Episode.12
入間銃兎は苛立っていた。
それはもう、稀に見る機嫌の悪さだった。廊下ですれ違う人が皆、銃兎の存在を確認したら、顔を青ざめてわざと視線を逸らしてしまうくらいの。ひたすら署を歩き回っているせいか、だんだんと足の裏が床に叩きつけられる度に痛くなってくる。“接続中”という画面から一切変わらないスマホが悲鳴を上げるくらい強く握りしめて、銃兎は性急に詰所のドアを開けた。
朝一から外回りに行かせたが戻ってこないのは今に始まったことじゃない。理由としては迷子がいただとか、不審者と思しき人間を尾行していただとか、単に報告を忘れていただとか……もちろん、最後は問答無用で始末書案件である。どちらにしろ、銃兎に無駄な労働をさせた罪は重い。早足で部屋の中心部まで歩き、ぐるりと室内を見渡す。今はちょうど昼休憩。いるならここだ。しかし、同僚達が銃兎からさっと視線を逸らす中、肝心の探し人はどこにもいなかった。
「亀崎はどこです」
「えッ……あ、か、亀崎なら今戻ってきて給湯室に――」
「呼びましたー?」
ラーメンとともに給湯室からぬっと現れた。銃兎はずんずんと大股で彼女の前に立ち塞がり、近くのデスクに紙の束をどさり置いた。「あっ」
「すみません入間さーん。帰署報告忘れてましたー」
「それはまた別の機会にたっぷりと指導します。で、これはなんです」
「んー。どう見ても、わたしが先日書いた中王区研修のレポートですねえ」
「小学生でももっとまともな文章を書きますよ。やり直しなさい」
「四十度越えの高熱にうなされてた中、このクオリティって逆にすごくないですかねえ。あ、それよりも見てください。やっぱり中王区から通知が来ましたよー」
「いやあ、まさかスカウトだなんてー」とが照れながら見せたのは、忌々しい中央区のマークがついた茶封筒だった。中身は見ずとも、の言ったことがすべてだろう。本当に話の骨を折るのが上手い女だなお前は。
「それは破棄しなさい。すでに上には話はつけてあります」
「えぇー……。いつそんなことしたんですか」
「おや、心当たりありませんか。電話した時、その場にあなたもいましたよ」
は一瞬何かと考えて、「あぁ~……」とすぐさま遠い目をした。
数日前、銃兎の元に中王区から一本の電話があった。研修担当を名乗ったその女は、若年ながらも平均以上のスキルを持つに目をつけたらしく、引き抜きの話を持ちかけられた。過去に銃兎も同じことをしたが、交番から署異動では規模が違う。こちらも人手が足りないのだ。がいなくなった穴は大きい。
何かと賄賂をちらつかされたが、という人材に代わるものはやはりなかった。長いことねちっこく交渉をされてきたが、銃兎は首を縦には振らず、ようやくあの夜、ホテルで話をつけることができた。しばらく中王区からの風当たりが強いかもしれないが、それくらいの犠牲で済むなら安いものだった。
「ですから、早急に書き直しなさい。どうせあなたのことですからボイレコも撮ってあるんでしょう。そのデータも添付して二時間以内に再度提出。いいですね」
「入間さんもご存知かと思いますけど、わたし今日一日中外回りなので、一時間後にはここ出ないといけないんですよー。しかも見ての通り今からお昼休憩です~」
「休憩を返上したら時間は十分に取れますよ。私もこれから予定がありますので、その時にあなたの資料がないと困ります」
「いつもまともなもの食べろって言ってる人の台詞じゃないです~」
「なら最初から半端なもん出すんじゃねえ」
「うはぁ~……」とがついに音を上げる。それと同時に、給湯室でやかんの音がピーッ、と鳴ったので、彼女は銃兎に背中を向けて、再び給湯室に引っ込んでいった。銃兎だって、できないことを最初から望んだりはしない。の底なしの能力を汲んだ上で相応の仕事を与えているつもりだ。
すぐに湯気の出たカップ麺を両手に持ってきた。「後輩君、これ待つの一分でいけますかねえ」「いや二分はないと駄目じゃないですか……」などと、新人ツートップが幼稚な会話をしている。出先で食べる選択肢はねえのかよ、と銃兎が舌打ちをすると、そそ、と一人の同僚が隣に寄ってきた。
「銃兎さん、今日俺がカメと組むんですが、なんなら代打の奴でも――」
「彼女を甘やかすなといつも言っているでしょう。ああそれとも、今回はあなた一人で行きますか? たしか今日は過激派の連中が目白にしている地区でしたよね。そこの組長が亀崎を指名で呼んだんです。なのにあなた一人で行ったらどうなることやら……」
「まあ、腕一本で済めばいいですね」とにこやかに言うと、すぐさま同僚は青ざめた顔をする。最近は特に、周りのの贔屓に拍車がかかって困っていた。元々、彼女を他人に甘えることもしないから、そんな親切も不発に終わっているが。
「ごちそうさまでしたあ。あ、先輩、レポート書き上げてから行くので先に駐車場で待っててくださーい」
「お、おう……。つかお前ちゃんと三分待ったか!?」
「硬麺派かつ早食いなので実質一分半ですー」
ゴミ箱に空になったカップを捨て、は軽い足取りで詰所から出ようとする。すると、不意にくるりと銃兎の方を振り向いてじっと見つめてきたものだから、銃兎はから顔を背けて犬でも扱うようにしっ、と手で払った。
ぞんざいなものだ。なのに、はそれはもう満足そうに笑って、「いってきまぁーす」と銃兎に手を振った。もはや相手にされることが嬉しいようで、いつからか仕事上で彼女に一泡吹かせることを諦め始めていた。
薬物は蛆虫のように湧いて出てくる。それを取り締まるということは、世界中から特定の蟻の巣を見つけるくらい、難儀かつ現実的ではない。かつ、それを妨害しまいとろくなことしか考えない頭だけがでかい上司は増え、必然的に銃兎の周りには仕事とコネが増える。それに比例して、偽善の罪ばかりが体中に塗りたくられていくものだから、たまに自身の肌の色さえ忘れそうになる時がある。
自宅の駐車場に車を停め、エンジンブレーキを上げる。振動が停止し、オレンジのライトに照らされる車内。退勤時間を大幅に過ぎて、ようやく銃兎は自宅に到着した。明日も朝からガサ入れが三件と多忙を極める。まったく体がいくつあっても足りない。
「、起きろ」
助手席ですやりと眠っているにそう呼びかけると、彼女はすぐさまぱちっ、と目を開けた。相変わらず寝起きだけはいい。
銃兎を一瞥したは大きく背伸びをして、はあっ、と勢いよく息をついた。
「もう歩きたくないですー……」
「あなただけ車内泊しても私は構いませんよ」
「辛辣です銃兎さぁーん」と言いながらも、はのそりと車から出て、ドアを閉める。夜中の駐車場に彼女のパンプスの音が大きく響いた。
ピピッ、とロックのかかった車をひとめ見て、銃兎は一人歩き出す。そして、その横にすぐ並んだ。あくびをこぼしながらも、その足取りはしっかりしている。歩けないと言ったのも、ただ言ってみただけだろう。最近、冗談と交えて、銃兎にこうして甘言を漏らすことがあった。それはきっと、いい傾向なのだと思う。溜め込む癖のある彼女にとっても、必要以上に探りを入れてしまう自分にとっても。
「わたし、働きすぎて、そろそろ銃兎さんの家畜になる気がするんですよねえ」
「いいじゃないですか。無償でご飯が食べられますよ」
「でも、たまにしか好きなもの食べさせてくれないじゃないですかあ」
「リクエストが滞りすぎなんですよ。栄養管理は飼い主の仕事だと思いませんか?」
「たまにはご褒美あげないとグレちゃいますよ~」
「こんなにも口の回る家畜なんて、グレても買い手はいないでしょうね」
「たしかに……そうですねえ」はへらっと笑った。中身のない会話をしているうちに、エレベーターが止まり、が当たり前のように開いたドアを押さえる。先に降りた銃兎にが続き、揃わない二つの足音を奏でて、二人でほぼ同じ帰る場所へと向かっていた。
「改めて言っておきますが、」
音は、いっこうに揃わない。はちらりとこちらを見上げている。なにがおかしいのか、その顔には薄ら笑みを浮かべていた。
「あなたを許すつもりは毛頭ありません。私は私の理想を何よりも優先しますし、いざとなったら非道なやり口であなたのことを利用します」
すると、は一瞬真顔になったかと思ったら、すぐに、ぷ、と吹き出した。何をいまさら、と言うように肩を震わせるので、銃兎は不機嫌に目を細めた。
「……何がおかしいんです」
「それでこそわたしの好きな銃兎さんです~」
どこか上から目線の物言いに、む、と銃兎は顔を顰める。こういう時だけ好き好き言いやがって。最近は名前を呼ぶのが慣れてきたかなんなのか、余裕が失せた彼女を見る機会が少なくなって、銃兎はなんとなく面白くなかった。
お互いの部屋の前に着いて、鍵を開ける。はもちろん隣の部屋に帰るので、お疲れさまです、と彼女に言われる前に、銃兎は芽生えたいたずら心をその手で摘みとった。
「……そういえばあなた、このあいだ私の部屋に来た時、口紅を忘れていましたよ」
「えー? 本当ですかー?」
は鍵穴に差し込む前に、銃兎の開けられた部屋にすす、と体を滑り込ませる。それを冷たく見下ろす銃兎の視線にも気づかずに。信頼をよせられていると同時に、危機感も反比例してなくなっている。まあ、自分相手ならそれはそれでいい……とは思うが。
おもむろに、銃兎はの手を強く引っ張り、玄関の壁に彼女の背中を押しつけた。ガシャン、と閉まるドアの音を聞きながら、後頭部を指の腹で鷲掴む。驚いた顔をしたと、目が合う。顔を近づかせると、その瞳からの侵入を許さんとばかりにぎゅ、と目を瞑られる。がこうして隙を見せるのも、接触を受け入れるのも、全部、自分にだけ。彼女が自身の弱さを認めて、それのやり方を教えたのも、また然り。を構成するもの……髪の先すら好きにしろと言ったのは、紛れもなく彼女自身だ。
「……冗談だよ」
このまま好きに蹂躙してもいい。しかし、今までコケにされた分はきっちり返させてもらう。銃兎はの下唇だけを食んで、ぱ、と彼女の拘束を解いた。おそるおそる目を開けたの顔といったら、思わず吹き出してしまいそうなくらいまぬけなものだった。
「まあ、せっかく入ったんです。このままご飯食べていきなさい。どうせ今夜もインスタントで済ませるつもりでしょう」
「……銃兎さんってほーんと、わたしのこと大好きですよねぇ……」
「あなたほどではないですよ」
まさに負け犬の遠吠えだ。は口元を隠しつつ、早々とパンプスを脱ぐ。上気した頬と耳が隠せていないのがかわいいな、と思う。先にリビングに入っていった彼女の背中を見送って、銃兎もその後に続いた。
償いとは、生とのみ天秤にかけられる。だからきっと、一生出会ってはいけなかったように思う。お互いの人生に、世間が提示する幸福はやはり似合わなかった。しかし、彼女を見つけてしまったのは銃兎で、その手を選んだのは以外の他ならない。自らのための正義で彩った光で線を引き、その上を道として歩く彼女を天から見下げるこの時間が、これからいつまで続くのか。
「そうですねえ……。なんせわたしは、銃兎さんのためなら火の中水の中どころか地獄の底ですから~」
わざわざ廊下の途中で立ち止まって、茶々を言うを銃兎はじっと見下げる。前髪で隠れた額を軽くごつくと、あいたあ、と彼女は額を抑えた。その口は、やはりご機嫌にゆるんでいる。
しかしまあ、にとっての贖罪になり得るのなら、それでもいい。銃兎も、自分が照らした以外の道を彼女が歩くことをゆるさない。代わりに、新たにもたらされた汚れをこの体に纏うだけだ。
星の消えた夜空の下。この手が真っ黒に塗りつぶされて、社会の闇と同化するまで。虚偽と偽善が混じり合ったこの広い世界、先の見えない暗がりでたった一つの光である銃兎は、今夜もいとおしい罪人の行く末を密やかに見守っている。
