Episode.8
血の繋がらない家族からたくさんの愛をもらった。しかし、自ら他者を愛するとはなんなのか、恋愛もののドラマや漫画を見ても、は自分と同じ人間とは思えないでいた。
織原は交通事故で両親を亡くし、幼少期はヨコハマの児童養護施設で育った。施設にいた子供たちや先生は家族同然。贅沢なものを食べることは少なかったし、服は年長者のお下がりばかりだったが、はそれを当たり前のことだと思い、自分の置かれた環境が不幸だとか不自由とは考えず、普通に過ごしてきた。
はいたって健康児だったが、同年代の子どもと比べ、あまりものを言わない子だった。特に、食欲や睡眠欲以外の感覚にはひどく無頓着だった。何が好きとか、嫌いとか……自分でも、何がそうなのかよく分かっていない。青色と赤色のどっちが好き? と聞かれて、数秒悩んだ後に青を指さすくらいのもので、自分の趣向についてはひどく鈍い子どもだった。
成長の過程で何か問題があれば、施設の先生が何かしら助言してくれただろう。しかし、は施設にいる他の子どもにとても懐かれていた。きゃっきゃと笑って遊ぶことはないが、ままごとの台詞でひょうきんなことを言ったり、ヒーローごっこでは誰もやりたがらない悪役に自ら回ったりして、周りから支持を得ていた。また、落ち着いた性格ゆえか、年長者に混じって、なにかしらの行事のリーダーに選出されたりもした。おかげで、図らずも“大人しいけど、思いやりのあるとても出来た子ども”という印象を大人達に与え続けていた。
しかし、そんな性格が幸いして、小学生高学年の頃にいじめを経験した。筆箱を隠されたり、帰る時に上履きがなかったり……今思えば、可愛いいたずらで片づけられたものだ。特段、は誰かにそのことを言ったりはせず、上履きは毎日施設に持って帰り、ポケットの中に鉛筆と消しゴムを入れて持ち歩いた。おかげで小学校ではまともに友達ができなかったが、登下校は施設の子と一緒に帰っていたので、なんてことはなかった。
一番ひどかったのは忘れもしない、中学二年の時だった。のクラスには、気に食わないクラスメイトがいたら徹底的に潰してしまう女子がいた。休み時間に、周りのクラスメイトが彼女をわいのわいのと取り囲んでいる中、はひとり、自分の机でよく居眠りをしていた。
は眠いから寝ようとしただけであって、別に女の子が嫌いなというわけではなかったが、の知らないところで、“休み時間はその女子と話して彼女から好かれなければならない”という見えないルールがあったらしい。加えて、その女子はの前に席にいた男子を好いていたらしく、授業のグループ活動などでが彼と接点を持つことから、その女子の標的になる理由は十分揃っていた。
そして、クラス替えをして一ヶ月経った頃、女子を中心に陰湿ないじめは始まった。
最初は、小学校と同じように上履きなどを隠された。最近はよくなくなる、と思いながら、は校庭のゴミ捨て場から上履きを発掘する日々を過ごした。それを持ち帰るようになってからは筆箱、教科書、道具箱、体操服などが紛失し、その度に、はゴミ捨て場やら倉庫から探し当てて、どんなに汚れていても平気な顔をして使っていた。
九月になって、二学期が始まってもそれは続く。今のところ、は席替えのたびに近くになった近隣の男の子としか話しておらず、教室の女子たちには総じて、いないものとして扱われていた。
そして、夏休みの復習を兼ねた実力テストが終わった後、席替えが行われた。不幸なことに、はその女子と隣の席になってしまった。の雰囲気からか、よく“とっつきにくい”という印象を与えてしまうので、新しく近隣になったクラスメイトにはいつも自分から声をかけるようにしていた。
よろしく――はいつものように挨拶をしたのだが、彼女から返事はなかった。
「ねー聞いてえ~。今の授業、織原さんが教科書貸してくれなかったの~」
ある日の休み時間。女の子の塊から外れて、がぽつりと椅子に座っている時だ。彼女の声が教室中に大きく響き、名前を呼ばれた気がしたはふっと顔を上げた。
「ひどくない? うち、当てられたらどーしよって泣きそうだったんだけど~」女子はまたしても大声で言う。すると、周りにいる女の子たちがこちらをちらちらと見ては「ひどいね」「性格わるいね」とひそひそとほくそ笑みながら話している。
はて、とは首を捻る。さっきの時間はおろか、今まであの子が自分に話しかけたことはないし、なんなら彼女はちゃんと教科書を持っていたはずだ。
自分の空耳だったのか、幻だったのか。とにかく、そうだったのならそれは悪いことをしたから謝ろう。は席を立とうとするも、ちょうど予鈴のチャイムが鳴ったので、しぶしぶと再び椅子に落ち着くことになった。
「ねえ、教科書、持ってなかった?」
席に戻ってきた彼女に、はそう聞いた。しかし、やはり彼女には自分の声が聞こえていないようで、こちらを振り向いてもくれなかった。
冬休みに突入した十二月。の施設では毎年クリスマス会が催され、一人に一つ、ささやかなプレゼントが配られる。がもらったのは新品のダッフルコート。高価なものなので、あまりこういうおしゃれな防寒具はなかなか施設に回ってこないが、今年のプレゼントは全体的に豪華なものばかりだった。
袋を開けてもこもこしたアウターを目にした途端、の中で熱がぶわっと溢れた。ブランド物でもなんでもない。ショッピングセンターで買ったと思われるクリーム色のダッフルコート。それでもは嬉しかった。嬉しいと感じていた。思わず抱きしめたくなるような、大声で走り回りたいような、コートを見つめるだけでは表現しきれないほどの興奮がの体の中で渦を巻いていた。こんなことは生まれて初めてで、高揚して真っ赤になった顔を思わず鏡で見たほどだった。
もちろん、他の子にも羨ましがられた。いいなあちゃん。そのコートあったかそうだね。ひけらかすのも恥ずかしかったので、人から何か言われるたびに、いいでしょう、と軽く応じて、内心ではふくふくと笑みを零していた。
コートは片時も手放さなかった。ご飯を食べる時も、寝る時も。もちろん、新学期が始まってからは毎日学校に着ていったし、まるでペットでも連れて歩いているかのように、大事に大事にしていたのだ。
「ちゃん!」
そんな時、悲劇は起きた。
その日は施設で一緒に暮らす一つ下の女の子と帰る約束をしていた。が帰る支度を済ませて、さてコートを着ようと自分のロッカーを見たときだった。
……ない。スクールバッグと一緒に入れていたはずのコートが。は全身にすうっと冷気が入ってきたような感覚を味わった。
言葉をなくして呆然と立つ。すると突然、「あっ!」と女の子が声を上げた。
「あのね、さっきちゃんのコートもってる子とすれちがってね、それちゃんのだけどどうしたのって聞いたら、ちゃんのコート、ちょっと汚れてるからきれいにして返してくれるって!」
「よかったね!」そう笑顔で言った彼女に、自分は一体どんな顔をしていただろう。
は走った。生まれて初めて学校の廊下を走ったし、上履きのまま校庭に出たのも初めてだった。冬なのにも関わらず、は汗だくになってコートを探し回った。倉庫にもない。ゴミ捨て場にもない。どこにある、どこに置いた、きょうは、いったい、どこにすてられているんだ。
……ふと、獣臭い匂いがの鼻を掠めた。横を見てみると、そこには飼育小屋があった。そこでは何匹かのうさぎが飼われていて、飼育委員が檻の中に入ってエサをあげているのをよく見かけている。
もしかして――嫌な予感がしたは、小屋の中に目を凝らした。乾いた草とうさぎの糞が散らばっているところに、一際異彩を放っているクリーム色の塊が、泥まみれになって無造作に置かれていた。
それを見た瞬間、思わずは檻に張り付いた。出入口の鍵は閉まっていて、押し引きを繰り返しても鍵の役目を担っているチェーンがガシャガシャとつんざく音を立てるだけ。その間にも、コートはうさぎに踏まれて、おまけにその上に糞までされてしまう。やめて、それ、私のなの、よごさないで、ふまないで。そううさぎに言っても、彼らは鼻をヒクヒクさせるだけでこちらを向いてもくれなかった。
「ねー。あの子、うさぎに話しかけてるよ」
ははっとして振り返る。隣の席の女子は、少し離れた場所で数人の女子たちと一緒に手を叩いて楽しそうにわらっていた。
「……先生」
あれから、学校の先生に小屋を開けてもらい、は糞まみれになったコートを施設に持って帰った。施設で一番に見つけた先生に向かって、あられもない姿になったコートを前に出した。
「これ……転んで、汚れた」
洗ってほしい。できればクリーニングに出してほしい。そうお願いをしようと口を開いたら、施設に来たばかりのその人は、とコートを見比べて、にこりと笑んだ。
「大丈夫よ。洗えば、すぐ他の子のために使えるようになるからね」
――ガツンッ、と後頭部を鈍器で殴られた気がした。
それから、どうやって自分の部屋に戻ったか記憶にない。は布団を被り、糞と泥だらけのダッフルコートを抱きしめて、体をぎゅうっと丸めていた。たしかに、今までも服が汚れるたびに「これ、もう下の子に使えないかな」と先生に相談していた。それは普通の服で、特別な愛着はなかった。でも、このコートは違う。誰にもあげたくないものだった。なのに、そんな……でも、新しく来た人なら、あの子はこういう子なのだと聞いているはずだから、仕方のないことなのだろうか。これは、わたしが、わるいのだろうか。
……なんでだろう。胸が痛かった。いたくて、たまらなくて、息切れもひどくて、くるしくて、頭もガンガンと痛んで、なにもかんがえたくなくて、ここから逃げたかった。もっとらくに……深呼吸ができる場所に行きたかった。
「(どうして……)」
私の心を、私以外の誰かが勝手に決めるんだろう。
翌日、は生まれて初めて学校をサボった。
制服を着たまま電車に乗った時の気持ちは、罪悪感よりも解放感に近かった。あてはない。行けるところまで行こう。なんとなく耳についた駅を降りて、乗り換えをして、改札を通って、止まっていたバスになんとなく乗る。新聞配達のバイトで貯めていたお金が底をつく手前のところで、お金を払ってバスを降りた。
そこで見つけたのは、足がすくむような崖。ドラマで追い詰められた犯人がよくいる場所だ。はそこでぼーっと立ち尽くして、ふと下を見た。岩石しかない。ここから落ちたら、しんじゃうんだろうな。は足を片方だけ地面から浮かせて崖の外に出してみる。自分がどんな気持ちになるのか知りたかった。でも、よく分からない。ふわふわと体が浮いているようで、少なくとも、あまり良い気分はしなかった。
これからどうやって施設に帰ろうか。お金はもうない。崖の下にある岩石に問いかけるように思案していると、突然の右腕が後ろに引っ張られ、視界がぐわんと揺れた。
後ろを向くと、そこには全身汗だくになった赤髪の男がいた。
「なッ、にしてるんだよ……ッ!!」
は握られた手首に痛みを覚えながら、何が起きたのか分からず、その男を凝視した。その間にも、男はずるずるとを引きずって、自分を崖の淵から距離を離そうとする。
「まだ、子どもなのに、なにも決まってないのに……ッ!! 命、捨てるなんて……っ、そんなの、もったいないだろ……ッ!!」
初めて会った人。自分のことを何も知らない人。どうやら、自殺をしようとしていると勘違いしているらしい。でも、いまは、そんなことはどうでもよくて。
……私のことをなにも知らない人なら、いいかもしれない。何が自分をそう思わせたのか分からない。ただ、彼の言葉を聞いたら、今まで胸の中で思っていたことがそのまま口からぽんと出た。
「……べつに、なんでもいいことは、なんでもよかった」
「は……?」
「ヒーローの悪役でも、ままごとのおかしな役でも、筆箱と上履きを隠されても……なにも、思わなかった」
大切なものは人それぞれだろう。の場合は、コートがそうだった。それを、身近にいる人に分かってもらえない。みんなはみんなの“すき”を共有しているのに、どうして自分には理解ができないし、されないのだろう。
自分は人と違う。皆、それは同じはずだが、の感覚は、かなり人とずれているらしく、世間的に生きづらい性質をもっているのだと分かってしまった。
「自分でも、わからないから、ほかの人がどう思ってても、ぜんぜんよくて、でも、自分のことが分かってる部分を、人に分かってもらえないのは、すごく、すごく……悲しかった」
は気づいてしまった。自分は思いやりのある子ではないのだと。ただ、興味がないものが多いだけで。人に好かれようが嫌われようが、先生に頼られようが、なかろうが。どうでもいい。なんでもいい。ただ、自分が大切にしたいものは、きっと他人からはどうでもよく映るのだろう。分かってくれない他人を恨むべきなのか、おかしな自分を呪うべきなのか。まるで、右も左も分からなくなった迷子の感覚だった。
「え、と……つまり、周りが自分のことを理解してくれないって、ことか……?」
男の言葉に、は時間をおいて小さく頷いた。
「じゃ、じゃあ、さ……俺に、教えてくれないかな?」
「……え」
「あっ、赤の他人の俺でよければ、だけど……っ! というか、嫌か……? 嫌だよな、はは、何言ってんだ俺……」
「でもこのまま自殺されたら困るし他になんて言えばいいんだ……」と男はぶつぶつ言って、顔を青くしたり赤くしたりしている。
一方のは、目を丸くして彼の言葉をゆっくり飲み込んでいた。教えて、と。彼は、私のことを教えて、と。そう言った。
「いいの……?」
「えっ? あ、う、うん。むしろ俺でいいのかって感じなんだけど……」
「その代わり、」と男は泣きそうな顔で笑んだ。
「お願いだから……生きていてくれよ」
それから、はその男と三時間ほどお互いの身の上話をして(彼は今大学生で、課題をするためにこの地にやって来たらしい。レポートの再提出ばかりでそろそろ病みそうだと言っていた。どちらかというと自殺したそうに見えるのは彼の方だと思った)、彼とはさらっと別れた。しかし、結局帰る電車のことを考えていなくて、お金もなく駅で途方に暮れていたら、駅員さんと後からやってきた警察が保護してくれた。どうやら、自分が学校に来ていないと教師から施設に連絡があり、先生達が警察に捜索願を出していてくれたらしい。
施設に帰ったはたくさん話をした。話しまくった。大人が目を丸くするくらい、他の子達が引いてしまうくらい、いまさらな自己紹介をもつらつらと語った。まるで大統領のスピーチのように、大々的に、堂々と。話しながら、自分は人からよく言われていた大人しい子なんかじゃないのだと、心から思えた。
ちなみに、施設を出ていった理由とコートの件を話すと、その時に微笑んだ新しい先生は泣き崩れて、を抱きしめながら謝った。別に、もう何とも思ってない。コートをクリーニングに出してくれるなら、はそれでよかった。
それを機に、は今まで以上に勉強に力を入れた。とにかく、何かに集中したくて、こそこそとする陰口にも構わず、それこそ勉強の虫になるくらい。そのおかげで、地元で一番有名な公立の高校の入学が叶った。
をいじめていた彼女はと同じ志望校だったが、試験に落ちたのだと風の噂で聞いた。加えて、あの時に飼育小屋を開けてもらった先生が告発して、彼女が行っていたいじめが公になった。どうやら、彼女の両親はかなり厳しく、その憂さ晴らしでいじめに走っていたのだと言う。
上位の成績を走っていたその子は徐々にに追い抜かされていったのをは知っていたし、三月が近づくにつれて彼女の自分に対する風当たりが強くなっていた。コート以来の反応が見たくて焦っていたのだと思う。その結果が、学校の晒し者のような扱い、両親からの叱責となくした信頼、そして受験失敗の三コンボ。それに対して、は同情心も抱かなかった。
卒業式で、彼女は親の仇のような目でを見て発狂したが、やはりは特に何も言わなかったし、思わなかった。クリーニングに出したコートは綺麗になったし、そのいじめもいじめと思っていなかったくらいなのだから。なので、最後まで、は彼女と言葉を交えることはなかった。結論、は最後までその子に興味がなかったのだ。
高校に入学してからも、やはりは変わり者扱いだったが、いじめもなく、部活もやったし、可愛い後輩にも恵まれた。バイトで貯金をこつこつとしながら、在学途中で施設を出て、なんならヨコハマからも離れて、シンジュクでまったりと一人暮らしを始めた。就職活動は高校の名が世間に広かったからか、高卒だとしても意外とスムーズに内定をもらうことができたし、初めてできた上司もいい人だった。社会人も慣れてきて、モノクロだった人生にようやく色がついていく感覚がした。
そんなある日のこと。久しぶりに残業をしてしまい、ようやく退勤することができたは、ビルのエントランスを歩いていた。そんな時、ひと際猫背の男が人にぶつかってしまい、ぺこぺこと頭を下げて謝っている光景がの目に飛び込んできた。
「すっ、すみませんっ……すみません……ッ!」
――運命だと思った。
その声と、後ろ姿と、その髪の色を、は鮮明に覚えていた。あの人だ、あの時の男の人だ――あの日の記憶がの脳内を走る。そして、何か思考を巡らせる暇もなく、の足は彼のところまで無意識に駆けていった。
よろよろと歩いている彼のスーツの裾を、はぎゅっと掴んだ。振り返った彼の顔色は全体的に青く、どこか焦りが含まれている。しかし、こちらも心臓が忙しなく動いているのでそれどころではない。走ってきたせいで汗もひどかった。
は小さく深呼吸をしながら、言いたいことを頭の中でまとめる。あの時、自分に声をかけてくれて感謝しています。スーツ、すごく似合ってる。助けてくれてありがとうございました。猫背気味の体と、タレ目が可愛い。あの日から自分は変わって、今ここにいるのはあなたのおかげです。やっぱりかっこいい。言わなければ。早く。感謝の言葉を。この口から。言って、早く、はやく――
「好きです。私と、お付き合いしてくれませんか」
……あれ
は目を丸くした。自分が聞いた声に思わず瞬きを繰り返すが、もう遅い。すでに、自分の言葉は彼に届いてしまっていた。
は焦った。冷や汗さえかいていた。「えっ……。あの、その……えっと、ど、どちら様……ですか……?」と、狼狽えている彼におそるおそる尋ねられる。それはそうだろう。しかし、ここまで来たら引き返せない。は緊張で震えてしまいそうになる手で連絡先を書いたメモを渡し、言いたいことを言ってその場から去った。家に帰っても、ベッドの中に潜り込んでも、エントランスでの出来事が頭の中でぐるぐると回って離れなかった。
それからも、彼と会う日は続いた。最初にエレベーターで再会した時は、彼と同じ空間にいると意識しただけで心臓が口から飛び出そうだった。エレベーターから降りる時には勇気を出して「おつかれさまです」と言って、逃げるように箱から降りたのを覚えている。
たったそれだけのことで、こんなにも心臓が早くなる。顔が火照る。ああそういえば、今日も疲れたような顔をしていた。常備しているホットアイマスク、あげたいな。だめかな。あげたいな。そんなことを家に帰って寝るまでの間、ずっと考えていた。とても幸せな時間だった。
ああ、きっとこれを恋というのだ。どんなに恋愛ドラマを見ても、漫画を読んでも、釈然としなかった感覚が、こんなにも苦しくもしあわせなものだったなんて知らなかった。
しかし、の想いを知らずして、彼は怯えていた。そこで、ようやく気づいた。自分は不審者まがいのことをしていたのだ、と。恋は盲目と聞いたことがあるが、まさかこういうことだとは。たしかに、彼からすれば、知らないOLがいきなり告白をしてきて、今度はエレベーターで会うたびにお疲れさまですと会釈をする――客観的に見て、に恐怖を抱くのも頷ける。
それに、メモを渡した日から、彼からの連絡は一つもない。きっと、あのメモは捨てられたのだろう。なのに、エレベーターで会うたびに彼は嫌な顔をしないし、むしろ彼の方からほんの僅かに会釈が返ってくるようになった。その優しさが、一番悲しかった。
つらくて、くるしくて……は食事もろくに喉が通らない。そんな中で意を決したある日――は帰り際の彼を呼び止めた。
「……先日は、申し訳ございませんでした」
頭を下げると、「へ、」と呆然とした彼の声が降ってきた。ああ、だめだ。今彼の顔を見たら、涙が零れそうだ。は顔を上げても、できるだけ彼の首元を見るように、ぽつぽつと話し出した。
「あんなことを急に言われて、不審がられるのも、無理はありません。先月にお渡ししたメモも……破棄してもらって構いませんので。あと、」
もう、二度と話しかけませんので
声は震えてしまって、あまり善意のないものだったかもしれない。瞬きをした拍子に、ぽろっと零れた涙を合図に、は彼に背を向けた。
中学時代以来に、涙が出た。しかも、この悲しみが涙以外のところでも溢れて、どうしようもない。ぼろぼろぼろぼろ――泣きながら、どうして彼は私のことを覚えていないんだろう、とか、どうして私は彼と上手く接点をもてないのだろう、とか……形のないものに対して、どうしてどうしてと心の中で癇癪を起こしていた。
「あ……ッ」
ビチャン、と。は道の真ん中で派手に前に倒れた。痛い。じんじんと痛む手のひらと膝。鞄の中身もぶちまけて、おまけにストッキングも伝線まみれ。道行く人に横切られる中、こんな時に転ぶなんてついてない、と思いつつ、は道に散らばった鞄の中身をよろよろと拾い始める。
すると、先にの私物を拾い上げる手があった。大きな、男性の手だった。
「あ、あの……だいじょうぶ、で、す――」
声に反応して、は顔を上げる。彼と、目が、合う。自分の顔を見た彼はひどく驚いた顔をしていた。きっと、それくらいひどい顔をしていたのだろう。メイクもきっとどろどろになっているし、恥ずかしくて、はさっと視線を逸らした。でも、なんだろう。鞄の中身を拾ってくれて、見えていない人扱いされなくて、とても嬉しかった。同時に、やはり、胸もいたかった。
小物を拾い終えた彼は、狼狽えながらどこかに走り去ってしまった。ああ、これが最後の彼との交流。ほんとうに、それだけでも心がじんわりと暖かくなるのだから、恋というのは本当にどうしようもない。そのまま家に帰る気にもなれなくて、はビル前の階段にちょこんと座って、膝の痛みが治まるのを待っていた。
ああ、痛いなあ。手も、膝も、胸の中も。こうなることなら、もっと恋について勉強しておくんだった。そうしたら、こんな独走劇を繰り広げることなかったのに。泣き顔まで見られてしまって、ほんとうに、はずかしい。
鼻を啜りながら心の中で懺悔を繰り返していると、の体を覆う影ができる。ふと見上げれば、息を切らした彼がこちらを見下げていた。
……どう、して
「ぁ、え、と……色々、買ってきたんで、とりあえずこれで応急処置を――あ、でも、嫌ですよね、こんな……男の俺なんかが手当するなんて……。でも、あの……手、痛そうですし……」
しゃがみながら、彼は独り言に近い言葉を繰り返している。よく見る薬局のロゴの入ったビニール袋からは、新しいストッキングや消毒液が入っていた。
もしかして、今、買ってきてくれたのか。走って、こんな、仕事終わりで疲れているだろうに、息を切らして、スーツも髪も乱して、いきなり告白をした不審なこの女に、この人は――
「……ふ」
気づいたら笑っていた。思わず声が漏れた。涙と鼻水でくしゃくしゃになった顔で、は肩を震わせて笑っていた。彼の焦っている様子がさらにおかしくて、は手の甲で涙を拭いながらこう言った。
「私……織原といいます」
こんな時に自己紹介。今思えばなかなかにシュールだが、あの時はせずにはいられなかった。ぴたっと独り言が止まった彼は、一瞬目をぱちくりさせて、スーツの内ポケットからたどたどしく一枚の紙を出した。
「お、俺は……あ、いや、わ、わたくしは、こういう者です……」
渡されたのは名刺。観音様の観音にさか道の坂、独りで歩くと書いて、かんのんざかどっぽ。まさか、こんな状況下で名刺を出すなんて、ほんとうに、この人は――ついに、はぷ、と吹き出してしまい、今度は声を上げて笑った。こんなに笑ったのは生まれて初めてかもしれなかった。
それから、渡された彼の名刺をきっかけに、彼との交流が再び始まった。会えば会うほどの心は彼のことが好きだと叫ぶし、帰り際になればなるほど、彼ともっと一緒にいたいと思った。初めてのデートはから誘って、手を繋いだのもから。でも、抱擁とキスは独歩からで、は彼と距離を縮めていった。全部覚えている。全部忘れない。きっと、彼は自分のことでいっぱいいっぱいだろうから、彼の代わりに、は彼との思い出をすべて頭に仕舞っておくことにした。
初めて出会った時のあの思い出は、死ぬ間際になってもしも一緒にいたら、「じつはね、」と話せたらいいと思う。そんな未来があればいいと。ある気がすると思う。彼が自分から離れていかない限り、私はこの人と生きていくのだろうと。そんな根拠もない彼との未来図を、は今この瞬間にも思い描いていた。
