Episode.3
最初はなにがなんでも認めるのを躊躇ったが、三日三晩考えに考えて、ついに結論が出た。俺は……観音坂独歩は織原さんが好きだ。それも、学生もドン引くくらいに青々しい恋をしている。
電車に揺られている時や営業先に向かっている時など、時間さえあればずっと織原さんのことばかり考えてしまう。好きだと自覚してからは特にだ。寝る前なんて、織原さんとの一日の会話の内容を思い出して、ひとりにやけたり悶えたりしながら布団の中で一喜一憂している。もう三十路近いおっさんがなにやってるんだろうと自分でも思う。俺のこんな姿を見られたら、織原さんに間違いなく軽蔑される。それでも、彼女に対する好意は止まることはなかった。むしろ、日を重ねるごとに驚くスピードで加速している。
今日は、残業の最高峰ともいえる終電ギリギリチャレンジにエントリーできるくらいの時間に退社して、今日はさすがに織原さんとは会わないだろうな……と思っていたら本当に会わなかった。それはそうだろう。そう分かっていてもへこむのが常というもので。俺は大袈裟なくらいに肩を落として、とぼとぼと駅へと向かった。
すると不思議なことに、もう深夜近いにも関わらず駅は大混雑していた。改札前でスマホを見ている人が大半で、タクシーのりばも長蛇の列をつくっている。一体何事だ、と呆然としていると、景色の一つでしかなかったとある一点に焦点が合う。なんと、今日一日会いたくてたまらなかった人がそこにいた。
「織原さん……?」
間違いない。あの黒ストライプのスーツは織原さんだ。改札口すぐの柱の前で、スマホの画面を気にしつつ、人が溢れるホームの方をちらちらと見ている。
俺が彼女をじっと見つめていたせいか、気配を感じたと思われる織原さんがふっと俺の方に視線をやった。お互いの目がぱちっと合うと、彼女の表情が心なしか嬉しそうに――いや、これは俺の錯覚だ。少し調子に乗りましたすみません。
「おつかれさまです。観音坂さん」
そこまで言われてしまったら距離を縮める以外に選択肢がなかった俺は、ぎこちなく織原さんの隣に並んだ。
「おっ、おつかれさまです。すごい人ですけど、何かあったんですか……?」
「実は今、いつも乗る線が遅延しているようで」
そう言うと同時に、タイミング良く駅内アナウンスが流れる。人身事故の影響により――という下りを聞いて、俺はようやく状況を把握する。
これは……遅延してから十分そこらの人の数じゃないな。俺は、駅の奥で蠢いている人の塊を見つめる。今俺たちがいる場所も相当だが、改札の向こう側も人がごった返していた。人の頭しか見えない地獄絵図だ。あんなところ、俺でも行きたくない。待機するならここが一番の安全地帯ということだろう。
「タクシーも中々捕まえられないので、電車が動き出すまで待っていようかと」
「でも、もうそろそろ終電の時間なんじゃ……?」
「あ……そっか」
「終電のこと、すっかり忘れてました」と織原さんはぽつりと言う。家からお弁当を持ってくる時も何回か箸を忘れていたし、しっかりしているように見えてちょこちょこ抜けてるんだなあ……。でもそんなところも好きだ。むしろ良い。
「ち、ちなみになんですけど……最寄り駅はどちらですか?」
気持ち悪がられたらどうしよう、と思ったが、織原さんは意外にもさらっと駅名を教えてくれた。それを聞いた俺は一つ思い当たることがあって、スマホで路線図を確認する。すると案の定、俺がいつも降りる駅の方向に、織原さんの最寄り駅に着く乗り換えの駅があった。
「織原さんの最寄り駅、この線にある駅で乗り換えていけば着くみたいですよ」
「本当ですか?」
元気をなくしていた織原さんの目にぱっと光が戻った。俺は彼女に見やすいようにスマホを持つ手を下げると、織原さんはすす、と俺の手元を覗き込んだ。うわ……近い。少しでも腕を動かしたら織原さんの肩とぶつかってしまいそうだ。そしてそこはかとなく彼女からいい匂いが――ってやめろさすがに心の中とはいえ通報案件だ自重しろ俺。
「ありがとうございます。このまま立ち往生するところでした。都内の駅、未だによく分かっていなくて」
「いえいえそんな大したことじゃないですよっ。路線なんて、俺もたまに分からなくなりますし……!」
もしかして、ここが地元じゃないのかな。じゃなかったら、都内の電車事情なんて分からないものな。女性の出身地聞くのって世間話の範疇か? 聞いてもいいのだろうか。それとももう少し親密になってから? 人による、とかだったらどうしよう。陰気な俺なら完全にアウトじゃないか。
「観音坂さんも、たしかこっち方面ですよね」
「あ、は、はいそうです。なのでよかったら途中まで一緒に……あッ、へっ、変な意味とかじゃなくてですね!? その方が織原さんも駅構内で迷わないかなーなんて――」
「観音坂さんがよければぜひお願いします」
即答だった。そして一息。秒を通り越してコンマの世界で言い切られた。いや、すごく嬉しいんだけど、さすがに心の準備がほしかった。織原さんと話す時、そろそろペースメーカーを常備したいと最近真面目に思っている。
そんなこんなで、俺は織原さんと一緒に同じ電車に乗ることになった。絶賛遅延中の反対のホームよりかは混んでいないが、やはり織原さんと同じ目的の人が一定数いるせいか、終電間際にしては人がたくさん群がっていた。
いつも一人で乗る電車に織原さんがいるなんて新鮮だ。なんだか同じ家に帰るみたいだ、なんておこがましく思う。というか、ほんとうに今日の俺は特におかしい。あれだけ恋だのなんだのを否定しておいて、いざ自覚したらこれか。本能で動く獣か。大人しくしてくれよ頼むから。隣に織原さんがいるんだぞ。数日前みたいに、何かの拍子で口から本音がぽろっと出たらどうする。
「観音坂さんは、なにかご趣味はありますか」
「しゅっ、趣味ですかッ?」
織原さんから唐突に質問を投げられ、俺の肩は盛大に跳ねた。言う相手、間違えてないか。友達も恋人もいない俺だぞ。趣味なんて、数年ぶりにそんなこと聞かれた。
「しゅ、趣味……は……と、特にない、ですね……。そんなことしてる余裕ないっていうか、休みの日も家にいるだけで、もはや仕事が趣味みたいな感じで……あはは……」
自分で言っていて悲しくなってきた。つまらない人間ですみません。こういう時に筋トレとか言ったらかっこいいんだろうが、そんな器用な嘘をつく度胸は俺にはなかった。そもそも、こんなひょろひょろの体で筋トレなんておかしいだろ。せめてもうちょっとマシなもの思いつけよ。
返答に困った俺を察してくれたのか、織原さんはさらに、「じゃあ、最近ハマっていることとか」と付け足してくれた。ほんと、助け舟の出し方が上手くて泣きそうになる。というか、なんでそんなこと聞きたがるんだろう。織原さんにとってメリットはないだろうに。
「ハマってること……。……あ、ハマってるかどうかは怪しいんですけど、最近はラップについて勉強してますね……」
「ラップ、ですか」
「はい。テリトリーバトルに参加しないかと、知り合いの方に誘われまして。といっても、エントリーしただけだから、まだ代表でもなんでもないんですけど……」
申請してから随分経つが、チームのことはまだ公になっていないらしい。元The Dirty Dawgのメンバーだった先生を除いて、俺と一二三は未だにヒップホップ用語を覚えている最中だ。このご時世にそんなことが未履修なんて銃を持たずに戦場に赴くのと同義だが、まさか自分があの血生臭いテリトリーバトルに出場するなんて思わないだろう。きっと、政治云々のことを他人任せにしていたツケが回ってきたんだ。神様ってやっぱりちゃんと世界を見ているんだな。
「まあ、俺の力なんてたかが知れてるし……! せめて、他の二人の足でまといにならないように尽力するつもりです」
こんなことを言ったら先生と一二三に申し訳がなくなる。しかし実際のところ、他のディビジョンに勝てるという保証はないし、自信ありげなことを言って、なんだこんなものか、と織原さんに幻滅されたら嫌だ。当たり障りもないことを言って逃げ道を作る俺をどうかお許しください。
でも……事実そうだろう。俺ですら俺自身の力を信用していないのに、絶対、なんて無責任な言葉は使えない。だから俺は保険に保険をかけて自虐を繰り返す。自己肯定感が薄れようがなんだろうが、他人からの評価に自分が振り回されるのが一番嫌なんだ。
「……私は、観音坂さんならきっと大丈夫だと思います」
なのに……なんで、彼女はそんな嬉しい言葉をいとも簡単にくれるんだろう。
「応援していますね」と続けた織原さんに、息が止まった俺。そしてそれに気づかれないようにと空気を読んでくれた電車が、ホームに到着した。もしもこのタイミングで来てくれなかったら、比喩抜きでその場に蹲って号泣するところだった。
列の最後尾に近いところで並んでいたが、ギリギリのところで電車に乗れることができた。前の駅でも織原さんと似た状況の人がたくさんいたのか、車内はかなりの人口密度だ。なんとか体にあてる体積を広く取ろうと、俺は荷物おきに鞄を置く。そして、俺達よりも後ろに並んでいた人たちを見送り、すし詰め電車はゆっくりと発車した。
扉の前でじっと佇む織原さん。俺は荷物おきの手すりにあやかれるからいいが、織原さんはドアにもたれることしかできていない。見ているだけでもどこか心もとなさそうだった。
「さっきのお話ですが、もしも代表に選ばれたら、今のお仕事と二足のわらじでお休みが中々取れなくなりますね」
「えっ? ……あっ、そ、そうなんですよね! 家にいても何もしないし、どこかストレス発散できるような場所があればいいんですけど」
戻ってきた話題にきょどりながら、俺は拙く返事をする。ストレス発散できるような場所、と言ったらなんとなく社交的な感じに聞こえるが、実際の俺は根っからのインドア派だ。家のベッドの上が最上級のリラックス空間。変な見栄を張っても自分の首を絞めるだけなのに、なんでこの口は変にハードル上げることばかり言うんだくそう。
話の流れで、今度は俺から織原さんの趣味について聞こうとしたら、電車が止まった。次の駅に着いたようで、もうこれ以上入らないだろって思っているのに、そこへさらに人が乗り上げてくるものだからほんとうに勘弁してくれと思う。俺も、寝坊した時は無理矢理電車に乗ろうとするから人のことを言えないが。
密度百パーセントのさらに限界へと達する車内と、織原さんの背中目がけて押し寄せる人の波。後ろからの圧力に彼女が前のめりになって、なんと、体制を崩した織原さんが正面から俺の胸にぎゅむう、とダイブしてきた。
「(ひええぇぇ……ッ!!)」
おりはらさんが、あのおりはらさんが、いま……おれのむねにくっついている。
こんなのは不可抗力だ。そんなこと分かっている。しかし世間の目からしたら、今の状況は俺が悪いと指を指されることになるだろう。なんとか現状を打破しようにも、前からも後ろからも人にプレスされて他に行き場がない。後ろは男だからまだいいけど、目の前にいるのはあの織原さんだ(何度だって言ってやる)。彼女が自分の隣にいるのでさえまだ慣れていないのに、ゼロ距離どころかマイナスなんてどんな幸せな拷問だ。
三百六十度圧のかかる危機的状況下……苦し紛れに下を向くと、織原さんの頭のてっぺんが見えた。当たり前だが。足も重なってるし、胸なんかもう――いや、これを言葉にするのはやめよう。生々しすぎる。とにかく、スーツ越しでも分かる柔らかい体に全身の血が蒸発するんじゃないかって勢いで沸騰している。
嫌な汗が吹き出す。顔だけじゃなく、一番血の巡りを阻止したいところまでぐんッ、と熱くなってくる。最後に抜いたのいつだっけ。いやダメだ、それだけは耐えろ俺。心を無にしろ。目の前にいるのは織原さんじゃない。ただの人形だ。そして中身は綿。今俺の胸に当たっているのも綿だ。ただの化学繊維なんだ。
壁に貼ってある広告の文字を目で追っていると、ようやく織原さんの目的の駅に到着した。他の乗客の流れに任せて、俺達も電車を降りる。織原さんが体から離れた瞬間、俺は大きく深呼吸して荒ぶった熱を沈めることに全神経を注いだ。大丈夫だ、もう脅威は何もない。戻ってこい平常心。
俺の最寄り駅はまだこの先にある。発車する電車を見送り、ひとしきり落ち着いてから反対のホームに移動するか、とようやく外部を気にする余裕ができた。そういえば織原さんは……と、そろりと下を向けば、なぜか彼女は顔の赤くさせて静かに目を伏せていた。そりゃあそうだ、あんなにぎゅうぎゅうに押しつぶされたら暑くもなるだろう。
……いや、違うんじゃないか。こんな男と密着してただなんて気持ち悪い。マジ最悪って思われているのでは。そして、怒り心頭という意味で顔が真っ赤なのでは。察しのいい織原さんのことだ。きっと、俺が女性の体に反応していたのも気づいているにちがいな――
「観音坂さん」
ばっと顔を上げた織原さんに、「ひぃッ……!」と俺は悲鳴を上げる。ああ嫌だ聞きたくない。何も聞きたくない。ぜったいに、観音坂さんがそんな変態とは思いませんでしたって言われる。ゴミ屑を見るような目を向けられる。いやだ、ごめんなさい。せっかく仲良くなれたのにこんなバッドエンドはいやだ。でも全世界に今の状況をアンケートで取っても俺が悪い結果になる絶対的な自信がある。言い訳も何もない。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。もう近づきませんからせめて駅長室だけは勘弁――「さっきのお話なんですが」
「今度、一緒に出かけませんか」
……頭がフリーズした
え? 織原さん、いま、なんていった? どこに行くって? 一緒に? 誰と? えっ? 織原さんと? なんで? 頭が目まぐるしく回る中、織原さんは続けてこう言う。
「私、休みの日は大抵家にいるんですが、たまに外に出てウォーキングしたりするんです。最近、新しいコースを見つけて、そこなら都市圏とちがって人も少ないですし、観音坂さんにもいいストレス解消になるかと思って」
「もしかして、家にいた方が休まる人でしたか」とも付け足す織原さん。語尾が少しだけ小さく聞こえたのは俺の聴覚がバグっているからだと思う。
俺は首を小刻みにふるふると横に振りながら、何も考えずに……思うがままに口を開いた。
「あッ、いやっ、全然、大丈夫、です……! おねがいっ、しまっしゅ……ッ」
「分かりました。では、私の方で予定立てておきますね。日にちは観音坂さんのご都合が合う日でいいので、決まり次第またご連絡ください」
なんの予定なのか、なにが都合がいいのか……パニック状態の俺が織原さんの言葉をすべて飲み込む頃には、すでに彼女は俺に背中を向けていた。
その場に呆然と立ち尽くして数分。俺はようやく理解した。織原さんに、お出かけに誘われた。そして言った。言ってしまった。大丈夫だと。全然大丈夫じゃないのに。織原さん耐性レベル一桁の俺が敵うはずがない。しぬ。しんでしまう。織原さんと仕事以外で会う日が俺の命日。そしてさっき返事する時に盛大に噛んだか俺。もうやだ。すべてがいやだ。
でも、誘ってくれて嬉しいと言わんばかりに口元が上がっている。疲れているであろう俺をリフレッシュさせようと気を遣って、心配してくれる織原さんの気持ちが嬉しくて堪らない。俺は、絶賛百面相しているであろう自分の顔を両手で覆った。
