Episode.9



 キーボードのタイプ音と冷蔵庫の機械音だけが部屋を満たす。
 やや強めにエンターキーをタンッ、と押した後、俺は何時間もの間、腹に溜めていた息を長々と吐き出した。体の中に溜まっていた毒素がゆっくり消化されていくのが分かる。いくら休みでも、こうして仕事を家に持ち帰って業務するなら、出勤とそう大して変わらないよな。おまけに、給料は発生しないのでこっちの方が断然タチが悪い。
 もう夕方か、とカーテンから覗く茜色の空をぼんやりと映す。立春も迎え、昼が長くなる季節になった。暖かいのはありがたいが、花粉がひどくなるのは少し痛手だ。営業中はマスクできないから市販の薬買わなくてはいけないと同僚が愚痴を零していた。俺にわざわざ話しかけることはないからもちろん盗み聞きだけど。
 そういえば、は花粉症なんだろうか。視界の端っこをちらりと見ると、ちょうどブランケットの塊がごそごそと動いていた。

「おはよう。
「おはよう、ございます……」

 のっそりと起き上がった。顔を上げるも、目を閉じたまま正面を向いている。寝ぼけているな、これは。寝起きの時は、はあまりこちらの声に反応しないことを最近知った。
 休みだというのに、月曜に控えた大口とのアポのための資料を作る俺の傍に来た。そのまま寝落ちてタオルケットを被せたのは何時くらいだろうか。ひとつ屋根の下で暮らし始めてからは、と同じ空間を共有しているだけで緊張して仕方がなかったが、最近はようやく俺の心臓も落ち着きを見せてきた。俺の生活に、の存在が溶け込みつつあると実感する。

「おしごと……」
「え?」
「しんちょくは……」
「あ、ああ……。八割くらい、かな。あとは会社のPCにデータを送るだけだ」
「おつかれさまです……」

 あくびを堪えながら、はちらりと壁時計を見る。もう十七時前を指しているのを確認すると、「ご飯……準備しますね」と立ち上がった。よろりとふらつくに思わず声が出そうになるも、それはやはり腹の奥で収まったままだった。
 ガスを入れる音と、冷蔵庫の開閉音。こんなにも小さな生活音が、耳に心地よく馴染む。メールを送り終えた俺がウインドウをすべて閉じると、「そういえば、」とが声を上げる。

「さっき、とても良い夢を見てました」
「へえ……。どんな?」
「独歩くんにプロポーズされた時の」

 俺の肩がぎくりと震える。シャットダウンをしようとしたマウスは揺れ、ポインターは何もない画面の端っこに移動してしまった。
 あんな小っ恥ずかしい夢をなんで――俺にとっては、俺の黒歴史上位に堂々とランクインする思い出なのだが。そしてそれをプロポーズだと断固として言うに、俺は穴があったら入りたい気持ちになる。どこにあんなみっともなく泣きながらプロポーズする男がいるんだ。ここに一人いるくらいだろ。

「あの時、独歩くんにプロポーズどころか振られると思ったんです。私」
「なっ、なんで……!?」

 振られるなんて……それはこちらの台詞だというのに。俺は、はてっきり他の男と付き合うかと思っていたのだから。
 今度こそシャットダウンをクリックして、画面が真っ黒になったノートパソコンを閉じる。すると、はちょっぴり拗ねたようにこう言った。

「独歩くんは、私に他の人とのお付き合いを推奨するような言い方をしていましたし、泣きそうな顔しながら、やんわりと断る言葉を選んでくれていましたし」
「あれは、その……見栄を張ったというか、なんというか……。で、でもも、応えるって言ってたし、嫌なら嫌って言ってって……」
「こんな自己中な女と付き合うのとかほんと無理だからごめんねという意味かと」

 そんなわけがあるか。このあいだと籍を入れたばかりだというのに、またしても小さなすれ違いを見つけてしまった。
 あの日、好き勝手に本音をぶちまけてしまった俺に応えてくれた。しかし、お互いにしばらくその場から動けず、おかげさまで終電を逃す羽目になってしまった。二人でビジネスホテルに入ったのは記憶に新しい。へ、変なことはしてないぞ。断じて。ちゃんとツインルームを選んだし。

「応えるというのは、玉砕覚悟でもう一度独歩くんに告白して、彼のことも断るという意味でした。好きな人がいるのに、他の誰かとそんなことはできないと思って」

 それじゃあ、あの時俺が何も言わなかったら誰も幸せになれない結末だったんだな……。危なかった。やっぱり、時には勢いも大事だ。
 結婚しても、と過ごす時間はびっくりするくらいゆったりとしている。に何かした方がいいんじゃないかとか、もっと尽くした方がいいんじゃないのかと思うのに、自分のことで手一杯で余裕がない俺は、いつでものことを後回しにしてしまう。こんなにも好きなのに、なんで俺はこんなにも不甲斐ない男なんだと心底嫌になる。
 実際、はどう思ってるんだろう。こんな俺と結婚して、後悔はしてないのだろうか。思っていたのと違う、と幻滅してはいないのだろうか。はあまりものを言わないし顔に出るタイプでもないから、俺一人ではの心を図りかねてしまった。

、」

 豆腐を片手に乗せたが振り返る。こうして呼べば、些細なことでも彼女は俺と目を合わせてくれる。俺の存在を認知してくれていると分かると、どこか心が浮き足立つ。
 でも、そんな気分とは真反逆に、俺はから目を逸らしてしまう。前も今も、俺がに抱いているものは変わっていない。いつもは奥の方に潜んでいるが、いざとなる時には、底なし沼のような独占欲や支配欲が顔を出すのだ。そんな無垢な目で見つめられると、よりいっそう、そんな汚い自分のことを傷つけたくなる。

「……ごめん。やっぱり、なんでもない」

 ――は今、幸せなんだろうか。
 結婚してからずっと心に抱いている言葉なのに、未だに言えないままでいる。本音で語り合うが夫婦円満のコツとか聞くけど、今の俺にはとてもじゃないができっこないことだった。
 も、こうして俺が途中で話を切っても、それ以上のことは聞かない。でも、ほんの少し……今みたいに寂しげに視線をそっと落とす。その時、が何を思っているのか……きっと、なら最初から聞くなよ、とかに決まっている。の時間を無意味に浪費して、毎度、申し訳なくなる。
 でも、いつかちゃんと話せたらと……そう、心の中で思ってはいるんだ。

「……独歩くんに、ひとつご相談があります」
「な、なんだ?」

 そう言って、が掲げたのは一つのパック。遠目のせいで大体のシルエットしか分からないが、どうやら魚の切り身のようだ。

「今日は、とてもいい感じのマグロの切り身を手に入れました」
「ああ……。ヨコハマの市場で買ったとかなんとかの」
「はい。刺身でももちろん美味しそうですが、個人的に唐揚げも捨てがたいです」

 そう言って、は俺をじっと見つめる。え、これ、俺が決める流れなのか……? というか、が捨てがたいなら唐揚げにすればいいんじゃないのか。
 俺はなんでもいいからの好きなものでいいよ。そんな言葉を準備しつつ、今日は米をたくさん食べたい気分だったので、まぐろならどう転がっても和食だからとてもありがたい。
 そういえば、このあいだ出先で食べた刺身定食のボリューム、凄かったな。男の俺ですら腹十分目以上だったが、とても美味しかった。大衆食堂みたいな店だったけど、はああいうの大丈夫かな。もしも好きなら今度連れて行ってあげたい。ああ、定食の他にはたしか丼物もあったな、いくら丼と真鱈のほぐし丼と、あとは――

「鉄火丼」

 口にしてから、暫く。が俺に切り身を掲げ、そのまま固まっているのを見てはっとする。いやいやいや、このタイミングで何口走ってくれてるんだ俺。今の状況なら刺身でも唐揚げでもなくて鉄火丼がいいって言ってるようなものだぞ。まるでの提案が不服みたいじゃないか。一万回謝りたい。

「ご、ごめんッ!! 今のはちがッ――」
「天才です独歩くん。採用です。ちょうど、最近ちょっといいお醤油とお出汁を新調したんです」

 俺が床に頭をこすりつけようとすると、はなぜか上機嫌で調理を開始した。怒って……ないだと……? いや、が怒ったところなんて一度も見たことないけど。というか、それどころか天才と呼ばれてしまった。謎すぎる展開だが、とりあえずの懐が宇宙並みに広いことを再認識した。

「……頑張らなくちゃな」

 夕ご飯の匂いが漂い始めるリビング。こんな素敵な空間を生み出してくれるに、俺は一生報いたいと思う。が、幸せになれるように。二度と、悲痛にゆがんだ顔や零れる涙を、見ないように。
 独りからふたりへ――彼女と共に歩み出した俺の人生は、まだ始まったばかりだ。