Episode.10
の宣言通り、今夜の夕食は豪勢だった。メインは鯛の煮付け、副菜にはかぼちゃの甘煮とひじきと大豆の煮物などなど。まさに煮物のオンパレードだ。ちなみに、主犯であるは、「今日はなんだか煮たい気分でした」と供述している。
夕食も終わり、俺もも入浴を済ませた。そんなは涼しい顔で明日の朝食の仕込みをしており、一方の俺はというと家に帰ってから今に至るまで終始そわそわしていた。
その理由はもちろん、の言う“反省会”である。
「……さて」
ふっと、意識が浮上する。ついにきた、と俺はの方をぐるんと見た。どうやら家事もひと段落したらしい。はタオルで手を拭きながら、食器棚を開けていた。
「独歩くんも飲みますか。ココア。ひと息つけますよ」
「えっ? あ、あぁ、うん、飲む……」
の意外な問いに拍子抜けするも、しっかりと返事はする。なんだか、俺ばかり気にしているみたいで馬鹿みたいだ。でもそれはいつものことか。が取り乱しているところなんて見たことがない。
しばらくして、キッチンから漂ってくる甘い匂いがリビングにほんわりと充満する。二人分のマグカップを持ったがやって来て、その片方を俺に渡した。
ほわほわとした湯気をぼーっと見つめつつ、俺はマグカップを少し傾けて一口含む。人肌より少し熱めのココアは、俺の体にまとわりついた緊張をゆったりとほぐしてくれた。
「やっぱり、がいれるのと自分がいれるのとじゃ違うな……」
「昨日までは独歩くんが?」
「うん、まあ……一応。一回もまともに淹れられなかったけど。朝のコーヒーとか、お湯入れすぎて薄くなったり、今度は入れなさすぎて濃くなったりとか……」
「コーヒーは、最初にお湯をちょっとだけいれて蒸すのがコツなんです。あとはお湯が全部落ちるまで待つことですね」
そうなのか。コーヒー一つ淹れるだけでも、色々考えてくれていたなんて。やっぱり、はすごいな。俺はもう一度マグカップに口を付ける。甘すぎず、苦すぎず、ほんとうにおいしい。えさをちょこちょこと啄む鳥のように、三、四口飲み続けると、上に乗った泡ミルクがココアのベージュと混ざって、きれいなマーブル模様を描き始めていた。
「……独歩くん、私に聞きましたよね。どうしたら私を幸せにできるかと」
不意に、手元のマグカップをくるくると回しているがぽつりと零した。
「私はそう聞かれるたびに、独歩くんがいればいいの一点張りでした。事実そうですし、他に何も思い浮かばなかったので」
「でも、それだけだとだめだと気づきました」と言って、もココアを一口。その口から、ほう……と甘くて温かそうな息が漏れた。
「考えました。独歩くんに納得してもらえるように。たくさん考えました。でも、本当に何もないんです。自分でもびっくりするくらい、独歩くんが私に何をしてほしいのか分からないように、私も独歩くんに何をしてほしいのか分からないんです」
を目を伏せて、ローテーブルにマグカップをことりと置く。一方、しずかに波打つ動揺をココアの熱でごまかしたくて、俺は半分になったそれを中々手離せないでいた。
「私、昔から物事に無頓着というか、感覚が鈍いというか……そういう感じで、人からよく誤解されやすいんです。私自身、自分のことをよく分かってないので、自分の気持ちもあまり人に言わないです」
それは、何となく分かる気がする。一緒にテレビを見ていても、が笑ったり泣いたりしたところはあまり見たことない。つまらないんだろうなと思っていると、「これ、面白いですね」と突拍子もなく言うので、の感情の起伏は本当に読めないのだ。
異彩というのは、どこにも混じることができない。皆、やはり心のどこかで汚い色になることを恐れているのだ。もしかしたら、は今まで難儀な生き方をしてきたのかもしれない。でも、はという個として成立しているし、俺と違って周りに振り回されずに我が道を進んでいる。
その生き方がかっこよくて、眩しくて、憧れる。自分も彼女と一緒にいれば、少しは変われるのだろうか、なんて。そんなことを思いつつ隣にいるが、そんなことはまったくなかった。
「こんなこと聞くのも、どうかと思うかもしれないけど……その、どうして、は俺を好きになってくれたんだ……?」
俺に問いに、ふむ、とは何もない宙を見上げた。
「……分かりません」
「えッ」
「質問返しで恐縮なんですが、例えば、独歩くんは好物をどうして好きかって説明できますか」
食べ物の好き嫌いなんて、触感とか、味とか、匂いとか……大体はそういうもので区分するだろう。言葉で論理的に説明するのは少し難しい。自分が好きだと、嫌いだと口にする時には、体がそれを求めたり、拒絶したりしているのだから。
「要は、五感だと思うんです」
「ごかん……」
「私はひとめ――うそです、エントランスで独歩くんと会った時から、『あ、この人、なんだかよく分からないけどいい』と思ったわけです。私は独歩くんが好きな理由を上手く説明できませんが、一緒に死のうと言ってもらえれば、一日で身辺整理して崖からバンジーすることくらいなんのそのです」
真顔でそんなことを言うものだから、俺は思わずどきりとした。くらい、って。それってかなり究極の域じゃないのか。俺は、マグの中で揺れたココアをおそるおそるローテーブルに置く。そうして空いた手は、固い拳を作って床にぴとりとくっ付けた。
「だから、私は朝が弱くても早く起きて独歩くんのことを見送りたいですし、仕事で頑張った独歩くんが元気になるように、夕食もちょっと品数豊富で出したいです。独歩くんの愚痴も聞きたいですし、困り顔も、泣き顔も、笑顔も、全部見たいです」
それでは、好きの証明にはなりませんか
微かに首を横に傾けたに、俺は何も言えなくなった。でも、それは最初から分かっていたことだ。がどうとかじゃなくて、これは、俺自身の問題なのだと。被害妄想とかじゃなくて、ほんとうに、俺の受け取り方の問題なのだと。
「たぶん……俺は、に負い目を感じているんだと、思う」
にがいものを吐き出すように、俺は顔をゆがめてそう言った。
「が、そうやって俺に気を遣っていることは分かる。というか、最近初めて知ったこともあるけど……。でも、それが俺には、重荷、なんだって……」
かなり最低なことを言っている。分かっている。でも、今言わなければ、と離れない限り、俺の心の中で渦を巻いていることになる。いくらが俺を好きだと言っても、俺はその愛を何一つ受け取れない。自分を卑下して、責めて、息が出来なくなるくらい首を絞めてしまう。そんな、精神がひどく脆弱な俺の隣に、の存在がある。大きくて、尊くて、これ以上近づいたら、一緒にいたら、とけてしまいそうな……そんな、太陽のような存在だった。
「でも、うれしいんだ……。ほんと、どうしようもないくらい、うれしいし、ありがたいし、たのしいし、毎日、こんなのが続けばいいって……続いてほしいって……」
こんなにもマゾだっただろうかと思うくらい、俺は爪が食い込むくらい手を強く握る。体操座りみたく折り曲げた足も、指のところがむずむずとして、指をぐっと丸めた。の反応が怖くて、俯きながらしか話せない。まっすぐ俺を見ているがおそろしくて、目が、合わせられなかった。
「多分、俺は一生こんなんだから……苦しみながらしか幸せになれない気がする……。が悪いとか、そういうんじゃなくて、俺が、へんに考えて……考えることをやめても、また別のところで考えて……」
名が体を表すというのはこういうことだろう。ひとりで歩けるくらい強い子に、という意味を込めて両親が名付けたのかは定かではないが、人様に迷惑をかけるくらいなら、周りと関わって自分が苦しむくらいなら一人で生きろ、という意味の方が、今の俺に合っている気がした。
それでも、人間は一人で生きていけないとよく聞くように、それは確かにその通りで。誰からも必要とされていないと、生きている意味を迷走してしまう。また、違う世界に旅立ちたいと、そんな世迷言を吐いてしまう。誰かに優しくされるたびに離れたくなるし、素っ気なくされると縋りたくなる。ひねくれているというより、自尊心もなにもない臆病者だった。
「じゃあ……私がどう思うかとかは一旦置いておいて、独歩くんはどうしたいですか」
の言葉を聞いて、震えた息をゆっくりと吐き出す。俺は、自分の気持ちの引き出しをそうっと開けてみた。鬱々としたものたちに紛れて、今にもこわれてしまいそうな願いが、その奥に大切に仕舞われていた。
「……俺が、死ぬ日まで……毎朝、の顔が見たい……」
憂鬱な会社がある。頭を下げなければいけない顧客と、傷ついていないですよと強がらなければいけない上司がいる。でも、会社という環境は俺の人生の軸だし、決してやめられないし、離れられないものだ。そこに、が俺の帰る場所にいるということだけで、今日も一日頑張ろうという気持ちになる。
そばにいたい。でも怖い。を傷つけて、嫌われて、俺が傷つくことが、一番おそろしい。でも、それが俺なのだと、知ってほしい。理解してほしい。その上で、と一緒にいたいと、やはり俺は思ってしまう。軽蔑されてもいい。最低な人間だと呆れられてもいい。ただ、隣にいてほしいだけなんだ。もう、虚勢を張るのは疲れた。みじめになるのはもう慣れっこだ。これ以上、どん底に沈みようがないだろう。
すると、床ばかり映す俺の視界に、の手がそっと入ってきた。それはぐっと結ばれた俺の拳の上に重ねられて、小さな生き物のように動いては、俺の手の甲をすりすりと撫で始める。
「人生、途中下車しないかぎり、まだまだ長いです。だから、これからお互いにお互いのことを見つけていくというのはどうでしょう」
「さっそく、独歩くんは私の低血圧のことも発見してくれましたし」とは付け足す。
「その中で、今以上に幸福になる方法を探せばいいんじゃないかなと、私は思いますが」
「独歩くんはどうでしょう」と、かたくなった俺の指をほぐしたいかのように、の手は撫でる動作を止めない。手汗すら握っていた俺の手から、だんだんと力が抜けていって、ついに、俺の指がのとゆるりと絡まり合った。
「いま、以上に……」
「はい」
「は……いま、しあわせなのか……?」
視界の中にいるがゆらゆらと揺れる。ぽたりと落ちた涙を見ても、彼女はそこで柔らかく微笑んでいた。
ああ……なんだ。こんなにも……近くに、あったのか。手を伸ばせば、触れられるところに。灯台もと暗しとはこのことか。俺の求めていたものが……のしあわせは、俺のしあわせは……さいしょから、ここにあったんだ。
「……、」
「はい。なんでしょう」
「いま……だき、しめても……いい、ですか……?」
まばたきするたびに流れ落ちる涙を送りながら、俺はそう尋ねる。は、一拍だけ間を置いてから、ごろんと床に横になり、両腕をぱっと広げてみせる。おそるおそる……それで余裕なさげに、俺もの隣に横になって、のことをぐっと引き寄せた。
すっぽりと収まる、の体。小さい。こんなにも小さいのに、俺を支えてくれるその存在はとても大きかった。長らく、自分が幸せになる方法を忘れていた気がする。人の荒波に飲まれてすぎて、今まで自分自身のことすら見えなくなっていた。
でも……今は、こんな人間臭い俺を、知ってくれている人がいる。それだけで、生きる意味としてはもう十分だった。
「独歩くん、また痩せましたね」
「そ、そうか……?」
「睡眠も必要ですが、食事も同じくらい大事です。今度、一緒に外食とかどうですか」
となら、俺はなんでもいい。「は、何が食べたい?」そつ聞いてみると、胸の中でが「んー……」と悩んで、ごそりと微かに動いた。
「そうですね……。今はパスタが食べたいです。駅から少し歩くんですが、美味しいお店があるんです」
「じゃあ、明日……ああいや、会議があるな……。明後日……いや、し明後日ならいけるから……っ、行こう……!」
やった、とが小さく呟く。気がつくと、俺の足の間にの足が挟まれていた。心臓は早いのに呼吸は緩やかで、とこのまま一つの体になってしまいそうだった。
そのまま、時間が経つにつれてうとうとと微睡んでいく。人の体温って、こんなにもリラックスできるものだったか。いや、そばにいるのがだからか。睡魔が波を打つように次々と襲ってきても、俺はを抱く腕の力だけは緩めなかった。
「独歩くん、ここで寝ると腰が痛くなります。主に独歩くんの」
「うん……」
「ベッドまで運びましょうか」
「いや……さすがに……ひとりで、歩く……」
「独歩くんだけに」
くふ、とは笑う。、今日はよく笑うなあ、とぼんやり思う。できれば顔を見たいが、彼女の顔は今俺の胸に埋まっているので、今はそれも叶わない。
ああ、寝たくない。まだこの感覚を味わっていたい。くそう、普段眠れないくせに、こういう時だけ脳が休みたいと指令を出す。まぶたがうつらうつらと上下する中、がゆっくりとそこから起き上がろうとしている。の動きに合わせて、俺ものそりと立ち上がった。いったんから離れて、俺は彼女に両手を引かれながらよたよたと歩いた。
寝室に着くと、がベッドに行くように俺を促す。俺が横になったら、がリビングに戻ってしまいそうで、それがとてもいやで、胸がきゅうっと縮まった。
俺がをベッド脇までぐぐぐと追い詰めれば、「わわっ……」とは声を上げて、小さな体が後ろに倒れる。ベッドが二回バウンドして、俺はすぐにをさっきと同じ形で抱きしめた。
「ほんと、駄目だ……。明日、謝るから……きょうだけ……たのむ……このまま……」
拒否権なんて、逃げ場なんて作っていないくせに、俺は寝ぼけていても卑怯な男だった。しかし、はというと、「せめて、掛布団だけでもかけましょう」と足元にあったそれをずるずると引き寄せて、再び俺の胸の中に収まった。
冷たかった布団がどんどん熱を帯びていく。の寝心地なんて考えずに、俺は強く強く彼女を抱きしめる。片手に添えているの頭が小さい。肩も、俺より細いし、あたりまえだけど、今俺が触れているところがを構成するぜんぶだと思うと、すべてのパーツが奇跡のように思えてならなかった。
「……」
好きなんだ。本当に、俺のことを見つけてくれて感謝しているし、しきれないし、とこうしてるだけで、普段眠れないのに、魔法を使ったみたいにすぐに夢の中にいける。安心って、きっとこういうことなんだろうな。どんなに明日が怖くても、がいるなら、毎夜怯える日々も悪くないと思えるんだ。
だから、これからものことを、たくさん知りたい。は、全部のことを無理して言わなくてもいい。俺が感じて、もしかしてって、思うから。そのたびに、俺が、声に出してに伝えるから。良い意味でも悪い意味でも、俺は人の変化には敏感なんだ。がもしも何かあったら、すぐに、おれは――
「独歩くん……?」
の声が遠い。ああ、いかないでくれ。まだ起きていたい。でも、まぶたが重い。思考もだんだんと鈍くなってきた気がする。
ついに、ぼやけていた視界が真っ暗になってしまうと、の呼吸の音がよく感じ取れた。ああ……いいなこれ。一生起きれないんじゃないかってくらい、深いところまで呑まれてしまいそうだ。明日のことも、その先の未来のことも、今は何も考えられなくて、今俺が感じて思っていることがすべて。とても楽だ。きもちがいい。そして……ひどくねむたい。
「……あのね、独歩くん」
私、今日まで生きててよかったよ。
そんなようなことを、聞いた気がした。でも、らしくない言葉だから、きっと気のせいだろう。意識を手放す最後、俺はの鼓動を感じて深い眠りへと潜っていった。
翌朝。腕の中でがもぞもぞと動いたので、俺もぱちりと目が覚めて、珍しく二人同時に起床した。夢の一つも見ずに爆睡だ。いつになく、頭がとてもすっきりしている。これが本来あるべき人間の睡眠か、としみじみとしながら、俺はが焼いてくれたパンを一口齧る。
「今日の牡牛座は三位ですね」
香ばしい小麦とコーヒーの匂い。そして、小さくしたテレビの音との声。余分な刺激がなく、ゆったりと流れる朝の雰囲気が心地よかった。
「ごちそうさま」俺は手を合わせて、椅子にかけていたスーツを着る。玄関に向かって足を伸ばすと、その後ろをがたたたっとついてくる気配がする。なんだか久しぶりだな。こういうの。足音すらかわいいし、後ろから感じる気配もほんとうに大好きだと思う。
靴を履いて、俺は初めて後ろを振り返る。すると、が鞄を前に出して、俺がそれを受け取るのを待っていた。ちなみに、はまだ寝巻きのままだし、髪も少しだけ跳ねている。無理もない。あんな寝方をさせてしまったんだ。俺は至福の夜だったが、はとても寝苦しかったかもしれない。
「独歩くん。ちょっとお願いが」
「なんだ?」
「少しだけかがんでくれませんか」
の言う通り、俺は膝を曲げた。ネクタイでも曲がってたか? と思っていると、はまたしても変な注文をする。「そのまま三秒間、目をつむってください」と。
言われた通り、俺は目を閉じる。唇に感じたふに、としたやわい感触と、全身がとろけるようなほのかな熱。やわいものがふっと離れて、俺はゆっくり瞼を上げる。あれ、とどんどん覚醒していく意識。目の前には、少し照れた顔をしたがいた。
「……へ」
いま、俺、何されてた……? 放心すること五秒。はッ、と目を見開いて、俺はぐんッと勢いよくから顔を離した。残っている唇の感触に、足から頭にかけて熱がぐわあっと駆け上がってくる。
――ぜったい、今の、そうだ。からなんて初めてだ。
だめだ。今日会社行きたくない。そう確信した俺は突き動かされるように、再びに手を伸ばそうとした。が、不意に俺の体をぐっと後ろに追いやるの両手が伸びる。そのまま回れ右をされてしまい、扉に向かってぐいぐいと押し出された。その強さといったら……男の俺が踏ん張っても一、二歩思わず前に出てしまうほどだった。
「えっ!? ……ッ、えッ!?」
「さあ、誰もが恨んで憎む憂鬱な月曜日の始まりです独歩くん。六連勤プラス休日の半日出勤ファイトおーっ」
「そっ、そんな俺が必死で目を逸らしてることをわざわざ宣告しないでくれぇ……ッ! ま、待ってッ! 今のって――えっ、力強っ……!?」
「今ちょっと自分がどういう顔してるのか分からないので、そのまま前だけ見て出社してください」
そうこうしているうちにがドアが開けてくれて、玄関に冬の朝の空気が流れ込んでき――ああぁぁああ寒い冷たいすでに家に帰りたい外に出たくない会社行きたくない一時間前のとベッドにいた時間に戻ってほしい切実にッ……!!
「独歩くん」
とすっ、と背中に張りつく何か。俺の腹部に回る両腕。俺は右手に持っている鞄を無意識にそっと手に持って、かたくなった背筋に全神経を集中させていた。
「私……ずっと待ってますから」
ぎゅっ、ときついくらい抱きしめられて、離れたと思えば、今度は背中を両の手の平での手らしきものがそこをさすさすと撫でてくれている。最後に、優しい手つきでいってらっしゃい、と言うかのようにとんっと押してくれた。
そんなこと言われたら、やられたら……もう前に行かざるを得ないじゃないか。俺は深く呼吸をした後、ぐっと顔に力を入れて、その一歩を踏み出した。前へ、前へ……とにかく、会社に向かって前へ進む。の気配を振り切っても、彼女が生霊のようにふよふよと浮いて、俺の頭上からついてきてくれている気がした。
不幸に慣れつつある俺に、一つだけ確かなことが言える。これからも、信じていいのだと。会社のくそくらえな暗黙のルールも、名ばかりの労働基準法も、信頼の置けない上司も、俺をごみのように見る他人も……どんなに険しい道でぼろぼろになって帰っても、俺が歩く先の最後に、必ずがいることを。
それなら……ひとりで歩くのも悪くない。踏みしめる地面から伝わる生への実感が、俺の映る世界を明るく照らしている気がした。
