Episode.7



 が家を開けてから三日が経った。
 今日は、一二三と先生の三人で海釣りに行く約束をしていて、今はその帰りだ。先生の運転する車の後部座席で、窓の外をぼーっと眺める俺。釣り糸を垂らしている時もずっと鬱々としていて、正直釣りどころじゃなかった。魚よりもを追いかけたい気持ちでいっぱいだった。
 しかし、こんな日に限って珍しく運が回ってきて、大ぶりの鯛を釣り上げた。もしも、が家にいたら喜んでくれただろうか――なんて、この期に及んで未練がましく思ってしまう。淡い赤色の魚がピチピチと元気よく俺の顔に潮臭い水滴を飛ばす中、のことしか頭になかった俺は、釣り上げた鯛よりも死んだ目でそいつを見下ろしていた。
 赤信号になり、車が緩やかに止まる。俺が小さく溜息をつくと、隣に座っている一二三が「あれれ~?」と声を上げた。

「あそこにいんのちゃんじゃね?」
「どこだっ!?」

 俺は一二三の膝上に乗り上げて窓を凝視する。しかし、らしき女性は一二三が指さすところにはいなかった。
 すぐさま、「うっそぴょーん!」と言いながらけらけらと笑い始めた一二三に対して、俺の中のテンションのゲージがすっと下がる。今、俺はこいつに人生最大の怨恨を抱いている。もしも俺が先に死んだら毎夜お前の枕元に立ってやるからな。
 不貞腐れた俺は自分の座席に戻る。冷静に考えてみれば、スーツを着ていない一二三がのことをまともに見れるはずがなかった。俺としたことが失念していた。一二三がぱっと思いつくような陳腐な嘘に引っかかるくらい、の存在に敏感になっている今の自分がひどく惨めに思えた。

「なあ~、どっぽちーん。マジでごめんってー。そんなに反応良いとは思わなくてさ~」
「許さん」
「うおぉ~っ。独歩が珍しく激おこなんですけどっ」
「お前、俺がこんなに真剣に悩んでるのにくだらない嘘つくなよマジで……」
「だーからごめんって! つか、ちゃんは少し家開けるって言ったんだろ? しばらくしたら戻ってくるって!」
「そう信じて待ったこの三日間は死ぬかと思った。もう、のいない家に帰りたくない」
「聞いたせんせ~っ? 俺っちの言った通り、今回の独歩マジで負のオーラがやばいんだって~!」
「そうですね。いつにも増して独歩君の顔色も悪いようですし、夫婦間のトラブルは切っても切り離せないものですが……」

 青信号になり、アクセルを踏んだ先生が会話の輪に加わった。

「ところで、独歩君のお嫁さんは、以前相談してくれた件の女性なんですよね」
「そ、そうです。あれからトントン拍子で付き合って、いつのまにか結婚まで――」
「どぽちん手ぇ早すぎてそれ聞いた時の俺っちマジでドン引き――ッ、いってえッ!」

 思わず一二三の頭を叩いてしまったが、否定はできなかった。本当に、スピード感しかなかったのだ。との関係は。今思えば、それがいけなかったのかもしれないな。言いたいことも言えない仲のまま、結婚なんてしてしまうからこんなことになるんだ。
 そういえば、プロポーズは俺がしたんだっけ? だっけ? というかそもそも指輪も買ってなくないか? 俺達いつ結婚したんだ? ちゃんと戸籍登録済ませたか? もしかして俺が結婚した気になっていただけか?
 もう目の前が真っ暗になりそうだ。俺は太股の上に肘を乗せながら両手で頭を抱えた。

「ほんと、最近……いや、かなり最初からだけど……とどう接したらいいのか分からない……」
「フツーでよくね? そんな考えることあんの?」
「これやったら嫌われるかなとか、あれ言ったら引かれるかなとか、色々あるだろ……」
「本人に聞けばいいじゃん。つか、ちゃんが独歩のこと嫌うはずなくね? あんだけ好かれてんのに」
「先生。一二三に良い眼科のお医者さんを紹介してやってください」
「あ~っ! 言ったな独歩! つか、今のはちゃんにも失礼だっつの~っ!」

 俺の気も知らないで、一二三はさらっととんでもないことを言ってくれる。くそう、こいつみたいにデリカシーがなかったらこうして悩むこともかかっただろう。生まれて初めて一二三のそういうところが羨ましくなった。

「せんせーはどう思いますー?」
「私ですか? 私は、それほど女性との交際経験があるわけではないのですが……」
「少なくとも俺達よりかはぜぇーったいありますってぇ!」

 それは間違いない。俺は一二三の言葉に頻りに頷く。一方の先生は、スピードを若干落としながらしっとりと呟いた。「そうですね……」

「言葉がなくても伝わる関係が理想ですが、独歩君とちゃん……で、よかったですか。出会って比較的日も浅いようですから、そういうことはなかなか難しいかもしれませんね」
「ほらあ~。だから言ったっしょ~?」

 うぐ。俺は言葉に詰まった。先生の言葉は一二三とちがって重みが違う。それでも納得できなくて、俺は負けじと口を開いた。

「いやでもは……俺に対して何も言わないんです。何かあるだろ、って聞いても、本当に何もないって……。ただ、俺がいればいいって……」
「ヒュ~ッ! どぽちんのおノロケ頂きやした~っ!」
「ち、違う……ッ! 俺は夫らしい行動をしてをだなっ……!」
「あれ? でもこの間、ちゃんのためにタルト買ってくって張り切ってたじゃん。あれはどったの?」
「あれは……その、食べてはくれたんだけど、そんなに嬉しそうじゃなくて……」
「えー! マジかよ! せっかく俺っちがオススメの店教えたのに~! 独歩的にはどうだったんだよ? そんなまずかった?」
「は……? いや、の分しか買ってないから俺は食べてないけど……」

 まずいまずくない以前に、形がぐちゃぐちゃだっただろうから、どちらにしろ美味しくはなかっただろうな。そんなことを考えていると、一二三はえっ? と言わんばかりに、穴が開きそうなくらい俺をじっと見つめてくる。な、なんだよ。
 続いて、「はああぁぁ~……」と、漫画みたいに盛大なため息をつく一二三。本当になんなんだよ……。ため息をつきたいのは俺の方なのに。

「どぽちーん。それはダメだわー。ダメすぎて親友の俺っち涙出るわー」
「だからなにがだよ……!」
「ですよねーせんせー? これは独歩が悪いっすよね~?」
「良し悪いという判断は致しかねますが……一二三君の意見は一理あるかもしれませんね」
「せ、先生まで……!?」

 いったい何が駄目だったんだ。いや、そもそも貧血で倒れていたにタルトを食べさせようとしたのが間違いか。でも、からタルトに反応していたし……。なんなら俺のことよりもタルトだったし。もしかして、タルトだけしか買ってなかったからいけなかったのか? 駅ビルの中にある美味しいわらび餅も一緒に買えばよかったか? いやいや。冬なのにわらび餅ってチョイス的にどうなんだ。俺の馬鹿野郎。いっそのこと役に立たない頭からダンプに突っ込んでしまえ。

「もうだめだ……。考えるのも疲れてきた……」
「まあまあ独歩君。たとえば……そうですね、いつぞやに、私と一二三君が釣りに行っていると言った時、独歩君はそこはかとなく除け者にされている気がすると言っていましたね」

 先生の言葉に、俺はか細く返事をする。加えて、「他になにか思ったことはありましたか」と聞かれて、ぽん、と思い浮かんだ感情が、ひとつだけ。

「さ、さみしい……です、かね……」
「そういうことです。誰かと何かを共有するというのは、集団心理の共感も含まれています」

 「ちゃんは、独歩君と一緒にタルトを食べたかったのではないでしょうか」先生にそう言われて、俺ははっとする。そうか……そういうことだったのか。俺が一二三と先生と釣りに行きたかったのと同じように、も俺と……と考えた時に、はて、と疑問も湧いた。

「な、なんでは俺なんかと……? 俺はそんなに美味い美味いって言いながら食べる方じゃないし、むしろ感想は心の中で仕舞っておくほうだし、俺なんかと一緒に食べてもせっかくの美味しいタルトもまずくな――」
「だーかーらぁ! その俺“なんか”って言うの止めた方がいいって! そんなのちゃんが! 独歩のこと! 好きだからに決まってるだろ~!? 好きな子と食べるものがまずくなるわけないってーのっ!」

 一二三の言葉が鈍器になって、俺の頭を強く殴った気がした。は、と短い息が吐き出されて、俺はゆっくりと顔を上げる。
 は、俺のことが、すき――その言葉の破壊力が凄まじくて、しかもそれが現実だと思うと、ぼふんッ、と顔から熱が溢れた。言われてみれば、そうだ。好きじゃなければ、あんなに他人である俺の面倒なんかみないだろうし、こんな低収入リーマンとひとつ屋根の下で暮らしたりなんかしない。ましてや、自分のプライベート空間にどうでもいい異性を入れたりしないだろう。あくまでも俺なら、の話だが。
 朝は俺よりも早く起きて、俺の朝食と弁当を用意してくれて、一人になった家の中で部屋の掃除や洗濯物、食料品の買い出しや風呂掃除などの諸々の家事、俺が帰ってきてからは夕食の支度と面白くもなんともない俺の仕事の愚痴を聞いてくれる。なんだこれ、こんな天にも昇るようなご奉仕を、俺は毎日のようににしてもらっているのか。どこかの国の王か何かか俺は。
 見えるものも見えないものも、今までもらったの愛の大きさを初めて自覚する。堪らなくなった俺は、熱くなった顔を再び両手で覆った。

「そ、そうか……っ。は、俺のことが、すッ、すっ、すきなのか……ッ!」
「一二三君。独歩君はその子と結婚しているんですよね」
「そのはずなんすけどぉー、最近マジで心配になってきたレベルなんすよ~」

 「つか、俺っち思うんだけど」そう前置きをして、一二三がぽんと言った。

ちゃんのために色々悩むんじゃなくて、独歩は独歩のためにちゃんのこと考えればいいんじゃね?」
「は……?」

 どういうことだ。顔を上げた俺が首を傾げたのを見た一二三は、得意げな顔でパチンッ、と指を鳴らした。

ちゃんはさあ、独歩と一緒にいたいから結婚したわけだろ? それってちゃんがちゃんのためにしてることじゃん?」
「そ、そうなの、か……?」
「そーなのー。で、独歩は別にちゃんにあれこれこうしろって言われたわけじゃないけど、ちゃんのことは幸せにしたいんだろ?」

 たしかに、幸せにしろだなんて、に一度も言われたことがない。だからこうして俺は必死に悩んでいるわけなんだが。

「なら、独歩は自分のためにちゃんと一緒にいたら、自然とちゃんの望みも叶うわけじゃん? やばっ! 今日の俺っちちょー頭冴えてるぅ!」
「そ……そうなのか?」
「そーそ。別に他人のためだとかむずいことは考えなくていーの! だから独歩はいつも自分のことが二の次になるんだよ」

 なんだかそれっぽいことを聞かされて、上手いこと誘導されている気がする。と同時に、そんなことでいいのか、と納得している自分もいる。そんな中、いやでもやっぱり、とひたすら自分を痛めつけたいみたいに、みるみるうちに悪い方へ思考が傾いていく。
 ……でも、まあ一二三が言うなら、と寄りかかってしまうのは俺のどうしようもないところの一つ。他人に振り回されてばかりの人生だな、と諦めた俺は、ようやく背筋を伸ばして、まともに背もたれに落ち着くことができた。ふと横を見ると、隣の一二三とぱちっと目が合う。一二三は小学生がするような無邪気な笑顔を浮かべて、器用にウインクをしてみせた。

「独歩が思ってる以上に、周りの人間って案外自分のことしか考えてねーのよ?」

 「ねー! せんせ!」とにこやかに一二三が言うと、先生はミラー越しに笑顔を浮かべた。
 ……そうか。そう、なのか。俺は一二三の言葉をゆっくり飲み込んでみる。考え方を変えることは難しいが、こうやって助言をくれる人がいるのは、やはり有難いことだ。どんなに打ちのめされていても、暗闇に潜る俺を無理矢理太陽の下に連れ出してくれるのは、思えばいつも一二三だった。
 厄介事に巻き込まれても、最後には一人でいる時よりも、どこか心が豊かになっている。今、自分が構成している世界の中は、今まで一二三がくれたもので、たしかに溢れていた。

「……一二三、」
「なーにー?」
「俺、頑張るよ」

 そう言うと、「独歩はいつもがんばってるだろ~?」とまた笑われる。それでいい。が帰ってこないのは大問題なのは現状変わらないが、なんだかさっきよりも体が軽くなったように感じた。

「ひぇッ……!!」

 再び赤信号で止まる車。すると、隣の一二三が悲鳴を上げて、俺の服の裾を強く掴んだ。

「どッ、どどどどっぽ……っ! ちゃ……ッ!」
「分かってるって。家に帰ったらに連絡してちゃんと話し合うから。というかお前、こんなに人の往来があるところであんまり外見るなよ。女性と目があったらどうす――」
「ちがッ……! 、ちゃん……ッ、いる……ッ!!」

 外、に。
 背中を丸めながら、がくがくと震えた一二三は怯えた声で外を指さしていた。まさか、と思いながら俺は身を乗り出して、ついに頭を抱えだした一二三の上で外の様子を伺う。

「……?」

 たしかに……だ。がいる。こちらと対向している横断歩道でぴたりと止まっている。しかも、派手な色のジャケットを来た男に絡まれているようだった。二人の距離も、普段の俺達よりも近いんじゃないかって思うくらいだ。
 ぐわん、と全身の血が暴発するように熱くなる。俺は運転席に座る先生の背中に向かって半ば叫ぶように言った。

「せ、先生ッ! あのっ、俺――ッ!」
「はい。独歩君が納得できるような答えに辿りつけるよう、祈っていますよ」

 神か。いや、先生は元々神様だった。俺は隣で震えている一二三に今度なんか奢る、と言いながら、その背中を目一杯さすってやった。俺は後部座席から降り、トランクの中に入っていたクーラーボックスを肩から引っ下げて、のいる横断歩道まで全力で走る。営業で歩き回って鍛えられた足腰舐めるなよ。
 しかし、なんの心の準備もできていない。に謝罪する言葉も考えていなければ、俺自身の気持ちも未熟なまま。こんな俺のまま、の前に姿を現してもいいのか。今以上に、俺の元から彼女が離れていくだけなんじゃないか。どうしよう、と思っていても、足は止まらない。俺の体は、心は、の存在を強く求めていた。
 観音坂独歩という男は駄目な人間だとこの口が言っても、だけは手離したくないなんて……呆れる他ない。でも、こんな俺でも、のことをこの身を呈して助けることくらいはできるんじゃないかと、思う。たとえ、俺がどんな目に遭おうと、彼女だけは守り抜いてやると、心の底から叫んでいるから。今この瞬間にも、このひ弱な足は必死になってのところへ駆けているから。