不思議がしあわせを連れてくる



 晴天続きの青い空、遠くの民家から聞こえる風鈴の音、あちこちから飛んでくるセミの大合唱──学生が夏休みに突入した今日この頃。自分もこの時期はサマーフェスの準備で大忙しだ。ほんとうなら、アイスが常備してある自分の家で曲を作ったり、冷房のきいたリハ室でバンドメンバーとライブの練習に励んだりするところだけど、ここ数日はそんな日々から遠ざかっていた。
 ──え? 遠ざかってどこにいるのか、って?

「十四おッせーよッ!! もっと本気出して走れや!!」

 テレビの中のアナウンサーさんが言っていた本日の最高気温は三十七度前後──自分は今、そんな炎天下の中でお寺の周りをランニングしています。自分でも意味わかんないっす。

「も~~嫌っすッ! 今日はもうなんッにもしたくないっすッ!!」

 そう叫んで、自分は道のど真ん中にしゃがみこんだ。コンクリートが近くなってさらに体感温度が上がるけど、こうでもしないと数メートル先にいる空却さんは立ち止まってくれないと思った。首に伝う汗も、服のせいで蒸れる肌も、自分の耐久心もとっくに我慢の限界だった。
 すると、鬼もとい空却さんは、「あ゙ぁ!?」と声を荒らげる。案の定猛ダッシュでこちらまで近づいてきて、もしも停止位置を誤れば自分ごと蹴っ飛ばされそうな勢いだ。それでも自分はその場から一ミリも動かない。“これ以上外にいたら熱中症になっちゃうよ!” というアマンダの忠告をしっかり守るっす。
 そうして、自分の目の前までやって来た空却さん。ゴゴゴ、という音が聞こえてきそうな強い眼差しで見下ろされた自分は負けじと声を張った。

「こんな炎天下でお寺の周り十周なんて頭おかしいっすよッ!」
「まだ二周ぽっちしかやってねーだろッ! つか今日なんざまだ涼しい方だろーがッ!」
「ぜんぜん涼しくないっす! 空却さんの体感温度がおかしいんすよっ!」
「ならその腕に付けとるやつ外しやがれ!! 見てるだけで暑苦しいわッ!」
「あっ、アームカバーはぜえったいに外せないっす! 最近日焼け止め塗ってもなんでかお肌焼けちゃうんすよぉ~ッ!」

 そう言うと、空却さんからまた平手打ちが飛んでくる。「い゙だい゙ぃぃ~っ!」叫べば叫ぶだけ、泣けば泣くだけ体の温度は上がっていく。首元に冷感タオル、頭の上にキャップを被ってもまったく効果がない。

「うぅっ……。もういやっす……。一歩も動けないっす……。エアコンがきいた部屋で毛布かぶりながらアイスが食べたいっす……」
「なんだそれ。暑ィのか寒ィのかどっちかにしろや」

 空却さんの言葉を聞き流してえぐえぐとべそをかいていると、はあ、と深い溜息が落ちてくる。空却さんだって汗だくだし、顔も火照ってるのにどうして平気なんだろう。同じ人間とはとても思えないっす……。
 すると、さすがの空却さんも諦めてくれたのか、「おら、さっさと立ちやがれ。自販機で好きなジュース奢ってやる」と言ってくれた。と同時に、ジュースを飲んだらまた走るぞ、とも言われているようだったけど、このまま走るよりもまだマシだ。ぱあっと顔をほころばせた自分はすくっと立ち上がった。

 近くにあった自販機の前に着くと、空却さんは作務衣から小銭入れを取り出す。小銭が見にくかったのか、一度だけ小銭入れを振ると、そこからバウンドした小銭がチャリン、と地面に落ちてしまった。
 「空却さん、お金落ちたっすよ」そう言って自分が落ちたものを拾い上げると、あれ? と首を傾げる。大きさは百円玉と同じくらいだけど、よくよく見れば裏も表も何も柄の書かれていない。まっさらな無地のシルバーコインだった。
 「おう、悪ぃな」空却さんは自分からコインを受け取ると、小銭入れに入れた。入れる前に、ほんの少し懐かしむように細めた目でコインを見つめていたのを自分は見逃さなかった。

「そのコイン、お守りかなにかっすか?」
「いや別に。スーパーかどっかのドライアイスの機械にコイン入れるだろ。あれだ」
「えッ! もしかして盗んできちゃったんすか!? 空却さんそれ泥棒っすよ!」
「ちげーよッ。んなことよりとっととジュース選べ!」

 ごんッ、と自販機を叩いた空却さんに急かされて、自分は慌ててボタンを押す。がこんッ、と落ちてきた午後ティーを取り出すと、空却さんはお寺に続く石畳の階段をじっと見つめていた。まるで、あの場所に踏み入れる誰かを待ってるみたいに。
 「空却さんもなにか飲むっすか?」「あ? ……あぁ、そーだな」と遅めに返事があって、少し迷った空却さんはレモン水のボタンを押した。てっきりコーラかドデカビンかと思ってたので、かなり意外なチョイスだ。
 空却さんは落ちてきたペットボトルを拾い上げて、すぐにふたを開ける。一口飲んで口を離すと、「うっす」とだけ感想を漏らす。自分で選んだのになんだかおかしいっす。そのままレモン水をぐびぐびと飲み干した空却さんは、柔らかいタイプのペットボトルを雑巾のようにパキパキッと小さく絞り、隣のゴミ箱に捨てた。

「空却さん。さっきのコイン、スーパーに返した方がいいんじゃないっすか?」
「だから盗んでねーよ。貰いもんだ」

 どうしてもさっきのコインのことが気になって、思わず話を続けてしまった。もらいもの、と空却さんが言ったので、「だれからなんすか?」と尋ねると、「昔、寺に来たやつ」と短く答えた。

「檀家さんとかっすか?」
「いや。他所の寺のお庫裏」
「オクリ……?」
「坊さんのかみさんのことをそう呼ぶんだよ」

 「へえ~っ」と自分は声を漏らす。仏教……というか、お寺で使う言葉は独特で面白いなあと思っていたけど、まさかお坊さんの奥さんにも別の呼び方があるなんて驚きだ。

「そのおくりさん? って人と仲よかったんすね~」
「仲良いっつーか……まあ、ふつーに話はしたが」
「ちなみに、その人はなにしに来たんすか?」
「盆前の準備とか、盆中の接待とか……まあ色々だ」
「色々って具体的にどんなことしたんすか?」
「具体的にって言われても、んなすぐにぱっと出てこねえ──って」

 急に言葉を止めた空却さんは、自分のことをじっとりとした目で見つめた。

「お前……拙僧に昔話させて修行の時間後伸ばしにさせようって魂胆だろ」
「そっ、そんなことないっすよ! 自分もそのおくりさんの話聞きたいんでっ!」

 半分本音、もう半分は空却さんの言う通りだ。だって、こうでもしなきゃ日中のランニングは避けられそうにないから。肉体や精神を鍛えても、自分の命が減っちゃったら元も子もないっす。
 ねっ、ねっ、と空却さんをしつこく誘うと、空却さんは不服そうな顔をしながらも、「……とりあえずうちに戻んぞ」と言って、空厳寺の方へ足を伸ばしてくれた。やったっす! そんな言葉を飲みこんで、ほっと胸を撫で下ろした自分は軽い足取りで空却さんの後についていった。







「はぁい。おわったよ~」

 店主の声とともに首元のケープを外された空却。バーバーチェアからぴょんと飛び降りて、鏡の前にいる自分をじっと見つめた。
 一段と短くなった赤い髪──風通しの良くなったうなじをさすさすと撫でると、数十分前まで汗でうなじに張り付いていた髪は綺麗さっぱりなくなっていた。

「やっと首んとこすっきりしたわ。あんがとな!」

 満足気ににかっと笑った空却は店主に礼を言って、とたたっとカウンターに向かう。もちろん、カウンターに置かれているアメ玉ボックスからアメを取るのも忘れない。
 はさみを仕舞い終えた店主がぽてぽてとゆっくりカウンターへと歩いてくる。そのあいだに、空却は首からぶら下げている財布からお札を二枚抜き取った。

「くーちゃん、今日はいちだんとご機嫌だねえ」
「おう! なんてったって、今日からなつやすみだかんな」
「あらそお~。今日からお休みなのねえ」

 よかったねえ、と笑った店主は、空却から渡されたお金をひい、ふう、と数える。「あめちゃんもらってきゃあね」「もうもらった!」そんな会話をしながら、空却はジュース一本分買えるくらいのおつりを握らされた。

「もうすぐお盆に入るから、空厳寺さんも忙しくなるねえ」
「まーな。ねこの手もかりてーとこだ」
「それじゃあ、次にくーちゃんに会えるのは秋かねえ」

 まあ、髪が伸びるのもそのくらいだろうと思った空却は、「そーだな」と返事をした。
 それを聞いて少しだけ寂しげに微笑んだ店主は、主人が亡くなってからこの広い家で一人で暮らしている。この家を訪ねる者といえば、近所の人間か、エサを求めに家の路地へ屯う猫……そして、今の空却のように住居と隣接するこの理容室で髪を切りに来る客くらいだろう。

「もしも近くまで来たら、ちょっと顔出してくれたらうれしいわあ。猫ちゃんたちも喜ぶし、アイスもあるでね」
「おう!」
「あとね、こまめにお水は飲んどきゃあね。今年はとくに暑いってテレビで言っとったで」
「わぁーったって。カヨばあもねっちゅーしょーでたおれんじゃねーぞ」

 そう言って、空却は重たいドアを両手でぐっと開ける。わざわざ外に出て店前まで見送ってくれたカヨに向かって、空却はぶんぶんと手を振った。



 灼熱地獄のような日中の名古屋を駆けていく。本日は今夏の最高気温だそうだ。熱気のせいか、コンクリートから湯気が上っているようにじわじわと視界が揺れて、地面もどこか歪んでいるように見えた。
 こんなクソあつい日でも、なんかしら言いつけられるんだろーな。空厳寺に帰れば灼空の小間使いになることが目に見えていた空却は、少し寄り道をすることにした。こんな日は、通り道にある自販機でジュースの一本でも買わなければやっていられない。どうせ雑用をやらないで叱られるのなら、手持ちのおつりを使ってジュースを買ってもげんこつの数は変わらないだろうと思った。

 さて、空厳寺に続く石畳の階段……その近くにある自販機で、空却が飲みたいジュースを熱心に吟味しているところだった。

「(……なんだ?)」

 ふと目を凝らせば、階段の前でぼーっと突っ立っている女がいた。道にでも迷ったのかと、空却はしばらく女の様子を窺っていたが、彼女は階段を上るわけでもなく、かといってそこから立ち去るわけでもなく……ただ置物のように地面に垂直に立っている。こんな暑さの中でも微動だにしないものだから、足はあんな、と空却は彼女の足元を確認してしまった。
 ジュースか謎の女か──考えた末に、空却は自販機に入れるはずだった小銭を財布に戻して、女の元へととたたッ、と駆け寄った。

「おいおまえっ」

 声をかけると、冷水を頭から被せられたように体をびくッ、と跳ねさせた女。見た目二十代半ばくらいに見える彼女は、きょろきょろと周りを見回した後、ようやく目線の下にいる空却の存在に気がついた。

「うちになんか用か。かいだんがきちぃなら、うらに回ればのぼり坂があんぞ」

 そう言って、空却は寺の裏手を指差すが、女はうんともすんとも言わない。その代わり、この世のものではないようなものを見るような目でじいっとこちらを見下ろしている。
 「おいきいてんのかッ」この暑さで頭が馬鹿になってしまったのかと思って、空却は強めに言い放す。すると、女はようやくその薄い唇をゆっくり開いた。

「……くーちゃん?」

 震える声で、女はそう呟く。こいつ、なんでおれのことしってんだ? 空却は訝しげに眉をひそめるが、「……おう。そうだが」と素直に答える。知人に“くーちゃん”と呼ばれることがたびたびあるので、嘘は言っていない。しかし、空却は女と初対面だ。人の顔と名前はすぐに覚える方だが、彼女のことは檀家の集まりでも見たことがなかった。
 すると、女はかなり狼狽えたような顔をして、改めて周りをきょろきょろと見回す。このあたり見まわしたってなんもねーぞ。そう思ったが、只事ではなさそうな女の雰囲気に呑まれてしまって、空却がそれをわざわざ口に出すことはなかった。
 ……どれくらいそうしていただろう。特に会話もなく、女の挙動ばかりを見ていた空却だったが、だんだんと顔から血の気が失せていく女を見て、とりあえずうちつれてくか、と思った。すると、女もまた不安そうに指を交差させたのち、縋るような声でこう言った。

「あの……住職さま、いらっしゃるかな……?」







 客間に女を通すと、しばらくしてから灼空が部屋に入っていくのを見た。それから空却がこうして忍び足で客間の前まで歩いてきて、また数分が経過する頃だ。
 空却は立ち聞きという野暮な真似はしない。ただ、盆に乗せて持ってきた二人分の冷茶を渡すタイミングをこっそりと窺っているだけである。

「俄には信じられんが、しかし──」

 襖越しに聞こえてくる声はひどく断続的で、空却もいまいち要領が掴めない。灼空の声色も何やら驚いたような、かと思えば困ったようなもので、普段から山の上にある大岩のようにどんと構えている彼にしては珍しい反応だった。
 ……まーいいか。二人の間に長すぎる沈黙が流れたところで、空却は肘で襖を開ける。灼空と女が同時にこちらを見るなり、空却は無遠慮に客間の敷居を跨いだ。

「空却。お客人の前だぞ。入る前に一声かけんか」
「茶ぁもってきてやったのになんだよその言いかたは」
「ありがとうくーちゃん」

 ほら、女のほうがわかってんじゃねーか。灼空に向かってふん、と鼻を鳴らした空却は、二人の傍に冷茶を置く。置いた拍子に、中に入れた氷がからんっ、と崩れて、湯呑みの表面に付いた水滴がつー、と流れ落ちた。

「とくにおまえ。ながいこと外にいただろ。ちゃんとのんどけよ。おかわりもあっからな」
「うん。ありがとうねえ」

 再度礼を言って、糸が解けたようにゆるっと笑った女。外にいた時よりも顔色は良くなったように思う。よしよし、と心配事が一つ消えた空却は、次に灼空と向かい合った。

「こいつ、おやじの知りあいか?」

 そう言うと、隣にいた女がぴしりと固まったように思えたが、空却は灼空から目を逸らさない。
 すると、なにやら一考していた灼空は溜息をついた後、ほとんど口を開けずにこう言った。

「……他所の寺の、お庫裏さんだ」
「おくりぃ? これからクソいそがしくなるってのに寺あけていーのかよ」

 今度は女に尋ねる。しかし彼女は、「うん……。あんまりよくないね……」と苦笑いを零すだけだ。よくねーならはなれるなよ。坊さんこまるだろーが。そう言いたかったが、空却の頭上から灼空の言葉が被さった。

「この時期の人手不足はどこのお寺も同じだ。うちも例外ではない。予定では、八月いっぱいはうちで住み込みでお手伝いしてくださるそうだから、仲良くするのだぞ」
「は? まじかよ」

 うちに女がすむなんざ、おふくろがホトケさんになっていらいだ──しかし、空却の中にある疑問は未だ消えない。階段の前で彼女を見た時は来訪者という風には見えなかった。上手く言えないが、女自身も想定外な事象というのか……地図を見て目的地に来たはずが、まったく違う場所にたどり着いてしまったような……そう、迷子がするような表情によく似ていた。
 ……なーんかあやしいな。おやじもなんかかくしてやがる。唐突すぎる話を聞いてさっそく不審に思う空却だったが、それをも許さないように灼空は言葉を続けた。

「空却。どうせ今から裏山に行こうとしていただろう。寺の案内がてら、うちのことを一通り教えてあげなさい。幸い、宗派は同じのようだからな」
「はあーっ!? めんどくせーからいや──」
「駄賃はやる」
「しかたねーなあっ!」

 嬉々として立ち上がった空却は「おらさっさといくぞっ」と女の服を引っ張る。女は戸惑いながらも立ち上がり、彼女が灼空の方を見たときに、彼は何も言わずに一つ頷いた。
 なんだ? と不思議に思う空却だが、女をぐいぐいと引っ張る力は緩めない。すると、「あっ、ありがとうございます……っ」となぜか部屋を出る前になぜか礼を言った女は、あとは空却のされるがままにとたとたっ、と歩き出した。


 空厳寺は広い。境内のすべてを案内しようとすると半日はかかる。それでも空却は、本堂から蔵の場所まで女にこと細かく説明した。八月中寺を手伝うというのなら、何がどこにあるか、きっちり教えなければならないからだ。他所から来たお庫裏のせいで、空厳寺の檀家や近所の人間に迷惑がかかるのは避けたいのである。決して駄賃の上乗せ目当てではない。

 ──日が暮れて、そろそろ夕方のおつとめが始まる頃。最後に女が寝泊まりする離れに向かう最中で、空却は自分の後ろをついて回る女を振り返った。

「おい」

 女とはぱちっとすぐに目が合った。「なあに?」とほんの少し首を傾げた彼女は、微笑みながら両膝を軽く折った。
 なんだよ、ガキあつかいしやがって。少しだけ目線が近くなった女に対してむっとした空却は、自身の体を大きく見せるようにぐっと胸を張った。

「うちに来たからには、よそのやつでもカンケーねーぞ。きっちり働いてもらうからかくごしろよ」
「はあい」
「あと、ここじゃあおまえよりもおれのほうがえらいからな。おれの言うことちゃんときくんだぞ」

 空却は女を脅すように言うと、「うん。わかったよ~」と緩い答えが返ってくる。ほんとにわかってんのかこいつ。それともおれのことバカにしてんのか。くそう、こどもだからってなめやがって。空却は悔しそうに唇をぎゅっと結んだ。

「つか、おまえなにができんだ」
「なにがって……?」
「おまえんとこの寺でなにしてたかってきいてんだよ」

 ぽかん、と薄く口を開いていた女はおもむろに宙を見上げて、「ごはん作ったり、お掃除したり、電話の当番したり、それから……」とできることを指折り数えていく。その内容を最後まで聞いても雑用や庶務のようなものばかりで、今の空却ができることとほとんど変わりなかった。

「おまえは盆まわりいかねーの」
「お勉強で一緒に行かせてもらうことはあるんだけど、お経もまだ読めんから、今住職さまとくーちゃんについて行ってもお荷物になっちゃうんじゃないかなぁ」
「ふーん。じゃあ、一日じゅう寺にいんのか」
「そういうことになるねえ」

 「詳しいことは、住職さまとお話しして決めておくね」と女はにこやかに言う。空却と同じ仕事量、そして一日中寺にいる──おまけにやけに従順そうな彼女を見て、空却はしめしめと思う。上手くやれば自分の小間使いのように扱えるのではないか、と。となれば、今年の夏は比較的楽できそうだ。
 ──あ。そういや、

「おまえ、名まえは?」

 灼空にも女の名前までは紹介されていなかったことに気づいた空却。初対面の相手に当たり前のことを尋ねたと思ったが、女は喉に何かつっかえたような顔になって、「えっと、その……」とどもってしまった。
 ……やっぱワケありか? それも名のれねーくらいの。空却は眉をぐっと寄せて考える。先ほどの灼空の態度もおかしかったことも含めると、辻褄はまあまあ合う。
 人生の迷い子がやって来る──それが寺だ。名前が呼べないのは不便といえば不便だが、かなり言いづらそうにしている彼女に無理やり言わせるのはさすがの空却も気が引ける。よって、名前が分からなくとも寺のことができるのであればいいか、とあっさり割り切った。

「言いたくなきゃあべつにいいわ」
「いいの……?」
「おう。そのかわり、おれが呼んだらちゃんとこいよ」

 空却の答えが意外だったのだろう。女は目をまん丸にさせたが、すぐに「うんっ」とにこやかに頷く。よし、と満足した空却は自分の胸を親指でとん、と指差した。

「おれははらいくうこうだ」
「うん。はらいくうこうくん」

 女は嬉しそうに名前を復唱する。そして、「くーちゃん、よろしくねえ」とまた笑った。
 ……そういや、こいつなんでおれの名まえしって──まぁ、それもいーか。ここいらじゃいちばんでけえ寺だし。よその寺におれの顔がわれててもふしぎじゃねーな。
 少し有名人になった気分になった空却は、軽い足取りで再び歩き出す。後ろからとたとたとついてくる女の足音が少しだけむず痒くなりながら。
 こうして、空却が小学生になった最初の夏──突如現れた彼女と過ごす夏休みが幕を開けたのだった。







 女が来た日の翌朝──とはいえ、寺の翌朝とは世間一般の深夜を意味する。物心着く前から今の生活が当たり前になっている空却は、真夜中の途中にある寺の中を歩いていた。

「おはようくーちゃん……」
「おはよ」

 離れに続いている廊下からとぼとぼと歩いてきたのは、ひどく眠たそうにしている女。挨拶を交わすなり、立ちながら目を閉じようとする彼女に、「おいおきろっ」と空却は喝を入れた。

「おまえ、朝よえーの」
「よわいねえ……。お寺に嫁ぐ前はお昼まで寝とったから……」

 それはねすぎだろ。ふわぁ、とあくびを漏らす女に、「さっさと顔あらってこいよ」と呆れながら言った。
 うん、と曖昧に返事をした女の背中を見送りながら、空却ははて、と思う。

「(顔あらうばしょ、おしえたっけか)」

 しかし、女の歩いていく方向は間違いなく洗面所。大方、昨日風呂に入る時にでも確認したのだろう。空却はさほど気に留めずに、廊下の先をぺたぺたと歩いていった。


 身支度を整えた女は黒い作務衣に身に纏っていた。灼空が昨日のうちに出しておいたのかもしれない。作務衣に着られているというのか、なんというのか……あんまにあわねーな、というのが空却の第一印象だった。
 成人女性よりも幾分か小さい彼女だが、空却の頭は彼女の腰の位置にある。それでも空却はぐん、と背筋を伸ばして、女に向かって声を飛ばす。おい、だからひざ曲げんな。

「朝課のまえにやることがある」
「やること?」

 首を傾げる女に、空却はにやりと笑う。灼空にやっておけと言われたのは自分だが、それはあえて伏せておく。一人でやった、と言った時の彼の顔がとても見ものだ。

「やることってなあに?」
「水まきだ!」
「水撒き?」

 いわゆる地面に水を撒いて、その気化熱で涼しくなるというあれだ。本来ならば朝課が終わった早朝にやるのだが、二度寝の時間を長く確保するために今終わらせてしまおうという魂胆である。まだ日は出ていないので、早々に水が蒸発することもないだろう。
 お庫裏ならば水撒きくらいはしたことがあるだろう。そして、それは日が出ている時にするものだと分かっているだろう。案の定、女は不思議そうな顔をしたが、空却の考えも知らない彼女は、「うん。分かったよ~」と素直に応じた。ふん、ちょれーなこいつ。空却は密かに鼻で笑った。


 空却は納屋からホースをがらがらと引きずってきて、ホースの先端を蛇口に差した後にハンドルを捻る。あとは女に持ち手部分を預ければ空却の仕事は終わりだ。
 「おわったら本堂までこいよー」「はあい」そんな会話を交わして、空却はくわっとあくびをする。さーてもうひとねむりすっか、と伸びをしたところだった。

「つめた~い。きもちい~」

 ん? と空却は振り返る。すると、女が自身の足元にホースの先端を当てているではないか。草履どころかふくらはぎまでばしゃばしゃと水で濡らしている彼女を見て眠気が飛んでいった空却はたたッ、と駆け寄った。

「おいあそんでんじゃねーよっ」
「くーちゃんもする?」
「やだね。おやじに見つかったらおれがげんこつ食らうだろーが。それよりじめんに水まけって──」
「住職さま、今朝は朝ごはん当番だから近くにおらんよ~」

 そーいやそーだった。空却は女の濡れた足と少し熱を帯びている自分の足を見比べる。女の言葉に誘惑された空却はしばらく迷って、「……そんなに言うならやってやろうじゃねーか」と呟いた時だった。

「ッ、つめてえッ!?」
「ね~っ」
「“ね~っ”じゃねえ! かけるならかけるって言いやがれッ!」

 そうこうしているうちに、女は空却の足に水をかけていく。遠慮なく、それでいて丁寧に。空却が逃げても、ホースの水はこちらに一直線に届く。空却が履いているサンダルはとっくに濡れており、空却は短パンの裾をギリギリまでめくってホースから放たれる水から逃げ続けた。

 水を吸った地面は色濃くなっていく。空却が逃げるところへ必然的に水は撒かれ、あっというまに水撒きは完了した。空却は何もしていないというのに疲労感が凄まじい。一方、女はとても涼しそうな顔をしている。これではどちらが仕事をしたか分からない。

「おまえ……っ、いがいと、やるなっ……」

 ぜえ、はあ、と息切れしている空却を見て、女はホースを片付け始めながらこう言った。

「副住職さまに教えてもらったの。こういうお仕事にもあそびがないとだめなんだって」

 ……それおまえ、だまされてねーか。ただ単にその副住職が不真面目なだけかと思ったが、副住職の言葉を信じきっている女に何か言うのもはばかられた。
 それに、空却もまた彼の言葉に一理あると思っていた。おれもこれからそうしてみっか。

 さて、水撒きは終わったが、そのあとの水遊びに二人で夢中になって、朝課に遅刻しそうになった。本堂の前で灼空が仁王立ちで待っていた中、「寝坊してしまったわたしをくーちゃんが起こしにきてくれたんです」と女が申し訳なさそうに言った。
 灼空が朝課の準備をしている間に、空却は女と共に人数分の座布団を並べていく。おまえのせいでおこられるところだったじゃねーか──作業中に空却がじっとりとした視線を女に向けると、彼女はにっこりと笑った。そうじゃねーよ。







 夏休みといえど、学校に行かなければならない日は時々ある。午前中にプール遊泳がある日は、近所のラジオ体操を終えたらすぐ、空却は登校の準備を始めるのだ。
 ぴかぴかと光沢感のあるプールバッグを持った空却は玄関にてサンダルを履く。プールが終わってからの予定を頭の中で組み立てながら、口元から零れる喜びを隠しきれない。午後の仏具磨きや納屋の整理は女に頼んであるので、帰り道にいくらでも道草ができるのだ。さて、今日はなにして遊ぼうか──

「あっ、くーちゃん。ちょっと待っとって」

 あ? 現実に戻ってきた空却がくるりと振り返ると、エプロン姿の女が玄関までやってきていた。たしか、朝食当番の一人が体調不良になってしまったそうで、女が代わりに台所に立っていたらしい。とはいえ、今朝もいつもと同じく、修行僧が食している粥と沢庵と味の薄い汁物だけだったのだが。
 さて、プールバッグの横にそれよりも小さなトートバッグを置いた女はいつものようににっこり笑っている。空却が知る彼女は、出会った時を除いていつも笑顔だ。その表情にも見慣れつつあった空却は、自分の手元に置かれたものをじっと見つめた。

「なんだこれ」
「お弁当だよ」
「べんとう?」

 うん、と女は頷いて、「お昼すぎまで学校にいるって聞いたから、お腹すくかなぁって思って」と言った。言うまでもないが、実際プールがあるのは午前中だけ。女には午後過ぎまで学校があるとしか伝えていないため、彼女がそう言うのも当たり前だ。
 思わず、う、と言葉が詰まる空却。善意しかない笑顔に、空却の心にひとつまみ分の罪悪感が芽生える。その感覚を一秒でも長く味わっているのが嫌で、空却はランチバッグを片手に持って素早く立ち上がった。

「いってらっしゃい」

 にこやかに手を振る女を見て、またしても胸にじくりとした痛みを覚えた空却は、「……いってきます」とぼそぼそと言ったのち、引き戸をぴしゃんと閉めた。素直すぎる人間というのも考えものだ。空却は持たされた弁当を大切に両手で抱える。バッグの中に入っていると思われる保冷剤が腕に当たって、学校に着くまでひんやりと気持ちが良かった。


 プールの授業が終わると、同級生の遊びの誘いを断り、空却は誰もいない教室で一人弁当を食べ、数分だけ食休みをした後に学校を飛び出した。決して、弁当が頗る美味しかったからだとか、自分が押し付けた雑用をせっせとこなしている女の顔が過ぎったからだとか、もしもまだ終わっていなかったら手伝ってやらないこともないだとか──元々は自分の仕事なのだが──そんなことを思ったわけではない。今日はなんとなく、遊ぶ気分ではなくなっただけで。

「おかえりなさいくーちゃん」

 ぜえ、はあ、と息を切らした空却が庫裏に上がって台所に顔を覗かせるなり、コンロの掃除をしていた女が空却を出迎えた。そうして時計を一瞥した彼女は、「帰ってくるの早かったねえ」と続ける。なぜそんなに嬉しそうなのかは触れないでおいた。
 「たでーまッ」荒ぶっている息のまま、空却は行きよりも軽くなったランチバッグを机の上にとん、と置いた。

「ごちそーさんっ」
「おそまつさまでした~」
「べんとう、すげーうまかったっ!」
「ほんとっ? よかったあ」

 女は声を跳ねさせて、安心したように両手を合わせた。朝食が朝食だったので、てっきり日の丸弁当かと思いきや、空却の想像を良い意味で裏切ったのだ。
 まず、弁当を二等分にし、白飯とおかずのゾーンに綺麗に分かれていた。白飯の部分はたまごとひき肉の三色そぼろ丼になっており、おかずは今朝食べた沢庵と昨晩に出た切り干し大根──そして、メインはなんといってもプチトマトとともに添えられた小さなハンバーグ。これがまた美味だった。冷めていても美味だった。あとは檀家からの頂き物であろう白桃が小さくカットされていて別のタッパーに入っていた。おかげで、朝から空っぽだった空却の胃は充分に満たされた。
 ボリューム、彩り共に申し分ない。空却が望む食事はああいうものだ。今朝はきっと決められた献立通りに作っただけだったのだろう。分かっている、この女は育ち盛りの男児が求めているものをすべて分かっている。
 空却はにやにやとしながら女を見上げる。灼空に知られたら説教されるであろうそれについて、女はしぃ、と言わんばかりに人差し指を立てた。

「住職さまには内緒だよ?」

 案の定だ。話の分かる女で助かる。「おうっ!」と空却が元気よく返事をすると、女はランチバッグから弁当箱を取り出す。しかし、何を思ったのか、彼女の視線は再び空却の方へ下げられた。

「そういえばくーちゃん、ずっとはあはあ言っとるね……?」

 突然、自分の前にしゃがみこんだ女と目線が同じになる。不意打ちで至近距離になった彼女の目の奥に閉じ込められた空却は、思わず息を止めた。

「もしかして、走って帰ってきてくれたの?」

 不思議そうな……それでいて心配そうな表情を浮かべている女は、ゆっくりと目を細めながら、空却に向かって手を伸ばす。そんな彼女から距離を取りたかったのに、空却の体はなぜかその時だけ言うことをきかなかった。
 汗で額にぺっとり張り付いた前髪が、女の指先によって優しく避けられる。額全体が外気に触れてすうすうとし始めたと同時に、髪の生え際から再びじんわりと汗が滲むのを感じた。口から息を吸うのも躊躇してしまい、空却は鼻から窮屈そうに呼吸をする。そのおかげで、熱が体の中に閉じ込められてしまって、とても苦しかった。

「学校おつかれさま。することがあったらわたしが全部やっておくから、くーちゃんはゆっくり休みゃあね」

 そんなことを露ほども知らずに労いの言葉をかける女は、空却のこめかみから伝う汗を指で拭う。その眼差しが綿のように柔らかくて、見ているだけで干したての布団が全身を覆うように心地が良くなった。
 それなのに……その眼差しから目を逸らしたい。それでいて指も振り払いたいのに、なぜだかもったいないと感じる。自分のことなのにも関わらず、自分が今なにがしたいのかてんで分からなかった。
 どくん、どくん、どくん──走ってきて高鳴る心臓が煩い。首から上が徐々に火照っていき、頭の中なんかはぐるぐると渦を巻いている。喉までのぼってきそうになる心臓を生唾ごと飲み込むと、途端に、ずぐん、と腹の底がひどく重たくなった。
 なんだこれ。なんだ、これ──

「──ただいま」
「あっ。住職さま、おかえりなさい」

 突然聞こえてきた灼空の声に、ぐわんっと我に返ってきた空却。女は何事もなかったように立ち上がって、灼空をにこやかに出迎えた。彼女から解放された空却は、ようやく水面に上がってきたようにぶはあっ、と口から息を吐き出した。ようやくまともに息が吸えた気がする。
 そして、目をかっ開いて見れば、ちょうど袈裟姿の灼空が机の上に弁当の包みを置いているところだった。おれよりもべんとう箱がでけえ──いつもならむっとするところだが、今はそれどころではない。

「お弁当ありがとう。とても美味しかったよ」
「お口に合ってよかったです~」

 女が朗らかに返事をすると、灼空がもう一つの包みの存在に気がついた。

「ん? この包みはなにかな」
「げッ」
「あ、それは──」

 本来作らなくていいものだった弁当のことを灼空に知られてしまえば、学校が午前中までということがバレてしまう。そして午後の仕事を彼女に押し付けていたことも、今までやらせていた掃除のことも芋づる式にバレて、げんこつはもちろん写経の課題が増えるのは必須だ。まだ何もされていないのに、空却の頭のてっぺんがすでにギリギリと痛みだした。
 すると、下を向いていた女と目が合う。その間、三秒も満たないものだったが、彼女はいつもの笑顔を浮かべる。それを見た瞬間、空却は自身の体が彼女の手で掬いあげられたようにふわっと軽くなった気がした。

「空却くんのお弁当です」
「空却の? 空却の学校は午前中だけだが」
「わたしが間違えて作ってしまったんです。それで、空却くんがもったいないからって持っていってくれて」

 女の思いもよらぬ言葉を聞いてぎょっとした顔をした空却だったが、灼空を見上げている女の目には一切映らなかった。
 すると、灼空が静かにこちらを見下ろした後、はあぁ、と小さく、それでいて深く息をつく。その反応が……なんというのか、上手く言えないが、怒鳴られる時よりも、拳を振り下ろされる時よりも、まるで、大きな雷が、空却の頭上に落ちたような──

「……そうか。余計な手間をかけさせてすまなかったね」
「いいえそんな」
「では空却。少し休憩したら午後からのことはやっておくのだぞ」
「あっ、それはわたしが──」

 女の言葉を制すように、空却はエプロンの裾をぐっと引っ張る。それだけで空却は何も言わなかったが、灼空もまた無言で台所から出ていった。一瞬、彼から視線を感じたのは気のせいではないだろう。

「くーちゃん?」

 どうしたの? と言わんばかりの声。残された二人の間に流れるのは、飲み込めば微妙な味のするいやな沈黙だ。
 女は上手く誤魔化せたと思っているのだろう。そして、空却を責めることもなければ、問いただす気配もない。空却のやることなすことをすべて良しとしているのか、そもそも利用されたことに気づいていない馬鹿なのか──そのわりに、今のように空気を読むというのか、こちらの考えを見抜く力に長けているのだから、よく分からない。いや、そんなことよりも──

「くそだせぇ……」
「え?」

 灼空はとっくに気づいていた。そして、呆れられた。みっともない。かっこわるい。女に庇われて、心底ほっとしていた自分が。とてもみじめだ。自分も、自分自身に呆れた。ああくそ、こんなこと、さいしょからしなけりゃよかった。
 「くーちゃん……?」不安げに名前を呼ぶ女に向かって、「なんでもねーよ……」と返す。そうだ。サボるなら、もっと堂々とサボらなければ。もう二度と、女の影に隠れたりなどするものか。明日から、今までの積み上げるはずだった徳を取り戻せるように工夫を凝らそう。それこそ、彼女の仕事を奪う勢いで。おとこってのは、そうやっておんなよりもまえにでて生きるもんだろ。







 女が空厳寺にやって来てから一週間が過ぎた。彼女のことは空却が面倒をみる、というのが寺内で暗黙の了解として決まっており、おかげでニコイチで扱われることが多くなった。空却が寺にいる時はまるで雛鳥のようにとたとたと後ろについて回る女にも慣れてきた。
 灼空が檀家に話したのかは分からないが、彼らも他所から来たお庫裏だということで、彼女のことを知っているようだった。花嫁修行ならぬお庫裏修行──一時はよからぬ誤解が生まれるのではないかと危惧したが、幸いにも、「空ちゃん、可愛いお姉ちゃんができてよかったねえ」と微笑ましく言われるだけで終わっている。年齢よりも女が幼く見えるからだろう。だれがこいつのおとうとだ。

「今日は二人で裏庭の掃除をしてもらう」
「へーへー」
「分かりました」

 今日も今日とて修行(という名の家のお手伝い)が始まる。めんどくせぇ、と思っている横できちんと返事をする女。おまえなんでおやじの前ではそんなにはきはきしてんだよ。おれの前ではわたがしみてーにふにゃふにゃしてんのに。
 歳の差か、それとも貫禄の差か──どちらにしろ、それを下に見られていると思った空却は女を置いて一人歩き出す。そして、お約束のようにとたたっ、と後ろから駆け足でついてくる足音を聴いて、彼はさらに足を早めたのだった。


 秋の裏庭は落ち葉で悲惨なことになっているが、夏になるとそうでもない。檀家や近所に住んでいる男性陣がボランティアですでに草を刈ってくれており、あとは刈られた草を大きなビニール袋に詰めていくだけだった。
 とはいえ、頭上から降りかかる太陽は容赦がない。いつのまにか二人分の帽子、水筒、タオルを用意していた女が、「三十分に一回は休憩しようね」と笑顔で言った。そう言っている彼女だが、このあいだサウナのように蒸し暑い小さな堂の掃除をしていた時に軽く熱中症になっていたので、まるで説得力がない。おれがしっかりしねーと。空却は心の中でそう思った。

「わあ。いっぱいあるねえ」
「これ、日ぃくれてもおわんねーぞ……」
「徳がたくさん積めるねえ」

 ポジティブかよ。もはや地面が見えないほど刈られた雑草で覆い尽くされた裏庭を見て、空却は溜息をつく。そんな中でものほほんとしている女とともに、掃除道具が仕舞ってある蔵に移動した。
 掃除の必需品である竹箒──時々、檀家の子らが手伝いで掃除をしてくれるので、中には柄が短いものもある。女は大人用と子供用を一本ずつ手に取って、「はい、くーちゃん」と当たり前のように短い方を空却に寄こした。むむむっ。空却は途端に顔をしかめた。

「そっちよこせ」
「え?」

 そっち、と空却が指したのは柄の長い竹箒。すると、女は空却と竹箒を見比べて首を捻り、子供用の竹箒をこれみよがしに掲げた。

「ちっちゃいのもあるよ?」
「でけえのでいーんだよッ」

 こいつわざわざ口にだして言いやがった……っ! 空却は半ば強引に女の手から大人用の竹箒を奪い取り、裏庭へ駆け出した。すると、「くーちゃんっ。お掃除の前に帽子被らんとっ」と言いながら、後を追ってくる女は柄の短い竹箒を持っている。ふん、そっちはおまえの方がおにあいだ。

「おれはこっちからはいてくから、おまえはあっちからな」
「はあい」

 帽子を被り、首元にタオルを巻いた空却(決して女の言うとおりにしたわけではない)は、こっち、あっちと指を指しながら女に指示をする。時々彼女のことをうっとうしいと思ってしまうが、空却の言うことには気持ち悪いくらい素直に従うので、心の底からは憎めずにいる。
 てこてこと歩いて空却から距離をとっていく女の背中に向かって、あいつめ、と心の中で悪態をつきながら、空却は大きく腕を振って竹箒をわしゃわしゃと動かす。なんとなく……ほんとうになんとなく女の方をちらりと見れば、彼女は足元に寄ってきた猫に手を伸ばしていた。ぴき、と空却のこめかみに血管が浮く。おいさっそくあそんでんじゃねえ。


 お互いに裏庭の端から攻めていくので、いつか女と交差する時がある。ひたすら腕を動かして刈られた草を一箇所に集めること数十分──女と話せる距離くらいにまでなったところで、彼女がじいーっとこちらを見下ろしていることに気がついた。にこにこにこにこ。なにやら嫌な予感がする。

「……なんだよ」
「くーちゃん、ちっちゃくてかわいいなあって思って」

 ぷっちーん
 こんなにも綺麗に堪忍袋の緒が切れるのも珍しい。聞き捨てならない言葉に目くじらをきッ、と立てた空却は、頭数個分ほど身長が違う女に向かってわっと怒鳴った。

「おまえさっきからおれのことバカにしてんだろッ!」
「ば、ばかになんてしとらんよっ。ただ小さくてかわいいなぁって──」
「おなじだわッ!!」

 一度ならず二度までも。平均よりも背が低いのは事実だからまだいいとして、可愛いとはなんだ。おれはおとこだぞ。檀家や近所の人間にも言われたことがないわけではないのだが、なぜだろう、彼女に言われるのは我慢ならなかった。
 「ごめんねくーちゃん……」とようやく反省の色を見せた女だが、空却はつーん、と無視をする。しかし、くーちゃん、くーちゃん、と親猫を呼ぶ子猫のように何度も名前を紡ぐ女にすぐに絆されてしまった空却は、彼女の方にちろっと視線を向けた。

「……おとこはかっこいいって言われたほうがいいって、お釈迦さんがうまれたときからきまってんだぞ」
「そうかなぁ……?」

 そーだっつの。おなさけで口はきいてやったぞ、と言うように、再びぷいっとそっぽを向いた空却は草の塊の前にしゃがみこむ。大きなちりとりを両手で持って、土手に追い込んだ雑草をががッ、とブルドーザーのように掬い上げた。あ、そーいやビニールぶくろもってきてねーわ。
 そう思った空却が、女に袋を持ってくるように言おうとした時だ。何を思ったのか、空却の隣に座り込んだ女がこちらをじーっと見つめてくる。なんとなくデジャヴを感じた。
 「……なんだよ」またしても嫌な予感がしつつも、女の視線は無視できない。女は一寸狂わず目の中に空却を閉じ込めており、空却は身動きができなくなる。まただ。しかし、今度は負けじと空却も彼女を見つめ……否、睨み返す。目を逸らした方が負け、と勝手なルールを作って、空却は鋭い眼差しで女を捕らえた。
 ──そして、何十秒か経った頃。不意に、女の目がふっと緩められる。口元もふにゃりと波打って、彼女はいつもの笑顔を浮かべてこう言った。

「……うん。くーちゃんかっこいい」

 蝉にも、草木にも、仏様にも秘密の──空却にだけその言葉が聞こえるように、まろい声色でそっと囁いた女。そして、ちりとりに入った雑草を見てから、「わたし、ビニール袋持ってくるね~」と言って、いったんその場を立ち去った。
 ──心臓にデコピンを食らわされたような衝撃が走った空却は、しばらく呆然としていた。そして、自分の周りがジーッ、ジーッ、と蝉の鳴き声に覆い尽くされ、鼓膜がびりびりと震える感覚でようやく目が覚めた空却。それと同時に、今なら口から火を噴けるほど自分の顔が火照っていることにも気がついた。

「ッ、くッそおおぉぉ~……ッ!!」

 女に勝ち逃げされた事実にむしゃくしゃとした空却は立ち上がる。そして、まだ集められていない雑草がある場所で先ほどよりも速く、乱暴に、竹箒をがしゃがしゃッと動かした。あいつ、じぶんの寺にかえらせる前にぜってえひと泡ふかせてやる……!!







 七月も終わりに差しかかる頃。お盆が近くなってきたので、灼空が寺にいる時間も短くなりつつある。おかげで、寺内で過ごす空却の自由時間も増えるというものだが、いつまで経っても女が「くーちゃん、くーちゃん」と言って後ろをついて回るので、空却も彼女から目が離せない。おれがいないとなにもできねーやつ──そうは言いつつも、呆れる心と同じ大きさの優越感が空却の胸を占めていた。

「くーちゃん、くーちゃん」
「なんだよ」

 今日も今日とて女と二人きり。お昼時になったので何か食べようと台所に足を運んだ。そして、いつものように呼ばれて振り返れば、ふふふ、と意味深な笑みを浮かべている彼女に空却は首を傾げる。だからなんだよ。
 すると、女は唐突に冷蔵庫の奥から真四角型の何かを取り出した。透明のラップがかけられている真っ白のパック……その中で白と薄桃のマーブル模様を描いているそれに、空却の目がきらきらっと瞬いた。

「肉っ!!」
「そうだよ~。お肉だよ~」

 豚肉が入っているパックの端を両手で持っている女は、空却を誘惑するようにそれを左右に揺らす。菜食主義な寺に暮らしている以上、肉はめったにお目にかかれない代物だ。まともな肉類を口に含んだのは一学期最後の給食以来だろうか。そのせいもあって、肉を一目見ただけで空却の口の中でじゅわっと唾液が溢れた。

「おやじは知ってんのか?」
「えへへ……。住職さまには内緒で買っちゃった」
「マジか! おまえなかなかやるなっ!」
「くーちゃん、毎日お掃除頑張っとるから好きなもの食べてほしくて」

 「今からお昼ごはん作るからちょっと待っとってね」エプロンを付けながら、女は台所に立つ。棚から鍋を出す彼女を見て、次にシンクの上に置かれた肉のパックをちらりと一瞥した空却はささっ、と女の真横に立った。

「おれもてつだってやる」

 ぐっとエプロンを引っ張ると、女は鳩が豆鉄砲をくらったような顔をする。しかしすぐににっこりと笑って、「ありがとう」と朗らかに言った。このあいだ、茶を沸かしている最中に指を火傷していた彼女を知っているので、一人にしておけないのである。まったくもって手のかかるやつだ。空却は鼻をふん、と鳴らした。


 作るものはそうめんのようだが、いつも食べるそうめんとはひと味違う。まず、しゃぶしゃぶ用と書かれている豚ロースに片栗粉を満遍なくまぶす。瑞々しい豚肉は粉を纏ってマットな質感になり、片栗粉と肉を揉むようにしていると、粘土で遊んでいるようでだんだんと楽しくなった。
 片栗粉が肉全体にひと通りまぶし終えたら、空却は女の元へ豚肉を持っていく。すると、女は水を沸騰させた鍋の中に豚肉を一枚ずつ丁寧に入れていった。そのあいだにも、隣のコンロで茹でているそうめんをかき混ぜている。やけどすんなよ。
 茹で上がった豚肉は片栗粉のおかげでぷりっとした弾力を帯びており、まるで水晶玉のような光沢感があった。女は湯から下ろした豚肉を氷水で引き締めている間に、大きな丼にしょうゆ、酢、砂糖(他にも何か色々入れていた気がするが忘れた)などを入れてかき混ぜて、タレのようなものを作っている。そして、それを冷やした豚肉と一緒にあえて、同じく氷水で引き締めたそうめんの上に乗せれば──

「うんっめえ~ッ!」

 名付けて、水晶豚の冷そうめん。あとはねぎとしょうがをお好みで。空却はねぎをたっぷりと入れた。
 一口食べただけで、空却はやみつきになった。何束食べてもいつも物足りないと感じるそうめんが、ここまで美味しくなるとは。片栗粉を纏っているおかげで豚肉が舌の上でちゅるんと滑り、その涼やかな食感がかなり新鮮だ。おまけに、酢の酸味と醤油の味が豚肉に染み込んでおり、そうめんと一緒に頬張ればこれがまた格別な味だった。いくらでも食えるぞ──自分の胃袋の容量も忘れて、空却は本気でそう思った。
 一方、「お肉もそうめんもいっぱいあるから、たくさんおかわりしやあね」と言って、空却の目の前でそうめんをちまちまと啜っている女。器にはもちろんそうめんが入っているが、その上に乗っている水晶豚はごく僅かだった。
 自分の器に山盛り乗っている豚肉を見比べた空却は、口の中にあったそうめんをごくんと飲み込む。

「おまえは肉食わねーのか?」
「うん。くーちゃんがぜんぶ食べていいんだよ」

 おまえ、おれにゆずってるわけじゃねえだろーな──そう思って口に出そうとしたが、女がこれまでになく多幸感溢れる眼差しでこちらを見つめてくるので、空却は彼女の視線から逃げるようにしてそうめんに集中した。……べつに、なんともおもってねーし。
 ちりん、ちりん──と、遠くで風鈴の音が聞こえてくる。空却は首のあたりが熱くなるのを感じて、そうめんを口に含むたびにずずッ、ずずッ、とわざとらしく音を立てた。







 また別の日の空却は、女と一緒にスーパーで買い物をしていた。途中、「おかし買ってもいいんだよ?」と何度も言われたが、「かわねーよッ」とキレ気味に断った。ほんとうは買いたかったが、なんとなく彼女に買ってもらうのは抵抗があったのだ。
 さて、レジに並んで会計を済ませた時、「あっ」と女が声を上げる。どうした、と言うように空却が見上げると、やっちゃった、と顔に書いてあるような表情でこちらを下ろしている彼女がいた。

「ドライアイスのコイン、もらうの忘れちゃった」

 空厳寺の近所にあるスーパーには、ドライアイスが出てくる機械が設置されている。冷蔵庫のような形状でスライド式の透明な扉を開けると、その中には大きな円筒形の部品がついていて、その下にマイバックを引っ掛けられるような構造になっている。マイバックを引っ掛けた後は扉を閉めて、外にあるボタンを押せばドライアイスが円筒形の部品から噴出されるという仕組みだ。
 その機械を起動させるにはスーパー側が配布している一枚のコインが必要なのだが、女は店員にもらうのを忘れたと言う。しかたねーな、と空却が思ったところで、女が財布から無地のコインを取り出した。空却の記憶が正しければ、それはまさしくドライアイスで使うコインだ。
 なんだ、ちゃんともらってんじゃねーか。つかなんでさいふにはいってんだ? 空却が疑問に思ったところで、女が挿入口からコインを入れる。しかし、ドライアイスが噴射されるボタンは赤色に点灯することなく、挿入口の下からからんっ、とコインが戻ってきてしまった。
 「やっぱりだめかなぁ……」ぽそりと独り言を言った女だったが、すぐに空却の視線に気がついて、口元に苦笑いを浮かべた。

「昔、ここのスーパーでもらったんだけど、返しそびれちゃって」
「んで、それつかえねーのか」
「みたいだねぇ」
「つかえねーやつもってても意味ねーだろ」

 「うぅん……」小さく唸りながらも、摘んだコインを再び財布の中に戻そうとする女。おそらく、レジが混んでいるからコインを交換してもらうのを迷っているのだろう。
 しかし、ここでうじうじとしていても仕方がない。優柔不断な女を見て溜息をついた空却は、「ん」と彼女に手のひらを見せた。

「返すついでに、あたらしいコインもらってきてやるよ」
「えっ? いいの……?」
「いいから言ってんだよ。はやくよこせ」

 そう言って、空却は女からコインを受け取り、手の中でコインをぎゅっと握りしめてレジの方へ向かう。しかし、今すぐ話しかけられそうな店員はおらず、誰も彼も商品のバーコードを読み取ることに集中している。
 潔く列に並ぼうとしたところ、これがまたどこも長蛇の列で、空却があんぐりと口を開けている間にも列は伸びていく。これでは走って寺まで帰った方が早い気もした。
 ぷつん、と糸が切れた空却は踵を返して女の元へと戻っていく。案の定、といったように優しげな眼差しを向けている女に対して、バツの悪い顔をした空却はぼそぼそと言った。

「どこもクソみてーにこんでやがる……」
「ありがとうくーちゃん。それじゃあ氷だけにしよっか」

 幸い、買ったものは冷凍魚だけなので、急いで帰れば問題ない。マイバックを肩にかけ直した女とともに、空却は出入口付近にある製氷機に向かった。


 外は相変わらずの猛暑だが、人の足は絶えるどころか日に日に増えている。理由は、近日ここ周辺で大規模な祭りが開催されるからだ。
 屋台の準備をしている商店街を横目に、空却は颯爽と寺に帰ろうとする。しかし、その足を引っ張るようにして、女の歩幅はだんだんと短くなる一方だった。
 なんだよ早くこいよ。空却が後ろにいる女を振り返ると、彼女はどこか懐かしむように屋台が並ぶ道を眺めていた。ついにその足が止まりそうになったところで、ずんずんと女に近づいた空却が彼女の作務衣をぐいっと引っ張る。
 はたとした女は、「ごめんねくーちゃん、早く帰らんとね」とまたしても苦く笑う。空却は目を細くして、彼女が見ていた屋台の列を一瞥した。

「まつり、行きてーのか」
「えっ? あ……うん、そうだね、行きたいね。おいしいものいっぱいあるから……」

 食いもんめあてかよ。まあ、分からなくもない。大きな鉄板で焼く焼きそばや、少し古びた電灯に照らされててらてらと輝くフルーツ飴──祭りでなければなかなか味わえないものばかりが並ぶのだから。空却も灼空の目を盗んで参加したいが、盆中の寺に娯楽は許されない。空却は毎年、祭囃子の音を聞いて気分だけ楽しんでいた。

「……時間があったら、少しだけ寄ろうって約束しとったの」

 ふと、女が切なそうに呟く。だれと、と空却が尋ねる前に、彼女は言葉を続けた。

「副住職さまも忙しいし、わたしもお寺のことで覚えることがたくさんあるから、二人で出かける機会も減っちゃって」

 その一言で、女と連れ添っている相手が誰か分かってしまった。一度だけ聞いたことのある存在──名前も顔も知らない、彼女が住んでいる寺の副住職。
 いつも笑顔の絶えない……少なくとも、空却の知る彼女は嬉しそうな表情ばかりで、それ以外の顔はあまり見たことがない。しかし、その副住職は彼女の色々な面を知っているのだろう。と同時に、自分が見ているものは……見せられているものは、彼女のほんの一部だけなのだと知って、なぜか空却の全身に力がこもった。

「……そんなにいきてーなら」

 今、女の周りにその副住職はいない。今、彼女の隣にいるのは──

「こんど、おれが──」
「あっ!」

 突然、女が子供のような声を出す。ぐん、と背伸びをして大衆の向こう側を見ていた彼女は、すぐに満面の笑みで空却を見下ろした。

「みてみてくーちゃんっ。あっちで大道芸やっとるよっ」

 女ははしゃぎながら前方に指をさす。たしかにどこからか歓声と音楽が聞こえてくる。しかし、背の低い空却の目線では何も見えない。女が「わっ! すごーいっ」と目を輝かせている顔しか見えない。彼女を見知らぬ大道芸に取られた。
 おまけに、自分が今言おうとしていたことが途端に恥ずかしくなった空却は、先ほどよりも女の作務衣を強く引っ張った。伸びようが知ったことか。

「魚くさるからさっさとかえんぞッ!」
「えっ……? 大道芸見なくていいの……?」
「みねーよッ」
「そっかぁ……。あっ、そういえばくーちゃん、さっきなにか言いかけとった? 遮っちゃってごめんね」
「もういいッ」
「えっ!」

 女がびっくりしたように声を上げるが、空却は彼女を連れて人の間を縫いながらずんずん進む。くーちゃん、まって、おしえて、おねがい──後ろから飛んでくる女の声を無視しながらも、彼女の作務衣を掴むその手は決して放さなかった。







「すまないが、空却の宿題を手伝ってやってくれないだろうか」
「えっ?」
「え゙ッ」

 八月の盆前──二人揃って灼空に呼び出されたかと思えば、冒頭のようなことを言われた。てっきり盆準備の手伝いかと思っていたので話を聞く前からめんどくせー、と空却は思っていたが、それ以上に面倒なことをさせられるとは。こんなことならにげりゃあよかった。
 すると横から、「くーちゃん、毎日忙しいもんね。宿題する時間もなかなかとれんよね」と謎のフォローを入れてくる女。くそ、こいつの前ではじかかせやがって──空却が灼空をきいっと睨むと、彼は女へ視線をやった。

「時間は有限ゆえに自ら作るものだ。言い訳はきかん」
「夏休みもまだ二、三週間ありますし、今からちょっとずつ進めれば──」
「これからうちはさらに忙しくなる。時間も作りにくくなるだろう」
「あ……」
「それに……あまりこんなことは言いたくないが、このあいだ空却がやるはずだった廊下掃除も代わりにやっていたそうじゃないか」
「そ、それは、その……草むしりの後で疲れてたみたいだったので……」
「それも含めて、修行の一環で空却に言いつけたものだ。あまり息子を甘やかさないでくだされ」
「すみません……」
「おいこいつはわるくねーだろ」

 さすがの女も灼空の前ではたじたじになってしまい、小さな体がさらに小さく縮こまっている。空却が二人の間に割って入るが、「そもそもお前がやるべきことをやっとらんからだ」とぴしゃりと言われてしまう。反論できない。うぐ、と空却は声を詰まらせた。
 そこからまた説教が十分ほど続き、「とにかく。宿題はお盆に入る前に終わらせておくように」と言って、灼空は部屋から出ていった。そして、空却の隣にはすっかりしゅんと落ち込んでしまった女。こんなことでへこむんじゃねーよ。空却は俯いている彼女の顔をずいっと覗きこんだ。

「……おまえ、べんきょーできんのか」

 すると、女が空却と目を合わせる。そして、少し迷ったように目を泳がせた彼女は、「理数系なら……」と小さく呟いた。


 空却も空却で、宿題にまったく手を付けていないわけではない。読書感想文と漢字ドリルは写経の合間に終わらせているし、毎日世話をしているトマト栽培も順調だ。なので、まっさらなものといえば算数ドリル、夏友(おまえとダチになったおぼえはねえ)くらいだろう。
 算数ドリルは開くだけであくびが出るし、鉛筆を持つのも嫌になる。机の上にぴっとりと頬をくっ付けた空却は重たい溜息を吐き出した。

「めんどくせー……。やりたくねー……」
「くーちゃん、漢字ぜんぶ終わっとってすごいねえ」

 横に置いてある漢字ドリルをぺらぺらとめくる女。曰く、「わたし、国語はぜんぜんだめだったの。今のくーちゃんのほうができるくらいだよ」とのこと。ふーん、と空却は興味なさげに右から左に彼女の言葉を流す。今は目の前にある天敵に頭がいっぱいだ。

「くーちゃん、たし算できる?」
「できるわナメんなッ!」

 先ほどのやる気のなさが一変。女の言葉でかちッとスイッチが入る。あれだけ持ちたくなかった鉛筆を持って、空却はガリガリと問題を解いていく。一ページにつき十問──それが二十ページほど続いている。かなり長い道のりだ。
 それでも、女が近くで監視している間はちっぽけなところは見せたくない。合っているかはどうかは別として、しゅばばッ、と問題を解いていく。途中、「すごいねえくーちゃん。解くの早いねえ」と煽てられながら、空却はどや顔でドリルをめくっていったのだった。


 長時間の勉強も効率が悪い──ということで、空却は休憩の合間にコーラ味のガリガリ君をシャリシャリと食べている(気づかない間に部屋を出ていった女がコンビニに行って買ってきたらしい)。
 「うめえ~。つめてえ~」と独り言を漏らしながら、解けたところまで丸つけをしている女をぼんやり眺める空却。彼女は足を崩して座布団の上にぺたんと座り、その背中は少し曲がっていた。なるほど、お庫裏なりたてのことはある。あとで坐禅のけいこしてやるか。

「くーちゃん」
「ふぁ?」

 不意に、女がドリルから顔を上げる。彼女は赤ペンを持ったまま首だけをこちらを向けていた。

「算数ドリルが終わったら、おうちでからあげ食べよっか」
「からあげっ!?」

 目を輝かせた空却が身を乗り出して言うと、「うん。くーちゃん、からあげ好きだよね」と女は言った。
 からあげ──コーラ味で満たされていた口が、みるみるうちに唐揚げの味で満たされる。かりッと揚がった衣にジューシーな鶏肉……やべ、腹へってきた。空却はアイスがなくなった木の棒をがしがしと噛みながら、溢れる唾液をごくんと飲み込む。しかし──

「作るのはいーけどよ。やさいオバケのおやじがだまってねーぞ」
「わたしから住職さまにお願いしてみるよ。くーちゃんはドリルに集中してくれたらいいからね」

 さっきはおやじにしかられて落ちこんどったくせに──そう思ったが、木の棒をゴミ箱にぽいっと捨てた空却は俄然やる気だ。「やくそくだぞ!」と強めの口調で言うと、女は「うんっ」といつもよりも深く頷いた。


 ──結果、馬の鼻先に人参をぶら下げられたかの如く、空却は算数ドリルだけではなく他の宿題も数日で終わらせることができた。やればできる子である。
 そして、宿題を終えたその日の夕食は念願の唐揚げだった。「課題が終わったからといって怠けていいわけではないぞ。これからうちも目まぐるしく忙しく──」うんぬんかんぬん。同じ食卓を囲む灼空はいつも以上に煩かったが、大皿に山盛り積まれた唐揚げは本物だ。
 「いっぱい食べてね~」と言った女は汗だくで、少しだけ体から油のにおいがする。昼を過ぎたあたりからずっと台所に篭っていたので、唐揚げの仕込みをしていたのだろう。そんなことを微塵も感じさせないほど笑顔満面な彼女を見て、空却は目の前に広がる唐揚げの海をひたすら胃袋にがつがつと収めていった。超絶にうまかった。







 お盆が本格的に始まった。一日一日が目まぐるしく過ぎていき、右を向いても左を向いても暇なんてものはなく、寺中はどこもかしこも多忙の極みだ。
 そんな空却もまだ得度を受けていないとはいえ、空厳寺の跡取り息子──盆参りをする灼空の後について回る日もあれば、寺にいる女の傍で庶務をこなす日もあった。盆はまだ始まったばかりなのにも関わらず、空却の肌はすでに真っ赤に焼けており、風呂に入ると少しひりひりした。べつにいたかねーけどなッ!

 さて、今年最高気温と謳っている本日の正午。灼熱地獄のような炎天下の中で、空却は女と共に寺までの帰路を辿っている最中だった。

「あっづ……」
「暑いねえ……」

 商店街でなるべく短時間でおつかいを済ませたものの、二人とも汗はびっしょりとかいていた。これは寺に帰ってすぐに風呂直行コースだろう。あー……水ぶろはいりてえー……。
 空却が渇いた喉を潤すように唾をごくんと飲むと、寺に続く階段の近くで女の足がぴたりと止まった。

「くーちゃん、なにか飲んでかん?」

 女が指さしたのは一台の自販機。最近は彼女と二人で外に出るたびに、きまってここでジュースを買っていた。盆中に頑張っている自分たちへのご褒美(もちろん灼空には内密に)──もはや彼女との間の秘め事と化した提案に、「のんでく」と空却は即答した。

「くーちゃんはコーラでいいかな?」
「おう!」

 そして、買うジュースも決まっている。女が自販機のボタンを押すと、下の受け取り口からペットボトルががこんッ、と落ちてきた。空却はその中に腕をにゅっと突っ込んで、お目当てのジュースを取り出す。
 さっそくペットボトルのふたを開けると、ぷしゅぅッ、と軽快な音ともに辺りに甘い匂いがぶわっと広がる。そのままペットボトルを傾けて、暑さでぼやけた頭と干からびた喉をごくごくと回復させていく。健康によろしくないものがたくさん入っているといえど、この甘味は一度飲んだら癖になる。特に、強炭酸が喉の奥をちくちくと刺激してとても心地よかった。あ゙ー、コーラうめえ~。
 すると、がこんっ、ともう一つペットボトルが落ちてくる。しゃがんだ女が取り出したジュース(と呼べるのか謎なところだが)を見て、空却はうげ、と嫌そうな顔をした。

「またそれかよ……」
「えへへ……。ここで買うときはこれって決めとるの」

 環境に優しいふにゃふにゃなペットボトル(最後にそれを潰すのは空却の役目だ)を両手に持った女は照れたように微笑んだ。一見ただの天然水のように見えるそれは、きちんと味のついたレモン水らしい。
 空却に続いて、女もペットボトルのふたを開けて一口飲むと、ふわあ、と長い息をつく。いつも笑顔を絶やさない彼女だが、さすがにここ最近はその表情にも疲労が浮かんでいる。お庫裏になったばかりならば、この盆の忙しさも慣れているものではないだろう。
 つか、なんだってこいつはわざわざ寺に──一縷の疑問を覚えた空却が女を見上げていると、何か勘違いをした彼女が、「くーちゃんも飲んでみる?」とペットボトルを差し出してきた。
 空却は女に聞こうとしていたことを飲み込んで、差し出されるがままレモン水を受け取る。正直、あまり気は進まない。しかし、まあ、ものはためしっつーからな──そう思った空却は飲み口に口を付けて、ぐいっとペットボトルを傾けた。

「うッすっ!」
「れもん水だからねぇ」

 うえぇ、と舌を出して、“口に合わない”と全面でアピールする空却。まずくはないが、水の味付きというのがかなり変な感じがした。味の主張が強いコーラを飲んだ後だから、余計にそう感じるかもしれない。どちらにせよ、コーラのほうがうまいという結論だ。
 空却は女にペットボトルを突き返す。それでも、女は飽きることなくレモン水をこくこくと飲んでいる。聞いた話によると、そのレモン水は昔、彼女の旦那である副住職がこの自販機で買ってくれたものらしい。そして、女が彼の話をする時に、空却には見せないような表情をするのも最近知った。それについては、空却はなぜだかちっとも面白くない。

「あっ」

 不意に、女が思い出したように声を上げたので、空却は彼女を見上げる。おまえんとこの副住職のはなしはききたかねーぞ、という眼差しを向けたところ、目を丸くした彼女とぱちんと視線が合った。

「くーちゃん。さっきのれもん水、わたしが口付けたのあげてまった」

 は?
 空却がぱちぱちと瞬きをして、沈黙すること数秒。思考の海から地上に上がった空却が一番最初に目に入ったのは、女の、柔らかそうな、唇──

「あ゙あぁぁッ!?」

 ようやく女の言葉の意味が分かり、空却の顔にぶわわッ! と真っ赤な花が咲く。さらには手の甲で自分の唇をぐしぐしと拭ってしまう。友達、檀家、その他諸々……人との回し飲みなんてしょっちゅうだが、一度意識してしまったら最後、顔の色もなかなか元には戻らない。
 彼女も彼女で、そんなリアクションをされるとは思っていなかったらしい。かなり気まずい空気になってしまったのを察した女は、「え、えぇっと……」と目を泳がせた。

「ご、ごめんね……? やだったよね……? お詫びにコーラもう一本買おっか……?」
「いらねーよッ!」
「あっ……それともからあげくんがいいかな? あっちにコンビニあるからすぐに買ってくるよ?」
「だからなんもいらねーってッ!」
「わたしはぜんぜん気にしんのだけど、これってわたしが飲んでもいいものかな……? もしやだったらくーちゃんに全部あげ──」
「うッせーッ!! おまえもうしゃべんなッ!!」







 人の出入りが激しくなる盆の真っ最中──空厳寺は人の会話や僧侶の読経の声で大層賑やかになっていた。賑やかさと比例して忙しさも右肩上がりだが、寺を来訪する人達のためにもこの繁忙期を乗り越えるしかない。
 そして、もう一つ増えるものといえば──

「総代さんからすいかもらったよ~っ」
「っしゃあっ!」

 檀家からの手土産である。
 この時期になると菓子折りや果物をもらうことが特に多くなる。その中でも夏の風物詩といえばスイカ──丸々肥えた緑色の球体を見て、空却は大きくガッツポーズをした。

 今寺にいる者にスイカを振る舞うために、女は台所にスイカを持ち込んでざくざくと切っていく。「よいしょっ」と声を出して分厚い皮に包丁を入れていく彼女はどこか危なっかしい。スイカが転がっていかないか、包丁が宙を舞わないか、女が手を切らないか──彼女の隣にいる空却の心配事は絶えることはなかった。

「くーちゃんは半月形でいいかな?」
「おう! わかってんじゃねーか!」

 その一方で、スイカの赤い実が露わになるのをわくわくしながら見守る空却。決して仕事をサボりたいからとかではない。相変わらず女とはニコイチ扱いなので、彼女の相方である空却がここを離れてはいけないのだ。そうなのだ。
 さて、切り終えたスイカを大皿の上に乗せた女は、「みんなにすいか配ってくるから、くーちゃんは先に食べとってね」と言う。大皿とは別の皿に、空却と女用に乗せられたスイカを一瞥した空却は、彼女が盛りつけたばかりの大皿をぬうっと両手で持ち上げた。

「おれがみんなんとこ回っといてやる」
「くーちゃん、いいの?」
「おう。あ、おれよりさきにスイカくうんじゃねーぞッ」

 大皿を抱えた空却は、女にそう念押しをする。すると、彼女はそれはもう嬉しそうに「それじゃあ、お願いするね」と微笑んだ。
 そうだ、おとこってのはこういう気がきくんだ。ふふん、と優越感にとっぷり浸かった胸を原動力にして、空却はスイカがドミノ倒しのようにならないよう、寺の中をすたたっと駆けていった。



 大皿の上は空になり、ひと仕事を終えた空却はようやくスイカにありつけることになった。約束通りスイカを食べずに待っていた女は、「おかえりくーちゃん。みんなに配ってくれてありがとうね」と礼を言う。こんくらいどうってことねーよ。そう言った空却の鼻はいつもより数センチ高かった。
 縁側でスイカを食べる──なんて暇はないので、女と一緒に台所で立ちながら食べることに(灼空に見つかれば行儀が悪いと叱られるだろうが、あいにく今は留守だ)。外でスイカの種を飛ばすのは盆が明けてからになりそうだ。
 スイカの汁を零さないように丁寧に食べている女だが、空却はそんなことは気にしない。口周りが赤い汁だらけになっても、食べるスピードは落とさなかった。

「なあ」
「ん?」
「おまえんちも、もともと寺かなんかだったのか」

 シャクシャクとスイカを頬張りながら、空却は女にぽろりと言葉を零す。ある日を境に抱いていた疑問が膨れ上がり、ついに口から飛び出してしまった。今までずっと多忙だったゆえに、今この一瞬の気の緩みが空却の口を軽くさせた。
 しかし女は、「ううん。ちがうよ」とにこやかに言うだけだったので、空却の疑問はさらに深まった。

「じゃあなんでわざわざ寺にとついだんだよ」
「なんで……?」
「朝おきんの早えーし、こむずかしいことばっか覚えねえといけねーし。いろいろたいへんだろ」

 寺に嫁ぐというのは並大抵の決断ではない。今まで当たり前だった生活習慣ががらりと変わるし、世間からは煙たがれることが多い宗教の類だ。故に、同じ宗派の寺娘を嫁に取る寺院も多くある。
 おまけに、女は見るからに仏教初心者だ。それでもなお、寺での暮らしに馴染もうとしているのが一緒にいてよく分かる。さらには早起きも漢字も苦手ときた。弊害しかない道なのにも関わらず、彼女が寺に嫁いだ理由はなんなのか──寺に住まう空却だからこそ不思議に思うことだった。
 すると、女は「うぅん……」と一考した後、頭に浮かんだことをそのままぽん、と落とすようにこう言った。

「好きな人が、たまたまお坊さんだったからかなぁ」

 ……すきなやつが、たまたま坊さん。
 あまりにも女がなんでもないような顔で言うものだから、空却は思考停止してしまう。そんな空却を置いて、「すいか、おいしいねえ」と女は呑気にスイカをしゃくしゃくと食べ進めていた。
 なんでもない……ほんとうに、彼女にとってはなんでもないことだったのだろう。朝早く起きるのも、苦手な漢字がたくさんある経を覚えることも……女が心に決めた男と添い遂げられるのであれば、なんでも──

「……なあ」
「ん?」
「おまえのむこ、どんなやつだ」

 女の口から紡がれた“すき”の二文字が頭から取れない。なぜだか心の底から湧いてくるこの悔しい気持ちはいったん腹の奥に留めておいて、空却はさらに彼女に尋ねる。たまに女との話題に上がる副住職──聞いている限り、灼空よりは頭が柔らかい人間ということだけは分かるが、それ以上のことは何も知らなかった。
 しかし女は、「くーちゃんみたいに優しい人だよ」とだけ言うものだから、空却はさらにもやっとする。なんだよ“おれみたい”って。腹に一時避難させた感情がぐるぐると熱を帯びていって、未知なる形に変わっていく。今にもわっと怒鳴ってやりたい気持ちを抑えた空却は、スイカの種をぺッ! とゴミ袋の中に飛ばした。

「おれがでかくなったら、そいつよりもっと得のたかい坊さんになってっからなッ!」
「うんうん。くーちゃんならきっとなれるよ~」
「“うんうん”じゃねえ! おれはほんきだからなッ!」

 空却がしつこく言っても、女は微笑ましく頷くだけ。こいつぜってーしんじてねーな……ッ! くそっ、くそっ、と心の中で悪態をつきながら、空却は新しいスイカを手に取って、赤く熟れた実にがぶッ、と歯を立てた。







 時間を意識する間もなく、盆は佳境に迫っていた。と同時に、追い打ちをかけるようにして繁忙がピークを迎え、寝る直前までやるべきことが山積みの毎日だ。おかげで空却は若干寝不足気味である。
 そして、空却以上に多忙なのは女の方だった。ほぼ一日寺にいる彼女は四六時中来訪者の接待やその準備、加えて通常の家事もこなさなければならないので、言葉通り息つく暇もない。空却も灼空に外へ連れ回される日が多くなったので、女とのニコイチだったのもこの頃離れつつあった。
 そんな時──寺内でほんのちょっとしたことが起きた。

「ほんとうにごめんなさい……」
「いや、私も寺のことを任せきりだったのが悪い。そんなに謝らんでくれ」

 女が仏花の発注の日取りを間違ってしまったらしい。幸い、よその寺で余っている花をもらって生けることになったのだが、灼空に謝る女の顔はどんよりと暗いままだ。
 というより、最近はずっと彼女の顔色が悪いように思う。空却以上に眠れていないことに加えて、起きている間はずっと激務──空却が見かける時の彼女の顔はいつも切羽詰まっているものだった。
 それは灼空も察していることだろう。しかし、寺の責任者としてお庫裏がそういうものだということも知っている。彼の立場上、“休んでいい”と言えないことは空却でも理解できた。腹の中にいる自分を抱えながら、この繁忙期を乗り切った母はきっとタフだったにちがいない。

「空却。空却はいるか」

 呼ばれるがまま、空却は柱の影からにゅっと出てきた。すると、灼空は懐から財布を出しながら、「彼女と一緒に買い出しに行ってきなさい」と言って、千円札を二枚抜き取って渡してきた。
 買うものなんて特にない。いわゆる“息抜きしてこい”と同義の言葉として受け取った空却は、未だに沈んでいる女を連れて外に出た。
 贔屓目なしに、女はよくやっていると思う。世話役のいない空厳寺で、空却が灼空に連れられている時以外はほぼ一人で寺を回しているといってもいい。時々、檀家が心配の声をかけるところを見かけるが、女は「はい。ぜんぜん大丈夫です」と笑うだけだ。空却は全然大丈夫そうに思わない。空却の知る彼女は、そんなに弱々しく笑う女ではないからだ。



「きょうはおまえのすきなもん買っていーぞ」

 空却は歩きながら女に話しかけるが、彼女は「うん……」と小さく返事をするだけで、分かっているのかいないのかいまいち曖昧だ(空却は分かっていないに一票を入れた)。
 とりあえずうまいもん食やあげんきになんだろ──そんなことを思いながら、空却は後ろをとぼとぼと歩く女を気にしながら近所を散策する。

「(……そういや、)」

 ふと思い出したことがあって、空却はその場で立ち止まる。気がつけば上前津辺りまで歩いてきていた。夏休みに入ってから、ほとんど寄ることはなかった道が横に伸びており、空却は以前交わした会話を思い出す。

 ──「もしも近くまで来たら、ちょっと顔出してくれたらうれしいわあ」

 ……空却のつま先が方向転換する。急に道が逸れたので、「くーちゃん……?」と後ろから戸惑った女の声がした。

「かおみしりのばーさんとこいくだけだ」
「顔見知り……?」
「おう。おれがかみ切りにいってるばーさんのとこなんだけどよ。一人ぐらしだからちょくちょくようす見てやんねーと」

 というのは半ば建前で、菓子やアイスをご馳走してくれるかもしれないという下心もある。それに、店の裏が猫の溜まり場になっていることを空却は知っていた。女はよく境内にいる猫と戯れているので、菓子を食べたり猫を見ればきっと元気になるだろうと考えた。
 しかし、空却の予想とは反対に、女の顔は険しくなり、その足も途端に遅くなる。「おせーよっ。さっさとこいっ」と空却が急かすが、ついに女の足はぴたっと止まってしまう。

「……わたし、ここで待っとるよ」
「はあっ?」

 空却の言うことやることに肯定以外の反応をしなかった女が、初めて空却と反対方向を指した。それが、空却の中で意外にも大きな動揺を生んで、自身の中で生まれた感情に不覚にも戸惑ってしまった。
 苦しいような、苛つくような、裏切られたような──なんで、なんで、と心の中で癇癪を起こしている自分をなんとか押さえ込んで、空却はやけに重たい口をゆっくりと開いた。

「……そこのばーさん、べつにこわいやつじゃねーぞ」
「うん」
「店のうらにねこもいるぞ。おまえ、ねこすきだろ」
「うん」
「かしもアイスもたらふく食えるぞ」
「うん」

 話せば話すほど、女の表情は曇っていく。見たくない。今のものとは真反対にあるものを期待して、空却は言葉を女にぎゅうぎゅうと押し付けた。それでも彼女の顔が晴れることはなかった。
 ついに言うことがなくなってしまうと、「ごめんね。どうしても行けんの」と女から改めて拒否の言葉が落ちてくる。思い通りにならない彼女に対して怒りの感情がこみ上げてきて、空却は女の手をぐっと掴んだ。

「いーから来いってッ!」

 女の手首を力強くぐっと引っ張る。すると、女が苦しそうに顔を顰めたので、はっとした空却はその手をするんと手放した。
 ……重ったるい沈黙が空却の全身をちくちくと刺す。ひどく苦い味のする空気の中、視線を落とした女は申し訳なさそうにこう言った。

「ごめんね……」

 かあぁッ、と顔が熱くなってからはもう止まらなかった。腹の奥からこみ上げてきた衝動のまま、空却はその塊を爆発させた。

「もーいいッ!!」

 女に向かってわっと怒鳴った空却はその場から走り出す。しるか、しるか、あんなやつ、もうしるか──熱中症になろうが、猫に囲まれて困ってようが、もう知らない。助けてやらない。おねがいって言われても、もう二度ときいてやらない。
 空却が心の中で女を突き放す一方で、女がなぜあの場から動かなかった理由を探している自分がいる。なんだよ、なんだよ、くそ、くそ──人間には口と言葉があるのに、彼女にそれを聞かなかったのは、十中八九、女が自分について来てくれると思ったからだ。そして、菓子を食べ、猫と遊んで、またすぐに、いつものようににこにこと笑ってくれると……なんの疑いもなく、そう思っていたからだ。



「カヨばあッ。生きてっか!」
「生きとるよ~」

 理容室のドアは空いていなかったので(おそらく盆休みだからだろう)、空却は路地の裏をひょっこり覗いてみる。すると、ちょうど猫たちにエサをやっているカヨがいた。
 「くーちゃん、久しぶりだねえ」立ち上がりながらのほほんと言ったカヨは、空却と顔を合わせるなり、あれま、と言わんばかりに目を丸くさせた。

「どうしたのくーちゃん。そんな怖い顔して。お腹でもすいたかね」
「すいてねえ」

 空却はそう言うが、「おかしあげるで、おうち上がってきゃあ」とちょいちょいと手招きをするカヨ。だからすいてねーっつの……。久々のやり取りに小言を言いたくなったが、空却は家の敷居を跨いで、すでに玄関の上がり框に腰を下ろしていた。

「このあいだねえ、お店でいろんなおかしたくさん買っといたんだわあ。くーちゃん、すきなの持ってっていいからね」

 そのまま玄関で待っていると、カヨが大きなマイバッグを持ってきた。その中身は、さすがの空却も引いてしまうほどの大量の菓子。なんだこれ。巣ごもりでもすんのか。
 カヨにこんなにも買い込んだ訳を聞けば、「春にね、娘がこっちに帰ってきてくれるから。おかしたくさん買っとかんとかんと思ってねえ」とのこと。どうやら、カヨの子どもは仕事が忙しくて盆中は帰ってこれないらしい。つめてーやつだな。つか、春まではまだ半年いじょうもさきだぞばーさん──そんな言葉が喉まで出かかったが、カヨがとても嬉しそうにしていたのでごくんと飲み込んでしまった。年寄りの楽しみに水は差したくない。
 相変わらずツッコミどころが多いカヨと話していると、つい気が抜けてしまう。一緒に毒素もすうっと消えていく気配がして、空却はマイバッグの中にある菓子を物色しながらぽつりと言った。

「……さいきんよぉ」
「うんうん」
「よそのお庫裏がうちにきてよぉ」
「おくり? あぁ~、お寺に甘栗が届いたのねえ」
「くいもんのくりじゃねーよ。ほかの寺の坊さんのよめさんだ」

 「はいはい、お栗さんね」理解しているのかいないのか、変なイントネーションのカヨにため息をついて、空却は話を続けた。
 にぶくて、のろくて、とろくて──あ? ほとんどおんなじ意味? こまけーこと気にすんな。夏休みに入って、突然現れたそんなお庫裏の話をする空却。もちろん、本日の小さな失敗の話もした。カヨは途中で口を挟んだりはせず、空却の話が終わるまで、うん、うん、と丁寧に相槌をうって聞いてくれた。
 ……そして、あらかた話し終えた空却の口が動かなくなってから数秒後。カヨはようやくそのしわしわの口をそっと開いた。

「その子も、すごく頑張り屋さんなのねえ」
「てめーの限界をしらねーでがむしゃらになるのはちがうだろ」
「そうだねぇ……」

 気がつけば、菓子を物色する空却の手が止まっている。すると、カヨが代わりにぽい、ぽい、と持ち帰り用の手提げ袋に菓子を入れてくれた。おいカヨばあ、さすがにそんなにくえねーぞ。

「うちの娘も、旦那さんが亡くなってからはお仕事も子育ても一人で頑張っているけれど……そういう子は、苦労も寂しさもぜぇんぶ自分のものにしちゃうからねぇ……」

 「うちに帰ってきて、ずうっとこっちにおりゃあいいのにねぇ……」まるで自分のことのように落ち込むカヨ。どうやら、カヨの周りにも似たような人間がいるらしい。そうだよ、そうなんだよ。ひとりじゃねーんだから、ちょっとくらいおれをたよったって──
 ……あ。

「頼りにされんのも悲しいねぇくーちゃん」
「かなしくねえッ!!」

 ちょうど今気づいたことをつんつんとつつかれて、空却は思わず声を張る。しかし、「あらそお? くーちゃんは強いねえ」とカヨはほけほけと笑うだけだ。くそ……調子くるうな……。

「くーちゃんはやさしいから、お栗さんのこと、だいじにだいじに想っとるのは私にも分かるわあ」
「おれがいねーとなんもできねえからなあいつ」
「ふふふ。そうなのねえ」

 「はい、これもね。お栗さんと半分こして食べやあ」フィナーレを飾るように、カヨが大袋に入った菓子をどさどさと手提げ袋の中に流し込めば、袋は菓子で満タンになった。気をつけて持たないと、上からはみ出している菓子が落ちてきそうだ。

「こんなにもいーのかよ」
「いいのいいの。来年の春までにまた買っとくで」
「まぁ……まだ夏だしな」
「いやなことがあったり、疲れてまったときはなーんにも考えんで、おいしいもの食べて、よぉーく寝るのが一番だでね」

 「お栗さんに、近所のばばあがそう言っとったって言っといて」そうして、カヨは鬼すら金棒を地面に置いてしまうほど朗らかに笑う。しばらく見ていないが、女もこんなような顔でよく笑っていた。よく見れば、くしゃっとした目元あたりが、彼女に少し似ているような気がする。気のせいか、気のせいだな。それでも空却は、先ほど女にぶつけた怒りを一瞬忘れて、あいつの顔みてーな、と漠然と思った。



 手提げ袋を両腕で抱えながら、空却は元来た道を戻る。女と喧嘩別れ(?)した道に着くと、幸い女はまだそこにいた。ちょうど木陰の下におり、石畳にちょんと腰をかけている。これでもし日向の中で待ちでもしていたら、また彼女に向かって怒鳴ってしまうところだった。
 空却は今にも雨が降り出しそうな表情をしている女に近づいていく。すると、空却の影に気づいた女が顔を上げて、「あ……」と僅かに声を漏らした。
 先程のやり取りの後で多少気まずくなるも、空却はカヨに持たされた手提げ袋を女に押し付けるように「ん、」と前に突きだした。

「ばーさんがおまえにやるってよ」

 カヨには半分こ、と言われていたが、半分やっても全部やっても同じだと思った空却は大雑把に言い放った。しかし、いつまで経っても菓子を受け取らない女に痺れを切らした空却は、彼女の膝の上にとすん、と手提げ袋を置いた。
 そうすると、止まっていた時間が動いたように、女は手提げ袋をごそごそと漁りながら中身を確認する。「お店の人が、くれたの……?」と震えた声で尋ねられたので、「おう」と空却は肯定する。

「あと、やなことあったときはうまいもん食ってよくねろって言っとったぞ」

 空却は女の隣に座りながら言った。盆に入る前、空却は彼女が客間ですやすやと昼寝していたことを知っている。檀家からもらった消費期限ぎりぎりになった菓子を一人でぱくぱく食べていたことも知っている。おかげで、「住職さまには内緒にしとって……っ」と泣きそうな顔で言われたこともしばしばある。この夏の間で、空却と女の間に秘密ができたか数知れない。

「だから……その、なんだ。ミスくれえだれにでもあっからよ。あんま気にすんな。おれも、寺にいるあいだはすこしくらいてつだって──」

 やる──空却がその音を形づくろうとする前に、女がぱち、と瞬きをする。すると、いつも空却に優しい眼差しを向けてくれる綺麗な目から、一粒の雫が浮かんだ。その雫が頬をすうっと撫でたところは道となり、新しく生まれた雫たちが川のようにさらさらと流れていく。
 おそれていたことが起きてしまった。ぎょっとした空却は「ほらッ。なんか食やあげんきになんだろッ!」と言って、手提げ袋から適当に掴んだ菓子の小袋を開ける。中がしっとりとしたバニラ味のクッキーを取り出して、口開けろ、と言わんばかりに空却は女の口元に菓子を寄せた。
 しかしそれを見た途端、女はさらにぽろぽろと涙を流す。すんっ、すんっ、と鼻を啜る音も聞こえ始めた。「おいっ、なくなよっ。なあっ」空却が焦りながら言うと、女は首を横に振る。かしいらねーのか、花はどっかの寺からパクってくるからいいだろ──女が泣いている理由を手当り次第言うが、ちがうの、ちがうの、と言わんばかりに、女は首を横に振り続けた。
 なぜだろう。こんなにもどうしていいか分からなくなるのは生まれて初めてだった。考えれば考えるほど体が鈍くなってしまうし、頭の中は錆びついてしまう。結局、空却はただただ女に声をかけることとクッキーを差し出すことしかできなかった。

「なあってッ──!」

 ぱくん
 空却の指からクッキーがなくなった。そして、目の前にいたはずの女の顔もなくなった。あ……? 空却の頭が真っ白になって、体が熱くなっていくのを感じた。外側から、何かに強く締め付けられているような感覚がする。ただ、灼空に簀巻きにされるよりも優しく、やわらかい力だ。
 ──数秒経ってから、空却は女に抱きしめられていることを知った。女に頭を抱えられ、空却の顔面は彼女の胸の中に閉じ込められている。やわらかい。あたたかい。そして、空厳寺が焚いている線香の匂い……その奥にある彼女本来のにおいがして、頭がぐらぐらと酔いそうになった。
 うぅ……うぅっ──口に入れたクッキーをもごもごとさせて、嗚咽にもならない女の声が空却の耳元で聞こえる。抱きしめられていることへの羞恥よりも、今目の前で泣いている彼女をどうにかしてやりたいという欲が勝って、空却は無意識に女の背中に腕を回した。
 背中に手を回した後、空却は両腕にぎゅっと力を入れる。すると、さらに女の声が大きくなって、空却は、ああくそ、と自身に舌打ちをしたい気分になる。いっそ、彼女の全部を包んでしまいたいと思うのに、今の空却は包まれている側だ。
 それが……それだけが、幼い空却はとても悔しく思った。







 怒涛の棚経時期も終えて、盆が明けた。まだ閑散期とは言えないものの、空厳寺も元来の落ち着きを取り戻しつつあった。
 少し前まで落ちこんでいた女も、日が経つにつれて笑顔を浮かべるようになってきた。おまけに、自分の誕生日には女が唐揚げを振舞ってくれて、空却は至福の時間を過ごした。カレンダーにも書いていない空却の誕生日をなぜ彼女が知っているのかは謎だったが、唐揚げの味が絶品すぎてそんな些事もどうでもよくなった。あのからあげまいにち食いてえ。

 そこからまたあっという間に数日が経ち──学校の始業式を明日に控えた夏休み最終日のこと。またしても女に異変があった。

「おいっ!」

 縁側ですいか食べよう?──そう誘ってきたのは女だった。再び檀家から差し入れでもらったスイカを嬉しそうに切っていたのに、いざ縁側に座るなり、彼女はスイカに齧りつかずにぼんやりと上の空だ。
 まさかこいつねてんじゃねえだろーな。そう思った空却が声を張ると、「……え?」と女が我に返った。しかし、その目は未だに虚ろで、よくよく見れば顔色も真っ青だ。数分前まで元気だったのに、一体どうしたというのか。
 スイカ食ってるばあいじゃねえ──空却は蝉の抜け殻のようになってしまった女の手を引いて、灼空の部屋を訪れた。

「ふむ……。うちも落ち着いてきたから、疲れがきたかもしれんな。顔色も悪いから、今日一日は安静にしていなさい」

 部屋で卒塔婆を書いていた灼空は、女にそう言った。寺に来訪する人の接待も他の人間で手が足りるので、彼女一人休んでいても文句を言う者はいないだろう。まあ、もしも言うやつがいてもおれがだまらせてやるけどな。

「今年は、新たな檀家さんとの縁に恵まれて、特に手が足りない時期だったから、君がいてくれてとても助かったよ」

 ありがとう、と灼空がにこやかに礼を言う。少し眠そうにしていた女だったが、その言葉を聞いてうっすらと微笑みながら、「はい」と返事をした。


 続いて、空却は女が普段寝ている離れに向かう。部屋に入るなり押し入れに仕舞ってあった布団を敷いて、「ねろ」と女に一言言い放つ。女が言われた通り横になるのを見届けたら、空却は枕元に手と膝をついて彼女の顔を覗きこんだ。

「きもちわりぃか?」
「ううん……」
「腹へってるか?」
「ううん……」

 空却の問いかけに対して、女はやんわりと首を振る。ならどーしたんだよ、と性急に聞けば、「わからんけど……。なんだか、すごくねむくなって……」と彼女は要領の得ないことを言う。数分前までスイカを切りながら鼻歌を歌っていた人間が、そんなに急に眠たくなるものか。
 ううむ、と考えた空却は再び離れを出る。台所やら物置きやらを散策し、今の彼女に必要だと思われるものを片っ端から集めてきた。

「水、ここにおいとくぞ。のどかわいたら飲めよ」

 まず、空却はペットボトルに入れた水を枕元に置く。そして、冷凍庫でキンキンに冷やしていた氷枕を彼女の首の下に敷いた。「つめたぁい……」とほのかに笑った女を見て、空却は満足そうにふん、と鼻を鳴らす。
 ついでに、別の部屋から扇風機を持ってきたので、それのスイッチも入れる。この離れにエアコンなんて大層なものはついていないが、比較的風が通る方なので、空気を循環させれば快適に過ごせるのだ。

「くーちゃん……」
「なんだ?」
「すいか、そのままにしてまった… …」
「スイカならさっき冷蔵庫んなかにいれといたぞ」

 「あとでまた食おーぜ」と言うと、女はほっとした顔で目を細めた。おまえにしんぱいされなくても、おれはできる男なんだよ。空却は誇らしげに口角を上げた。

「あと……おかし……。──から、もらったおかし……」
「あ? なんだって?」
「──が、くれた、てさげの……おかし……」
「手さげ? ……あー、カヨばあのか? かし食いてーならもってくるぞ」
「ううん……。あのおかし、くーちゃんが……ぜんぶ、たべていいからね……」

 一部ノイズが入ったようによく聞き取れなかったが、会話はなんとか成立した。おれはおまえにやるっつったのに、なんでおまえはおれにもどすんだよ。むっとした空却だったが、すでに女の目は開いたり閉じたりを繰り返していて、むずかしい口論はできそうにない。
 ……まあ、元気になったらまた言えばいい。水は置いたし、氷枕は敷いたし、あとは──足のつま先から頭のてっぺんまで女をじろじろと観察しながら、空却は再度女に問う。

「あとなんかしてほしいことあるか? えんりょなんかしねーで、なんでも言えよ」

 女はぽやっとした眼差しで空却を見つめてから、「手ぇ、かしてくれる……?」と掠れた声で言う。空却は迷うことなく女の手のひらと自分のそれを重ねた。
 すると、女の手は空却の手をつかまえるようにきゅっと控えめに握り、女が寝返りを打って横向きになると、もう一方の手を空却の手のひらの上に置いた。手をかす、という意味が空却が思っていたものと微妙に違う気がして、女の両手にサンドされた空却の手に手汗が滲んできてしまった。

「ちっちゃい……」
「あ゙っ!?」
「ふふ……。くーちゃん……くーちゃん……」

 手か? 手のことかおい。空却のこめかみ辺りがぴきっとしたが、女はすでに目を閉じている。どこにもぶつけようのなかった怒りが空却の中でじわじわと収束して、はあぁ、と溜息を吐くとじきに消失していった。
 おきたらぜってーもんく言ってやる──女の手の中ですっぽり収まっている自分の手を憎らしげに見つめた後、空却は女の隣にごろんと横になった。付きっきりで彼女の看病をしていたと言えば、口うるさい灼空も今日くらいは雑務を免除してくれるだろう……そんなことを思いながら。



 ──ぎし、ぎし。抜けそうで抜けない床の音を立てながら、何者かが離れに侵入してくる。空却が、なぜかうっすらとしか開かない目を凝らすと、大人用の足袋が横目に映った。そして、次に見えたのは黒衣の裾と、そこから少しだけ覗く白襦袢。侵入者の足元だけしか見えない視界では、何者か判別することはできなかった。
 おやじか? 最初はそう思ったが、日頃から声をかけて部屋に入るようにと口酸っぱく言っている灼空が無断で……それも、女が寝ている離れに足を踏み入れるはずがない。だれか……また違う僧侶だ。

「(なんだこれ……うごかねぇ……)」

 そんな無礼者の顔を今すぐ拝んでやりたいのに、体はまったく動かない。指先一つ、自分の思う通りにならない。空却ができることは浅い呼吸と僅かな瞬きだけだった。
 そんなことをしているうちに、正体不明の僧侶が片膝をついてその場にしゃがむ。僧侶は、寝ている女の額に手のひらを当て、次は頬へ。女の顔にかかった髪を避けながら、僧侶は彼女の一部を撫でていく。それは、女を手を易々と覆ってしまうほど大きく……大人の、男の手だった。
 空却は、自分の手のひらをぼんやりと思い出す。女の手に収まってしまうくらい小さく、やわい子どもの手。あんな、ごつごつとした大きな手になるには、十年以上も時間をかけなければならない。
 それは……まだいい。今はただ、見知らぬ男の手で彼女に触れている事実がむかついて……とても、かなり、非常にむかついて、空却は握りしめている女の手にぎゅうぅっと力を入れた。こいつにかってにさわるんじゃねえ──声が出なかったので、心の中で、そう怒鳴りながら。
 すると、不意に鋭い視線を感じる。かと思えば、空厳寺内で自分以外の人間がしないような盛大な舌打ちが落ちてきて、そして──


「ぃ゙ッ、てえッ!?」
「くーちゃんッ?」

 空却は自分の叫び声で目が覚める。勢いよく上半身を起こすと、すぐ近くで女の声がしたのではっと隣を見た。
 「だいじょうぶっ? うなされとったよ……っ?」布団の上で起き上がっていた女が心配そうに声をかけてくれている。いつの間にか、自分も女と一緒に眠ってしまっていたらしい。空却はきょろきょろと部屋を見回すが、自分と彼女以外は誰もいなかった。
 しかしたった今……誰かに蹴り飛ばされたような。それも、盛大かつ横暴に。その証拠に、自分が寝落ちしてしまう前は女と向き合う形で眠っていたのにいつの間にか仰向けになっていて、布団からも距離があるところにいる。もちろん、繋いでいた女の手も放されていた。
 空却は自分の体をぺたぺたと触って、何か異変がないか確認する。どこも痛くない。それでも、寝相が悪かったにしてはどうしても拭えない違和感が胸に残る。
 この部屋に誰か来たかと女に尋ねようとした時……別のことを思い出した空却の顔色がさあっと青ざめた。

「いまなんじだッ?」
「えっと……十七時ちょっと過ぎたくらいかなぁ」

 「あっ、時報の鐘は鳴らしたよ」女の言葉を聞いて、空却の体の熱がすうっと戻ってくる。あっぶねー……。またおやじのげんこつ食らうところだった。本日の鐘当番は空却なのだが、女が先にやってくれたようだ。さすが普段からニコイチで仕事をしているだけのことはある。
 そして、女に聞くところによると、灼空は自治会の集まりで外に出たらしい。帰りは夜更けになるそうだ。なんだよ、心配してそんしたじゃねーか。ほっと一息をついた空却は、女の顔をじいっと見た。

「もうねむくねーか」
「うん。たくさん寝たから平気だよ」

 ならいい。顔に血色が戻った女は、「それでねくーちゃん、」と続けて口を開いた。

「わたし、今からおうち帰らんといかんくなっちゃったの」

 ……非現実的な言葉すぎて、聞き入れるのに数秒を要した。咄嗟に空却の口から出たのは、「……いまからか?」の一言だけ。女はうん、と頷いた。

「あしたでもいーだろ。夕めしくらい食ってけよ」
「うぅん……。わたしもくーちゃんと一緒にお夕飯食べたいけど……」

 けど? 女は寂しそうな顔をして、「帰りが遅くなると怒られちゃうから……」と続けた。だれにだよ。なんか言われてもおれがかばってやるよ──そう言うが、女は曖昧な笑顔を浮かべて言葉を濁すだけだった。
 素直すぎる女だが、一度こうなってしまうと頑なだということを知っている。空却が譲らないと、彼女の顔がさらに困ったものになることも知っている。ああくそ──折れた空却はすくっと立ち上がった。

「おまえんちの寺どこへんだ。こっからちかいんだろ。おれがいっしょに行ってやる」

 すると、女は少し気まずそうな顔をしながら、「それじゃあ、階段の下までいっしょに行ってくれる……?」と言った。だから寺までいっしょに行くって言ってんだろ──話を聞いているのかいないのか分からない返答をした女にむすっとした空却だったが、彼女の手が自身の手を優しく包み込んだので、喉が石化してしまった。

「すいか、一緒に食べれんくてごめんね」

 自然かつ当たり前のような動作だったので、空却は何も言えなくなる。どッ、どッ、と胸の中で忙しなく音を立てる鼓動を聞きながら、「……おぅ」と空却は唇を窄めて呟いた。



 正門はすでに閉まっているので、裏の坂道から正門前の階段に回った。女とよくジュースを買っていた自販機を通り過ぎると、階段の前に到着した。
 だれかむかえにくんのか? 空却は右左と辺りを見るが、閉門した寺に誰かが来る気配はなかった。

「住職さまに、お世話になりました、挨拶できなくてごめんなさいって言っておいてくれるかなぁ」
「おやじはそーゆーの気にしねーとおもうけどな」

 まぁ、女の頼みだ。空却が承諾すると、「ありがとう」と彼女は礼を言う。この夏休みの間、何度も聞いたねこじゃらしのような言葉だ。聞くたびに耳の奥がくすぐったくなる。
 思い返せば、かなり濃厚な夏休みだったように思う。女のおかげで減った雑務もあれば、増えた雑務もあるような(主に女の世話だ)。宿題は早く終わらせることができて万々歳だが、そのおかげで空いた時間は灼空がこき使われることが増えたような──ただし、女が食事当番の時はとても豪勢だったので、そう考えると一日中働いてお腹を空かせるというのも悪くないと思った。
 ……そうだ。世話役として、彼女がずっと空厳寺にいてくれたらいいのに──

「くーちゃん」
「なんだよ」
「また、会いにくるね」

 空却の考えを見透かしたように、女は言う。やけに重みのある言葉で、二人の間に流れる時間の終わりを告げていた。
 ……いやな予感がする。空却は力が抜けていく体を悟られないよう、女と繋いでいる手に力を込めた。

「……こんなくそいそがしいときじゃなくてよ。こんどは春にこいよ。うちも、花祭りがおわりゃあひまなもんだぜ」
「春……。ふふ、そうだねぇ」

 なにが面白いのか、女はふくふくと笑う。「おまえ、春すきだったのか」と聞くと、「ううん。わたしは夏がすきだよ」と言うものだからよく分からない。

「ありがとうくーちゃん。いっぱい、たくさん、ありがとう。くーちゃんといっしょにお寺のことするの、すごく楽しかったあ」

 いーってことよ──軽い感じでそう言いたいのに、なぜか口から出なかった。代わりに、いくなよ、と言いそうになって、空却は一度唇をぐっと結んだ。

「おれも……しゅくだい手伝ってくれて、さんきゅーな」

 思いのほか薄い言葉になって、空却は女に応えた。すると、「これでおあいこだねえ」と彼女が言うものだから、なにがだよ、と思う。しかし、寺のことを色々と教えたからだろうとすぐに理解できた。
 ……沈黙が落ちる。今が春であれば、今にも桜に攫われてしまいそうな女を見て、謎の焦燥感を覚える。他に何か言い残したことはないかと頭の中で言葉を探して、空却は顔を上げた。

「なあ、やっぱおまえの名まえ──」

 影が、頭上に落ちる。
 女がその場で両膝を折る。繋いでいない方の彼女の手が空却の首と頬の中間を包み、女の顔が一瞬消えて、代わりに、あたたかいもちのようなものが頬に触れる。金色の目をわっと開いた空却は、一瞬だけ呼吸の仕方を忘れた。
 ……不思議なぬくもりが離れていく。女と目が合って、いとおしげにこちらを見つめる彼女の瞳の奥に、自分が映る。そして、女は夏のあいだずっとみせてくれた笑顔をにっこり浮かべ、きれいな唇でそうっと言葉を紡いだ。

「ずうっと……だいすきだよ。くーちゃん」





 ──背中からすうっと風が突き抜けて、空却は瞬きを一つする。そのあいだに、女は目の前から姿を消していた。夏の終わり……気がついたらふっ、となくなっていた、蝉の声のように。
 木々のざわめきと夕暮れに纏う暑さ……そして、女と過ごした夏の思い出が空却の全身を満たしていく。頭が沸騰して、特に頬なんかは火傷をしたようにひりひりとした熱を帯びていた。
 安らぎを覚えるには不可思議で、恐怖を覚えるには優しすぎたこの数分間に、鳥肌を隠しきれない空却。すうぅぅー、と歯の間からゆっくりと熱っぽい息を吐き出していく。蜃気楼のように、今にも頭から消えてなくなりそうな彼女と過ごした日々……それらを一つ一つ数えながら、夢では終わらせないと言わんばかりに心に深く刻み込んだ。







「怪談話じゃないっすかッ!?」
「ちげーよ」

 話し終えた空却さんははあ、と溜息をつく。手持ち無沙汰だったのか、話の途中で見せてくれたドライアイスのコインをピンッと弾いては手のひらに落ちたそれを握りしめている(結果的に、空却さんが最後まで持っていたらしい)。
 そのコインが今も空却さんの手元にあるということは、そのお庫裏さんと過ごした夏は夢でも幻でもないということ。でもそれ以来、そのお庫裏さんが空厳寺を訪ねてきたことはないらしい。

「でも……気がついたらいなくなってたなんて不思議っすねえ。神隠しにでもあったみたいっす」
「仏様のまん前に神さんがいるかよ」

 それはそうだ。自分がふむふむと納得していると、空却さんは自分の右頬を指先でさっと撫でる。お庫裏さんのお別れの話をしてからずっと触ってるけど、なんだろう。痒いのかな。まぁ、それはそれとして──

「空却さん」
「なんだよ」
「お庫裏さんはお坊さんのお嫁さんなんすよね」
「おう。それがどうした」

 空却さんの肯定を受けて、自分は囁き声でこそっと呟いた。

「……既婚者は、だめっすよ」

 必要最低限の言葉を聞いてぽかんとしている空却さん。その数秒後、時差で自分の言葉を飲みこんでくれたらしく、みるみるうちに髪の色と同じくらいその顔を真っ赤にさせた。

「ちッげーわッ! なに想像してやがんだてめえはッ!!」
「だっ、だってぇっ! 空却さんの初恋っぽかったからっ! もしかしたら空却さん、今もそのお庫裏さんのことす──ッ」
「今も昔もなんもねーよッ!!」

 バァンッ! と強く机を叩いた空却さんに自分はびくうッ! と体を震えさせる。ひえぇぇッ……! 目からじわっと涙が生まれそうな気配がすると、空却さんは苛立ちげにその場から立ち上がった。 

「どっ、どこに行くんすか……?」
「散歩」
「えぇっ!? 散歩って修行はどうするん──って、待ってくださいよお~ッ!」

 空却さんに呼ばれて来たのにこんなのってあんまりっす……っ! 涙がすっと引っ込んだ自分はアマンダを腕に抱えて、慌てて空却さんの後を追った。



 もうすでに夕暮れで、日差しがないとはいえどむしむしとした暑さが外に蔓延っていた。ちなみに、今自分が着てる作務衣(空却さんがお寺のものを貸してくれた)は麻百パーセント。おかげで通気性も抜群でとても快適っす。
 夕方でも暑いっすね、そーだな──そんな会話をしながら、自分たちは涼みがてら通り道にあったスーパーに立ち寄った。自動ドアが開いた瞬間、ふわっとした冷気が自分の体を優しく包みこんでくれた。て、天国っす~……。

「空却さんっ。アイス食べたくないっすかっ?」
「アイスぅ? あー……言われりゃあ食いてーな。ついでに買ってくか」
「わあい!」

 空却さんと気持ちが一致して、いざスーパーの奥へ進もうとした時、空却さんの足がぴたっと止まる。え? どうしたんすか? 空却さんの視線の先を見てみると、レジの横を通り過ぎたところにある大きな機械の前で、大きなマイバッグを持った女の子がちょんと立っていた。

ちゃん!」

 思わず声に出してしまった。隣にいる空却さんがこっちをきッ、と睨んでいるのは気にしないことにするっす。
 一方、自分たちの方を向いた女の子は案の定ちゃんで。ちゃんは自分と空却さんを見て目をわっと見開いた。自分は空却さんの腕をぐっと掴んで、ちゃんのところまで歩いていく。「おい放せやッ」だって空却さん逃げちゃうかもしれないじゃないっすか!

「奇遇っすねちゃん! お買い物っすかっ?」
「うん。そうだよ」
「んなもん見りゃ分かんだろーが」

 空却さん一言多いっす……。そうこうしているうちに、空却さんにふんっ、と腕を振りほどかれてしまった。
 空却さんの素っ気ない言葉を聞いたちゃんは苦笑いをしながら、「十四くんと、空却くんも?」と聞いてくれる。アイスを買うんすよ、と自分が言うと、いいねえ、と彼女は微笑んだ。

「わたしもたくさん買ったんだあ。夏はたくさん食べたくなるよね」
「分かるっす~! あっ、だからドライアイスっすね!」
「うん。そうなんだけど……」

 すでに機械の中に別のマイバッグをセットしていたちゃんは困ったような顔をして、持っていたコインを挿入口に入れる。本当なら、そのすぐ上にあるボタンが赤く点滅するはずが、それは光を放つことはなく、挿入口の下からコインがからん、と戻ってきてしまった。
 ちゃんの困り顔の理由が分かって、自分はちゃんと機械を交互に見る。隣の空却さんも静かに眉を顰めていた。

「お店の人にコインはもらったんだけど、入れても入れても戻ってきちゃって……」
「それは困ったっすね……。機械の故障かもしれないんで、店員さんに言った方がいいんじゃないっすか?」
「うん……そうだね。ちょっといってくるね」
「あっ。よかったらそのマイバッグ持ってま──」

 最後まで言い終わらないうちに、空却さんの腕が横からにゅっと伸びてきて、ちゃんが持っていたマイバッグをかっさらっていった。風のように一瞬のことだったので、自分もちゃんも目が点だ。
 すると、空却さんは無言で顎を前へくいっと押し出す。さっさと行け、とちゃんに言うように。ちゃんも自分と似たようなことを思ったらしく、「すぐにいってくるねっ」と小走りでレジに向かっていった。

「持つよって一言言ってあげた方がよかったんじゃないっすか……」
「うるせえ」

 自分がぼそっと呟いても、軽く一蹴されてしまう。むぅ、と口を結びながら、自分は空却さんと一緒にちゃんの帰りを待った。
 夕ご飯の時間が近いからか、スーパーのレジもラッシュを迎えていた。ちゃんは空いているレジがないかきょろきょろとさ迷って、どこも空いていないことを確認すると、お会計待ちの列に並ぼうとする。でも、どこもかしこもすごい列ができていて、今から並んだらそこから何十分かかるか分からない。
 ここのスーパーって、サービスカウンターなかったっすかね……? 自分も近くに店員さんがいないか探そうとすると、マイバッグを肩にかけた空却さんがなぜかお財布を出していた。え? なにしてるんすか? 自分が空却さんの手元を見つめていると、昔、お庫裏さんが使えなかったと言っていたドライアイスのコインを取り出して、そのまま挿入口に入れた。
 かちゃん──コインが機械の中に落ちた音がして、そのすぐ上にあるボタンが赤く光った。

「あれッ? そのコイン、たしか使えないんじゃ──」

 空却さんも一か八かだったのか、少し固まっているように見えた。そして、未だにあたふたと店員さんを探しているちゃんをちらりと見て、空却さんは赤色のボタンを人差し指でぐっと押した。
 「えぇっ!?」自分の声はドライアイスの噴射音でかき消されてしまう。数秒後に音が止むと、空却さんは黙って機械の扉を開けた。

「く、空却さん、よかったんすか……?」
「なにがだよ。使えるもんは使った方がいいだろ」
「そ、それはそうっすけど……」

 初恋(?)の人との思い出よりもちゃんを取った空却さんは、機械の中にあるマイバッグを出した。マイバッグを上下に揺すってドライアイスを全体にならしながら、「マジでアイスしかねえな……」と中身を見ながら呟いている。女の子が買ったものまじまじと見るのはどうかと思うっすよ……。

「店員さん、みんな忙しそうだった……」

 そうこうしているうちに、ちゃんがさっきよりも困った顔でこっちに戻ってくる。足音はとぼとぼ、肩はしゅん、と落ちている。どうしよう、アイス溶けちゃう……なんて言葉が続けて聞こえてきそうだ。
 そんなちゃんに、空却さんがドライアイス入りのマイバッグを前に突き出した(やっぱり無言で)。すると、ちゃんが不思議そうな顔をしたので、空却さんの代わりに自分が口を開いた。

「空却さんが別のコイン持ってたんで、ドライアイス入れてくれたんすよ」
「えっ!」

 ちゃんが瞳がきらっと瞬く。空却さんからマイバッグを受け取ったちゃんは困り顔から笑顔満面。これでアイスの無事は約束されたっす。

「ありがとう空却くんっ」
「……おう」

 お礼を言ったちゃんはマイバッグの中を覗き込みながらにこにこしている。一方、そんなちゃんを見下ろす空却さんの顔が……なんというか、単語で言い表すなら、骨抜き、ぞっこん、くびったけ! って感じっす。
 すると、「あっ」とちゃんが顔を上げた。そして、すぐさますまし顔になった空却さんを自分はじっとりとした目で見つめる。空却さん、ほんとうに素直じゃないっす。

「二人とも、アイス買う予定だったんだよね?」
「はいっす!」
「よかったら、この中から選んでほしいなあ」
「えっ! いいんすかっ?」

 うんうん、と頷くちゃんは、ドライアイスのお礼だと言ってくれた。よろこんで! と自分は乗り気だったけど、相変わらず空却さんはつーんとしているので、ちゃんはちら、ちら、と不安そうに空却さんの様子を窺っている。
 むむむむっ。いくらなんでもちゃんがかわいそうっす。空却さんってそんなにも無口じゃないっすよね。もしも自分がちゃんの立場だったら“全部寄越しやがれ”くらいに言うところっすよね。

「それじゃあ、このままお寺に行って一緒に食べませんかっ?」
「えっ」
「はあっ? おい十四──」

 空却さんは黙っててほしいっす。今の自分はちゃんの味方なんで! 自分の言葉を聞いたちゃんの目の色が乙女のものに変わったのを見て、自分はうんうんっ、と頷いた。
 「い、いいかな……?」と空却さんにおそるおそる尋ねるちゃん。これで駄目だって空却さんが言ったら、なんでそんなこと言うんすかっ、って言うところだったけど、空却さんは「……好きにしろ」って小声で言ってくれた。やったっす!

「アイス」
「えっ?」
「これ。買いすぎだろ。夏眠でもすんのかよ」
「その……これからまた暑くなるって聞いたから、お仕事ない日はあんまり外出んようにしようって思って……」
「んで昼まで寝んのか。頭腐るぞ」
「あ、ぅ……」
「自分はちゃんの気持ち分かるっすよ! 暑いと外出たくなくなっちゃいますもんね!」

 あまりにも厳しい言い方だったので、思わずちゃんに共感すると、「十四くんも?」と顔を上げてくれる。仲間がいた、というようなやわらかな表情で、こっちも嬉しくなってしまう。
 空却さんは自分を見習って、アプローチの仕方を学んだほうがいいと思うっす──そんなことを思いながら空却さんの方を見ようとした瞬間、その時には見慣れた手のひらが下から迫ってきていた。

「ぃ、ッたあっ!?」
「つべこべ話してねえでさっさと行くぞッ!」

 自分に平手をお見舞した空却さんは剣幕を上げて、どすどすとスーパーから出ていってしまった。いっ、今のは百パーセント空却さんが悪いのに……! というか、ちゃんに話しかけたの空却さんなのにつべこべって……っ!
 いつも以上に理不尽すぎる師匠にむぐぐ、と自分は頬を膨らます。その隣で、ちゃんは遠ざかる空却さんの背中をさみしそうな目で見つめていた。

「空却くんに呆れられちゃったかなぁ……」
「ぜったいにちがうんで大丈夫っすよっ!」

 自分が熱意を持ってちゃんをフォローする。ついでに、空却さんはちゃんと話したかっただけとも言ってしまうと(さっきはたかれたお返しっす)、「そうだとうれしいなぁ……」とちゃんは切なそうな顔をして呟いた。あ、これはあんまり信じてもらえてないやつかもしれないっす。ほんとなんすよちゃんっ!

「あっ。そういえば、そのコインどうするっすか? 機械のところに置いておくわけにもいかないっすよね」
「うん。今日は無理そうだから、次行った時に店員さんに返しておこうかなあって。それに、今度来たときに入れたら使えるかもしれんから」
「それはありそうっすね!」

 空却さんのコインもそんな感じだったんで! とは言わずに、自分は満面の笑みを浮かべると、釣られて笑ってくれたちゃんは、ドライアイスのコインをお財布の中に入れた。



「喉渇いたっす~……」
「あぁ? さっきジュース飲んだばっかだろ」

 我慢しろ、と暗に言われているようで、自分は肩を落とす。それはそうっすけど……。スーパーを出てからというもの、自分はたくさんおしゃべりをしているおかげで喉がからからだ。
 なぜかというと、放っておくと空却さんとちゃんがずっと無言の状態なので、自分がひたすら話すしかない。ちゃんも空却さんも自分の話に耳を傾けてくれるけど、二人が対になって言葉を交わすことはなかった。えっ? 二人だけの時はさすがにもうちょっと話してるっすよね? 今は自分がおじゃま虫なだけっすよね? と思ったのも何度目か分からない。

「あっ。ちゃんは喉渇いてないっすか?」

 ふと思って、自分はちゃんに話を振る。すると、ちゃんは少し考えて、「……うん。大丈夫だよ」と返事をした。きっとちゃんが喉渇いたって言ってくれたら、空却さんもジュースを買う時間くらい待ってくれただろうなぁ。
 そんなことを思いながら隣を見ると、空却さんがものすごぉ~く嫌そうな顔をしている。え……えっ、なんすかっ? 自分、ちゃんに喉渇いたか聞いただけっすよねっ? それも聞いちゃだめなんすか!? そんな顔するくらいならちゃんと話してくださいっすッ!
 嫌悪感がひしひしと伝わってくる空却さんの隣で、自分がびくびくしながら歩いていると、さっき空却さんがジュースを買ってくれた自販機の真横を横切ろうとする。自分が物欲しそうな目で自販機をじっと見つめていたところで、空却さんが不意に足を止めた。

「十四。選べ」
「えっ! 空却さん、また奢ってくれるんすかっ?」
「拙僧も飲みたくなったからついでだ」
「わあい! ありがとうございますっす!」

 なあんだ! なんだかんだで空却さんも飲みたかったんすね! 自分は喜んで自販機と対面する。見ると、さっきまで売られていたジュースは所々売り切れになっていた。うんうん、やっぱり暑いと飲みもの買いたくなるっすよね。
 ちょうど自分がさっき買った紅茶も売り切れていたので、再び表示の前でうんうんと吟味する。えぇっと、小さいタイプのオレンジジュースでいいっすかね……。
 空却さんがお金を入れたのを確認して自分がボタンを押すと、おつりが出てこないうちに空却さんは続けてレモン水を押した。えっ、またそれにするんすか? さっきは薄いって文句言ってたのに……。
 すると、空却さんは出てきたレモン水を出すなり、ちゃんの方をくるりと向いた。

「おらよ」
「えっ?」
「コーラ買おうと思ったらミスった」

 条件反射のように差し出したちゃんの手の上にペットボトルを落とした空却さん。え……。あの、空却さん、コーラも全部売り切れになってるんすけど……?
 もちろん、ちゃんはそんなこと全然気づいてない(すごく言ってあげたいっす)。「あ、ありがとうっ」とお礼を言ったちゃんは渡されたレモン水をまじまじと見ている。もしかしたら初めて見るのかもしれない。

「えっと……ちゃん、レモン水飲めるっすか?」
「どうだろう……。飲んだことないから……」
「もしよかったら、自分のと交換するっすけど……」
「ううん、大丈夫だよ」

 そう言ってやんわり断ったちゃんは、ペットボトルのふたを開けた。もしかして空却さん、この中でちゃんが飲めそうなものを選んだのかな……。大きなタイプのペットボトルは天然水もお茶も売り切れで、あとはエナジードリンク系とかマイナーなジュースしか残ってない。正直、初見で買うには勇気がいるものばかりっす。

「おいしい……」

 さっそくふたを開けて一口飲んだちゃんはぽつりと呟く。よかったっすね、と自分は笑いかけた。すると、ちゃんはペットボトルをぐっと上に傾けて、再びこくこくと飲み始める。そして、それをまた垂直に戻した時には、その中のレモン水は半分以上なくなっていた。
 もしかしてちゃん、ほんとうは喉渇いてたんすかね……? そうだとしたら、ちゃんに気を遣わせちゃったのかもしれない。うぅ、自分もまだまだっすね……。

「えへへ……。このペットボトルとっとこう……」
「はあ? ゴミとっといてどーするんだよ。飲んだらさっさと潰せ」

 いや、それは空却さんに買ってもらったものだからなんじゃ──喉まで出かかった言葉をごくんと飲み込む。ちゃんの独り言も拾ってしまった空却さん、女心がぜんっぜん分かってないっす。
 ちゃんもまさか聞かれると思ってなかったのか、「う、うん……っ」と頷いて、気まずそうに俯いてしまった。ちゃんが不憫すぎて、自分は渋い顔をしてしまう。

「飲んだら行くぞ。アイス溶けちまう」
「あっ……! はいっす!」

 自分もオレンジジュースを一口飲んだ後、すたすたと階段に向かう。ここの階段、段数がすごくあるからお寺に着く頃にはへとへとになっちゃうんすよね。裏にある坂から行きましょうよ、って言ったら空却さん怒るだろうし……。

 ──「……くーちゃん?」

 ……ふと、自分は空却さんの不思議な話を思い出す。たしか今くらいの時期に、そのお庫裏さんがちょうど自分たちがいるところに立っていたという話だった。お庫裏さん、このまま空厳寺にずっと来ないままなんすかね……。空却さん、今も待ってるみたいなのに……。
 話の途中でところどころ垣間見えた空却さんの憂いの眼差しを思い出して、自分は勢いよく階段の前を振り返った。

「……十四くん?」

 目の前には、自分の後ろから着いてきていたちゃんが映る。飲みかけのレモン水を……空却さんの不器用なやさしさを大事に持って。
 ……うん、やっぱりそんな都合よく来てくれるわけないっすよね。「なんでもないっす!」自分はちゃんに笑顔でそう言って、すでに数段先まで上がっている空却さんの背中を追った。さあっ、冷たくて美味しいアイスが待ってるっすよ!