さみしいとさみしいを束ねて
夜のヨコハマ署内――パンプスの音が廊下に響き、薬局で買ったものを入れたビニール袋ががさがさと音を立てる。すれ違う同僚や上司に「おつかれさまです~」とにこやかに挨拶を交わしつつ、彼らに行き先を悟られないよう、わたしの足の神経は研ぎ澄まれていた。
「銃兎さーん。亀崎で――」
着いた先は仮眠室。ノックをして、わたしが言い終わる前にドアが開いた。もしかしてドアの前で待機してたんですかぁ~? って聞きたくなるくらい早かった。
「早く入れ」とドアの隙間から覗いているのは銃兎さんの顔。間接照明でしか灯されていない薄暗い部屋に廊下の照明が差し込んで、彼の眼鏡のレンズがきらりと光った。
失礼しまぁす、と一言断って、わたしはその狭い隙間に体を入れ込む。がちゃんッ、とすぐに閉められたドアの音で、銃兎さんが今どんな気持ちでいるのかなんとなく分かった気がした。
「えーっと。とりあえず、着替えは銃兎さんの家からてきとーに持ってきました。あと、夜食と衛生用品もひと通り買ってきましたよ~。銃兎さんってふだんスキンケアしてますっけ? うちにあった化粧水とかの試供品もついでに持ってきたんで、よかったら使ってくださいね~」
銃兎さんから事前に拝借した家の鍵をベッドサイドに置いて、必要なことだけをつらつらと並べる。銃兎さんは眉間にしわを寄せながら、はぁ……、と重たそうなため息を一つ。人が話してるのにため息つくとか失礼すぎません? と思ったけど、今は彼の気持ちを汲むことにした。
「……ありがとうございます。領収書は」
「ビニール袋の中に入ってます~」
そう言うと、銃兎さんはビニール袋に入っているものを次々と取り出していく。着替え、歯磨きセット、シェーバーとシェービングフォーム、ペットボトルの水。そして夜食の――
「……サラダですか」
「カップ麺でもよかったんですけどねー。ほらあ、ここってお湯捨てるとこないじゃないですか。給湯室まで行くのに外出るのも嫌かと思って。……あ、言っときますけど別に狙ってませんよ? 今回は割と真面目に選んできましたー」
「弁当は」
「それがぜんぶ売り切れだったんですよねぇ。食欲ないって言ってたんで、どっちにしろがっつり食べられないかな~って思って」
それにしました、と言葉を締めくくれば完璧だ。わたしはにこにことした笑みを絶やさず、悪意の“あ”の字もないですよ、と言わんばかりに善行を前に押し出す。銃兎さんの顔がさらに険しくなるようなことは何も思ってませんよ、というアピールだ。
今更銃兎さん相手に演技が通じるか分からなかったけど、彼は「……そうですか」と小さく呟いた。これは意外だ。それでもわたしは顔には出さずに、「そうですよぉ~」とすぐに猫なで声で返事をした。
……わたしの心の中が黄色い声で埋め尽くされていることを、銃兎さんはきっと知らない。
「(かッわいい~っ! 今うさ耳がぴくってしたあ~っ!!)」
正直に言うと、わたしは今の銃兎さんにメロメロだった。目の奥にハートが浮かんでいるんじゃないかってくらい。それもそうなる。今、銃兎さんの頭には可愛らしいうさぎの耳がぴょこっ、と生えているのだから。
それは、銃兎さんが他部署の応援に行った現場で起こった。
飼育及び保管が禁止されている特定動物を違法輸入して海外へ売り捌いている業者がいるという情報がヨコハマ署に入った。そういう案件は組対ではなくて生活環境課の管轄になるんだけど、今回はその部署から銃兎さんへ応援要請が入ったのだ。警官は業務用のヒプノシスマイクを全員持ってるけど、スキル面を考慮したときに各部署の助っ人として名前が挙がるのは圧倒的に銃兎さんが多かった。
それは今回も例外じゃなかった。今日は平和なことに組対の部署全体が穏やかだったので、「行ってきたらいいじゃないですかあ~」とわたしは応援要請を確認した銃兎さんの背中を押した。銃兎さん自身も断る理由はなかったようで、「少し出てきます」と言った彼の背中を、手を振りながら見送った。
そして、銃兎さんのできる部下であるわたしは、彼がやるはずだった事務仕事を丸々自分のデスクに持ってきた。銃兎さんが帰ってきたらたくさん褒めてもらお~、なんて。その時は悠長なことを思っていた。
それから数時間後。現場に赴いていた生活環境課の人たちを署内で見かけた。おつかれさまです~、と声をかけると、皆さんにこやかに対応してくれた。動物たちは保護センターに送り届け、密輸集団も全員逮捕に成功したとのこと。改造されたヒプノシスマイクを所持していた人もいたらしいけど、うちの巡査部長さんが相手をしてくれたそうだ。
さすが入間さんだ、うちに異動してきてくれないかな――他部署の人にそう言われると、わたしも鼻が高い。そうでしょ。すごいでしょうちの銃兎さんは。ぜえったいよそ様にはあげませんけど。
しかし、いつまで経っても銃兎さんから帰署連絡はなかった。生活環境課の皆さんが言うには、一服してから署に戻ると銃兎さんは言って現地解散したらしい。それなら署内でもできるはずなのに、わざわざそんなことを言うってことはなにかしらあったんだろうと、彼の部下であるわたしは頭を回す。
どこにいるんだろ~、と業務用のスマホを開いたと同時に着信が入った。今まさに連絡をとろうとした銃兎さんからだった。
――「銃兎さーん? もー、今どこにいるん――」
――「仮眠室に来なさい」
――「はい? え。というか銃兎さん、今署内にいるんですか――って……」
切れちゃってるし
あんなに早口な銃兎さんめずらし~、と思いながら、わたしの足は仮眠室へと向かった。ノックをして「亀崎です~」と言えば、「どうぞ」と中から声が聞こえたのでそのまま入室した。
もちろん、銃兎さんはそこにいた。幸い怪我もなくてとりあえず一安心。だったんだけど――
――「……へ」
――「“これ”には触れるな」
――「え。銃兎さん、だってそれ――」
――「今日はここで一泊する。悪いが、ここに書いてあるものを揃えてきてくれ。金はあとで払う」
――「ぁ、あぁ~……はぁーい……。わかりましたぁ~……」
そして、冒頭に至る。
銃兎さんの頭には“これ”――おおよそ二十センチくらいあるうさ耳(黒毛)が生えている。署内の誰かがうさ耳が生えた銃兎さんのことを噂していた様子もなかったから、彼は他の人に見られる前に異変に気づいて、すぐにここに篭ったんだと思う。
マイクの攻撃は一発食らっていただけで、あとはもう入間さんの独壇場だったよ――と、生活環境課の人の言葉を思い出す。おそらくその“一発”の結果がこれなんだろう。どんなスキルなのかは、押収したマイクの解析か持ち主の取り調べが終わらないとなんとも言えないけど。
銃兎さんもそこらへんは承知しているようだった。でも、「このふざけたものがなくなるまではここから出ません」と頑なになっている。あの仕事人間の銃兎さんが珍しい。頭についてるうさ耳がよっぽど屈辱的なんだろうな~、とぼんやり思った。「MCネームに“rabbit”って付けてるのに、実際にうさ耳が生えるのは嫌なんですねぇ~」なんて言いたいけど、さすがに今回はわたしも空気を読む。これは本気でショックを受けている銃兎さんの顔だ。
「……あなた、今日はやけに静かですね」
「えぇ? そうですかぁ?」
それはにやけそうになる顔に力を入れてるからだ。そんなことを知らない銃兎さんは、わたしが買ってきたサラダをフォークでシャクシャクと食べている。
わたしだってほんとは、「かーわーいーい~っ!」と叫んで、今すぐ銃兎さんのその姿をスマホに収めたいんですよ? わたしなりに遠慮して大人しくしてるんですよ? そこのところは察してもらえると助かります。あぁ~、もー今すぐ写真とりたぁーい。万が一削除されても痛くもかゆくもないようにクラウドにも保存して、仕事で疲れたときに永遠に眺めてたぁ~い。
「気分が優れなさそうなんであんま喋らせないほうがいいかな~って思ったんですけど……ちがいました?」
「……いや」
銃兎さんは何か言いたげな顔でさっと目をそらすけど、わたしはうさ耳にしか目がいかない。顔をやつれているし、よっぽど疲れてるんだろうな。疲れてるなら喋らなければいいのに、わたしの相手をするなんてどうにも銃兎さんらしくない。これもマイクの影響なのかな。
「(“うさぎ”、“耳”、“気持ち”、っと……)」
それはそれとして……出来心というものは無意識に沸き起こってくるもので。
スマホから溢れてくるうさぎの耳に関する情報に、わたしの口角は変な形にゆがむ。耳がぴんっと立っているときは警戒、立った耳が外側に向いているときはリラックス――ふうん、今の銃兎さんはリラックスしてくれてるんですねえ。へえ~。他人のわたしがいるのにリラックスですかあ~。さすがににやけが抑えられそうになかったので、口元を手で隠してしまった。
そして、その時。わたしのスマホが急に着信画面に切り替わる。着信音も鳴ったので、銃兎さんのうさ耳がぴんッ、と天井に向いた。え、なんですかそれ。めちゃくちゃ可愛いんですけど。今のもいっかいやってくれません?
「……スマホ。鳴ってますよ」
「あ、あぁーっ。はぁい出ますよ~。はいはい出ます出ます~」
銃兎さんのうさ耳に見惚れていたおかげで、変な日本語になってしまう。さすがに怪しまれたかもしれないけど、わたしはお得意のポーカーフェイスを決め込んだ。
電話の相手は午前中一緒に外回りに行った同僚からだった。なんでも、ついさっき完成した報告書を誤って削除してしまったらしい。幸い、途中までは経過報告としてわたしにデータを送ってくれてたので、かろうじてわたしの方にデータの原型は残ってる。そこで、わたしの手元にあるその報告書のデータにいい感じに文章を付け足して提出してほしいということだった。
自分でやってくださいよお~、と言いたいところだけど、これからアポを取ったヤーさんのところに行く彼にはちょっと難しい作業だ。しかたがないなあ、と息をついて、「ヒマですしいいですよー」とわたしはオッケーを出したあと、今度ラーメンを奢ってくれる約束を取りつけて終話。一杯千円するあそこのラーメン屋に連れてってもらお、と思いながら、スマホをスーツの中に仕舞った。
「なにかあったのか」
「同僚くんがせっかく書いた報告書のデータ消しちゃったらしくて~」
「午前中に行ってた外回りの件か」
「はいそれです。そーいうことで、今から代わりに報告書書いてくるんで、わたしはこれで失礼しま――」
「待て」
食い気味に呼び止められたので、わたしも足をぴたっと止める。「買ってくるもの、なにか足りませんでした?」と聞くと、さっきまで立っていたはずのうさ耳が後ろにへにゃりと垂れた。
「……いや、なんでもない。行ってきなさい」
「そうですかぁ? それじゃ、わたしは朝まで当直なので、またなにかあったら電話してくださいね~」
そんなことはきっとないだろうなー、と思っていても、おまけで付け足した。
失礼しましたぁ、と部屋を出る直前。銃兎さんの顔を見ようとしたけど、ちょうど眼鏡のレンズが照明に反射していて、どんな顔をしているのか上手く見れなかった。次に会うときは銃兎さんのうさ耳はなくなってるかもしれない、と思うと、かなり残念な気持ちになった。
仮眠室を出て、組対の部署に戻る。ホワイトボードの“入間”と書かれている枠に適当な時間を書いて“会議 戻り未定”と書き加えておいた。これで今、色々と大変なことになってる銃兎さんを探す人は少なくなるはずだ。わたしができる部下でよかったですね~銃兎さん。
ひと仕事終えたところで自分のデスクに座る。ノトパの電源を入れて、いざ、と指を構えたところで、またスマホが震えた。んも~、と内心思いつつも、顔は緩く仕上がってたと思う。着信相手はさっき別れたばかりの銃兎さんからだった。
「はぁ~い。亀崎でーす。銃兎さんどうかしました――」
《なんでもありません》
ぶつッ――あまりの塩対応に、わたしは黒くなったスマホの画面を呆然と見つめた。えぇー……? そっちからかけてきて、用件も言わずに、挙句の果てにぶつ切り? あの銃兎さんに限ってそんなことあります?
腑に落ちなかったのでリダイヤルしてみる。さすがに出ないかなー、と思うよりも先にコール音が止んだ。出るの早すぎません?
《なんです》
「“なんです”、はこっちの台詞ですよ。なにか頼みごととかありました?」
《いえ、特には》
「なら、電話かけてきた理由はなんですかぁ~?」
すると、なにかを噛み締めるようなくぐもった声が聞こえてきたかと思えば、はあ……と奥ゆかしいため息が耳に入ってくる。ただでさえ色っぽいのに、電話でそれをするのはちょっとやめてほしいと思った。
《……いえ、本当になんでもありませんので》
「ほんとになんにもないんですか?」
《えぇ》
ふぅーん? と唇をつん、と尖らせて、わたしは思考に耽ける。銃兎さんからはそれ以上何も言われない。このまま沈黙の時間が流れるのももったいないと思い、「なら切りますよー?」とわたしはいったんそこで折れた。もうっ!
「(そんなしおらしい声聞かされたあとに仕事なんてできませんってばっ!)」
電話を切ったあとの行動は早かった。わたしはノトパとコンセントを抱えて足早に部署を出る。パンプスの音を大きく鳴らして、さっき寄った仮眠室の前で立ち止まった。
そしてノックをしようと手を構えた瞬間にドアが開いた。そこには、さっきと姿かたちが変わってない銃兎さんが立っていた。七分ぶりですね銃兎さん。というか、やっぱり最初のときも今も、ドアの前で待機してましたよね? うさぎって聴覚良さそうですもんね。足音聞いただけでわたしのパンプスの音って分かるんですね。やっぱり可愛すぎませんか、うさ耳が生えたうちの巡査部長。
「なんです。報告書はもう書き終えたんですか」
呆れたような表情をしている銃兎さん。だけど、立ち上がっているうさぎの耳は左右に向いていてぴこぴこと動いているので、わたしは当たり障りのない表情を保つのに必死だった。
「いやあ、書き終えるどころか手もつけてないっていうかぁ~」
「はあ?」
「しょーじき、自分のデスクって集中できなくて全然仕事進まないんですよね~。なのでぇ、ここで報告書書かせてもらえたら助かるな~って」
「何言ってんだお前」
心底嫌そうな顔をしているけれど、やっぱりうさ耳のおかげで全然怖くない。分かってます、分かってますよ今の銃兎さんの気持ちは。
「銃兎さんの目があるとこならサボりませんし、集中できますし~。どうかおねがいします~っ」と低姿勢で頼みこむ。あくまで、“わたしが銃兎さんと一緒にいたい”ということで話を進めた。ぐ、と銃兎さんの眉間に皺が寄って、さっきよりもうさぎの耳はぴこぴこっ、と忙しなく震えていた。
……そしてついに、銃兎さんが眼鏡のブリッジを指で上げる。ここまで来れば、あとはもう言葉を待つだけだ。
「……そうですね。今あなたを追い出しても、報告書の完成が遅れるだけですからね」
「さすが銃兎さん。よく分かってますねえ~」
「私語は厳禁。静かにするのであればここでの業務を許可しましょう」
「しますします超静かにします~。それじゃあ遠慮なく、おじゃましま~す」
軽い足取りで入室すると、ドアを閉めた銃兎さんは疲れたようにベッドに腰をかける。わたしが机でノトパを開いたときには、眼鏡を外した銃兎さんがベッドに寝転がっていた。
いつもは横向きで寝てる銃兎さんが、今はお腹を向けて――要は仰向けになって寝てる。うさぎがお腹を見せてくれるときは安心しきってる証拠ってさっき見たサイトに書いてあったけど、これもそうなのかな。だとしたら超嬉しいですけど。
「……あなたのことですから、どうせ全部分かってるんでしょう。ここでのことは他言無用ですからね」
「えぇー? なんのことですかあ? というかそんなこと言うわけないじゃないですか~。こんなにも構ってちゃんな銃兎さんなんて超レアですから~」
「分かってんじゃねえか」
一度しらばっくれたけどバレてしまった。端正なお顔で睨まれるけど、今の銃兎さんは何しても可愛いだけなので無駄ですよ。
あまりにも可愛すぎるので、あとでうさ耳だけでも撫でさせてもらえないかと考えながら、指先だけはキーボードに集中させる。こんなにも隙のある銃兎さんの傍にいられるなんて役得だ。そんな優越感に浸りながら行う業務は、普段の二倍速で進んでいった。
「……うさぎはさみしがり屋って迷信だと思ってましたけど、意外と信ぴょう性高かっ――っ、あぃたッ!」
ついに我慢できなくなって口が開くと、最後まで言う前に横から固めの枕が飛んできた。あいたた、と頭を押えながらそっちを見ると、立てたうさ耳を前にびんッ、と向けている銃兎さんと目が合った。
あーあ、怒ってるとこも可愛いので困っちゃいますねえ。どうせ怒ってるなら、今カメラを向けても変わらないんじゃないかな~、などと思いつつ。今回は銃兎さんのプライドを優先して、「すみませぇーん。もうしゃべりませぇーん」と緩い謝罪をしたのち、わたしはノトパの画面に向き合った。
