Episode.5
辛いだとか、苦しいだとか、会社に行きたくないだとか――そんな独り言を吐き出したことは山ほどあるが、それ以上鬱じみた言葉はあまり言ったことがない。あまりというか、一度だけしか言ったことがない。親でもなく、弟でもなく、なんなら一二三でもない。のいるリビングで、それは俺の口からほろりと零れたものだった。
あの頃は、人生最大の厄災期だったと言ってもいい。大規模な組織の入れ替えがあり、通常の業務に加えられた雑務が右往左往して、社内は終日慌ただしかった。それは、営業で外回りに行く俺も例外じゃない。
業務なんてものは、手をつけさえすれば終わりは見えなくともタスクは確実に減っていく。忙しいのは今に始まったことじゃない。体もその多忙さに慣れている。しかし、俺が何をしたところでどうしようもないものがあった。ハンドバッグ代わりにぶつけられる上司の嫌味と先輩後輩同僚の鬱憤が俺への陰口になって、職場内で消化されていったのだ。
周囲の人間が溜めたストレスという名の老廃物の捌け口にしか、その頃の俺は必要とされていなかった。しかし、それが俺の役目なのなら、我慢するしかない。社内にいるだけで人の輪を乱す俺が、唯一人様の役に立てることと言ったら、それくらいしかない。俺自身ですらそう思った。
「(あれ……)」
なのに、今にも破けてしまいそうな……この胸に重くのしかかっているものは、一体なんなのだろう。
理不尽なこの環境に、疑問を抱かなかったわけじゃない。でも、俺は社会人で、周囲にアンテナを立てておかなければいけない年齢にある。だから、今はこれが最善なんだと必死に言い聞かせた。
辛い苦しい誰か助けてくれと泣き叫ぶ俺がいる。そんな俺の胸倉を、もう一人の俺が乱暴に掴んで厳しく叱りつけた。役目くらい全うしろ。他になにも出来ないのだから、と。自分自身に言われたら、もう、従うしかない。俺は血反吐を吐きながら立ち上がる。もう二度と立てないと思っても、無理矢理立ち上がる。義務と責任の念に取り憑かれた、もう一人の俺によって。
「(あ、れ……?)」
そして、ある日を境に俺の心は何も感じなくなった。
自分の中にあった糸が切れた日の翌日。その日から、俺は三日間の有給を取っていた。いつのまに取っていたんだろうと、過去の俺に対して疑心を抱いた。何か理由があれば話は別だが、特別な予定が入っていたわけじゃない。だから、「明日は三日間おやすみですね」とに言われるまで、俺はスケジュール帳すら確認しなかった。
休んでも、いいのだろうか。昨日まで、休日がまるで見えない連日出勤に体をぶたれていたのに、いざ休みが近づくとそんなことを思ってしまう。でも、元々休みなのに出勤したら、いつも以上に周りから変な顔をされるのは目に見えているので、俺は怯えながらも三日間の有休を受けいれた。
――休むって、どうするんだっけ。
家の中にいても、仕事のことばかり考えてしまう。昨晩と今朝も、が作ってくれたご飯が喉を通らなかった。それだけじゃない。ラップにかけられた俺の昨日の夕飯に、が今日の朝ご飯として消化していく光景を映すと、黒く淀んだ胸がぎりっと痛んだ。
痛むのは、のことじゃない。俺が朝ご飯を食べようが食べなかろうが、この家は何の問題もなく回っていく。それが俺の存在を否定している気がして、頭を抱えたくなる。こういう時でも、俺は自分のことばかり考えている。そんなどうしようもない人間だから、周囲から陰で叩かれ、見下されるんだ。犬がワンと鳴き、猫がにゃあと鳴くみたいに、これは当たり前なことなんだ。
キッチンから聞こえていた流水の音が止む。が食器を洗い終え、リビングのマットに腰を下ろす。そして、壁に背を預けてぼんやりしている俺のそばにごろりと寝転がって、スマホを弄り始めた。その距離、人ひとり分。くっつかず、離れ過ぎず、交わす言葉はない。なんで、この子は今の俺が他人と置きたい距離が分かるんだろう。なんで、別の部屋に行かないんだろう。なんで、ご飯を残したことに対して不満も何も言わないんだろう。なんで、なんで、なんで――
「……しに、たい」
昨日まで異国の言語だったようなそれは、案外よく口に馴染んだ。
無意識に、ずっと思っていたんだと思う。今まで、言う勇気がなかっただけで。今は、生きていることの方が辛いと思っているから、きっとそういうことなのだろう。リビングに溶けた俺のひとりごとは、スマホを操作していたの指の動きをぴたりと止めた。
構ってほしかったわけじゃない。ただ、耳に入れてほしかった。そう、俺は卑怯なのだ。の気持ちも考えないで、自己満足で自分の欲求を一方的に満たすなんて。どうしてもに知ってほしくて、口に出さなくても何か変化をもたらしてほしくて、ああ、ほんと、俺はなんて最低な人間なんだろう。はこんな俺と同じ空気を吸って、毎日見たくもない俺の姿を視界に映して、さらには聞きたくない声で聞きたくないことを耳に入れられる。なんて最悪な家庭だ。俺は、は、俺は、は、俺は、俺は、おれは――
「独歩くん。明日おひまですか」
某アプリのメッセージ欄がぽんと飛び出るように、は唐突に言った。俺がゆっくりとに視線を落とすと、「こういう時のために、計画はしていたんですが」と言って、彼女は四つん這いで移動し、俺の腰付近にぴたりとくっついた。
「名付けて、自殺スポット巡りです」
いえーい
内容が伴わない声色で、は言う。俺は久々に目を見開いた。いま、はなんて言った……? 自殺スポット……?
「ドラマで使われた場所や本気で危なそうな名所まで、私が厳選したスポットです」
「え、と……」
「身辺整理はまだしていないので、明日は下見だけにしておきましょう」
「……?」
「ガイドは任せてください。独歩くんはその身と定期だけ持ってきてくれればおっけーです」
どうでしょう
は真顔で尋ねた。変化が欲しいとは思ったが、そんな……そんなの、予想外すぎて、言葉が消えた。俺が死にたいと言ったからか。俺に死んでほしいという、なりの暗喩なのだろうか。好きな自殺場所を選んで早々にお亡くなりになってくださいという、が向けたメッセージなのだろうか。
冷や汗が止まらず、喉がひどく乾いた。頭がガンガンと警鐘を鳴らして、ああ、やはりにも俺は必要のない人間だった、と。俺は二度と登ってこれない崖に落とされたが、すぐさま俺の手首を掴んだ手があった。
「私は老衰派ですが、独歩くんと一緒なら心中も乙なものですね」
その時のが浮かべていたのは、自殺という言葉には到底似合わない愛くるしい笑顔だった。
大まかなルートを始め、電車の時刻や昼食をとる場所まですべてに任せ、奇妙すぎるその旅は始まった。人がまばらの始発電車に乗りこみ、俺はただ電車に揺られているだけの抜け殻になり果てていた。外の世界では人間の形を保っているのが精一杯で、以外の人の存在を認知することが億劫になっていた。
何度か乗り換えていくうちに、いつの間にか三車両編成の小さな電車に変わっていた。二人がけの座席の窓側を譲ってもらって、俺は心地良い振動にうとうとと微睡む。微睡むだけで、眠ることができないのがまた辛い。が今後の道順の確認をしている中、俺は移り変わる窓の景色だけを眺めていた。
は、お荷物なだけの俺に対して、何も言わなかった。
電車を降りて、最初に訪れたのは山の中だった。樹海といってもいい。鬱蒼と茂る木々のおかげで、日の光があまり入ってこない場所だった。足場も不安定で、人の気配もまるでない。道標みたいなものもなく、歩いていても同じ景色ばかりが続いているので、奥に行けば行くほど道に迷い、途中にある崖で足を滑らせて亡くなる人が多いという。
しかし、自殺の名所とは思えないほど、そこは空気が美味しかった。あの時、たしかに俺は草木の呼吸の中にいた。一度深呼吸をしてみると、一瞬だけ頭が晴れた気さえした。一方のはというと、「ここだと餓死か転落死ですね。どちらにしろ即死は難しいところです」などとぼやいていた。これではどちらがしにたいのか分かったものじゃない。
二つ目は、大きな一本松がそびえ立つ荒野だった。辺りの視界は良好だが、やはり俺たち以外に人はおらず、ここでは何人も首を吊って亡くなっているらしい。ああ、首吊り自殺なら、昔に何度か頭の横を過ぎったことがある。しかし、同居人の一二三に迷惑がかかると思って未遂で終わっている。今も、迷惑をかける対象が一二三からに入れ替わっただけなので、状況的には変わらない。生きるのも死ぬのも他人の足枷になるなんて、やはり、自分が生を授かった時点で色々と間違っていたのだろう。
三つ目のスポットに行こうとしたところで、昼を過ぎた。「後半戦に備えて腹ごしらえです」はそう言いながら、小さな定食屋に俺を連れて行った。そこは民家を改装したような造りになっていて、そこにいる客は大学生くらいの男が一人と俺たちだけだった。
「わざわざこんな辺鄙なとこに若い二人で来なくても~」「都市圏はなんだか落ち着かなくて」店の人と他愛のない言葉のやり取りをする。本心なのか愛想言葉なのかは分からないが、どちらにしても、自殺スポット巡りをしている、なんて口が裂けても言えないだろう。
が頼んだのは天丼で、俺は蕎麦だった。おいしかった。最近は何を口に入れてもガムのような感触で、飲み込むにも一苦労していたのに、不思議だ。ちまちまと蕎麦を啜る俺を見たは、「これでえび天そばにグレードアップです」と二尾あった海老天のうちの一つを俺の蕎麦の上に乗せてくれた。
会計時は、女店主の目を気にしつつ、俺は自分の財布をポケットから出した。はその身と定期だけでいいと言っていたが、自分のことを考えるだけで精一杯の頭をなんとか駆使して、財布だけは自分で持ってきていたのだ。使い物にならないと思っていても、案外この頭はちゃんと機能しているんだなと思った。
財布を取り出そうとすでに片手を鞄に突っ込んでいたはゆるゆると手を引っ込めて、「ご馳走様です独歩くん」と俺に向かって手を合わせた。別に、このくらいなんてことはない。むしろ、これくらいしか俺がにできることはないのだから、が俺にお礼を言う必要はないんだ。
定食屋を出て、また電車に乗る。その時は、やけに窓の外の風景に見覚えがあると思った。
毎日乗っている電車は途中で降りたくて堪らなくて、最寄り駅が近づいてくるにつれて体が固くなっていくのに、今はそうでもない。むしろ、ずっと揺られていたい。このまま目的地に着かなければいいのに。神隠しに近い形で行方不明になって、何もないところでと永遠に二人きりでいたい。そう言ったら、はどんな顔で俺を見るだろう。
ふと隣を見れば、はゆらゆらと舟を漕いでいた。電車の揺れに従ってあちらこちらに上半身を揺らしている。ずいぶんと朝方に起きて支度をしていたので、当たり前といえばそうだろう。
何を思ったのか、俺はおそるおそるに手を伸ばそうとする。しかし、流れたアナウンスが次の駅名を告げると、の目がぱちっと開く。「次、おりますね」と、少したどたどしくなった口ではそう言う。「わかった」そう言って頷いた時には、俺の片手は自分の膝の上に戻っていた。
電車を降りると、次はバスに乗った。乗客は俺達だけだった。そこでもやはり、俺は窓の外の景色を見るばかりだ。いつの間にか空より山の割合が増え、田畑が地面全体に広がっている。民家も疎らで、一面緑の世界だった。こう見ると、俺が必死に生きていた世界は随分と小さかったんだなあと思う。そして、やっぱりこの風景に見覚えがあるな、とも。
バスを降りて、停留所から歩くこと十分。そのあいだに、との会話はない。ただ俺は、の歩幅に合わせて歩くだけ。次はどんなところなのかとかいう疑問は、正直頭になくて。が連れていってくれる場所なら、もう、どこに行ってもよかった。
「……今年に入って、四人亡くなっているみたいです」
到着した崖の隅に立ちながら、は淡々とそう言った。そうっと崖の下を覗いても、その下には岩石しか転がっておらず、クッションとなりそうな自然物はなかった。自殺の名所というだけあって、申し訳程度の落下防止ネットはあるが、あまり意味を為さないだろう。なるほど、さすがにここからなら頭から落ちれば即死できる。
「(……あ、)」
そこで、俺は思い出した。どうりで来る途中、見たことがある景色ばかりだと思ったんだ。
ここには、昔来たことがあった。大学に通っていた頃だろうか。レポート作成に必要な資料目当てで、近くにある博物館に訪れていた。そこで、中学生くらいの女の子がこの崖から身投げしようとしていて、必死で止めたのだ。理由なんて褒められたものじゃない。人が飛び降りそうになったら助けるという固定概念からきた正義感が、俺の足を動かしたのだ。
今思えば、かわいそうなことをしたと心の底から思う。今の俺があの時の中学生ならば、その時助けた俺を一生恨むだろう。あの子は、変な正義感を振りかざした俺のせいで、今もなお苦しい人生を歩んでいるにちがいない。命を絶つ決意を、俺が水の泡にしてしまった。自殺する覚悟なんて人それぞれだし、重量も大きさも関係ない。相当の痛みを味わっていなければできないことだ。そんな中、他の人は皆、自分の首を絞めながら毎日を生きている。
――崖の隅に立っただけで、膝が笑っている今の俺と違って。
観光も程々にしてバスに乗り、また電車に揺られる。もう、日暮れが近い。次で最後だとに言われて、俺はどうしようとない虚無感を覚えた。家に帰って無意味な休日を過ごして、またあの会社に足を動かさなければならないと思うと、吐き気がした。
今日一番長く電車に揺られていると、ついにが眠りに落ちた。こつん、との頭が俺の肩にぶつかる。降りる駅がどこか分からないが、を起こすのも憚られ、俺はおそるおそる彼女の手の甲に自分の手のひらをそっと置く。肩にかかるの重みと手から伝わる彼女の体温に、とてつもない安心感を覚えた。
「すみません……ねてました……」
結局、終点駅まで乗ってしまい、目をこするに俺は首を横に振った。そもそも、起こさなかった俺が悪いのだから、が謝る必要はない。最後の穴場は逃したが、その代わりに港近くの海に着いた。せっかくだから夕日を見て行こうというの提案に、俺は何も言わずについていった。
冬間近の海は寒かった。がしきりにくしゃみをするので、俺の上着を彼女の肩にかけた。いいの? という目線を受けたので、こくりと頷く。強がりじゃない。俺はに出してもらったニットを着てきたから、かなり暖かいのだ。
刹那、「あ、」とが声を上げる。ちょうど、地平線に向かって夕日が沈んでいく光景が目に入った。海に吸い込まれるようにして、オレンジの色が消えていく。蝋のなくなる燭台の灯火のようにすうっと溶けていく。また、夕空の上から藍色がぼんやりと滲んで、いとも簡単に夜を受け入れていた。
今まで外部の刺激にしか反応できなかった俺が、純粋な疑問を抱く。どうして、太陽は沈むんだろう。どうして俺は、今日一日見てきた平凡な世界の真ん中にいたんだろう。どうして俺ばかりがあんなストレスの掃き溜めみたいなところにいるんだろう。どうして他人は生きたくて生きて、俺はいきたくないのに生きて、しにたくて、それでもは俺のそばにいて、こんなどうしようもない俺をこうして外の世界につれだして、どうして、いまも、となりにいて――
「……、」
呼ぶと、が俺を見上げる。俺は喉元だけで声を出して、少し、一人にしてくれと呟いた。波の音にかき消されてしまわないか不安だったが、は小さく頷いて、ひとり、音もなく浜辺を歩いていった。
その後の俺はというと、泣きまくった。それはもう、ひたすらに泣きまくった。なにかしらギネスに載るんじゃないかというぐらい泣き喚いた。その場に蹲り、帰りたくないと駄々をこねる子供のように。自分の意思を伝えられない赤子のように。持ってきたハンカチを海で浸したようになるまで、今までせき止めていたものを目からすべて流れ落ちるのを、大声で泣きながら見送った。
今まで、泣くことはできなかった。許されなかった。駄目だと思った。まともに息のできない場所に、俺はいた。生きていた。苦しくてもがこうと、自分がどこにいるのかも身の置き場も分からなくて、誰かに命じられたように、言われた使命を、やりたくないことをへこへこと頭を下げながら、自ら社会の奴隷に成り下がっていた。
……何十分、そうしていたか分からない。声は枯れ、嗚咽だけが喉から込み上げてくる。涙と鼻水が未だに止まらない顔面は、きっと見るに堪えないことになっているだろう。
おまけに、泣きすぎてしまったのか――頭が良い感じに痛くなって、なんだかすべてにおいてどうでもよくなった。むしろ怒りすら湧いてきた。なんで俺ばかりこんな目に遭うんだ。あの上司のハゲた頭をコンクリの上で引きずってすり減らしてやろうか。俺を馬鹿にした奴らはビルの屋上から宙づりにして火あぶりにしてやろうか。……いやいや、なんてことを考えているんだ俺は。全身の鳥肌が止まらない。さっきまであんなに世界を呪っていたのに、まるで生まれ変わった気分だった。
あ、そういえばは――辺りを見回すと、長く続く砂浜の一角に、彼女はぽつんといた。が付けた足跡をゆっくり辿っていくと、砂いじりに興じていたらしいは、俺の方をくるりと振り返った。
「おかえりなさい。独歩くん」
我が家に帰ってきた俺を迎え入れる言葉を、泣きじゃくってひどい顔をした俺に対して、は惜しみなく言ってくれた。
その日の帰り、いつぶりか分からないくらいと他愛のない話をして、爆睡した。おかげで、ほつれた糸だらけになっていた頭がすっきりして、翌日は会社に喧嘩を売りに行く気持ちで出勤できた。まあ、結局いつもの通り、周りに萎縮しっぱなしだったが、家に帰るなりに愚痴を聞いてもらって、また明日、戦という名の会社に備える。そんなことを繰り返していたら、社内の業務も落ち着いてきて、周囲の人間も程よい関係に戻った。上司の小言を除いて、だが。
有給休暇の最終日。夕食を囲んでいる最中に、はこんなことを言った。
「私の一生のお願い、きいてくれてありがとうございます」
の……一生の、お願い?
記憶がめまぐるしく回る。遡る。そうだ。また、思い出した。まだ、職場が忙しなくなる前、俺は、に頼まれていたんだ。
――「この日からこの日、独歩くんにお休みを取ってほしいんです」
――「えっ……。いい、けど、最近組織の入れ替えが始まったばかりだから、取れるかどうか分からないぞ。というか、絶対課長に罵倒されながら申請書突き返される……」
――「そうしたら、私が産気づいたとでも言ってください。この日が無理なら他の日でも大丈夫です。ただ、日曜日も合わせて、三日間まとめて取れるようにしてほしいんです」
――「で、でも――」
私の、一生のお願いです。独歩くん
普段、俺に何も言わないがそう言って、俺に有給を取らせた。申し訳なさそうに、でも譲る気はなさそうに、が俺に頭を下げた日でもあった。
は、俺がああなることを予想していたのか、それともタイミング的に偶然だったのか、今でも分からない。俺が聞くことはないし、から話す気配もない。どっちでもよかった。あの日、が俺を会社以外の外に連れ出してくれなければ、人間として駄目になっていたことには変わりない。が、一瞬でも俺を日の当たる世界を見せてくれた事実は、永遠に俺の胸の中に刻まれている。
海辺で、におかえりなさいと言われたあの瞬間。ああ、俺はこの子を幸せにしなければ死ねないと、漠然と思った。自分のために生きられないのなら、せめて、のために生きようと思った。実際、あれ以来、俺は死にたいと言ったことも、思ったことも一度もない。
周囲からの信頼なんてものはすぐに消え去る。そんなものよりも、目の前のいとしい人を大事にしようと、俺は誓ったのだ。神様なんて、信じる暇はない。がいれば、のためなら、俺はどんなことでも乗り越えられるし、生きたくないという衝動すら乗り越えなければいけないんだと、心からそう思った。
