夢の隔壁、いつかどこかの心音と



 走る、走る、走る――人の目など気にもせず、自宅にいたは空厳寺まで全速で駆けていた。荒ぶって切れ切れの息も、破れそうな心臓も、今は些細なこと。数分前、十四からの着信を手に取ってから、は生きた心地がしていなかった。

 ――「空却さんがっ……空却さんがあぁぁ……ッ」

 泣きそうな……否、もう泣いていた十四の声を聞いて、はスマホを落としそうになった。空却くんが……? 誰かと喧嘩をして警察沙汰になっているのか、それともあらぬ疑いをかけられて濡れ衣を着せられているのか――十四の言葉を最後まで聞かずに、は今どこおるの、と性急に尋ねて、家を飛び出したのだった。
 だんだん、思考に回す集中力も切れてくる。中学の時のような思いを味わうのは、もう嫌だ。急がんと、急がんと――風にでもなったようになったは雑念を殺し、無心で足を動かした。







「だから今日一日は寺ん中で大人しくじっとしてろっつってんだろ!」
「はッ! 知らねェなァ! なんで拙僧がクソ銭ゲバ弁護士の言うこときかなきゃいけねーんだってのッ! 一昨日来やがれ!」

 馴染みの僧に案内された空厳寺の大広間。そこでは、ぎゃあぎゃあと言い合いをしている獄と空却の姿があった。そんな光景を目の当たりにする。獄がいるということは、やはり中学時代の事件の再来だろうか。
 でも、警察の人来とらんし、テレビの人も外におらんかった――ふと、が空却をじっと見ていると、一つ、二つと彼の纏う違和感に気づいた。

「(スカジャン、ちょっとだけ小さい……?)」

 デザインは変わらないが、いつもだぼっと着ているものより、今日のものはジャストサイズに見えた。その証拠に、両手を突っ込んでいるポケットの位置がいつもより高い。あと、髪もいつもよりも外に跳ねているような気がする。そのおかげか、いつもよりも雰囲気が刺々しく映った。
 スカジャン、新調したんかなぁ。ヘアセット、変えたんかなぁ。かっこいいなぁ。先程までの焦燥も忘れて、がぽやぽやと見惚れていると、こちらに駆け寄ってくる足音があった。

ちゃんっ! 来てくれたんすね~っ!」
「十四くん、」

 「さっきから大変なんすよぉ~ッ!」アマンダを腕に抱いている十四は、肩を震わせながら端正な顔を涙で濡らしていた。

 ――事の始まりは、DRBに向けた朝練の最中。門を開けようとしていた修行僧から、門前に違法マイクを持った不良溜りがいるという報告を受けた。ちょうどいい肩慣らしになる、と喜んだ空却が、いやだいやだと首を振る十四と最後まで渋っていた獄を引っ張り、マイクを使って彼らと交戦していたそうだ。
 そんな時、不覚を取った十四を空却が庇った。多少の攻撃は食らってしまったものの、それをも力に変えた空却は、その後もバトルを続けて、伸した不良は先程警察に届けたという。
 これにて一件落着……と思いきや。バトル以降の空却の言動がなんともおかしかった。

「べつの世界の、空却くん……?」
「みたいなんです……」

 ぐずっ、と鼻を啜る十四。交戦が終わった時の空却の第一声が、「さァて、準備運動も済んだことだし、街に出て野良バトル引っ掛けるぞ!」であった。いやいや待て待てと。自分達はこの後用事がある。今日もなけなしの空き時間を使って空却の呼び出しに応じたのだと訴えた。そう言っても、「ああ? お前ら二つ返事で了承しておいてなに寝惚けたこと言ってんだ」と空却と意見が食い違う。いつもの駄々かと思い、獄が空却と言い合いをするまではいつもの流れ。しかし、今の件といい、こちらとの話が噛み合わないところが多々あった。
 何かがおかしい――双方が同じタイミングでそう思った時。空却のスマホから着信があった。画面の表示を見た空却が、目を見開き、目の前の獄と画面を交互に見て、なぜか訝しげに首を捻った。

 ――「おい。誰からだ。さっさと出ろ」
 ――「……獄から」
 ――「は?」
 ――「だから獄からだって言ってんだろ」

 空却が画面を見せたのは、“銭ゲバ弁護士”の六文字と、獄が実際所有しているスマホの電話番号だった。
 どうやら、こことは別の平行世界で生きている空却がこちらにやって来てしまったらしい。では、皆の知る空却はどこへ。こちら側……つまり、今そこにいる空却が暮らしていた世界に飛ばされているのだと、着信があった“向こうの獄”が教えてくれた。今目の前にいる別世界の空却も、ちょうど自分達と不良共を倒していたらしく、何の因果か、心身ともに空却同士が入れ替わってしまったらしい。ちなみに、自分達の知る空却は怪我一つなく、こちらと同じく現状把握に努めているとのことだ。
 獄が目の前にいる中、“獄”から着信があって実際に話したのだから本当にそうなのだろう。そんなことがあるんだぁ、とは唖然とする。と同時に、ひとまず警察沙汰になっていないことにほっとしていた。

「もう、あっちのひとやさんと電話は繋がっとらんの?」
「はい。元に戻るまで電話は繋げておこうっていう話だったんすけど、しばらくしたら電波が悪くなっちゃって、切れちゃったんす……。こっちから空却さんにかけても、今ここにいる空却さんの電話番号に繋がっちゃって……」
「そっかぁ……」
「うう……。すぐには信じられないっすよね……。でもたしかに、今の空却さんはいつもよりも暴力的だし、声も大っきいし、こっちの話全然聞いてくれないしで、自分たちが知ってる空却さんよりもちょっと横暴さが増してるくらいなんすけど――」
「おい聞こえてんぞ十四ッ!!」
「地獄耳なのは相変わらずっす~ッ!」

 えぐえぐと泣いている十四の背中を、はうんと腕を伸ばして優しく擦る。いつ帰ってくるかという保証がない以上、本人とコンタクトが取れないのは少し痛手かもしれない。空却くん、大丈夫かなぁ……。は別世界に飛ばされた彼を心配するばかりだった。
 そして、ひとまず今日一日は寺に篭もっていろという獄の提案を拒否した空却が、獄と再度言い合いをして今に至る。始めてからかれこれ一時間は経とうとしているらしく、痺れを切らした獄が、を呼ぶようにと十四に指示をしたらしい。どうして呼ばれたのがわたしなんだろう、という疑問は拭えなかったが、理解できていないのは自分だけのようなので胸の中だけに留めておいた。

「空却さんもっ、そろそろ自分たちの話聞いてくださいよぉ~っ」
「ああ? てめえ十四、いつから拙僧に口答えできるほど偉くなった?」
「うぅっ……。しっ、師匠の過ちを止めるのも弟子の務めっすよっ」

 すると、一瞬豆鉄砲を食らったように、空却の目が丸くなる。そして、すぐさま目が伏せられて、「クソが……」とぞんざいに吐かれた。びくッ、と十四の肩が揺れたのをは横目に捉える。

「でっ、でも、今の状況はのみ込んでくれたっすかっ?」
「否が応でもな。獄の口煩さは変わらねえが、拙僧が知ってる十四はもっと泣き虫だ。今みてえに、拙僧の言葉に反論できないほどな」
「えっ! そうなんすか!? ってことは、自分は空却さんが知ってる自分よりも強いってことっすよね? えへへ……」

 「何照れてんだっ、よッ!」「い゙ッた
い゙ッ!」壮絶な飛び蹴りがお見舞いされて、隣に立っていた十四が膝をついた。
 そんな十四に向かって、がしゃがもうとした時だ。こちらを見下ろす空却の目とばちッと合う。瞬間、背筋に氷が滑ったような悪寒を覚えて、は言葉をなくした。なんだろう、同じ空却くんのはずなのに、いまは、なんとなく――

、悪ぃな。こんな朝早くから呼び出しちまって」
「ひ、ひとやさん」

 突如獄に呼びかけられて、はもたつきながらも応じる。一日はまだ始まったばかりなのに、獄の顔色はもうひと仕事を終えたような疲労が窺えた。
 「今日、仕事あるか」という獄の言葉に、は首を振る。明らかに安堵した獄が、親指を空却に突き立てた。

「なら、一つ頼まれてくれるか。今日一日だけでいいから、こいつのこと見張っててくれ」
「見張る……?」
「俺はこの後仕事があるし、十四もバンドのミーティングがあるから、こいつのお守りができねえんだよ。頼みの綱である灼空さんも、昨日の夜から外に出てて、明日の朝まで帰ってこないらしくてな」
「おい。拙僧の耳がイカれたか? 今お守りって聞こえたんだが」
「全くその通りだ。イカれてねえから安心しろ」

 空却の言葉をさらりと躱す獄。今にも啖呵を切りそうな空却だったが、じきに大きく舌を打った。

「事が事だ。百歩譲って寺の中で大人しくはしてやるがな。なんで見も知らない女と一日過ごさなきゃいけねえんだよ」

 ――の体の熱がさっと冷めていく。さっきまでばくばくと暴れていた心臓が止まったかのように、しんと静かになった。
 呆然と立ち尽くすの隣で、よろっと立ち上がった十四がおそるおそる尋ねた。

ちゃんっすよ……? 空却さん、知らないんすか……?」
「知らねえ。誰だお前」

 即答だった。誰だお前、の部分で鋭い目に射抜かれてしまい、の呼吸が浅くなる。獄が溜息をつきながら、また厄介なことに、と片手で頭を抑えているのが分かった。

ちゃんは空却さんのおさ――」
「拙僧はこの女に聞いてんだ。てめえが代弁すんな」

 「おい。お前だお前。聞いてんのか」一歩、空却と距離を縮められて、は我に返る。
 ふわっと微かに香った匂いは、空却がいつも纏っているのもの。着ているスカジャンのサイズだったり、ヘアスタイルだったり、細かいところに違いはあるが、総合的に見れば、彼は“波羅夷空却”だ。なのに、誰だお前、と――そう言われた時点で、まったくの別人として見えてしまう。空却が、自分のことを知らないという事実を受け入れたくなくて、現実逃避したかったのかもしれない。

「てめえの名前くらいてめえの口で言え」

 そんなことを思っていることも知らない空却は、責めるような声色で言葉を続ける。深呼吸をする暇もないまま、はこわごわと口を開いた。

「那須野……、です……」
「へー。で、どこの何者だ。十四のコレか?」

 ぴっ、と空却が小指を立てる。意味を察する前に、またしても頭が真っ白になってしまったは再び放心状態となる。その隣で、「ちがうっすッ!」と十四がわっと言った。

「まさかのことを知らねえとはな……」
「なんだ獄。てめえも知ってんのか」
「元はと言えばお前経由で知り合ったんだよ」

 「はあ?」首を傾げる空却に獄はそう吐き捨てて、再びこちらと向き合った。

。さすがのこいつも女相手に下手なことはしないはずだ。違法マイク被害の統計上、半日から一日で健康体に戻るケースが多い。一日経っても元に戻らなかったら俺が何とかするから、ひとまず一日はこいつの手綱握ってくれ」
「おい誰が馬だ」
「馬の方がもう一回り賢いもんだがな」

 獄が腕時計を見ながら苦虫を噛み潰したような顔で「もう行かねえとな……」と小さな呟く。そして、何かあったら遠慮なく連絡してくれ、今度旨いものご馳走する、とも付け足されて、獄は早々と去っていった。
 十四も、時間が差し迫っているのだろう。ちら、ちら、とこちらを心配そうに窺っていたが、「大丈夫だよ、」とが小声で言うと、十四がぐっと唇を締めた後、空却に向かって声を張った。

「空却さんっ。ちゃんのこと泣かせちゃダメっすよっ!」
「うッせえわお前もとっと行けッ!」
「い゙ッ! っ、たい゙ぃぃッ……」

 再び飛び蹴りがお見舞され、十四は腰を体を庇いながら獄の後を追う。二人分の背中がなくなって、残されたのは空却との二人だけ。正直、周囲の空気はひどく重かった。
 「やァっと行ったか」そう言うやいなや、空却は軽い足取りで門から出ようとする。「あ……」が空却を止めようと口を開いた途端、不意に彼がくるっとこちらを向いた。

「早いとこお前も帰れよ。ここにいたところでやることなんざねえからな」
「え……」
「こっちの拙僧とどんな間柄か知らないが、“拙僧”はお前のことなんざ知らねえ。よって、知らねえ人間にとやかく言われる筋合いもねえ」

 「分かったらさっさと出てけ」しっし、とまるでハエでも扱うように片手で払われる。がつんっ、と頭に石がぶつかったような衝撃が走って、はゆっくりと俯いた。
 ――この子は、空却くんだけど、空却くんじゃない。ぜんぜん、まったく、ちがうひと。自分を守るために、無意識に言い聞かせた言葉。途端に、ぷつん、と体の中で何かが吹っ切れた。
 以降、に躊躇する頭はなく、門を出ようとした空却のスカジャンを後ろから掴んだ。「あ?」苛立ちげに空却がこちらを向くが、の手は離れない。

「おい離せ」
「お外には出ちゃかんって……ひとやさん、言っとったよ」
「あ? 知るかよ。寺に一日じっとしていられるか」
「さ、さっきは百歩譲ったらいるって――」
「んなもん言葉の綾に決まってんだろ。あークソうぜェ」

 ずきん、ずきん、と痛む胸。大丈夫、この人は空却くんだけど、知らん人だから、だいじょうぶ。気持ちを早く慣れさせるためにも、は痛みに対してきちんと鈍感になっておく。
 すると、に掴まれたままの空却が、スカジャンのポケットをごそごそと漁った。「ガムもきれてんなクソが……」とぼそっと吐き捨てたので、は首を傾げた。

「空却くん、朝ご飯まだ食べとらん……?」
「あぁ? 食ってねえよ。なのにもうこっち拙僧は済ませたらしいから朝飯の準備もねえ」

 だから外に出ていこうとしていたのか。今の時間なら、喫茶店のモーニングやファストフード店も営業しているはずだ。お腹が空いとるなら……、と一瞬意思が揺らいだだが、一つ閃いたことがあって、さらにスカジャンを掴む力を込めた。

「おい……。たたでさえ訳分かんねえことになって虫の居所悪ィんだよ。これ以上は女だからって容赦しねえ――」
「いっこ、」

 ようやく、は上を向けた。敵意しか感じない空却の眼差しをも跳ね除けるように、強い口調で言った。

「提案が、あります」
「提案だあ?」
「うん。お金払わんくてもご飯が食べれて、あとでひとやさんにも怒られんよ」

 金色を細めて、こちらにじわじわとプレッシャーをかける空却。そんな圧に負けじと、はこくっ、と喉を鳴らす。そしてちょうど、重々しく鳴った時報の鐘が、の知らない空却との一日の始まりを告げるように寺中に響き渡った。







 徐々に遠ざかっていく名古屋城。空厳寺を出発してから、早歩きどころか小走りで追いかけて、追いついて、追いかけてを永遠と繰り返している。気を抜いてほんの少しでも速度を緩めると、せっかく縮めた距離もすぐに伸びてしまうのだ。
 「おい! 早くしろよっ!」正面から怒声が飛んできて、はついにぱたぱたッ、と走る。立ち止まってくれている空却の真ん前まで来て、はようやく荒れた呼吸を整えることができた。

「お前、歩くのおっせえな」
「ご……っ、ごめん、ね……っ」

 「で、これどっちだ」これ、と指されたのは左右に伸びている道。がやっとの思いで右を指さすと、空却は再度すたすたとハイテンポかつ大股で歩いて行ってしまう。落ち着いて息をつく暇もない。
 苦しげな息を吐きながら、は小走りを再開する。空却の歩き方から、彼がとても苛立っているのが分かる。のろい自分がそうさせているのに加えて、お腹も空いているだろうから無理もないだろう。
 ――ここで、疲れたらかん。おうちに着いたら、空却くんに朝ご飯作らんと。
 は、自分が提案したことに対してきちんと責任をもつ。じくじくと足の腱が痛んでも、肺が破れそうなくらい苦しくても、休みたいと叫ぶ心臓が痛くても。自分が空却の行き先に同行できて、彼の空腹も解消できる方法は、これしかないのだ。
 それにしても、の知る空却は、今いる空却と背丈もさほど変わらないのに――むしろ今いる彼の方が少し小さく感じる――歩幅といい速さといい、この世界の空却とは全く違うもので、驚きが隠せない。
 どうしてだろう……と、考えた時。ふと、の脳裏に光が灯った。

「(いつも……歩くの、合わせてくれとったんだ……)」

 途端に、の足が重たくなる。勘違い……いや、そんなことはない。偶然、遠目から空却を見かけた時、仕事帰りの時よりも若干早歩きしているように見えた。違う。あれが、彼の本来の歩幅なのだ。
 何も、知らなかった。知らない間に、気を遣われていた。ただでさえほぼ毎日迎えに来てくれているのに、空却にさらに面倒をかけてしまっていた事実に、の目の前は真っ暗になる。別の意味で、心臓が早く脈打つ。懐かしき小学校の帰り道から今の今まで、彼はずっと、歩幅が狭く、緩く歩くことしかできない自分に、合わせてくれていたのだ。
 ……負の思考は、さらなる負を招く。空却くん、戻ってこんかったらどうしよう――そんな一縷の不安が頭に過ぎった瞬間、かくんっ、と片足がもたついた。

「あ……ッ!」

 ずしゃッ! 足裏が砂利で擦れる。前のめりに倒れた体は寸のところで受身を取ったが、両手の平には複数の擦り傷ができてしまった。おまけに、思いきりコンクリートに叩きつけられたせいで手のひらや足がじんじんと痛む。細かい傷から滲んだ赤色を見て、は唇をぎゅっと結んだ。
 いたい、かなしい――こんな道の真ん中で転ぶなんて。朝方で人がいないのが唯一の救いだろうか。それでもみじめな気持ちは溢れてきて、落とす溜息すらなかった。近づいてくる足音と頭上に落ちた影に、すぐに気づけないくらいには。
 「あ……」口から、小さな音を漏らす。が見上げた先にあったのは、こちらを静かに見下ろす金色。目の前で両膝を折った彼から逃げたい気持ちになって、は視線を泳がせながらしどろもどろに言った。

「ご、ごめん、ね……。わたしのおうち、すぐそこだから、この鍵で先に――」

 服のポケットから家の鍵を出そうとすると、空却にその手を掴まれて心臓が跳ねた。取った手のひらをじろじろと見るやいなや、彼はふ、と小さく息をついた。

「……さほど深くはねーな」
「ぇ、え……?」
「あと擦ったとこは」

 アトスッタトコハ? まるで異国語のように聞こえてしまい、一瞬では理解できなかった。それよりも、空却に手を握られている事実が頭を占めてそれどころではなかった。
 空却くんの手ぇあつい、おっきい、かたい――手のひらから伝わる膨大な情報に目をぐるぐると回していると、「おい。さっさと答えろ」と空却に苛立ちげに言われる。は咄嗟に首をぶんぶんと横に振った。

「な、ない……っ」
「痛えとこは」
「え……?」
「あと痛えとこねえかって聞いてんだ」
「あ、あしっ、ちょっとだけ、いたい……」

 ない、と言おうとしたが、思わず正直に答えてしまう。空却はの足を見るなり厳しく目を細める。すると、くるっとこちらに背を向けるとともに、「ん、」と短い音を寄越した。

「乗れ」
「の、る……?」
「さっきから理解が遅えんだよ……。背に乗れって言ってんだ」

 は目を丸くする。く、空却くんの、背中に……? それだとおんぶになっちゃうよ……? おそらく彼の狙いはそういうことなのだろうが、受け止めきれない言葉にの頭はさらに混乱する。
 「乗らねえならこのまま置いてくぞ」空却の低い声にびゃっと体を震わせた。さっきよりも痛くなってしまったこの足では走れないため、道中置いていかれるのはとても困ることだ。
 は躊躇しつつも、おそるおそる空却の肩に手を伸ばす。スカジャンを汚してしまわないように、緩く拳をつくって。空却の両手がの膝裏を固定すると、彼はその場からすくっと立ち上がった。
 重くないかな、大丈夫かな――また何か言ったら怒らせてしまう気したので、はじっと黙っておいた。空却はを背負う前と大差ないくらい颯爽と歩いている。風をも切っていって、最初はがちがちに強ばっていたの体も、じきにゆるゆると力が抜けていった。

「(おっきい……あったかい……いいにおい……)」

 こんなこと、前にもあったような気がする……。いつだったっけ……。はぼんやりとした頭で考えるも、羞恥と緊張のせいで何も浮かばなかった。
 体に纏わせている寺の匂いも、内側から溢れるやさしさも、ほとんど同じだ。それでもやはり、こちらの世界の空却とは、違う。と過ごした時間を知らない、まったくの、別人なのだ。話すたびに、いやでもそれを思い知らされる。
 男の子らしいがっしりとした肩に、口から心臓の鼓動が漏れそうになる。は、そこに添えている拳をほんの少しだけかたくする。知り合いに会いませんように、と切に願いながら、空却の背中に隠れるようにしてきゅっと体を縮こませた。







 家に着くと、玄関の縁に降ろされた。ひとまず手を洗ってから台所に立とう。そう思って、ぺたぺたと壁を伝って歩こうとしていたら、なにしてる、という目線を空却から浴びせられる。今からすることをたどたどしく言うと、「お前馬鹿か」と真正面から言われてしまった。

「ば、ばか……っ」
「んな血だらけの手で作ってもらっても何も美味かねーよ。それより、救急箱どこにある」

 救急箱? 意味を考える前に、はその在処を言う。すると、「手と足を洗うのは許可してやる」と空却はくいっ、と顎で前方を差す。行け、ということだろう。
 手は洗うけど……あしも? が首を傾げていると、空却が再度口を開いた。

「ついでに下も脱いどけよ」
「え」
「足。血ィ滲んでんだろうが」

 見れば、履いていたスキニーの膝部分が破れており、そこからは固まった血塊が覗いていた。全く気づかなかった。どうりで足も痛いはずだ。「ほんとだぁ……」とがぽつりと声を漏らす。「知らずにさっき“痛え”って言ったのかよ」と空却に呆れられてしまい、彼はすたすたと救急箱のある居間へと行ってしまった。
 は覚束無い足取りで洗面所に向かい、手足に付いた砂利と血を洗い流す。その後は二階に上がって、膝が見えるハーフパンツに着替えた。帰りは、階段に座り込みながらゆっくりと滑り落ちるように下りていく。
 すると、ちょうど廊下を歩いていた空却と目が合った。何となくいけないことをしているところを見つかってしまったような気持ちになって、がその場で硬直していると、案の定、空却に思いきり舌打ちをされてしまった。

「ったく……二階上がるならそう言えよ」
「ぇ……」

 空却が、自分が座り込んでいる段までどすどすと近づいてきたと思ったら、体が密着するくらい彼の影が濃く落ちる。驚きのあまり、が体をぎゅっと固くさせていると、唐突に襲った浮遊感でまたしても頭が真っ白になる。膝裏と背中には空却の腕が回されていて、の体は彼によって横向きに抱きかかえられていた。
 ――はたと我に返る。は沸騰したやかんのように顔をぶわぶわと熱くさせながら、手足をじたばたと動かした。

「だっ、大丈夫だよッ。一人で歩けるよッ」
「暴れんな。落とすぞ」

 の声を一刀両断した空却。冗談ではなく本気だ。おかげで、もう自分一人では彼を止めることはできないと悟るのも早かった。
 金魚のように口をぱくぱくと開閉させることしかできなくなった。恥ずかしさのあまり、ついに顔を両手で覆う羽目になった。


 まるで、我が家を歩くような堂々とした足取りだった。割れ物を置くように下ろされたのは、居間にある座布団の上。空却は腕に引っ掛けていたプラスチックの箱を開けると、救急箱独特の匂いがぶわっと充満した。
 しかし、はそれどころではない。おんぶだけじゃなくて、お姫様だっこもされてまった……、と呪詛のように永遠と繰り返す言葉は、をだんだんと盲目にしていく。未だに空却の手の感触がある体の節々を震えさせていると、突如、左の膝小僧に鋭い痛みが走った。

「い……ッ!?」
「ちったあ我慢しろ」

 見れば、空却が消毒液とコットンを持って膝の傷口を消毒していた。自分でやるよ、と言う前に、一切の慈悲もなくどばどばと消毒液をふんだんにかけられる。ちゃんと洗ったのでそんなにもいらないのでは、と思いつつも、ひどく沁みるせいでうめき声しか出せない。「うぅ……っ」と小さく声を漏らしながら、はなんとか痛みに耐えた。
 消毒が終わると、大きな絆創膏をぺたっと貼られる。ようやく息をつけたと思ったら、「次。手ェ出せ」と続けて言われた。「て、手は大丈――」の意見は聞いていないらしい。最後まで言わせてもらえず、こちらの言葉を遮るようにして、の手首は空却によってぐっと引っ張られる。指を広げられた手のひらが露わになると、洗い流したはずのそこにはすでに新しい赤が滲んでいた。

「これのどこが大丈夫だ?」
「じ、自分で、あとで手当てしようと思っとって……」

 すぐさま空却の視線が鋭く刺さり、の体はしゅん、と萎縮する。
 また、怒られてまう……。がびくびくと震えながら空却のお叱りを覚悟していると、彼から生まれたのは怒声ではなく大きな溜息だった。

「お前、人に施してもらうことを悪と捉えてねえか」

 ぱちぱち、とを瞬きを数回する。そんな大袈裟なことは思っていない、と首を振ろうと思ったが、それよりも早く口から声が出ていた。

「自分でできることは、自分でしなかんって……」
「なんでだよ。誰かにそう言われたのか」

 今度こそ、はふるふると首を横に振る。空却はちら、と部屋の中にある仏壇を一瞥して、再びこちらと目を合わせた。

「お前、親は」
「おかあさんは東都にいて、おとうさんはどこにいるか分からん……」
「親無しか。なら保護者は誰だ」
「おばあちゃんがいたけど、小さい頃に亡くなっとって……」
「それからずっと一人か」

 こくん。が一つ頷くと、「へーェ」と空却は中身のない音を漏らす。同情や憐憫の色は感じない。居心地の悪い沈黙が支配した後、「あのなァ」と、胡座をかいていた空却が片膝を立てた。

「再三言うが、拙僧はお前のことは知らねえ。だが、拙僧じゃねえ“波羅夷空却”とお前は既知の仲なわけだろ」
「う、うん」
「なら、なおさらいらねえこと考えんな。拙僧としては頗る鬱陶しいだけだ」

 容赦のない言葉がぐさっとの胸に刺さる。う、うっとしい……。がショックを受けている間にも、空却は淡々と言葉を紡いでいく。

「まあ、人に遠慮する理由っつーのは、大概嫌われたくねえだとかそういうもんだがよ」
「う……」
「現時点でお前に対する評価は最悪だから、これ以上下がることはないと思え」
「えぇっ!?」

 のリアクションをふん、と鼻で笑い飛ばす空却。「おら。終わったぞ」と言われて、は自分の手のひらを見下ろす。擦り傷を隠すようにガーゼで覆われ、それを固定するように包帯がぐるぐると巻かれていた。ちょっとすっただけなのになぁ、と思うも、人にやってもらった手前、わざわざ言うのははばかられた。

「ここまで言ってもまだめんどくせえこと考えたら、それは人のためじゃなくただの自分善がりだからな。覚えとけ」
「は、はい」

 空却の言葉に、思わず敬語で返してしまう。すると、彼はばつ悪そうに視線を泳がせて、ぼそぼそと口をぎこちなく動かした「まあ……なんだ」

「拙僧も、急かして悪かったな。朝っぱらから訳分かんねえ状況だわ腹は空いたわで、すげえ苛立ってた」

 「お前の介抱してたら、頭もだいぶ冷えた」そう付け加えられて、はぱあっと顔を上げた。「ううん……っ。ううんっ」は頻りに首を振り、嬉しさが表に漏れて、自然と口角が上がる。空却は、何も悪くない。責める気持ちは微塵もなかったが、彼の中にそういう気持ちがあるというだけで、の心は何倍も救われた気分になった。

「で?」
「え……?」
「拙僧に何か言うことは」
「あ……。手当て……してくれて、ありがとう」
「そうだ。施しを受けた時は礼一つ言やあいい」

 そう言って、ふ、と薄ら笑んだ空却に、の心臓がどくんっと飛び跳ねる。わ、わらったぁ……。熱を上げたが呆然としている中、空却は救急箱を閉じて元の場所に片付けた。

「あの……空却くん」
「なんだ」
「朝ご飯のことなんだけど……」
「あー、もう気にすんな。外で適当に食ってくる。んな手で作れねえだろ」

 「心配しなくても、飯食ったら大人しくうちに帰っからよ」今までは、何を言っても空却の機嫌を損ねてしまうので、彼の意志を尊重するつもりだった。しかし、今は幾分か棘が丸くなっている。今なら大丈夫かな、と言おうか言おまいか迷っていたことを、は意を決して口にした。

「冷蔵庫にね、昨日の作ったものがあってね、それならチンするだけで食べれるから、どうかなぁ」

 すると、空却は何か言いたそうな顔をしていたが、「……お前がいいなら、それでいいが」とだけ言った。それを聞いたは「すぐ用意するねっ」とすぐさま立ち上がる。さっきまでは動かすだけで痛かった足も、不思議と痛みは感じなくなっていた。
 台所に行き、冷蔵庫を開ける。皿に盛った炒め物を電子レンジに入れて、その間に鍋に入っていた汁物も火にかけ始めた。昨夜の残り物を出すのは申し訳ないが、ものの数分で出来上がるし、外で食べるよりも安上がりなのでこちらの方が空却にとってもメリットは大きいはずだ。
 あ……。どうしよう、味付け大丈夫かな、と今更なことを思った時。居間からほのかに線香の匂いが香ってくる。気になったはガスの火を弱くして、そそ、と少しだけ台所を離れる。
 居間をそうっと覗くと、チイィィン、という鈴の音が聞こえてくる。そこでは、カヨの仏壇の前で静かに合掌する空却がいた。その静謐な空間を邪魔しないよう、は居間の敷居を跨がず、柱に隠れながらその様子を窺った。

「(やっぱり、空却くんなんだなぁ……)」

 どんなに自分のことを知らなくても、こちらの彼と別人でも、彼もまた、“波羅夷空却”という個なのだと、は改めて思う。
 ほう……、と思わず感嘆の溜息が漏れる。早く、台所戻らんと。でも……あと、ちょっと。あと、ちょっとだけ。そう思いながら、電子レンジの音が鳴るまで、は空却の後ろ姿をいつまでも見守っていた。







 空却が居間で朝ご飯を食べている間。は台所で菓子パンをこそこそと齧って簡単に済ませた。決して追い出されたわけではないが、空却と同じ机を囲んで朝食をとるのはまだ少し気恥ずかしかったのだ。
 空却くん、これからどうするんだろう……。お寺に帰っちゃうかな。ひとやさんは一日見とってって言っとったけど、お寺までついてくるなって言われそうだなぁ。そんなことを悶々と考えながら、食器立てに溜まっていた皿を片していると、自分のものではない腕が横からにゅっと伸びてきた。

「ごちそうさん。美味かった」

 がしゃん、とすぐ横に置かれた食器。ひどく驚いた顔でが隣を見ると、眉を潜めた空却がそこに立っていた。

「……なんだよ。閻魔様でも拝んだような顔しやがって」
「う、ううん……っ。なんでもないよっ」

 なんでもないわけでもないが、説明できるほど心に余裕もない。というのも、の頭の中では、先程の空却の言葉が木霊していた。

「(うまかったって……。空却くん、うまかったって言ってくれた……)」

 こんなことは初めてだ。小学校の頃に一人でご飯が作れるよう、空却に味見に付き合ってもらってからというものの、「味がクソうすい」「この煮物やわすぎんだろ」「みそは赤一択だろーがっ」等々――辛口コメントしか聞いたことがなかった。最終的に、「……まあ、いんじゃね」という感想を頂けるようになるまで何ヶ月かかったことか。当時小学生だった自分は、辛口以上の評価ならばそれはもう喜んだものだが、やはり、“美味しい”とはっきり口にして言われると、感動がひとしおだ。
 うれしいなあ、うれしいなあ。まさかこの歳になって夢が一つ叶ってしまうなんて。浮き足立つ気持ちになりながら食器を持ったが棚に立とうとすると、洗い場の前で空却がスポンジを取ったのが見えて、は慌ててそれを制した。

「そのままでいいよっ。わたし洗うよっ」
「自分で食ったもんくらい自分で片す。あと、包帯巻いた手ェ濡らすんじゃねえ」

 ごもっともなことを言われた挙句、すでにスポンジに洗剤を付けた空却を邪魔する方法など思いつくわけもなかった。は渋々引き下がりながら、「ありがとう……」と小さく礼を言う。「礼を言われることでもねえ」やることやったらさっきの部屋行ってろ、とも続けて言われてしまった。空却は洗い物に集中し始め、もう視線すら合わなくなる。
 空却の言葉通り、は静かに食器を棚に片していく。空却が洗ってくれたものもそのまま乾燥させずに、手拭いで水滴を拭いてから棚に入れていった。普段よりも動作がゆっくりなのは、ほんの少しの下心ゆえだった。







 洗い物が終わったら帰っちゃうかなあ――と思いきや、意外にも空却は家に居座った。というのも、居間の棚にあった漫画を見つけるやいなや、それを手に取って黙々と読み始めたのだ。カヨが美容院を経営していた頃にお店に置いてあったものだが、かなり昔の漫画のため、は一度も読んだことがない。ちなみに、空却が今熱心に読んでいるのは手塚治虫作の“ブッダ”。仏教と縁のある彼らしい。
 そういえばこの漫画、こっちの空却くんも小さい頃に読んでたなあ。やっぱり、趣味もおんなじなんだなぁ。別のところにいる空却くん、大丈夫かなぁ……。空却のことを思い出すたび、最終的には心配と不安が胸の中で渦を巻く。大丈夫……空却くんなら、だいじょうぶ。そう自分に言い聞かせた。
 ひとまず、漫画を読んでいる今ここにいる“空却”の邪魔にならないよう、が部屋の隅でスマホを弄っていると、「なあ」と唐突に声がかかった。がふっと顔を上げると、漫画から目を離した空却がこちらをじっと見ていた。

「お前、歳は」
「空却くんと同い年だよ」
「はあ? 拙僧とタメかよ」

 「あまりにも情けねえから歳下かと思ったわ」せせら笑いながら言われたのを受けて、は苦笑いを浮かべる。昔から達観していた空却と比べれば、ほとんどの同年代はその大人びた思考に舌を巻くだろう。否定できないのは致し方ない。

「なら、拙僧とは同中だったとかそんなとこか」
「うん。そんなとこかなぁ」
「他には?」
「ほか……?」
「拙僧は多忙の身だからな。ただ同中なだけで今の今までつるむわけねえだろ」

 「檀家さんでもねえみたいだしな」空却は部屋を見渡しながらそう言う。思ってもみなかった言葉に、もしばらく呆けていた。
 お互いに、積み重ねてきた時間がある。良くも悪くも、胸の中に今も生き続けている言葉がある。それらをひっくるめて考えても、空却と今もなおコンタクトをとっている理由は、他人である“空却”に話すには、少々複雑になりすぎてしまった。
 意識したわけでもなく、は傷のある右耳に指先だけ触れる。あまり人目に触れないそこは痛みはしないものの、自身の贖罪のように痕として今もなお存在している。

「……空却くん、やさしいからねぇ」

 意味が分からない、と言いたげな空却が「理由になってねえよ」と吐き捨てる。そう言われても、それ以上の言葉はない。自分との軌跡がない空却にどんなに厳しい顔をされても、は曖昧に笑むことしかできなかった。


 ――それから、空却との会話も特になく居間にて各々過ごした。ふと、はスマホの画面上部に表示された数字を見てはたとする。いつの間にか座布団を一つ折って枕にし、寝そべりながら漫画を読んでいる空却を一瞥した後、スマホの画面を黒に落とした。

「(もう、十二時かあ)」

 おなかすいたな。そろそろごはん作ろうかな。空却くん、お昼ごはん食べてくれるかなぁ。そう思いながら、スマホを畳の上に置いたは、寝そべっている空却にそうっと声をかけた。

「空却くん」
「なんだ」
「おなか、空いとる?」

 しばらくこちらを見て静止していた空却だったが、ごろんっと寝返りをして、部屋の壁時計を仰いだ。「もうこんな時間か」と呟いて、「まあまあ空いてる」と言葉を続けた。

「お昼ご飯、ライスバーガーにしようと思っとるんだけど、どうかなぁ」
「ライスバーガー?」

 謎、と言わんばかりに目を細めた空却。ライスバーガーがどんなものか、あまり想像できていないらしい。は、ハンバーガーを見立てるように両手で楕円を型どった。

「ふつうのハンバーガーはパンで具をはさんどるんだけどね、ライスバーガーはパンの代わりにご飯ではさむの」
「なんだそれ。でらやべえな」

 「中身はなんだ?」心なしか、空却の声が弾んでいるように聞こえた。普段作る時は、冷蔵庫にある残り物を消化できるように適当に挟んでいるが、今回は人様に出すものなのできちんと作ろうと思っている。は冷蔵庫の中身を思い出しながら、指折り数えながら具を挙げていった。

「豚肉と玉ねぎと……あと、半熟たまごも入れようかなぁ」
「そのライスバーガー、結構でかく作れるか」
「うん。おっきくも作れるよ」
「でけえのがいい」

 空却からの要望に、も嬉しくなって大きく頷いた。「ちょっと待っとってね。今から作ってくるね」そう言って立ち上がると、「待て」と空却に制される。振り返ると、勢いよく上半身を起こした空却がスカジャンを脱いで立ち上がっていた。「あー……」と怠そうな声を漏らし、肩を押えながら露わになった腕を回している。いきなり目に飛び込んできた肌色に全身がびっくりしてしまい、は思わず視線を逸らした。

「拙僧も手伝う」
「えッ」
「二人でやった方が早く食えるだろうが」

 「おら行くぞ」と先陣を切って台所に向かう空却。空却くん、お客さまなのに――そう言おうとしたが、もう彼の姿は居間にない。ひとまず、畳の上に放られたスカジャンをハンガーにかけた後、もその後を追いかけた。


 ライスバーガー用に作り置きしていたご飯を冷蔵庫から取り出して、フライパンに火をかける。温まったフライパンの上にサラダ油を敷いていると、「おい」と隣から声がかかった。

「拙僧は何すりゃあいい」
「ほんとうに手伝ってくれるの……?」
「何度も言わせんな。で、どうすんだ。これ、丸々挟むのか」

 空却がこれ、と手に取ったのは先程ご飯と一緒に取り出した玉ねぎ一玉。ううん、とが首を振る。

「玉ねぎはね、半分だけ使うの」
「それで?」
「うすく切って、そのままだとちょっとにがいから、ボウルに入れて水にさらすよ」
「ん」

 どうやら、玉ねぎの処理をやってくれるらしい。用意していたまな板と包丁はすでに空却の手元に移動しており、彼は黙々と皮を剥き始めていった。もしかして、包丁使うと思って気ぃ遣ってくれたんかな……。偶然かもしれんけど、もしそうだとしたら……すごく、うれしいなぁ……。は一人小さくはにかんで、別の作業に取り掛かった。
 今回のライスバーガーの要である豚肉の小間切れのパックを開ける。余ったら冷凍しようと思って多めに入っているものを買っておいたが、本日は二人分なので、すべての豚肉を別のフライパンに豪快に投入した。
 菜箸で肉を解しながら、中火で焼いていく。赤い部分がなくなったところで、醤油とみりん等の調味料でさっと作ったタレを加える。甘醤油風味だが、ほんの少し一味を入れているので後味はぴりっと辛い。ご飯によく合う簡単おかずだ。
 タレと絡ませたら、肉のひと欠片を取って食べる。うん、いつもの味だ。しかし、今日の昼ご飯は一人きりじゃない。隣にいる空却の方を見ると、匂いにつられていたのか、彼もまたこちらを見つめており、偶然交わった金色の目にどきりとする。切り終わった玉ねぎは、すでにボウルに入った水にさらされていた。

「空却くん」
「なんだ」
「お肉の味、見てもらいたくて……」

 味見と聞いた途端、空却は無言のままとぐっと距離を縮めた。唐突に間合いに入ってきた空却に、は声を出す暇もなく。目の前には、シンクの縁に両腕を置いた空却があ、と口を開けて待っていた。
 いいかな、と聞いてから、空却の返事次第で受け皿を持ってくるつもりだった。「はっ、箸口付けてまったから受け皿持ってくるよっ」「あ? いいわめんどくせえ。そのまま寄越せ」案の定、こちらの言い分も聞いてくれず、再度口を開けて待機する空却。は空却の口に豚肉を摘んだ菜箸をそぉっと近づける。まるで、サファリパークのライオンに餌をやるような手つきだ。豚肉だけ歯で取ってくれたらよかったのだが、無慈悲にも彼は豪快に箸の先端ごと豚肉をばくっと口に含んだ。
 ああぁぁ……ッ。間接的に口付けてしまった事実にが一人悶絶していると、豚肉を咀嚼していた空却の目がきらっと瞬いた。

「うまい」
「えっ!」

 「もう一口くれ」あ、と再度口を開く空却。は言われるがまま豚肉を菜箸で摘んで彼の口に近づける。今度は、ライオンから成猫くらいにまでメンタル面でのハードルは下がっていた。空却のさっきの一言を聞いただけで、間接キスのことなどとうに忘れていた。
 「……ん。うまい」口の中を空にした空却がぺろっと唇を舐めた。

「お前、見た目の割に濃口なんだな」
「えっ。味濃かったかなぁ……」
「お前の話だっつの。拙僧はこんくらいが好きだ」

 空却の言葉に、は首を傾げる。言われてみれば、カヨが作るご飯はどちらかというと薄い方だった。なので、ご飯を作る時もカヨの味に合わせて味付けをしたのだが、おかげで、うすい、うすい、と味見係である空却に言われ続けた過去がある。家に置いてある味噌も、いつの間にか白から赤に変わっていた。
 もしかしてあのことがあったからかなぁ、と自信なさげに思いつつも、空却の視線が痛かったので、はぽつんと言った。

「小さい頃、空却くんにご飯の味とか見てもらっとったから、濃い味に慣れちゃったのかもしれん……」
「あ? じゃあなんだ。これ拙僧の好みか」
「そう、なるね……?」

 「ふぅーん」空却は何か含んだような音を漏らして、それ以降何も言わなくなる。何か言われたら言われたで一喜一憂するが、黙っていられるのもそれはそれで気になってしまう。なんだろう……? と、は不思議そうな顔で空却を見つめるばかりだった。







「いただきます」
「いただきまあす」

 十分足らずで出来上がったライスバーガー。ペーパーナプキンで綺麗に包んだバーガーがの前に一つ、空却の前に二つ置かれている。手を合わせたタイミングは同じだったが、は自分が食べるよりも前に、空却の一口をじっと見守っていた。
 空却は大きな口でライスバーガーにがぶッとかぶりつく。の両手に余るくらい大きく作ったが、今の一口でその四分の一が減った。そして、丁寧に味わうように咀嚼し、ようやくその一口を飲み込んだ空却が今日一番顔を輝かせた。

「うッまっ!」
「えっ!」

 大声を張り、それ以降早送りのようにばくばくと勢いよく食べ進めていく空却。まだライスも豚肉も熱いはずだが、それをも無視してバーガーを口に含んでは数回顎を動かしてすぐさま飲み込み、また新たにかぶりつく。まるで流れ作業だ。
 ただ時折、「くそうめえ」「うちの薄味飯と全然違え」「昼飯毎日これでいいわ」などなどの感想がの耳に届く。それもすべてベタ褒めである。もっ、もっ、と食べ進める空却すら見ていられなくなって、恥ずかしさでどうにかなりそうなはついに顔を覆った。

「もっ、もう大丈夫っ……。もう大丈夫だから言わんでぇ……っ」
「ああ? 何が大丈夫だよ。褒めてんだから素直に受け取っとけや」

 早くも一個目を完食した空却は二個目に手をつけ始めている。褒められ慣れていないため耐性がないのである。それを言っても理解されないだろうから、は無言で羞恥に耐えるしかなかった。
 まだ食べてもないのに火照ってしまった顔を、は両手でぱたぱたと仰ぎながら熱い息を吐く。「はっ。林檎みてえ」と軽く笑った空却を見て、また顔の熱が上昇した。

「ここ最近で、いちばんうれしい……」
「はあぁ? いちいち大袈裟なんだよお前。つか、拙僧も食ってんだから感想くらい言うだろ」
「こっちの空却くんに、一回も“おいしい”って言われたことなくて……」
「マジかよ。拙僧は美味いもんは美味いって言うぞ」

 たしかに……彼ならば、作った人間に対して感謝の言葉だけでなく感想も伝えそうだ。本人が言うのだからそうなんだろう。それでも、“まあ、いんじゃね”以上の言葉を今まで貰ったことがないのも事実なのである。
 こっちの空却くんと味覚がちょっと違うんかなぁ……。がそう思っていると、ずずッ、と茶を啜った空却が長く息を吐きながらこう言った。

「……まぁ、言わねえ理由はなんとなく分かるがな」
「えぇっ。そうなの……っ?」
「拙僧自身が拙僧のこと分かってねえでどうすんだよ」

 「まあ、あれだ。悪い意味じゃねえだろうから安心しな」そう言って、空却は再びライスバーガーを黙々と食べ始める。頬が膨らむくらい食べてくれて嬉しい一方で、は先ほど空却が言ったことを頭の中で反芻した。
 悪い意味じゃない――どういうことだろう。まずくはないってことかなぁ。食べられないくらいまずかったなら大変だけど……それ以外なら、なんでもいいかなぁ……。は、ようやく自分の分のライスバーガーに手を伸ばして、ひと口食べる。醤油風味のライスにぴりっと辛い玉ねぎと、甘辛に仕上げた豚肉がとてもマッチしている。半熟の卵もとろっと濃厚で、手に垂れることもなく食べやすかった。
 いつも作るのよりもおいしいなあ。空却くんとのお昼ごはん、たのしいなあ。空却くん、夕ごはんも食べてくれるかな。ご飯、たくさん食べるかな。いちおう、五合炊いとこうかな。余ったら冷凍しておけばいいし――心が踊ってしまうくらい、とても幸せなことを考える。ライスバーガーの味と相まって、彼女の頬はゆるゆると緩みきっていた。







 ゆうやけこやけで日が暮れて――時報の音楽が流れ始めて、洗濯物を畳んでいたはふっと顔を上げる。もう六時だ。結局、一日のほとんどを居間で過ごしてしまった。漫画を読んでいた空却はいつの間にか眠ってしまったらしく、一時間ほど前から彼の口から深い寝息が聞こえていた。
 ごはん、どうしよう。空却くんが起きたばっかりでも食べれるようなものがいいかなぁ。今、冷蔵庫になにがあったっけ。は膝の上に置いていたバスタオルを畳の上に移動させ、眠っている空却を起こさないようにそおっと居間を出た。


 ついさっき炊けたばかりのご飯をしゃもじでかき混ぜながら、は今晩のご飯を考える。昼ご飯を食べ終えた後、このまま戻らなかったら夕ご飯も食う、と空却に言われたが、肝心のリクエストを聞くのを忘れていた。
 何も聞かずにご飯たくさん炊いてまった……。おうどんとかおそばとか食べたいって言われたらどうしよう。麺はあるから大丈夫だけど、具は何がいいかなぁ……。ネギと油揚げくらいしかないかなぁ……。そう思って、ぱたん、と炊飯器を閉めた。続いて冷蔵庫の中を覗こうとした時、ギシッ、と家の床が密やかに軋む音がした。

「――夕飯、なにすんだ」

 優しい風が運んできた、白檀と伽羅の香り。耳裏の辺りから聞こえてきた掠れた声に、は声もなく体を強ばらせた。
 おまけに、脇腹付近にそっと添えられているもの。熱いくらい、暖かい。そして、腰にもかたい何かが回っている。空却の声を聞いてから思考停止していたせいで、それが彼の腕と手だと気づくまでに時間を要した。
 「おい。聞いてんのか?」寄り添うように、ぴとっとの肩に空却の体がくっつく。おかげで、さらに空却の声が近く聞こえてしまい、は、ひ、と上げそうになった声を寸のところで飲み込んだ。

「まっ、まだ、決めとらんくて……ッ」
「なにビビってんだ。別にキレてねえよ」

 「昼に食った肉、まだあるか。決めてねえなら、あれがいい」密着、という言葉が過ぎてしまう。の脇腹に添えられている指の腹に力が込められ、彼の方にきゅ、と緩く引き寄せられる。寝起きの声も相まって、腰からはだんだんと力が抜けていった。
 ど、しよう……。足、がくがくする……。今にも両膝を折ってしまいそうになり、堪らなくなったは震える口をなんとか開いた。

「く、くーこーくん……っ」
「なんだよ」
「こ、こし……ちから、ぬけてまうから……その……っ」

 皆まで言えなかったが、意味が伝わるように精一杯口を動かすと、空却がしばらくの間沈黙する。そして、「……ああ」と声を漏らすやいなや、彼の気配がふっと体から離れた。

「悪ィな。他意はねえ」

 「顔洗ってくるわ。洗面所借りんぞ」そう言って、涼しい顔でその場を去っていった空却。は消え入りそうな息をついて、その場にへなへなと座りこんでしまった。
 きっと、寝ぼけとったんだよね……。そうだよね……。“たい”って、変な意味じゃないってことだよね……。まだ、腰、さわられとるみたい……。脇腹に残った指の感触と、腰を支えるような腕の存在。数日は記憶に残ってしまう温もりに頭がこんがらがってしまって、「うぅぅっ~……」とは台所で小さくうめいたのだった。







 結局、昼に作った豚肉炒めが余っていたので、そこに玉ねぎを追加して豚丼を作った。こんな簡単なのでいいんかなぁ、と思ったが、うめえうめえ、と昼同様に空却から絶賛の言葉をもらい、はまた羞恥とたたかう時間を過ごした。

 ――そして、本日最後の食事も終わり、今は食休み中。居間に寝っ転がりながらふわあ、と大きな欠伸を漏らす空却を一瞥して、は一人考え事をする。半日から一日ほどで元に戻る、という獄の言葉を信じるならば、タイムリミットはもう近い。空却くん、いつ戻ってこれるんかな……。明日も戻ってこんかったらどうしよう……。今日一日、にとっては色々な意味で充実した日だったが、やはり、その根本は自分の知る空却の安否だった。
 ……あっ。もしかしたら、もうお寺に戻ってきとるかもしれん。お寺に電話してみようかな。がそう思い立つやいなや、「なあ」と大仏のように寝そべっている空却から声がかかった。

「なあに?」
「お前、こっちの拙僧に気ィあんのか」

 ……き?
 木? 黄? 機? “き”って、どんな“き”――ぽかんとしたがその言葉の意味を理解すると、ぶわあぁッと全身の血が顔まで昇った。

「きっ、ききっ……ッ!」
「どもんなよ。さっさと答えろ。気があるのか、ねえのか」

 起き上がった空却がの隣にどすん、と腰をかける。顔を覗きこまれながら問い質され、目を逸らすことも言葉を濁すことも許してくれなさそうだった。一日のうちに熱量が上がったり下がったりを繰り返した頭はすでに疲れ果てていて、言い逃れもできないと分かっているは一刻も早く楽になりたいと思った。
 ……結果、根負けした。は、よく見ていないと分からないくらい……ほんのちょっぴり、首を縦に振った。

「へーェ」
「ど、どうして……っ」
「どうしてもクソもねえよ。初対面から熱に浮かされたような顔しやがって」

 「こんなあからさまな好意に気付かねえのは相当の馬鹿か阿呆だな」はっ、とあざけ笑う空却。要は、自分の態度が分かりやすいということだろう。あれ……? それじゃあ、こっちの空却くんにも――

「で、お前はこっちの拙僧とどうなりたいんだ」
「えっ? ど、どう?」
「普通はなんかあんだろ。恋仲になりてえとか、拙僧になんかしてほしいとか」
「こいなか……?」
「恋人同士」

 ひくんっ、と驚いたように喉が痙攣する。その願望は中学の頃に封印して、埃すら被っている。久方ぶりに呼び起こされたものに頭がいっぱいになった。
 早く言え――空却の目がそう訴える。見た目も中身も波羅夷空却である彼だが、あくまでそれは別世界の話。わたしが知っとる空却くんとは別の人、別の人――はそう自分に言い聞かせながら、ゆっくりと口を開いた。

「そ、そういう意味で、どうなりたい、とかは、ぜんぜんなくて……。わ、わたしが、かってに、想っとるだけだから……。今のままで、じゅうぶんすぎるから……その……」

 片言かつ、しどろもどろに言葉を紡ぐ。こしょこしょと指先同士を絡ませ合いながら、は彼のつくりだす沈黙に耐えた。
 ……そんな気まずい空気の末、の目の前で、ふ、と小さく息をついた音がした。

「三食馳走になった礼に良いこと教えてやるよ」

 突如、空却に間合いを詰められる。が反射的に空却の方を向いた時、すでに彼の顔が目の前に迫っていた。うごかなければよかった、という後悔もすでに遅し。が硬直している間に、空却の片手によって自分の前髪がぐっと上げられた。
 が思わず仰け反ろうとした瞬間、さらけ出された額にぴんッ、と弾くような痛みが走った。

「ぁい、たぁ……ッ」
「んなに強くやってねえだろ」

 前髪を下ろされて、空却はすぐさま距離を戻す。でこぴんされた……空却くんにでこぴんされた……。が額を撫でながら呆然としていると、「はっ。間抜け顔」と笑われてしまう。それだけでも心臓が忙しなく走るものだから、は自分が自分で恥ずかしくなってしまった。

「無欲であることを良しと考えるには、凡人のお前にはまだ早ェよ」
「そうなの……?」
「“求めず欲せずは修羅の道”ってな。拙僧みたいな聖人や老い先短ェ爺さん婆さんが志すのならまだしも、まだ二十年も生きてねえお前が何言ってんだって話だ」

 「心がまま求めても、そう簡単にバチは当たんねえよ」空却の言葉に、は力が抜けたように視線を落とす。ただでさえ、現状話すだけで精一杯だというのに、それ以上の関係など望めるはずがない。これ以上はどうしても踏み出せない。踏み出す勇気もないし、あったとしても、空却とそんな関係になる自分が想像できなくて、心の中でブレーキをかけてしまっていた。
 そんなの心境を見透かしたように、空却は溜息をつきながらこう言う。

「心配すんな。お前がいらねえこと考えずにありのまま拙僧といれば、悪い方には転がらねえよ」
「空却くん、どうしてわかるの……?」
「あ? 当人が言ってんだからこれ以上の説得力ねえだろ」

 言われてみればそうだ。しかし、目の前の空却は自分と何があったのか知らないのだ。知っているのといないのとでは言えることも違ってくるにちがいない。空却との今日までの経緯をすべて話してしまおうかと考えたところで、のスマホがヴーッ、と震えた。
 畳の上に置いていたそれを手に取って、は画面に表示された名前を確認する。「誰からだ」「十四くんだよ」「ここで出ろ」空却の言葉に一つ頷いて、は画面の上に人差し指を滑らせた。

「もしも――」
ちゃんっ? 今どこにいるんすかっ? 自分も獄さんも用事終わったんで今お寺に来たんすけどっ、ちゃんも空却さんもいないんで心配になっちゃって……ッ!》

 弾丸のように飛び出してきた言葉に、あっ、と声を漏らしそうになる。そういえば、寺に電話すると思ってそのまま終わってしまっていた。「し、心配かけちゃってごめんね」は十四に一言謝って、隣にいる空却をちらりと見た。

「今ね、空却くんと一緒にわたしの家にいるの」
ちゃんの家っすか!?》

 《あ゙!?》――突然聞こえてきた十四以外の声に、はわっと目を見開く。電話の向こう側から、懐かしい声がした。はスマホを両手でしっかりと持って、興奮を隠しきれずに声を張った。

「いっ、今、そっちから空却くんの声――」
《そうなんすよお! 門を潜ったら目の前にこっちの空却さんが急に現れ――ッ、ああっ! 空却さん勝手にスマホ取らな――ッ!》

 ガサガサッ、という大きな雑音とともに、十四の声が途絶える。しばらく無音が続いたと思ったら、雑音の音が近くなって、はあ、と微かに息の音が漏れて聞こえてきた。

《今から十四達とそっちに行く》
「空こ――」
《行くまで通話切んなよ。いいな》

 突然耳元で聞こえてきた声に肩に力が入るも、うん、うん、とは頻りに返事をして、口元をほのかに緩めた。
 空却くん、戻ってこれたんだ……。よかったぁ……。じわ、と視界が揺れそうになったところで、再び電話口から空却の声が届く。

《今、そっちに“拙僧”がいんのか》
「う、うんっ。わたしのすぐ隣に――」
《離れろ》
「え?」
《そいつと別の部屋にいろ。何でもいいからとにかく離れろ》

 どうして、と聞く前に、今度は隣にある気配が動く。「“こっち”の拙僧か」とスマホを当てている反対側の耳から“空却”にぼそっと囁かれた。
 両サイドからそれぞれの空却に挟まれてしまい、は思わず声が漏れそうになる。しっ、と目の前にいる彼が自身の唇の前で人差し指を立てた。よく分からないが、思考する暇もなく、はこくんと頷いてしまう。

《おい何黙っとんだッ。聞いてんなら返事し――ッ!》

 それからは目にも止まらぬ動作だった。が持っていたスマホを空却に取り上げられ、スマホの画面を数回タップしたと思ったら、近くにあった座布団の上にぽいっと放ってしまった。
 えっ……。えっ……!? 通話を切るなと言われたばかりなのに、これはかなりまずいのでは。が慌ててスマホを再度手に取ろうとすると、それを制するように空却の手が伸びてくる。スマホを取ろうとした方の手首を捕えられて、ぐいっと体の向きを無理矢理変えさせられた。
 空却と向かい合わせになった。次は彼の反対側の手が自分の顔の横へと向かったので、思わずは目を瞑る。横髪を指で掬われ、そのまま耳にかけられる。外気と人の目に触れた右耳に、ぞわ、と鳥肌が立った。

「……なるほどなァ」

 く、と空却が喉の奥でわらう。耳の縁をなぞるように空却の指が這う。傷がある部分を通過するたびにぞわぞわとしてしまい、びくびくと体を震わせていると、ようやく空却の両手がの体から離れていった。
 い、いまの、なんだったんだろう……。あと、なるほどって……? 疑問が絶えない中、先程までやろうと思っていたことをははっと思い出した。

「わっ、わたし、空却くんと電話しとかんと――っ」
「ほかっとけ。いづれこっちに来るんだろ」

 「それより時間がねえ。さっきの続きだ」何もさせないと言わんばかりに、の手のひらを畳へ押し付けるように空却の手が覆い被さった。彼の手のひらの熱が手の甲に直に伝わってきて、はまたしても言葉を失う。

「こっちの拙僧と何があったか知らねえがな。拙僧は“ただの女”と思ってる奴と、今日まで関係は持たねえ」

 が耳に入ってきた音を理解する前に、空却はさらに言葉を続ける。

「あと、お前が思ってるより拙僧は自分のことしか考えてねーからよ。拙僧のことは気にする方が損だ。余計なことは考えずに、お前はお前の、したいことをすりゃあいい」

 空却の言葉は一言も逃さず拾えているのに、意識が手の甲にいっているせいか、胸にすとんと落ちてこない。が要領得ない顔をしていると、「拙僧が今言ったこと復唱しろ」と言われて、さらに混乱する。手を退けたいのに、言うまで離さんとばかりに力が込められているので逃げることもできなかった。
 えっ、と……えぇっとッ……。は頭に残っていた音を思い出しながら、懸命に口をはくはくと動かした。

「わっ、わたしの、したいこと――」
「ちげーよ。もっと前からだ」
「よ、余計なことは考えんで、わたしの、したいこと、する……っ」
「よし。言葉は力だ。今てめえの口で言ったこと、忘れんなよ」

 そう言って、の手を押さえていた方の手で頭をぐしゃぐしゃと撫でられる。次から次へと押し寄せてくる刺激に処理が追いつかなくなった。くてんくてん、と頭を撫でられるがままに首を左右に動かしてぼおっと惚けていると、「なんだ。“俺”にも惚れたか?」と小さく耳打ちをされて、頭のてっぺんから湯気が出た。が我に返ったのは、ピンポーン、と家のインターホンが鳴ってからだった。
 おきゃくさん……。あ、もしかして、空却くんたちかな……。でも、お寺からここまでちょっと歩くから、宅配便の人かな。あっ、でも獄さんも一緒なら車で来たのかも――全身から溢れた熱で鈍くなった思考をなんとか働かせていると、ピンポーン、とインターホンの音が再度家中に響いた。

 ピンポーン、ピンポーピンポピンポピンピンピンピンピピピピピピpppppppp――ッ!!

 ガシャンッ!! と最後に玄関の引き戸のガラスが鳴る。今の一撃で宅配便の可能性は消えた。「ひゃあぁ……ッ」とが怯えている一方で、空却は「おーおー。熱烈なこったな」と暢気に笑っている。

「なんか知らねえが、今すげえ良い気分だ」
「いい気分……?」
「体が異様に軽い。このままいけば、拙僧も“あっち”に戻れるかもな」

 空却は自分の胸に手を当てながら密やかに言う。たしかに、も確信はないものの、なんとなく別れの気配がした。
 たった一日とはいえ、過ごした時間は濃かったように思う。何か言わなくてはいけないような気がしてが口を開こうとすると、空却に先を越されてしまった。

「朝方、“お前に対する評価は最悪”っつったろ」
「う……うん……」
「あれ、取り消すわ。飯作るのうまい女はどっちかっつーと好きだ」

 好き――深い意味でないことは分かる。空却もなんとなく言っただけだろう。それでも、親愛に似た情がその言葉から垣間見えて、一瞬だけ、の胸がふわっと軽くなったような気がした。
 刹那、空却が纏う空気が変わる。すぅー、と深く息を吐き始めた彼。目も閉じており、まるで精神統一をしている雰囲気だ。そんな空却を見て急に心寂しくなってしまった。邪魔してはいけないと分かっていても「空却くん、」と小さく呼びかけてしまった。

「また、ね」

 他に出てくる言葉はなかった。ばいばい、とが控えめに手を上げると、うっすらと目を開けた空却は、口元を上げて柔く笑んだ。

「……ああ。またな」

 ――ガッシァャンッ!!
 ひときわ暴力的な音がして、は玄関口の方を見た。「おいいるの分かってんだよ早よ開けろやッ!!」引き戸越しでもすぐ目の前にいるような音量にの体は震え上がった。や、やっぱり空却くんだっ……! はやく開けてあげんと……! そう思って、思わず“彼”がいた方を振り返ると、は息を呑んだ。

「(い、ない……)」

 そこには、ただの空間だけがあった。しん、と静まり返った居間に、は目を丸くする。自分以外に、誰もいない。ほんとうに、彼は、元の場所に帰ってしまったようだ。さっきまですぐそばにいたのに、まるで現実味を帯びない。今までながい夢でも見ていた気分になっていると、再び玄関の引き戸がガシャガシャッと忙しない音を立て始めた。
 「い、いま開けるねっ!」は今度こそ玄関口まで行って錠を外す。すると、ガラガラッと勢いよく引かれた戸とともに、の横を目を引く赤色が通り過ぎた。靴を脱いでどすどすと家中を歩き回る彼を見て、わあぁぁ……、とは小さく感動する。
 髪は、いつもみたいな髪型。スカジャンもぶかぶかでおっきい。いつもの空却くんだあ……。一日会っとらんだけだったのに、なんだか久しぶりに見た気がするなあ……。ひとまず無事に帰ってきてくれた空却を見て、がほっと胸を撫で下ろす。
 しかし、どうやらが思っているほど事態は平和なことだけではないらしい。「おいッ」空却が大股でこちらに迫ってきたと思えば、きッ、と鋭い眼光で見下ろされた。

「あいつ、どこ行った……ッ」
「あいつ……?」
「もう一人の拙僧だよッ!」

 キイィン、と耳鳴りがするくらい怒鳴られてしまう。「も、もう、帰っちゃった……と、思う……」が萎縮しながら答えると、空却は「クソが……ッ」と呟き、大きく舌打ちをした。まるで鬼の形相だ。
 こころなしか、空却の息も上がっているように思えた。おそらく、空厳寺からここまで走ってきたのだろう。でなければこんなにも早く到着するはずがない。それほどまでに自分自身に用事でもあったのだろうか。たしかに、自分以外の自分が近くにいるというのは不思議な感覚かもしれない。
 ひとまず、空却の怒りが冷めるまで黙っていようと心に決めると、空却にいきなり手首を引っ張られた。

「おい……この包帯どうした」

 空却に包帯を巻かれた手をじろじろと見られる。まるで、赤い炎が青く変色したように、さらに彼の苛立ちが増したような気がして、はあたふたとしながら視線を泳がせた。

「み、道で転んで……」
「お前の“転んだ”は世界一当てにならねえんだが」
「ほっ、ほんとに今回は転んでまったのっ。それで、空却くんに手当てしてもらって――」
「あ゙ぁッ!?」

 ぎゅッ、と手首がきつく締められる。痛くはないが、少しだけ手が苦しくなって眉をひそめると、はっと目を開いた空却がすぐさま手を離した。
 「……悪ぃ」「う、ううん……」手首を撫でながら、は首を振る。こういう空気になるのも、なんとなく久しぶりだ。あちらの空却とは、そんなことは一度もなかったものだから。
 ……以降、うんともすんとも言わなくなった空却。少しだけ怒りの熱が冷めたような気もするが、いらいらしているのは、も肌で感じとれた。「空却くん、あっちで大丈夫だった……?」と話しかけてみると、「あ?」と空却は短く反応する。さっきよりは比較的穏やかな声色になっていた。

「大丈夫もクソもねえよ。一日中、あっちの獄と十四に寺で軟禁されとったわ。あと、十四が泣きまくるからずっとうちで修行しとった」
「そうなんだぁ……」

 空却らしい言葉にはうっすらと微笑んだ。
 改めて、は空却をちらりと見上げる。彼にしては珍しく汗ばんでおり、先程までは息も上がっていた。やっぱり、走ってきてくれたんかなぁ。じゃなきゃあ、お寺からこんなに早く来れんもんね。お水いるかな、欲しいかな、聞こうかな――そう思っていると、空却がはっとした顔で再びこちらを見下ろした。
 その瞬間、肩口に顔を近づけられて、すんっ、と匂いを嗅がれる。「ぇ、えぇ……っ?」空却の赤い髪が目の前に迫ってきたが狼狽えている中、空却は肩口から少し顔を上げて、ぼそっと呟いた。

「……俺臭え」
「く、くさい……っ?」
「うちの寺の匂いがクソほどしやがる。あいつに何された」

 肩口から顔が離れても、は空却の視線に捕らわれたまま。何された――そう言われて、頭に思い浮かぶのは今朝からついさっきまでの“彼”との記憶。おんぶ、お姫様抱っこ、初めての“おいしい”――彼との近すぎた距離感が頭を過って、はみるみるうちに赤面していく。
 言えない。言えるわけがない。彼と空却は別人だが、同じ“波羅夷空却”には変わりないのだから――は、空却のきつい眼差しから逃げるようにして、そぅっと目を逸らした。

「……な、」
「あ?」
「ない、しょ……」

 ……無言が重い。せっかく内に秘めていた熱が再度暴発するように、「はあ゙あぁッ!?」と空却が声を荒らげた。

「お前が拙僧に隠し事なんざ一万年早ェんだわッ! とっとと言いやがれっ!」
「空却くんには言えん~っ……!」
「俺にはってなんだよッ! 意味分かんねえこと言っとんじゃねえぞッ!!」

 ぎゃいぎゃいと言い合いをしているうちに、車に乗った獄と十四が家までやって来た。事態をみかねた十四が空却を羽交い締めにしたので、は空却に尋問されずに済んだ。
 「空却さん落ち着いてくださいっすッ!」「離せこンのクソがッ!!」「、一日お守りさせて悪かったな。このバカもすぐに回収すっから」十四に羽交い締めされながらも空却が未だこちらに向かって怒鳴っている。その真横で、涼しい顔でこちらに話しかけている獄がなんともシュールで、は困ったように笑った。「何暢気に笑っとんだッ!!」「空却さんッ!!」
 それに、お守りなんてそんな大層なことは――そう言おうとして、はふと、彼に言われたことを思い出す。

 ――「言葉は力だ。今てめえの口で言ったこと、忘れんなよ」

 良い意味でも、悪い意味でも――は、それを身をもって知っている。今までは悪い意味ばかりでしかそれを味わってこなかったが、これからは、自分自身の言葉が自分を勇気づけるような何かになるのだろうか。
 自信のない……いや、そんな“情けない”自分のために、彼はわざわざこの口で言わせてくれたのだろう。夢ではないと訴えるひりついた額を撫でながら、はひとりはにかむ。そして、体から漂うのは自分の知らない“空却”の匂い。目の前にいる空却のものならまた心臓が暴れだしたのだろうが、今は、どことなくちがう。体に纏ったこの匂いは、臆病になったこの心を元気づけてくれる、お守りのような気がした。