Episode.6
いつもと違うことといえば、が少しだけ寝坊をしたということだ。
「ごめんなさい。すぐ、支度します」
眠りまなこでそう言ったは、ふらふらとした足取りでキッチンに立って、卵焼きを焼きながら昨日の残り物を冷蔵庫から出し、次々にテーブルの上へ並べていった。そんなことをしなくても、朝ご飯なんて俺が食パンを一枚焼けばいい話だし、昼食だって、午後から外回りなのでファストフードや牛丼屋で簡単に済ませるから、今日は朝ご飯とお弁当はいらないよ。
そう言おうとして口を開くが、そうこうしているうちにフライパンに火を入れる音がして、俺は大人しく口を閉ざすしかなかった。寝起きとは思えないほど俊敏な動きでしゃかしゃかと働いているを横目に、俺はクローゼットからワイシャツを出しながらもたもたと着替え始める。それにしても、が俺よりも遅く起きるなんて……こんなことは一緒に暮らし始めてから初めてのことだった。いや、も人間なのだから寝坊くらいはあるんだろうけど……。
俺が悶々と考えている間にも、はいつもの倍の速度で弁当を詰めてくれている。俺が着替え終わって椅子に腰掛ける時には、ほかほかの白米と昨晩のけんちん汁、そして出来たての卵焼きが湯気を立てていた。
いつもよりも時間を巻いてご飯を食べる。「ごちそうさま」と手を合わせ、俺は椅子にかけたスーツを羽織って玄関まで歩いていく。その後ろを、鞄を持ったがぱたぱたと着いてきて、靴を履いた俺が振り返ると、いつも社会の荒波に翻弄される俺を鼓舞するように、が鞄を渡してくれる。
――今日も、そのはずだった。
「?」
「……え?」
今日初めて、目が合う。はやり場のなくなった俺の片手と鞄を交互に見て、「あ、」と小さく声を上げながら、鞄をゆっくりと前に出した。明らかに今、心ここに在らずというか、生気が失せたように目がすわっていた。
大人しく鞄を受け取った俺だが、なんだかもやもやする。もしかして、体の調子でも悪いんじゃないか。そう言おうとするが、朝一で会議あるのを思い出して、俺は躊躇しながらも玄関のドアを開けてしまった。
「いってらっしゃい。独歩くん」
手を振るを最後に映して、ドアが閉まる。どうしてこの時に、の変化に気づいてやれなかったのだろうと、俺は自分を自分で責めたてたい気持ちでいっぱいだった。自分可愛さのために、彼女の些細な変化でさえ見て見ぬふりをしてしまう俺は、この世で一番馬鹿な夫だった。
ノー残業デーを謳う水曜日でもなんだかんだで三時間の残業をしてしまい、とぼとぼと帰路を辿る俺。途中、本日も変わりない理不尽すぎる仕事量と舐め腐った先方、そして椅子に偉そうにふんぞり返っている偉そうなハゲ課長に向けて、心の中で何度も悪態をついていた。人のいない細道でよかったと思う。これで不審者扱いされたら、近所の評判が悪くなるところだ。俺はともかくとして、がここに暮らしづらくなってしまうのは駄目だ。
しかし、今日の俺は一味違う。なぜなら、今夜は珍しく寄り道をしたからだ。一二三に紹介してもらった、シンジュクで人気のケーキ屋に足を運んで、のためにいちごのタルトを買った。今まで仕事帰りにお土産の一つも買えていないので、たまには粋なことをする夫としてランクアップしてもいい頃だろう。、喜んでくれるかな。今日はこのためにスーツを着て外に出たと言ってもいいくらい、俺の足取りは羽のように軽かった。
「ただいまっ」
玄関の前に着いて、ドアを開ける。しかし、いつも出迎えてくれるはずのがいない。あれ、と俺は拍子抜けする。風呂にでも入ってるのかな。手を洗うついでに洗面台まで足を運ぶが、浴室の電気は付いていなかった。なら、友達とご飯でも食べに行ったのだろうか。いやでも、そういうことは事前に知らせてくれるし……。
――不意に、ドンッ、と大きな物音が聞こえる。まるで、固いもの同士がぶつかったような、不穏な音だ。嫌な予感がして、音がした部屋……寝室へと足を運ぶ。足取りも変におぼつかなくて、ノックをする頭もなく、俺はそのままドアを開けた。
「ッ……!?」
朝見た時と同じ格好をしたが、床にうつ伏せて倒れている。俺は持っていた鞄とケーキが入っている箱を放り投げ、ぐったりとしているの体を起こした。
の顔色はひどく真っ青で、心なしか息切れもしている。熱かと思って額に手を当てるも、平常よりも冷たいくらいだったので、さらに全身の血の気が失せた。
どうしてこんなことに――そうだ、やっぱり、今朝から体調が悪かったんだ。焦った俺は救急車を呼ぼうとスマホを取り出すが、手が滑って、端末がの胸の上にとすんと落ちてしまった。
微動だにしないスマホ。そして、無機質に表示されるダイヤルボタンの画面に、俺は頭が真っ白になった。これは、どうすればいいんだ……? 救急車を呼ぶダイヤルは何番だっけ、110? いやそれは警察だ。先生にかけた方が早いんじゃないか。いや、こんな夜分遅くに俺なんかが電話かけたら先生のご迷惑になる。一二三ももうじき仕事行くだろうし。ああどうしよう、誰を呼んだらいい。人が倒れた時の応急処置は? 車で近くの病院まで運ぶか? でも、こういうときって頭は揺すらない方がいいんじゃないか。でもが……早くしないと、俺が、だめだ、何も思い浮かばない、俺は、いったい、おれは、が、ダメだ、どうしたら――
「どっぽくん……?」
はっとして、俺はに視線を落とす。泣きたくなるくらいか細く聞こえた虫の声は、幻聴じゃなかった。うっすらと、の目が開いている。
まるで長い眠りから冷めたような寝起き顔。俺は縋るようにして、の肩をしっかりと抱いた。
「っ……っ……なんで、こんな……うそだ……っ。おれ、、どうしよう……ッ」
「だいじょう……ぶ……です。えっ、と……すこし、おねがいが……」
呂律の回らない、喋るだけで精一杯なは、たどたどしく俺に指示をした。をベッドに寝かせ、枕は頭の代わりに膝の下に入れて、家中からかき集めた毛布を彼女の体の上にたくさんかけた。ほう、とが息をついて寝静まりかえるまで、俺は気を揉んでいた。これでいいのか。他に何もしなくていいのか。今までにないくらい大きな不安に取り憑かれて、横になったから、俺は片時も離れられなかった。
――一時間ほどして、はけろっと回復した。けろっというのは言い過ぎかもしれないが、目が覚めたが発した第一声が、「あそこに転がっているのは……今超人気のケーキ屋さんの箱……」だったので、とりあえず危篤状態ではないと理解できた。床に放ってしまったあの箱の中身は無残なことになっているだろうが、俺はが目を覚ましてくれたおかげで体の力が一気に抜けて、ケーキのことなんて二の次になっていた。
「一つ、独歩くんに言ってなかったことがあったんです」
そんな前置きを聞いた俺は、体を強ばらせた。至極真面目な話も明日の天気でも言うかのようなテンションで話すが、こんなにも改まってものを言うなんて。
もしかして、小さい頃からなにかしらの持病があるとか? もう余命少ない体で、延命治療が必要で、今すぐ入院しなくちゃいけない体なのに、俺がどうしようもない駄目人間だから家から離れられないとか? そんな……なんで結婚してからそんな話をするんだ。いやだ、そんな宣告なんて聞きたくな――
「私、貧血持ちなんです」
……ひんけつもち。そう聞いた俺の目は点になった。
「ひ、貧血……?」
「そう、貧血です。貧しい血です。アネミックです」
そういえば、よく鉄分配合の飲むヨーグルトなるものを飲んでいた気がする。俺は瞬きを繰り返すことしかできず、上半身をゆっくりと起こしたを凝視していた。
「去年は特に、健康診断の結果がよろしくなかったんです」
「まっ、待ってくれ。貧血ってことは……低血圧なのか……?」
「はい。要検査の常習犯です」
とんでもないことをはさらっと言う。ならなんで、いつも朝の五時に起きてご飯を作っているんだ。早起きは低血圧症には辛いだろうに。眠いだろうに。なんでいつも俺を見送って、帰りも俺の帰りに合わせてご飯を食べて、ぜんぶ、俺の、ため……は、おれの、ために、おれの――
――俺の、せいで……?
「独歩くんを見送った後、体が辛くてちょっとだけ寝ようと思いました。でも、ちょっとどころか起きたらこんな時間で、びっくりして、慌ててご飯の準備しようと思って急に起き上がったら、ばたーんと倒れまして」
「俺が……はやく……気づいていれば……」
「いえ、今回も独歩くんが悪いわけじゃ――」
俺はの両肩を掴んだ。驚いたは目を見開いている。その瞳の中に映る俺は、一体どんな顔をしているのだろうか。
今朝、明らかにの調子おかしかった。体調でも悪いんじゃないか。その一言だけでもかければ、何か変わっていたかもしれない。そもそも俺は、のことよりも会社のどうでもいい会議を優先させた。自分のために。いつもそうだ。俺は、いつも自分の都合ばかり考えて、俺が、俺が、と。いつも口ぐせみたいに……。
……そうだ。なんなら、今だって。
「俺はッ……自分のことばっかりで、のことなんて全然気にしてやれない……っ。気にする余裕がないんだッ……!」
は、俺のために身を削って尽くしてくれている。俺が嬉しいと思うことを簡単に施してくれる。俺の愚痴も嫌な顔一つせずに聞いてくれるし、うじうじと悩んでいる俺を立てて言葉をかけてくれる。美味しいご飯だって、掃除だって、家のことはすべてがやってくれている。
それに比べて……俺はどうだ。いつも自分中心で、周囲に怯えて、その輪から一歩も出ることができない。なけなしの金を稼いでくるだけで、いざが辛い状況下にいる時、何もできない。こんな生活、があまりにもみじめで、可哀想すぎる。
「なあ、、教えてくれ……。俺は……何をすればいい……? どうしたらを幸せにできる……?」
を幸せにしたい。心からそう思っている。でも、俺にはそれができない。俺の不能な頭では思いつかない。でも、しあわせにしたい。してあげたい。させてほしい。できないと分かっているのに、他の誰でもない、俺がを、これ以上にない幸福をもたらしたいと思っている。
こんな時にでも矛盾したわがままを言う俺がそう問いかけても、は俺の背中に手を回して、赤子をあやすように緩いリズムをぽんぽんと刻み始めた。
「独歩くんがしてくれることなら、なんだって嬉しいです」
「そんな……うそだ……。嘘に決まってる……。そんなの、がよくても、俺が、ゆるせない……」
俺はの胸に縋る。背中に伝わる振動と、の心音がひどく落ち着く。それも、今では俺の無力さを引き立てるものでしかなかった。
「なんでもする……。のためなら、なんでも……俺は、なんでもするから……っ。休みなしで働くし、面倒なら、ご飯も作らなくていい……。俺の顔が見たくないなら、家にも帰ってこないし、俺のことはATMだと思ってくれても、構わない……。いや、むしろその方が楽だ……っ。ただ、はした金を稼ぐだけの機械だと思ってくれたら……俺は……ッ」
はなお、背中をたたく手を止めない。そんなこと、しないでくれ。ゆるしてもらおうという気になってしまうから。今以上に、何も学ばない駄目な人間に成り下がってしまうから。
「独歩くんが、私にそう思ってほしいなら、私はそうします」
ちがう。俺は首をぶんぶんと横に振った。そうしたら、これは俺の望みになってしまう。ああ、そうだ。こんなのは、俺が楽になりたいがゆえのわがままに過ぎない。俺は、の望みが聞きたいのに、いつも、は俺のことばかりで。のためだのためだと言って、結局は、自分が救われたいがためにやっていることだ。
どうして、いつもこうなんだろう。自分の妻のために、俺は何も出来ないのか。幸せにできないのか。お金も、ケーキも、人並みの贅沢も、何もあげられない。どうしては俺を見つけてしまったのか。どうしては俺に話しかけてしまったのか。あの日から、すべてが変わった。疑問が絶えない。問いが止まらない。おもいが、こえが、今まで抑えていた感情の熱量が、ついに限界を迎えてしまった。
「どうして……ッ、どうしては俺なんかと出会ったんだッ!!」
しん、と静まり返る部屋。はっとしてから慌てて体を離すと、彼女の栗色の目が俺を捉えた。
「……それは、私が一番聞きたかったことだよ」
ふかい眼差しで俺を見るその目が、あまりにもまっすぐで、きれいで、ひややかだった。
びくりと肩が震えて、俺はその目から逸らしてしまいたくなった。息もままならないまま、布団から身を出して、床に足の裏をつけるの所作を、俺は呆然と見入っていた。
「独歩くんは今、私のせいで苦しんでいるように見えます」
そんなことない。口を開けたが、声が出ず、言葉に詰まった。否定できなかった。たしかに、と納得してしまった自分がいた。せい、とかじゃなくて、俺はずっとのことしか考えてなくて、考えて、一喜一憂して、でも、別にそれはせいとかじゃなくて、俺がただ、したくてしているだけで。だから、ちがう。決して、のせいなんかじゃ――
「、お、俺はッ――!」
「ケーキ、一緒に食べませんか」
「えっ」
「形が崩れていても、おいしいものはおいしいので」
「い、いやっ、そうじゃなくて……っ」
の分しか……買って、ないから……
消え入る声でそう言うと、は目を伏せて「……そうですか」とだけ言って、床に転がった箱を両手で拾い上げ、寝室から出ていってしまった。俺は、金縛りにかけられたように動けなかった。でもしばらくして、普段と寝ているこの部屋の居心地が悪くなってしまい、逃げるようにして脱衣所へ駆けた。
そのまま風呂に入って頭を冷やそうと思い、俺は無心で服を脱ぐ。その途中で、丁寧に畳まれた俺の着替えが置いてあることに気づく。ずっと寝てたって言っていたのに、どうして俺の着替えなんか用意してあるのか。想像を働かせただけで目の奥が熱くなり、俺は唇を噛みながら温度をガンガンに上げてシャワーを浴びた。浴室から出た頃には、全身が茹で上がったタコみたいに真っ赤になっていた。目は、黒目と白目の境が分からなくなるくらい、ひどく充血していた。
翌朝は、いつもの家に戻っていた。
いつも通り、は俺が起きるより早く起きてキッチンに立っていた。「おはようございます」と、寝起きの俺に挨拶をしてくれて、今日の天気からニュースのことまで、俺が黙々とご飯を食べている中でぽつぽつと話してくれた。時に、俺が相槌を打って、そこからまた脱線しての話が広がっていく。ほんとうに、いつも通りの朝だった。昨日のことがうそのように、ゆめのように、いつも通りだった。そこで、よかったと安堵していた自分自身を、俺は全力で殴りたい。
――夜。俺が家に帰ってくると、冷蔵庫には山盛りのおかずが詰められたタッパーが複数個あって、“少しのあいだ、家を開けます”という伝言メモと共に、は家から姿を消していた。
遠出をする時は事前に知らせてくれる。置き手紙なんて、結婚してから初めてのことだった。ああ……捨てられたな。力の抜けた俺の指から、のメモがひらりと落ちる。目から落ちる雫も、笑う膝も、の字も……すべてに対して、何を思っていいのか、何を考えたらいいのか、分からない。脳が、これ以上の思考を拒否していた。
今も、そうだ。泣いているのは、がいなくなったからなのか、自分のやるせなさなのか、理解ができない。いま、自分が抱いている感情の名前が、まるで分からなかった。ただ、無色透明になってしまった俺の胸のうちを色付けてくれる人の声は、もう、にどと聞こえないのだと、からっぽになった頭も、それだけは悟っていた。
