。一方の理鶯は、先ほどまでが掴んでいた左腕を名残惜しく見つめながら、彼女の口から独特のイントネーションで紡がれた自身の名前を、頭の中で何度も木霊させていた。
「ほんとうに……やってくれましたね」
息の整ったの声に、理鶯はふと現実に戻ってくる。「あれだけ目立ったら、あの地区に行っても男が釣れません」は切れ切れにそう言った。怒る気力ももうすでにないようで、もはや謝罪する猶予もないことを悟る。理鶯はばつ悪そうに顔を伏せて、唇をかたく結んだ。
「……なぜ、彼を殴ったんですか」
下から掬い上げたような声に、理鶯の目に光が戻る。顔を上げて視界に入ったの目は、いつぶりかに理鶯をしっかりと映していた。こんなにも綺麗な目を持っている彼女が、溝で生きているはずがないだろう。その濁り気のない双眼に見とれつつも、理鶯はゆっくりと言葉を吐き出した。
「を中傷した言葉が、小官には耐えられなかった」
「あの程度の暴言は聞き慣れています。それに、あながち間違いでもないでしょう。対価を払えば、私達は誰にでも身体を貸します」
どうやら、は自身を溝鼠と同等だと思っているらしい。同じ生き物には変わりないし、生命を授かった以上、どちらも尊うべき存在だ。しかし、妙にその例えが引っかかって、理鶯は、ふと自身の中に流れているもう一つの国の言葉が過ぎった。
「……“水清ければ、月宿る”」
「は?」
よく聞き取れなかった、という顔をするに、「日本という国の言語なのだが、」理鶯は地面に落ちていた木の棒で、その八文字を書く。書いた文字を指さしながら丁寧に発音すると、はその後を追いかけるようにつたなく復唱した。理鶯はうん、と一つ頷く。
「美しく澄んだ水面には月が映し出される、という意味だ」
「は、溝で生きる鼠ではなく、その澄み切った水の中を泳ぐ魚のようだと、小官は思う」夜空に浮かぶ月に透けるような水面に、鰭をなびかせて虹色の鱗を反射させる、月光の寵愛を受けるを想像する。ずっと泳いでいてほしいような、けれども、両手の中に収めて逃げないようにもしたいような……。そんな葛藤の名づけ方はおろか、その存在が一体なんなのかさえ、謎のままなのだが。
要領を得ていないを置いて、理鶯はの前に跪く。彼女を見上げた理鶯の視界には、ぎょっとした顔をしたが大きく目を見開いていて、「何をやってるんですか」「娼婦に跪くなんて」「早く立って」から浴びせられる言葉の数々を理鶯は律儀に受け止めるも、頑なにその体制を崩さなかった。
「小官は、に対して命令するつもりも、ましてやを支配するつもりもない。このタグに誓って、小官がの傍にいるあいだは、貴女の自由を約束しよう」
理鶯は首にぶら下げているドッグタグを手に取り、そこに唇を寄せる。個人識別として使用されているそれに誓いを立てるということは、軍人として絶対的な誓約を意味する。もしもそれを違えた時、それは軍人として恥ずべき行為だと自認せざるを得えない。
の嫌う軍人である自分を否定出来ないと同等に、理鶯は軍に属する自身に誇りを持っていた。
「なので、今後の人探しについてもに一任したい」
これ以上、に迷惑をかけたくはない。もう十分協力してもらったし、必要以上に悲しませてしまった。強いて言うなら、それへの償いができないことが、理鶯の唯一の心残りだった。
糸の上にでも立っているような、ぎこちない沈黙が続く。そこからしばらくして、はあ、と脱力したような溜息だけが上から落ちてきた。
「もう、いいです。どのみち一度乗ってしまった舟……人探しの件に関してはあなたの気の済むようにしてください」
「いいのか」
「二度は言いません。それに、勘違いしないでください。あなたに頼まれなくたって、私はいつも好きなように意思決定していますから」
「だから早く立ってください」理鶯はに言われるがまま立ち上がる。どこか生まれた変わった気分になって、ワントーン明るくなった世界の中でを見下げると、彼女はう、と喉を詰まらせたように小さく唸って、再び溜息を零した。
「……本当に、変な人」
仕様のない、と言うように呆れた色をした表情は幾分穏やかで。つくられたような美しいあの微笑よりも、彼女らしい。そして、いつも向けられているしかめっ面よりも、理鶯は断然こちらの方が好きだと思った。その視覚的記憶は、初めての声で呼ばれた自身の名前の音とともに、理鶯の五感に刺青でも彫ったかのように深く焼き付いたのだった。
