Episode.7
俺は一体、何をしているんだろう。
電車の中で織原さんに引き留められてから立場が逆転し、今度は俺が織原さんに手を引かれる。そして、流れるように電車の乗り換えまでして、彼女の自宅に到着してしまった。おまけに、途中にあったコンビニに織原さんがふらりと入っていったかと思えば、俺がまさに今着ている男物のスウェットと下着までちゃっかり買ってもらってしまうという。これ、俺が払わなくていいのか……? というか、歳下の女性に下着まで買ってもらうなんて恥ずかしいことこの上ないのだが。
そもそも、家主より先にお風呂頂くってなんだ。たしかに織原さんに半ば強引に浴室に押し込まれた形にはなったが、この状況はまずい。極めてまずい。こんな男女関係のそれのようなシチュエーション、俺の心臓がもたない。おまけに、そんなことを悶々と考えるばかりでここから帰る口実の一つも浮かびやしなかった。役立たずな俺の頭働け。
1Kの一室にて、俺は身を固くしながら正座をしている。さっきまで浴室から聞こえていた水音から織原さんのあられもない姿を想像してしまって、部屋の柱に頭をぶつけたくなる衝動に駆られた。しかし、後々隣人の方に近所迷惑だと責められるのは織原さんなのでぐっと我慢した。よくやった俺。頼むからそのまま静かにしていてくれよ俺の邪な欲望。
「独歩さん」
「ひッ……!」
振り返ると、いつの間にかお風呂から上がった織原さんが俺の背後に立っていた。濡れた髪にオーバーサイズのパーカーは駄目だろ反則だろ可愛い駄目だ心を無にしろいや無理だ可愛い死ぬ今近づいたら手を伸ばして抱きしめそうになる。そして朝まで離せなくなる。
なるべく彼女を見ないようにしようと天井に視線を泳がせていると、何を思ったのか、織原さんは俺の目の前にちょこんと正座をした。
「……ごめんなさい」
そう言って、なぜか織原さんは俺に向かって深々と頭を下げる。深々というより、これはもはや土下座に近い。「えッ……?」と声を上げたら、織原さんは少しだけ顔を上げて、ぼそぼそと話し始めた。
「また……独走してしまいました。これは裁判です。独歩さんに告訴されてもおかしくないです」
「えっ。いや、そうなったら不利なのは俺の方なんじゃ……?」
一体何の話か分からず、俺は目が点になる。なんで織原さんが謝るんだ? 謝るべきなのは軽率に女性の家に招かれてしまった俺じゃないのか?
というか、ひとまずその頭を上げてほしい。織原さんに頭を下げさせるなど彼女をよく知る人達に恨まれてしまいそうだ。
「なんでしたら、同居人の方には私から説明しておきますので」
「え……? 同居人……?」
「独歩さんをここに無理矢理連れてきたのは私です。家に帰らないと、その方もきっと心配します」
「あっ、いやッ……! あいつ、そういうの気にしないから大丈夫ですよッ!」
一二三と織原さんを話させるわけにはいかない。一二三が電話の奥で卒倒する未来が見える。
織原さんは、「そっか……。私が出てきたら話が余計に混乱……」などと独り言を呟いて、下げた頭をようやく上げてくれる。それでも、その表情は曇り空のように暗いままだった。
「え、えとッ……すみません、着替えまで買ってもらっちゃって……! 今ろくに手持ちがないので申し訳ないのですが、後日、このスウェットの代金お支払いしますのでッ」
「必要ないです。私が強引に連れてきたのに、そんなの頂けません」
「そ、そんな……っ。元はと言えば俺が織原さんを店から連れ出したせいですしッ、優しい織原さんにこんなことさせたら俺は明日から公衆の前に出られません……ッ!!」
なんとか勢いで押し切ろうとするが、こちらに伸びてきた織原さんの手によって、その圧も制されてしまった。
織原さんの指先が、俺の手の甲に触れる。盛り上がっている骨をなぞるようにして、小さくて、細い指がその上をするりと滑っていた。女性だから、じゃない。織原さんだからこその愛らしさが、胸の中からじわじわと込み上げてくる。
「……私、独歩さんが思っているような人間じゃないです」
喉から絞り出したような、苦しい声だった。苦いものを食べたのかと思うくらい、織原さんの顔は悲痛にゆがんでいた。
「自分のことしか、見えていないんです。昔から。人の都合とか、そういうの、あまり考えないんです」
「考え、られないんです」織原さんは消えそうな声でそう言った。
「汚い人間なんです。卑怯な女なんです。独歩さんの優しさに甘えて、私も、独歩さんを困らせる人達と同じです」
きこえてくる音が、だんだんと水気を帯びてくる。何か言わなければ、と俺は口だけを開けるも、今の彼女にかける言葉が何一つ出てこなかった。
汚い人間だなんて、卑怯な女だなんて……織原さんをそんな風に思ったことは一度もない。むしろ、それは俺の方だ。まさか、俺のせいで織原さんはこんなにも悲しんでいるのか……? 俺はどうしたらいい? どうすればよかった? 織原さんの目の前に二度と現れないほうがよかったのか……? 俺の勝手な我儘のせいで織原さんは、こんなにも――
「さっきも……いまも、」
「え……?」
「名前で呼んでって……言ったのに……」
ぽろり、と織原さんの目から涙が零れる。
一粒を皮切りに二粒、三粒……ぼろぼろと雨のように流れるそれに、「ひィッ……!!」と、俺は車に轢かれた猿のような悲鳴を上げてしまった。泣かせた。織原さんを、俺が、泣かせてしまった。こんなところを織原さんの知る人間に見られたら万死だ。首吊りの刑に処されてしまう。
「ごッ、ごごごごごごめんなさいッ!! 呼ぶ! 呼びますからッ! お願いですから泣かないでくださいっ……!!」
「敬語も……っ」
「分かったッ……! タメで話すから頼むから泣き止んでくれぇ……ッ!」
女性に泣かれるとどうすればいいのか分からなくなる……そんなことを世のイケメンは言うが、たしかにその通りだと思った。何が悲しいのかも分からないし、言ってくれないし、まるで赤子のような扱いになってしまう。
一方、肩を震わせる織原さ……は、早く呼んで、と言わんばかりに見つめてくる。その艶やかな眼差しに俺は生唾を呑んで、ひどく乾いた口を開けた。
「っ、……」
ゆっくりと、が目を見開く。赤く充血したそれが、こちらにおいで、と誘うように揺れている。そして、俺のスウェットの裾をの手がきゅ、と掴み、まるで、もっと、とせがんでいるようだった。
、、――頭が麻痺してきた俺は、彼女の名前を繰り返し呼ぶ。何度も、なんども。本当は、ずっと呼びたかった。でも、に嫌われたという事実を目の前に突きつけられるのが怖くて、自分から遠ざかってしまった。を記憶から消すなんて無理だ。耳が、目が、全身の皮膚が……彼女を覚えている。こんなにも俺はを求めているのに、今まで感じてきた幸せを捨てるなんて、俺にはできなかった。
すん、すん、と鼻をすする。子守唄でも聞いているように、目もだんだんと虚ろになっていく。普段のなら、絶対にこんなことしないし、言わない。もう、様子がおかしいことは分かっている。絶対に酔っていると確信もある。だからこそ、早いところ距離を取りたい。取らなければならない。
「……独歩さんのタイプは、なんですか」
理性と本能がせめぎ合う中、から唐突に投げられた質問に、俺はまたしても言葉を失った。え? タ、タイプ? タイプってなんの……?
「髪の長さは……? 性格は……? 体型は……? 年齢は……? 独歩さんはどんな女の子がお好きですか……?」
「ま、待ってッ。、一回落ち着い――」
ぐるんっ、と世界が回る。
後頭部と背中を襲った衝撃に、「ぐはッ……」と情けない呻き声を上げて、肺の中にあった空気がすべて吐き出された。そして、下腹部の上にのしかかる何か。見れば、部屋の照明をバックに、が俺に馬乗りしている。もう一度言う。馬乗りを、しているのだ。が、俺に。少し動くだけで腹に擦れる彼女の太股の触感。パーカーの裾からちらりと見える柔らかそうなそれに、体中の血が一気に沸騰する。待って、ほんとにやばい。の、座ってる位置が、特に、待って、ほんと、待ってくれ。
「独歩さんの顔みたら……ぜったい、また、変なこと言って……困らせるから……ずっと、エレベータも、こわくて、乗れなくて……」
の両手が俺の腹に触れる。手のひら全体で肋骨を撫でるように、小さな手がすうっと這った。
「どうしたら……いいですか。私、なんでも、します。ほんとうに、独歩さんのためなら、なんでもできます。料理も、裁縫も、部屋の掃除も、なんでもしますし、できないことも、できるようになります」
この状況下のせいか、なんでも、というのが違う意味に聞こえる。からの刺激がすべて熱に変わっていく。耳が、思考が、皮膚が……彼女から与えられる刺激に犯されていく。
「あれから、勉強も、部活も、頑張りました。お友達も、できました。就職してからも、たくさん頑張って、人と上手くやっていけるような生き方を、してきました」
あれから、とは。その時、は俺をどこぞの誰かと勘違いしているのだと悟った。だって、俺には何一つ身に覚えがないのに、が、俺にこんなことをするはずない。言うわけがないのだ。
「好き、なんです。大好きなんです。たぶん……あの時からずっと、独歩さんのことが好きだったんです。お礼、言いたくて、ずっと、今日まで、がんばって、でも、独歩さんは覚えてなくて、かなしくて、でも、また、あの時みたいに、お話、したくて……」
もっと……早く、見つけてたら、よかった
勘違いだというのに、“独歩さん”とは言っている。でも、俺は知らない。何も知らない。分からない。やめてくれ、これ以上、期待させるようなことを言うのは。が酔っているのをいいことに、このまま、男として道を踏み外してしまいそうだ。その白くてまろやかな肌に、触れたくなる。その愛らしい唇を、存分に食みたくなってしまう。
だめだ、こんな……駄目なんだ。そう思っても声には出ず、その間にも前のめりになる。彼女との距離がゼロからマイナスになっていく。首筋にの息が掠めた瞬間、ぐんッ、と下半身に熱が集中して、本格的にやばいと理解した俺は、残った理性を総動員して喉を絞った。
「はッ、離れてくれぇッ!!」
潰れた蛙のような声で、俺はに懇願した。すると、ぴたりと静止したは、おそるおそる、といった風に俺の腹から退く。
から解放されて、震える息で深呼吸。ようやくひと段落……と思いきや。ふと目が合ったの表情には、まるで絶望しかなかった。
「ごめん、なさい……」
「あッ……!? えと、違ッ……そうじゃなくてっ、俺が、その、色々やばくて……ッ! このままだとに変なことしそうだったから――ッ」
「処刑です……。終身刑です……。今から警察に自首します……。次にお会いするのは裁判所……」
「えっ、ちょッ、っ!? とりあえず一旦水飲ん――ッ」
その瞬間、ビブラフォンの着信音がバイブと共に鳴った。俺の鞄からだ。こんな時間にかけてくる人間は俺の知る限り一人しかいない。というか、正直今はそれどころじゃない。
とにかく、今はに水を与えたい俺だが、着信音に反応したは、あろうことか俺の鞄からスマホを取り出して操作しようとする。ま、まさか本気で警察にかけようとしているんじゃ……ッ!?
応答するべく、が画面をスワイプしようとした寸前で、彼女の手からスマホを奪い取った。表示は案の定一二三だ。危ない。電話の奥が地獄絵図になるところだった。
「もッ、もしもし……!」
《あっ、独歩~? LINEしても全然応答ないからテルしちゃったじゃんかよ~! 俺っち、今から仕事行くけどもしかして今夜帰れない感じ? とりま、夕飯はラップして冷蔵庫に仕舞ってあるからテキトーに食っといてー!》
「あ、ああ、分かった……。ありがとう。仕事頑張れよ……」
《あいよ~!》
ブツ、と切れる。声がでかい。きっとにも聞こえただろうな。そして知られてしまったな。同い年の男に夕飯を作らせている俺の情けない私生活が。しかし、今はやさぐれている時間はない。早くこの危機的状況を何とかしないと。
そういえばやけに静かだな、との方を見れば、いつの間にか自分のスマホを持ってきていて、ダイヤルの画面に110と表示させたがぽかん、と俺を見ている。いや待ってこの状況で警察に来られたら猥褻行為未遂で俺が捕まる待ってくれ頼むから。
「っ……。ひ、ひとまず、そのスマホ置いてくれないかっ?」
「今の……」
「えっ? あ、えと、例の同居人、です……。あいつ、ホストやってるからこの時間から仕事で……」
「同居人……。ほすと……」とが拙くオウム返しをする。そういえば、に一二三のことは言ってなかった気がする。あいつのことを話したら、が俺よりも一二三に興味を持ってしまうかもしれないと思ったのが一つ。一二三に、女性関係でこれ以上いざこざを起こしてほしくないのだ。
……いや、違うな。俺がを取られたくないがゆえの、変な独占欲がはたらいた。一二三のせいにするとか最低かよ。俺は片手で髪をぐしゃりと握って力なく自嘲した。
「げい、せくしゃる……」
「へ?」
「男性が好きでもなんでもいいです。もう、独歩さんにはもう二度と近づきませんから、私は今から自首――」
「まッ、待って待って待って……ッ!!」
今なんて言った? ゲイ? 俺が? なんで? 今、と俺の間でとんでもない誤解が生まれている気がする。
……もしかして、あれか? 俺に恋人がいると思って今まで近づかなかったのか……? そうしたら、さっき言ってたエレベーターの件も説明がつく。
光の速さですべての違和感が解かれる。の不可解な言動とその訳が、一つの糸で綺麗に繋がった。俺は再びのスマホを奪い取って床にスライドさせ、彼女の肩をやや強めに掴んで、その瞳に俺を映した。
「俺はゲイじゃないしっ……性的嗜好は異性だからっ! 俺はっ! みたいなッ! 女性が好きですっ!!」
しん、と静まり返る部屋。酔ったに理解してもらいたくて思わず大きな声を出してしまった。これ、明日怒られやしないか、という不安が襲ったが、それをも吹き飛ばす勢いで、の顔がずいっ、と目の前に近づいた。
「ほんとう……?」
「ほッ、本当、です……!」
「恋人は?」
「いないいない……っ!! いないからちょっとだけ離れてッ――」
「ほんとうに?」
俺は頻りに頷く。もう一度さっきのようなシチュエーションになったらもう我慢するのは無理だ。絶対に俺から押し倒してしまう。泣こうが嫌がられようが最後まで致してしまう。もうすでに半勃ちしているそれをに気づかれないよう、今は体を不自然に捻らせることしか頭になかった。
「……よかっ、た」
とろけるように、ふにゃりと笑った。久々に見た笑顔を最後に、彼女はずる、と俺の胸になだれ込んできた。息の音が顕著に聞こえる。ね、ねてる……。ぎりぎりのところで踏みとどまった理性に拍手と特別ボーナスをあげたい。未だに心臓の暴走は収まらないままだが。
しかし、問題は山積みだ。も俺なんかに触れられたくないだろうが、このまま朝を迎えてしまうと彼女は最悪な目覚めを味わうことになるだろう。俺は寝そべったをベッドまで運んだ(彼女を抱き上げた時は心を無にした)。そして、家に帰る金もない俺は、部屋の隅で数時間に及ぶ耐久レースを繰り広げる。好きな女性が寝ている部屋で過ごす一夜は気が狂うかと思った。
比較的、穏やかな目覚めだったように思う。
俺が寝ていたのは固い床ではなくタオルケットの上。そして、上にかけられているのは何枚もの毛布。スマホを見ると朝の五時半で、少し早く起きすぎたか、と欠伸を一つ。今日はたしか土曜日。正直まだ寝ていたかった。
「おはようございます」
二度寝を決め込もうとすると、キッチンから顔を覗かせたの姿があった。一瞬で頭が覚醒した俺は、昨夜の戦いをまざまざと思い出した。
「え……? 、今日仕事なのか……?」
「いえ、私はお休みです。でも、独歩さんはどうか分からなかったので、私が寝ていたらここを出る時に困るかと思いました」
「あッ……!!」
忘れてた。今日は半日出勤だ。一気に絶望の縁に立たされた俺の顔を見て、「起きてよかったです」とは言った。
「昨夜は、ご迷惑をおかけしてすみませんでした。かなり酔っ払ってしまって、本音が滝のように溢れました。いくら反省しても足りません」
は申し訳なさそうに頭を下げる。やっぱりあれ、酔っ払ってたのか……。たしかに、色々と見覚えのないこと言ってたもんな。じゃあ、好きっていうのは……? というか、今本音って……?
消化しきれない疑問を頭の上でぐるぐると回していると、元気なくらいにぐううぅぅっ、と腹が鳴る。こういう時くらい空気読んでくれよ。たしかに昨日は酒だけ飲んでつまみもろくに食べれなかったけど。
「今から朝ご飯……といっても一昨日の残り物なんですが、独歩さんもよかったらいかがですか」
「い、いいのか……?」
は頷いて、「スーツはそこのハンガーに。ワイシャツは今朝洗って乾燥機にかけておきました」と言う。見れば、の言う通り、スーツは丁寧にハンガーにかかっており、隣にあったワイシャツも皺一つない。もしかして、アイロンまでかけてくれたのか。こんな朝早くから至れり尽くせりだ。にいくら渡せばいいだろうか。
洗面台を借りて、顔を洗い、使ってください、というメモ書きとともに置いてあった新品の歯ブラシで歯を磨く。髭は……今日は仕方がないだろ。さすがに女性一人宅にシェーバーなどない(あったら逆にショックだ)。一昨日剃ったばかりだし不潔には見えない、と思う。多分。
買ったばかりのものと錯覚しそうなワイシャツに袖を通すと、うちのものではない柔軟剤の優しい香りがふわりと舞う。の匂いと同じなんだよなこれ……と思ってから、俺は全力で頭を振った。昨日の賢者タイムで何を学んだんだ。
リビングに戻ると、小さなローテーブルに食器を並べている。エプロン姿がとても可愛い。テーブルから顔を上げたが、どうぞ、と言うように、俺をテーブルの前に座るように促した。かちこちとした動きでぎこちなくそこに座ると、も俺の目の前に座って、お茶を注ぐ。目の前には、焼きたての食パンとクラムチャウダー、そしてマカロニサラダが置いてあった。
「いただきます」
「い、いただきます」
匂いだけで美味しいと分かる。食パンをちぎり、クラムチャウダーに浸して一口。美味い。そう思って実際口に出すと、「よかったです」とはほのかに笑んだ。
「こうして、誰かと一緒に朝ご飯を食べるの、久しぶりです」
「そ、そうなのか?」
「はい。施設を出てから、ずっと一人だったので」
そう言ったは、窓際に置かれた写真を見つめている。大勢の子供が映っている集合写真と、一組の男女が写ったもの、二枚。後者は、そこはかとなくに似ていた。
「夢なんです。朝、同じ誰かと毎日一緒にご飯を食べるの」
それは……素敵な夢だ。応援したい。全力で。きっと、家族が欲しいとか、そういう願いに似ているだろう。
すごく、いいと思う。でも、俺はきたない人間だから、またしても彼女の夢を汚してしまうようなことを考えてしまう。たとえば……そう、の言うその同じ誰かが――
「その同じ誰かが……俺ならいいのに」
からん、と食器が鳴る。現実にふっと戻ってくると、スプーンを落としたが俺をじっと凝視していた。
え……。俺、今声に出してたか? なんて言った? 俺ならいいのに? 毎朝こんな生活が続けばいいやって? 俺と? が? 一緒の朝を毎日過ごせたらって?
それからの俺の行動は早かった。ぼしゅんッ! と、顔の穴という穴から蒸気が出たかと思えば、食パンをばりばりと噛み、クラムチャウダーを一気に飲み干す。マカロニも三口くらいで完食し、ローテーブルに額を擦り付けた。本当はもっと味わって食べたかったが致し方ない。
「なッ、長らく居座って申し訳ございませんッ……!! ごッ、ご馳走様でしたッ!!」
言い終わるやいなや、俺は鞄を引っ下げ、逃げるようにして玄関に向かう。しかし、「独歩さん。忘れ物です」とすぐさまに後ろから呼び止められてしまう。
靴を履いていざとドアに手をかけた俺は、その声にぴたりと静止する。が差し出してくれたのは俺のネクタイチェーン。危なかった。またしてもの手を煩わせるところだった。
ひとまず鞄を置いて、チェーンを受け取る。いつもなら秒で付けられるのに焦りと緊張で手がもたついていると、の手が伸びてきて、俺の代わりにチェーンを付けてくれた。テキパキとした所作に心底脱帽していると、は今さっき俺が置いた鞄を持って、はい、と目の前に差し出してくれた。
「あッ、ありがとう……。い、いってきます」
「はい。いってらっしゃい」
ドアが閉まる直前まで、俺はこちらに向かって手を振ってくれるを映していた。
というか……あれ? ちょっとおかしくないか、“いってきます”って。ここはの家なのに、つい、いつも家出る感覚で言ってしまった。俺の馬鹿。こんなんじゃまるでと同棲してるみたいな、そんな――
「うわあああぁぁ~……ッ!!」
まだ、朝日の昇っていない冬の早朝――キャパシティオーバーを迎えた俺は、夜同然の真っ暗な空に向かって叫ぶ。もう、隠しようがない気持ち。思わず口から漏れるほど、俺はのことが好きになっているらしい。彼女を想うたびに溢れては零れる愛に、心臓すら焼けそうになった。
