みんなで在れる生き方さがし



 商店街で買い物をしている時だった。
 くんっ、と服を引っ張られた感覚があって、はたとしたは後ろを振り向く。正面を見ても誰もいない。すると、くんくんっ、と今度は連続で服を引っ張られて、はおもむろに視線を下にやった。

「かーさんっ」

 見た目、三、四歳くらいだろうか。の太ももあたりにある頭をぐっと上げて、こちらをじいっと見上げているのは小さな女の子だった。

「もうっ。どこいっとったのっ」
「えっ?」

 「はぐれちゃかんでしょっ」そう言って、頬をぷうっと膨らませた幼女。は何か言う前に周りを見渡して、この子の保護者を探す。しかし、皆忙しそうに道を歩いているだけで、こちらに見向きする人は誰もいなかった。

「ぇ、えぇっと……?」
「はよしんと、おみせおわっちゃうよっ」

 「はやくっ。はやくうっ」困惑しているをよそに、幼女はぐいぐいと手を引っ張る。バランスを崩して危うく転びそうになったので、は幼女に誘導されるがまま歩きだした。

「う、うん。分かったよ。いっしょに行こうね」
「うんっ」

 どうしよう……。
 は歩きながら周りをきょろきょろ見回すが、この子の本当の母親が人混みから現れることはなかった。



 幼女に連れられて着いたのは馴染みの精肉店。今もなお周りに気を配りながら幼女の手を握る。その一方で、幼女はるんるんで精肉屋の冷蔵ショーケースの前に立った。

「おっ。ちゃんいらっしゃ~い!」
「こ、こんばんは」
「こんばんは!」

 店主よりも大きな声で挨拶を返した幼女。「お?」と不思議そうな顔をした店主は、高いカウンターから顔をひょこっと覗かせた。

「こりゃあまた可愛い子だな~っ。ちゃん、妹なんておったか?」
「い、いません……。えっと、この子は、その――」
「おいしいおにくくださいな!」

 の声に被さるように幼女は大きな声で言う。溌剌としている彼女に気を遣いながら、「し、親戚の子で……」とは店主に小声で伝えた。
 今さっき会ったばかりの子なんです、と言えば困惑させてしまうと思い、咄嗟についてしまった嘘。信じてもらえなければどうしようかと思ったが、「そーかそーか! 小さい頃のちゃんによー似とるわ!」と店主は豪快に笑った。

「さてお嬢ちゃん。なんのお肉がいいかな?」
「“にくじゃが”のおにく!」
「えっと……じゃあ、豚の小間切れをください」
「はいよーっ」

 幼女の話に合わせて、肉じゃが用の肉を買う。会計を済ませて、手にビニール袋を一つ提げる。そのまま店主に会釈をして、精肉屋から立ち去ろうとした時だ。

「かーさんっ。おてて!」

 再び、下を見る。そこには、すぐ足元でこちらにぱっと手を伸ばしている幼女がいた。お会計をするからと一度離した手だ。
 ちょっと悪いことしとる気がするけど、はぐれちゃかんし……。そう思いながら、はおそるおそるその子と手を繋いだ。

「(わぁっ。ちっちゃい……っ)」

 最初は焦ってそれどころではなかったが、ようやく幼女の手の感触を味わう。水分をたっぷり含んだ餅のようにふにふにしている。このくらいの歳の子と手を繋いだことがあまりないので、は素直に感動した。
 母親が近くにいない今は、自分がこの子の保護者なのだ。よほどのことがない限り、こんな小さな子の手を離してはだめだとは思った。そして――

「(この子のお母さん探さんとっ)」

 一刻も早く、この子をお母さんと会わせてあげたい。
 ひとまず、(自分が)落ち着くために近くの公園に入り、ベンチに座った。幼女もぴょんっとジャンプしてベンチに登った。足ごとベンチに乗った幼女は、「つぎはどこにいくのー?」と靴を脱ぎながら無邪気に尋ねてくる。

「え、えっとね」
「うんっ」
「あなたのおうちはどこにあるの?」
「うん?」

 幼女がこてん、と首を傾げる。彼女の肩からやわらかそうな黒い髪がさらりと落ちた。

「かーさん、おうちわすれちゃったの?」
「えっ? あ、そ、そうじゃないんだけど――」
「だいじょうぶだよかーさん! わたしがおうちまでつれてってあげるからね!」

 ふんっ、と自信満々に鼻を鳴らす幼女。まだまだ幼いのになんて頼もしい表情――ではなく。

「そ、それじゃあ、お母さんのお名前は言える?」
「かーさん、おなまえもわすれちゃったの?」
「あぁ~っ……」

 万事休す。上手い言葉が浮かばない自分を責めたい。ここまできたら交番に行った方がいいかもしれない。会話もしっかりできている賢い女の子なのに、なぜ母親を見間違えるのだろう。彼女の母親と自分はそんなに似ているのだろうか。
 「かーさん、かーさん。だいじょうぶ?」考え事をしていると、幼女の心配そうな顔が視界に入る。「だ、大丈夫だよ」とはあまり大丈夫ではない声色でごまかす。この子の名前も聞きたいが、この流れで聞いてしまったらさらに心配させてしまうかもしれない。我が子の名前を忘れた、なんて母親に言われたら悲しむにちがいない。今の自分は偽物の母親に過ぎないが。
 どうしよう、とが再び考え込んでいると、幼女の肩にかかっているポシェットがふと目に入った。

「それ……」
「それ? ぽしぇっと? みたいの?」

 うんうん、とは何度も頷く。「かーさんならみてもいいよ!」と快くポシェットを渡してくれた幼女に「ありがとう」とお礼を言った。もしかしたら身元が分かるものが入っているかもしれない。
 ポシェットの中身を確認してみると、ハンカチ、ティッシュ、絆創膏、あめとクッキー――一般的な幼児が持っていても当たり障りのないものばかりが入っている。しかし、肝心の身元が分かりそうなものはなさそうだ。
 期待していただけにショックが大きい。の顔が曇ったところで、ポシェットを漁っていた指に何か固いものが当たった。

「これは……?」
「じゅずだよ」

 「かーさんももっとるでしょ?」ポシェットの中から出てきたのは小さな数珠。白の珠を基調にして、赤色の珠が等間隔に数個並んでいる。子供用のサイズだが、持ってみると意外にずっしりと重たい。
 赤色の房を撫でると、柔らかく滑らかなそれは、水のように指からさらさらと逃げていく。素人の目から見ても、とても高価なものだと分かった。

「(もしかして、お寺の子かなぁ……)」

 空却くんも小さい頃から数珠持っとるから……。いつも彼の腰で揺れている数珠を思い出していると、きゅるるっ、とどこからか可愛らしい音がした。

「かーさん……おなかすいたぁ……」

 見れば、幼女が眉を下げてお腹をさすっている。たしかに。もう夕飯時だし、迷子になっていなければ、今頃家でご飯を食べている時間だったかもしれない。
 は幼女と出会う前に買った惣菜の袋から、小さなプラスチックのパックを取り出した。

「コロッケ、食べる?」
「コロッケっ?」

 幼女の顔がぱあっと晴れやかになる。地元では有名なメンチカツだ。このくらいの歳の子に一個丸々――それも夕食前に――食べさせるのはいかがなものかと思い、コロッケを半分にしてから渡した。

「いただきまあす!」
「いただきまあす」

 さくッと二回連続で音がする。旨みたっぷりのひき肉と細かく刻まれた玉ねぎの甘み……そしてそれらを優しく包み込むからっと揚がった衣。相性は言うまでもない。
「ほいひい~っ」と隣の幼女もご満悦の表情だ。これからまた歩かせてしまうかもしれないので、腹ごしらえには適量だろう。

「ふふ。ほっぺに衣付いとるよ」
「んむ?」

 幼女の口周りに付いた衣を指で摘んで食べる。不思議そうな顔をしていた彼女は、頬をもぐもぐ動かしながらにぱっと笑った。
 かわいいなあ。目の色も鮮やかな金色で、光が入るたびにきらきらと輝いてとても綺麗だ。他人の子とはいえ、も思わず頬が緩んでしまう可愛さだ。こんなにも可愛いのだから、母親も今ごろ慌てて探しているだろう。コロッケを食べたら、すぐに捜索を再開しなければ。


 ――と、思っていたのだが。

「(寝ちゃった……)」

 小さい子のお腹がいっぱいになればやることは一つ――コロッケを完食した幼女はの膝に頭を乗せてすうすうと寝息を立てていた。
 この子を起こすのは申し訳ない。かと言って、このままだと母親を探すこともできない。こうなったら寝ているこの子をだっこしながら周辺を探そう――そう決めたは、この子のポシェットをマイバックの中に入れて、脱がされた靴は幼女の足にそうっと履かせていく。わあぁぁ……足のサイズもすごくちっちゃい……。

「――おや? ちゃん」

 名前を呼ばれて、は顔を上げる。複数の足音が近づいてきたかと思えば、目の前には灼空と空却が立っていた。二人揃って外で会うことはほとんどないので変に緊張してしまい、は二人を見比べながら、「こ、こんばんはっ」と少し裏返った声で挨拶した。

「こんばんは。ちゃんが小さな子を連れているなんて珍しい。親戚の子かな?」
「いえ……っ。この子はその……迷子みたいで……」
「迷子だあ?」

 隣の空却が訝しげな声を上げると、すぐに灼空の鋭い視線が空却に刺さった。びく、と体を固まらせた空却は、「……で、親は探したんか」とぼそりと言った。

「商店街はちょっとだけ歩いたんだけど、見あたらんくて……」
「まァ、ここらへん細い道も入り組んでるからな。闇雲に探すよか、近くの交番行った方が早えんじゃねーの」

 横にいる灼空も深く頷いている。ここから一番近い交番はどこだろう、とが頭の上に地図を思い浮かべていると、こちらに歩み寄った空却が「おい、おい。起きろ」と寝ている幼女の肩を揺すり始めた。
 の膝の上でゆさゆさと揺れる幼女。じきに長いまつ毛が重たそうに持ち上げられると、幼女はその薄ら眼で空却を映した。

「とーさん……?」
「拙僧はお前の父ちゃんじゃ――って、だめだ。完全に寝ぼけてやがんな」

 開いているかどうかも怪しいくらい細められた目。曲げた指の関節部分で幼女の頬をふにふにとつついている空却の背後で、「やめんか。無理に起こすのも可哀想だ」と灼空が窘めた。

ちゃん一人では心細いだろう。私たちも交番まで一緒に行こう」
「ありがとうございます。わたしがこの子をだっこしていくので、えっと……」
「分かった。ちゃんの荷物は空却に持たせるといい」

 とんとん拍子で話が進む。の隣に置いていたマイバックはすぐに空却が持ってくれた。ありがとう、と言うと、「そいつ、落とすなよ」と釘を刺される。は強く頷いた。
 膝の上に寝そべっている幼女を起こさないようにそうっと抱きかかえると、「んー……」と幼女は少しうなる。落ちないように、幼女の股の下から片腕を通して腰を触り、もう片方の手は彼女の片脇の下から手を回して、首の後ろを支えた。見よう見まねだが、体制は安定しているのできっと大丈夫だ。
 とく、とく、とく――服越しに、僅かながらに感じる幼女の鼓動。普段買っているお米よりもほんの少し軽いくらいだが、このいのちの重さは計り知れない。
 よいしょ、と一度抱き直すと、「んぅ」と今度ははっきりと声がした。お、起こしちゃったかな……? が内心焦っていると、幼女が首をもたげる気配がした。

「じぃじ……?」
「はっ! 親父! 今の聞いたか! じーさんだとよっ!」
「幼子からすれば私など爺さんに見えるだろう」

 幼女と目が合ったらしい灼空はさして気にしていない様子で、「腕が疲れたら言いなさい。私が代わろう」とこちらに向かってにっこりと笑った。
 はい、とは返事をする。三人で歩きながら、ぽん、ぽん、と幼女の背中を優しくたたく。そんな彼女の口から、ふふ、と小さな笑みがこぼれるのを聞いた。

「えへへ……。いっしょ……。みんな、いっしょ……」

 肩の後ろに何かが触れる。それが幼女の両手だと分かって、のお腹の下のところがきゅうっと掴まれた。ふふ、ふふふ、と幸せそうに耳元で笑っている幼女に、の口角も緩んでしまった。
 あたたかくて、やわらかくて……なんてあいらしい子なのだろう。回された幼女の両手に応えるようにして、はほんの少しだけ腕の力を強くした。







 交番に到着したが、子供の捜索願いは届いていないらしい。駐在している警官が他の交番と連絡を取りあっているうちに幼女を起こそうとするが、彼女はいっこうに目を覚まさなかった。
 三人でなんとか起こそうと声をかけたり揺すったりもしたが、幼女は変わらずの胸の中でくー、くー、と寝息をたてている。幼女に事情を説明せずに、このまま立ち去るのはかなり気が引けた。
 目が覚めた時に知らない大人に囲まれている状況も可哀想だということで、警官の同意を得て、ひとまずの自宅で保護することになった。

「大丈夫かねちゃん。保護するならうちでもいいが……」
「ありがとうございます。この子を見つけたところからも近いので、きっと大丈夫です」

 そんな会話をしながら、は自分の名前、住所、電話番号など――幼女の保護者が見つかった際に必要な情報を紙に書き込んでいく。書いている間は灼空が幼女を抱いてくれており、空却は眠った幼女の顔をじーっと見ながら、「なーんか似てんな……」と独り言を言っていた。


「それではな、ちゃん。何か困ったことがあったら遠慮なく連絡してきなさい」
「はいっ」

 交番を出ての家に着くまで――結局、幼女は一度も目を覚まさなかった。あのままずっと幼女を抱いてくれていた灼空から彼女を受け取ったは、ここまで付き添ってくれた二人を玄関先で見送る。

「空却。行くぞ」
「おう」

 上り框にマイバックを置いてくれた空却が振り返る。彼が玄関の敷居を跨いだところで、「あっ」とが声を上げた。

「空却くんっ」
「あ?」
「数珠って、お寺の子はみんな持っとるものなんかな?」
「数珠ぅ? 食いもんじゃねえって分かる歳になったら持ってんじゃねーの。なんでだ」

 は幼女のポシェットの中に数珠が入っていたことを説明する。すると、意味深な顔をした空却は、「ふーん……」と寝ている幼女を一瞥した。

「……なら、知り合いの寺に当たってみるわ。どっかの檀家さんかもしんねーしな。なんかあったら連絡する」
「うんっ。ありがとう」
「ん」

 空却は最後に幼女、そしての顔をじっと見つめた後、「……じゃーな」と言って、引き戸をぴしゃんと閉めた。


 二人を見送ったあと、は靴を脱いで玄関に上がる。ひとまず幼女を寝かせようとが居間に入った時だ。

「かーさん……?」

 タイミングよく、金色の目が開いた。「おはよう」と笑いかけながら、座布団の上に幼女を寝かす。まだ顔がぽやぽやとしている幼女は、「んーっ……」と両手足をまっすぐにして伸びをした。まるで猫みたいだ。

「ここどこ……? とーさんとじいじは……?」

 体を起こした幼女はきょろきょろと周りを見回す。知らない場所に来て不安がらないように、は彼女の頭をやさしく撫でた。

「もうちょっとしたら、お迎えに来るからね」
「おむかえ……?」

 まだ寝ぼけている舌でたどたどしく復唱する幼女に、先ほどと同じところがきゅんっと締めつけられた。

「(かわいい……)」

 この子と会ってから何度思ったか分からない。が幼女の頭を撫で続けると、「えへへ、えへへ……」と彼女の頬がとろけ始めた。
 人様の子だからということとは別に、なにか特別な理由が自分の中で生まれている。なにがあってもこの子は守らないといけない――幼女の安心しきった顔を見て、は心からそう思った。







「ほいひい~っ」
「よかったあ」

 幼女の口から本日二回目の“おいしい”を聞いて、もにこにこと笑った。
 警察からいつ連絡が来るか分からないので、ひとまず夕食の支度をした。献立はあらかじめ決まっていたが、きっとこの子の家は今夜肉じゃがなんだろうと思い、予定を変更して肉じゃがを作った。家庭ごとに味が異なるので味つけに悩んだが、結局いつも通りの出来になってしまった。
 小さなお皿にちょんと次いだご飯と肉じゃが……そして身をほぐした焼き魚。肉じゃがの中にあるたまねぎもにんじんも残さず食べてくれているだけではなく、焼き魚もほぐしたところから美味しそうにぱくぱくと食べてくれている。
 うれしいなあ。もっと食べさせたくなっちゃうなあ。箸を動かすのも忘れてが幼女の食べるところをうっとりと眺めていると、家のインターホンが鳴った。

「ちょっとお外出てくるね」
「ふぁーい」

 口の中に食べ物が入ったまま返事をした幼女に笑いかけて、は廊下に出る。時間が時間なので、備え付けのモニターで確認してみた。

「(だれだろう……?)」

 暗くて分かりづらいが、これは笠……なのだろうか。お地蔵さんに似合いそうな笠を被った人が立っていた。
 お坊さん……? 灼空がこんな格好をしていたのを昔見かけた気がする。しかし、先ほど別れたばかりで、雨も降っていないのに笠を被ってくるなんて変な話だ。来訪者が誰かも分からないまま、はひとまず玄関に向かった。

「夜分遅くにすまねえな」

 引き戸をおそるおそる開けると、予想通り法衣を着た男が立っていた。笠を深く被っていたため表情までは見えないが、おそらくお坊さんだろう。
 こんな時間に見知らぬ人が訪問してくると、さすがに不安な気持ちがじわじわと滲んでくる。は謎の男をこわごわと見上げた。

「あ、あの、なにかご用でしょうか……?」
「ここにうちの娘がいるって聞いて来たんだが」

 娘――その単語でぴんときたは目を見開いた。

「はいっ。いますっ。小さい女の子いますっ」
「そりゃあ上々。かみさんと一緒に買い物行っとったんだが、目ェ離した隙にどっか行っちまったみてえでよ」

 「そうだったんですかぁ」不安が一気に払拭されたは朗らかに相槌を打つ。きっとこの人があの子のお父さんだ――そう確信したところで、背後からかたかたっ、と物音が聞こえてきた。

「あっ! とーさん!」

 居間から顔を覗かせた幼女はとたとたとたッ、と短い足で駆け寄る。そして、上り框の手前で大きくジャンプすると、父親の胸に飛び込んだ。ぼふっ! と大きな音がしたが、彼はびくともせず我が子を受け止めた。

「ったく……心配かけさせやがって。あんだけ母さんから離れんなっつったろ」
「ちがうよとーさん。かーさんがまいごになっとったんだよ」
「世間様はお前の方を迷子だって言うんだよ」
「あいたぁっ」

 父親は幼女の額をノックするようにこつん、と軽く叩いた。むう、と膨れた幼女を見て、はくす、と小さく笑った。
 そして、父親は幼女の口の周りについていた米粒を摘むと、「お前、なんか食ってんのか」と尋ねた。

「うん! にくじゃが!」
「すみません。お迎えが来るまでにお腹すかせてたらかわいそうかと思って、勝手に……」
「いや、助かるわ。……で、残さず食ったか」
「ううん。まだたべとる」
「なら、全部食い終わるまで待っててやる。ちゃんとごちそうさましてこい」

 「はあい!」父親に降ろされた幼女は再び居間に戻っていった。

「つーことだから、食い終わるまで待たせてもらえるか」
「はい。よかったら、お父さんも上がって――」
「拙僧はここでいい。それよりあいつのこと見てやってくれや」

 「箸の使い方がまだなってねえからよ」そう言われて、あんなに小さいのにもう箸が使えるんだぁ……と感心した。何も考えずにスプーンを渡していたが、「わかりました」と返事をして、早足で幼女の後を追った。


 「ごちそうさまでしたっ!」ぱちんっ、と行儀よく手を合わせた幼女に「おそまつさまでした~」と笑いかける。食休みもなしにすぐに立ち上がった幼女と一緒に、は再び玄関へ向かった。

「とーさん! ごちそうさましてきた!」
「おー偉いな。肉じゃが美味かったか」
「うんっ!」

 父親に頭を撫でられて、「えへへー」と笑っている幼女。どうやら彼女は頭を撫でられるのが好きらしい。わたしもすきだなあ、と心の中で仲間意識が芽生える。

「んじゃ帰るか。お前、肩に下げてたやつどうした」
「ここ!」

 玄関の壁にかけてあったポシェットを持って、父親は立ち上がる。厳かな法衣に加わった可愛らしいポシェットがなんともアンバランスで、はまたしてもくす、と笑ってしまいそうになった。
 父と子が会えた安堵とは別に、この子とはお別れだという事実がの胸に刺さる。切ない気持ちを押し留めながら、笑顔で二人を見送りたい。
 すると、靴を履き終えた幼女がくるりとの方を向く。そして、会ったばかりの時と同じように、彼女は小さな手をぱっと伸ばした。

「かーさんもかえろ?」
「え?」

 続けて、付けっぱなしだったのエプロンをくいっと引っ張る幼女。未だに母親だと思われていることに驚いてしまい、は父親の方をばっと見てしまう。
 すぐに何か言われるかと思ったが、父親は沈黙したままだった。複雑なこの空気を察したのか、「とーさん? かーさん?」とと父親を交互に見る幼女。そんな我が子を見て、父親が深く息をついた。

「こいつは“かーさん”じゃねえ」

 ……ぱちぱち。父親の言葉に、幼女のつぶらな瞳が何回か瞬きをする。そして、首をこてん、と傾けた幼女は、もう一度の顔をじぃっと覗き込んでから、父親を見上げた。

「かーさんだよ?」
「ちげえよ」
「ちがくないよとーさん。かーさんだよ」
「ちげえって言ってんだろ。そいつとは一緒に行けねえ」

 そんなやり取りが数回続いた。幼女がかーさんだよ、と何度言っても、父親は否定し続ける。それはそうだ。は自らのお腹を痛めてこの子を産んでいない。だが、父親と一緒に、違うよ、と言うこともできなかった。
 なんで。とーさん、かーさんのことわすれちゃったの。とーさん。とーさん――だんだんと幼女の声に水気が帯びていく。それでも、「違う」と父親はきっぱりと言い続けた。

「ねえ、ねえ。かーさん。かーさんはかーさんだよね? ねえっ」

 焦った幼女がターゲットを変える。かなり悲痛な表情で見つめられるが、は上手く言葉が出てこなかった。自分はこの子を産んでいない――ただありのままを伝えるだけなのに、なぜこんなにも胸が締めつけられるのだろう。
 ずっと黙っているを見て、ついに幼女の目から大きな粒がぽろりと零れた。

「なんでっ? なんでなにもいわんのっ? ねえなんでッ?」
「母さんじゃねえからだよ。おら帰んぞ」
「やだあッ!!」

 幼女の悲鳴が玄関に響く。父親の腕が幼女に伸びると、それから逃げるようにしての腰にがしッとしがみついた。

「ちがくないもんっ! かーさんだもんっ! わたしのかーさんだもんッ!!」

 やだもん。かーさんとかえるもん。いっしょにかえるんだもん――そう言いながら、幼女はわんわんと泣き出してしまった。サイレンにも似た大きい泣き声には狼狽えてしまい、助けを求めるように父親を見上げた。

「そのまま泣かせてやれ。しばらくしたら寝落ちすっから」

 そ、そんなぁ……ッ
 冷静な父親から助け舟がくることはなく、はおどおどとするばかりだ。幼女の涙でエプロンがどんどん濡れていく。背中を撫でたら落ち着いてくれるかと思いそうしてみたが、さらに泣き声がヒートアップしてしまう。も幼女と一緒に泣きたくなってきた。


 ――鎮火するまで十分はかかった。父親の言う通り、泣き疲れた幼女はの膝を枕にして眠ってしまった。泣き止んだのはよかったが、の胸の中は罪悪感でいっぱいになった。

「色々と世話かけたな」

 寝ている幼女の両脇に手を入れて、そのままクレーンのように持ち上げた父親は彼女をだっこする。離れていく幼女の体温――しばらく膝の上に熱が残ったが、すぐに冷たい外気に溶けていった。

「……なんでお前まで泣いてんだ」
「え……?」

 はたとする。幼女を名残惜しく思っていたら、そんな言葉をかけられた。が自分の頬に触れてみると、指についたのは見覚えのない雫。自身が一番驚いて、慌てて顔を伏せた。

「す、すみません……ッ。たぶん、もらい泣きしちゃっ――」

 突然、見知らぬ手が視界に入る。の輪郭に四本の指が添えられ、残った親指は頬から涙袋にかけて優しくなぞり、伝っていた涙が掬われる。
少しざらついた皮膚の感触にびく、と体が揺れ、父親の手のひらはそのままの頬を包んだ。名前の知らない緊張が全身に迸り、心臓が一気に膨らんで、どくんッ、とより大きな脈を打った。

「お前も来るか」

 笠の影がの頭上に落ちる。幼女の父親が内緒話をするような声量で言った言葉を聞いて、は顔を上げた。
 すぐ近くで見下ろされているおかげで、笠の影の中に入った。笠で隠れている父親の顔は相変わらず上手く見えないものの、影の中に浮かんでいるのは暗闇で濁された金色――それが二つあるので、父親の目だと分かった。幼女と同じ色だ。
 その瞳の中に閉じ込められたように、は身動きが取れなくなる。ただ一点から伸びる糸に囚われた感覚になっていると、ふ、と笠の中から鼻で笑う音が聞こえた。

「冗談だ。あいにく、こいつとかみさんで手一杯でな」

 頬から手が離れていくと、その手はそのままの頭上に移動して、くしゃくしゃと頭を撫でられる。言うべきことはたくさんあるはずなのに、それすらも忘れてしまうほどの気恥しさで胸がいっぱいになってしまう。再び俯いたは、父親に撫でられるがままになっていた。

 ――「やりゃあできんじゃねーか」

 おおきくて、あたたかくて、やさしくて――これに似たものを、自分は知っている。遠い昔に味わった感覚とともに、は彼の笑顔を思い出していた。







「へえ。あいつ、やっぱ寺の娘だったんか」

 翌日――仕事の帰り道で、空却と件の幼女の話になった。昨夜のことを話すと、彼からは至極落ち着いた反応が返ってくる。
 「まァ、自分の家に帰れたんならなによりだ」と空却は続けて言った。そうだね、と小さく相槌を打ちながら、は結局お別れを言えなかった幼女のことを想った。

「(お寺の名前、聞けばよかったなぁ……)」

 もし聞いていたら、こちらから会いに行けたかもしれない――そんなことを思わずにはいられない。今でもあの子の顔が、声が、仕草が――頭から離れないのだ。自分を母だと思って慕ってくれたことも、他人である自分に泣いて縋ったことも……全部ひっくるめて、大事な思い出だ。
 ひだまりが差し込んだようなあたたかさが、まだ胸の中にある。もしかして、これが母性というものだろうか。自分の気持ちはどうであれ、今幼女が幸せならそれでいい。きっと今頃、本当の母親の膝の上で眠っているかもしれない。そんな光景を思い浮かべて、ふふ、とは一人微笑んだ。

「んで? 迎えに来たのは母親か」
「ううん。お父さんだったよ」

 空却の問いかけに首を振った。そうだ、幼女だけではなくあの父親も不思議な人だった――は昨夜の出来事を思い出しながら、言葉を続けた。

「笠を被っとったから、顔は見れんかったんだけどね、すごくやさしそうだったよ。法衣もすごく似合っとってね、手もあったかくて大きくて――」
「手だあ?」

 突然怪訝な顔で睨まれてしまい、は声を止める。鋭くなった空却の眼光を前にして嘘を繕えるわけもなく、は居心地悪そうに口を開いた。

「いろいろあって、あ、頭を、その……」
「触りやがったのか」

 触ると撫でる……そんなに大差はないと思い、は頷く。さらに厳しい表情になった空却が「止まれ」と早口で言った。
 言われるがままその場に立ち止まった。すると、肩をぐんッ、と強く引かれる。足がもつれそうになりながら、は空却と向き合う形になる。空却の顔を見上げる間もなく、の首ががくんっ、と下がった。

「(えっ、え……ッ?)」

 がしがしがしがしッ――の頭の上を上下左右に移動しているのは、おそらく空却の手。かなり力が強いせいで、撫でるというよりも擦るという表現が似合う。が知っているものよりも、少々がさつな手つきだ。
 痛くはないが、下にぐぐっと圧力をかけられているので、身長が何ミリか縮みそうだった。何か言おうとしても、明らかに空却の機嫌が悪そうだったのでは無言でいるしかない。首から上がじわっと熱くなり、頭の中が熱でぼおっとしてくるまで、空却の謎の行為は長く続いた。