Episode.9



 は歩いていた。特に宛もなく歩いていた。
 家を離れているあいだは、自分の地元であるヨコハマに住んでいる高校の後輩の家へ世話になっていた。「気なんて遣わなくてもいいですよ~。あ、ちなみにご飯は期待しないでくださいねー」と三日間献身的になってくれた彼女に礼を言って、は買い物をするわけもなく、カフェに入るわけもなく、ただ街をぶらついている。私は何がしたいんだろう――そう思いながら、自分にしては珍しく深い溜息をついた。
 家を出た理由は、別に、独歩と喧嘩をしたわけじゃない……と、思う。ただ少し、独歩と一緒にいることに自信がなくなっただけで。
 極度の考え症の彼が、最近は自分のことで悩んでいると知ってからは、身の振り方を考えて、ご飯の献立を少し変えてみたりしてみたが、それが返って彼を苦しめていたようだった。独歩には幸せな毎日を送ってほしいのに、今のままではそれも叶わない。そんな、互いの距離を計るような生活は、の本意ではなかった。
 どうしたら、独歩に信じてもらえるのか。好きだと、大好きだと、一緒にいたいのだと――自分はなんて言えばよかったのか。ほんとうは、一日だけ頭を冷やしてうちに帰るつもりだったが、どんな顔をしてあの家に帰ればいいのかだんだん分からなくなって、時間だけがずるずると経ってしまった。らしくもない。独歩が関わると、いつもの自分ではいられなくなってしまう。だからこそ、他の誰よりも彼が特別だということなのだろうが。
 ……そういえば、今日の独歩は一二三や寂雷と一緒に釣りに行っているはず。彼が帰ってくるまでに、美味しいものをたくさん作っておいて、独歩が帰ってきたら素直に謝ろう。
 あ……今更なにしに帰ってきたんだって言われたら、どうしよう。それだけが心配で、は底知れぬ不安を抱えつつ、大きな横断歩道の前でぴたりと止まった。

「あのー。すみませーん」

 信号を待っていたら、背後から声をかけられる。が振り向くと、蛍光色のジャケットがよく目立つ中年の男性がこちらの顔を覗き込んでいた。
 キャッチーのおじさんかな。同じ男の人なら、独歩くんがよかった。

「……なにか」
「今まつエクに関するアンケートやってるんですけど、興味ないですか?」
「ないです」

 すっぱりと言い切るに悪気はない。しかし、その男は自分とぐいぐいと距離を縮めてきて、「今簡単なアンケートやってるんですけど~」と質問紙を出し始めるので、はいらないと言わんばかりに片手の平を男に見せた。

「私、今急いでいるので」
「この信号待ってる間でいいんで!」

 なるほど。そういう手もあるのか。信号を見れば、まだ当分青になりそうにない。まあ、たしかに待っている間は暇といえば暇だし、そういう気分じゃないというのも憚られて、は質問紙にペンを走らせる。その間にも男はぺらぺらと話しているが、何も耳に入ってこない。今のは、独歩以外の人間に意識が持っていかれることはない。
 ピーコ、と電子じみた鳥のさえずりが聞こえると同時に、は紙とペンを男に返した。そのまま歩きだそうとすると、男は半身だけずいっと前に出してきた。

「この近くでまつエク体験が受けられるんですけど五分くらい時間いいですか?」
「いえ、本当に興味ないので――」

 あ。この人話を聞かないタイプの人間だ。そう悟ったは、こうなったら無理矢理にでも男を振り切ろうとする。そんな時、の背中にドンッ、と何か暖かいものがくっついた。
 の肩をぐっと引き寄せる、力強い手。指が細くて、長い……見覚えのある、男性の手だ。

「こッ、この子はッ! おっ、おおおおおおお俺のッ! 妻だッ!!」

 しん、と静まり返る横断歩道。張り上げた声に、すれ違う人の注目が集まった。あまりの勢いに、目の前の男も呆然と立ち尽くしている。
 が後ろを振り返ると、そこには火が出そうなほど顔を真っ赤にさせた独歩がいた。が彼の名前を呼ぶより先に、独歩はの手をぐいっと引いて、横断歩道をずんずんと進んでいく。
 ほのかに、潮のにおいがする。独歩は肩にかけたクーラーボックスを忙しなくがたがたと揺らして、その足はひどく覚束ない。なのに、こちらの手を握りしめる力だけは、ひと塩に強かった。







 それから暫く、は独歩に無言で手を引かれ続けていた。独歩の早歩きに時々足がもつれそうになるが、は懸命についていく。釣りスタイルの独歩くんもかっこいいな。クーラーボックスを肩から下げてるってことは、何か釣れたのかな。中身、早く見たいな。手、繋いだの久々だな。家に着くまで、離れたくないな。はそんなことを思いながら、頭から浮いた熱をほやほやとさせていた。
 すると、独歩の歩く速度が徐々に落ちていき、ついに彼の足がぴたりと止まる。そして、ギギギ、と錆びたロボットのように振り向いた彼。さっきの赤い顔はどこへやら。青鬼もびっくりするくらい血の気が失せていた。

「さ……さっきの人……もしかしてキャッチー、とか……?」

 ジャンパーの色で分かっていたものだと思ったが、どうやらそうではなかったらしい。独歩の言葉には頷くと、独歩は「ひッ……!」と変な悲鳴を上げて、崩れるようにその場から蹲ってしまった。その拍子で繋がれていた手もぱっと離れてしまった。ああ、もったいない。
 まあともかく、人のいない通りに入ってよかったと思う。も膝を折って、なんとなく独歩と同じ体制になってみた。

「さッ、さっき……っ、先生の車からが見えてッ……急いで降ろしてもらって、えっとッ、男に話しかけられてたから……なっ、ナンパされてるかと思って……ッ。で、でも、そうか……。たしかに、蛍光のジャンパー着てたし、なんか紙とペン持ってた気がする……。それを、俺は、あんな公衆の面前でほんと、なに言ってんだ俺ぇ……ッ」

 綺麗な赤い髪をぐしゃぐしゃと掻きまわして、独歩はひとり項垂れている。一方、浮気と疑われなかっただけよかったと、は胸を撫で下ろした。
 それに……妻だと。独歩は自分のことを妻だと言ってくれた。婚姻届以外で彼の配偶者を意識したのは初めてだった。彼と家族であることを改めて自覚して、はまた別の意味で安心した。

「……お魚、釣れましたか」

 はクーラーボックスを撫でながら、独歩にそう聞いた。この一言だけでも、かなり勇気を絞った。言葉は変じゃないかな、とか、声のトーンはいつも通りかな、とか。
 の問いかけに、独歩はゆっくり顔を上げる。目をあちらこちらに泳がせて、彼は僅かに口を開いた。

「う、ん……。つれた……。いっぱい、釣れたんだ。最後の方で、鯛が、釣れて、それで、その……」

 鯛か。それはすごい。なかなか高価なものだし、スーパーで安くなった刺身や百円寿司でしか食べたことがない。いいな。釣り上げたところ、見たかったな。
 がそう思っていると、独歩が勢いよく前のめりになって、の両手を彼の両の手のひらがぎゅっと包んだ。

「お、織原さんはっ、た、鯛のお造り、とか、作れますか……っ!?」
「たいのおつくり」

 思わず復唱してしまった。そしてなぜか敬語。しかも旧姓呼び。こういう風に喋られると、会ったばかりの頃を思い出す。初心に返ったようで新鮮だし、は嫌いじゃなかった。
 バランスを崩して地面に膝をついてしまった独歩に、とりあえず立ちましょうか、とは提案する。彼の両手を持ちながら、二人で立ち上がった。手は、まだ繋がれたままだ。
 さて、今はなんの話だったか……。ああ、そうだ、鯛のお造りの話だった。はほんの少しばつ悪く思いながら、すっと目を伏せた。

「すみません独歩くん。私、お魚捌いたことないんです」
「えっ」

 そんなに食べたかったのかな。ごめんね、独歩くん。なら今日は回らないお寿司にでも誘おうか、と思案していると、それこそ魚のように口をぱくぱくとさせた独歩がさっき以上に狼狽えていた。

「ご、ごめん……っ。、なんでもできると思ってて……ッ。えと、じゃあ焼き魚でも、煮魚でも、ほんと、なんでもいいから、えっと……ッ!」

 掴まれている手をぐっと前に引かれる。独歩との距離はゼロになり、顔も近い。さすがのも驚いて目を見開くと、独歩のミントグリーンの瞳がか弱い子犬のように瑞々しく揺れているのが分かった。

「いっ、一緒に家に帰ってくれませんかッ!!」

 家に、帰る。いっしょに。
 勢いだけで言えば告白のようなものを受けたは瞬きを繰り返して、こてん、と首を傾げた。

「……独歩くん、家までの道を忘れてしまったんですか」
「えっ……? あ、いや、そういうわけじゃなくて……。というか、そっか……。まず謝罪からだよな……。ほんとすみませんごめんなさい申し訳ございませんでした……。なんで俺と出会ったんだとか全部のせいみたいに言って、本当はそんなこと思ってなくて俺がの人生めちゃくちゃにしてると思って語弊を招く言い方してほんとうに何から何までごめんなさいすみませんすみませんすみませんだから俺のこと捨てないでください家に帰ってきてくださいいぃぃ……ッ」

 しどろもどろになったかと思えば、一人の世界にどっぷり浸かり始めた独歩。久々に、彼の自虐マシンガンを聞いた気がした。
 いくつか物申したいことはあるが、とりあえず、は今にも過呼吸を起こしそうな独歩にこう言った。

「独歩くんがお願いしなくても、今から家に帰るつもりでした」
「えッ」
「家を開けたのも、独歩くんのせいじゃないです。長いこと留守にしていて、すみませんでした」
「いや……っ、そんな、なんで、が謝るんだ……? 元はと言えば俺がに逆ギレしたせいだし、のこと傷つけたと思って、俺……ずっと……ッ」

 どうして。それはの純粋な疑問だったし、自分の行動のせいで独歩がまた取り憑かれたようになっているのはあまり見たくなかった。

「一つ、独歩くんに提案があります」
「え……。あ、は、はい……っ?」
「とりあえず、お互いの反省会はご飯食べてからにするのはどうでしょう。その中身、鯛ですよね」

 はクーラーボックスを指さして、「せっかくの新鮮な鯛がだめになったら、ちょっと残念です」と言う。

「あと、お造りは後日勉強してみるので、今日のところは煮魚で妥協してくれますか」

 今にも泣きそうな独歩は、瞳を潤ませてうんうんと頷いている。よかった、と一息ついて、は一度独歩の手を離して、改めて片方の手の指を彼の片手のと絡ませた。

「家を空けていたぶん、美味しいものいっぱい作ります。まず、帰る前に買い出しですね」
「にっ、荷物持ちなら任せてほしい……っ!」

 独歩の言葉に、はふっと笑む。これだけでいい。これだけがいい。変に気負わず、お互いの孤立した生活スタイルに馴染む関係こそ、の理想だった。幸せな方向に言葉足らずな自分と、不幸な方向に言葉が過ぎてしまう独歩。合わさるのはきっと難しいが、それでも、不思議なことに、隣にいることがなによりの至福に思えるのだから、やはり、の人生において、彼以外にいとおしさを感じることはないのだろう。
 だから……どうか、彼の帰ってくる場所として、そこに融けていくことをゆるしてほしい。不幸せそうに見えても、嫌いなところがなくても、かぼちゃ頭になっても、本当は朝が弱いことを隠していても……は、いつも独歩を想っている。そして、ネガティブだろうが、隈がひどかろうが、不眠症だろうが、独り言が多かろうが……なにがあっても、自分は独歩のすべてがすきだから。たとえ、世界滅亡を告げられても、最後まで彼の帰りを待っていたい。
 そんな無償の愛を零したいとが願うのは、どんなに考えても全人類の中で、いま隣を歩いている彼、ただ一人だけだった。