Episode.5
何をするにも落ち着かない。
スマホを見て平然を装おうとしても、周りの様子ばかり窺ってしまって、あの小さなシルエットが視線の端でちらつかないかと、つい探してしまう。自分で言うのもなんだが、かなり不審だ。一二三が決めてくれた服も、本当に似合ってるのかと未だに疑心暗鬼だった。
……いや、大丈夫。一二三を信じろ。あとは俺が頑張る番だ。織原さんとのお出かけ――いや、もうこれはデートと言っていい。……いいのか? 本当に? とにかく、織原さんに失礼のないように今日一日を終えなければならない。ある意味仕事よりもハイレベル。それでも心は有天頂といっても過言でないくらい舞い上がっていた。
ふと、地面ばかり見ている俺の足元に、白色のスニーカーがぴたりと止まる。顔を上げると、コーラルピンクに彩られた小さな唇が一番に目に入った。
「おそく、なりました」
少しだけ息を切らした織原さんを見て、「ひェッ……」と変な声が出た。女性のオフの格好を見て第一声がそれってまずいだろ。まずいよな。でももう言葉を選んでいる余裕がない。脳の至るところでシャッターが落ちている。営業終了とかふざけんなよ。働いてくれよ俺の思考回路。今年一番の働き時だぞ。
織原さんの髪、いつもよりもくるくる……いや、こういうのは巻いてるっていうのか……。普段はスーツだから私服が眩しい。眩しすぎる。もはや見えない。いやでもこんな機会は滅多にないからちゃんと見ておくことにする。この時点で今日来てよかったと思えた。
「私からお誘いしたのに、待たせてしまってすみません」
「い、いえっ! 俺が早く来すぎただけなんで……ッ!」
目を合わせようにもやはりできない。やっぱり駄目だ。俺にはレベルが高すぎる。でもこんなので一二三に教えてもらった言葉が言えるのか……? 彼女が来たらいち早く言うべき言葉を。私服可愛いねって。とても似合ってますって。
「では、行きましょうか」
「は、はいっ」
織原さんは俺に背を向けて駅のホームへと歩いていく。隣で歩いて……いいんだよな。邪魔だって言われたらどうしよう。
いや、そんな躊躇する暇は今の俺にはない。言えっ。言うんだ俺……!! 夜な夜な練習したあの言葉を――ッ!!
「あっ、あの――ッ!」
「観音坂さんの私服」
ぽつりと、織原さんが呟く。ふっと顔を上げて俺の顔をぱちんと見たかと思えば、彼女の目は柔らかく細められた。
「初めて見たので、一瞬誰か分からなかったんですが……すごく、かっこいいです。とても似合っています」
鼓膜が溶けるかと思った。
頭がフリーズした俺を置いて、織原さんは何事もなかったような顔で、すでに前を向いている。俺が意を決して言おうとしていたことをさらっと言われた。まるで息をするように、自然と。そして褒められてしまった。俺の方が。
織原さんに対して申し訳ない気持ちがキャパオーバーを迎えて、しばらくのあいだ、人間をやめていたのだと思う。そこから電車に乗るまでの記憶がぽーんと飛んでいた。定期をちゃんと通したのかも覚えていない。
ごめん一二三。今日、織原さんが尊すぎて俺は死ぬかもしれない。葬儀代はもったいないから、火葬して残った灰は海に撒いておいてくれ。
普段は使わない路線の電車に乗って、到着したのは都市圏から少し離れた小さな町だった。車も人も少ない道路を歩いていくと、その道がだんだんと細くなって、アパートから風情のある日本家屋が目立ち始めた。
経営しているかどうか分からないテナント、雑草の生えた空き地、苔に覆われた垣根……寂れているわけもなく、人の意識に触れずひっそりと佇んでいるような雰囲気だ。そんなノスタルジックな空気感に、俺はこの一瞬でタイムスリップでもしたんじゃないかと思う。
「街中にあるおしゃれな散歩道でもいいかなと思ったんですが、人混みは仕事だけで十分だと言っていたので」
「いやっ、あの、すごく……好きです。こういうの。子供の頃に帰ってきたみたいで」
「そうですか」
織原さんの返事はそれだけだったが、普段よりも柔らかい声色に聞こえた。
感覚的には、近所のちょっと行ったところにあるコンビニに出かけるのと同じようだった。それくらいラフで、織原さんが隣に歩いているのに、いつの間にか肩の力がふっと抜けていた。
途中、通りがかった駄菓子屋さんを凝視していたら、奥にいたおばあさんと目が合って、年甲斐もなく店に入って二人でいくつかお菓子を選んだ。これ、よく買ってました、当たりがあるともう一つもらえるんですよね、なんて。一二三と弟としかしたことのないことを、この歳になって意中の女性とすることになるなんて。
お菓子が入った小さなビニール袋をぶら下げて、また二人でゆるりと歩く。会話はほとんどなかった。わずかな水がさらさらと流れる川に架かる小さな橋を渡り、都市圏ではめったに見かけない遊具のある公園では、ベンチに座る親達の目の下で小さな子供が数人遊んでいる。
そんな時、俺の足元に手のひらサイズのボールが転がってきて、取って、と言わんばかりに子供がこっちに向かってぴょんぴょんと跳ねている。俺は少しだけ見栄を張って、腕を大きく振りかぶってボールをぶん投げた。上手い方向に飛んでいったボールは子供の元に戻り、その子は俺に向かって大きな声でお礼を言ってくれる。痛む肩を忘れて、久々にそんなことを言われたな、と小さく感動してしまった。
「どこか、座りませんか」
少し疲れたな、と思っていたら、ちょうど織原さんがそう提案してくれた。
そうして入ったのは、小さなお社のある神社。しばらく滞在させてください、と意味も込めて賽銭を投げ入れ、ここの主に手を合わせた。ついでに、ハゲ課長が明日からインフルになってしばらく休みますように、とも祈った。
そして、蔵の影に隠れていた石畳に二人で座る。この神社や、足元に転がってきたボール、そして駄菓子屋……きっと、普段の俺なら見もしない、風景の一部と化していただろう。織原さんが、都市の喧騒から俺を連れ出してくれたおかげで、気づくことができた。
再び、思い出として記憶に蘇らせることができた、俺が生きていても許される世界だ。
「なんか……意外、でした」
ぽつりと零れた言葉に俺自身が驚き、それを聞いた織原さんははて、と首を傾げている。
「あッ、そ、その……! 悪い意味じゃなくてですねっ! あんまり、織原さんがこういうところ歩くとか、イメージないので……ッ」
「子どもの頃から、通ったことない道とか、歩くのが好きなんです。個人経営の喫茶店とか、人通りの少ない猫のたまり場とか、こじんまりとある定食屋さんとか……何があるんだろうって、わくわくします」
結構子どもらしいんだな、と思う。俺なら、怖くてそんなことできない。新しいことは嫌いだし、そもそも既存しているものを抱えるので手一杯だ。余裕がないのだ。すべてにおいて。
このまま黙っていると、また変な思考に陥ってしまいそうで、俺は織原さんに半ば縋るように口を開いた。
「おっ、織原さんの、好きなことって、他に何かあるんですか……?」
「好きなこと……。手芸、とかですかね。刺繍とか、レジンとか、フェルト工作とか。気になるものがあったら、何でもします」
趣味まで可愛いってなんだ。本当に同じ世界で生きているのか? ベタ過ぎるかもしれないが、織原さんがストーブの前で黙々と編み物しているのがすぐに頭の上に浮かんだ。
「私、実家が施設なんですが、小さい子の服とか縫ったり、ボタン付けとかよくしてたら、いつの間にか得意になっていて」
「そ、そうなん……ですか」
織原さんがなんの前置きもなくさらっと言ったので上手く反応できなかったが、今かなりヘビーな話題じゃなかったか。施設ってあれだよな、児童養護施設とかそういうのだよな。ということは、ご両親は訳あって離れて暮らしているのだろうか。それとももう故人……?
「……」
「へ?」
「で、いいです。呼び方。敬称も、敬語もなくていいです。私の方が歳下ですし」
織原さんにしては張った声……のように聞こえた。そういえば、織原さんの歳を気にしたことなかった。たしかに、今意識してみれば歳下なんだろうなと思う。大人っぽいから、たまに忘れそうになる。これを口にしたら老けていると勘違いされそうなので言わない。女性との関わりは些細なことからセクハラに繋がるんだ。今は社内じゃないけど。
「じゃ、じゃあ、え、えと……。……?」
震える声でそう言えば、織原さんは唇をきゅっと結んで、こく、こく、と小さく頷いている。心なしか目がきらきらして、いつにも増して瞳が澄みきっていた。
「あッ、じゃ、じゃあ、俺も独歩で、いい、です。観音坂って長いですし、毎度毎度言い難いですよねっ……!」
こんなことでも言わないと、変な沈黙が生まれて俺がどうにかなりそうだった。敬語はいらないと言われたが、多分、慣れないうちはしばらくはこのままだ。
もしも……もしもだ。今の関係性が当たり前になったら――時折、こうして一緒に出かけたりする仲という意味だ――またさらに、彼女との……との距離が近くなって、俺の隣にいることが自然になるのだろうか。そんな夢みたいなことを、思える日が来るのだろうか、なんて。そんな未来を、一瞬でも期待してしまった。
「どっぽ、さん?」
「ゔッ……!!」
距離が近くなる云々の話どころではなかった。
ごめんなさい。当たり前だなんてしばらくは無理そうです。不意にに名前を呼ばれて、俺は思わず胸を抑える。口から心臓が飛び出そうだった。調子に乗って名前で、と言った俺が全部悪い。胸が苦しい。でも嬉しい。今すごく叫びたい。なんだこれ。なんなんだこれ。助けてくれ一二三。お前こういうの本職だろ。
前のめりに蹲った俺を心配した織原さんが「大丈夫ですか独歩さん」と言ったおかげで、穴があったら入りたいと言う気持ちで両手で顔を覆った。こんな俺のことなんて心配しなくていいんです。ただ、好きな子に名前呼ばれて悶えているだけの変態野郎なんです。
もしかして、これがときめきというやつなのか……? おそるおそる顔を上げると,こちらを覗き込んでいる織原さんがいた。眉を下げて、瞳がわずかに揺らいでいる。可愛い。心臓が止まる。もうすべてが辛い。
それでもなお、俺という人間はわがままだった。彼女と一緒にいるのが嬉しくて、辛すぎて、苦しくて、しんでしまいそうなくらいなのに……とてつもない幸福を感じていたんだ。
神社の隣は森だった。草木ばかりが目立つが、かろうじて道のようなものもできており、うすぼけた看板に順路らしきものが記されていたので、一応ここも散歩道ということが分かった。
自分たち以外、人ひとりいない。この世界に他の人間が生きているのかと思うくらいしんとしていて、俺は今までどれだけ騒がしい人の群れの中にいたのだろうとぼんやり思った。
「落ち葉がすごいな……」
「雑草の匂いは生臭くて苦手なんですが、こういう枯れ葉の匂いは結構好きです」
「あー……ちょっと分かる気が、する。夏とか特に嫌ですよね。俺も営業で外回りの時は――」
そこまで言って、喉をきゅっと閉めた。何を言ってるんだ俺は。せっかく楽しい時間なのに、こんな時にでも仕事の話か? 勘弁してくれ。
「独歩さん?」
「ご、ごめん……。休みなのに、仕事の話なんかして……。今のは、忘れてください」
もっと楽しい話をしたいのに、それができない。本当に俺は仕事しか脳がないつまらない人間だと、そう思われる(まあ、事実そうなのだが)。普段も、に愚痴ばかり零しているのに、休みの日にわざわざ出かけてまでこんな話なんてありえないだろう。も、きっと飽き飽きしているにちがいない。
黙りこくってしまった俺から視線を外したは、目の前に広がる落ち葉をさく、さくと鳴らしながら、地面に向かって言葉を落とした。
「多分……みんな、頼りたいんだと思います。独歩のこと。独歩さんは優しいから、頼まれただけ引き受けて、でも、独歩さんからしたら付け込まれてるとか、利用されているとか、思うかもしれません」
頼られているとかはおいておいて、たしかにそうだと思った。いつもいつも、俺のことが大して興味のない人間に、いいふうに利用される。他人の楽が俺の苦になる。それを分かっていてもなお、断れない自分も嫌で、それをしてしまったら、さらに周りから……世界から必要とされなくなるんじゃないかと、怖くなってしまう。
「たとえば、私も」
「え……?」
「独歩さんが考える時間も与えないで、色々とお誘いしています。お昼ご飯も、今日のお出かけも」
「そ、それはちがいますッ!!」
ひときわ大きな風が吹いて、植物がざわつく。上から降ってくる落ち葉で、の体が所々隠れて見えた。
「今日は、誘ってくれてッ……俺は、すごく嬉しかった……っ! たぶん、家の中にいても、仕事のこととかずっと考えてっ、休むに休めなかったし、だから、その、織原さん……じゃなくて、と、いれて、すごく、ありがたいっていうか……ッ!」
ありがたいじゃなくて嬉しいだろ。なんで上から目線なんだよ。仮にも営業職なのにアドリブに弱いって致命的じゃないか。
でも、カンペでもお世辞でもない――思っていることをありのまま言葉にするというのは、こんなにも難しい。でも、伝わってほしい。これだけは。日頃からとの関わりで俺がどれだけ助けられているか、彼女は知らないんだ。
ずっと、本音を言うことが怖かった。人の機嫌ばかりを伺って、少しでもマシだと思う方へと自分の意志を傾ける。もしも駄目だったら、今度はもっと上手くやらなければと意気込んで、さらに自分自身が潰れてしまう。
でも、彼女は俺に聞くのだ。ある日にマスクをしていたら、お風邪ですか、とか。一二三の作った卵焼きを食べて美味しかったら、卵焼きお好きなんですか、とか。俺の気持ちを、何度も聞いてくれる。最初は問いかけてくれる度にフリーズしていた俺が、最近ではどもりながらも自分の気持ちを声に出すまでに成長した。
人の顔色を窺って作られたテンプレの台詞よりも、自分の本音を素直に言った方が……が嬉しそうにはにかむと、知ったから。
「……よかった」
ほら、こんなにも。ほんとうに……綺麗な顔で笑ってくれるんだ。彼女は。
荒みきった心に、の優しさがまたぽとりと滲んでいく。あれだけ色もなく、空っぽだった場所がこれでもかと満たされて、今、そこではの言葉がじゃれるように巡って、俺の胸をくすぐっていた。
「じゃあ……嫌だと思ったときは、断ってくれますか」
「えっ」
「私で、練習してみてください。断る練習。幸い、私達の職場はグループ会社でも何でもないですし、仕事で関わることは万が一もないので、職場でぎくしゃくすることはありえません」
「小さなことからなんとやらと言いますし、どうでしょう」とはまたしても俺に提案する。そもそも、のすることされることに、嫌なものなんて一切ない。こればかりは断言できる。絶対ない。……いや、というか、今はそんなことよりも、気になることが一つ。
「どうして、は……そんなに俺のことを気遣ってくれるんだ……?」
俺は、ただのリーマンだ。お金も、取り柄も、何もない。陰気臭くて、独り言が多くて、頭の中は毎日仕事のことしかないのに、それすら満足にできない駄目な人間だ。なのに、なんでは、俺が落としてきた幸せを後ろから拾ってくれて、落としましたよ、って親切に肩を叩いてくれるようなことをしてくれるんだろうか。
俺は、そんなことをされていいような人間じゃないのに。の時間が浪費するだけなのに。なんで、いつも、そうやって――
「……気遣っているつもりは、全然ないです。私はただ、大切にしたいだけなんです。独歩さんに関わるもの、ぜんぶ」
から紡がれる単語の一つ一つが、丁寧に耳へ入り込んでくる。彼女の声を聞くのが怖くて、でも聞きたくて……頭がぼんやりと靄がかったようになってきた。
「会えるかどうか分からないエレベーターの中とか、短いお昼時間とか。そこで話したこととか、聞いたこと……全部が宝物みたいに思ってます。今度、いつ会えるか分からないから、たとえ少ない時間でも、独歩さんとの会話一つ一つ、きちんとした言葉で、丁寧に返していきたい」
それがもし、独歩さんの言う気遣いだとしたら、それはきっと、そうなんだと思います
ちがう。そればかりは、俺はを否定した。俺が知っている気遣いは、同情とか、哀れみとか、そういうものから生まれるものだ。今彼女が言ったのは、まるで俺自身を見てくれていて、無償の優しさをはいどうぞと、与えているみたいじゃないか。
そんなものを、俺は望んではいけない。駄目なんだ。もっと、相応しい人がいるはずだろう。だから、そんな、愛しているような言葉を、言わないでほしい。離れられなくなる。の優しさに、これでもかとつけ込んで、甘えてしまう。
叶うことなら……本当に、その後に地獄に落ちてもいいから、に、ずっと、ずっと、俺の隣にいてほしいと、願ってしまいたい。彼女の愛で満たされたこの心で、彼女自身を求めてしまうのを、どうか、ゆるしてほしかった。
どこぞのスピーカーから流れる夕焼け小焼けの童謡に、ようやく十七時を回っていたことに気がついた。「そろそろ駅に戻りましょうか」とが言った言葉に、心底落ち込んだ自分がいた。
まだと少しでも一緒にいたくて、お腹すきませんか、と言ったら、彼女は夕ご飯にまで付き合ってくれた。下心満載な俺に、は嫌な顔一つせず定食屋についてきてくれて、それがまた俺の良心をキリキリと痛ませた。せっかくの鮭定食の味が分からなかったけど、たくさん食べて、話して、笑って、すごく、すごく、楽しかった。
「今日は一日振り回してばかりで、すみませんでした。少しは気晴らしになれたらいいんですが」
「そんな……謝らないで、ください。楽しかったし、すごく、感謝してるから」
駅に向かう道の途中、不安そうにそう呟くに、俺は堪らなくなってそう言った。こんなたどたどしい言葉をは汲んでくれて、よかった、と言わんばかりに笑う。
……もう、お別れの時間だ。一瞬、邪な考えが頭を過って衝動的に首を左右に振る。さすがに駄目だ。歯止めが効かない。これ以上彼女と一緒にいたら、変なことを言ってしまいそうだ。
「えっとッ……! 本日はお食事までお付き合いくださって誠にありがとうございました……っ!」
「はい。こちらこそありがとうございます。ご飯、奢って頂いて申し訳なかったです」
俺が誘ったんだからそのくらいは当たり前だ。それに、のためならいくらでも貢げる気がした。今なら一二三に会いにいく女性の気持ちが痛いほど分かる。
ご飯と一二三……そこまで連想して、ふと思い出したことがあった。「夕ご飯食べることになったら連絡してちょ~」と、一二三に言われていたことを。やばい。すっかり忘れてた。ポケットから慌ててスマホを取り出したはいいがの前でいじっていいのかとあたふたとしていると、事情を察してくれた彼女ががどうぞ、と視線で促してくれた。
「ご、ごめんっ。今日ご飯いらないって連絡するだけだから……!」
「なるほど。独歩さんは実家暮らしでしたか」
「あッ、いや……一応実家からは離れてはいて、いつも同居人が作ってくれるんだ」
ぴたり、と。を取り巻いている空間の時間が不自然に止まった気がした。
「同居人……?」
「はい。あいつも仕事してるからいいって言うんですけど」
「毎日はきついかもしんないけど、なるべく作るようにすっからさ!」と同居したての頃は言っていたが、アフターで遅くならない限り、なんだかんだで朝昼夕とほぼ毎日作ってくれている。そこらへんの主婦よりも主夫している幼馴染に、俺は毎日の食生活を支えられているというわけだ。
俺も自分の弁当くらい自分で詰めたいし、そろそろ自立しなくてはと考えるが、未だにできていない。こういうところが駄目なんだきっと。を見習いたい。
「小学校からの付き合いで、三十路近くなった今でも一緒とかどんな腐れ縁だよって思うんだけど、ほんと、しつこいけどありがたくて、参っちゃいますよ。はは……」
「……そう、ですか」
そこで、俺はようやく気がついた。いっこうにが顔を上げないことに。待ち合わせ場所でを待っていた俺のように、足元ばかり見つめている。そこはかとなく、さっきの返事もか細く聞こえた。
何か変なことを言ってしまっただろうか。俺がおそるおそる呼びかけようとすると、「今日は、」とがいきなり声を上げた。彼女にしては少し乱れた音をしていた。
「ありがとう、ございました。付き合って頂いて。また明日から、お仕事頑張りましょう」
「えっ。あ、は、はいっ。こちらこそ、ありがとうございました」
そう言って、風のようにすたすたと立ち去っていった。俺一人がその場に残されると、今まで聞こえなかった雑踏の音がここぞとばかりに俺の鼓膜をびりびりと攻撃し始めた。
付き合ってもらったのは俺の方なのに、なんではあんなこと言ったんだろう。まるで俺が渋々約束に応じたみたいじゃないか。そんなことないって言ったのに、伝わっていなかったんだろうか。でも、ご飯食べる前のは笑っていたし、嬉しそうだったし……どうして。
それに……最後。と目が合わなかった。いつも別れる時は俺の顔を恥ずかしくなるくらいにじっと見るのに。こんなことは、二度と会わない、とに泣きながら言われた時以来だった。
背中に嫌な汗が伝う。今まで俺を外界から守ってくれていたはずのベールが取り払われて、不躾な人の声が、無機質な機械音が、俺の皮膚をじくじくと刺激する。一気に、耳を塞ぎたくなった。昼間に体験した、あの心地よい静寂はどこに行ったんだ。
そこで、俺は初めて自覚する。あの空間すべて……が作り出してくれていたものなのだと。そして、それはもう二度と俺を温かく包み込んではくれないのだと。まるで崖に突き落とされたような感覚を覚えて、俺は視界がじんわりとぼやける。思考する言葉すら忘れてしまった俺は、誰に気づかれることもなく冷たく寒い冬の街の中にひとり佇んでいた。
