Episode.2
「好きです。私と、お付き合いして頂けませんか」
「えっ……。あの、その……えっと、ど、どちら様……ですか……?」
驚くことなかれ。これが、と最初に交わした会話である。
俺と出会った頃のは、俺の職場と同じビルのオフィスに勤務している会社員だった。ストライプの黒スーツをぴしっと着こなし、ビルのエントランスを歩いていた仕事終わりの俺に、冒頭のような大告白をかましたのだった。
失礼ながら、その時の俺は真っ先に詐欺を疑った。だってそうだろう。話したこともなければ、顔も名前も知らない女性の愛の告白を受ける覚えなんてないのだから。しかし、狂気の十四連勤明けのせいで、彼女から逃げる言葉を探すどころか、その場から立ち去ることもできずにいた俺は、意味不明かつしどろもどろな物言いしかできなかった。
これはまずい。早々にカモにされる。焦った俺を知ってか知らずか、はっとした顔をした彼女は、鞄から小さなメモ用紙を取り出してさらさらと何かを書き始めた。
「私の、連絡先です。おひまな時にでも、連絡ください」そう言いながら、彼女は書き終えた紙をぺりっと破り、俺の手のひらに押し付ける形で置いた。深々とお辞儀をした後、俺にくるりと背を向ける彼女。遠ざかる小さな背中。そして、その場に取り残された俺。この数分で頭に注ぎ込まれた情報量が多すぎて、しばらくの間は息の仕方を忘れていた。ビルの警備員のおじさんに肩を叩かれてようやく我に返ったからよかったものの、あまりにも現実味の帯びないやり取りだったので、ビルを出てから家の玄関をくぐるまで、俺はずっと夢心地だった。狐に化かされたと言っても過言じゃない。
その足で家に帰って、一二三に事のあらすじをつらつらと話すと、「えッ!? マジで!? よかったじゃん!! これで晴れて独歩もカノピげっちゅかあ~っ!!」と、近所迷惑になる一歩手前の声量で一二三は声高らかに歓声を上げた。お前、俺の話聞いてなかっただろ。今の話のどこから恋人ができた流れになった。
俺はそんな反応を求めていたわけじゃない。あの女性は明らかに怪しいしおかしい。話した相手を間違えたと思って、今度は先生に相談してみた。最初からこうすればよかった。
期待通り、先生は口元に薄ら笑みを乗せてこう言った。「もしも、独歩君の負担にならなければ、なぜ自分に好意を抱いているのかその子に聞いてみたらいいんじゃないかな」加えて、安全だと判断しない限りは会うのは控えた方がいい、とも。さすがは先生。脳みそが小学生クオリティーの一二三とは大違いだ。
しかし、真意を確かめるためだとしても、彼女と連絡を取る度胸は俺にはなかった。もらったメモも気持ち悪くて、その日のうちにゴミ箱へ捨ててしまった。捨てる直前、俺は初めて紙に書かれている文字をまともに見た。電話番号と彼女の名前。急いで書いていたからか、ひどくぶれたような筆跡だったのを覚えている。
そもそも、だ。見も知らぬ女性と関わること自体、俺の胃にかかる負担は尋常じゃない。あの時、自分を知っている人間が誰もいなくてよかった。職場の人間に見られでもしたら、また社内で変な噂を立てられて会社に居づらくなる。正直いい迷惑だ。頭痛の原因が一つ増えてしまったらどうしてくれる。
「物好きな女性だよな……」
俺は、他人に好かれるような人間じゃないのに。
彼女と再会したのは、あの告白を受けてからひと月くらい経った頃。仕事終わりのエレベーターの中だった。一階に降りる最中で止まり、ドアが開いて、彼女をこの目に映した瞬間、俺の疲労しきった精神がヒステリックな悲鳴を上げた。
ふつうならば、連絡先を書いたメモを渡したのにも関わらず、一切連絡のない人間と顔を合わすなんて、気まずいことこの上ない。俺ならそう思う。そして、エレベーターから急いで降りて階段まで猛ダッシュするだろう。俺ならそうする。しかし、俺の想像に反して、数秒後には密室になるエレベーターに平然と乗り込んだ彼女を見て、俺は白い旗を上げたくなった。嘘だろマジかよ。この子のメンタル化け物かよ。
閉まるドア、動き出すエレベーター、二人きりの空間――彼女は無言でドアの一点を見つめている。この状況、結構やばいんじゃないか。連絡しなかったことを根に持って、一階に着くまでに刃物で刺されたりするんじゃないか。俺は気が気じゃなかった。あれだけ一二三のストーカー事件を他人事のように思ってきたのに、いざその対象が自分となると、まさかこれほどの恐怖を覚えるなんて思わなかった。ごめん一二三。家に帰ったら改めて労わせてくれ。無傷かつトラウマなしで帰れたらの話だけど。
早く下に着いてくれ頼む。もう冬だというのに、俺は大量に汗を掻きながら悶々と念じる。階数表示のモニターを睨んでも、その速度は恨めしいくらい一定だ。こういう時に限って誰も乗ってないし誰も乗り込んでこないので、俺はやはり神様に見放された人間なんだと思う。たとえ刺されたとしても、急所さえ外れていれば即死はないよな。刺さりどころが悪くても、すぐに救急車を呼べば間一髪で助かる可能性もあるよな。うちの会社、入院期間って有給とれるんだっけ。いや、通常勤務でもめったに取れない、もはや都市伝説と化した制度だ。望みは限りなくゼロに近い。
――一階です。機械的なアナウンスが流れ、ようやくエレベーターのドアがゆっくりと開く。よかった。これで解放される。そう思いきや、なんと、ドアばかりを見ていた彼女が後ろにいる俺をぐるんっと振り返り、大股で二歩ほど距離を縮めたではないか。
「ひぃッ……!!」
動物の鳴き声のような悲鳴を上げ、俺は涙目で冷たい壁に背中をついた。それでもなお、俺に近づく彼女が連続殺人犯並みに怖かった。待ってくれ、やめてくれ、俺が悪かったから。すみませんすみませんすみません。メモを捨ててしまってすみません。お金でもなんでも差し上げるのでどうかこの命だけは――
「おつかれさまです」
……へ?
ぽつん、と。たったそれだけを言い残して、彼女は初めて会った時のように深々とお辞儀をして、エレベーターを降りていった。
口から気の抜けた息が漏れる。再び閉まるドアを見送り、行き先ボタンを押してくださいというアナウンスが流れ始めて、俺はようやくずるずると床に尻もちをついた。そして、胸やお腹に手を這わせる。刺されて、ない。何もなかった――いや、あったが、一言、おつかれさまと、言われただけだ。あまりの想定外な展開に、俺は思わず全身をまさぐって、自覚してないだけでどこかしら外傷があるんじゃないかと必死で探した。
ちなみに、そのことも一二三に報告したら、「俺っちと先生以外の誰かにお疲れって言われるの初めてじゃね!? よかったじゃん独歩~っ!!」と返される始末だった。分かった。俺が悪かった。年中脳内花畑のお前にはもう何も話さん。
その日以降、彼女とは今日のように月に三回ほど顔を合わせるようになった。顔を合わせるといっても、世間話すらしない。彼女がすることといえば、「おつかれさまです」という言葉とともに添えられるお辞儀だけ。俺がどれだけ身構えていても、お茶運びロボットのように一つの言動を反復するだけだった。告白された事実がなければ、たまにエレベーターで居合わせる社会人同士でしかない。なんだこれ。刺されるとか、騙されるとか、俺の自意識過剰だったのか。そんなことが続いたおかげで、ほんの少し……ほんの少しだけ、たとえ彼女のことをビル内で遠目から目撃しても、全身が力むことはなくなっていた。
良くも悪くも、これ以上の進展がないので、あの告白は夢だったのか、と思っていた矢先――ついに、六度目の再会で事件は起きた。
あの日も、毎度恒例のようにエレベーター内で偶然出会った。まるで打ち合わせしたかのように、下の階に着くと彼女がボタンを押しながらドアを押さえ、俺が彼女に軽く会釈をしてエントランスに出る。気がついたら、それが一連のやり取りとなっていて、今日もそんな感じで何事もなく終わる予定だった。
「あの、」
「ひえッ……!」
俺の次に彼女がエレベーターを降りて、ビルの外に出た後。凍てつく空気が肌を刺す冬空の下、彼女が声をかけてきたのだ。俺の素っ頓狂な声をかき消すように、彼女はパンプスをやや大きく鳴らしてこちらに近づいてきた。
なんで、今さら、こんな……。もう、何もないんじゃないのか。あの告白は夢だったんだろう。なあ、だって、そうでもしなきゃ、俺が、こんなドラマみたいなことを経験するはず――いや、とにかく、今は……そうだ、なにか、言わなければ。
沈黙が怖い。しかし、今日も八連勤目かつ残業時間は法定限界値をゆうに上回っているおかげで、頭は錆びついたように回らない。焦れば焦るほど思考回路が狭まっていく。脳内でどこか使えそうな場所を探すが、疲労のため営業終了という張り紙とともにシャッターがぴしゃんと閉まっていた。おい、誰が休んでいいって言った。体はまだ働いてるんだぞ。おい起きろ。頼むから起きてくれ。
酒でも浴びせられたかのように視界が回り、口の中が粘り気のないさらさらとした唾液で溢れてくる。まるでジェットコースターにでも乗っている気分だ。あ、これ、本格的にまずい。今年の夏、外回り中に熱中症で倒れた直前の感覚と似ていた。たしか、あの時も今みたいに走馬灯が脳裏でちらついていたな。社会人なりたての頃、期待と希望に満ち溢れた顔で仕事に励むも、果てのない業務と粘着質な人間関係に徐々に体を蝕まれ、今のような生きた亡霊の成れの果てになる自分の姿になるまでの映像が秒速で駆け巡って――
「先日は、申し訳ございませんでした」
「……は、はい?」
間抜けな声が出た。霧が晴れたように走馬灯が消え、一気に現実に戻された俺。視界に映る彼女は、膝小僧に額が付くんじゃないかというくらい頭を垂れていた。
「あんなことを急に言われて、不審がられるのも、無理はありません。先月お渡ししたメモも……破棄してもらって構いませんので」
もう二度と話しかけない、とも言われた気がする。フリーズして再起動をかけた俺が口を開く前に、彼女は早々に背を向けて、早足気味でこの場を去っていく。まだ、思考は起動中。指先すらまともに動きやしない。だから、俺は理解の追いつかないまま、その小さな背中から目を離せずにいた。
――彼女が、目の前で転ぶまでは。
「えッ」
ビチャン! 体の肉がコンクリートに叩きつけられた音がひどく生々しく、俺はぐっと眉を顰めた。彼女の片方のパンプスは地面に転がり、鞄も数メートル先まで滑っている。道行く人に一瞥される中、バンビのようによろりと起き上がろうとする彼女を見ているだけで痛々しくて、弱々しくて、健気で――どうしても、放っておけなかった。
……覚醒。ようやく、俺の足が動く。もたつきながらも彼女の元へ駆け寄り、俺は中身までぶちまけた彼女の鞄と小物類をせっせと拾い集めた。
「あ、あの……だいじょうぶ、で、す――」
か、の音は消えた。今でも、彼女のあんな顔を見たのはこれきりだった。
さっきまで季節外れの風鈴の音が聞こえそうなくらい涼しい顔をしていたのに、彼女の顔は一瞬で大雨にでも降られたのかと思うくらい、ぐっしょりと濡れていた。透明な液体が涙か鼻水か分からないくらい、それはもう豪快に。おまけに、転んだ拍子で手や足からは複数の擦り傷、ストッキングも伝線まみれ。見るに堪えない姿とはまさにこのことだった。なのに、彼女は泣き声一つ上げず、大粒の涙をぼろぼろと流し続けていた。
ほんとうに、その時の俺は疲れていた。まずは何かしらかける言葉があっただろうに、怪我人イコール介抱という等式が頭の中で成り立った俺は、真っ先に近くのドラッグストアまで行って、消毒液と絆創膏、そして替えのストッキングを買い、彼女の元に戻った。
彼女も彼女でおかしいもので、待っていてくださいとも、何か買ってきますとも言っていないのに、通行人の邪魔にならないところの、ビル前の階段の隅にちょこんと座っていた。
「あ……」
目が、合う。街灯の光に反射した彼女の瞳はかなり充血していた。人の往来でがやがやと騒がしいはずの通りは、その時だけ、彼女が鼻をすする音と、俺がたてるビニール袋の音しか聞こえなかった。
おそるおそる、彼女の前で片膝を立てる。ああ、みっともない。膝が微かに笑っている。どうか気づかれませんように。そう心の中で祈りながら、俺はビニール袋の中身を次々に手に取った。
「ぁ、え、と……色々、買ってきたんで、とりあえずこれで応急処置を――あ、でも、嫌ですよね、こんな……男の俺なんかが手当するなんて……。でも、あの……手、痛そうですし……使え、ませんよね。あ、じゃあせめて手だけでも俺が……って、言い方、気持ち悪いか……。すみません、ほんとすみません……。こんな緊急時にも優柔不断で……いや、冗談抜きでほんと……災害時にも俺だけ出遅れて、真っ先に死ぬんじゃないかって最近思っ――」
――ふ、
かすかに、高い音が聞こえた。ビニール袋のそれにかき消されるくらいの、小さな声だった。見上げると、新たに一筋の涙を流した、彼女の顔があった。
……わらって、いる。彼女はわらっていた。口角を微かに上げ、目を細め、頬がまるく上がっていたのだ。あんなにも無表情だったのに。あんなにも無感動な声をしていたのに。ん、ふふ、ふふっ。抑えきれなくなった彼女の笑い声が、俺の鼓膜にじわじわと溶けていく。
こんな大怪我をしているのに、どうして笑えるのか。俺がぶつぶつと独り言を言っているのがそんなに滑稽だったのか。そんな考えが浮かぶ中で、どうしてか、いやどれも違うな、と思って、投げ捨てる。だって、これは、今まで俺をあざけ笑い、見下げてきた人間がしていた顔じゃない。彼らと当てはまるパーツが一つもない。
唖然として、俺はその表情に見入った。相変わらず涙は流しているのに、俺はハンカチを渡そうともせず、彼女も傷の手当を始めようとせず、ただただ、お互いがお互いだけを意識の底に沈めていた。
「……私、織原といいます」
――それ以降の記憶は一切ない。そこからと一緒に帰ったのか、それともそこで別れたのか。ならばどうやって連絡を取り合うようになったのか、さらに言うならば初デートはどちらから誘ったかとか……一緒に住み始める前の記憶がひどくおぼろげだった。人からとの馴れ初めを尋ねられても、曖昧に言葉を濁すのはそのためだ。それくらい、彼女との出会いは衝撃的で、運命的で、今でもたまに白昼夢を見ているんじゃないかと思う。
ただ、一つだけ言えることがある。エレベーター内でたまに出会うのことが怖くて、本当に関わりたくないなら、俺は迷うことなく階段を使うはずだ。いつもの俺ならそうするはずだ。でも、最後までそうしなかったのは、乗っているエレベーターが途中の階で止まるのを、俺は心のどこかで期待していたんじゃないのか。を介抱したあの時からじゃない……俺は、一目見た時からに惹かれていたんだ。他人から、どうせ吊り橋効果だろう、と馬鹿にされても言われてもこの際構わなかった。
もしも、今のにそのことを話したら、は、もう一度、あの時ようにわらってくれるだろうか。今度は泣きながらではなくて、きれいで、まぶしくて、あたたかい無償の愛を、人間としてどうしようもない俺に、捧げてくれるだろうか。の笑顔を見るためなら、俺はどんなに惨たらしい社会の中でも立っていられる気がした。
