Episode.1



「私……織原といいます」

 あの日、織原さんと出会ってから、会社に行くのが少しだけ楽になった。不愉快なすし詰め電車や理不尽なサビ残に抱く不平不満が、自分の中で霞んでいくのが分かる。その代わりに、今自分の心の頂点に君臨しているのは、エレベーターの中……もしくはビルの一階で、もしかしたら彼女とまた会えるんじゃないかという期待だった。
 もしも会えた時には、年甲斐もなく胸が踊る。そして、織原さんと同じ空間にいるという事実に、全身に緊張が走って、彼女に変に思われていないかととても心配になる。会えなかった日も、明日は織原さんと会えるだろうか、と翌日の退勤時まで胸が苦しい。それなのに、永遠とこの想像の海に浸っていたい思う。以前とは違う意味で眠れない。まるで、遠足前の小学生になっている俺を、一二三は「ちゃんどぽ~っ。最近やけに楽しそうじゃねー?」と評した。
 ……そうか。俺は、嬉しいのか。職場で誰も見向きもしない俺なんかに笑いかけてくれた彼女の笑顔が、また、見られるんじゃないかって。愚かなまでにおこがましい俺は、すぐに醒めてしまう夢物語だとしても、そう、思ってしまうんだ。







 ――と、余裕綽々に思っていた頃もあった。
 マジでぶっ殺したい。俺は共同PCの出退勤システムのテンキーを高速で打ちながら、全世界への憎しみを込めてエンターキーをバチンッと強く押した。なぁにが、「ラップバトルに参加するのはいいけど、この繁忙期に有給は使えないから休日返上でよろしくね」だ。ふざけるなよ。俺は血の通っていないAIじゃないんだぞ。おまけに最近の残業手当もついてないし。ちくしょう。それが人のすることか。しかも今日はやたらと外回りの件数も多く、おかげで喉はカラカラ。この時期だと乾燥も相まって声帯が死にかけていた。
 全身が切れる刃にでもなったような気分で、俺は同僚達のいなくなった廊下をひとり歩く。夜間工事に来た作業員が俺の顔を見るとぎょっとした顔で視線を逸らしていくのが分かる。別に俺は何もしてないのに、なんでこんな腫れ物を見るかのような眼差しを受けなければならないんだ……。くそう……。それもこれも全部この陰気な顔面のせいか……。
 到着したエレベーターにのそりと乗り込んで、一の数字をピッと押す。もう、自分を構成するすべてにおいて自信がない。常日頃から幸せだと声高らかに言っている人が羨ましい。
 ……もしかして、その人が味わう分の不幸も俺が背負っているんじゃないか。俺という名のブラックホールに全世界の不幸が吸い寄せられているんじゃないか。ああ、だとしたら納得だ。結局これも全部俺のせい。ぶっ殺したいなんて言ってすみません。きっと明日にはさらなる不幸が俺を待っているにちがいない。ああそうだ、全部俺が悪いんだ。俺がこうして二足歩行しているせいでこの社会をより一層悪い方向へと――

「――お疲れさまです」

 頭の中が真っ白になる。
 下に降りる階の途中で停止したエレベーター。ドアが開いた先に佇んでいたのは、なんとあの織原さん。彼女の顔を見るなり、さっきまで鬱々と繰り広げられていた思考が全部吹っ飛んだ。あれ、今何考えてたんだっけ俺。

「おッ、おつかれッ、さま、です……っ!」

 そして声が裏返った。消えたい。エレベーターに乗り込んだ織原さんに合わせて、俺はドアを押えつつ、震える指でボタンを操作する。そんな大したことをやっていない俺に会釈した彼女に、俺もまた小さく頭を下げてしまう。
 そして、再びゆっくりと動き出す小さな箱。こうしてエレベーター内で二人きりになった時は、今の一連のやり取りがテンプレートになっていた。織原さんを介抱したあの日の夜から、彼女との間で特筆すべき会話はない。最初の告白はなんだったのか、と思うくらい自分たちの周りを纏う空間はとても淡白なものだった。ただ時々、偶然帰りのエレベーターやビル内で会った時に、一緒に駅まで向かうだけの仲だ。この関係にどういう名前を付けたらいいのか、大した女性経験もない俺にはさっぱり分からなかった。

「……最近、日が短くなりましたね」
「えッ!? あ、そ、そうっ、ですね……っ! 会社出るころにはもう真っ暗で参りますよ……。はは……」

 突然織原さんの口から降ってきた話題に、俺はプラチナ合金のように体を強ばらせた。べ、別に変な返事じゃなかったよな。大丈夫だよな。
 あっという間に、季節は冬に差し掛かっている。まあ、四季を愛でる暇もなく、相変わらずの俺は仕事に忙殺される日々を過ごしているわけだが。
 すると、マフラーを口元まで引き上げた織原さん。鼻の上が赤くなってて可愛い、などと思っていると、目を伏せていた彼女がふっとこちらを見上げた。

「観音坂さんは営業マンなんでしたっけ」
「へッ。あっ、はい、まあ……。いやほんと、こんな愛想の悪くて気の利かない奴が営業職なんて向いてないですよね……。自分でも時々……いや常日頃からなんでだろうって思いますよ」

 織原さんに、向いてない、と思われる前に自分で言った。何が悲しくてこんな自虐を口走っているのか。自分でさえ自分の味方ではないことになぜか泣きたくなる。勝手に自虐しておいて意味が分からない。

「……そんなことないです」

 一階に到着したエレベーター。開いたドアから織原さん、俺の順番でエントランスに出ると、俺の隣に並んだ彼女はそんなことを言った。

「エレベーターに乗っている時だけでも、観音坂さんは乗り降りする人にドアを開けていてくれたり、逆に自分から出る時は会釈しています。だから、すごく気遣いができる方なんだなって、いつも思ってます」

 そんな、誰の気にも止められていないだろうと思っていたことを、とんでもないことのように織原さんは言う。
 俺の枯れ切った心にぽつん、と滲んだ彼女の言葉。たった数滴垂らされただけなのに、優しくされることに慣れていない俺の心は、栄養過剰摂取というくらいひたひたに潤い始めていく。他人にも自分にもいじめられてきた俺の核となる部分が、久方ぶりに人の親切に触れた気がする。じわじわとそれが胸の中で広がっていったと思えば、急に目の奥が焼けるように熱くなり、視界が潤んできた。
 え、嘘だろ。さすがにこれはやばい。やめてくれ。三十路手前の俺が女性の前で泣くなんて。それも相手は織原さん。涙の蛇口を懸命に締めながら、俺は急遽話題を変えた。

「おっ、織原さんはどんなお仕事をされているんでしたっけ……!?」
「主な業務内容はテレオペですが、最近は新人さんのフォローに回っています」

 話の軸がずれたことで、すっと涙が引っ込んでいく。おまけに外は寒風が吹き荒れ、熱のこもった目元を良い具合に冷ましてくれた。危なかった。
 新人のフォローということは、新人研修の一任者ということだろうか。人にものを教えるなんて誰しも簡単に出来ることじゃない。もしかして……いや、もしかしなくても、彼女はとても優秀な人材なんじゃないか。俺なんて、目に見える資料を使いながら話すのがやっとなのに、織原さんは電話口の向こうから聞こえる相手の声だけで様々なことを案内をすることができるということだろう。
 すごいな。俺とは大違いだ。なのに、なんで織原さんは俺に好きと言ってくれたんだろう。話したこともない、こんな俺を。やはり、あれは幻聴だったのか。いやでも幻聴ならこうして接点もなかっただろうし、ほんとうに、彼女はどうして――

「観音坂さん」
「ひゃいッ!?」

 気がつくと、すでに駅前に着いていた。俺と織原さんは反対方向の電車に乗るので、いつも改札口前でさらりと別れている。
 織原さんに呼ばれて、肩を揺らした俺。彼女は持っていた鞄を漁って、「これ、よかったら」と、小さな袋を俺に差し出した。それは、薬局でよく見かける、使い捨て一枚の喉を潤すタイプのマスクだった。

「私おすすめの濡れマスクです。お互い、話すのが主本のお仕事ですし、声は大事にということで」
「え……ッ。い、いやっ、こんな単価の高いもの俺なんかが頂くわけには――ッ!」

 不意に、つん、と自分の喉に指を添えた織原さんを見て、俺は言葉を止めた。

「観音坂さんの声、いつもよりも調子が悪そうです。喉からくる風邪は特に辛いので、ご無理なさらず」

 ……彼女の背中に白い羽が見えたのは、きっと幻覚なんかじゃない。
 それでは、と織原さんは頭を下げて、俺とは違う線のホームへ去っていく。その小さな体に、俺は何度心を救われただろう。まさに下界に降り立った女神。受け取った濡れマスクをぎゅうぅ、と握りしめながら、俺は勢いよくその頭を深く深く下げた。

「あッ……ありがとうございますッ!!」

 きっと、彼女の耳には聞こえていない。それでもいい。頭を下げることを幸せに思うことが今以上にあるものか。これからの取引先相手がみんな織原さんだったらいいのに、なんて思う。なんだそれは天国かよ。
 ふと我に返って、こんな駅の中心で頭を下げるしょぼくれたリーマンに人の注目が集まっていると分かり、俺は逃げるようにホームへと続く階段を降りた。
 明日、なんて言葉は嫌いだった。でも、その先に織原さんがいるのなら、眠れない夜も、心身ともにライフが削られる満員電車も悪くないとさえ思えるのだから、ほんとうに、彼女はすごいと思う。
 家に帰ってベッドの上に転がると、俺はさっそく織原さんからもらった濡れマスクを装着した。あ……意外と息苦しくないんだな、これ。こうして横になっている間にも、なんとなく織原さんからのエールも体に注ぎ込まれているようだった。目を閉じた後、気がついたら意識はなくなっていたし、翌朝の俺の体は信じられないくらいに軽くて、ここ数十日の疲労が綺麗さっぱり取れていた。