Episode.3
「。今、少しいいか」
「はい。どうぞ」
今日も日付が過ぎる間際に帰宅した俺。そろそろ天罰が下ってもおかしくないが、その前にどうしてもに聞きたいことがあった。
キッチンにて土鍋の様子を見守っているの背中に声をかけると、はガスを消すなり、俺と対角線を結ぶ形でキッチンテーブルの椅子に腰掛けた。こういう、話題の重量関係なく目を合わせて話を聞いてくれるの優しさに、俺は何度も救われていた。
……さて、改めてこうした話し合う場を設けたのも、そろそろ俺は本気を出すことにしたからである。
「俺の、嫌いなところを教えてほしい」
観音坂独歩による観音坂のための幸福生活計画第一弾。まずは、の嫌いなものをすべて払拭すること。彼女の嫌悪するもの、もしくは負担となっているものを一切合切排除するのだ。
そして、の負担といえば、やはり俺だろうという結論に至った。思い当たるところがありすぎて、これはもう離婚した方が早いんじゃないかと完結してしまったが、できればそれは避けたいところ――が望むなら心臓を裂く思いで離婚届にサインをすることもやぶさかではないが――なので、本人に聞いてみることにした。
は正直で、嘘がつけない性格だ。隠し事をしていてもすぐに分かる。だから、聞けば何かしら答えてくれるはずだと俺は踏んだ。しかし、尋ねてからしばらくして、がはて、と首を傾げたので、俺も同じく首を捻る。そんなに難しいことではないはずだ。が俺に関して、常日頃から思っていることを言えばいいだけの話なんだぞ。
――沈黙から数分後。彼女の口から出た言葉は、俺の期待とかなり外れたものだった。
「これはなぞなぞですか」
「えっ。いや、ただの質問なんだけど……」
「そうですか」
は改めてふむ、と考えるも、「ないですね」と宙を仰ぎながら呟いた。俺は焦る。何もなければどこも改善しようがないじゃないか。
「な、なにかあるだろ? 一つや二つ……。独り言言うところとか、毎日表情が暗いとか」
「表情が暗いのは独歩くんのせいではなく会社のせいなので気にしなくておっけーです。むしろ、朝、独歩くんを見送るたび、独歩くんの職場だけアマゾンの密林に瞬間移動してないかなと常日頃から思ってますが、中々上手くいきませんね」
「え? み、密林?」
「あとは……独り言でしたっけ。気にならなくはないですけど、それもひっくるめて独歩くんの内面は受容しているので」
なんだか突っ込みを入れたくなる文言がの口から飛び出した気がするが、今回はひとまずスルーしておく。
が俺のことを受容しているなんて、そんなはずはない。俺が身を乗り出して、もう少し掘った内容で聴取しようとすると、「どうしてそんなことを聞くんですか」と逆に尋ねられてしまった。
うぐ。俺は言葉に詰まる。何の裏も読まなさそうなの眼差しを浴びて、これ以上隠し事ができるはずがない。観念した俺はぽつぽつと訳を話した。
「……なるほど。いつもより三割増で顔が険しかったのはそれが理由でしたか」
「さ、三割増……」
「はい。薄暗い道で出会ったら凶悪な強盗犯もびっくりして腰を抜かすくらいです」
「そんなに!?」
「冗談です」
表情と声のトーンが変わらないので、の冗談は少し……いや、かなり分かりにくい。しかもなんの前触れもなくぶち込んでくるものだから心臓に悪い。けど、そんなところもギャップがあって好きだ。あと一万回は騙されたい。
不意に、は床に置いていた耐熱ミトンを両手に嵌めて、椅子から立ち上がる。そして、キッチンに向かってすぐに戻ってくると、鍋敷きの下に大きな土鍋をどん、と置いた。重い蓋が退けられたそこには鮮やかな赤色の海が広がっており、スパイシーな匂いが俺の鼻腔をつん、と刺激する。今日の夕飯はキムチ鍋らしい。椎茸や水餃子、白菜がグツグツと煮えていて、見ているだけで口の中で唾液が滲んだ。
「たしかに、私も人間なので嫌いなものくらいあります」
「じゃ、じゃあッ――」
「でも、独歩くんは私の好きな人デイリーランキング首位を陣取っているので、嫌いになるなんてあり得ません」
ミトンを外したは、箸や食器を準備しながらそんなことまで言いのける。なんと、は俺のことが嫌いではないという。嘘だろ。俺はさらに焦った。
「おっ、俺じゃなかったら、の嫌いなものって……?」
マイペースかつ細かいことは気にしないが嫌いなものとは。そいつは俺以上に彼女に多大なるストレスを与えているということだ。なんだろう。想像もつかない。一体どんな強敵なんだそれは。というかそもそも生き物なのか?
はおたまを片手にううん、と考える。夕食の支度をしている手を止めさせて、俺の質問ごときにこんなにも考えさせてしまい、だんだん申し訳なくなってくる。やっぱり自分で解決するべきだった。こんなんだから俺は年齢とともに思考力と判断力が低下する一方なんだ。を幸せにするどころか迷惑になってどうする。馬鹿か俺は。ああ、やっぱり市役所から離婚届をもらってくるしか――
「あっ」
俺が負のスパイラルに陥っている最中で、が突然声を上げた。
「独歩くん。うちの廊下の電球が切れているの、知ってましたか」
「え……? いや、初耳だけど……」
「リビングと玄関の明かりがあるので多少は明るいんですが、電球が切れているのを忘れて、反射的にスイッチを付けてしまうこと、あるじゃないですか」
「う、うん。まあ……」
「なので、付ける時に、『あー、またやっちゃった』という自責の念とともに、やり場のないストレスが増えるわけです」
「ストレス……」
「替えの電球は買ってあるんですが、私の身長だと椅子に乗っても届かなくて」
「ストレス……」
「でも、明かりがなくてもなんとかなるので、独歩くんがお休みの日にでも交換をお願いしようと思って――」
が言い終わる前に、俺は廊下を滑走した。
目標物である電球の下に椅子を持ってくる。廊下の隅にあったビニール袋の中に新品の電球があったので、猛スピードで取り替え作業をしたら、それは一分弱で終了した。こんなもの、パワポで何十枚の資料を作るよりも、頭の硬い取引先の機嫌を伺うよりも、遥かに容易い仕事だった。
リビングに戻ると、ちょうどがお茶を注いでいるところだった。俺がよろよろと再びテーブルの前に座って、「電球……替えて、きた」と半ば息切れ気味に言えば、は目を丸くして、ふっと笑んだ。
「ありがとう。独歩くん」
……指先から、砂になっていく気がした。
たかだか、電球を替えただけだ。なのにこんな……こんないとも簡単に、に感謝されていいはずがない。途方もない幸せが、俺の胸の内から溢れていいはずがない。
――ちがう。こんなのはの幸せじゃない。俺は心の中でそう断言した。なにより、俺がこんなにも幸せになってどうする。
さっきの続きも含めて、俺がに物申そうとすると、「お礼に、特製のじゃがもちを二個入れちゃいます」と言って、取り分けられた小皿の中に、はそれを投入した。あ、これ、俺の好きなやつだ。二人でつついた鍋は、ミシェラン五つ星も謙遜ないほど美味しかった。
身も心も十分温まった。なのに、どうしてだろう。やはり、どこか満たされない。どうやら俺は、俺自身が不幸になることで、に幸せになってほしいみたいだった。しかし、は俺が好きだというのだから、八方塞がりだった。
なんで、は俺と一緒にいるんだろう。ほんとうに、俺のことはなんとも思っていないのだろうか。愛すべき人でさえこんなにも疑ってしまうなんて、俺は史上最低な男だ。そんなことを考えていたら、と囲んだ食卓が今日も涙で霞んでしまった。
