Episode.1
喉奥が冷たくなるくらい大きく深呼吸をする。自宅のドアの前でこんな挙動不審な行動をしているのも、仕事で打ちのめされたこの体に本日最後の鞭を打ったからだ。
今日こそは――そう、今日こそは、なにがなんでも堪えるとここに誓う。何者でもない俺の妻に誓う。ハゲ散らかした上司に小言を吐かれようと、こちらが下手に出ていれば図に乗る顧客らに下げた頭を鼻でせせら笑われようと、砂漠の真ん中で生まれたオアシスのような彼女の元へ笑顔で帰ってくるのだと。毎日のように日付を超えて帰宅し、涙まみれの顔で玄関をくぐる俺自身に嫌気がさして、先日ついに決心したのだ。
まず、世界のどこに泣いて帰ってくる夫をハンドタオルと保冷剤を片手に出迎える妻がいるというのか。運動部のマネージャーじゃないんだぞ。未来永劫、そんな妻はきっと彼女だけだ。そしてそんな駄目な夫も世界中に俺だけだ。そうは言いつつ、彼女の好意はとても有難いと思っている。その配慮のおかげで、蜂にでも刺されたような腫れぼったい顔を回避して、俺は翌日の外回りに行けているのだから。その代わりに、夫としての威厳はその日で息絶えてしまったので、手放しでは喜べないというのが素直な感想だった。
「……よし」
脆弱な根性を荒縄でぐっと縛り、仕上げに両頬を手のひらでパチンと叩いた。痛い。しかしこれでいい。退勤打刻をした俺は、もう営業課の観音坂じゃない。彼女の夫、観音坂独歩だ。今の俺の肩書きに恥じないような帰宅作法を華麗にしてみせる。やるんだ俺。たかだか勤務時間の十分の一……ここで決めてみせろ。なんのために彼女とひとつ屋根の下で生活してると思ってるんだ。少なくとも、彼女に情けない顔を見せるためではないはずだ。
「たっ、ただいま……!」
いつもおそるおそる開けるドアも、今日は少し勢いをつけてみた。声のトーンは暗くなかっただろうか。語尾を上げて、かなり明るくしたつもりだったんだが。
しかし、こういう変わったことをするときに限って、玄関に彼女の姿がない。その代わり、夕ご飯の香りが正面からぶわっと飛び込んでくる。香ばしい油の匂い……どうやら、今日は揚げ物のようだ。匂いを嗅いだだけで、空っぽのお腹が早く満たされたいと言わんばかりに口の中に唾液を溢れさせる。
一二三と同居していた頃もそうだが、帰宅してすぐに夕飯にありつける環境が当たり前になっていて、俺のような平社員にはもったいない待遇だ、と忍びない気持ちになる。おまけに、彼女は毎度美味しいご飯を作るものだから、俺は毎日舌を巻く始末だった。
一日くらい、家事なんてサボってもいいのに――以前、何かの記念日だったかと冷や汗を掻くくらい、テーブルにいくつも並べられたご馳走を見たある日に、俺はネクタイを外しながらそんなことをぽろりと零した。独り言のつもりだったが、彼女の耳は俺の虚言を拾ってしまったらしい。そして、彼女は首を横に振った。それはだめです、と。
普段、否定の言葉をめったに使わない彼女がそう言うのだから、俺は口を閉ざすしかなかった。面倒じゃないのか、とか。負担になってないのか、とか。聞きたいことはたくさんあったのに。それでも――そう思っているに違いないと自分で分かっているくせに――の口から改めて言われるのが、俺は恐ろしかった。そっか、と。その時はそう呟いて、結局その日はテーブルに出された夕飯の四割も食べられず、残りは彼女の朝食と俺の昼の弁当になった。次の日から、夕飯の品数は少しだけ減った。
俺さえいなければ、彼女はこんなにも気を遣って生活することなんてないはずだ。逆の立場だったら、俺はこんな日常からとっくに逃げ出している。ああ、どうしてはこんな俺なんかと――
「(いやいやいや。しっかりしろ俺)」
突として我に返る。危ない。さっそく自爆するところだった。ぶんぶんと首を振って、地獄へ引きずりおろそうとする悪魔の囁きを振り払う。そして、再び深呼吸。……よし、大丈夫だ。俺ならできる。終わったことでいつまでもくよくよするな。俺が駄目な夫なのは今に始まったことじゃないのだから。
ふッ、と鋭く息を吐いて、穏やかな暖色灯が漏れるリビングの引き戸を横にスライドしようとする。しかし、それよりも早く、控えめな速度でするすると目の前の戸が横に流れていった。
「おかえりなさい。独歩くん」
一言。可愛いに尽きる。
開いた戸が生んだ小さな隙間から、が片目を覗かせている。日光の下では栗色に透けるその瞳は、めったに陰ることはない。ただ、こんな俺をいつもまっすぐ映してくれる、とても綺麗な目をしている。異世界から輸入してきた宝石と言われても納得できるくらいには。
不意打ちを食らい、胸からぎゅんっと沸き起こった熱に逆上せそうになった。俺は喉の奥まで出かかった嗚咽をぐっと堪え、ついでに、緩んだ涙腺もきゅっと締める。気合を入れた甲斐があったというものだ。
「お出迎え、遅れてすみません。油を構っていたので、ちょっと手が離せなくて」
引き戸を全開にしながらは言う。俺にスーツを脱ぐように促して、おまけに鞄まで持ってくれる。そのまま流れるような所作で、さあさあとリビングに迎えられた。尽くされることに慣れていない俺は、鞄を渡す動作さえまだぎこちない。スーツを渡すときなんて、すみません、と下げそうになる頭を、天井から一本の糸で吊されているイメージでぐっと耐えている。
とりあえず、十六時間ぶりに見るの顔を見て号泣しない、という第一難関は突破した。身が軽くなった俺はネクタイを緩めて、リビングのクッションにぼすんともたれかかる。全身の骨が一息ついたのが分かった。
ぐぐ、と背伸びをして凝り固まった筋肉をほぐしながら、クローゼットの前で俺のスーツをハンガーにかけているの姿をぼーっと眺める。俺がかけると肩のところがすぐずれ落ちてしまうのに、どうしてかがかけるとハンガーの形に沿ってスーツが綺麗な形のままクローゼットに収まる。不思議だ。
「先にご飯にしますか」
「え……。あ、う、うん。、夕飯は――」
「まだです。実は、今日は少し寄り道をしていたので準備が遅れまして。あとは盛り付けるだけなので、もう少しだけ待っててもらっていいですか」
「おっ、俺も手伝おうか!」
「いえ、お気になさらず。独歩くんは休んでいてください。すぐにできます」
……まあ、俺が手伝ったところで何の皿に何を乗せればいいのか分からないから、の邪魔になるだけか。
我ながら自分の無能さに泣けてくる。キッチンに移動したがせかせかと働いているのを見て、彼女の言葉に甘えた俺は恍惚としたため息を漏らす。可愛い。あまり見ていると、夕飯の催促をしているように思われるかもしれないのでほどほどにしておいたが。のエプロン姿を眺めているだけでお茶碗一杯の白米を食べたのと同じエネルギーが貰えるので、ぜひともゆっくり準備していてほしい。
ふと、目の前のローテーブルに正方形の箱があることに気がつく。その隣には小さな文字がびっしり埋まった紙――何かの説明書だろうか――が広げてあって、うちでまったく見覚えのないものだったので、俺は首を傾げた。
「、これは?」
「よくぞ聞いてくれました独歩くん」
箱を持ち上げてに尋ねると、彼女はキッチンから生き生きとした声をこちらに向かって弾ませた。盛り付けが終わったらしいは、足早に寝室へ向かい、何かを背に隠しながらリビングへ戻ってきた。こんなにも目に見えて上機嫌なを見るのは久しぶりだった。
ちょこん、とが俺の前に正座する。それに習って、なんとなく俺も膝を畳んで同じ体制をとってみた。なんだか前にもこんなことあったな。あ、初夜か。邪な思考になる一歩手前で、の薄い唇がそっと開いた。
「今日、スーパーで食料品を買ったついでに、福引をしたんです」
「福引……?」
「三千円以上買うと一回できるみたいだったので、チャレンジしてみました」
「へえ……」
「私は二等の温泉旅行ペアチケットを狙っていたんですが、当たったのは惜しくも三等の商品券七千円分でした」
「えっ。いや、三等でもすごいじゃないか」
「そうかな。ありがとうございます」
一瞬砕けた口調にまたしても心臓が抉られる。発作のように胸を抑えると、「独歩くん?」とが俺の顔を覗き込んだ。俺は咄嗟に、「な、なんでもない」とに話の続きを促す。の尊さに心臓が破裂しそうだったなんてどんな顔で言えばいいのか。
「ということで、その商品券で買ったのがこちら」
「ちゃっちゃらー」と自分で効果音を付ける。普段から感情の起伏は控えめだが、彼女は意外とお茶目だ。そこが堪らなく良い。が自身の顔を隠すように見せてきたのは、最近、電機屋の店頭でちょこちょこ見るようになったものだ。
平丸型のフォルムの中に穴が四つ空いている。表面の中央部分には三つボタンがあって、それぞれのモードが選べるようになっているらしい。「最近流行りのハンドマッサージ器です」と、がひょいっとそれをずらして微かに顔を覗かせる。可愛い。正直ハンドマッサージ機よりの顔に目がいく。ずぐん、とまたしても涙腺崩壊ゲージが溜まった。
「……手、疲れてるのか?」
「いえ、私はそこまで」
「じゃあなんで……」
「独歩くんにいいかなと思いまして」
なんで。思わず、体がぴしりと硬直する。そんなことを知らずに、は過去の記憶を探るように斜め上を向きながら、ぽつぽつと話し始めた。
「ほら、昨日……一昨日だったかな。上司に字が汚いって言われたって、言っていたじゃないですか」
「まあ……言った、かも」
「それで、独歩くんも自分は字が汚いのかって落ち込んでいたじゃないですか」
「うん……」
「そこでこの子の出番です」
どこでその子の出番なのだろう。の思考に追いつこうと、俺はぱちぱちと瞬きをした。
「独歩くんの字はとても綺麗です。婚姻届に書いてくれた独歩くんの達筆な字を、私は今でも覚えています」
「いや、それはできれば忘れてほしいんだけど……」
「それは難しいお願いですが、なるだけ善処します」
「まあとにかく、独歩くんがそうやって言われたのも、きっと手がお疲れなのではと」はそう付け足して、ハンドマッサージ機をペットのように大事そうに撫でている。機械のくせに羨ましい限りだ。
要するに、だ。が言った“寄り道”の時間も、せっかく当たった商品券も、俺の為に消費してくれたというわけで。が当てたのだから、の好きなものを買えばいいのに。こればかりは、俺は何も間違っていないはずだ。のこういうところがなんというか、いつも仕事で打ちのめされた俺をさらに駄目にしている気がする。
「(いやいや、俺の低能さをのせいにするなよ)」
だめだ。今、口を開いたらいつもの発作が始まってしまいそうだ。我慢しろ。が作ってくれたご飯を食べて、が沸かした風呂に入って、が干してくれた布団に入るまで我慢しろ。せめて、が寝静まったころにひっそりと起きてトイレに篭って一人で泣け。
こういう時は、なんて言うのが正解だろうか。“俺よりもが使ったらいい”? 駄目だ。これでは、せっかくのの親切を無下にしてしまう。“ありがたく使わせてもらう”? なんかだいぶ上から目線なような気がする。
職場のように、目に見える上下関係があれば楽なのにと、どうしようもないことを思う。残念ながらは俺よりも歳下だし、元部下でもなんでもない。謝ることしかできない俺は、“俺なんかのために貴重な商品券を使わせてしまって申し訳ございませんでした”という言葉が模範解答に思えてしまう。そろそろ頭がヒートしそうだ。
そんなこんなで、もう何分間無言を貫いたか分からない。反応がない俺を見かねたが俺の顔色を伺っている最中、頭上に豆電球を灯したようにはっとした表情でこう言った。
「今ならオプションで、蒸しタオル製アイマスクとオールハンドの自己流肩甲骨マッサージが付いてきます」
どうだー、と言わんばかりに両腕を広げる。平坦な声色はどこか誇らしげで、俺の面目を潰さないように言葉を選んでくれているのが分かる。さらに、こんな身に余る奉仕までしてくれるという。
罵倒に慣れてしまったこの精神に、愛やら親切はもはや猛毒。なんで、こんな、この子は……ほんとうに、もう……いろいろ、だめだ。
「……ぅ゙」
ぶちん。あれだけ苦労して築き上げた我慢と決意の山があっけなく崩落する。俺は堪らなくなって、の小さい体にしがみついた。は拒むどころか、その細い腕を俺の情けない背中に回してくれる。三十路近いおっさんが二十代半ば女性に抱きつく絵はさぞかし視界の暴力だろう。きっと、今の光景を会社の誰かに見られようものなら、変態かつみっともないと蔑まされるんだろう。
ああ、もういい。すべてがどうでもいい。の体に触れられるのならば、この擦り切った精神を生贄に捧げてでもこの温もりを死守してやる。
一方で、俺の良心がそっと囁く。こんなことだめだ。離れろ。の前で弱音を吐かないって散々誓っただろ。そんなだから俺はいつまで経っても名ばかりの夫なんだ。内なる俺が、俺自身を袋叩きするように貶す。そう言われても、この腕は力の緩め方を忘れてしまったし、もいつの間にか俺の背中をあやすようにさすって――
「ゔッ、ゔゔぅ゙ぅッッ……!!」
「泣くほど喜んでくれてなによりです」
違うんだ。俺はほんとうに今日こそはって誓ってたんだ。何が悲しくて家に帰って早々泣きじゃくり、妻であるに慰めてもらっているのか。俺しか得しない。ばかりが損をする。俺のせいで、の負担が増していく。は俺の母親でも家政婦でもないのに、俺はいつまでも彼女の存在に甘えている。結婚当初、自分が思い描いていた小さな未来予想図がいつの間にか涙に濡れて見えなくなっていた。
「もういやだもう限界だっ……!! はこんな俺なんか放っておいて俺よりももっと良い人を見つけて幸せな家庭を築くべきなんだ……ッ!! は料理も上手だし聞き上手だし俺なんかが縛っていい人間じゃないんだッ……! 俺なんかに目を付けられて、は不憫だ不幸だかわいそうだっ……!! 俺のせいではいつまで経っても幸せになれないッ! 仕事ばかりで旅行だって遊びにだって連れて行ってやれない……っ! 今だってこうやって――ッ!」
俺の心の内をにぶちまける。昨日か一昨日かに言ったこともリピートして言いまくる。それでも、俺を包みあげる手のひらは優しいばかりだし、俺を責める言葉は一つも降ってこない。は、俺の口から吐き出される負の塊を一心にして受け止めてくれていた。
喉が枯れて、汚い嗚咽を繰り返すだけになった俺の頭を、はゆるゆると撫でてくれている。ほんと……幼児か俺は。泣き疲れて、頭がぼーっとする。顔も、きっと誰かに殴られた後のようにひどい有様だろう。明日が休みでよかった。
そこで、がさり気なくすす、とティッシュを床に滑らせてくれたので、俺は俯きながらもこのぐちゃぐちゃになった顔面を拭くことができた。出来すぎた配慮にまた視界が歪んだ。
「今日も一日お疲れ様でした」
「……。俺は……っ、おれは……っ」
「生きているだけでおおむね成功って、毎日超全力投球のゆるキャラが言ってました」
ああ、の好きなやつか。ちーくんだったかちーちゃんだったか、着ぐるみを着たままでかなりアクロバティックな動きをするあのマスコット。を喜ばせることができるなんて、俺よりも有能じゃないか。来世はのためだけに生きるゆるキャラになりたい。
顔をずぶ濡れにした涙を一通り拭いて、俺はようやく顔を上げることができた。さっそく俺と目が合ったは、微かに首を傾げてこう尋ねた。
「ところで独歩くん。不幸せかっこ他称である私が幸せになる第一歩として、一緒にご飯とか食べてみませんか」
今日のおかずは鶏の唐揚げです。揚げたてざっくざく、もちろんビールもひえひえです。部位はももと皮と軟骨と――指を折りながら、鶏の部位を次々に挙げていく。は唐揚げが大好きだし、お腹も減っているだろうに、こんな夜遅くまで待っていてくれる。さっきは寄り道をしていたからと言っていたが、きっと俺が気を遣わないようにわざと作るのを遅くしたのかもしれない。なのに、は不機嫌どころかご機嫌な様子で、鼻歌なんかも歌ったりしている。不満も不平も言わないし態度にも出さないに、またしてもかなしみがこぼれ落ちた。
「……たべる」
ようやく出た声は、笑ってしまうくらい掠れていた。それでも、は俺のことを馬鹿にせず、待ってました、と言わんばかりにすくっと立ち上がる。配膳を開始する前に、キッチンで注いでくれたコップ一杯の水をローテーブルに置いて。お礼を言いたかったが今の俺にはそんな余裕はなく、の温もりが名残り惜しくて、内なる世界に身を浸している始末だった。
情けない。かっこ悪い。消えてなくなりたい。仕事で疲弊しきった自分を慰めてもらうために、俺はと一緒になったわけじゃない。俺は彼女を幸せにしたかったし、そんな幸せそうな彼女を隣で見ていたかった。なのにこんな……俺ばかりが救われる生活なんて、想像範囲外もいいところだ。
自分の幸せなんて、今はとてもじゃないが願えない。願ってはいけない。叶えてはならない。それよりもまず、のことを幸せにしなければ、罪悪感で押しつぶされそうだった。
の幸福論を唱える俺の存在が、のためにと奮闘する明日以降の俺の首を確実に締め上げている。が俺のために用意してくれた水。きっと、彼女の善意の味しかしない、ただの水だ。一口飲んで、乾いた喉に流し込む。それは、氷も入っていないのにひどく冷たくて、またしてもの存在に満たされてしまった自分の喉元をぐっと締め上げたくなった。
