Episode.4
「久しぶりだね。我が親友の愛し君。今日も一段と可愛いね」
「恐縮ですひふみさん。そしておかえりなさい独歩くん。さあ、どうぞ中へ」
新宿ナンバーワンホストの挨拶も軽く受け流すのスルースキルはラスボス級だ。一二三も、に振り撒いた愛想を仕舞わずに終始笑顔で応じているのがすごい。こいつの周りで舞っている薔薇の花びらが、のところに到達する前にすべて地面に落ちているのに。お前のメンタルも大概だよな。、まるで靡いてないぞ。いや、靡いたら逆に俺が困るんだが。一二三とのやり取りを見ていると、が面食いではないことがよく分かる。というか、そもそも面食いだったら俺と結婚してないか。自分で言って悲しくなってきた。この話はもうやめよう。
相変わらずの二人のやり取りを横目で流し、俺はひとり靴を脱いで家に上がる。その後ろから一二三が続き、振り返ると、自分のだけではなく、あいつは俺の靴まで踵をぴったりと玄関の縁に揃えていた。くそう、容姿と財産と生活力に限って言えば、俺はあいつに一生勝てない。
「今日は少し奮発してお寿司を取っちゃいました」
「いやあ! 僕のためにいつもありがとうちゃん!」
「あとで折半して請求するからな……」
「大丈夫です独歩くん。私のポケットマネーなので」
「いやいやなおさら駄目だろ……!」
俺は半ば叫ぶように言うが、はすでに目の前にはおらず、ちょうどリビングの敷居を跨いでいるところだった。えっ、早い。
は、一二三に対してかなり甘いと思う。いくら女性恐怖症というハンデがあるからといって、そんな聖母のような対応をしなくてもいいのに。なにせ相手はあの一二三である。こいつにはインスタントラーメンの一つでも出しておけばいいんだ。高級食品を食べる時と変わらず、「ちょー美味いんですけどぉー!!」と語彙力の欠片もない感想を述べるだけなのだから。せっかくの高級寿司が号泣してしまう。
俺が声もなく唸っていると、何を勘違いしたのか、一二三に肩をぽんぽんと叩かれて、「男の嫉妬はみっともないよ独歩くん」と哀れみの目を向けられた。なんだろう。今猛烈にこいつの目を潰したい。
一二三と同居していた家を出て、と同棲を開始してから、こいつがこうしてうちでご飯を食べる日がたまにある。それまでの経緯も決して短いものではなかった。色々と……ほんとうに色々と、内に秘めた苦労が背景にあったのである。
「今度、ちゃんに会いたい。私服で」
時を遡ること三ヶ月ほど前。俺が今の家に引っ越して数週間が経った頃の話だ。その日はが友達と外食をするため、俺は元住居もとい一二三の家にてこいつの料理にありついていた。そんな夕食の最中、突然一二三がそんなことを言い出したので、俺は持っていた箸を床に落としてしまった。
いや、お前……正気か。思わず俺は一二三に問うた。あの一二三が……自ら率先して女性と対面したいと言ったのだ。それも、こいつにとっての鉄壁を身に纏わずに。そんなの、自ら首を吊るようなものだろ。そう思ったが、に会いたいと言った一二三の目は真剣そのもので、それ以上の言葉は喉の奥で詰まっていた。
「だって、独歩の奥さんだろ? “本来の俺”で挨拶くらいしたいっつーの」
「俺っち、独歩のマブタチなんだからさぁ」ぽつりと言った言葉は、一二三にしてはやけにしんみりとしていて、逆にこっちが居心地悪くなってしまった。お前の女性に対する苦悩は、傍で見てきた俺がよく知っている。だから、余計声を上げたかったのに。なんでそんな声で、顔で、そういうこと言うんだよ。
別に、と一二三を会わせたくないわけじゃない。この期に及んでこいつに嫉妬なんてしない。むしろ、俺は、お前がいつもみたいに俺の背中に隠れて怯えないか心配してるんだ。この口でそう言ったなら、きっと、一二三はまた変に調子に乗って、今以上に鬱陶しく絡んでくるに違いない。それに、腹を切るようなこいつの決死の覚悟を、俺の考えのない言葉で潰したらいけないと思った。
まあどちらにしろ、肝心の当人に確認を取らなければ話は進まない。一二三への返事は保留にして、俺はそのことを一度家に持ち帰り、に話した。結果、「私は大丈夫ですよ」とひとつ返事で了承を得た。得てしまったのだ。寛容なが断る想像もあまりしていなかったが、こんなにもすんなり受け入れられるとは思っていなかったため、やり場のない力みが体の中にしばらく残った。もちろんその時に、一二三は極度が付くほどの女性恐怖症だということも話したし、スーツを着れば人格が変わることも説明している。
それを聞いても、は面倒だという顔は一切せずに、むしろ、「任せてください」とやけに自信ありげに頷いた。その時はなぜそんなことを言ったのか不思議でならなかったが、今思えば、があんなにも生き生きとしていた理由もなんとなく察せた。
「一二三……本当に大丈夫なのか」
「だーいじょーぶだって! いざというときにジャケットも持ってきてるし!」
指、震えてるぞ。俺はぐっとその言葉を飲み込んで、「無理そうなら、すぐに言えよ」とだけ言った。
ついにやってきたとの対面の日。俺の仕事終わりかつ一二三がオフの日を擦り合わせてスケジュールを組んだ。とりあえず今日は一二三がと二、三言会話をするまでを目標としよう。にも、そこのところはきちんと伝えてある。物分りの良すぎる妻を持って、俺の立場がいよいよなくなってきている気がした。
俺が家のドアに手をかけ、いいか? と一二三にアイコンタクトを送ると、やけに覚悟のできた顔で頷かれる。一二三のこういう……決めるところはきっちり決める根性を俺は嫌っていないし、俺にはない部分なので尊敬すらしている。まあ、もちろんそれは口には出さずに墓まで持っていくわけだが。
「ただいまー……」
「おッ、お邪魔っ、しっ、しま~っす……ッ!」
二人で玄関に入り、鍵を閉める。いつもなら、がリビングから早足でやってきて出迎えてくれるのだが、今日はなぜか姿を現さない。俺が一二三の女性恐怖症についてしつこく言ったものだから、出てくるのを遠慮しているのだろうか。たしかに、自分の存在そのものが恐怖症の友人を連れてくると聞いたら、軽率に出てくるわけにもいかないだろう。
お節介が過ぎた。俺はさっそく顔を片手で覆い隠す。
「この期に及んでに余計な気を遣わせてしまった俺は……俺は……っ」
「だーかーらぁ、独歩のせいじゃないって言ってんだろ~? 俺っちを連れてくる時点で、かなり気ぃ遣わせちゃっているしさぁ。……つか独歩、今時ジャック・オウ・ランタンって、さすがにもう季節外れじゃね?」
こいつは何を言ってるんだ。緊張を解すにしても、もう少しなにか話題の選択肢はないのか。それでもホストかお前。
先行きよろしくない一二三の発言に、俺は確かな不安を覚えた。「そもそもうちはハロウィンパーティーなんてやってないぞ」そう言おうとしたが、リビングに続く廊下をまっすぐ見据えた俺は、口を開けたまま静止した。
正面を映していた視界を少し横にずらすと、なぜか……かぼちゃがいた。もう一度言う。かぼちゃがいるのだ。玄関を上がってすぐの廊下の端っこに、全身黒いマントを羽織って、目と鼻と口が三角形にくり抜かれたかぼちゃ頭がちょこんと座っていた。一二三が言っていたのはこれだ。きっとこれを人形かなにかだろうと思っているんだろう。先々月にハロウィンパーティーをやって、今もなお片付け損ねているのだろうと。
しかし、違う。さっきも言ったように、ハロウィンの日も俺はいつものように終電ギリギリまで仕事をしていたし、も近所からやって来る子どもの為にお菓子を配りまくっていたらしいので、二人きりでハロウィンらしいことは一切していない。強いて言うなら、余ったお菓子を酒と一緒に二人で摘んだくらいだろうか。
だから、俺は分かった。分かってしまった。かぼちゃ頭の正体が。だが、あまりにもその現実を受け止めたくなくて、おそるおそる開いた口から出たのはかなり息の詰まった声だった。
「……。なに、してるんだ……?」
「えっ」声を上げたのは一二三の方だった。俺の声に反応して、ぬくっ、と動いたかぼちゃ。長時間座っていたのか、ふらふらとよろつきながらも、俺達と向かい合う形でぴん、と地面と垂直に立った。
ぺこり。何かの出し物が始まるかのように、小さくお辞儀をする(仮)。彼女は手元にあったスケッチブックをペラペラとめくって、すでに何か書かれてあるページを俺達にどん、と見せた。
『うぇるかむとぅーいざなみひふみさん。そしておかえりなさい独歩くん。本日はジャック・オウ・ランタンのコスプレで失礼します』
なんで筆談?
俺は声なくスケッチブックに書かれた文字列とかぼちゃを交互に見た。さすがの一二三もぽかんとしている。そうだよな、さすがにホストクラブにもかぼちゃ頭の客なんて来ないものな。どうやら、いくら女性だと分かっていても、第一印象がかぼちゃなら発作は起きないらしい。今後需要のなさそうな新しい発見だった。
「……ええっと、その格好は……」
今の空気を壊せるのは俺しかいない。狼狽えたい衝動を押さえつけて、俺はに問う。すると、彼女はスケッチブックの次のページを捲って、『ちょうど半額になっていたので、ハロウィン仮装グッズを買いました』というメッセージを見せてくれた。どうやら、質問されるであろうことは事前にスケッチブックに書いているらしい。
「その、頭は……」
『観賞用の外国のかぼちゃを加工して作りました。サイズもジャストフィットです』
「な、なんで筆談……?」
口が止まらないのは許してほしい。この質問は予想外だったのか、はごそごそとマントから出したペンを持ってきゅっ、きゅっとスケッチブックに文字を書き始めた。
『女性恐怖症について色々調べて、どんな対応が適切か研究したんですが、途中からよく分からなくなったので、とりあえずかぼちゃになりきろうかと』
いやなぜそこでかぼちゃのチョイス。会った当初から不思議な女性だと思っていたが、ってこんなにも天然だったっけ。たしかに、美味しい肉を食べた時にどこの肉だ? と尋ねた時に「牛スジです」と答えられたことはあるけど――いや、これは俺の聞き方が悪いのか。俺が彼女の生体に適応できていないだけだった。
もはや、に何を聞いても俺の疑問の雲が晴れることはないだろう。ひとまず、数回呼吸を繰り返して調子を整える。唖然呆然の一二三を一瞥した後、俺はにこう言った。
「、その……今日は一二三にも心の準備もしてきてもらったから、さすがにかぼちゃは――」
「かッ、かぼちゃはいるッ! かぼちゃはいるってどっぽ……ッ!」
「ごめん……。それ、今日一日被っててもらってもいいか」
一二三の小声を受けて、俺はすぐさま訂正する。はくぐもった声で「よかった。結構力作だったので、もう少し被っていたかったんです」と言う。危なかった。
ちら、と俺は再び一二三を盗み見た。耐えている。冷や汗を浮かべて、今にも玄関から飛び出していきそうなのに。表情は硬いが、これくらいなら何とか平常を保てている。予想していた段取りは早々に崩されたが、守備は上々だ。それはそうだろう。顔を合わせて挨拶しようとした女性がなぜかかぼちゃ頭になっているのだから。一二三がいつもみたいに狼狽えないのも、恐怖より驚愕の方が勝っているからのように見えた。悪い一二三。の想像力は俺にも計り知れないんだ。
タイミングを見計らった俺がとん、と一二三を肘でつつくと、我に返った一二三がおそるおそる一歩前に出る。長く息をついた音が聞こえたと思えば、ホストのこいつが見たら呆れそうな態度で、一二三は震える唇を駆使して拙い言葉を紡いだ。
「はっ、はじっ、はじっめ、まして……っ。おッ、俺はっ、独歩のっ、しっ、しんッ、ゆーの……いざっ、いざなみッ、ひっ、ひふ、み……です……ッ」
『です。独歩くんからお話はつねづね。今日はようこそおいでくださいました』
頬は痙攣し、言葉の語尾もぶれぶれだ。決して、礼儀正しいとは言えない。でも、これが今の一二三の精一杯の誠意であることは見ていて分かる。そんな一二三に、はお辞儀で返し、スケッチブックに文字を書いて見せた。
『いつか、お互いにちゃんとした自分で会えるといいですね』
としては、その言葉に特に意味は持たせていなかったはずだ。むしろ、彼女なりの“ノリ”なのだろう。でも、その日以降の一二三の努力はその一言が原動力なのだろうと俺は思っている。
普段はちゃらんぽらんに見えるが、本来の一二三は真面目な男だ。あれだけ配慮してもらったんだから俺も頑張る――そう言いながら、に対する一二三の接し方は少しずつ変わってきていた。私服で対面とまではいかないが、それ以外のことならスーツがなくてもおおよそできるようになっている。その代わり、あのかぼちゃが早々にお役御免になってしまったので、は違う意味で残念がっていた。
もで、一二三が家に来る時、人の目につかないところに私物を片付けるし、料理も出前を取る。なんなら、髪の毛一本が落ちていないかと床を徹底的に調べ上げるなど、一二三の女性恐怖症に対してかなり徹底してくれていた。一二三の境遇を受け止めて、合わせてくれている。そういうところも含め、俺はに頭が下がる一方だった。
「成長したよな……」
「なんのことだい?」
「こっちの話だよ」
そして、冒頭に至るわけだが。
今日はちょうどが高校時代の後輩と外泊すると言ったので、一二三はうちに泊まることになった。なので、さっき一二三が褒めたように、今のの格好は可愛い。すごく可愛い。が着ているグレーのニットワンピースごと抱きしめたい。一二三と比べるとかなり変態チックな台詞なことは重々承知しているので、言葉は表に出ることはなく、喉の奥でぐるぐると渦を巻くだけだった。
「、今日はどこに泊まるんだ? 俺、明日は休みだし、帰りは最寄り駅まで迎えに行くけど……」
「繁華街にあるラブホですが、駅からそんなに離れてないので平気です。せっかくのお休みですし、独歩くんは家でゆっくりしていてください」
俺は頭が真っ白になった。
らぶほとは。はて、そんな名前の宿泊施設はシンジュクにあっただろうか。俺の知っているラブホとはまた別のところ――いや待てそんなわけないだろ。
らぶほってほんとうにあのラブホか? あのラブホなのか? 嘘だろ。の口からこんなにも堂々と他の男と一夜を過ごす発言を聞くなんて予想していなかった。はいつからそんな淫らな女性になってしまったんだ。というか、いつから俺以外の男と懇ろな関係になってしまったのか。
もしかすると、そっち方面に対して俺が淡白すぎたのかもしれない。と最後にしたのはいつだったっけ。キスすら最近していないような気がする。俺は家に帰るなりやることを済ませたら落ちるように眠ってしまうし、休日は抜け殻のようにぼーっとしているだけ。行為に及ぼうという思考も元気もない。
もちろん、からの誘いもない。そういうことに興味がないと思っていたけど、俺が勝手にそう解釈していただけで、実は欲求不満だったのだろうか。ほら、かぼちゃを被ってきた時みたく、たまに何を考えているか分からないところがあるし。
しかし、これも必然だったのかもしれない。俺よりも良い男なんて世界に山のようにいるし、むしろ今まで俺なんかと一緒にいたのがにとっての悪夢だったんだ。よかったな、永い夢から醒めて。そして、俺は幸せな生活からどん底へ突き落とされて、醒めることのない悪夢の日々を過ごすんだ。ああやばい、また涙腺が緩んで――
「独歩君、落ち着きたまえよ。ちゃんはラブホ女子会というものに行くのではないかな?」
「ご名答ですひふみさん。ヨーロピアン風のスウィートを貸し切って、アロマバスタブ、天蓋付きベッド、ゆるふわパジャマ、最新の美容家電、大型テレビやスイーツビュッフェなどなど。豪華なアメニティとプリンセス気分をなんと一人三千円で満喫できるのです」
珍しくテンションが上がっているを見た俺に向かって、冷たい風が吹いた気がした。じょしかい、女子会……そうか、よかった……。世の中ではそんなものが流行っているのか。俺の内心で巻き起こっていた嵐はすぐに止んだ。
しかし、それでも不安を拭いきれない俺は、滲んだ視界を数回の瞬きで殺し、に詰め寄り気味に尋ねた。
「男はいないんだよなっ。本当に女子だけなんだよなっ?」
「まったく独歩君は……。女子会なんだから男がいるはずないだろう? ほら、プリンセスが大事な社交界に遅刻してはいけない。心配性な旦那は僕に任せて、ちゃんは早く行くといい」
「ありがとうございます。ひふみさん、お手数ですが寝る前に火元の確認だけお願いします」
「仰せのままに」
なんで俺じゃなくて一二三に頼むんだろう。俺、一応ここの家主なのに。一二三の方が主夫力に溢れているからか。そうか。家の掃除すらに任せっきりだからな、俺は。ああ、一二三と暮らしていた時にそういう習慣をもっと付けておくべきだった。
後悔は先に立たず。が玄関のドアの向こう側に消えたのを見送った俺は、一二三と一緒に椅子に腰掛ける。部屋は年の瀬かっていうぐらい片付いているし、テーブルの上には寿司パラダイスと言っても謙遜ないような大きなトレーがどんと置かれていた。
トレーに載せられている寿司は一瞬見ただけでも上等のものだと分かる。ネタの大きさといい色艶といい満点だ。これ、いくらしたんだろう。寿司のクオリティーに圧倒されつつ、俺はすでに準備されていた熱燗をグラスに注ぐ。そのうちに、一二三はいそいそとジャケットを脱いで、椅子にぱさりとかけた。
――一二三の、顔つきが変わる。寿司を見下ろした瞬間、ぱああぁぁっと目が輝き、口がアホみたいにぱかッと開く。正直、にはこの一二三の本性を早く知ってほしい。今までの女神対応なんて二度とできなくなるだろうから。
「うおおぉぉ~~っ!! すっげーうまそ~~っ!! てかこれすげー高いとこの寿司じゃね!? 天翔だったか天神だったかの!! 俺っちの店も打ち上げで頼もうとすんだけど、全然予約取れなくてさーっ! マジちゃん太っ腹なんですけど!! いっただっきまーすっ!!」
「おい一二三、の分も残しとけよ。特にカンパチは必須だからな」
「わぁかってるって! あっ、どぽちん! このまぐろ美味いっ! ちょー美味いから早く食べてみそ~っ!!」
ほんとうに分かっているか怪しいところだ。注ぎ終えたグラスを一二三の方へ滑らせた後、俺も寿司をひょいと取る。口に入れた瞬間、ネタが舌の上で蕩けて、すし酢の効いた米とバランスの良いハーモニーが口の中に流れた。ああ、美味い……。あとでなにがなんでもに値段を聞きださなければ。
は、俺との結婚を機に仕事を辞めている。なので、申し訳程度ではあるが毎月の生活費とは別にお小遣いとしていくらか渡しているが、そんな微々たるものでこんな豪勢な寿司は賄えない。なので、これはがせっせと貯めたお金から出費されたということになる。それは絶対に許せない。俺と俺の友人の夕食を、が自腹を切るなんておかしすぎる。
寿司の値段を気にする俺の不安を知らずに、一二三はべらべらと喋り始める。最近身の回りにあった出来事とか、またしても俺を放置して先生と出かけた日のことをひたすら喋りまくる。水を得た魚かお前は。前まではリビングに通しても居心地悪そうにしていたのに。今ではの名前を口にしても大丈夫そうだ。でもまあ、こいつもこいつなりに頑張ったんだよな、とお人好しな俺が顔を出して、適当に相槌を打ちながらも一二三の話にしっかりと耳を傾けていた。
だが、それは俺を差し置いて早々に四貫も平らげていい理由にはならない。俺も負けじと寿司を頬張る。冗談抜きで美味すぎる。なんだこの寿司は。
しばらく食べ進めて、空だったお腹が良い具合に膨れてきた頃。「なんかさあ、」と一二三がぽつりと零した。
「ここまで気ぃ遣ってくれてさあ。俺、ちゃんに申し訳ねえなーっていつも思ってるわけよ」
「一応、お前にも人の心はあったんだな」
「ちょ~い。今のは聞き捨てならないんですけどー。独歩、俺のことなんだと思ってるんだよ~?」
「なんでもいいけど、その心配を常日頃から俺にも向けてほしい」
「だって独歩じゃーんっ!」
どういうことかは分かりかねたが、少なくとも良い意味ではないはずだ。ふん、と俺は一二三から顔を逸らして寿司を食べ進める。途中、の分を別の皿に避けながら。あ、そういえばたまごも好きだったな。
「いやでもガチな話、ほーんと感謝してんだぜ? 俺のこともそうだけど、独歩のこととか」
なんで俺なんだよ、と寿司を分けながら内心で突っ込む。一瞬だけ一二三に視線を投げると、一二三は綺麗な金色の目に不穏な影を宿していた。
「俺っちはさあ、ホストになってから人生変わったし、これからも女の子が苦手なの克服できるようにちょー頑張るし。つか、もうやる気しかないからできない気がしないっつーか? お先真っ暗どころかむしろ光しかなくね? 的な?」
そういうポジティブなところが、崖っぷちに追いやられた一二三を救い続けたんだろう。俺には一生培われることのない、一二三の絶対的な武器だ。
「ぶっちゃけ、心配だったんだよ」
初めて、俺は顔を上げる。視界に映った一二三は、稀に見るような苦い顔で笑っていた。
「独歩はさ、辛いとか疲れたとかけっこー言うけど、死にたいとかはあんま言わねーじゃん。だから、俺はそれが逆に辛いのかなーとか思ったりしてたわけ。マジでやばかった時は朝方寝ながら叫んでたこともあったし。俺は独歩の親友だけどさ、親友だから話せないこともあるんじゃねーのかって」
「よ、夜中寝ながらって……。初耳なんだが……」
「だって俺言ってねーし」
「なんで――」
「言ったら、独歩のことだから自分のこと責めるだろ? そんなこともあったから、せめて、もう一人くらいさ、俺とは違う……独歩にとってだいじな人ができたらなって、ずっと思ってた」
だから、独歩がちゃんのこと話してくれた時、マジで嬉しかったんだぜ
と出会い、付き合って、結婚するまで……それほど時間は経っていない。そういえば、と出会ったことも、付き合うことになった時も、結婚する時も……俺は親よりも先に一二三に報告した。別に強制されたわけじゃないけど、なんというか、よく分からない“当たり前”が、俺の根底には存在していた。
構われると鬱陶しいし、よく俺の頭を周囲に下げさせるし、正直、一二三とはあまりいい思い出はないが、それでも、俺は心のどこかで一二三を唯一無二の……自分にとってかけがえのない人間だと認識している。……の、かもしれなかった。
結婚するって聞いた時は……なんつーの? 寂しいっていうより安心? ほっと一息的な? マジで俺っち独歩の母親かよ~! ってさ。思ったんだよ」
「母親って……。お前なぁ……」
「ほーんと、独歩がいい子に出会えてよかった」
一二三は穏やかに微笑む。それを見た俺は、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、テーブルに視線を落とした。
そう……ほんとうに、は良い子なのだ。あの女性恐怖症の一二三が言うほど、ほんとうに。俺には、もったいないくらいの。は、人間としても、女性としても、俺にとって、一二三や先生とはまた違う、心の拠り所になる存在だった。
ぐびッ、とグラスを仰いだ一二三は、はーッと勢いよく息をつく。珍しく酒のペースが早いな、と俺は冷えた頭で思った。
「――ってえ! ちょーしんみりしちゃったじゃんかあ~っ! 今日は楽しく飲もー! って決めてたのにさあ~っ!!」
「お前が話し出したんだろ」
「そっかあ! どぽちんめんごり~っ!!」
一二三は笑っている。しかし、俺には分かってしまった。すこしだけ、一二三が無理をしていることを。今まで、当たり前のように隣にいた。時には友として、時には人間として……互いの欠点を補うように、心の支えになっていた。それは今も変わらないと思いたいが、やはり、物理的な距離が目に見えて違う。一二三がホストになると言った時の俺の心境……それと、似たようなものを、こいつは今抱いているのかもしれない。
置いていってしまったと、思っていないことはない。しかし、どんなことがあっても、俺のこの気持ちを口にすることは生涯ないと思う。言うなら、きっと死ぬ間際だ。一二三が同じことを思っているにしろ、思っていないにしろ――それを言ってしまうことで、これからの一二三の人生の枷になってしまったら、俺はそれこそ唯一の友すら失ってしまうと思った。いや、それは少しおこがましい気もする。そもそも、死ぬ間際まで一二三が近くにいる前提で話してるとかなんだよ。ああ、一二三もだけど、俺もかなり酒が回っているらしい。
一二三は成長する。比喩抜きで、女性と真っ当なコミュニケーションが取れる日もそんなに未来の話じゃないはずだ。一二三が最初に克服する女の子も、のように、一二三のことを幸せにしてあげられるような良い子であってほしいと、心からそう思う。
なにせ、俺がそうなのだ。俺よりも血の滲むような努力をしているお前なら……きっと出会える。長いこと、お前の親友をやってる俺が言うんだ。間違いないよ。
