Episode.2
の住家までの道は相変わらず迷路のようだが、慣れてしまえばどうということはなかった。どこを歩いても同じような景色が視界に映し出される中で、目的地までの手綱となるものを僅かに見つけ出していく。垣根の一部分が破損したところや雨が降っても消えなさそうな地面の汚れなどを目印にして、カメラのシャッターを押す感覚で、理鶯はぱちん、と一つ瞬きをする。記憶に収めた写真を順番に並べて、身に覚えのある道だけを辿っていった。
以前、襲われたあのあばら屋こそが彼女の家だ。ものの数分でそこに到着した理鶯は、の住家であるそれを遠目からじっと見つめる。中には、の他にもう一つ別の気配。ふむ、と状況を察した理鶯は、近くの木にもたれかかり、腰をすとんと下ろして、約束の頃合をはかろうと空を見上げた。というのも、このあいだ軽率に中を覗いたら、が知らない男と交わっている最中で、彼女にしこたま怒られたばかりだったのである。
「興が覚めたと途中で終わりました」「おかけで報酬も半分です」「あなたのせいだ」小石のような言葉をごつんごつんとぶつけられて、その時の理鶯はたしかに悪いことをした、と猛省した。本来なら誠意で返すのが道理だが、いくらこちらが謝っても、はいっこうに小言を止めてくれそうになかった。最終手段として、彼女の生命線を知っていた理鶯は、「相応の金銭を渡せばいいだろうか」と、特に使い道も決まっていない金銭袋を懐から出した。はじとりとした目でそれを見つめながら袋ごとぶんどろうとするも、すぐにその手は下ろされて、「あなたに買われたようで気に食わない」と唾を吐くように言われた。どうやら、彼女に対して良かれと思った行動は、なんでも裏目に出てしまうらしい。の意思に沿ってものを言うことは、上官の命令をきくよりも、新しい銃器の扱い方を覚えるよりも、ずっと難しいことだと思った。
それ以降、理鶯は住家からが出てくるまで外で待っている。彼女の言いつけを忠実に守り、照りつける太陽の向きがじわじわ傾いていくのを肌で感じながら、理鶯は静かに目を閉じた。
――そして、二つの気配が静止する。どうやら終わったようだ。理鶯はぱち、と目を開けて、の住家に視線を縫いつけた。いつものように先に男が出てきて、彼が立ち去ったその数分後、少々足取りが不安定なが姿を現す。理鶯は終始、を定規のような目でしっかりと見つめているので、彼女と目が合うのも時間の問題だった。しかし、が理鶯に気づいた途端、彼女は明らかに嫌な顔をして、理鶯のいるところとは別の方向へすたすたと歩いていってしまう。の扱われ方に慣れた理鶯は立ち上がって、急いで彼女の背中を追った。
「。先客がいるのは分かるが、そろそろ時間を守ってほしい」
「私にも都合があると言ったはずです。言いつけが守れないのならお一人で探したらどうですか」
「それは困る」
「なら黙ってください」が苛立ちげにそう言い捨てたので、理鶯は大人しく口を閉じるしかなかった。
しばらくの後をついて行くと、一体どこに隠れていたのかと問いたいくらい、先ほどいた場所と比べて人気が目立ってきた。曰く、ここ一帯は盛り場となっており、駐屯している陸軍や無法者の娯楽地区になっているらしい。近年、この国では奴婢及び娼婦を廃止する法律が整えられたそうだが、小さな町まで浸透するには長い年月を要するらしい――この町では法が定められる前と変わらず、彼女らは生きる対価として体を売ることを余儀なくされているとのこと。そして身分上、奴婢は胡粉一色の韓服を着ることになっていると聞いて、ならば腰紐をしていない女を見つければいいな、と言えば、「死んだ娼婦のものを盗んで、替えで何本か持っているに決まってるでしょう」と馬鹿を見るような目を向けられてしまう。理鶯は、なるほど最もだ、と頷く他なかった。
昨日まではの住む地区を探し回っていたが、最後までそれらしき女は見つからなかったので、比較的治安の安定しているというここまで足を伸ばした。腰紐の他に、もっと手がかりがあればいいと願うも、それが空から降ってくるわけでもない。どうしてあの時目を開けられなかったのだろうか、と非力な自分を呪っていると、突如、つん、とした刺激臭が鼻腔を侵す。まるで、世界中から集めた花と果実を無造作に散りばめたように混沌としている。お世辞にも良い匂いとは言えないそれに、理鶯は珍しくその石像のような顔面をむ、と崩した。
「なにやら臭うな」
「ここの地区は、お忍びできた貴族が女を買いに来るので、稼ぎどころなんです。皆、様々な香をつけてますから、無闇に鼻呼吸をすると嗅覚が馬鹿になりますよ」
「そうか。これでは捜索が難航しそうだ」
「……あなた、手がかりもないに等しいのに、いつもどうやって探しているんですか」
理鶯は自身の鼻を指差して、「腰紐と同じ匂いの女を探している」と言うと、はどぶ水でも飲み込んだような苦い顔をして見せる。どういう心情かは測りかねてしまったが、人間を見る目をしていなかったのは明らかだった。
「ところで、もよくここへ来るのか」
「小綺麗に魅せる化粧道具を買う余裕なんてありませんので。よほど容姿に自信のある者か……あるいは、貴族に飼われて裕福な暮らしがしたい者しか、ここを仕事場に選びません」
「も十分美しいと思うが」
「御託は結構。私も暇じゃないので、早く探してきてください」
餌をねだる野良犬を追い払うように、はにべもなく視線を地面に落とす。協力するとは言ってくれたものの、彼女がしてくれるのはあくまで道案内程度。決められた場所まで案内をしたら、後は理鶯が気の済むまで道の端で待っているだけだった。
しかし、せっかく時間を割いて付き合ってくれているのだ。これ以上の贅沢は言えない。のためにも、早く探し人を見つけなければ。理鶯は件の腰紐を取り出して、今鼻に入ってきた匂いの塊をリセットするかのように、紐の香りを頭の隅まで深く深く吸い込んでいく。日数が経ってしまっているので匂いは消えゆくばかりだ。しかし、この腰紐にはまだ、あの日の朝に嗅いだ素朴かつ枯れた原っぱのような匂いがうっすらと染み付いている。
理鶯は、目の前に伸びている道をまっすぐ歩く。前だけを向き、視線は左右にちらちらと散りばめていった。やはり、理鶯の目から見ても、が住んでいるところより、ここは治安がいいらしい。ただ何となくある道端で男女が獣のように交尾するのではなく、煌びやかな娼館がぽつぽつと見受けられる。中には、女自ら客引きをしている姿もあった。
……しかし、それも長くは続かなかった。しばらく歩いていた理鶯は、突き当たりまでは行かず、すぐに踵を返してしまう。の言う通り、これ以上進んでは鼻がおかしくなりそうだったし、頭で覚えたはずの匂いは四方八方から飛んでくる汚臭によって、すぐに埋もれてしまった。そもそも、こんな場所で嗅覚を頼りに探せるはずもなかったのだ。そこでようやく、理鶯はが自分に向けた表情の意味を理解する。本来ならば、腰紐を見せながら人伝に聞き回るところだが……なぜだろう。そんな気が起きないくらい、あの夜自分を介抱してくれた彼女はここにはいないと本能が告げていた。
本日も成果なし。若干重い足取りで、理鶯はがいるところに戻っていく。すると、なぜか彼女は一人の男に言い寄られている最中だった。それも、理鶯に見たこともないくらい、彼女はにこやかに彼と接している。目をまろく細め、口角もゆるやかに上がって、あんなにも仲睦まじく、楽しそうに、時折体に触れて、お互いの距離も、ほぼないに等しい。
きっと、知り合いなのだ。そうに違いない。なにか別の、鋭くも粘り気のある感情が頭の横を通り過ぎたような気もするが、すぐさまそれは彼らは知り合い、という言葉に塗りたくられた。しかし、いくら顔馴染みといえど、今は自分との時間であることは忘れてないでほしいとも思う。理鶯は長い足を伸ばして彼らの元まで歩いていくと、と男の間にその巨体をずいっと入れこんだ。
「彼女に、何か用だろうか」
男の方は理鶯を見てぎょっとした顔をしたかと思えば、呼び止める間もなく走り出してしまった。ちょうど用件は終わったようでよかった。理鶯が無味な目で男の背中を見送っていると、その隣に並んだははあぁ、と深いため息をついた。
「官僚様だったのに……。またあなたのせいで稼ぎが減りました」
「あの男はの知り合いではないのか」
「まさか。たまたま声をかけられただけです」
「小官の目から見て、はとても楽しそうに見えたが」
「こちらも商売なので。お客人には愛想くらい振りまきますよ」
「それで、件の女は見つけたんですか」その言葉に理鶯は力なく首を振ると、はほら見た事か、という顔をする。元々、この地区に何百もいる娼婦の中から特定の一人を探すだなんて無謀だと諭されていたのだ。それも、容姿も声も分からないまま、軍人が腰紐だけを持って町を歩いて探すなど……犬ではないのだから。それに、たとえ会えたとしても何をされるのかが恐ろしくて名乗りを上げる女などいないだろう、とも。
やはり……会うことは叶わないのだろうか。わずかに瞬いていた小さな可能性すら暗闇に消えてなくなってしまう感覚を覚えて、理鶯はそっと視線を落とす。手に握っていた腰紐を懐に大切に仕舞うと、「それにしても、」と嘲笑を含んだ声が隣から聞こえてきた。
「こちらの規則を守らず強姦ばかり繰り返す軍人を助けるなんて、その彼女はとんだお人好しですね。一体どれだけ馬鹿な女なのか――」
「」
標的を一つに絞り、針のように声を刺す。理鶯は鋭い眼光でを見下すと、その瞳の中に映る彼女の畏怖の色を垣間見えた気がした。
「……この目で見たことがなくとも、彼女は小官の恩人だ。いくらでも、見も知らない彼女を悪く言うのは頂けない」
暫く、苦い沈黙がその場に留まる。理鶯はは、と我に返って咄嗟に視線を緩めるも、は不格好に顔を顰め、何も言わずにさっき来た道を引き返してしまう。理鶯もすぐその後を追ったが、まるで一時休戦時のような気の抜けない空気で、住家までを送っているあいだ、最後まで彼女と会話を交えることはなかった。
