のら猫恋愛図鑑
「――んで、そのクソ雑魚ラップにもビクともしなかった拙僧が、クソ乱入者どもをボコボコにしてやったってわけだ」
ぽかん、とは口を開けている。数分にわたって丁寧かつ事細かに説明をしてくれた空却の話を頭の中でゆっくりと追いながら、「ぇ、えぇっと……」と自信なさげに喉を震わせた。
「さっきまで十四くんとひとやさんと一緒にラップの大会に出とって、」
「ん」
「大会の途中で悪い人たちが入ってきて、大変なことになっちゃったけど、空却くんたちが悪い人たちをやっつけて……」
「拙僧らっつーか主に拙僧な」
「ぁ、う、うんっ。その人たちを空却くんがやっつけて、めでたし、めでたし……?」
「そうだ。すげーだろ」
誇らしげにふふん、と鼻を鳴らす空却。話自体は理解できたものの、わざわざ彼がここに足を運ぶ理由としては少し小さいもののように感じた。
それに……今の話以上に気になっていることが一つある。はおずおずと空却の頭の上を見た。
「(空却くん、やっぱり気づいとらんのかなぁ……?)」
空却が嬉々として話しているあいだ、彼の頭でずっとぴこぴこと動いている“猫の耳”について……はその存在を空却にどう伝えたものか、頭を悩ませていた。
――突然、空却は家にやって来た。
インターホンが鳴り、「はあい」とが引き戸を開けている途中……そのほんの少しの隙間から、空却の体がにゅっと入ってきたのだ。まるで猫のようなしなやかな動きで。
……いや。猫のような、ではなく。まさしく猫だったのだ。
「猫ちゃんっ!?」
「あ?」
の声に怪訝な顔をする空却は後ろを振り返る。「今日は猫いねーぞ」と言った空却は、家主であるを押しのけて家に上がってしまった。
「えっ……? えぇっ……?」と動揺が隠せないだったが、驚くことはまだあった。さらなる追い打ちをかけたものは――
「(猫ちゃんのしっぽっ!?)」
空却の腰から生えている、猫のしっぽである。
は落ち着きを取り戻すのにかなりの時間を要した。「きょ、今日は、なにかあったの……?」と当たり障りのない質問をすると、「今日は十四と獄でヒサヤオオドオリのラップバトルに出場してよ――」と空却が話し始め、冒頭に至る。は空却の武勇伝をひと通り聞いたが、なにがどうなって彼に猫の耳やしっぽが生える事態になるのかまったく分からなかった。猫が空却に化けているのでは、とさえ思えてしまう。
そして不幸なことに、空却は自分に猫耳やしっぽが生えていることを知らないようだった。ここに来るまで鏡を見ていないのだろう。しっぽも後ろでゆらゆらと揺れているだけなので、空却の視界にはぎりぎり入っていないようだ。ここに来るまで人に見られなかったんかな……という心配も過ぎったが、奇跡的に誰にも見られなかったからここまでやって来たのだろう。
「(十四くんとひとやさんなら、なにか知っとるかも……)」
どちらにせよ、猫と化した空却をさすがにこのまま放っておくわけにはいかない。午前中に出ていた大会が直接関係があるのかは分からないが、聞いてみるだけでも何か進展があるはずだ。
そう思ったがこそっとスマホをいじろうとしていると、すぐさま横から手が伸びてきた。
「なにしてんだ」
空却によって、の手からスマホが引っこ抜かれる。じとっとした眼差しを受けて、「れ、連絡したい人たちがいて……」とがぼそぼそと言うと、むっとした空却はスカジャンのポケットにスマホを仕舞いこんでしまった
「んなもん後にしろや。拙僧がいんのに他に気ィ回してんじゃねえ」
「へ、ぇッ?」
思わず声が裏返る。普段の空却らしからぬ言葉だったものだから、は目がまん丸になった。
特に変な意味はなかったとしても乙女心がきゅん、と疼いてしまう。だめだめ、と必要以上に思い上がらないように自制して、「そ、それで、」は話を変えた。
「空却くんは……その……」
「なんだ」
「今日は、わたしとおはなししに来てくれたの……?」
「話ぃ?」
自意識過剰かもしれないが、聞かずにはいられなかった。しかし、空却は自分でもなぜここに来たのかよく分からないかのように首を傾げている。
「……知らね。気づいたらお前の家の前にいたんだよ」
「そ、そっか……っ」
「まあ? お前がどうしてもっつーなら話してやってもいいけどな」
えっ! とは心の中で歓喜する。しかし、いっぱいおはなししたいな、と思う反面、今の空却くんのことをだれか相談しんと、という気持ちもあり、すぐに答えを出すことはできなかった。
うぅん、とが悩んでいるあいだに、空却の後ろで猫のしっぽがべしん、べしん、と畳を叩いている。ど、どうしようっ、猫ちゃんがご機嫌ななめになっとる……っ!
「さっさと話したいって言えやッ!」
「おっ、おはなししたいっ! 空却くんといっぱいおはなししたいっ!」
「なら仕方ねーなっ」
空却の勢いに圧倒されて、自分のしたいことが口から飛び出してしまった。先ほどまで畳を叩いていた猫のしっぽはぴーんっ、と天を向き、左右にふりふりと振られている。猫がご機嫌なときにする動きだ。
それを見たは目がきらきらと輝く。かわいいっ、とうっかり口を滑らせてしまいそうになる。それでも、やはり伝えるべきことはきちんと伝えなければいけない。は意を決して口を開いた。
「空却くんっ」
「あ?」
猫ちゃんの耳としっぽが付いとるよ――と、言うだけなのだが。今もなおご機嫌に揺れている猫の……いや、空却のしっぽ。右に揺れ、左に揺れ……は子猫になったかのようにそれを目で追ってしまう。
言わなきゃ、言わなきゃ、と心の中で思い続ける。しかし、“もうちょこっとだけ猫ちゃんな空却くん、見てたいなぁ”という願望が喉の手前で詰まっており、上手く言葉が出てこなかった。
「や、やっぱり、なんでもない……」
長い葛藤の末、が自分の欲望に負けた。すると空却は、「そんじゃ、あとで菓子と茶持ってこいよな」と言い残して、軽い足取りで二階に上がっていってしまった。
玄関で一人になったはどうしよう……、と途方に暮れる。空却の身にかなりとんでもないことが起きていることは分かるし、早いところどうにかしなければいけないのも分かる……分かるのだが。
「(猫ちゃんになった空却くん、かわいいなぁ……)」
すきな人とすきな動物を足したら、だいすきなものになるに決まっている。一秒でも長く一緒にいたいと思うのも仕方のないことだった。
「そんで、そのあとに親父がよ――」
かれこれ、三十分は喋りっぱなしだと思う。
空却の口からは次から次へと言葉がぽんぽんと飛び出し、話題も尽きない。こんなにも彼と話すなんて中学……いや、小学生以来だろうか。空却との会話が楽しくて仕方がないも、お菓子に伸びる手が止まらない。お茶も何杯飲んだか分からなくなっていて、そろそろ急須も軽くなってきた。
空却も、いつもよりも表情が豊かだ。よく笑ってくれる。もうん、うん、と彼の話を聞きながら笑みが零れる。時折くしゃっとした笑顔を見て胸がきゅん、とちぢこまる。そんな中でも、数秒に一回は見てしまうところが――
「(猫ちゃんの耳、ぴこぴこしとってかわいい……)」
空却の顔よりも上にある猫耳である。
が相槌をうつたびにぴこぴこっ、と耳が横に広がり、「そんでよっ」とまた嬉しそうに話し始める。そんな空却を見て嬉しくなるもにこにこしながら話を聞いていた。
「んじゃ、次お前な」
「えっ? わ、わたし?」
「おう。拙僧ばっか話しとったらフェアじゃねーからな。なんでもいいからテキトーに話せ」
突然話し手のバトンを渡され、は少し困惑する。ほんとうに、今日の空却はかなり機嫌がいいらしい。は空却にじっと見つめられながら、えっと、えっと、と頭を回した。
「それじゃあ、おしごとで最近あったこととか……」
「おう。なんでもいいぞ」
「えっとね、最近新しくお店に入ってきてくれたバイトの男の子がおって――」
「その話つまんねーから他のにしろ」
「えっ……」
まだ導入すら話していないのにそんなことを言われてしまい面食らう。それでも気を取り直して別の話題に変えた。
「それでね――っ、ひぇッ?」
三分くらい話した頃だろうか……突然腰のあたりに何かが這った感覚がして、は上擦った声を上げた。
「どうした」
「な、なんでもないよっ。ごめんね、ぇ、えっと……どこまで話したっけ……?」
「スーパーのバーゲンでお前がもみくちゃにされたとこまで」
「あ……そ、そうなの。それで、近くにいたおばあちゃんが豚肉のパックを一つ譲ってくれて――」
すりすりと腰を撫でられている。服越しでもなんとなく感覚で分かったが、念のためには腰元をそろりと見てみる。すると案の定、空却のしっぽが自分の腰にまとわりついていた。
「(あ、あたま、まわらん……)」
一定のリズムで上下左右に撫でられて、は心臓の音が速くなっていくのを感じた。話すことが疎かになると、「おい」と空却に声をかけられる。隣を見ると、肩同士がぶつかるくらい空却が近くにいて、の顔の熱がぶわっと溢れた。
「譲ってもらって、それから?」
「ぁ、あ、え、と……っ」
「お前さっきからおかしいぞ。腹でも減ったか? 腹減ってんなら菓子食え」
「んむ……っ」
昔から好きなクッキーを唇に押しつけられ、はむぐむぐと口を動かす。すると今度はしっぽの先端が脇腹を撫で始めたので、「ふぁ……ッ?」と口が空いてしまう。くすぐったくて全身がぞわぞわしてしまい、さらに頭が真っ白になっていく。
「おら。さっさと話せ」
「ふぁ、ふぁーふぇん……っ」
「だからバーゲンはもう分かってんだよ」
だんだんと空却の顔が近づいてくる。緊張のあまりが体をぷるぷると震えさせていると、「さみぃのか」と空却が優しい声で気遣ってくれた。寒くはない。むしろ暑いくらいだった。
すごく近くにいる空却くん、おいしいクッキー、猫ちゃんのしっぽ――様々な刺激が頭の中でぐるぐる回っている。ついにキャパオーバーを迎えたは、脇腹を撫でているしっぽの先端に手を伸ばした。
「口んとこ、クッキーのカスついてんぞ」
「っ、ふえぁ……ッ!?」
空却の声に返事をする間もなく、の口の端に柔らかくて湿ったものがべろりと這った。突如襲った未知の感覚に、しっぽを持ったの手に思わず力が入る。
「ふぎゃあッ!?」
空却の裏返った声が鼓膜をびりびりッ、と揺らす。の手の中にあるしっぽがぶわッと膨らんだ感覚があり、反射的に口の中にあったクッキーをごくんっ、と飲みこんだ。
はっと気づいたときにはもう遅かった。痛そうに顔を歪めている空却を見たは、慌ててしっぽから手を離す。
「ごめんね空却くんッ。猫ちゃんのしっぽ、むぎゅってしてまったッ!」
「はあぁッ? なんだよ猫のしっぽ、って……」
空却とのあいだに割り込むように、にゅ、と持ち上がった猫のしっぽ。「は……?」と唖然とする空却は、おもむろに自分の背後に手を回す。尾てい骨付近からするりと伸びているそれを見て、静止すること数秒――
「なんッだこれェッ!?」
声が割れるほどの絶叫が部屋に響く。立ち上がった空却はしっぽを抜こうとぐいぐいと引っ張るが、見ているだけでも痛そうだった。
が止める前に、姿見の前にずんずんと歩いていった空却は頭の上に生えている猫耳を見て、「はああぁぁッ!?」とまたしても絶叫する。
「空却くん、猫ちゃんになっとること言えんくてごめ――っ」
「見んじゃねえッ!!」
の声を遮った空却は、手近にあったブランケットを引き寄せる。それを頭から被ると、こちらを睨みつけながらフーッ!フーッ!と威嚇されてしまう。近づくな、とでも言われているようだった。
「なんでこんなん生えて――っ」と空却は途中で言葉を止める。はっとした表情が怒りを帯びたものに変わるまで、そう時間はかからなかった。
「あンのクソ乱入者共か……ッ! 全然効かねえクソ雑魚バースかと思ったら遅効性かよ……ッ!」
「さ、さっき言っとった悪い人たちのこと……? ちこうせー、って……?」
「だからバトルが終わった後に十四と獄が呼び止めまくってたんか……。こんな恥かかせやがってドブクソ野郎共がッ!」
「大丈夫だよ空却くんっ。猫ちゃんになっとることはだれにも言わんからっ」
「お前に見られた時点ですでに大丈夫じゃねーんだよッ!」
猫耳としっぽが生えたことが屈辱的なのか、かなりお怒りのようだ。シャーッ! と毛を逆立てている猫を思い出して、はしゅん、と萎縮しまった。ぜんぜん変じゃないよ、だとか、すごくかわいいと思うよ、と言ってフォローしようとするが、どれも空却を怒らせるだけかもしれないと思い直した。
どうしたらいいんだろう……、とが悶々と考えているうちに、空却は乱暴な足取りで部屋を出ていってしまった。
「く、空却くんどこ行くのっ?」
「帰るに決まってんだろっ!」
「えっ!?」
帰る、の一言でショックを受けただったが、空却の足はすでに玄関に向かっている。は空却の後を追いながら、なんとか少しのあいだだけでもここにいてもらおうと彼の横で懸命に話しかける。
「猫ちゃんが終わるまでここにおったらっ? 外に出たらだれかに見られるかもしれんしっ」
「塀の上歩いてくからいい」
もしかして行きもそのように来たのだろうか。どうりで人に見られなかったはずだ。無意識なのだろうか、行動も猫っぽくなっている……ではなく。今のは空却を引き止めることで頭がいっぱいだ。“猫耳が生えた新種の人間!”という見出しでニュースになったり、怪しい実験のために研究所のようなところへ連れ去られてしまうことだけはなんとか避けたいと思っていた。
「まって空却くんっ」
「待たねえ。拙僧はさっさと帰っ――」
「一つだけおねがいがあって……っ」
そう言ってから、の思考があっ、と止まる。何も考えずに“おねがい”と言ってしまったが、空却に対して本当に“おねがい”があるわけではなかった。
そのまま無視してもらえたら大助かりだったのだが、思っていた以上に空却の反応が良かった。ぴくぴくっ、と空却の猫耳が動いて、こちらを振り向いた彼は、“さっさと言え”と言わんばかりに目をギラギラとさせている。
ふり、ふり、としっぽの先端だけが左右に揺れているのを目で追いかけながら、「そ、その……」とは即興で“おねがい”を考える。
「ね、猫ちゃんの耳が生えた、空却くんの頭……なでなでしたいなぁって……」
ぜったいに怒られてまう……。
自分でもなぜこんなことを言ってしまったのか分からず、は言った直後に泣きたい気持ちになった。おまけに部屋の気温が五度くらい下がったような気がして、がおそるおそる空却を見上げると、彼は思っていたよりも数倍恐ろしい顔をしていた。まるで般若である。
「ふ、ざ、け、ん、な、よッ!!」
「そうだよねっ。だめだよねっ。へんなことおねがいしてごめんなさいッ」
しかし……には見えていた。空却の猫耳がぺたんと伏せられて……いわゆる、“ヒコーキ耳”になっているのを。
ふんッ!と今度こそへそを曲げてしまった空却は、靴を履くために上がり框に腰を下ろした。そのおかげで今、の手の届く場所に空却の頭がある。
なでてと言わんばかりに伏せられている猫耳に、今もなおのおなかの辺りを優しくさすっているしっぽ……。空却くんの猫ちゃん耳、なでたいなぁ――はっきりと口にするまではそんなこと思ってもいなかったのだが、もしかしたら無意識にそうしたいと願っていたのかもしれない。
さわるなら、今しかない……。ヒコーキになった猫耳に導かれるように、はゆっくりと空却の頭の上に手をかざし、猫耳のあいだにそっと手のひらを置いた。
「はっ? おいやめ……ッ!!」
空却が勢いよくこちらを振り向いた瞬間、は空却の頭に置いた手を左右に動かす。空却の体はびくっ、と震えただけで、手を退かしたり逃げたりすることはしなかった。猫の本能が強いのか、ヒコーキ耳も健在だ。
おまけに、の腕にしっぽの先端がくるんと巻きついてきたので、猫好きなの胸に先端がハート型になっている矢がとすんっ、と刺さる。か、かわいい~っ!
「くそッ……! くそッ……! くそがッ……!! なんで体動かねーんだ……ッ!!」
「猫ちゃんっ」
「猫じゃねえッ!」
「空却くんかわいいねえっ」
「あ゙ァ!?」
時折手のひらの下にもぐりこむ猫耳は、ふわふわであたたかい。弱い力で腕をきゅうきゅうと締めつけてくるしっぽにも懐かれた気持ちになって、はあっという間にメロメロになった。空却にどれだけ睨みつけられても耳はぺたんと伏せられたままであるし、逃げられる様子もない。それに――
「(喉、ごろごろいっとる……)」
きもちいいんかな。甘えてくれとるんかな。もしもそうなら、すごく……すごくうれしいな。はえへへ、と笑いながら、猫になった空却をめいいっぱい愛でる。
「お前、あとで覚えとけよ……」
空却が低い声で怖いことを言っているのが聞こえた。それでも、今のはとにかく目の前のだいすきなものを可愛がるのに心が満たされており、言葉の意味をきちんと飲み込めていない。「うん、うん。ちゃんとおぼえとるね~」とあまり気持ちのこもっていない返事をしてしまう。
すると、空却の喉から聞こえていたごろごろごろ、という丸っこい音が、ぐるぐるぐるッ、という棘のある音に変わる。猫というよりも、まるで虎視眈々と獲物を狙っている虎が喉を鳴らしているように聞こえた。
