Episode.8
新年を明後日に控えた、今年最後の出勤日。大晦日を勝ち取った代わりに俺にのしかかってきたのは、今日まで一週間にも及んだ残業(終電ギリギリチャレンジ)。俺限定で適応されない労働基準法は一体誰に訴えればいいのだろう。そろそろ監査入らないかな、なんて淡い願望を抱く。でも、どうせ上手いこともみ消されるに決まってるんだ。そもそも俺みたいな地味で陰気な平社員なんて、お偉い方の記憶のKも残らないんだろう。
普段は自宅と会社以外にこの足が向かうところはないが、途中にあるコンビニに寄って酒とつまみでも買おうかと思った。一二三も仕事が忙しくてここしばらくは帰れないって言ってたし。朝まで一人で酒盛りして、明日から三が日は絶対に外に出ない。こうなったら頭がおかしくなるくらい寝てやる。決めたぞ俺は。
誰に対してマウントをとっているのか分からないまま、俺はビルのエントランスを歩く。ビルの中とはいえど寒いな。そういえば、今日は今年一番の寒波がなんとかってニュースでやってたような気がする。一刻も早くうちのヒーターに当たりたい。でも本当は炬燵が欲しい。去年辺りから、俺が毎日寝落ちするからって炬燵出すの一二三に禁止されてるんだよな。というか、あんな人をダメにする電化製品で寝ない方がおかしいだろ。
出入口に立つ警備員を労う気持ちで会釈をし、自動ドアをくぐる。と同時に、皮膚を刺すような寒風が俺の全身を襲った。寒いを通り越して痛い。皮膚が剥がれそうだ。年末まで頑張りに頑張った俺への仕打ちがこれか……。自然界にも嫌われてるってほんとなんなんだ。
寒さのせいかそれともそれ以外の理由か、目尻にわずかな雫が浮かんだので、ひとりでこっそりと拭う。すると、階段を降りたところで小さくぽつんと立っている、見知った後ろ姿があった。
「……?」
名前を呼ぶと、その人はくるりと振り返る。やっぱりだ。マフラーを鼻先に届くくらいぐるぐる巻きにした彼女は、「おつかれさまです」といつものように俺に会釈をしてくれる。ああ、やっぱりはこの世界で唯一俺に癒しを与えてくれる存在だ。
の家に泊まったあの日以降、おかげさまで昼ご飯をまた一緒に食べれるような仲まで修復できたが、お互いに退勤時間が合わなくて、ここしばらく帰りはあまりと会っていなかった。
「どうして、が……?」
「どうしても、年内に言っておきたいことがあって」
俺に? と自分を指さすと、は頷いた。となると、俺がビルから出てくるまでずっと待ってたのか? この寒空の中? 俺がもし帰ってたらどうするつもりだったんだ?
「こっ、こんな寒いのにっ! 顔も手も真っ赤だしッ……!」
「平気です。それより、終電も近いので歩きながらお話ししませんか」
俺の心配を跳ね返すように、は駅の方向へと歩き出す。肯定する暇もなく、俺は慌てて彼女の背中を追った。
仕事で疲れた俺を煽るように、至る所で色とりどりのイルミネーションがちかちかと光っている。ふつうなら綺麗だなあ、という感想を抱くところだが、連勤後の俺はブルーライトで酷使した目に沁みるくらいにしか思えなかった。
そして年の瀬だからか、日付が変わる間際だと言うのに街中はかなりの人で賑わっている。ああ、常日頃から楽しそうでいいな。でも、今の俺にはセラピーを擬人化したようなが隣にいる。今日ばかりは俺も勝ち組だ。
「居酒屋で私と話していた男の子、覚えていますか」
「えっ? あ、ああ、あの雰囲気イケメン……」
「イケメンかどうかは分かりませんが、彼、最近うちに入ってきた新人の子で、私が業務を教えていたんです」
そういえば、新人の教育係みたいなことしてるって言ってたな。が切り出した話題の論点が分からないまま、とりあえず俺はうんうんと頷いておく。
「あの時、告白のようなことをされてまして」
「う、うん」
「今日、改めて彼に好きだと言われました」
「え゙ッ」
「まずは友達からでいいからと、連絡先も教えてくれて」
あまりの衝撃にとても汚い声が出た。というか、押しが凄まじいなその男……。俺には到底できないことだ。告白している最中にいきなり第三者の男が出てきて、その子のこと連れて帰ったらふつうは諦めるだろ。それだけに魅力があるってことなんだろうが、あの男のメンタルの強さを少し見習いたいと思った。
「まるで、以前の私です。好意も何もない相手からこういうことをされるのは、とても困ります。あの時の独歩さんもこういう気持ちだったのかと思うと、自分がやるせなくて」
苦い顔をしてが言った言葉を受けて、俺は過去の記憶を辿る。と初めて出会った時……エントランスでスーツを掴まれたこと、唐突に好きですと言われたこと、連絡先を渡されたこと――やっぱり、あれは夢じゃなかったんだな。そんな今更なことを思っていたら、の口元で白い息が再び踊った。
「散々、困らせました。独歩さんのこと。だから、本音を言ってくれた彼にも、ちゃんと応えようと思って」
えっ……。応えるって……? 思考がフリーズして、その場に立ち止まってしまった俺。少し先を歩いていたは俺を振り返る。
と目が合っても、今言われたことについて俺は何も理解できないでいた。いや……でも、よく考えろ。つまり、きっとあれだ。はあの男と付き合うってことだろう。やっぱり俺なんかよりもそいつの方が好きになったんだ。そりゃあそうだ。俺に言っておきたいことっていうのも、前の告白は取り消してっていう内容なんだ。あれは気の迷いだったと言いに来たんだ。そうだ、きっとそうだ。
今、俺はどんな顔をしているだろう。なんで、と泣きながらに問い詰めそうになる自分を羽交い締めにするのに精一杯で、今の外面を気にする余裕がない。自分を自分として保つことすら、今はきつい。少しでも気を抜けば、自身と外界の境界線が消えてなくなってしまう気がした。
「なので、今日はケジメをつけに――」
「いいと思うッ!!」
俺は、ずるい男だ。だから、傷つく前に、色々なことを突き放したい。
邪魔をしてはいけない。は、家族が欲しいんだ。毎朝一緒にご飯を食べてくれるパートナーが欲しいんだ。そんな尊い未来に、こんな、俺のどろどろとした欲が出てきていいはずがない。だから、言え。俺自身は俺が引き止めておくから。言うんだ、今のうちに。ほら。
「あの人、真面目そうだしッ……! 俺よりも仕事できそうだしッ、のこと大事にしてくれそうだしッ……あと、えと……っ、余裕があって、かっこよくて、スマートで、男らしくて、陰気臭くなくて、ほんとっ、俺なんかよりも全然――」
「独歩さん……?」
目の前が霞んでいる。なんで。瞬きもしていないのに、目から涙がどばどばと溢れていた。が見えない。いやだな、これで一緒に帰るのも最後になるかもしれないのに。可能な限り、をこの目に焼き付けておきたいのに。
「えッ、ぁ……ごめ、ごめん……っ。えと、あのっ、いま、拭くからッ、見苦しいよな、こんな、何やってんだ俺ぇ……っ」
早く続きを言わなければ。どこまで言ったっけ。のことを祝福したいのに、これ以上声が出ない。言葉が思い浮かばない。アドリブを上手くやるコツはなんだっけ。頭の中で仕事のマニュアルをぺらぺらと捲るも、該当するページは白紙どころか、ぐちゃぐちゃの真っ黒に汚されている。未だににすがりついていたい、内なる俺の足掻きだった。
「独歩さん。私、また独歩さんを困らせるようなことを言ってしまいましたか」
が不安そうに眉を寄せている。ちがう。は悪くない。悪いのは俺……全部俺なんだ。なのに、がそんな顔しているのが、させてしまっているのが、たまらなく辛くて、自分のことが憎くなる。嗚咽のせいでぎゅうぎゅうと締め上がる喉を、さらにこの手で締めてやりたい。
「すみま……ッ、ほんと、すみ、ませんッ……」
「独歩さん、」
がハンカチをそっと俺に差し出しながら、小さくも、芯のある声でこう言った。
「私、前に言いました。嫌だと思ったときは断って、と。謝るんじゃなくて、ちゃんと、嫌って、独歩さんの声で言ってくれると、私も嬉しいです」
嬉しい……? が……? 今俺が思っていることを言って、が嬉しくなるはずがない。嫌だ、どころじゃないんだ。が思ってるほど、俺がに抱いている感情はそんな生易しいものじゃない。俺のためにの人生まるごと犠牲にしてほしいと願ってやまないんだ。こんなの、かなり気持ち悪い男だろ。はこんな俺を知らないから、そんな優しいことが言えるんだ。
抑えろ、抑えてくれ。にとっての、幸せな未来を想像しろ。俺以外の誰かと暮らして、子供も生んで、朝ごはんも、お昼ご飯も、夕ご飯も、おはようからおやすみまで、ずっと一緒で、誰かの帰りを家で待ってて、おかえり、いってらっしゃいを毎日交わし合って、何があっても、お互いが、お互いのそばにいて――
「……いや、だ」
ダムが、崩壊する音を聞いた。そして、俺は怖いくらい冷静に思う。と出会って、俺はどれだけの我慢をしてきたのだろうと。酷使しすぎた理性は、腹の奥にゆっくりと沈んでいった。そしてそれを合図に沸き起こる、荒ぶる熱と、頭の中を巡るに対する本音の数々。じんじんと麻痺した頭の中には、もう、が欲しいと叫ぶ俺しか残っていなかった。
「独歩さ――」
手繰り寄せるように、の手を引く。一歩二歩と近づいたを腕の中に収めると、力加減も分からないまま、その小さくて愛しいからだを強く強く抱きしめた。
「誰かのものになったなんて、いやだ……ッ!!」
言ってから、俺は奥歯をぐっと噛み締めた。こんなの、口にするだけで吐き気がする。金輪際、には誰にも優しくしないでほしい。お昼を一緒に食べるのも、気分転換にデートに誘うのも、酔っ払った姿を見せるのも……全部全部、生涯俺だけがいい。俺だけにしてほしい。
コート越しからでも分かる、の凍てついた体。俺のせいでこんなにも冷え切ってしまったと思うと、罪悪感どころか薄汚れた支配欲がどろどろと溢れてきた。
「嬉しいんだ……っ、楽しいんだ……っ、と一緒にいるだけで、こんなッ、年甲斐もなくどきどきするしっ……。あの日だって、毎日、と朝ご飯食べたいって、思ったし……ッ」
あんなにも心が満ちた瞬間があるものか。あんなにも穏やかな生活があるものか。俺が帰ってくる場所にがいたら、俺は世界一の不幸者から世界一の幸福者になれる。そう断言できる。
もう、願うだけじゃ足りない。欲しい。が。心も、身体も、彼女の全部が知りたい。がこれから歩む人生に、俺も連れて行ってほしい。どんなことをしてでも、と過ごす時間を、俺の残りの人生を賭けてでも手に入れたいと思った。
「ずっと、いっしょに、いたい……っ。がすること、言うこと、ぜんぶっ……俺だけに、向けてほしい……ッ」
ぐちゃぐちゃに入り交じった願望がとめどなく溢れては、言葉としてに俺の胸の内を届けていた。泣いているせいか頭も喉も締めつけられて痛いのに、涙と声は止まらない。今までせき止められていたものが、俺の頭の隅まで覆い尽くす。の好意から逃げてきた分のツケが回ってきた。もう、これは俺一人では消化しきれない。だから、聞いて、、お願いだから、今だけは、否定しないでくれ。受け止めて、飲み込んで、あとで全部、俺のせいって、言っていいから。
「好きなんだ……ッ、がっ……大好きだから……っ、お願いだからっ……ずっと、俺のそばに、いて、ください……ッ!」
知らなかった。本当に、知らなかったんだ。持ち主の俺ですら、俺の知らないところで、こんなにもに対する感情が大きなものになっていただなんて。
が欲しいのも、すべての優しさを注ぐのを俺だけにしてほしいのも、全部、俺の利己的思想だ。だから、今思っていることも、自己満足でしかない。がくれたたくさんの愛に、俺は応えたいと思ってしまった。俺の生涯をかけて、毎日、の笑った顔を咲かせてあげたいと。
手を繋ぐのも、隣を歩くことも当たり前な……世界も認めるそんな関係を、俺はと築いていきたい。まるで、未来を見てきたかのように、きっと、これから生きていても彼女以上にそんな人は見つからないと、俺は心から確信していた。
