Episode.6
俺の予感は嫌な時ほどよく当たる。
案の定……というのか、あの日のお出かけ以来、と一切会話をしていない。そもそも顔すら見ていない。いつもお昼時にいるテラスに彼女の姿はなく、三回に一回は鉢合わせるエレベーターの中でも一度も会うことはなかった。
俺だって、年の瀬だからきっとのところも忙しいんだ、と思いたかったよ。でも違う。俺はに避けられている。数日前にエレベーターで一階まで降りた時、ちょうど階段から下ってきたの背中を見かけた。彼女の職場がある階は八階。わざわざ階段で降りるのはかなりの手間だ。それに今まで階段で降りる姿は見たことないから……つまりそういうことだろう。
原因は俺だ。百パーセント俺だ。こんなにも目に見えて避けられるなんて思っていなかった俺は、四六時中胃が痛みっぱなしだった。おかげで仕事でミスばかりしてしまうし、クライアントに向けたプレゼンもたどたどしく言葉も詰まってばかり。挙句の果てに、「観音坂君はこんな多忙の中でも悠長に構えられて羨ましいなあ」なんてハゲ課長に嫌味を言われる始末だ。
すべては俺が悪い。が……いや、名前を呼ぶほど親しい仲じゃないからもうやめよう。織原さんが階段を使う羽目になっているのも、胃薬の副作用が強すぎて欲していない眠気が襲うのも、そのせいで昼間の時でも隈が深くなってますます陰気臭い顔だと罵られるのも、全部、全部、ぜんぶ……俺のせいなんだ。
むしろ、俺が階段を使うから織原さんはエレベーターを使ってほしいと思う。そして、彼女の頭の中から俺という存在を何もかも消してほしい。俺も忘れたい。俺の人生においてあんな幸せな瞬間があっただなんて、思いたくない。ずっと苦しいままでよかったのに。こんな幸せな味を知ってしまったら、後々の未来が辛くなるだけだ。
もう……いろいろ、疲れたな。彼女の見えない心について考えることも、嫌われたくないとしがみつく俺の醜さも、びりびりに破ってしまってすべてゴミ箱に捨ててしまいたかった。
「観音坂ぁ~っ!」
「はいただいまッ!!」
それでも周囲は、俺に溜息すら吐き出させてくれない。
忘年会という名の気疲れ耐性訓練に駆り出され、俺は席をちょこちょこと移動しては目上の人らに酒を注ぎ、なんの得にもならないのに彼らのご機嫌を伺うばかり。こんなことをしても給料は上がらないのに……ほんと、何やってるんだ俺は。
小一時間に及ぶ挨拶回りを終え、ここで俺はようやく一人で静かになれた。さして飲みたくない気分でも摂取しなければいけないアルコールに胸焼けがしつつも、人の寄らないテーブルに落ち着いて、最初に一斉注文されたビールをちびちびと飲んでいる。
いや、もういっそ酔っ払って何もかも忘れた方が早いか……? それか、一人でこっそり店を出るか。集金も事前に済ませているし、ここでいなくなっても、誰も俺には気付かないだろう。そう思っていても、もし万が一俺の存在に気づいた誰かに後日噂されるのが怖くて、やはり何かに縋るようにここに居座ってしまう。
俺がやりたいことは……もっと他にあるのに。
「家、帰りたい……」
寝たい。そして夢を見たい。織原さんとお昼ご飯食べる夢とか、一緒に帰る夢とか。彼女に関わる記憶を消したいとか言って、ほんとうに未練がましい。今思えば、俺なんかが織原さんとそんなことできていたなんて奇跡に近いことだ。もう、そんな夢を見ることすら烏滸がましいだろう。ああ、また胃が痛くなってきた。
ふと、俺は壁時計を見る。そろそろ終電も近いと分かると、もういいか、と自分の中で無気力に切れた糸があった。織原さんのことを考えていたら、今の現状が一瞬にしてどうでもよくなってしまったのだ。べろんべろんに酔った上司に早口で帰る旨を伝えると、おつかれーい、ともうお前は用済みだと言うように手を振られる。その毛むくじゃらの汚ねえ手をひっ叩いてやろうかと思った。
「あれ……?」
店から出たすぐ外で、一組の男女が何やら話し込んでいる。普段ならイチャつくなら他でやれよ、と思うところだが、今回ばかりは首を捻って瞬きを何度もしてしまった。織原さん……女性の方はなんと織原さんだったのだ。なんでこんなところに彼女が――いやいやいや。さすがにおかしいだろ。あまりの織原さん恋しさに幻覚まで見るようになったか俺は。
それでも、俺の視線は彼女から離れなかった。姿を現すとこちらに気づいてしまいそうだったので、出入口の柱に隠れてそうっと二人の様子を伺う。これも、はたから見たらだいぶやばいだろう。警察に見つかったら職質案件だと分かっていても、俺は彼女を目の前にしてここを去るなんてことはできなかった。
織原さんの向かいには、俺よりと身長が少し高いくらいの男がいる。あと若い。織原さんとそんなに歳が変わらないくらいだろう。
「――他の新人さんにも同じことしていましたし、それが仕事だったので」
男が何かを言って、それに応える織原さん。というかさっきから織原さんの目が死んでいる。光がまるで宿っていない。まるで徹夜明けの俺だ。え、あれって本当に織原さんか……? 俺の知っている織原さんはもっと優しくて、口数は少ないけどこんなにも淡々と、ひんやりとした言葉を返すような子じゃない。
というか、もしかしてこれ……。え? いやまさか。いやでも会話的にそういうことだよな。こんなところ見てていいのか俺。いや駄目だろ早く離れろよなんで壁と同化してんだバレたら言い分も何もできなくなるぞ。
「分かってます。だからまだ、返事しなくてもいいです。最初は、職場以外での俺を知ってくれませんか」
「いえ……私は――」
「織原さんに好きになってもらえるように、俺、頑張りますから」
やっぱりそういう現場だああぁぁああ……ッ!!
モテない俺が言うのもなんだが、こんな居酒屋の軒下で告白なんてムードも何もないんじゃないか。せめて場所移動するとかあるだろ。俺でも察せるぞそんなこと。でも、彼が懸命に話してるのに、織原さんはさっきからずっと顔上げてないぞ。照れてるのか? それとも迷惑してるのか……? それなら、俺がここから連れて――
「(……いや、さすがに、引くだろ)」
でも、さっきからひどく、気持ちが悪い。どろどろとした、どす黒い感情が俺の中で渦を巻いている。なに、考えてるんだ俺は。やめろ。俺は織原さんの何でもない。赤の他人だぞ。しかも、最近嫌われたばかりの人間だぞ。そろそろ終電も近い。帰らなくては。そうだ。帰ろう。何も見なかったことにしよう。音も立てず、こっそり出ていけば、あの二人にも気づかれない。俺の影の薄さが役に立つ時だ。
こうして俺が思っているうちにも、男の押しが強いのか、織原さんは若干引き気味で彼の対応をしている。これから、どうするんだろう。あの二人はどうなるんだろう。まだ話し合いは長引きそうだし、このままだと織原さんが終電に乗れるか分からない。終電なくても、タクシーを拾うのだろうか。
それとも、あの男と一緒に……どこか、別の――
「私、他に好きな――」
「ああぁぁぁああああッッ!!」
耐えきれなかった本能が、俺の背中を修羅場に突き落とした。
キチガイ認定されてもおかしくないような奇声を発して、俺は織原さんと男の間に躍り出る。急に訳もわからない人間が割り込んできて、彼もさぞかし驚いているだろう。俺なら卒倒する。
織原さんの目がまん丸になっている。久々に織原さんと向き合うことができて、一瞬だけ頭がフリーズしてしまう。お酒を飲んだのか、彼女の瞳はやや水気を帯びていて、店の照明に反射してゆらゆらと揺れている。そのおかげかそこはかとなく普段よりも色っぽ――いや今はそんなこと言いたいんじゃなくてっ……!!
「きッ、奇遇ですねっ織原さんっ! 実は、俺の会社が今日この店で忘年会やってまして! あっ、もしかして織原さんのところもですか!? ほんと付き合いとはいえど嫌になっちゃいますよねッ! 俺も早々に抜け出してきちゃったんですが、織原さんも一緒にどうですか!?」
どうですか、と言いつつも、もうすでに俺は織原さんの手を取っていた。力加減も知らずにぐんッ、と強く引っ張って、臭いし煩いし楽しくないし……憂さしか溜まらない居酒屋を後にした。もう笑ってくれ。笑い飛ばしてくれ。職場も違う、好感度最底辺男が、彼女にこんなことをしていいはずがないのに。
しかし、織原さんは強引なこの手を振りほどくことはしなかった。むしろ、まるで躊躇するように俺の手を弱々しく握りしめているように感じた。でもそれは、この期に及んでまだ嫌われたくないと思っているがゆえの、俺の気のせいだ。そう……きっと、そうにちがいないんだ。
ネオン光るシンジュクの街――俺は、織原さんの手を引いて歩いていた。行き先も分からないままだが、おそらくこの足は駅の方向へと向かっている。
後ろを、振り返れない。怖い。今、彼女がどんな顔をしているのか。だって、怒っている織原さんなんて見たことがない。迷惑だ、勝手だ、自己中心的だ――あの瞬間で、織原さんが俺に貼ったであろうレッテルを想像すると、壊れかけの関係のままでいたかった。女々しいな、俺。もう粉砕する未来がすぐ目の前にあるっていうのに。
「独歩、さん」
全身が震える。後ろからわずかに聞こえた声に、俺は思わず振り向いてしまった。すると、唇を薄く開けて、瞳を若干蕩けさせた織原さんとぱちんと目が合う。ここで初めて、俺は彼女との身長差を呪った。上目遣いが目の毒過ぎる。酒って怖い。ほんと怖い。
「すッ、すみませんすみませんすみませんッ!! この度の謝罪は後日どんなことをしてでも――ッ!!」
「少し、屈んでくれませんか」
屈んで? 今屈んでって言ったか。そのくらいでこの罪が消えるのなら安いものだ。なんなら地面にのめり込む勢いで屈む覚悟だ。場合によっては土下座もやぶさかじゃない。
俺は織原さんの前ですっ、と片膝をつく。これで彼女に手を差し伸べたら、物語に出てくる王子様になるんだろうな。でも相手はこの俺だから、下僕が限界だ。
織原さんを見上げることはそうそうない。のんきに新鮮な気分になっていると、いきなり織原さんの両手が目の前に伸びてきて、ぐんっ、と俺の顔が前に引っ張られた。
「ひいぃぃッ……!?」
バランスを崩して、前のめりに両膝立ちになった俺。織原さんの両手が俺の顔を包んでいる。輪郭をなぞってぺたぺたと触ったり、小さな指の腹でふにふにと頬を押したり、かと思えば軽く引っぱったり……なんだこれは。一体どんなご褒美だ。
「おッ、おおおおおりはらッ、しゃん……ッ!?」
「ちゃんと、本物……」
え、なにが? 観音坂独歩はこの地球上に一人しかいないはずだ。それともこの短期間に俺のドッペルゲンガー的な誰かと会ったのだろうか。
好きな女性に見つめられて触られている現実のおかげで、頭も目もぐるぐると回しているうちに、織原さんの手は俺の顔から離れた。その時、少し残念に思った自分が心底嫌になる。織原さんの温もりの名残のせいか、まだ心臓がばくばくと煩い。今日、顔洗いたくないな。
腰に力が入らないまま、俺はよろよろと立ち上がる。手はもう離れてしまったが、織原さんは俺の後をとてとてとついてきて、さらには真横に並んで歩き始めた。またこうして、彼女の隣を歩けるなんて思わなかった。上がりそうになる口角を手の甲で隠しつつ、俺は真っ暗な空を仰いだ。
「ビル以外で会えるなんて思っていなかったので、びっくりしました」
「えッ……。あっ、そ、そうですよね……っ! ほんと、偶然です……ッ」
さっきの男については触れなくていいのだろうか。織原さんは俺の言葉にこくこくと頷くだけだし、彼女から話す気配はなさそうだった。
「おっ、織原さんのところも忘年会だったんですか……?」
「はい。こういうのはいつも理由をつけて不参加なんですが、今回は新人さんたちにやたら誘われてしまって」
「でも、来てよかったです」と織原さんはぼそりと言う。まあ、あんな若い好青年に好きですと言われて嫌な気はしないだろう。あの場も、きっと男が告白するために同期の人がセッティングをしたんだろうな。今更だが悪いことをしたと思った。
クライアントならともかく、顔も名前も、おそらくはこれからも接点のない男のことなんて知らない。それに、あのまま織原さんがあの男と話を続けていたらと思うと、身の毛がよだってしまった。
「お酒も勧められるがままに……普段よりも少し呑みすぎてしまいました」
「えっ。だ、大丈夫ですか? もしかして、結構な量飲まれたんじゃ……」
「グラスに……十杯くらい。ほとんどハイボールしか頼んでいなかったので、もの自体は大したことないです」
「じゅッ、十杯……」
言動もしっかりしているし、顔もそんなに赤くなっていないから、その量を飲んだようにはとても見えない。あまり顔に出ないタイプなのだろうか。すごいな。
「い、意外とお酒強いんですね……。俺も付き合いで飲むんですけど、すぐ酔ってしまうので羨まし――」
「嫌いですか」
ぽつりと呟かれた言葉に「へ?」と俺は素っ頓狂な声を上げた。
「独歩さんは……お酒の強い女性、お嫌いですか」
織原さんが俺を見上げる。どことなく不安げに揺れた瞳を見て、俺は小刻みに首を横に振った。
「ぜッ、全然、です」
「そうですか」
すると、ふっと織原さんは俺を視界から外して再び俯いてしまった。もうこれ絶対嫌われてるだろ俺。いや知ってたけど。なにしたんだマジで。織原さんを不愉快にさせた過去の俺を蹴り飛ばしに行きたい。
それからは特に会話もなく、眠らないシンジュクのネオンを横目に次々と通り過ぎる。途中、歌舞伎町に近くなってきたのか、風俗を匂わせる看板がちらほらと見えてくる。中にはホストも。まるで漫画のような顔面偏差値をした男達が看板になってその端正な顔を晒していた。
一二三も新宿ナンバーワンホストと謳われるだけあってかなり顔は整っているけど、他のホストも中々すごいよな。オーラとか目力とか。いいよな、外見が良い奴は。俺と違って、きっと何をやっても大概のことは許されることが多いんだろうな。
「独歩さん?」
「えッ!? あ、いや、顔が良い人ってほんとなにやっても得だよなって思って……!」
看板をぼーっと見つめていたら織原さんに不思議そうに見上げられてしまった。というか今さらっととんでもない本音が出た。こんなのイケメンが恨めしいと言っているようなものじゃないか。見苦しくて醜い人間の典型的な例だ。
俺の言葉を受けて、織原さんもホストの看板をぼんやりと見上げる。織原さんもきっとこういうイケメンに連れられたかっただろうな、と思っていると、俺の方をちらりと一瞥して、また看板に目をやった。
「……道行く女の子が卒倒するイケメン千人よりも、私は独歩さんが十人いた方がいいです」
んん……? それはつまりどういう……? 言葉の意味が分からず俺は一瞬考えこんだが、織原さんはもう看板に興味をなくしたらしく、すたすたと前に進んでいってしまう。
織原さんを追いかけながら、俺ははっと閃いた。もしかして、見世物的なあれか……? 滑稽という意味で、俺のような汚い人間の在り方を観察したいという意味か? どんなことであれ、少しでも彼女の役に立てるのなら本望だが、織原さんに見られるのは少し恥ずかしい。いや着眼すべきはそこじゃないだろドMか俺は。
「お弁当……そっか……。早く、気づけばよかった」
「え?」
「同居している方が作られているんですよね。お弁当」
「あっ、は、はい……。自分じゃとても作れないので……。毎日お願いしてます……」
急に話題が変わって応じると、織原さんの顔がさらに暗くなる。その表情の意味も、臆病な俺は問えずにいた。
そのまま微妙な空気を纏った俺達は駅のコンコースに着いた。いつもなら織原さんと左右に分かれている階段にそれぞれ降りるが、なぜか織原さんも俺が帰るホームへと着いてきてしまった。
一人で帰るのは不安なのだろうか。そりゃそうだよな。もう深夜だし。織原さんを連れ出したのは俺だから、それ相応の責任は取るつもりだ。でも、こんな不仲になってしまった今、駅までついて行っていいはずがないし、タクシー代を渡して、俺は俺の最寄り駅で降りようと思った。
到着した電車に二人で乗り込んだが、やはり、織原さんは無言を貫いている。さっきもそうだけど、ご飯の話をする時に織原さんの様子がおかしくなる気がする。意気消沈気味になるというか、なんというか。いやでも、タイミング的には絶対にそうだ。自分の食べるものくらい自分で作らないのか、と呆れられたにちがいない。夕ご飯だってそうだ。今度から一二三に自分で作るから大丈夫だって言おう。そんなことしても、織原さんとの穏やかな時間が戻るわけじゃないけど。
でも……織原さんはなんで嫌いになった俺についてきてくれたんだろう。帰りまでこんな男に引っ付かれて嫌じゃないんだろうか。織原さんの口数の少なさが逆に怖くて、かと言って自分から切り出す勇気もなかった。いつもなら、駅に着かなければいいのにと思う。でも今は、この空気から一刻も早く逃げ出したいと、俺はドアの前の次の駅が表示されるモニターばかり見てしまっていた。
そして、待ちに待ったアナウンスが流れて、俺が降りる駅名が告げられる。
「じゃ、じゃあッ、俺はここで。あと、タクシーはこれで支払いを――」
――強い、力だった。
プシュー、と目の前で無感情に閉まるドア。後ろに引っ張られた右腕を伝って振り返ると、困ったように眉を下げて、今にも泣きそうになっている織原さんがそこにいた。
「へ……」俺は思考停止する。ミニ財布を差し出した腕も下ろしてしまうほどに。それと同時に、思い出したことが二つ。さっきのホームで終電というアナウンスが流れていたこと。そして、ちょうど今は給料日前で、タクシーを拾えるほどの手持ちがないということだった。
