Episode.11



 はキッチンに立っていた。湯を沸かすわけでも、箸を洗うためでもなく、今にもかたかたと震えだしそうな鍋をぼんやりと視界に映していた。
 どうして、こんなことしてるんだろう。第三者の目線でものを考えている自身に違和感を覚えていると、不意に、とすっ、と膝裏に生まれた可愛い衝撃。振り向くと、そこには小さな男の子がいた。コアラのようにの両膝を抱きながら、かえってきた、と頬を赤く上気させて報告をしている。
 自分のことが、何も覗けない。なにが帰ってくるのかとか、この男の子はだれなのかとか、どうして自分は鍋を見ていたのかとか……問いたくても、はその鍵のかかった記憶の箱を開けることはできなかった。
 その後、すぐに、ただいま、と。聞こえてきた声色に、はたしかに、聞き覚えがあった。
 おかえりなさい。男の子がその声に向かって言う。いつか、家族に言うんだと、まだ未来に希望をもてた幼少期……その魔法の言葉を、はもう長らく頭の引き出しに仕舞ったままにしていた。
 鼓膜がきゅ、と奥に引っ込むように、音が遠ざかる。足音が近づく度に、早く覚めて、とは形のないものに訴えた。これは夢だと、すぐに分かった。だって、こんな……人がこんなにも芯からあたたかくなれるなんて、現実のは知らなかった。
 ドアが開くと同時に、目の前がぶわっと黒に呑まれる。すると、ぼんやり浮かんだ星のような光がちかちかとまたたいて、温度も音もない世界に導かれるように、は下へ下へと沈んでいく。
 もう、その感覚も知らないことではなかったので、ああ、ようやく、正しい世界に戻れる、と思った。あんなきれいなものは、わたしには、必要ない。だから、どうか、この先に、さっきのようなやさしいものがありませんように。吐き出されたあぶくを見送りながら、は、体の先から粉々になりそうな浮遊感にゆるりと頬を緩めた。
 同じ味のする海でなら、泣いてることなんて、誰にも気づかれはしないだろうから。







 夜が遠くに駆けていく気配がして、はひどく重たい瞼を開ける。辺りはうすぼんやりと灰がかっており、夜明けが近いことを起きたばかりの頭が知らせた。
 ものの数十秒、沈黙。そして、少し身動きをすると、腰と、下腹部が鈍く痛んで、はかすかに眉を顰める。水を飲みたかったが、なんだかもう起き上がる気も失せてしまって、はあ、と無気力に息を吐く。
 今、何時だろう。スマホは……かばんの中……あ、銃兎さんの、時計。断片的に散りばめた記憶を拾い上げて、は腰を労りながらサイドテーブルに手を伸ばす。
 ……ふと、視界の端に映るカーテンが揺れていることに気づいた。はにゅ、と首を伸ばして、バルコニーに目をやる。分厚くて上質そうなカーテンは眠たげにゆっくりとなびいていて、そこから香ってくるのは、彼からここ最近香っている銘柄だった。
 夜を……思い出す。何度も死んでしまいたいと思った。最初は咲いたばかりの花びらを愛でるように指先だけで至る所を愛撫された。途中、ついに我慢ならなくなって泣きながらやめて、いやだ、おねがいします、と――いくら叫んでも、あの目が優しげに細められる瞬間はなかったし、そのくせ声色ばかりが柔らかく、腰は力強く奥を突き上げるものだから、の拒絶の言葉は何度もびりびりに破かれてしまった。
 しかし、ベッドはあの熱情帯びた夜が嘘のように綺麗に整えられていて、唯一夢じゃないと訴えるのは、体にほとばしる痛みだけ。目が覚めたら黙ってどこかに行ってしまうくらい、してくれればいいのに。それくらいの淡白さは、彼の中にあってほしかったのに。

「(あー……もう……)」

 ……呼ばれた。何度も。鼻がかって、耳から入ってからも頭にずっとしつこく残って、脳髄を頻りに揺さぶる、あの声に。いつもの涼やかな音色なんて程遠いくらい、熱い色香を纏って、名前を、なんども――
 わッ、と顔を覆いたくなる記憶がありありと蘇ってくる。呼べと言われて、もまるで恋人のように彼の名前を呼んでしまったし、与えられるだけの刺激の感想を求められて、淫らな女のように応えて、さらなる波を引き入れてしまった。
 煙草が吸い終わったらこちらに戻ってくるであろう未来を想像したら、ただでさえ不安定な体勢に手を伸ばしていたものだから、バランスを崩して、は呆気なくベッドの端からずるりと体が落ちた。
 ドスッ、と鈍い音がして、固い床と対面する。思いもよらない衝撃に受身も取れず、はみじめなくらい力なく床に転がった。
 ……なに、やってるんだろ。すごく、みじめだ。それに加えて、打ち所が悪かったかったようで、腰がさっきよりも痛んで、これ、起き上がれないかもしれない、と無性に目の奥が焼けるように熱くなる。夜って、だから、いやなんだ、小さい頃から、この時間は。自己嫌悪に取り憑かれたがベッドのシーツを掴みながら登ろうとすると、不意に煙草の匂いがより一層濃くなった。
 しゃッ、というカーテンの音とともに近づく足音。入ってきた冷風にぶる、と体が震える。どうしよう、と思考している間にはふわ、とごくわずかな浮遊感を覚える。抱き上げられた、と思った時には元いたベッドの上に戻されていた。
 あ……顔、見れない。お礼の一つくらい言いたいのに、はそれどこか目を合わせることすらできなかった。なのに、時間だけはさっきよりも気になった。だって、朝になったら、この空間を共有している時間すら終わってしまうから。
 指先一つの動きも見られている気がして、は上手く息ができなかった。すると、ふう、と上から自嘲じみた溜息が落ちてきて、銃兎がベッドから離れようするので、は咄嗟にその手を掴んだ。驚いた銃兎が振り返ったが、もまた驚いていた。でももう、言うしかない。は震える唇をおそるおそる開いた。

「ど、こ……いくん、ですか」
「……ソファーで、もう一眠りするだけだ。チェックアウトまでまだ時間あるからな」

 でも、だからって、べつに、離れなくたっていいじゃないですか。なんで。そんな不揃いな言葉を羅列をこの口が言えるわけもなかった。この喉は、いつだって本当に使い物にならない。わたしだって、できるなら、すなおになりたいし、あざとく、さそって、そうしたいのに、この人がからむと、いつまで経っても――
 ぶわ、と目の前が霞む。まずい、と思った時にはもう遅くて、水に潜ったように鼻もつん、としてきてしまった。

「そ、そう、やって……つき、はなす……くらいなら、やさしく、しないでくださいよ……っ」

 脈絡もなく出た声は、本人も知らないものだった。だれだ、と問われる前に、その誰かはその口から次々に言葉を吐き出していく。

「ひどく、したり……っ、ベッドの、うえ、あげて、くれたり……っ、もう、なんなんですか……ッ? ねるなら、ここで、ねれば、いいじゃないですか……。なのに、そんな、やることやったら、みたいな、なんで……ッ」
「おい――」
「きのう、あんな……いっぱい、されて、かお……みれないし、なんて、よんでいいか、わかんないし……ッ、もう、これから、どうやっ、て……」

 だんだん、ただのやつあたりになってきて、はそろそろこの首を絞めたくなった。逃げ出したいのに、足は子鹿のように震えるばかりで、なんなんだ。もう、このままどこもかしこもおかしくなればいいのに、と消えてなくなってしまいたくなった。
 そして、おもむろに、ギッ、とベッドが沈む。銃兎の影が近づいてきて、思わず全身をぐっと強ばらせると、の震える体は銃兎の腕の中に閉じ込められていた。

「……悪かった」

 後頭部を広い手のひらで覆われて、上から下に撫でられる。耳元でぼそりと呟かれた声は、まるで嵐に打ちのめされた小動物の鳴き声のようだった。
 そして、この体は本当に単純にできているらしい。銃兎に抱きしめてもらっただけで涙はぴたりと止んだし、するすると糸がほぐれていくように全身から力が抜けていった。は密かにすう、と酸素を取り込む。たばこの匂い。少しにがくて、でも、この人の一部で寿命が縮むなら、ちょっといいな、とさえ思えた。

「昨日……かなり、無理させただろ。目も、こんなになるまで」

 体を少し離されて、一気に熱が逃げたところで、銃兎が、頬に流れただけのの涙を拭った。
 そうか、目が重いのは、そのせいか。すん、とは鼻を啜って、下唇を少しだけ奥にしまった。

「俺の顔を見るのも嫌なんだと思ったんだよ。ここで寝ると、こうやって、手出しそうだったから」

 理由にしてはひねくれていて、言い訳にしては少し可愛かった。まるで、泥だらけになって帰ってきた子どもの言い分のようだったので、は思わずふ、と少しだけ声を漏らした。「おい」

「今笑っただろ」
「っ、ふ……。わらってません」
「口角上がってるぞ」
「笑顔が真顔ってよく言うじゃないですかあ……」

 一夜共にした男女の会話とは思えない。でも、いつもこんなような茶々しか交わしていなかった気がする。お互い抱えているものもそんな軽い冗談では流せないくらいのものなのに、そのやり取りが、普段から幸福に思えて仕方がなかった。
 一度笑ってしまったら止めるやり方を忘れてしまって、蛇口が壊れた水道のようにふふ、ふふ、と笑いっぱなしになる。そうしているうちに、今まで気にしていた細かいことも、なんだかどうでもよくなってしまった。
 そのまま二人でじゃれるようにベッドに横になった。ちょうど、銃兎の鼓動がノックする位置にの額がきて、別の意味で、また心臓がとくとく、と早くなる。銃兎の顔は見えないが、目を合わせると、きっと、また声が出なくなるから、これでいい。銃兎との綺麗な距離感なんて、おそらくない。身体は交わえても、心まで侵食されてしまうと、今はまだ、の臆病が過ぎてしまうから。
 銃兎もそう感じているのかいないのか、彼はこれまでにない小さな声で、「自分で言うのもなんだが、」と切り出した。

「今まで、大半のことは計算通りに事が運んだ」
「それ、自分で言っちゃうんですねー……」

 「だから言っただろ」銃兎はやわらかく言う。しかし、それはおごりではないことくらい、部下であるにだって分かっていた。

「……途中から、俺はお前に、許してと、言わせようとした」

 刹那、は身を固くさせる。本気ですか、と沈黙に想いを乗せると、銃兎は深々とため息をついた。

「誤解はすんな。そう言ったところで、父親はもちろん、俺はお前を許せないし、ある意味お前が被害者だって分かってても、警察官になっておきながら父親の犯行を黙秘していたことは、変わりない。もしも早くに自白していたら、被害の数も減っていた可能性を考えると、お前を憎む気持ちも、ある」
「……矛盾、してませんか」
「ああ。俺もそう思う」

 銃兎が、途方もない、というふうに言い切るものだから、はそれ以上、どうして、と聞くに聞けなかった。こんなにも、なにかに打ちひしがれる銃兎は初めて見るものだから。まるで、銃兎の意思以外の別の動力が働いて、彼の不本意なところで体が動かされているようだった。
 でも、そういう時は、にもある。空腹の時に鳴るお腹や眠い時に出るあくびのように、それは、自分自身でもどうしようもないことで、きっと、銃兎も本能に命令されて、置き去りにされた意思決定権を今いま拾い上げたところなのだろう。
 ……なんだ、この人も、ちゃんと人間で、なにも、完璧なわけじゃないのか。不思議と、当たり前と思えなかったことがいきなりすとん、と落ちてきて、の胸の中にじわじわと染み込んでいった。
 今まで、銃兎のことはずっと偽悪の模範解答のように思ってきた。人としても、警官としても、断罪人としても、この人についていけばいいと。指標となるこの人が迷っていたら、じゃあ、地に這う人は、立ち止まるしかないのだろうか。

「わたしが、もし、そう言ったとして……銃兎さんは、どうしたんですか」
「……聞きたいか?」

 上から降ってきた声がかなり挑戦的だったから、とてもじゃないが、は安易に肯定できなかった。

「お前は俺のためにって、いつも言って任務にあたってるけどな、言うこと聞かねえだろ。正直、これからは業務外のことまで首突っ込みそうで、気が気じゃない」
「そんなこと……ないですよ」
「なら、ホテルでの潜入捜査、単独で行った件はなんだ?」

 ぎく、とは肩を震わせる。まさかヤキモチを焼いただなんて言えるわけもなく。背中を丸めて黙っていると、それを図星と受け取った銃兎は言葉を続けた。

「ホテルの件だけじゃない。他の業務だって、お前は俺の期待以上のことをしてくれる。良い意味でも、悪い意味でも」
「最後の余分じゃないですかー……?」
「本当のことだろ。最初は痛い目遭わせてやろうと思って、色々手回してたけどな。でもお前は、無理をするより倒れる方を選ぶ女だって分かってからはもう――いや、」

 ちがうな。銃兎はすぐさま言葉を打ち消した。

「……嫌なんだ。俺が。俺はもう、女としても、お前を見てる。売人の手引きだろうがそうでなかろうが、俺の知らないところで何か考えてるのかと思うと……また……」

 銃兎は皆まで言わなかった。そして、そのあとに続いた回想をは盗み見てしまった気がした。
 写真に映る銃兎の両親。失うことに慣れたからと言って、何も感じないわけじゃない。彼は、現実で生きていた両親が触れられないたった一枚の紙切れになる瞬間を、今でも恐れているらしい。

「だから、これは俺の私利私欲が混じったエゴだ。今後、何があっても俺はお前を信じる。お前がヤクに関して単独で動きたいっていうなら、好きにしろ。もしもお前が裏切っても、俺が馬鹿だったってだけだ。その時は、俺はサツとしてお前をしょっぴく」

 自分が思っていた償いとは。はひたすら、傷つけばいいと思っていた。しかし、それは標である銃兎は望んでいないらしい。もしも……もしも、だ。今まで躊躇していたことが、自分のためではなく、ひとり孤独に立っている彼への救済に、繋がるのだとしたら。
 はそろ、銃兎の背中に腕を回した。肩甲骨をぐ、と押すと、ぴと、と胸同士がさらに密着して、お互いの鼓動がしきりに共鳴しあっていた。

「ひとつ……たよっても、いい、ですか」

 へんに考えたら、いつものように、駄々をこねる自分が出てきてしまう。だから、気がついたら、全部、言い終わっているように、五感も意識も何もかも空に手放して、はこの瞬間だけ馬鹿になろうと思った。

「これからは、銃兎さん一人にだけ、償わせて、ほしいです。法律とか、世間とか……そういうもの全部に、目を、向けられないって、分かりましたから」

 この国で年に薬物事件で検挙される人間は年に一万を有に上る。ではすべて掬いようのない罪の数だ。自分一人が生きるために増やしてしまった彼の敵を殺すために、は今ここにいる。
 時間も、体も、何もかもが足りない。一人で生きていくには、銃兎の下で見る世界は広すぎてしまった。だから今、彼の甘いところをつついて、その懐に入り込もうとしている。これを言ったら、もう二度と喋れなくなってもいいとも思った。

「わたしのぜんぶ……銃兎さんに、あげます。だから、銃兎さんも、被害者の無念とか、遺族の悔恨とか……全部、背負ってもらって、いいですか」

 は、何一つ変わらない。嘘つきであり、臆病であり、不器用である。だから、代換えを選んだ。の行動ひとつで銃兎の胸に針が刺さるのであれば、もういっそ、すべて彼に委ねてしまおうと。
 きん、と終始耳鳴りがしていて、いつの間にか手に汗を握っていた。降りた沈黙が嫌で、は銃兎の腕に収まったまま、彼にぐるんと背を向ける。
 すると、ぐっと腰に力を入れられて、背中に感じる固い胸にぴん、と背筋が伸びる。銃兎の息遣いがすぐ耳元で聞こえてきた。

「なら……俺が死ぬ時は、道連れだ」

 耳にそうっと吹き込まれる声も、体を撫でる手つきも、どうして、と聞きたくなるくらい、やわらかい。ここは、帰ってきては行けないところだ。夢で見たような、やさしい世界だ。本当なら、この手だって振りほどかなければいけない。でも、もう、のものではなくなりかけていた。
 長らく繋がれていた鎖がちぎれる。代わりに、薄い膜に全身が包まれて、ひどく眠たくなる。こんなにもあたたかい拘束があっただろうか。が腹に回された骨ばった手をす、と撫でると、「一つ、言っておくけどな」と銃兎が静かに囁いた。

「仮にお前の身の上が変わっても……俺はお前を幸せにはできなかったよ」

 この手じゃ、な。言い終わると、が触っていた手をぱ、と広げる銃兎。数々の悪事を暴き、自らの手すら黒く染め、理想のために突き進んだ。きっと、警察官になったばかりの銃兎の善心が、今の彼を許さないのだ。
 なら、それは、わたしが背負いましょうか。だって、あなたのそれは誰がなんと言おうと偽悪なんですもん。は何もかも失った頃の銃兎を無性に抱きしめたくなって、その綺麗な手を自分の頬に当てた。

「ほんと、銃兎さんはやさしいですねぇ……」

 そういうところも含めて……銃兎さんのこと大好きなんですよ。わたし
 朝は、まだ来ない。だから、まだ一生覚めたくない、苦しい夢のままでいい。次に目が覚めた時は、今度こそ、きっと銃兎のもとで歩き続ける、ただの人として、一点の星が瞬く道を歩けるはずだ。