やさしい運命に出会えますように



「新作ヘッドホンのモニターとか、興味ありませんか?」

 聞き慣れない声に反応してはいけないと分かっていても、その日のはつい気が抜けていた。

 仕事の昼休憩中、迎えに行けないという連絡を空却から受けたは、人の目から見て分かるほど落ち込んだ。仕方がないと分かっていても、この瞬間はいつ味わっても好きになれない。すっかり空却に甘えてしまっている自分に鞭を打ったのは、溜息をつきながらアプリを閉じた数秒後だった。
 ワークパフォーマンスに支障が出ないうちに、は本日の業務を終える。そして、久々であるおひとり様の帰路の途中、消耗品の調達をすべくオオス商店街へと足を伸ばした。たとえ、その日に入用のものがあっても、空却がいる手前、いつもは直帰するのだ。おそらく、言ったら言ったで買い物に付き合ってくれそうだが、その気遣いがの心臓にとってかなりの負担だった。付き合わせている申し訳なさと、空却と一緒にいれる時間が長くなった嬉しさの半々だ。

 ――閑話休題。そこで、冒頭のように見知らぬ誰かに声をかけられたわけなのだが。いつもなら罪悪感いっぱいの胸を押さえつけて、なんとか足早に振り切るものの――一度応えてしまったら断れない質なので――今回は条件反射で声のする方を振り向いてしまった。ほんの少し、心の内にあった寂しさが誰かとの会話を望んでいたのかもしれなかった。
 「一番と二番、どっちのヘッドホンの音質がいいか、街中調査しているんです」にこやかにこちらに話しかけてきた青年は、目の前にある音楽専門店に委託している販売員のようだった。街中でよく見かけるキャッチーが纏っているようないやらしさはなく、無理強いは決してしない、顕著な姿勢が話し口調から伺えた。
 一分ちょっとで終わる、変な勧誘は絶対にしない、協力してくれた人にはもれなくティッシュ箱五個セットを差し上げている――青年は、の相槌を挟みながらそう言った。「どうですかね……?」と少しだけ困った顔をした青年にの良心が疼いて、音楽を聴くくらいなら……ということで、も踏み出そうとしていた足をすっ、と戻した。それに、今まさに買おうと思っていたティッシュ箱が貰えるというのだから、にとっても決して損はない。
 ヘッドバンドとイヤパッドの部分をアルコール消毒をしてくれた青年から、ヘッドホンを受け取る。上等なものと窺えるそれはかなり大きくて、の手には余ったが、耳から聴こえてきた音は素人のでも違いが分かるほど高音質だった。流れてきた音楽は聴いたことのないヒップホップだが、次々に紡ぎ出されるリリックに、はただの調査であることも忘れて、思わず聴き入ってしまう。しかし、青年の仕事の邪魔になると我に返り、早々ともう片方のヘッドホンも嵌めた。流れてきたのは先ほどと同じ曲だったが、最初のヘッドホンとは違いが明確だったので、は渡された白い紙に一番と書いて、目の前にある回収箱の中にすこん、と投函する。
 帰り際に、「今日のノルマ、実はお姉さんがラストだったんです。ほんと助かりました」そう言って、青年が穏やかに微笑んだものだから、も思わず笑みを零した。ティッシュ箱がもらえるという下心ゆえの行動だったが、多少なりとも人助けができたようで、も内心浮き足立ちながら、青年に会釈をしてその場を立ち去ったのだった。







「(タイミングよかったあ)」

 無料で手に入れたティッシュ箱を揺らしながら、家の前に着いた。ああいうのも、たまにはいいかな。なんでも答えちゃうのは気をつけなかんけど、特典があるのなら、これからもやってみていいかも。ふふ、と口元から溢れる笑みをそのままにしておいて、は嬉々として、玄関口のある路地へと入っていった。

「あ……」

 すると、この場所を拠点としている野良猫がいつもより何匹か多く屯っていた。朝と夕方――仕事がない日はお昼も含めて――路地にいる野良猫たちに猫缶を買ってきてはご飯を賄っているので、この時間帯をゴールデンタイムと定めている猫は、さぞかしの帰りを待ち望んでいたことだろう。
 かわいそうなことしてまった……。は玄関の鍵を開けながら、足元に擦り寄ってきた猫たちをそろりと見下ろした。

「ごめんね、もうちょっとしたらご飯あげ――」

 ――にゃー、にゃー
 ……気がつくと、は地面に尻もちをついていた。あれ……? 当人であるが現状を把握しきれていない。すとん、と急に体から力が抜けた。どこかが痛いとか、外部から刺激を受けたとかは、全くない。の突拍子な行動に、その場から逃げ出した猫が何匹か、心配そうにさらに擦り寄ってきた猫が何匹か……自分を取り囲む猫達を他所に、は冷や汗が止まらなかった。
 まだ、力が入らない。心なしか、体がじわじわと熱を帯びてきて、動悸もしてきた。呼吸が荒くなる。手足が痺れていく。どうしよう、どうしよう、どうしよう――未知の感覚にの目の前もじわじわと霞んできた。

 ――にゃー、にゃーぅ

 救急車……でんわ、しないと……。なん番、だっけ……。今にも途切れてしまいそうになる思考に縋り付くようにして、は考える。あれ……? スマホ……“すまほ”って……、なに……? だめ、ちゃんと、携帯、で、れんらく、しないと……。

 ――にゃうー、にゃー

 あ……高校にも……でんわ……。入院とかになったら、無断欠席になっちゃう……。高校……? わたし、まだ、高校生じゃ、ない――そう、あしたは……体験入学があるから……スカーフ、ちゃんと、アイロンかけとかんと――スカーフ……? ううん、ちがくて、あしたは、さんすうの、テストがあるって、せんせい、言っとって、あと、五、六年生といっしょに、レクリエーション――たのしい、しょうがっこう、かえったら、ばあばのつくった、おにまんがあって、もしかしたら、かえるとき、きょうも、くろいろの、ランドセル――

「くぅ……ちゃ――」

 にゃー、にゃー……
 聞き慣れない幼子の声が、自分の口から漏れた。しかし、何か思うほどの思考は、すでにない。だれか、だれか――口を動かして、懸命に喉を絞るが、聞こえてくるのは、自分の周りで切なそうに鳴く猫たちの声だけだった。
 意識がまっくろに塗りつぶされる感覚がこわくて、座っているのも辛くなってきたは、その場にころんと横たわる。背中を丸め、足を抱え、まるで、胎児のように体をぎゅっと丸くさせた。
 からだ、あったかい……。ふわふわ、きもちい……。やわらかい感触が、自分の体を覆ってくれているのを感じる。恐怖や不安も一緒に薄れていき、意識を手放す瞬間、は穏やかな気持ちでゆっくりとその目を閉じた。







 何のために、毎夜拙僧が迎えに行っとると思ってやがる

 元を辿れば、本日の朝餉当番が醤油の容器を床にぶちまけたのが事の始まりだった。ちょうど正門掃除から帰った空却が台所の前を通った時、そこに広がっていたのは漆黒の池溜りと独特の刺激臭。その正体を瞬時に見抜いた空却は、また派手にやったなァ、と平静な心の内で呟いた。
 寺に来て日の浅い修行僧達があたふたとしながら床掃除をしている中、さて本日の朝餉に使うお浸しの味付けがなくなってしまったと些事なことを言うものだから、空却はやれやれと呆れた。「なら酢のものにすりゃあよくね」と案を出した後の、彼らの目から鱗の顔ときたら。まさに、“焦燥は心の隙間を食う”である。
 「あと、醤油は拙僧が買ってくっから、そのまま朝飯の準備頼むわ」空却がそう名乗り出たのは必然だ。本日の当番は他の地方からナゴヤに来たばかりの修行僧達……よって、ここ周辺の地理もまだそれほど詳しくないはず。自分が買い出しに行った方が効率がいいと判断したのは、空却だけではなかったらしい。すみませんがお願いします――そんな修行僧達の言葉を背中に、空却は早々と寺を出たのが、つい数十分前のことである。

「あら? 珍しい顔が歩いてくると思ったら」
「げッ」

 時刻は午前六時を回った。あまり気の進まない道だったが、この時間帯にやっているスーパーに向かうにはこの通りを歩く他なかった。そして、ちょうど通りがかった二軒並びの平屋の前にいるのは、幼い頃の自分を知るおとこおんな――うげ、とあからさまに苦い顔をした空却を他所に、「あなたがこの時間に通るなんて珍しいじゃなぁい?」と彼女はねっとりとした声を出す。朝っぱらから胸焼けする声だな、と内心思いつつ、けっ、と声を漏らした空却は口を開いた。

「ただの買い出しだ」
「買い出し? あらぁ~。こんな朝早くからおつかいができて偉いわねえ~」

 まるで小学生でも相手にしているかのような口調に空却はかちんとくる。しかし、その憤りもものの数秒ですっと体の中から消えた。寺を出る前、心穏やかに読経をした成果である。いつもなら食ってかかる空却の精神は、水を打ったような静謐を保っていた。
 それに、だ。こんな時間云々はこちらの台詞である。まだ六時だというのに、店からは仄かに珈琲の香りが漂っている。「お前んのとこの店、こんな時間からやっとんのか」空却がそう尋ねると「ええそうよ~」と彼女は朗らかに答えた。

「むしろ、モーニングがないカフェなんてほぼないでしょ? ……あっ、ちゃんは基本的に遅番だから、朝お店に来てもいないわよ~」
「んなもん知っとるわ」

 朝にめっぽう弱いあいつが、今の時間にいるはずがねえ。いたらいたで、きっと空から槍が降る。つかなんでそれを拙僧に言う。空却は訝しげな眼差しを彼女に向けるが、「あっ、そうそう」と何処吹く風の彼女は思い出したようにこう切り出した。

「昨日の夜、商店街で違法対象のマイクで通した音を録音……それを、キャッチーのふりをした人間が、街中で歩いてる人達に無差別で聴かせたってことがあってね?」
「知っとる。今朝の新聞に載っとった」
「えっ!? あなた新聞読むの!?」
「読むわッ!!」

 せっかく清めた心が秒で荒む。心底驚いている顔がさらに腹が立って、思わず声を張ってしまった。「まあいいわ」「よくねーわ」「それでえ~」「聞けよ」

ちゃん、昨夜、商店街に寄るって言っててね」
「は?」
「心配だったから、そのこと聞いた時にちゃんに電話したんだけど、昨日の夜からかけてもかけても繋がらないのよ~」
「……寝とっただけだろ」

 「ならいいんだけどねえ……」彼女はそう言ってふう、と溜息をつく。つきたいのはこっちの方だ。今にも髪を掻き回したい衝動をぐっと堪えるも、空却はふつふつと煮えたぎった胸を沈めることができなかった。
 今朝の新聞によれば、音楽専門店の委託店員を装っていたその男は現行犯逮捕。彼によれば、聴かせた相手はごく少数らしい。警察は心当たりのある人間に向けて情報提供を呼びかけており、聴いたと名乗り出た者の何人かは警察署で事情聴取を受けている。しかし、現段階ではどのような症状が現れるかは不明。現行、違法マイク自体未知なるもの……命に関わる最悪のケースも考えられるということで、未だ捜査は続いている――そこで、新聞の記事は終わっていた。
 ……声をかけられたら、容易く応じてしまうの姿が目に浮かぶ。先月の夜中にドンキに行った件といい、は空却がいない時に限って、よく寄り道をする。生理的な意味で付き合わせたくない買い物ならまだ許容できるが、それが遠慮の意味で来ているのなら話は別だ。なんで夜中に一人でふらふら街中を歩くんだよ――そう捲し立てて言っても、おそらく困った顔をするであろうがありありと浮かんでしまい、想像上の空却は言葉を詰まらせる他ない。誘え、と言えば、はすぐに頷くのだろうが、事はそういう問題ではないのだ。古着屋の時は心の底から許せなかったのでついボロが出てしまったが。
 昔のような無遠慮精神は、一体どこに落としてきたのか。記憶を遡っても心当たりのない空却は、己の中で漂う懐古をすぐさまかき消した。

「……もう行くわ。朝飯の時間に遅れる」
「あら。引き止めちゃってごめんなさいね」

 「別に」そう言って、空却はくるりと踵を返す。そのまま地面を蹴ろうとすると、不意に背後から声がかかった。「ねえちょっと」

「スーパーって反対方向じゃない?」
「他の用事思い出したんだよ」
「へえ~?」

 「用事……ねえ?」意味深そうな声色に変わった彼女の口から次なる言葉が飛び出す前に、空却はそそくさと店の前から離れる。ポケットに手を突っ込んで、その中にあるガムを指先でころころと転がした。

「何もなかったら、一本電話ちょうだいって伝言お願いね~っ!」

 瞬間、うぐ、と息を詰まらせた空却。そして、ポケットに突っ込んだ両手はぐっと奥へ沈まった。震えそうになった肩はなんとか平然を保ち、それは足元にあった小石を蹴る力に変わる。数メートル先まで飛んで行ったそれが道の端の溝に落ちたのを見送ると、空却は先程よりも大股で歩を進めたのだった。







 こんな朝方にの家の前を通るのは、小学校に通っていた時以来だ。あの頃は、長期休みの度に嫌がらせというくらいこの家のインターホンを連打し、を叩き起こす日々だった。そうでもしないと、あの寝坊助はなんと昼まで眠りこけているのだ。不健康この上ない。
 「くーこーくん……まだ九じ……」「“もう”九時だわっ!」そんなやり取りを飽きることなく毎度しつつ、と一緒に朝から夕方まで夏休みや冬休みの宿題をしたのは、未だ記憶に新しい。いつからか、の方がうちに泊まることが多くなったので、そんな日々もすぐに終わってしまったが。
 だから……電話に出ないのは、きっとそのせいだ。歩き出してからずっとスマホを耳に当てている空却は、もうすでに何回目かのコール音を耳に入れている。そうしているうちに、音に急かされるように早くなる足はすでにの家の前に到着していた。ああ、くそったれ。微々たる焦燥を胸中に秘めながら、空却は最初と何の変化もない通話画面を苛立ちげにぶつッと閉じた。
 昔はインターホンを連打すれば数分後に出てきたが、今はどうか分からない。とりあえず、安否確認さえできれば、それでいい。あとは当たり障りのない来訪理由を頭の中でぶつぶつと唱えながら、空却は路地へと近づいていく。
 醤油借りに来た――他人からすれば突っ込みどころ満載な理由でも、純真なは不思議な顔をしながらも、快く持ってくるにちがいない。「だし醤油と濃口醤油、どっちの方がいいかなぁ……?」なんて言いながら。マジで馬鹿素直。脳内年中花畑。まあすべては、彼女の身に何事もないかつ、こんな早朝から起きていればの話なのだが。

「……あ?」

 空却は訝しげに首を傾げる。路地に入る前に聞こえてきたのは、近所迷惑一歩手前の猫の鳴き声。にゃー、にゃー、と頻りに鳴いているのを不思議に思って、空却が足早に路地を覗けば、そこには目を張るほどの猫達が、の家の玄関口付近に群がっていた。

「(なッんだこれ)」

 トラ、シロ、クロ、キジトラ……子猫から老猫まで、種類も歳も色とりどりだ。目視で確認しただけでも十匹はいる。マタタビでも撒いたんかあいつ、いやそんなはずはない、とありえないことを自問自答したいくらいには、なんとも異様な光景だ。ここは昔から猫の溜まり場だったが、こんなにも大量の猫が屯っていた記憶は一つもなかった。
 しかし、どんな理由があれ立ち止まっていても仕方がない。空却は猫の大群に対して物怖じもせずに路地の中へ足を進ませた。
 近づいてくる空却の気配で逃げた猫が何匹か。しかしその大半は、なぜか玄関前の一点に集中して、じっと動かないでいる。まるで、彼らにとっての宝物を守るかのように。中には、空却のことを威嚇してくる猫もいたため、引き戸の前に近づくのは簡単ではなかった。
 腹減って気ィ立っとんのかこいつら……。これ以上、威嚇してくる猫を刺激しないように、空却はそろりそろりと慎重に歩を進めていく。途中、空却の足に擦り寄ってくる猫も一定数いたものだから、よく分からない。警戒しとんのか懐きたいのかどっちだ。つかあんま近づくな。特にチビ猫。踏んじまうだろうが。
 なんだかんだで空却が猫を蹴っ飛ばさないように配慮しながら、なんとか玄関口前に近づいていく。そこで、先程から猫達がじっと座って固まっている一点が気になって、インターホンを鳴らす前に、空却は興味本位ではそちらに目をやった。

「お前ら、さっきからなに囲んどん――」

 ――全身から血の気が抜けていく。
 猫達に守られるように横たわっている、小さな塊。それは、腕と足をきゅっと折り曲げた幼女だった。は? いや……は? 心を清めたばかりの空却も、今回ばかりは思考がぴたりと停止する。ぱちんっ、と靄が綺麗さっぱり弾けた時には膝をつき、彼女に向かって両腕を伸ばしていた。

「おいっ……おいッ!!」

 威嚇する猫を諸共せず、空却は倒れている幼女を抱き上げる。体の大きさからして、小学校低学年といったところか。なんでこんなこところに子供が転がっとんだ。いや、そんなことよりも、体がひどく冷たい。まさか昨日の夜からこのままだったのか。春先とはいえ、まだ夜は冷えるというのに。猫がこうして彼女の体に身を寄せて暖をとっていなかったら、最悪凍死していたかもしれない。猫達の真意がようやく分かって、空却は畜生達の慈愛を垣間見た。彼女の顔は髪に覆われて見えなかったが、見た感じ、目立った外傷もない。息も、ちゃんとある。
 そんな中、空却が一番妙に思ったのは、幼女の格好だった。身丈に合わない大人の女の服に包まれていて、誰かが着せたとも考えにくい。さすがの空却も、意味が分からん、の一言に尽きた。
 ひとまず、だ。空却は着ていたスカジャンを脱いで、幼女ごとくるりと覆う。子猫を丸め込む感覚に似ていて、一縷の庇護欲が胸中に滲んだ。

「ぅ……?」

 僅かな音が、下から聞こえた。スカジャンの中がもぞもぞと動き出して、にゅっ、と外に顔を出したのは、もみじのような小さな手。それは、幼女の両目をくしくしとこすり始め、その拍子に、彼女の顔を覆っていた髪もはらはらと横に避けていった。
 ぴたりと動きが止まった両の手。ゆるゆると退かされた指と、ゆっくりと持ち上げられる瞼……その一動作がやけにスローモーションに見えて、その間、なぜか、動悸が止まらなかった。これは、最初に感じた嫌な予感が生んだ副産物のようなものだったのだと、空却は後になって思った。

「は……?」

 ――目が、合う。
 空却は抱きかかえていた幼女を落としそうになった。それくらい、胸に波が打った。暴風及び竜巻警戒地域に指定されるくらい動揺した。
 目尻が少し垂れた、栗色の瞳。大福のような頬がふっくらと盛り上がっていて、とろんとした眼差しは、空却のことをぽぉっと映していた。あいつ、妹なんて、おったんか。いや、そんなはずはない。お互いに一人っ子という会話を、かなり昔にした覚えがある。それくらい、この幼女は、昔のによく似ていた。おそろしいくらい。なんなら、十数年前から昔の彼女が時間旅行してきたんじゃないかというくらい。
 ……いや、そんな非現実的なこと、考えんじゃねえ。目の前の現実と向き合え。何者なんだ、こいつは。

「お前――」

 きゅうううぅぅぅっ
 ……かなり気の抜ける音が、空却の胸の前から聞こえてきた。「ぅぅ……」見れば、かなしそうに眉をきゅっとしぼめた幼女が、その小さな頭をこてん、と空却の胸に預けていた。

「ぉなか、すぃたぁ……」

 ……は?
 二度目の疑問語。不意に、にゃあ、と足元にいる猫の鳴き声につられて、空却は思わず下を向いた。そこには、が普段から持っている鞄と、複数のティッシュ箱……そして、三月に自分が作ってにあげた腕輪が、地面に散らばっていた。
 ……嫌な予感は、大概当たるように世の中はできている。今一度、空却は幼女を見下ろす。どこからどう見ても昔のの顔、寝起き早々溢れる食欲、そして極めつけは彼女が身に纏っている服――ばらばらになっていたピースをひとつずつ規定の場所に当てはめていって完成した絵図は、途方もない結論を空却に生み出させたのだった。







 まさか、この家の台所に立つ日が来るとは思わなかった。
 熱したフライパンの上に解いた卵液を少しずつ流し込みながら、空却はそんなことを思う。菜箸でつつきながらくるくると丸めていくと、焼けたところから鮮やかな黄金色に変わっていった。久々に作ったが、まあ悪くない出来だ。
 警察へ情報提供、病院の診察、周辺の目撃情報――この幼女の正体が分かった途端、やりたいことが空却の脳裏を駆けたが、(未だに信じられないが便宜上そう呼ぶことにする)のお腹の音によって、それらは綺麗さっぱりかき消されてしまった。
 何やっとんだ俺は。自責の念が止まないまま、空却は構っているコンロの隣にある鍋の様子を見る。だし醤油で味付けをし、冷凍されていた葱と刻んだ椎茸を散らしただけだが、まあ即席にしては及第点だろう。

「わあ~。いいにおーい」

 不意に聞こえてきた、体の力が抜けてしまうような間延びしたソプラノ。見れば、髪をしっとりと濡らした小さながにこにこと笑って、自分の足元にやって来ていた。猫の毛でいっぱいになっていたを風呂に直行させたのは数十分前。風呂から出たらこれを着ろ、という指示通り、は空却のスカジャンを身にまとっていた。裾が床につくかつかないかくらいに大きいが、さすがに同年の女が所有する箪笥を覗くことはできなかったので、今のにはこれで我慢してもらうしかなかった。

「おにーちゃん、なに作ってるのー?」

 おにーちゃん
 なんとも言えない感情が胸を満たす。それを振り払うようにして、空却は小さなから視線を逸らし、すぐさま鍋の方を見た。

「……卵焼きと、吸い物」
「たまごやき!」

 「わたし、たまごやきすきー」そう言って、またしても朗らかに笑うに、空却は小さく溜息をついた。
 お前、昔っから大概のもんそう言うだろうが。嫌いなものなんて鯖くらいしか聞いたことがない。「そーかよ」程よく聞き流しながら、空却は二人分の食器を棚から出して盛りつけを始める。そのあいだ、は自分の足元にぴったりとくっついて離れない。蹴っ飛ばさないようにするのが大変だった。
 風呂に入って、すっかり目が覚めたらしい。は好奇心旺盛に空却の腰に手を添えながら、「おてつだいすることあるー?」などと尋ねている。ガス構っとるからあっち行ってろ――というのが本音だが、その先に待っているの沈んだ表情を想像して、空却がガスを止めながら、頭の中の辞書をぺらぺらとめくった。

「……これ持ってろ」

 懐に入れていたの腕輪を、長すぎる袖で見えなくなった彼女の手のひらの上に優しく落とす。すると、は自分の黒目をさらに丸くして、空却と数珠を交互に見遣り、最後に腕輪をじっと見た後、彼女はふにゃっと笑んだ。

「きれいだねえ」
「あァ。拙僧の大事なもんだ」
「だいじ!」
「落とすといけねえから、代わりに持っといてくれ」
「うんっ。わかったー」
「あと、髪もちゃんと乾かせよ。風邪引くぞ」
「はあい」
「乾かすやつ、どこにあるか分かるか」
「わかる~」

 返事が頗るいい。余った袖をぱたぱたとさせながら、は元気よく頷いた。こいつ、こんなにも聞き分けよかったか。この頃のは、話の八割は聞いていない印象しかないのだが。そう思って、ああ、今のこいつにとって、拙僧は成人手前の知らねえ男だった、と思い直した。
 せっかく厄除けに作ったあれも、こんな調子では意味がない。あとでもう一度念入れとくか。とたとたとが二階に上がっていく音を耳に挟みながら、空却は冷蔵庫からお茶を取り出した。



 の後を追い、空却が二階にある机に朝ごはんを配膳をしたと同時に、ドライヤーの音が止んだ。「ごはんっ」と目を輝かせて机の前に座ったに、「待て」と空却は静止の言葉をかけた。

「飯の前に、後ろ向け」
「うしろ?」

 不思議な顔をするも、素直に言うことを聞いたの背後で、空却は胡座をかいた。風圧で乱れたの髪を手ぐしで整え、その内のひと房を手に取る。に持たせていた腕輪で三重の輪っかを作った後、手に取ったひと房をその間にすっと通した。
 「もういいぞ」そう言うと、の指が数珠にちょんっと触れる。そして、首だけを後ろにやって、こちらを見上げたとぱちんと目が合った。

「おちょんぼしてくれたの?」
「ああ」
「おにーちゃんのだいじなもの、いいの?」
「ああ。しばらくお前が預かっといてくれ。そうしときゃあ落とさねーだろ」
「うんっ。わかった~」

 「あっ、おちょんぼしてくれてありがとうー」そう言って、は再び机と向き合う。並んだ献立を見て、ぱああぁっ、と目を輝かせるの横に、空却も腰を落ち着かせた。
 空却が食器類をきちっと並べている間に、はスカジャンの袖をくいくいと手繰り寄せて、袖口から小さな手のひらをぱっと出した。さっきから、の一挙一動に思考が奪われる。今も、目の前の食事ではなく、のふくよかな顔やら細い腕やらになぜか目がいってしまう。
 ぱちん、と手を合わせたにようやく我に返った空却は、彼女と同じく手を合わせた。

「いただきまあす」
「いただきます」

 かちゃかちゃと拙い音を立てながら、はぎこちない手つきで箸を持つ。余程お腹が空いていたのか、一口がやたら大きく、もごもごと口を動かして、ごくんと飲み込むまでが早い。異様に早い。おい、今ちゃんと噛んだか。空却が内心そう突っ込んだ回数も数え切れなかった。
 「たまごやきおいしい~」「おしるもおいしい~」「ごはんもおいしい~っ」語彙力が完全に幼稚園児である。白米に至っては、冷凍してあったものを電子レンジで温めただけだというのに。幸福沸点が低すぎるに、空却は言葉もなく、違う生き物を見るような眼差しを向けるしかなかった。
 ……しかし、こんなにも満面に笑うは、久々に見たかもしれない。「おにーちゃん、おなかいたい……?」と心配そうな顔をしたにそう聞かれるまで、空却は箸を動かすのも忘れ、の摂食行動にじっと見入っていた。







 さて、と空却はひと息ついた。

「(これからどうすっか……)」

 時刻は八時前。食事を終え、洗い物をし、それからは電話にて警察に情報提供を終えて、今に至る。どうやら、警察で保護している人間も、と同じように幼児退行しているようで、その中には数時間で元に戻った者もいるらしい。警察署に連れて行ってもよかったが、ひとまずは一日だけこの家で様子を見ることにした。なにせ、幼少期のの姿を知っている人間が周りに多すぎる。ややこしいことになるのだけは避けたい。――余談だが、仕方がないので、あの店のオーナーにも今のの様子を伝えてやった。すると、しばらく有給扱いにする言ってくれたのだ。スマホで店のサイトを探し、連絡先を調べた甲斐があった。いけ好かないところが大半だが、話が早いところは褒めてやるとしよう。
 ちら、と空却は隣に目配せをする。こちらの苦労など知らず、満腹になったはとてもご満悦のようだった。綺麗になった机の前で鼻歌なんか歌っている。今の彼女をちょろちょろ出歩かせるわけにはいかない。というのも、一階の部屋にはカヨの仏壇があるため、なんとしても、このまま二階にいさせなければならないのだ。

「……腹、いっぱいになったか」
「うんっ。おにーちゃんのごはん、おいしかったあ」

 話しかけると、鼻歌をやめたがくるんっとこちらを向いた。にこにこと笑っている。空腹でしょげていた彼女はもうどこにもいない。
 ……そういやこいつ、拙僧が誰か分かっとんのか。いや、そんなわけはない。見知らぬ他人が家に上がりこんでいる現状に適応している――今更ながらに危なっかしく思い、空却は再度口を開いた。

「なぁ」
「なあに?」
「お前、知らねえ奴は家にあげんなって大人に教えられなかったか」

 ぽけえ、と口を開いたまま動かなくなった。すると、みるみるうちに破顔していった彼女が、“あっ”、と言わんばかりに目を見開いた。すげーな、言葉がなくてもこいつの考えとることが手に取るように分かる。
 そして、そそそ、と空却と距離を縮めて、膝の上に置いていた空却の腕を、その小さな両手がきゅっ、と掴んだ。

「おにーちゃん、おなまえは?」

 聞くの遅せよ。
 空却は長々と溜息をつきながら、頬杖をつく。それを見たの顔がぴしっと固まった。よくもまあ今の今まで誘拐されんかったな、と感心せざるを得なかった。
 「あのねっ、おにーちゃんのおなまえがわかったらねっ、しらない人じゃなくなるよっ。わたしのなまえも言えるよっ」焦ったが早口でそんなことを言う。拙僧が言っとるのはそういうことじゃねえんだわ。こいつにどういう教育しとったんだよあの母親とカヨばあは。
 ……ふと、空却の脳裏にひとつの企みが過ぎる。にや、とひとりでに笑うと、空却は目を細めながらを見下げた。

「教えたくねえっつったら?」
「えっ」

 予想外の回答だったのか、の表情が曇る。出会った人間が誰しも優しい奴だと思ったら大間違い。それを身をもって教えてやる良い機会だ。
 さて……どう出るか。今頃、その小さな脳みそでぐるぐる考えている頃だろう。空却がじっと見守っていると、は目尻を下げながら、しゅん、と悲しそうに顔を伏せた。

「すごく……こまっちゃう……」

 ……へーえ。
 空却はくるりと体の向きを変えて、と対面になる。ちょん、と結わえたの髪のひと房がびく、と震えたのを見て、空却は無意識にそこに指を伸ばした。

「よくもまあ、知らん人間が作った飯食えたなァ。吸い物はおかわりまでして」
「あぅ……」

 結わえているひと房を指先に巻き付けながら、空却はの痛いところをちくちくと刺す。が気まずそうにもじもじとする中、一周する度に指から逃げた毛先がぴょんぴょんと陽気に跳ねるのがまた面白かった。

「ばあば、おこっちゃうかなぁ……」
「怒りはしねえが、心配はするだろうな」
「しんぱい……」
「自分の孫娘が知らん男と食卓囲んどるんだ。こいつ誰だ、って思うのが普通だろ」
「うぅん……?」
「おい。首傾げるんじゃねえ」

 よく分かっていない様子のに空却は突っ込む。全世界の人間はみんな友達です、ってか。そういや、昔はやけに会話能力が高かった気がしんこともねえ。まあ、今のままでも心もとないのは変わりないのだが。いつからあんな風になったのやら――
 ……閑話休題。話が逸れた。「とにかく、」

「これからは知らん人間に話しかけられたら、ちゃんとどこの誰か相手に聞けよ。分かったか」
「うんっ。わかった~」

 この頃のの“わかった”はあまり当てにならないが、他人を家に上げることがいけないことだと知っただけで上出来だろう。まあ、幼児退行しただけ江麻に、今更何をしても無駄なのだろうが。
 「あっ!」不意に、の目がきらっと輝く。空却は指先の動きをぴたりと止めて、一等星のように明るくなった彼女の眼差しを受けた。

「せっそーくん!」
「は?」

 そう言って、はにぱぁっと笑う。「“せっそー”は“せっそー”はって言ってるから、せっそーくん!」は体を上下にぴょんぴょん揺らしながら、嬉しそうに言った。名前が分かったからこれで大丈夫、という顔をしているのだから、本当におめでたい女子だと思う。
 “拙僧”は名前じゃねーよ――そう言おうとしたところで、何も返事をしない空却を見かねたの動きがゆるゆると小さくなっていった。「おなまえ、せっそーくんじゃない……?」再び、かなしそうに目を落とすに、うぐ、言葉が詰まった。ぽくぽく、としばらく考えた後、観念した空却は重々しく口を開いた。

「……まァ、そういうことにしとくわ」
「せっそーくん!」

 「おー」応えると、はまた嬉しそうにえへえへと笑う。ほんと、調子の良い奴だな。思考回路が糸くずのようになって、どうも腑に落ちない。かといって妥協したことに後悔もしていないのだから、自分が自分で嫌になった。

「あのねえ、わたしはねえ、っていうのー」

 十年以上前から知っとる――なんてことも言えるわけもなく。「これでしってるどうしだねっ」余った袖をぱたぱたとさせて、興奮気味のに向かって、空却は適当に相槌を打っておく。あーくそ……もうなんでもいいわ。
 この能天気さには、昔も今も脱帽する他ない。この世界がすべて清いものだと信じて疑わない小さいは、こちらの心労も知らずににぱにぱと笑うだけだった。







「拙僧はな、カヨばあの知り合いだ」
「ばあばの?」
「おう。カヨばあは今日一日戻んねえから、代わりに拙僧がお前の面倒見るよう言われて来たんだわ」
「そっかあ!」

 カヨの名前を聞いてすっかり安心したらしい。最初から警戒心のけの字もなかったが、の肩からすとんと力が抜けたのが分かる。笑顔もさっきよりも二割増だ。
 自身の危機管理能力についてはかなり不安なところはあるが、ひとまずは自分が安全な人物と証明できたところで、空却はに問うた。

「お前、歳はいくつだ」
「七さいー」

 はにこにこしながら答えた。七才ということは……小二くらいか。自分達が会ったのもその頃だったかと思って、空却はさらに言葉を続ける。

「今、何月か分かるか」
「しがつー」
「最近、カヨばあと一緒にでけえ寺に行ったか」
「おっきいおてらはねえ、あさって行くっていってたよー」

 ……ふぅん
 どうやら、季節感も今のの記憶と一致しているらしい。これで真夏と真冬くらいの差があったら、これは夢だのなんだのと誤魔化さなければならなかった。大分無理があるが、そう言っても「そっかあ」と納得するが想像できてしまうのが末恐ろしい。
 まあ、最後のは……おまけだ。別に、自分のことを知っていようが知っていなかろうが関係ないが、ただの気まぐれだ。深い意味はない。空却は自分にそう言い聞かせた。

「んしょ、んしょ……」

 ふと、がスカジャンの袖を二の腕まで一生懸命まくっている姿が映る。ぱっ、袖口から出た手の小ささに空却が目を張るも、の細い手首に袖のゴムはまったく引っかからない。だるん、と再び垂れてしまった袖を見て、「んしょ……っ」とは再びそれをまくり始める。黙っていたら夜までやっていそうだ。ネジ巻き人形かよ。
 ……いや、ちょっと待て。

「(まずくねーか)」

 空却は我に返る。がいつ元の姿に戻るか分からない状態で、その格好――自分のスカジャンを一枚着ているだけで、その下には何も身につけていない。当たり前だが、この家に女児用のそれはなく、空却も一人で買いに行くのは精神的にきついものがあった。十四がいれば、服屋まで走らせて買いに行かせたが、今頃の彼は、インディーズのV系バンドが集うフェスの真っ最中。せっかくの晴れ舞台の日に幼女の下着を買ってこいだのと、さすがに言えない。その前に頭がとち狂ったと思われるのが先か。
 ひとまず、咄嗟に着させたスカジャンは返してもらわなければ困る。元に戻った彼女がスカジャン一枚――未来に起こりうる光景が鮮明になる前に、空却はそれをすぐさま打ち消した。

「おい」
「なあにー?」
「あそこの箪笥、開けてみろ」

 そう言って、空却は隣の部屋にある、いかにも衣装箪笥っぽい家具を指差す。自分は入れないし開けられないが、本人ならばいいだろう。も案の定、「はあい」と言って、ぴょんっと跳ねるように立ち上がった。
 スカジャンの裾をずるずると引きずりながら、箪笥を開ける。「そん中に何がある」と聞けば、「えっとねぇ、おんなの子のおようふく……」と答えた。当たりだ。しかし、少し歯切れが悪い様子のに、空却は首を傾げた。

「わたしのおようふく、どこ行っちゃったんだろう……?」

 やべ、しくった。
 一瞬頭が真っ白になるも、空却はすぐさま写経した後のような平常心を取り戻す。「ばあばねぇ、ここにねぇ、わたしのおようふく入れてくれてたの。でもね、ぜんぶ知らないおようふくになってるの……」は不安げな眼差しで空却を見る。猫だったらしゅん、と耳が垂れていそうな様子だ。「あー……」空却は間延びした声を出しながら、しばらく一考する。

「……ちょっと必要だからっつって、カヨばあが持ってった」
「ぜんぶ?」
「ああ」
「そっかあ~」

 馬鹿みたいな聞き分けの良さに、そろそろ頭が痛くなってきた。こいつ……こんなんだっか。昔は、もっと人の話を聞かない女子だった気がする。まあ、今はそのおかげでかなり助かっているから良しとして、空却は胸で溢れた溜息をごくんと飲み込んだ。

「とりあえず、そん中で一番大きい服出せ」
「はあい」

 そうして、箪笥の中をごそごそと漁り出した。ぱっと服を広げては畳むのを繰り返し、それが四回くらい続いたくらいで、がくるりとこちらを向いた。

「せっそーくん、これはー?」

 そう言って、は自身が覆うくらい大きな服をぱっと広げて空却の目の前に出した。それは、以前自分がに古着としてあげた長袖のオーバーシャツだった。黒地に白字で英語のロゴが至るところに描かれている。あいつ……これも持ってったんか。あれが着ればかなりごつくなるイメージがあるが、まあ、今はそんなことも些事なので頭の隅に置いておく。というのも、シャツを高く上げているの腕がぷるぷると震えていることに気づいたからだ。

「よし、でかした」
「やったあ」
「んじゃあ、今着とるやつからこいつに着替えろ。とりあえず脱衣場に行って――」

 来い――そう言おうとした矢先、は最後まで空却の言葉を聞かずに、持っていたシャツを頭からずぼっ、と被る。スカジャンの上にシャツがくると、所々めくれていたシャツの裾をぱっぱと伸ばした。すると、の服の下で何かがごそごそとし始め――おそらくはの両手だ――じきにチャックの開ける音が聞こえてきたかと思えば、シャツの下からスカジャンがすとん、と落ちてきた。
 「おきがえできたよ~」誇らしげに言うに、言葉にならない複雑な感情を抱きながら、空却は片手で顔を覆う。お前それぜってえ他の奴の前ではやるなよ――そう言おうと思ったが、今のは倫理観も社会性も赤子同然。何を言っても無駄だと悟った。
 すると唐突に、が今着たシャツの袖を鼻先にくっ付けて、すんっ、と匂いを嗅ぎだす。袖はかなり余っているようだが、上手いこと数回折っているおかげで、かろうじて両手は袖口から顔を出していた。

「このおようふく、せっそーくんのとおなじにおいするねぇ」
「あ? あー……どうせ線香の匂いだろ」

 すんすん、すんすん。小動物のように頻りに匂いを確かめる。十九歳のがこのシャツを何回着て、何回洗濯したかは知らないが、実家にずっと眠っていたものだから、匂いはそれなりに染みついてしまっているだろう。
 そんなに臭うなら他の探させるか――空却がそう思った瞬間、今まで匂いに夢中だったがぱっと顔を上げた。

「わたし、このにおいすきだなぁ」

 なんの断りもなしに、ふにゃあ、と溶けるような笑みを浮かべたに、空却はぐッと喉が詰まる。荒ぶった胸を雁字搦めにして抑えたくなって、今度こそ深い溜息をついた。
 なんなんだこいつ……ほんと、なんなんだこいつ。思わず二度繰り返してしまうくらい、調子が狂う。そういえば……いつぞやにこんなようなやり取りをした記憶がある。あれはいつだったか。今よりももっと切羽詰まっていた状況だった気が――
 「あっ!」突然飛び出してきたの声に、空却の思考がぷつんと切れる。いきなりどうした、と思いながら、空却はの方を見つめる。すると、は窓の外と空却を交互に見て、どこかわたわたとした様子でこう言った。

「ねこちゃんたちにごはんあげなきゃっ」







 八時が半分を過ぎた頃。と一緒に玄関に出ると、訪問時よりも多くの猫が家の前で屯っていた。昔より数増えてねーか。完全に餌場と化している路地裏に、のお人好し加減が窺える。餌をやるのは人間にとっての優しさだが、それは猫から自分自身で生きるすべを奪っているようなものだから、裏を返せば残酷な行為となる。やりすぎは要注意だ。
 誰だよこいつにこんなこと教えた奴は。とにかく、元に戻ったら一言言っておくか。そんなことを思っていたら、がこちらを見上げる気配がした。

「あのねえ、ばあばがいない時はちゃんがねこちゃんにごはんあげてねーって」
「……それ、カヨばあが言っとったんか」
「うんー」

 入れ知恵した犯人はばあさんかよ。極楽でほけほけと笑っているカヨを想像した空却は、為すすべなく溜息をついた。
 その隣では、がキッチンから拝借した複数個の猫缶のうち一つを手に取って、小さな指で開けようとしていた。かちっ、かちっ、とタブに爪をかける音だけが響いて、軽快な開封音はいっこうに聞こえてこない。このまま缶と格闘させたら爪が剥がれそうだ。そう思った空却は、に向かって片手を伸ばした。

「貸せ。開けてやる」
「ほんとっ?」

 の目がきらっと瞬く。缶を開けることくらい造作もない。空却はの手の中にあった猫缶を取る。が開けられなかったそれを数秒で開けると、「おらよ。蓋の縁は持つなよ。指なくなんぞ」そう言いながら空却は開封済みの缶をに再度渡した。

「せっそーくん、あけるのじょうずだねえっ」
「地面に缶置いたらすぐ離れろよ。猫に囲まるからな」
「あけてくれてありがとう~」

 聞けよ。空却がじっとりとした眼差しを向けるも、の意識はすでに猫にしか向いていない。は玄関前の段差を降りたと思ったら、猫缶を玄関から少し離れた場所にかこんっと置いた。
 ――その瞬間、あてもなくうろうろしていた猫たちが一斉に缶のある方向へ体の向きを変えた。その俊敏さといったらない。一斉に缶に群がった猫によって、「わわっ?」と、身動きが取れなくなったが声を上げた。
 ったく……言わんこっちゃねえ。空却は段差を降りて、開封した他の缶を適当な場所に置くと、猫がその一箇所からわっと分散する。その間に、その場で固まっているをその場で抱き上げた。

「(かッる……)」

 なんだこれ。こいつ、さっき朝飯食ったばっかだよな。一番最初に寝ているを抱き上げた時にもうっすら思っていたが、空却は改めてその軽さに驚く。まあ、今のは小二だから、軽いのは当然といえば当然なのだが。
 柄にもなく思考が停止した空却。おまけに、の両手が自身の肩にぴたっと添えられて、一瞬頭が真っ白になった。こいつ……手もくそ小ッせえな。

「びっくりしたあ……」
「……だから言っただろーが」

 ひとまず、自分の足元にすり寄ってきた猫を踏まないようにして、段差の上にを下ろす。空却も、残っていた猫缶も素早く路地の至るところに置いてから、ようやく段差に上がった。ここに猫がまったく上ってこないというわけではないが、猫達も相応の礼節を弁えているのか、上ってくるのはよほど構ってもらいたい猫数匹だけだった。
 その場にしゃがみこんだは猫缶に群がっている猫達をじぃっと見つめている。その中には子猫もいて、「ねこちゃん、ちっちゃいねぇ。かわいいねぇ」そう言いながら、でれでれと頬を緩めている。そんなを見ながら、空却も腰を下ろしてぼんやりと思った。

「……そうだな」
「せっそーくんはねこちゃんすき?」
「あ? あー……まぁ、普通だな」
「そっかあ」

 すると、段差に上ってきていた猫がこつん、と空却の足に頭を擦りつけた。どうやら構ってほしいらしい。こう見れば、寺に居着いている猫とそう変わりない。猫と戯れるのも慣れたものだ。空却が指先だけで猫の相手をしていると、「ねこちゃんはせっそーくんのことだいすきだねえ」と、その横でがにこにこ笑みながらこちらを見つめた。
 一匹を相手していたら、我も我もと次から次へと猫が段差に上がってきてこちらに寄ってくる。マタタビでも付けてきたわけでもないのになんだこれは。これではキリがない。猫に占領される前に家ん中入るか、と空却が立ち上がろうとした時だった。

「いーなぁ……」

 ぽつり。隣にいるがそう呟いた。お前も撫でりゃあいいだろ――そう言って、の方を見ようとした時。とすん、と腰付近に小さな衝撃があった。押されるほどでもない、軽くぶつけたくらいの可愛いものだ。

「にゃあー」

 ああ……また猫か。もうこれで終いだぞ、と空却が自分の腰下に手を伸ばすと、猫にしては大きすぎる頭しかなかった。あと、異様に毛が長く、ふわふわというよりさらさらしている。それでもなお、くりくりと頭を自分に擦り付けているそれに、空却の脳内は疑問符で満たされた。
 空却が素早く横を向いて、その下を凝視する。すると、自分の手のひらの下にあったのは猫の頭ではなくの頭。それを撫でていた空却の手がぴたっと止まると、がふと顔を上げる。空却を瞳の中に閉じ込めたは、ゆるゆると頬を緩ませた。

「えへへ……。ねこちゃんのまねっこ」

 心臓を潰されるかと思った。
 ぶわッ、と全身から溢れた熱量を隠すようにして、空却は片手で顔をばちんッと抑える。「せっそーくん、だいじょうぶ……? おなかいたい……?」心配そうにこちらの顔を覗き込もうとするの目の前にも手をかざした。今こっち見んな。あと何でもかんでも腹痛のせいすんじゃねえ。乱れた心を落ち着かせようと精神だけ無の境地に連れていこうとするも、猫の鳴き声がそれをことごとく邪魔をする。
 隠した手の奥で、みるみる熱を帯びていく自身の顔が憎らしい。今のといると、中学の時に鍛えたはずの精神力が幼少期のものまで引き戻されてしまうようだった。「ああくそッ」と空却は誰宛でもない悪態をつく。

「せっそーくん、おこった……っ? ねこちゃんやだった……っ?」
「怒ってねーよ」
「ごめんねせっそーくん……」
「いやだから怒ってねえって――」
「せっそーくんごめんね……。ねこちゃんやだったね……。もうねこちゃんのまねしないから……。あっ、おうち、もうはいる? あとでいっしょにおかし食べよ? わたし、せっそーくんにわるいことしちゃったから、せっそーくんにわたしのお気にいりのおかしあげるねっ」

 による言葉の津波に押しやられたおかげで、平常心を取り戻す暇もない。そもそも怒ってねえし、菓子はお前が食え――そう言おうとするも、空却はなんだかもうすべてがどうでもよくなってしまい、深々と溜息を零した。昔も、切羽詰まったの前では、こうして自分が仕方なく折れていたのを思い出したからだ。







 あれからというものの、傍にぐわっと寄ってきた猫に囲まれてしまい、その輪から抜け出すのにかなり苦労した。は猫にちやほやされてとても喜んでいたが、この調子で猫の相手をしていたら日が暮れてしまう。構ってくれと尻尾を立てる猫と、構いたいと手を伸ばすの双方の隙を見て、空却は再びを抱き上げて、家に逃げ込んだ。その時にはもうすでに十時を回っていた。
 二人で手を洗って、二階に上がろうとした時。が台所に立ち寄って、そこにある棚の中をごそごそと漁り始めた。「せっそーくんは、このなかでどれがすきー?」と言いながら、腕いっぱいにスナック菓子やらクッキーの箱やらを出してくる。どうやら、さっきのことをまだ気にしていたらしい。
 いらねえ、と正直に言えばがさらに萎むと思った空却は、無言での腕の中にあるお菓子の内一つを手に取った。が昔よく食べていた、個包装になっているクッキーだった。
 その瞬間、「このおかし、わたしもすき~!」とは笑む。当たり前だ。の好きなものに関して、空却の記憶は幼少期で止まっているのだから。

「茶ァ入れてやっから、先に二階上がってろ。カヨばあの部屋には入んなよ」
「わかったあ」

 素直すぎるこの返事を疑うつもりはないが、万が一ということもある。空却は急須と湯呑みを棚から出しながら、耳はの足音に向けられていた。とたっ、とたっ、と軽快に階段を登る音がしたのを聞いてようやく、空却は手元に集中することができたのだった。



 クッキーの大袋を開けて、クッキーを机の上に広げた。空却はその隣で冷たい煎茶をちびちびと飲んでいた。

「ちゃんと枚数決めて食えよ」
「はあい」

 いーち、にーい、さーん。は大袋から出した個包装になったクッキーの内一枚を手に取って、ぺりっと封を開ける。すると、一枚の分厚いクッキーが現れた。外はさっくり、中はしっとりというキャッチコピーが印象的なそれ。中にはチョコチップが埋もれていて、たしか、味はバニラとチョコの二種類あったはずだ。

「はいっ。せっそーくんのぶんだよ」

 から差し出された一枚のクッキーに、空却は瞬きを数回する。手に置かれるわけでもなく、間違いなくそれは空却の口元に向けられていた。これ、このまま食わなかんのか。
 しばらく迷っていた空却だったが、に向かって首をもたげ、前に出されたクッキーに歯を立てる。の指がぱっと離れると、空却はクッキーをまるっと口の中に収めた。
 しっとりとした質感と同時にバニラの風味が口いっぱいに広がっていき、アクセントのチョコチップが舌の上で程よく踊る。甘い。幼少期にに頻繁に貰って以来口にしていなかったが、そういえばこんな味だった、と昔の記憶が呼び起こされた。

「……ん。美味い」
「えへへ。やったあ」

 続けて、は新たに封を開けたクッキーを食す。その瞬間、むふむふ、と笑みが零れて、今にも頬が落ちそうだ。そんなを見ていたら、これ以上はとても食べる気にはなれなかった。
 ちょっとした出来心が沸いた空却はクッキーを手に取って封を開ける。「ん、」と、の口元にクッキーを向けると、口をもぐもぐしながらはてなマークを浮かべていると目が合う。そして、こくんっ、とが嚥下を一つしたと思えば、首をにゅっと伸ばして、空却が持っていたクッキーをぱくんっ、と口に入れた。

「ほいひいっ」
「そうか」

 もぐもぐ。こっくん。所作の一つ一つが分かりやすいを、空却は飽くことなく見つめる。そして、空却の手は無意識に次のクッキーの袋に向かって伸びていた。

「せっそーくん」
「なんだ」
「せっそーくんは、いつもなにしてるの? どこのがっこう行ってるの?」
「学校は卒業した。今は家の手伝いしとる」
「おうちのおてつだいしてるんだあ。えらいねえ」

 「おてつだいってなにするの? ごはんつくるの?」次から次へと投げ込まれる質問に対して、空却は頭の中で一つずつ受け止めていく。ご飯を作る――あながち間違いでもないが、空却は断じて定食屋の息子ではない。
 「あー……」空却は天井を仰ぎながら、沈黙を埋めるようにして口を開いた。

「……人の悩みを聞いたりとかか」
「せっそーくんはおはなしを聞くかかりなんだねー」

 そんな学校の係のように言われても。とことん締まらねーな、と思いながら、空却は露わになったクッキーをの口元にやる。すると案の定、は首を前に出し、こちらが見ていて気持ちがいいくらいぱくんっ、とすぐさま口の中にクッキーを収めた。一瞬、の唇が自身の爪先に当たった時に生まれた動揺は、の唇の感触ごと無の境地に葬った。

「お前、今なんか悩みあるか」
「なやみ? せっそーくん、わたしのおはなしきいてくれるの?」
「あぁ」

 なんとなく、興が乗った。なぜなら、空却は思ったのだ。幼少期、悩みだとかそういう類のものを、こいつの口から一度も聞いたことねーな、と。というのも、こちらから尋ねる必要もないくらい、はほぼ毎日にこにこしていたのだ。悩みなんてございません、わたしは今とっても幸せです、と言わんばかりに。
 ないよ、と言われたらそれまで。しかしは、「まっててねっ。いまかんがえるねっ」と言って、うぅん、と頭を捻り始めた。悩みというものは常にその人間の胸の中にこびりついているものであって、自分から見つけていくものではない。
 この時点であまり期待できそうにないが、何もないことに越したことはない。が悶々と考えている間、空却は大袋からクッキーをもう一枚だけ取り出していた。「あっ」

「あのね、せっそーくん。わたしね、朝ね、おきるのにがてなの」

 あー……なるほどな。
 らしい悩みに、空却も合点がいく。が朝に弱いことは、空却は身をもって知っている。名前を呼んでも駄目、揺すっても駄目。しつこくすれば起きるどころか布団の中に潜るし、布団を剥がしたら敷布団の上で丸まって二度寝。やっと上半身だけ起こしたと思ったら、そこから数分は微動だにしない。長期休暇中、寺に泊まりに来たを起こすのはいつも骨が折れたものだ。

「せっそーくん?」
「あ?」

 ふと、我に返る。柄にもなく過去を振り返ってしまった。空却は先程までの思考を打ち消すと、緩く細めた目でを見下ろした。

「そりゃあ、難儀な話だな」
「ナンギ?」
「難しいことって意味だ」

 そう言うと、はぱあっと顔を明るくさせて、「そうなのっ。なんぎなのっ」と身を乗り出した。

「せっそーくんは朝おきるの、とくい?」
「得意ってほどじゃねえが……。まぁ、起きなきゃならねえ時もあるから起きるしかねえわな」
「ひゃぁぁ……っ」
「“ひゃぁぁ”じゃねえよ。お前だって起きなかん時くれえあんだろ。学校行く時とか」
「うん……」

 は自信なさげに頷く。まあ、頭ではわかっているのに心が追いつかないのは人の性。かと言って、小難しいことを言っても、今のには理解できないだろう。
 さてどうしたものか、と空却が思っていると、「せっそーくんは、いつもなん時におきてるの?」とから再度質問があった。

「あ? 二時だが」
「おひるの?」
「夜中の」
「よなかっ!?」

 「わあぁぁ……っ」とは両手で口を覆った。このやり取り、昔にもやった気ィすんな。昔も、こんな風にが驚いて、童心ながらに誇らしげにしていた気がする。
 反応変わんねーのな。まあ、今は当時の姿のまんまだから当たり前か。空却がそんなことを思っていると、がまたさらにぐいぐいと距離を縮めてきた。今では空却の腕にの細い肩がぴったりとくっついている。

「せっそーくん、いつもよなかにおきてるの? どうして?」
「家の雑用するため」
「さっき言ってたおてつだい?」
「おおむねそうだな」

 そう言うと、は口をぽかぁん、と開けた。理解できない、といった顔だ。

「ねむくないの? からだえらくないの? もいっかいねたいなーっておもわないの?」
「あるっちゃああるが慣れだな」

 押し寄せてくる質問の波に空却は丁寧に答える。つか、拙僧よりお前のことだろ。拙僧の話聞いてもあてになんねえぞ。空却はなんとか話を戻そうとするが、はじっと固まった後、「わかったっ」といきなり顔を上げた。

「せっそーくんも朝おきるのがんばってるから、わたしも朝がんばっておきるねっ」

 自己解決しやがったこいつ。
 おまけに根性論かよ。まさか、自分の話をしただけで救われる人間がいるとは思わなかった。空却は拍子抜け以外の何物でもない。のように、こんなにも楽に早く悩みが消える人間が世界中に溢れたら、僧侶など必要ないのではないだろうか。
 このやる気を数年前に出させることができたら、自分もしなくていい苦労を背負うこともなかったのかもしれない。そう思ったところで、過ぎたことを振り返っても仕方がないと思い直した。今日はやけに柄にもない思考が働いて仕方がない。

「せっそーくんは、なにかなやみごとある?」
「はあ? 拙僧の悩み?」

 うん。は頷く。しばらく頭の中で木魚が鳴っていた空却だったが、ふと目線を落とした。

「……生まれてこの方、聞かれたことなかったわ」
「そうなの?」
「拙僧は思い悩む立場じゃねえからな」

 大概のことは自分の中で処理できる。まあ、ないことはない……が、今のに話すことでもない。それが目の前の本人に関わることなのだから、尚更だ。
 この、不安定で歪な関係。すべて自分が壊したもので、寸のところで繋ぎ止めたのも自分自身。否、繋がっているかどうかは怪しいところではあるが。どちらにしても、空却はきちんと分別をしているつもりだった。気を抜くと、この足は他人以上のところまで彼女と距離を縮めてしまうものだから。
 しかし、最近はなぜかあちらから、物理的にも精神的にも、そっとそっと近づいてくるようになった……気がする。そのおかげで、どうにも時々歯止めが効かないことがある。最近でいえば、ピアスの件がそうだ。耳に穴を開けたいと言った時は猛反対する自分を殺して会話を濁らせたが、開けてほしいと言った時は全身の血が沸騰した。それでもなんとか了承したものの、後から聞いた理由が理由だったので、結局我慢ができなかったのだ。
 そのことを思い出して、空却は密かに憤慨する。洒落た装飾を付けたいからだとか、形だけでも大人になりたいだとか、そんな理由ならまだしも、なんだよ拙僧が開けとるからって。意味分からん。つかただでさえ体小せえのにそれ以上表面積減らすような行為すんじゃねえよ馬鹿かあいつは。

「じゃあ、せっそーくんはなにもない?」
「あ?」
「なやみごと」
「……ねーよ」
「ほんと?」
「あぁ。ほら、クッキー食え。これで終いな」
「んむ」

 空却は最後のクッキーをの口に差し込む。もぐもぐと頬張るの頬をじっと見ながら、栗鼠みてぇ、とぼんやり思った。

「へっほーふん」
「口ん中何もなくなってから喋れ。なんだ」

 こっくん。が小さな喉を上下させると、にぱっと花が咲くように笑った。

「なやみごとあったら、わたしがきくから、いつでも言ってねー」

 聞くも何もお前のことだが――そう言ったら、この小さな彼女はどうするだろうか。好奇心旺盛に詳細を聞きたがるだろうか、それとも、わたしのせいで、と狼狽えるだろうか。どちらでもいいから、そんな彼女を見てみたいと、殺したはずの自我が生き返って、空却の進まざるを得ない道をことごとく邪魔していく。
 ……駄目だ。日に日に精神が乱れている。花まつりも近いというのに、こんな体たらくで仏様の生誕祭を祝うなど具の骨頂。近いうちに、心身ともに痛めつけるような修行をしなければ。美味しそうにクッキーを咀嚼するから逃げるようにふっと目を逸らした空却は、そう固く決意した。







 の口は開きっぱなしだった。
 カヨの話から始まり、このあいだ東都からこっちに越してきたばかりということを、会って数時間の自分にぺらぺらと話す。そんな声に耳を傾けていたら、時計の短針はすでに十一を指していた。
 「おなかすいたねぇ」の呟きに、空却はぎょっとする。お前、さっきまで菓子食っとったよな。有り得ない、と言わんばかりの眼差しを彼女に向けるが、時折鳴いている腹を抑えるを見たら、本気で言っている以外の何物でもなかった。
 ……少し早い気もするが、ぐぅぐぅと鳴る小さな腹を放置するわけにもいかない。空却は立ち上がって、「昼飯、なにがいい」とに尋ねた。

「せっそーくん、おひるごはんつくってくれるのっ?」
「チビのお前に火ィ使わせるわけにいかねえだろうが」

 幼少期にかけて、勝手場事情は灼空に散々仕込まれたので、大概のものは作れると自負している。出されたものは文句も言わずぱくぱくと食べていた(鯖を除く)を満足させるには十分だろう。
 「んーとねぇ、えーっとねぇ」嬉々として、頭の中のメニュー表を捲る。不意に、頭上でぴんぽん、と豆電球が光った。

「たらこのスパゲッティがいいなあ~」

 すぱげってぃ。
 あまり耳馴染みのない単語に、空却は瞬きを数回する。未だにパスタとのちがいがよく分からないそれ。いつぞやに、十四と食べに行って以来だった。
 どうやって作るんだあれ。とりあえず
麺茹でるところからか。つか、この家に鱈子あんのか。様々な考えが巡る中、とりあえず下降りるか、と空却は部屋を出ようとする。

「せっそーくん、どこいくの?」
「台所」
「わたしもいくーっ」

 ぱっと立ち上がったが後ろからとてとてとついてくる。行っても面白いんもんねえぞ――そうは思ったが、それでも着いてくるだろうと予測ができた空却は、特に何か言うこともなく弾むような小さな足音を好きにさせた。



 昔から変わらない、急勾配の階段だ。とんとんとんっ、と空却が軽快に下っていく一方で、「せっそーくん、はやいねぇ」と後ろから緩やかな声が飛んでくる。階段の途中で振り返れば、しゃがみながら一段ずつ下っているがいた。見ていて非常に危なかっかしい。「ったく……」と声を漏らした空却は、数段上がって、しゃがみこんでいるに向かって両腕を伸ばした。

「肩掴まっとけ」
「わあ~っ」

 そのままの体を抱き上げると、きゃっきゃっ、とまるで幼稚園児のようにはしゃぐ。肩どころか、首の後ろに腕を回した。玄関先で抱き上げた時よりも密着して、子ども独特の乳臭いにおいが空却の鼻先まで一直線に届いた。一瞬頭が真っ白になるも、空却は無心で階段を降りていく。この方がが落ちる危険もないし、自分も背後に神経を尖らせなくてもいい。効率を重視しただけで、決して、深い意味はないのだ。


 一階に到着したら下ろすつもりだったが、がくっついて中々離れなかったので、まあいいか、とそのままにしておいた。においには大分慣れた。
 台所に向かうと、保存食等が保管されている棚を開けてみた。うどんの素、素麺、あとは調味料の予備――系統的にはここにあるはずだが、どれだけ目を凝らしてもスパゲッティの麺はどこにもない。空却は諦めて片手で棚を閉めた。
 仕方がない。ひとっ走り行くか。空却が台所から離れると、「せっそーくん、つぎはどこいくの?」とまるで旅行気分のがこそこそと尋ねた。耳元で喋んなくすぐってえ。

「麺ねえから商店街で買ってくるわ」
「わたしもいく~」
「お前は留守番だ」
「えっ」

 台所から玄関前まで来て、ようやく空却はを下ろした。ぽかん、としているを横目に、空却は玄関の縁に座る。幼い頃のは、商店街のほとんどの人間が知っている。今のを知り合いに見られでもして突っ込まれたら、いちいち説明が面倒だ。
 「すぐ戻ってくっから二階で待ってろよ」そう言って、を一瞥した空却。スカジャン、こいつが二階に脱いだままだったな。まあいいわ取りに行くのめんどくせえ。そう思っていると、後ろからきゅっ、と柔い力が加わった。振り返ると、そこには作務衣を引っ張っているがいた。

「や、やっぱり、しろごはんがいいなぁ」

 どもどもと言うに、はあ? と空却は首を傾げた。

「お前、さっきスパゲッティ食いたいっつっとったろ」
「しろいごはんがいいなぁ……」

 同じことを繰り返す。どこか歯切れが悪い彼女に、空却は頭上に浮べる疑問符が止まらなかった。
 「だからね、せっそーくん、おそと出なくてだいじょうぶだよ。おにかい行こ?」そう言いながら、きゅっきゅっ、と服を引っ張るに、空却はいったん靴を脱ぐ。彼女の意味不明な言動を受けて、空却はをじっと見下ろすと、目線をうろうろとさせているが、ちろっ、とこちらを見上げた。

「せっそーくん、こまってる……?」
「あ?」
「わたしがスパゲッティたべたいって言ったり、白いごはんたべたいって言うから……」

 服を引っ張る力が弱まる。しゅん、と肩を落としているせいか、心なしかおちょんぼも元気をなくしているように見えた。
 「拙僧は何も困ってねーよ」そう言って、空却は小さな頭に手の平を置く。くしゃっ、と軽くかきまぜると、は子猫のように目を細めた。

「スパゲッティ。食いてえのか食いたくねえのかどっちだ」
「うぅ……」
「どっちにしろ、もう外には行かねーよ」

 そう言うと、少しだけ目に光を戻したは、自信なさげにぽつんと言った。

「スパゲッティはたべたいけど……せっそーくんがおうちいなくなっちゃうのは、やだなぁ……」

 ぐ、と喉が締まる。もじもじとしているの頭を握りつぶしそうになって、咄嗟に手を離した。溜息とともその衝動を昇華させると、「せっそーくん……?」とが心配そうに顔を覗きこんできた。お前に対してじゃねえよ。

「……したことねえが頼んでみっか」
「なにをたのむの?」
「まあ待ってろ」

 空却は十四から教えてもらった、最先端アプリをインストールする。そして、スクリーンに現れた黒と緑のアイコンをタップ。適当な個人情報を入力している間、はスマホの画面を見ながら、空却の腕にぴとっと引っ付いて離れなかった。
 それが、なんとなく、どこにもいかないで、と言っているように聞こえて。空却は口から溢れそうになった溜息をぐ、と飲み込んだ。







 スマホで注文した食事をデリバリーしてくれるサービス――別名、バーチャルレストランとも呼ばれるそれは、今では世間に浸透しつつある新事業である。頭を柔らかくするには、新しいことを受け入れること――老年の悩みの種のアンサーが空却の脳裏に過る。初心者ながらに、最先端サービスを注文から受け取りまで完璧に使いこなしてみせた。
 出来たてと思わしきそれを手にぶら下げながら二階に上がろうとすると、とてとてとついてくるが興味津々に袋の中身を聞いてきた。

「せっそーくん、それなあに?」
「拙僧らの昼飯だ」

 「ごはんっ!」きらきらと目を輝かせたを連れて、空却は階段を上がっていく。もちろん、喜びのあまり喉に詰まらせそうな小さい生き物ために、お茶の準備は忘れていない。


 部屋に入り、を座らせる傍らで、空却は心ばかりの配膳をする。「いいにおいだねえ~っ」そう言って、空却の手元から目を離さない。こちらとしては、餌を待つ小動物を見ている心地だ。
 配達員から受け取った袋から出したのは透明のタッパー。その中に入っているのは、が要望したたらこのスパゲッティが入っている。それを見た彼女の表情といったら……桜で例えるならば、これ以上にない満開を見せた。

「スパゲッティ!」
「あぁ」
「すごいねえっ。おうちにいるままスパゲッティたべられるねえっ」
「そーだな」

 大興奮のを横目に、空却も自分が頼んだものを取り出す。洒落たカタカナ語はよく分からなかったので、和風パスタを注文した。ただし、量はの二倍だ。
 意外とちゃんとしとんだな。液漏れしないよう、密閉されたタッパーを見ながら、空却が感心していると、「せっそーくん、もうたべていいっ? たべていいっ?」と頻りに聞いてきた。「ちゃんと手ぇ合わせろよ」と言えば、さっそく、ぱちんっ、と隣で乾いた音がした。

「いただきまあすっ」

 プラスチックのフォークを片手に持ち、器用に麺をくるくると巻きつけて、大きくなったそれを一口で食べる。もぐもぐと咀嚼をしたかと思えば、「ん~っ!」と両足をばたばたさせて喜ぶ。もはや言葉にならないようだ。
 空却も手を合わせて、久方ぶりにスパゲッティを食べてみる。ん……美味い。外に出ることもなく、少しの配達料を払えば店のメニューが家でそのまま食べられるとは。世の中便利になったもんだな、と空却は漠然と思った。
 子猫から子犬へ――はふはふと息を荒らげながらスパゲッティを次々に口に含む。その食べっぷりに、やはやじっと見入ってしまう。すると、こちらの視線に気づいたがふと顔を上げた。

「せっそーくんも、たらこのたべる?」
「あ? いや、拙僧はいい――」

 断る前に、はフォークにくるくるとスパゲッティを一口分巻いて「はいっ」と寄越した。あれだけ嬉しそうに食べていたものを人に与える――世界中がこいつのような人間ばかりだったらさぞかし平和な世の中だっただろうな、と馬鹿なことを考えた。

「……うまい」
「ねーっ」

 それ以上断る気にもなれず、結局差し出されたフォークを口に入れた空却。鱈子のぱちぱちとした食感が新鮮でとても美味だ。
 それからも、何事もないように続けて食べ始める。何を思ったのか……空却は和風スパゲッティを自分のフォークにくるくると巻いて、の方に向けた。は口の中に入っているスパゲッティをもぐもぐとしながら、フォークと空却の顔を交互に見つめる。それから数秒後、上下した喉を見送る暇もなく、はぱくんっ、と和風スパゲッティに食いついた。

「せっそーくんのもおいしいねっ」

 そう笑いかけるに、空却も穏やかに笑んだ。



「ごちそうさまでしたあ」
「美味かったか」
「うんっ。スパゲッティおいしかったあっ」

 時刻は十二時。満腹になってご満悦のは、空却の隣で食休みに浸っていた。タッパーを片した空却も特にやることもなく、ただただ時間を持て余している。

「……お前、一人で家いんの嫌ェか」

 不意に、空却の口から飛び出た問いに、は目をぱちぱちとさせた。そして、「ちょっとだけ……」とばつ悪そうに目を伏せた。

「東都にいる時は母親と暮らしとったんだろ」
「うん」
「母親、あんま家にいねえのか」

 空却が外に出ようとした時の、あの言動。どれだけ過去を遡っても、空却の記憶にはないものだ。の嫌いなものは鼠と雷しか知らない。すると、はしばらく迷う素振りを見せて、こくん、と小さく頷いた。

「わたしのおかあさんね、おしごと、夜おそくまでがんばってるの。それでね、かえってきたらね、ごはん作ってくれてね、わたしが食べおわるまで、ずっとみててくれるの」

 の口から、母親の話をあまり聞いたことがなかった。カヨの葬式に一度会ったが、あまり良い印象はない。今なら物事の分別がついて、多忙の中、わざわざ東都からナゴヤまで来たということまで察することはできる。それでも、空却が幼い頃に受けた印象を塗り替えるまでには至っていない。そうしたところで、あの頃に味わったの負担が消えることはないからだ。

「お前が食べとるとこ、見てるだけか」
「うん。にこにこしながらね、みててくれるの」
「こういう風に、話とかしねえの」

 すると、一気にの顔が陰る。きゅ、と唇を苦しそうに結んだかと思えば、ほんの僅かに開いた隙間から、か細い声を漏らした。

「たまにね……おかあさん、イスにすわったままねちゃうの」

 「だから、あんまりおはなしできなくて……」語尾は、ほぼ消えていた。愛に飢えているわけでもないが、十分でもないそれ。空却自身にも、その感覚に身に覚えがあった。今はそうでもないが、母が極楽に旅立ってからの数日は、胸に穴が空いたような心地で、父の灼空に当たってばかりいた。ものの分別どころか御仏の言葉も飲み込めなかった幼子の時代だ。親の愛情に代わりになるものはない。自分自身で自分を認めていくしかない。そんな不自由な人生の中で、彼女は――

「……好きか。母親のこと」

 の目が、ゆっくりと丸くなる。それがゆるっと細められた時には、あの陰った表情に暖かな陽だまりができていた。

「うんっ。おかあさんだいすき~」

 そうだよな。お前は、そういう奴だ。
 何かに怒りもせず、何かを憎みもせず。ただ、現状を受け止めて、飲み込んで、上を向く。そんな、純粋で素直な人格では、損することもあるだろう。それでも、少なくとも、空却は昔から、その魂を美しく尊ぶべきものだと疑わない。その本質はきっと、今を生きる彼女も未だに持っているものだろうと、信じてやまないのだ。







「せっそーくんのおうちはどこにあるの?」
「オオスだ」
「おーす?」
「そうだ」
「ここもおーす?」
「ここはカミマエヅ」
「かみま……?」
「カミマエヅ。オオスの隣だ」

 「かみまえづ。おーすのとなりは、かみまえづ」律儀に復唱をする。なんとなく予想はしていたが、食後もお約束のように談話の時間となった。こいつ、こんなにも喋る奴だったか、と空却は昔の記憶を引っ張りだそうとするが、そんな暇も与えずにが口を開くので、いつからかそんな思考を打ち切った。

「わたしのおうちからせっそーくんのおうちまで、どれくらい歩けばつく?」
「あー……大体十五分くれえか。まあ、今のお前の足じゃあ倍かかるだろうぜ」
「そっかぁ……」

 の家が上前津にあるとはいえ、地区の中でも端の方にあるため、空却の寺まで行くには少々時間がかかる。空却が真実をそのまま話すと、は力が抜けたようにぽすん、と空却の腕にもたれかかった。

「せっそーくん、やさしいし、いいにおいするから、まいにち会いたいなあ……」

 またこいつはそういうことを平然と。
 そこはかとなく落ち込んでいるように見える。本人に気づかれないように溜息をついた後、空却はの頭の上にぽん、と手を置いた。

「……お前が来たい時に来やあいい」
「ほんとっ?」
「ああ。学校だって、日が暮れる前に終わるだろ。家寄らずに直行でうちに来たら、長いことおれる」

 すぐさま光を取り戻した。しかし、すぐさま思い出したように「あっ……」と声を漏らして、しゅん、と視線を落とした。

「せっそーくん、ほかの人のおはなしも聞かなきゃいけないから……」
「この時期はあんま人来ねーよ。お前と話す時間くらい作る」

 すると、すぐにまたの瞳に光が宿る。「いくっ。まいにちいく~っ」体を上下に揺らして、ぱあっ、と花咲いた顔を見て、忙しねェ奴だな、という感想を抱いた。
 ……まあ、いいか。のこういう表情を見ていると、色々な意味で、大概のことはどうでもよくなる。えへへ、えへへ、と頻りに笑むに、空却は彼女の髪の表面を撫でるように、ゆっくりと手のひらを滑らせていた。


 ――ふと、静穏な時間が長くなる。空却はの髪を撫でていた手を止めて、隣に視線を落とした。すると、うつらつうつらと微睡んでいる半目のがそこに佇んでいた。

「おい。目ェ開いてねえぞ」
「ぅ……?」

 小さく声を漏らした。今度は、「ん~……」と唸って、さらに空却の腕に擦り寄ってきた。
 腹が満たされた故だろう。幼稚園児のような体感リズムに、空却はもう何も思わなかった。いちいち反応していたらキリがない。

「寝てえなら寝ろ。時間になったら起こしてやる」
「せっそーくんも……?」
「話聞いとったか。拙僧が寝たら誰がお前のこと起こすんだよ」

 ぽーっ、とこちらを見上げていたと思ったら、はよろよろとその場から立ち上がる。危なっかしい足はそのまま押し入れの前まで来て、小さな両手は襖をするすると開けた。そして、四つん這いになってのそのそ下に潜ったが出してきたのは、一枚の毛布だった。幼い頃によく見ていたそれは、今ではかなり年季が入っていて少々薄汚れていた。

「これねぇ、わたしのお気にいりなんだぁ」

 寝ぼけているのか、毛布の状態にも気づかない。回らなくなった呂律が健気に聞こえた。そろそろ旅立ちも近いというのに、はふにゃふにゃと笑っている。

「せっそーくんと、はんぶんこしようねぇ……」
「いやだから俺は寝ねえって」

 うとうとしながら、こちらに戻ってきた。ちょん、と空却の隣に座って、ただでさえ小さい毛布を自身だけではなく空却にも分け与えている。おまけにこちらの方が毛布の面積が多い。座位のまま眠る気であるに、空却はああくそ、と頭を掻いた。
 空却は部屋の隅に積み上げられていた座布団を二、三枚縦に並べる。そして、座位のを軽く抱き上げた後、座布団の上に彼女の体をころん、と転がす。頭の部分にあった座布団は、一回だけ折って枕代わりにした。
 「えへへ……。ふわふわぁ……」ごそごそと体を動かす。畳よりかはだろうな、と内心思いながら、空却はの体に毛布をかけ直した。昼寝の準備は万端だ。あと数分もすれば眠りにつくだろう。
 そう思ったが、の目は半目のままで、中々閉じようとしない。まるで、睡魔に抵抗しているような。すると、か弱い両手が毛布から出て、投げ出されていた空却の手……その内の小指をきゅ、と握った。

「せっそーくん……まだ、おーす、かえらない……?」

 ……そういうことか。
 空却は「あぁ」と短く返事をする。「ほんとう……?」「本当だ」そんなやり取りの後、空却はごろん、との隣に横になった。

「お前が起きるまでここにいてやっから。早よ寝ろ」

 の口角が、微かに上がった。そして、安心したように目を閉じて、夢に旅立ったのがいつだったのか分からなくなるくらい、すぐさま眠りについた。に握られた指からも、力が抜けていく。引っかかっているだけのそれですら、振り解いてしまったら、彼女が夢から、自身が現実から、醒めてしまうような気がした。

「(……寝顔、変わんねーのな)」

 埃を被っていた記憶。朝方にも見たが、在りし日ののものと一致する。まさか、この歳になって、こんなにも近くで彼女の寝顔を拝めるとは思っていなかった。
 顔の横から落ちた髪の束を耳にかけて、の側頭部に手を添える。古いアルバムを捲るような心持ちで、空却は薄ら眼で彼女の顔をぼんやりと眺めていた。







 寂れたスピーカーから流れた、“夕焼け小焼け”の音楽。目を閉じていただけの空却がゆっくりと瞼を持ち上げる。案の定、目の前では小さいままのがすやすやと穏やかな寝息を立てていた。

「(……まだ、戻んねーのか)」

 現時刻は十八時。今のを発見して、丸一日が経過した。流石の空却も一抹の不安が過ぎる。どちらにしろ、明日は警察と病院をハシゴする予定だ。ただ、への説明をどうするものかと考えておかなければならない。
 このまま戻らない可能性もなると、カヨのことも――無意識に、葬式が終わった後のを思い出してしまい、空却は重たい息を吐き出した。

「せっそーくん……?」

 はたとする。正面を見ると、うっすらと開かれたの目が空却を捉えていた。
 「……起こしたか」空却が小さく尋ねると、「んーん……」とはやんわりと否定した。

「おーす、かえっちゃう……?」
「まだ帰んねーよ」

 「よかったぁ……」そう言って、空却の小指に引っかかっていただけのの両指に、再びやわい力が込められた。
 まあ、どちらにしろそろそろ起こそうと思っていたところだからちょうどいい。空却は上半身を勢いよく起こした。

「ぇ……。せっそーくん、おきちゃうの……?」
「あァ。もう日暮れてっからな」
「ゆーやけこやけでひがくれてーって……」
「それももう流れた。お前もそろそろ起きろよ。それ以上寝たら夜眠れんくなんぞ」

 そうは言いつつも、寝坊助のが起きるかどうかは五分五分だった。しかし意外にも、もむくりと体を起こした。かなり……それはもうかなりゆっくりで、その様はさながら老婆だったが。
 すると、は上半身を前方に倒して両腕を前にぐん、と伸ばす。まさに猫の伸びだ。そして、ちいさな彼女に見合うあくびを一つして、くるん、とこちらを振り返った。

「せっそーくん、おはよう~……」
「おはよ」

 未だにぽやぽやと寝ぼけているの髪をくしゃっとひと撫でして、空却は立ち上がる。「どこいくのー……?」ともよろよろと立ち上がった。

「ちっと早ェが夕飯作るわ」
「ごはん!」

 覚醒すんの早ェな。
 昼時同様の反応だ。餌の気配がするとそわそわし出す猫と、今のの姿が綺麗に重なる。
 ……まさか、と空却は足元に引っ付いているを見下ろした。

「お前、もう腹空いとんのか」
「すいたあ」

 マジかよ。空却は内心そう突っ込む。喋った分、カロリーも多く消費しているのだろうか。そんな小さな体に、自分と同じ量の食べ物が体内に入っていくことが、空却は不思議でならなかった。

「せっそーくんはなに食べたいー?」
「拙僧がお前に聞いとるんだが」
「おひるごはんはわたしの食べたいものだったから、おゆうはんはせっそーくんの食べたいものがいいなあ」

 にこにこと言う。気を遣っているわけでもなく、それが本心だろう。空却はふ、と息を一つ落とした。

「お前の食いたいもんが、拙僧の食いたいもんだ」
「そうなの?」
「ああ。だから好きに選びゃあいい」
「えっとねぇ、んーとねぇ……。あっ! オムラ――っ」

 ぴたっとの言葉が止む。彼女はあちらこちらに目線を彷徨わせた後、ぱたぱたっ、と足音を立てて、なぜか部屋から出ようとした。

「れいぞうこみてくるねっ」
「駄目だ」
「えっ」

 空却が制止すると、目をまん丸に開いた。「んなことで自分の選択肢狭めんじゃねえ」そう言うと、かなり困った顔をしたがうぅん、うぅん、と頭を捻らせた。「あっ!」

「たまごかけごはんっ」
「駄目だ」
「しおおにぎりっ」
「それも駄目」

 家の中にいても、最低限の食料だけで作れてしまう品目に空却は呆れる。空却が外に出ないよう、彼女なりに頭を回したのだろう。少し大人げなかったか、と思うほどに、世界中の悲しみを集めたような顔をする。空却は一度膝を折って、彼女と視線を合わせた。

「……そんなに一人が嫌か」

 黒い瞳が揺れる。昔から、嘘がつけない純粋な目だ。両指をもじもじとさせながら、はその目に暗い影を落とした。

「いつもはね、おかあさんがいなくてもがまんできるけど……。せっそーくんは……なんでだろう……」

 本人、自身の感情がよく分かっていない様子だ。仕方ねーか、と空却は再度立ち上がる。すると、が申し訳程度に両手で空却の服の裾を掴んだ。その気になれば、すぐに振り解けてしまうそれ。遠慮しているとは言えず、かと言って駄々とも言えない、の葛藤の末の行動のように見えた。
 ……んなことしんくても、お前置いてどこにも行かねえよ。

「とりあえず、家にあるもんでいいんだな」

 今のを笑顔にすることなど容易い。弾けたような笑顔を浮かべたを見て、空却も薄く笑んだ。







 ――ということで、と共に一階の台所に移動したわけだが。

「(いくらなんでも限度があんだろ)」

 冷凍庫にあった保存袋。そこに入れられていたものに対して、空却は表情をひくりと歪めた。
 袋の中身は揚げられた海老――いわば天むすだ。別に、天むす自体に罪はない。ただ、量が規格外なだけで。ひと袋だけでも数えきれない程の量が入っており、もはや狂気すら感じる。どんだけ天むす好きなんだよあいつ。同じようなやつがまだ二袋あんぞ。

「せっそーくん、それなあに?」
「天むすだ」
「てんむすって?」
「海老を油で揚げたやつ」
「へえ~っ」

 小さいはまだ天むすを食べたことがないようだ。天むす自体、ナゴヤにしかないらしいので、空却はなんとなく事情を察する。都内では、天むすどころかスガキヤもひつまぶしもないことを知った時は文化的衝撃を受けたものだ。
 ……さて、冷凍庫内は天むす以外にめぼしいものはもうない。空却は天むすの入った袋を一つ、そして同じく冷凍されていた白米――大体二合半はあるだろう――を手に取って、空却はそれらをシンクの上に置いた。

「たくさんのごはんでなにつくるの?」
「握り飯」
「おにぎり!」
「お前、何個食いたい」
「いっぱい~」

 何“個”って聞いとんだろうが。答えになっていない返答をもらった空却は聞き返すことすら無意味だと感じて、シンクの上に出した食材をじっと見下ろした。

「(さすがに握り飯だけじゃ飽きるか)」

 たしか、昼時に保存食用の棚で、お湯を入れるだけで出来る吸い物や開けてそのまま食べられる缶詰があった気がする。あの中のどれかでいいか、と思いながら、空却は最後に一番上の冷蔵庫の中を覗いた。

「(……なんだこれ)」

 ラップにかけられた皿が二つある。両方取り出してみると、どうやら作り置きしてある副菜のようだった。

「せっそーくん、それなあに?」
「蓮根の煮物と……こっちは胡瓜の漬けもんだな」
「おいしそうだねえ~」

 皿の中身を見たが隣ではしゃぐ中、空却はじっと一考する。

「(……あいつの手作りか)」

 ラップを外して、すん、と匂いを嗅ぐ。特段腐った匂いはしないから、最近作られたものだろう。食べても問題はなさそうだ。しかし――

「……なあ」
「なあに?」
「これ、食いてえか」

 これ、と指した冷えた煮物と炒めもの。はそれらと空却を見比べて、迷うことなくぱっと答えた。

「食べたーいっ」
「うし。んじゃ皿に盛るわ」

 こいつが食べたいと言うのなら仕方がない。が選んだ道――自分はついでに食すだけだ。そう、ついでだ。そこに自身の意志などない。別に、手作りのものに心惹かれたとかでは、断じてないのだ。
 そうと決まれば、空却はてきぱきと準備を始める。まず、米と天むすを温めて、米には少量の塩をまぶす。電子レンジが空いたら、次は冷蔵されていたものもその中に放り込んだ。それらを温めているうちに、広げたラップの上に白米と天むす、その上からまた白米を盛って、ラップに包んで両手で握っていった。

「せっそーくんっ、わたしもおてつだいする~」

 自分の足元でくるくると回っている。そう言われても、食材は熱いので触らせたくないし、割った時に怪我をする可能性のある皿も持たせたくない。かと言って、何もさせなかった時に落ち込むであろうを想像してしまい、空却はなんかねえか、と頭を回した。

「……んじゃあ、飯の上に天むす置いてけ」
「はあ~いっ」

 空却は近くにあった椅子を持ってきて、そこにを座らせる。すると、自分が立ち仕事している台と同じ目線になった。握り終えたおにぎりを大皿の上に並べ、空いたラップの上に白米を乗せると、は先程渡したスプーンで天むすをちょん、とその上に乗せた。
 賢い作業工程とは言えないが、空腹までの時間稼ぎにはなるだろう。なにより、この非効率な時間を嫌いと思っていない自分がいる。が楽しいならば、万事良好だ。作業におけるマイナス因子も、跡形もなく消えてしまうのだから。



「おいしい~っ」

 大皿に乗せられた山盛りの天むすのおにぎりと副菜二品。天むすを乗せるのが楽しくなったが「あともういっかいだけっ」を何度も繰り返すので、おにぎりはこの量になってしまった。まあ、食べれない量ではないのが幸いしている。

「(うッま……)」

 副菜に手をつけた空却が心の中でそう呟く。たしか、カヨが入院してからご飯を作るようになった。塩辛い卵焼きを甘くしたのも、味気のない煮物を絶妙な醤油味にしたのも、すべて幼少の空却が行なった。いったんすべて食べてから、あれが塩辛いこれが甘いだのとダメ出しを繰り返した。
 まあ、元来素直な女子だったので、味の修正もすぐに終わったが。在りし日の思い出に耽りながら、空却は自分好みの味の副菜を無言で咀嚼していく。

「せっそーくんは、れんこんとほうれんそうすき?」
「あ? いや、普通だが」
「そうなの?」
「なんでだ」
「わらってるから~」

 口にものを入れていなくてよかったと思う。「せっそーくんがうれしいとわたしもうれしいなあ」そう言って、は両手で持っているおにぎりをぱくぱくと食べていった。
 ……感傷に浸りすぎた。もうすでに空になった皿を見下ろして、空却はひとり自嘲する。空却は影を落とした表情で、一つのおにぎりを手に取った。あの頃無意識に抱いていた庇護欲やによって生み出された自身の感情も何もかも、もうすべて過去のものだと葬って。







 夕食を食べ終えて後片付けも済ませると、ちょうど二十時を回っていた。いつもなら自室に篭って寝る支度をしている時間だが、今日ばかりはそうはいかない。がお手洗いに行っている間に、灼空にはすでに事情を説明してあった。小言はいつにも増して多かったが、これで気兼ねなくこの家に居つけることができる。
 それでも、体に染み付いた生活リズムは恨めしいほどに規則正しい。くわっ、と空却が欠伸を漏らしたところ、「せっそーくん、おふろはいる?」と自分の隣が定位置となったが尋ねてきた。

「いや……。お前が先入ってろ」
「せっそーくんは?」
「後で入るわ」
「わたしがおふろ入ってるあいだ、おーすかえらない?」
「帰んねーよ」

 風呂に入っている途中、自分が大須に帰ってしまうのではないかと心配しているらしい。んな非道なことするかよ。こっちは何しでかすか分からんお前から少しでも目ェ離したくねえってのに。「あっ!」

「せっそーくんっ」
「なんだ」
「いっしょにおふろ入ろ!」

 今日一番、心臓に悪い発言だった。
 頭痛がしてきたのは気のせいだろうか。無邪気にも程があんだろ。かと言って、男と女の区別のつかない脳を持った今のを非難するわけにもいかず、空却は頭に片手を添えながら冷静に口を開いた。

「……それはできねえ」
「そっかぁ……。そうだよね、せっそーくん、おとこのこだもんねぇ」

 なんで拙僧の心配しとんだよ。なんかあった時に食われんのはお前だぞ。
 なんとなく語弊があるような気がして、空却は内心でそう突っ込む。いや、そんなことは万一でもしないが。ましてや幼女に。すべては言葉の綾だ。忘れてほしい。
 「せっそーくん、ずっとこのおへやにいる?」「あーいるいる」「ほんとう?」「早よ入ってこねえとそれこそ帰んぞ」大人気ない脅しをして、ようやく下に降りていった。もちろん、空却のものだったTシャツを新たな着替えとして持っていった。
 ……しん、とした静寂が部屋に訪れる。が起きている間は無音を感じたことがなかったので、数時間ぶりのそれに対して新鮮味を感じる。
 徐々に瞼が重くなっていって、ゆらゆらと微睡んでいく。どうしても抗えない睡魔に、空却は頭の隅で渋々白旗を上げた。眠りはしない。ただ、ほんの少しの間、目を閉じるだけ――そう思ったが最後、空却の意識はふつりと切れた。



 ――ぱたぱたっ ぱたぱたっ
 遠くから聞こえる小動物のような足音に、ぱち、と空却は目を開ける。はたとして状況を把握する前に、全体的に水気を帯びたが部屋に飛び込んできた。

「ただいまぁっ」

 が満面の笑顔で自分の正面にやって来る。僅かな微睡みを纏いながら、「……おかえり」と空却は応える。そして、静かに時計を見遣ると、を送り出してからまだ十五分も経っていないことに気づいた。

「随分と早かったな」
「せっそーくんとおはなししたくて、早くでてきちゃったあ」

 そう言って、にこにこと笑む。ふと見れば、彼女の髪の先端からは水滴がとめどなくぽたぽたと落ちていた。シャツが濡れないよう、首の後ろにタオルがかけてあることだけでも褒めるべきか。どちらにしろ、世話のやけることだ。空却は上半身をにゅ、と伸ばして、あるものを手に取った。
 「ほら、こっち来い」そう言って、空却はの首からタオルを抜き取って、胡座をかいた膝をぽん、と叩く。その手には、が朝方使ったドライヤーが握られていた。

「おひざの上、のっていいの?」
「あぁ」

 言うやいなや、は何の躊躇もなく、空却の足の間にちょん、と腰を下ろした。軽い。そう思いながら、空却は彼女の濡れた髪をタオル越しにくしゃくしゃとかき混ぜていく。

「せっそーくん、あのね、おふろ入るときにね、せっそーくんのだいじなもの、ぬらしちゃだめかなって思ってね、」
「取ったんか」
「うん」
「なら手首に付けとけ」
「はあい」

 そんな会話をしながら、ドライヤーの電源を入れる。耳につく機械音と共に現れた強風が、の髪をふわふわと舞わせる。絹糸のように柔らかく、乾いてくると艶が出てきて、この頃から女だったんだな、と漠然と思う。昔の自分は一度も考えなかったことだ。
 おおよそ乾いたところでかち、と電源を落とす。轟音が止むと、「せっそーくん、ありがとう~」と言いながら、はぽすん、と自分の胸板にもたれかかってきた。すっかり座椅子にされている。それでもなお重くも何ともないので、感覚としてはの熱だけが服越しに伝わってくるだけだった。

「ばあば、かえってくるのおそいねぇ」

 ぽつんと呟かれた言葉。カーテンがかかった窓を一瞥したは、空却をちらりと見上げた。

「せっそーくん、ばあばのこと、おそとでまってちゃだめ?」
「駄目だ」
「せっそーくんといっしょでも?」
「あぁ」

 「そっかぁ……」落ち込むの気持ちも、分からなくもない。しかし、どんなにカヨを待っていようとも、火葬場で焼かれたカヨの肉体は戻らないし、カヨの魂はこの家にある仏壇から離れられない。それを、今のに説明するのは、些か性急がすぎるような気もした。

「……俺じゃ不満か」

 だから、他に言葉がなかった。
 降ってきた声に、は顔を上げる。彼女の黒い目とぴたりと合って、空却はまろくなった金色で彼女を映した。

「飯も作る。お前の宿題も見てやるし、学校であった話も聞いてやる」

 ずっとずっと、そうしてきた。のするままされるがまま、幼かった自分は彼女に振り回されてきた。最初は、それを不服に思っていた時期もあっただろう。それでも、危険と苦難が近づく時には、常に隣にいたつもりだ。少なくとも、中学に上がるまでは。
 不意に、が体の向きをくるりと変える。お互いが向き合った状態になって、彼女の両手が空却の胸に添えられた。

「せっそーくんは……ずっと、おうちにいる……?」

 囁くように紡がれた言葉は、どうも悲しみを帯びていて、空却の耳にひどく障った。

「わたしのおかあさんね、おしごといそがしくて、ぜんぜん、おうちかえってこれなかったの。それで、ばあばがおせわしてくれることになったんだけど、ばあばも、よるまで、おみせにいるから……」

 幼いの、心の内。あの頃の自分でさえ聞いたことがなかった、彼女の脆い部分。が途方もなく無邪気である理由も、危なっかしいくらい素直である理由も、十九の空却は容易く飲み込めた。
 ――名もなき欲が溢れる。空却は両腕を伸ばして、の体をその胸に閉じ込めた。

「……お前の望むがまま、拙僧はそう行動するだけだ」

 の体が微かに震える。衿元に僅かな引力を感じたのは、おそらくが自身の布袍を掴んだからだ。

「ずっと……?」
「あァ」
「わたしが、おとなになっても?」

 その声に応えるにあたって、幼いの純真さに縋らなかったと言えば、嘘になる。ひどく胸が苦しくなって、空却はの頭に口を埋め、独り言のようにこう呟いた。

「……大人になったお前の心が、今と同じならな」

 それは、あり得ない未来だと知っている。桜が春にしか咲かないように、蝉が短命であるように、人は変わりゆく生き物であること。どんなに親しくしていても、どんなに施しを与えても、人が離れる時はひどく呆気ないものだ。それらを良しとした空却は、今でもその選択が正しかったのか分からない。少なくとも、過去にあったそれらを悪しきものとしたのなら、彼女との間に亀裂は生まれていなかったのかもしれない。
 ――くすくす。猫の喉音と似たような声が聞こえる。らしくもない思考が切れて、空却はに意識を向けた。

「せっそーくんは、かみさまみたいだねぇ」
「拙僧は神様じゃねえ。仏様だ」
「ほとけさま」

 「せっそーくんは、ほとけさま」復唱するが腕の中でごそごそと動くたび、じゃれる子猫でも抱いている気分になった。

「今のお前は、楽しいことだけ考えてりゃあいい」
「たのしいこと……?」
「あァ」

 苦しいことは、待っていなくても必然的に訪れる。小学校に通っているうちは、自分もいる。だから、幸として与えられた時間は、めいいっぱい生を謳歌してほしい。
 もしも、元の年齢に戻らなくても――寺で、面倒を見ればいい。国から補償も出るだろうし、寺には誰かしら必ずいるから、が怖がるものは何もない。
 なにより、自分の目のつくところに、手が伸ばせるところに、ずっと――

「(あ゙ー……くッそねみィ……)」

 なんだか、変なことを考えていた気がする。ふっと上半身から力が抜けるのに対して、を抱きしめる腕の力が強くなる。細く、小さく、暖かい。が何も言わないことをいいことに、空却は彼女を構成する一部を堪能していく。匂い、感触、心音……これらが今自分の腕の中にあることが、罪深いほどに幸福と思えてしまった。

「せっそーくん、ねむたい?」
「あ……?」

 胸の中にいたが顔を上げる。空却の返事を聞く前に、は空却の腕の間にゆとりを作るように体を小刻みに動かす。そして、隙間からにゅっと外に出た両手は、そのまま空却の頬をふわっと包んだ。

「せっそーくん。わたしのおはなしいっぱいきいてくれてありがとう」

 虚ろになった目で、空却はを見つめる。別に、礼を言われるようなことは何もしていない。そんなことよりも、との間に出来た隙間から生まれる寒さがどうしようもない。冷える、という感覚とは違う、かなり不可解なものだ。
 もう一度、を閉じ込めようとするが、空却の意思に反して、彼女の両手はするりと頬から離れていく。そして、はすくっと立ち上がり、座位の空却を屈託のない笑顔で見つめた。
 空却の腕の中には、もう何も残っていなかった。

「あのね、ここのおへや、まくらがいっこしかないの。だから、せっそーくんのぶんのまくらと、あとタオルケットも持ってくるねっ」

 ――また、おまえは、そうやって。
 すでに夢現の空却は、踵を返したの手首をぐっと掴む。加減をするのも忘れ、ただ欲のままに彼女を求めた。
 「せっそーくん……?」の不安げな声が届いて、その手を離せ、と咄嗟に理性が叫ぶ。途端、胸が二つに裂けるような痛みが走って、空却は重々しい息を吐きながら、の手首を掴んでいた手をぱたん、と畳の上に落とした。

「……カヨばあの部屋には、入んなよ」
「うんっ。わかったあ」

 もう、目も開けていられない。の足音が遠ざかる。弾んだ声も、笑った顔も、温もりも、すべて記憶から薄れていく。そして、ひどく、身体が寒い。今のこいつは、あいつじゃない。そんな当たり前のことですら容認できず、あの小さな存在に未練がましく縋ってしまった自分に吐き気すら覚えて、空却は唇を噛んだ。

「(クソが……)」

 うっすらと血の味がする。強く噛みすぎたらしい。それでも睡魔は去ってくれず、今から真の現実をみせようとしている。
 ……現実。ああ、そうか。幸福な夢を見ていたのは、魅せられていたのは、ずっと――







 やさしくて、かっこよくて、いいにおいがするせっそーくん。いっしょにごはん食べたらしあわせいっぱいになって、あたまなでなでしてくれるときは、あたまがふわふわして、すごく、きもちいの。
 だからね、せっそーくんのために、まくら持ってくの。ねるときにまくらがないと、あたまいたくなっちゃうから、持ってくの。そうしたら、わたしもせっそーくんのとなりで、ねてもいいかなあ。おなじタオルケットで、ねてもいいかなあ。せっそーくんはやさしいから、きっと、いいよ、って言ってくれるよ。

「あっ」

 一階に下りてきた。物置から大きな枕を引っ張ってきて、両手でそれを抱えようとすると、かつんっ、と固いもの同士がぶつかる音がした。
 おそるおそる、は床を見る。すると、手首にかけていたブレスレットが転がっていた。せっそーくんのだいじなもの、おちちゃった。どうしよう。こわれてないかな、だいじょうぶかな――はじっと目を凝らして一つ一つの珠を念入りに見つめる。傷は付いていないし、欠けたところもないようだ。
 よかったあ。わっかがおっきいから、わたしの手からおちちゃうんだ。手のなかにぎゅってして、持っておこう。それに、もうねるだけだから、せっそーくんにかえさなきゃ。せっそーくんのだいじなもの、せっそーくんが持っててって言った、だいじなもの、せっそーくんの、だいじな、だいじな――

「くーちゃん」

 口から飛び出た言葉に、あれ? とは首を傾げる。わたし、いま、なんて言ったんだっけ。なに、してたんだっけ。あ……そっか。せっそーくんのだいじなもの、だいじなものだから、わたしがもってないといけなくて、でももうねるだけだから、せっそーくんにかえそうとおもって、えぇっと――
 ぐるぐるぐるぐる。頭が回って、はふらふらとした足取りで階段の前まで歩いていく。その途中で、記憶にない画像が紙芝居のように流れてきて、の頭の中を容赦なくかき混ぜた。

「え……? えっ……?」

 の疑問が止まらない。細長い箱の中で眠っているカヨ、着たことのないセーラー服、知らない人達の声……それらに押し出されるようにして、今朝からの記憶が消えていく。頭から一つ、また一つと消えていく。夕食に食べたもの、おやつに食べたもの、朝食に食べたもの――それだけなら、まだ、よかったのに。

「せっそーくん……?」

 彼の手の感触が、思い出せない。たくさん撫でてくれて、抱きしめてくれたあの感触が、思い出せない。その次は、彼の見た目が分からない。髪の色は? 目の色は? 口の形は? 彼の姿が真っ黒に塗りつぶされて、胸がぎゅう、と苦しくなる。それだけじゃない。においが……すきだったはずの、ずっと嗅いでいたくなるような、あの、しあわせなにおいが、なにも――
 どうして? どうして? やだ、せっそーくん、いっちゃやだ、きえちゃやだ。わたしのしらないのがいっぱいあって、せっそーくんがきえちゃうの。せっそーくんは、いるって言ったのに、わたしがおねがいしたら、ずっといてくれるって、言ったのに。わたしがおぼえておかないと、ちゃんと、わすれないようにしないと、じゃないと――

「やだよぉ……。やだぁ……っ」

 はぽろぽろと涙を流しながら、階段に手をかける。はぁっ、はぁっ、と浅い息を頻りに吐きながら、一段、また一段と上がっていって、彼のいる部屋へと近づいていく。残っているものが残像だけでも、何かを与えられたという事実と、彼に対して抱いた感情だけは、ぼんやりと残っているから。
 もう一段――そう思ったが、途端に腰に力が入らなくなって、ぺたん、とは尻もちをつく。それからもなんとか体を持ち上げようとするが、根っこが生えたように臀部が床から離れることはなかった。

「(せっそーくん……せっそーくん……っ)」

 かなしい。さみしい。この体に収まりきらない感情の渦に、頭がぼんやりとしてくる。体中の力が外に逃げていって、は抱いていた枕にもれるようにして、ぽすん、とやむを得ず全身を委ねた。

 ――「今のお前は、楽しいことだけ考えてりゃあいい」
 ――「たのしいこと……?」
 ――「あァ」

「(たのしぃ……こと……)」

 あたらしいがっこう、あたらしいおともだち、おいしいたべものやさん――たくさんたくさん、は楽しいことを考えた。彼が、そう言っていたから。声だけしか分からないその人が、切なそうな声で、そう言っていたから。
 しかし、どこを探しても、彼はいない。新しい学校に行っても、新しい友達と話しても、商店街の食べ物の匂いがしても、胸に空いた穴は、これっぽっちも塞がらなかった。

 だめ……だめなの。どんなにたのしくても、××××くんがいなきゃ、わたし、わたし――

 ……ついに、声も聞こえなくなる。の胸の中には、“何かがいた”という空白だけが残った。そこに触れてみると、なぜだかひどくかなしくて、閉じた目から雫が落ちる。
 それでも、名前すら紡げなくなった存在を、は夢の中で探し続けた。果てしない道のりでも、いつか、後ろに歩いているその人と、出会える未来があると信じて。







 ――どろっとした睡魔が薄れていく。は目を開けて、柔らかいものから体を離した。枕だ。長らく使っておらず、物置に仕舞っていたはずの枕を、なぜか抱いたまま眠ってしまっていた。

「(あ、れ……?)」

 の疑問は止まらない。ここは自宅……階段の途中だ。そこに腰をかけて眠っていたようだった。ちぐはぐな状況に、起き抜けの頭が飲み込めるはずもない。は暫くそこから動けず、意識が完全に起きるまでただぼんやりとしていた。
 すん、と無意識に鼻を啜る。春先だから体が冷えたのかもしれない。すると、目から一粒の涙が零れた。え……? 生理的な涙かとも思ったが、胸の中に正体不明のしこりがあることに気づいて、はさらに頭を悩ませる。
 すごく……すごく、かなしいことがあった気がする。夢、見てたんかなぁ。どんな夢だったんだろう。枕を片手に抱きとめながら、は頬に伝った涙を静かに拭った。
 ――それでまた、新たな疑問が生まれる。

「(わたし、空却くんのシャツ着とったっけ……?)」

 着た覚えがない。なんなら、風呂に入った記憶もない。それでも、格好を見る限り風呂上がりのようだし、髪からは普段使っているシャンプーの匂いがする。風呂から上がって、シャツを着たとして、どうして普段使っていない枕を抱いて、階段の途中で寝ていたのだろうか。それに――

「下着、つけとらん……」

 上も、下もだ。おかげで全身がすーすーとしていて落ち着かない。こんな不可解な事象は、昨夜はひどく疲れていた、としか理由付けができない。なぜなら、昨日帰った時の記憶がぽん、と頭から抜け落ちているのだ。
 ……とりあえず、下着つけんとかん。は枕を持ちながらふらりと立ち上がって、ゆっくりと階段を上っていく。二階には、昔は居間として使っていた部屋があり、タンスはその部屋の奥に隣接しているの自室にある。

「(あれ……? 電気も付いとる……)」

 なんだか、今夜は不思議なことばかりだ。二階の部屋から漏れている明かりに気づいたは、考えることを止めた。覚えていないものは覚えていない。とりあえず、下着を付けた後、もうひと眠りしたい。明日はお休みだから、お昼過ぎまでじっくり眠れる――

「え……ッ」

 部屋の敷居を跨ぐ前に、は反射的に部屋の柱に隠れた。どくどくと激しく波打つ心臓が、目の前に飛び込んできたものに対してひどく驚いていた。
 え……っ? えっ? そろり、と柱の端から部屋の様子を覗き込む。いつもの和室部屋――の中に、明らかに異質な存在がそこにいた。
 ――空却くんが、座ったまま寝とる……。

「(どうして……っ? どうしてっ……?)」

 赤い髪も、黒の作務衣も、見間違いではない。まるっきり空却だ。胡座をかいて、壁に背を預けるようにして目を閉じている。おまけに、彼のスカジャンは部屋の隅に放られていた。これは、一体、どういう状況なのだろうか。空却を家に招いた記憶など、の脳内のどこを探しても見当たらなかった。
 ……これは、稀に見ない緊急事態だ。寝ていた前のことを、ちゃんと思い出さなければ。ひとまず、着替えよう。はそおっと部屋に侵入して、隣の自室に入り、静かに襖を閉める。タンスから下着とチノパンを出して着替えている間も、の神経は空却が寝ている隣の部屋に向かって、ぴん、と研ぎ澄まされていた。







「(うぅ……)」

 着替え終えたは、すす、と開けた襖から顔を覗かせる。最初に見た時と同様、空却は先程の位置から動いておらず、規則正しく寝息を立てている。さっきも頬を何度も抓ったが、やはり夢じゃなかった。おかげで両頬がひりひりして、少し痛い。
 どうして空却くんがおるんだろう……。すごくうれし――じゃなくて、ほんとうにどうしてだろう。うちに何か用事あったんかなぁ。だとしたら、なんの用事だろう。それに、寝るなら座ったままじゃなくて、横になった方が……。
 じわ、じわ、とは無意識に空却と距離を縮めていく。それと比例して、心臓の熱量も増していった。痺れるような緊張が全身に纏わりつくし、首から上から妙に熱い。それでも――

「(きっと、寒いよね……)」

 さすがに、この時期に何もかけないで眠るのは健康上よろしくない。ちょうど、小さい頃によく使っていたタオルケットがなぜか畳の上にあったので、それを空却の肩にかけようとした。そっと、そうっと、気配を殺して、ゆっくりと、起こさないように――
 したはずだった。

「わッ」

 ぱしッ、と手首を捕えられる。へ、とが唖然とするも、手首を捕らえた空却は目を閉じたままだ。本能的に、気配を悟ったのだろうか。とにかく、は冷や汗が止まらなかった。彼の肩にかかるはずだったタオルケットは、の手をすり抜けて空却の膝の上に落ちている。
 ……ゆっくりと、空却の目が開かれる様をは見た。瞼から覗いた金色の瞳がを捉えた瞬間、彼女のさらに心拍数が上がった。

「ぉ、おは、よう……ございます……っ」

 何を言っていいのか分からず、思わず挨拶をしてしまった。しかし、目覚めたばかりの空却はの声に応えず、じぃーっと虚ろな目でこちらを見つめるばかりだ。
 「く、くうこう、くん……?」空却の眼差しに耐えきれず、は縋るように名前を呼ぶ。すると、手首を掴んでいた空却の手がぴくり、と微かに震えた。

「……あぁ。戻ったんか」

 独り言のような声色。が聞き返すよりも早く、手首が解放された。くわッ、と大きなあくびをした空却が、「はよ……」と言いながら、片方の膝を立てて右手で髪をぐしゃぐしゃと掻き回した。
 び、びっくりしたぁ……。さっきなんて言ったんだろ……。よく聞こえんかった……。が自分の世界に入り浸っていると、「……お前、」と空却の掠れた声が耳に届いた。

「は、はいッ」
「体、なんともねーか」

 からだ? は瞬きをして首を傾げる。言われてみれば、寝ている時に階段の角に当たっていたらしい首元が少し痛いくらいだが、些細なことだ。空却に言うほどのことでもないと思い、は首を横に振った。

「う、ううん。なんともないよ」
「ならいい」

 「今までのこと覚え……てはねーな。その顔じゃあ」と空却は続けて言う。「今まで?」とがオウム返しすると、空却は溜息をつきながら、今までの経緯をぽつぽつと話し始めた。



「違法マイクっ?」
「あァ」

 再び、あくびを一つする空却。違法マイク――二年前の革命の後、テレビのニュースでちらほらと聞いたことのある単語。それがまさか、自分がその被害に遭っていたとは。そのおかげで、一日と半日の記憶もないというのも、不思議と頷けてしまった。

「そうだったんだぁ……」
「他人事みてーな反応すんなよ」
「あ……。その……ほらっ、違法マイクって聞いたら、体とか心とかがおかしくなるイメージがあったからっ」
「あー……まァ、その認識は合っちゃあいるが、何もなかったわけじゃねえ。お前、記憶ねえ間はガキん頃に戻っとったんだぞ」
「えっ」
「で、チビになったお前を一人にもしとけねーから、拙僧が面倒見とったわけだ」

 理解したか、と。空却は平然とそう言うが、は正直それどころではなかった。

「小さい、ころ……?」
「あぁ」
「小さい頃って……何歳くらい……?」
「あー……たしか七歳っつっとったか。お前がこっちに越してきたばかりの頃だったが」

 不幸なことに、が黒歴史と葬りたい年の頃だった。
 さああぁっ、と全身から血の気が失せる。が絶望の淵に立たされたような顔をしていると、首を傾げた空却が口を開いた。

「おい、どうし――」
「小さくなったわたしっ、空却くんに何もしんかったっ?」

 跳ねるようにずいっ、と前のめりになった。空却の膝の上に乗らんとばかりに迫った彼女に、空却はそっぽを向きながらこう呟いた。

「……何もしんかった、ってなんだよ」
「迷惑とかかけとらんかったかなって……っ」
「いや別に。食っては寝て食っては寝ての繰り返しだったからな。特段手間はかかってねえよ」
「え……」
「今思えば、ずっとなんか食っとったな。朝飯から始まって、クッキーやらスパゲッティやら握り飯やら栗鼠みてえにばくばくと――」
「ああぁぁ~ッ……!!」

 は両手で顔を覆って背中を丸めた。そう……それだ。そういうことをは危惧していたのだ。空却の目があるところで、そんな食べっぷりをアピールしてほしくなかった。
 どうして昔のわたしってそんな感じだったんだろうっ? あ……今もちょっと食い意地張っとるところあるかもしれんけど、空却くんの前だったらちょっとは気にするのに……っ!
 「お、おい……」空却が珍しくも狼狽えた声色を発していることにも気づかず、は不意にぱっと顔を上げた。

「卵焼き?」
「あ?」
「卵焼きって、空却くんが作ったの……?」
「そうだが」
「スパゲッティも?」
「それは麺がなかったから届けてもらった」
「おにぎりは……?」
「冷蔵庫に天むすあったから、それ入れて握った」
「空却くんが?」
「だからそうだっつっとんだろ」
「いいなぁ……っ」
「は?」

 ははぁ、と溜息をつく。どれだけ後悔しても、すべては幼い自分がやったこと……それに、今のには一切の記憶がないのだから、悔やんでも仕方がない。空却も二、三日すれば忘れてくれるだろう。最も、自分はそのことを想像するたびに数日間は悶えるわけだが。
 ……とすれば、気になることがもう一つだけ。

「あ、あの……空却くん、」
「今度はなんだよ……」

 空却が疲れたように応える。は空却がくれたシャツの裾を握りしめながら、ぼそぼそと言った。

「着替えって、空却くんがしてくれたんかなぁって……」
「着替え?」
「さっき、起きたら……その、シャツの下、なにも、着とらんくて……」

 体が小さくなったから、その分着ている服も選ぶ他なかったはずだ。下着も、下の服も着ていなかったということは、つまりはそういうことだろう。
 眉を顰めたまま、小さく口を開けている空却。言葉を飲み込むまでに時間がかかっているようだ。彼の頭の中で木魚でも鳴っていそうな沈黙の中、は空却の返答を待った。
 ――刹那。ぶわッ! と空却の顔が髪と同じ色に染まった。

「すッるわけねえだろうがッ! 全部お前一人でやらせたっつのッ!!」
「そっ、そうだよねっ! ごめんねッ。……あっ、今は付けとるから大丈夫だよっ」
「つッ……!? わざわざ言うんじゃねえんな報告いらんわッ!!」
「ごめんなさいいぃ……っ」

 てんやわんやの二人が落ち着くまで、少々時間がかかった。そんな空気に終止符を打ったのは空却だった。「あ゙ー……くッそあちィ……」空と、作務衣の衿元を持って前後にばたばたと扇ぎながら、不意に立ち上がったのだ。空却は部屋の隅に置かれていたスカジャンを拾い上げて、腕にすっと通していく。

「一度、うちに戻る。明日の……つかもう今日か。朝方にお前ん家寄るから、身支度しとけ」
「え?」
「“え?”じゃねえ。お前以外にも違法マイク食らった人間がいんだよ。サツに情報提供しなかんだろうが。あと病院。何ともねえと思うが念の為だ」
「いっしょに、行ってくれるの?」
「あぁ? 拙僧が行かねえで、誰が縮んだお前の様子伝えんだよ」

 当たり前のことだが、それでも嬉しく思ってしまう。「あり、がとう……」小さく礼を云う頃には、空却は背を向けてしまっていた。階段を下る音がして、は慌ててその後を追った。空却の話からすれば、一日中面倒を見てくれたのだ。せめて、玄関まで見送らなければ気が済まない。

 ――「せっそーくんっ」

 ――ふと、頭に過ぎる言葉。え……? とが疑問に思う間に、それは霧となって消えてしまった。
 ……なんだろう。セッソークンって。どういう意味だろう。言ったことはないはずなのに、体によく馴染む音だ。どこか親しみを感じる単語を頭の中で巡らせていると、すでに靴を履き終えた空却が見えたので、は慌てて階段を下ったのだった。