Episode.2



「どっぽー」
「…………」
「どっぽちーん」

 今日も、極楽浄土を歩いているような気分で帰宅した。
 ここしばらく長時間の残業が続いているにも関わらず、エレベーターの中で織原さんと出会う確率が減るどころか増えている気がする。いや、それはとてもとても嬉しいことなんだけど、それとは別件で心配なことが一つ。もしかして彼女の職場も黒寄りのグレーで、毎日嫌な上司にしごき倒されているのでは、ということ。勝手に不安になってしまい、今日の俺は彼女に思い切って質問をしてみた。織原さんも毎日残業していらっしゃるんですか、と。
 すると、俺の想像に反して、織原さんは首を横に振った。曰く、彼女の職場はシフト制で、織原さんは遅番……つまり、朝遅く出勤して夜遅くに退勤、というスケジュールがスタンダードらしい。なんだ、よかった。それなら、むしろ毎日残業した方が彼女に会えるんじゃないか……なんてことまで思ったりもした。仕事の意義が少しずつ織原さんにすり変わっていくと分かっていても、俺の下心は大きくなるばかりだった。
 最近、かなり気持ち悪いレベルに織原さんのことしか考えてない。会える確率が八割強になってくると、会えなかった時がかなりへこむ。織原さんと会うことを糧に毎日業務をこなしている部分があるから、特にだ。
 織原さんと会えなかった昨日なんかは、出待ちというワードが頭に過って、俺は全力で首を振った。やめろ。そもそももうすでに帰宅していたらどうする。というかそんなものただのストーカーじゃないか。一二三を追いかけ回している女性と変わらないぞ。さすがに朝のニュースでキャスターに名前を読み上げられるような真似はしたくない。

「独歩ってばぁ!!」

 肩をぐでんぐでんと揺らされ、ぶわっと現実に引き戻される。なんだよ、と振り向くと、おたまを持った一二三が仁王立ちで立っていた。張羅のベストにエプロンってかなりシュールだよな、といつも思う。出勤前に俺の夕ご飯を作ってくれているのだから、さすがにそんな失礼なことは言えないが。
 一二三は俺をじとっとした目で見下げて、ぷう、とフグみたく頬を膨らませている。なんで三十路間近になった幼馴染のそんな顔を拝まないといけないんだ。そろそろ歳考えろよ。というか、見るなら織原さんのふくれっ面が見たい。そして俺のことをいつまででも見下げていてほしい。

「ご、は、ん! 出来てるって言ってんだろ~っ?」
「あ、あぁ……。悪い……」

 もうそんな時間か。のそりと立ち上がって、俺は亀の足でリビングに向かう。部屋を出るとすぐさま中華の匂いが香ってきて、テーブルの中央に置かれた大皿には羽付き餃子が綺麗な黄金色の丸を描いていた。美味そうだ。
 そういえば……織原さんは料理できるのかな。才色兼備って感じだけど、実際はどうなんだろう。できなくてもちょっと可愛いな。スーパーで食材吟味してる織原さんとか、エプロン付けてる織原さんとか、呼んだらこっち振り向いてくれる織原さんとか……。ああいいな、頗るいいな。その姿見てるだけでもうご飯いらない――

「独歩っ! 餃子のたれ溢れてるって!!」
「っ、え」

 今日はやけに自分の世界に入ることが多い。一二三の声に反応して手元を見れば、小皿に垂らしていた餃子のたれが皿の縁からどばどばと溢れていた。
 「うぉッ!?」俺は急いで立ち上がって、茶黒い池が建設されたテーブルを布巾でごしごしと拭く。勿体ないことをしてご立腹な一二三に、「布巾、そのまんまだと臭くなるからちゃんと洗って干しといてくれよー」とそっけなく言われる。わ、分かってるよ……。

「つか独歩、最近特に上の空すぎじゃね? もちっとリアルで生きてこうぜー」

 そう言われても、リアルで経験できないからこういう妄想に走っているんだ。頭の中くらい好きに生かされたい。
 俺は、たれでびしょ濡れになった餃子を一口食べる。最初はたれの味しかしなかったが、具がぎっしりと詰まっていたので、噛めば噛むほどいい具合に調和された。ご飯と一緒に口の中に入れて食べるのが最高に美味いんだよな。ジューシーな餃子と米の甘みを一気に味わっていると、「独歩さあ、」と一二三が唐突に口を開いた。

「好きな女の子でもできた?」
「ごふッ……!!」

 手の中から箸が零れ落ちる。危うく口の中のものを吹き出しそうになった。首から上に熱が集中するのを感じながら、俺は涙目でゲホゲホとえずく。
 口内にあったものを無理矢理飲み込んで、口の中が空っぽになってから、俺は震える唇を頑張って動かした。

「おッ、おおおおおおっ、織原さんはっ、すッ、すすすす好きとかそういうんじゃなくてだな……ッ!!」
「そのオリハラさんて、もしかして前に独歩が告られたって言ってた子?」

 一二三は頬杖をつきながら、俺の動揺など構わず言う。誘導尋問かよちくしょう一二三のくせに……っ!

「そッ、うだけど……っ! 別に、あれ以来普通に接してるし、たまたま会ったら駅まで一緒に帰るだけで――ッ」
「だーから帰ってきた時の独歩、やけに嬉しそうなんだなー? 俺っち納得~」
「えっ。お、俺、最近そんな感じなのか……?」
「そんな感じ~。一昨日なんて、アイマスク握りしめて鼻の下伸ばして帰ってきてたじゃんかあ~」

 「あの時の独歩、まーじで傑作だったんですけど!」と一二三はけらけらと笑っている。嘘だろ。家までずっとその顔だったってことは、かなりの変質者じゃないか。知りたくなかった。出来れば墓まで持っていってほしかった。
 たしかに、その日の俺は織原さんから電子レンジで温めて使うタイプのアイマスクをもらった。小さなビーズのようなものがたくさん入っていて、何度も使い回しできるあれだ。なにかしらの賄賂か……? 見返りはなんだ……? と普段の俺なら思う。でも、相手はあの織原さん。天界生まれのあの織原さんだ。親切心以外の感情なんてないだろう。緩み切った顔を隠しきれなくても無理はない。

「お、織原さんは……こんな俺にも優しくしてくれて、自分も、きっとたくさん仕事あるのに、おつかれさまですって、毎回、言ってくれるんだ……。でもだからって、ほんと、好きとか、そういう恋愛的な意味じゃなくて――」
「でも、そのカノジョは独歩のこと好きなんだろー?」

 たしかに、好きと言われた。……言われた、のか? 本当に? 正直、もうあまり記憶にない。あの時は知らない人に声をかけられた衝撃が大きすぎて、大まかな出来事は頭からすべて吹っ飛んでしまった。
 そもそも、存在がオアシスのような優しい織原さんが俺なんかを好きなわけがないだろう。……そうだ、きっと声かける相手を間違えたんだ。そうに違いない。色々疲労回復グッズを渡してくれるのも、俺の姿があまりにも惨めで、優しい織原さんはそんな人間を放っておけないからだ。ああ、その親切は本来向けるべき相手がいるはずなのに、俺なんかがおこぼれでもらってしまって、本当に申し訳ない。

「あれから独歩、ずーっとしあわせそーにぽけーっとしてるぜ?」
「そ、そりゃあ……どんな形であれ、好意的にされたら誰だってうれし――」
「だーかーらぁ、それを恋ってゆーんだって!」

 やめてくれ。そんな気はないんだ。本当に、織原さんとはなんでもないんだ。仮にそう思っていたとしても、いづれバチが当たってしまう。織原さんを産んだ神様並びにご両親に怒られる。すみません、これからはちゃんと身の程を弁えて彼女と接します。というか距離すら置きます。もう彼女と目も合わせません。会話もしません。何ももらいません。でも今までもらったものはセーフということで使わせてください。あのアイマスクなしじゃもうまともに寝られる気がしないんです。本当にすみません、すみません、すみません――







「美味しいんです。ここのお弁当」

 なんでこうなる。
 昨日の夜に家を出た一二三だったが、アフターがあるとかなんとかで、「今日はコンビニかどっかで弁当買って~!」と言われた。
 それは別にいい。問題は、ビルの一階で販売されている手作り弁当の列に並んでいたら、財布を持った織原さんとばったり会ってしまったことだ。昨日の決意はなんだったんだ? 俺が逃げるようにしてそこから回れ右をしようと思ったら、先に織原さんに気づかれてしまって、またしても「おつかれさまです」と会釈をされる。ああ、ハゲ課長に滅多打ちにされたメンタルが修復されていく。決意? なんだそれは。もう忘れた。そんなものは最初からなかった。今日も彼女と会えて嬉しい。これで午後からの外回りも頑張れる。
 でも……こんな感情を恋だなんて呼べるのだろうか。どちらかというと、アイドルに向けるような……そう、憧れに近い気がする。告白(仮)をされて、そういう気になっているだけなんじゃないか。あんなことをされたなら、織原さんじゃなくても誰だってよかったんじゃないか。
 一二三に恋だなんて変なことを言われたから、妙に織原さんを意識してしまう。あー……財布、大事そうに両手で握りしめてるの可愛いな。エントランス寒いからってわざわざマフラー巻いてくるのも堪らん。なんだこれ、本当に同じ人間か?

「そっ、そうなん、ですねッ。俺、ここで買ったことないから、よく分からなくて……っ」
「のり弁当が四百円で、あとはワンコインで買えます。寝坊してお弁当作り損ねた時とかにすごくありがたいです」
「そ、そうなんですか。ち、ちなみに、織原さんは、いつもなにを……?」

 すると、織原さんはすん、と黙ったかと思えば、しばらくして、「……白身魚の、お弁当とか」と小さく言った。彼女にしては珍しく歯切れが悪かった。も、もしかして、聞いたらいけない話題だったか……? なんでお前に毎回買う弁当教えなくちゃならないんだよまじキモイ、って思われたか……? そうだよな、女性の食べるものって結構デリケートだよな、一歩間違えたらセクハラだぞ俺の馬鹿。
 そしてついに、俺たちの番になる。もうかなり数は減っているが、どれにしようかと選べるくらいには種類は豊富だった。織原さんが白身魚のフライのお弁当を指さして販売員のおばさんに五百円を渡しているのを横目に、俺もテーブルに並んでいる弁当を吟味することにした。
 おかずが同じでも、その中で白ご飯とか混ぜご飯とか……あ、副菜も違うんだな。へえ、結構いいかも。月一くらいなら奮発してもいいか、と思いながら、俺はヒレカツ弁当を選んだ。

「ところでちゃん、今日は唐揚げじゃなくていいの?」

 販売員のおばちゃんの言葉に、ぴたり、とお弁当を受け取る織原さんの手が止まった。顔見知りなのか、親しげに名前呼びだ。というか、白身魚じゃないのか? と思いながら、俺もはて、と首を捻った。
 すると、織原さんは俯きながらこくこく、と頷いて、おばさんの手からさっとお弁当を受け取り、すたすたとエレベータの方に歩いて行ってしまう。えっ、早っ。俺もお金を払って弁当をもらうと、慌てて彼女の背中を追った。

「ぁ、えッ、と……! おっ、織原、さん……っ?」

 閉まりそうになったエレベータにぎりぎり乗り込む。織原さんと二人きりだ。階数のボタンを押すのも忘れてドアが閉まると、行き先ボタンを押せとアナウンスが俺達を急かすが、俺はじっと下を向いている織原さんしか意識できなかった。
 そして、さっきよりも少しだけ顔を上げてくれた織原さん。それでも表情は上手く分からないが、顔にかかった髪を耳にかけた時に、腫れたように真っ赤になった耳たぶが見えた。

「うそ……つきました」

 「へっ、」と俺は素っ頓狂な声が出た。なにが、と俺が問うよりも早く、織原さんは言葉を続ける。らしくもなく、彼女はどことなく早口だった。

「白身魚のお弁当、食べたことないです。今日、初めて買いました。それどころか、いつも唐揚げ弁当を即決してるんです」
「え、と……?」
「唐揚げの皮……ちょっと硬いところが、すごく、好きで。噛む度に味が滲み出すのが、大好きで、いつも皮が多くあるものを一人で吟味して、買ってて……」

 その、とか、えっと、とかうろうろと視線を迷わせて、織原さんはさらにぼそぼそとした声でこう言った。

「食い意地張ってるって、思われたく、なくて。つい……その……ごめん、なさい」

 小さく謝った。心なしか肩もしょげている。目も、どことなく自信なさげに半分閉じられて、がさがさと揺れるビニール袋の音が切なく聞こえた。
 息が、止まった。織原さんが……あの冷静な織原さんが困っている。さらに言うならば、この沈黙を嫌がっているようにも見えた。

「いッ……いいじゃないですか唐揚げっ!!」
「え……?」

 気づいたらそう叫んでいた。驚いた織原さんが目を丸くしている。織原さんがそんな顔するなんて、だめだ。俺がなんとかしなくては、といざという時に役に立たない営業スキルを頭の中でフルに回した。

「俺も唐揚げ弁当よく食べますしっ、というか寧ろ好きだしッ、モモも、皮も、軟骨もカラッと揚げて白米と食べるのが一番旨いしっ……あ、あとあれですよねっ! レモンかけるとほんと味が引き立って絶品ですよねほんとっ! だから織原さんの気持ちすごく分かりますしっ、第一、いっぱい食べる女性は健康的で俺はすっ――ッ!!」

 は、と我に返る。俯いていたはずの織原さんが、いつの間にかこちらをじっと見上げていた。彼女とはかなり身長差があるので、本人が意識していなくても必然的に上目遣いになる。そんな綺麗な目でこんな汚い俺を見ないでください天に召される浄化される指先から灰になる……ッ!!
 とんでもないことを口走りそうになった俺は、言葉に勢いがなくなっていく。そして、場の沈黙に耐えきれなくなってその場にしゃがみこむと、「観音坂さん?」と、織原さんも同じようにしゃがんで、こんな時にでも俺の心配をしてくれる。でも、その優しさも今は毒でしかなかった。

「おッ、お気にっ、なさらず……ッ」

 だめだ。これは、認めざるを得ない。俺は、彼女に恋をしている。
 「体調が悪いようでしたら、テラスで食べるのがおすすめです」と言いながら、織原さんは階数ボタンをピッ、と押してくれた。心拍数がやばいことになっている俺は強がっても大丈夫とは言えず、そのまま彼女と一緒にビルのテラスへと向かった。ぼっちには向いていない場所だったので、今まで踏み入れたことは一度もなかった。
 そしてなんと、その日からそこで織原さんと一緒に昼ごはんを食べるようになった。やばいだろ? 俺もそう思う。なんでこうなった? 俺が聞きたい。織原さんの向かいに座って箸を進めているだけでこれから数十年分に刻むであろう心拍数が今消化されてるんじゃないかってくらい、鼓動はずっと早かった。これ、もしかしなくても早死するんじゃないか。駄目だ。こんな幸福死、俺にはもったいなさすぎる。
 余談だが、その数日後に二人で唐揚げ弁当を頼んで、俺の弁当に入っていた皮の部分の唐揚げをあげたら、ものすごい笑顔にでお礼を言われて、思わず天を仰いだ。今日も織原さんが尊い。こんなので喜んでくれるなら皮でもももでも弁当まるごとでも差し上げます。