徂春に瞑りて、
すべてが報われなくとも星は巡る



「わーッ! そこの人どいてえぇ~ッ!!」

 そこの人――と言われて、自分のことだと思う人間は何人いるだろう。特に日本人は顕著なので、まさか自分が“そこの人”だなんて思いもしない。その瞬間が来るまで、幻太郎もその一人だった。だから、声が聞こえても自分は無関係ですといった顔で道を歩いていた。
 ……嘘である。ながらスマホならぬながら読書をしていた幻太郎は、冒頭の声が全く耳に入っていなかった。というのも、珍しく自分の趣向に合った本を手に入れたばかりで、早く読みたいという気持ちが急いてしまったのだ。普段なら、こんな行儀の悪いことはしない。
 ……めったなことはしないほうがいい。なぜなら、こういう稀に見ない類のトラブルに遭遇してしまうから。

「お兄さん大丈夫っ!?」

 これは誰の目から見ても僕が悪い。
 なにか固いものが側頭部に激突して、幻太郎は横に倒れた。強い衝撃ゆえに目眩を起こしていると、駆け寄ってきた誰かに声をかけられた。
 誰だ? 衝撃の余韻で頭が揺さぶられている中、幻太郎は顔を上げる。そこには、心配そうな眼差しで幻太郎を見下ろす少女が立っていた。見た感じ、高校生だろうか。ここではあまり見かけないデザインのブレザーを着ている。
 「お兄さん、大丈夫っ?」女子高生は同じ言葉を繰り返す。その黒色の目に既視感を覚えて、「ええ……。まあ」と幻太郎は当たり障りのない返事をした。ようやく目眩が治まって立ち上がっても、女子高生は申し訳なさそうな顔を崩さなかった。

「せっかくおしゃれな和装してたのにほんとごめんなさいっ! どっか破けてたりとかしてないっ?」

 一部の人間からはからかわれるこの服装について、わざわざ口に出して褒めてくれる人はそういない。おしゃれな和装――そう言われてはこちらも悪い気はしなかったし、彼女の顔を見れば、反省の色も窺える。
 「ええ、平気のようです」と幻太郎は言う。すると、「よかったあ~っ!」と女子高生の顔から緊張の糸が解けた。いちいちリアクションがオーバーだ。まあ、それだけこの服の価値が分かっているということだろう。それに、未成年の彼女が加害者になればその家族にも迷惑がかかるので、胸を撫で下ろす気持ちは分かる。
 幻太郎は女子高生を責める気はない。ただ、自分の身に何が起きたのか知りたいところではあった。

「その台車の上に乗っているものはなんですか?」

 女子高生ががらがらと引いていた台車を指さす幻太郎。台車の上に乗っているのは三つのダンボール――幻太郎の頭に激突したもう一つは地面に転がっている――業者でもない限り、こんな細道で台車を引く人はそうそう見ない。
 女子高生は地面に転がっているダンボールを軽々と拾い上げて、台車に乗せ直した。

「部活で使う小道具の材料だよ。買った量多すぎちゃって、下り坂で全然ブレーキかかんなくてさ」

 あはは、と女子高生の口から乾いた笑いが漏れる。百均やホームセンターで買い揃えたものをダンボールに詰めこみ、そのうちの一つが宙を舞い、幻太郎の頭に激突したという。
 なるほど、と幻太郎が納得したところで、「緩衝材だけ入ってるダンボールでよかったよー」と女子高生は言う。よくはないが、幻太郎自身、頭に痛みも残っていなかったので、その言葉は胸に仕舞っておいた。

「一人で一気に買い込むからですよ。他に人はいなかったんですか」
「全然いるよ~! ただ今回の舞台は人手が足りなくって! 美術係じゃない私も駆り出されてるくらいなんだよ~」

 「あっ。ちなみに私、演劇部ね!」と付け足す女子高生。幻太郎は彼女自身に興味はなかったので、「そうですか」と素っ気なく返した。
 自分の頭に当たったものの正体が分かれば、この女子高生に用はない。それでは小生はこれで、と幻太郎が立ち去ろうとすると、「あーッ!」といきなり彼女が声を上げた。うるさい。

「その人、私も好き!」

 その人、と女子高生が指したのは幻太郎が持っている本だった。彼女の目を輝かせている相手がこの本を書いた作者だと分かり、幻太郎は目を丸くする。

「知ってるんですか?」
「知ってるもなにも大ファンだよ~! このあいだもサイン会に行ってきたんだーっ」

 「でも、もう新作出してたっけ?」と首を傾げる女子高生。首を傾げたいのはこちらの方だ。この作者が最近サイン会をやっていたなんて記憶にない。
 この女子高生にからかわれているのかとも思ったが、なぜだろう……嘘をつけなさそうなこの顔は。そんな顔に見覚えがあるような、ないような。いつのものかも分からない記憶の端で、べったりと張り付いているこの違和感は、なんだ。

「私、この人の書いた『縁巡り』がめっちゃ好きなの! お兄さん読んだことある? ちょっと古いかもしれないけど」
「ありますよ」

 ちょっと古いといっても、去年出版されたばかりの本だ。最初の舞台は江戸時代。一人の男が女と出会い、恋に落ち、共に生きて、死に――その後時が経ち、現代で生まれ変わった二人が前世の記憶をなくしながら再び惹かれ合う恋愛小説だ。あらすじこそ女性受けしそうなものだが、作者の癖が強いために独特の言い回しが多々あり、幻太郎も何回も読み返している一冊だった。
 決して読みやすくはないこの本を、こんな頭の緩そうな女子が読むとは。やはり、見た目によらず文学の嗜みがあるのか。どこかの家政婦とは天と地の差だ。

「あるんだ! どうしよう嬉しい!」
「どうしようもなにも知りませんよ……。ところで、もう行っていいですか。小生も暇ではありませんので」

 いつもよりも愛想がないのはご了承頂きたい。幻太郎は早く家に帰ってこの本の続きが読みたいのだ。家に着くまでにながら読書はしないことを誓い、幻太郎は本を懐に入れた。
 あとは、さようなら、と女子高生に言うだけだったが、彼女の顔は明らかにしゅん、とへこんでいる。

「私、学校で読書仲間がいないから、本のことで語れる人ぜんぜんいないの……」
「それは残念でしたね。小生には関係のない話ですが」
「あるよう! ねえねえ、そこの喫茶店でちょっとお茶しない? ぶつかっちゃったお礼に奢るからっ」

 こんなにも真正面から誘いを受けるなんて乱数以来だろうか。おねがいっ! と女子高生に手を合わせて頭を下げられる。おそらく自分が、いいですよ、と言うまで彼女はずっとこのままだろう。いっそ置いていってしまおうか。
 ……しかし、それをするには少々足が重たく感じた。代わりに、幻太郎は彼女が引いていた台車をちらりと見る。

「それはどうするんですか」
「それ? あぁ~、小道具の材料のこと? 部室に運んだらすぐに行くから、お兄さんは先に喫茶店に入ってていーよ!」
「部室って……このあたりに学校なんてないでしょう。どこまで行く気ですか」
「え? あるよここに」

 女子高生はすぐ近くの建物を指差す。またそんなくだらない冗談を――と幻太郎がため息をつこうとすると、不意にチャイムの音が聞こえた。幻太郎ははっとして、女子高生の指が差している方向を見る。

「っ、な」

 そこには、たしかに学校があった。何食わぬ顔で、ずっとここに建ってますけどなにか? というような雰囲気で堂々と建っていた。
 こんなところに学校なんてあったのか……? いや、そんなはずはない。長らくここ近辺に住んでいる幻太郎は自分の記憶を探ってみるが、ここに学校が建っているなんて情報はない。百歩譲って新しくできたとしても、新しいもの好きのうちの家政婦が「あそこに高校ができたみたいですよ!」といち早く教えてくるに違いないのだ。

「それじゃあ、すぐに戻ってくるからね~っ!」
「待ちなさい。小生はまだ――っ」

 女子高生はぶんぶんと手を振って、勢いよく台車を引いて走っていってしまった。最後まで話を聞きなさい。というか、そんなに急いだらまたぶつかりますよ――なんて、わざわざ声を張り上げて言うつもりはないが。
 やれやれ、と幻太郎は肩を落とす。まあ、彼女が来ようが来まいが、ゆっくりと腰を落ち着かせて、読書に耽けるというのも悪くないだろう。未だに本物かどうか信じられない校舎を一瞥し、幻太郎は馴染みの喫茶店に向かった。







「小生が思うに、あの時の彼の台詞は第二章で敷かれていた伏線の回収……そして、彼自身の心にあった恋心を自ら拾い上げているのだと思います」
「それめっちゃわかる! さらに言うなら、その前にあった女の子側の心情描写との対比も相まって、後から読み返すとまた違う感動があるんだよね~!」

 女子高生との話は盛り上がった。
 お互いに頼んだ飲み物は二杯目に突入した。こんなにも他人と――それに本の話で――話が弾むことなどめったにない。話し始める前は、この年頃の女子が好きそうなあらすじだから、とりあえず手に取って読んでみたミーハーくらいに思っていたが、女子高生の考察は中々で、時折別作品の話を織り交ぜて自身の見解を述べている。それに、彼女は話し上手でもあったため、いつの間にか彼女がつくった話の波に乗っていた幻太郎も、ああでもないこうでもないと口を挟んでいた。
 青春、ファンタジー、政治、ミステリー、歴史……その歳にしては、様々な文学本を読み漁っているようだった。ここまで自分と対等に文学談義ができる人間と出会ったことがない幻太郎の心は少々……いや、かなり浮ついていた。

「は~っ、たのし~っ。好きなことを人と共有するのって楽しいね~っ」

 お腹いっぱい、というようににこにこした女子高生は大きく口を開けて息を吐いた。本当に話す相手がいなかったのだろう。それは幻太郎も同じだった。浮ついていると言っても、表には決して出さない幻太郎は「楽しいのはあなただけですよ」とまたしても 素っ気なく返した。
 すると、お待たせ致しました、と間に入ってくる店員の声。「話してたらお腹すいちゃった!」と言った女子高生が数分前に頼んだナポリタンが届いたのだ。白い皿に盛られているナポリタンを見て、わーい! と歓声を上げた女子高生は、「いっただっきまーすっ」とフォークを手に取り、パスタをくるくると巻きとった。

「ここのナポリタンおいし~っ。今度お母さんに作ってもらおーっ」
「ところで、夕食前にそんなもの食べていいんですか。そのお母さんとやらが泣きますよ」
「ミニサイズ頼んだから夕ご飯もちゃんと入るよ! ……あっ、今夜は海鮮丼にするって! やったね~っ!」

 スマホで“お母さん”と連絡を取り合いながら、彼女は一人で話を始める。きっとうちも、今頃家政婦が夕食の準備をし始めている頃だ。一応、今日は少し遅くなると連絡しておこう。
 それからは、休みなくナポリタンを口に運ぶ女子高生。「それで、そのあとの展開なんだけど――」と食べながら器用に話をし始めるものだから、「食べ終えてからどうぞ」と幻太郎は言った。

「でもお兄さん、つまんなくない?」
「いえ特には。あなたが食べているあいだはこれの続きを読んでいるので」
「先に帰らない?」
「帰りませんよ」

 「ならいいや!」と安心したようにナポリタンに集中する女子高生。幻太郎はしおりを挟んでいたページに指を入れて、本を開く。それから先の話は未読だったのでちょうどよかった。彼女がナポリタンを食べ終わるまで読める文章もたかが知れているので、この本の話はもうできないだろう。
 それでも……もう少しだけ、ここにいてもいい。先程の語りが嘘のように、しんとした空気が流れる。ナポリタンを無言で食べ進める女子高生と偶然目が合うと、彼女は目元だけでにかっと笑ってみせる。幻太郎はわざとらしく咳払いをして、居心地が悪くなりながら本の世界に入った。


 ――ごちそうさま! その声に手を取られ、幻太郎は現実へ帰ってきた。目の前には、空になった皿とその前で手を合わせている女子高生。「おまたせ!」と言った彼女は、ここからが本番というように体を前のめりにさせた。

「それで、さっきの話の続きなんだけど――」
「あいにくですが、その先はまだ読めていません。ネタバレはしないで頂きたい」
「えっ! そうなのっ?」

 「ざんねん……」左右にぶんぶんと振られていたしっぽがしゅん、と下ろされる。疲れているのだろうか、犬の耳まで見えてきた。急に重たくなった沈黙を吹き飛ばすように、幻太郎はふ、と息をついた。

「あなたは、他に何を読むんですか」
「ほかっ?」

 ぱっと顔を上げる女子高生。単純だ。どこかの家政婦と良い勝負かもしれない。

「えっとねっ、作家さん問わずいろんなの読むんだけどねっ、一番好きなのはぁ――」

 話を振られて嬉しくなったらしい女子高生は、リュックサックをごそごそと漁る。そこから取り出したのは一冊の本。それにかけられている革製のブックカバーを外すと、見慣れた表紙が現れた。

「夢野幻太郎著、『Stellaステラ』かな~!」

 ごふッ――飲みかけていたコーヒーを軽く吹き出してしまった。幻太郎は軽く咳き込みながら、おしぼりで口元を拭う。
 「お兄さん大丈夫?」「えぇ……」ひとしきり落ち着いたところで、こちらの気も知らない女子高生は、またにかっと笑った。

「お兄さんはこの本知ってる? 国を失った王様と、人間不信の盗賊と、一人ぼっちだった科学者が出会って、三人で世界中……ううん、宇宙中を旅するの」

 知っているも何も、それを書いた本人なので――と言えるわけもなく、「いえ……初めて見ますね」と言ってしまう。それでも女子高生は笑顔を絶やすことなく、「小さい頃からずっと読み倒しまくって、壊れるたびに買ってるから今これ四冊目なんだ~」と言って、表紙を大事そうに撫でた。
 小さい頃といっても、『Stella』は数年前に出版したばかり。おおよそで見積もっても、彼女が中学生の頃に初版が発行されているはずだ。それを“小さい頃”というのは、幻太郎としても首を傾げたいところだった。
 しかし、本自体はなぜか年季が入っていた。ブックカバーで覆われているところはそうでもないが、本の角や小口の部分は擦り切れてぼろぼろになっている。本に馴染み深い幻太郎の目から見ても、彼女がその本を何度も読み返していることは分かった。

「それでね、今回の演劇は『Stella』をやるんだよ」
「へえ。それはそれは」

 自分が書いた作品が――学生のお遊戯劇だとしても――舞台になるとは。作者として嫌なことではない。
 コーヒーを飲みながら、幻太郎は女子高生が引いていた台車を思い出す。

「では、あなたは演者なんですか」
「ううん。私は舞台に上がらないから、実質裏方みたいなものだよ。あっ、そーだっ」

 女子高生は再びリュックサックを漁る。そこからB5サイズの冊子を取り出すと、それを幻太郎の前に滑らせた。

「これが『Stella』の台本なんだけど、脚本係の部員が書いたものなんだ〜」
「ほう。一人で?」
「一人で!」

 「だから、ちょっと見てやってくれない?」と女子高生は言う。なにが“だから”なのか分からない。分かったとしても幻太郎が首を縦に振る理由にはならなかった。素人の……それも十代が書いたものなんて、たかが知れていないか。

「なぜ小生がそんなことを――」
「同じ話題を共有した文学仲間だから! あと、初見の人目線で面白いかどうか知りたいの! ねっ、ねっ、おねがーいっ」

 「直に書き込んでオッケーだから!」と言ってペンまで渡してくるものだから、幻太郎はじっとりとした目で女子高生を見る。彼女が折れる気配はない。この冊子を読むか、彼女の心を折るかの労力でいえば、前者の方が遥かに軽いと思った。
 まあ、適当に読み流せばいい。それで、直すところなんてありませんよ、と返せばいい。しかし、そんな思いに反して、幻太郎の目は文字の上を真剣に辿る。文字書きの性か、自分が書くならこうするだろうという部分にはペンを走らせた。体が勝手に動いてしまう。らしくない自分に嫌気がさしながら、幻太郎は『Stella』の台本を読み進めていった。

「……まあ、こんなものですか」
「おぉ~っ!」

 僕はいったいなにを――自分がした行いに頭を抱えたくなる。女子高生はプレゼントでももらったような顔で、幻太郎が書き込んだ台本をぱらぱらとめくっていた。
 幻太郎自身、音響や照明の知識は乏しい。なので、話の展開や台詞に着目してペンを入れた。かと言って、さほど訂正箇所はない。訂正を入れる前から、舞台『Stella』は出来上がっていた。

「それを書いた生徒、良いセンスしてますね」
「ほんと!?」
「ええ。所々省略されている部分もありますが、尺の関係かなにかでしょう。話同士の繋ぎ目もオリジナル要素を入れて上手く繋いでいるし、特段違和感もなく読めます。粗が目立つところは多々ありますが……まあ、そこは演者の力量次第というところでしょうね。脚本だけでどうこうできるものではありません」

 マジレスというものをしてしまい、幻太郎は言ってからはたとする。気づくと、女子高生は溢れそうな“喜”の感情を体いっぱいに溜め込んで、その口元はにっこりと持ち上がっていた。

「ありがとうお兄さんっ! 台本これ書いた人に言っとくよ~っ!」

 そんな感情を発散させるように、女子高生は笑う。それはもう……テーブルの上に花々が咲き誇るほどの、満面の笑顔だった。



 ありがとうございました――背中に店員の声を受けて、幻太郎は女子高生とともに喫茶店を出た。

「ほんとうに奢ってもらっちゃってよかったの?」
「小生、いたいけな女子高生に奢らせるほどお金には困っていませんので」

 ぽかんとした女子高生だったが、すぐに「ありがとう! ごちそーさまでした!」と言った。いいえ、と返事をしたところで、彼女はくるりと方向転換をする。

「それじゃ、私部活行ってくるね!」
「今日部活あったんですか」
「うん!」
「もしや、小生と話したいというのを口実に、サボりたかったとか」
「むむ。それは聞き捨てならないな~。お兄さんと話したかったのは本当だし、私だってちゃんと部活してたもん」

 どこがだ。ナポリタンを食べて文学談義に花を咲かせていたところしか印象にない。
 すると、「あっ」と女子高生が思い出したように声を上げる。「今日のお礼と言ってはなんだけど……」

「これ、『Stella』の舞台のチケット! よかったらお兄さんにも来てほしいな~っ」

 ぴらっ、と渡されたのは一枚のチケット。いかにも学生が作りましたという簡易的なデザインに、安っぽいロゴで“舞台『Stella』”と書かれている。その流れで女子高生を見ると、えへへ、と照れくさそうに笑っていた。

「ほんとはお父さんに渡す用だったんだけど、今家にいないんだー。いつこっちに戻ってくるか分かんないし」

 「あっ。いないって言っても離婚とか死別とかじゃないから! お母さんとめっちゃ仲良いし! ちょっと今友達と旅行中なだけで!」と女子高生は慌てて訂正する。別にそんな慌てなくても、他人の家庭事情に首を突っ込むつもりはない。
 幻太郎は、こんな彼女との出会いも何かの縁、と思って、そのチケットの端を摘んだ。

「気が向いたら行きますよ」
「やった!」

 女子高生は喜ぶが、彼女はチケットから中々指を離さない。幻太郎が訝しげに眉を顰めても、女子高生は黙ったままだ。この期に及んでからかっているのか。

「ちょっとあなた。渡す気あるんですか」
「言うつもりなかったんだけどさ」

 改まって、女子高生は言う。ふう、と彼女は息をついて、内緒話の声量でぽつりと呟いた。

「……あの台本書いたの、私なんだよね」

 は、と声を出す。否、出そうとした。現実では、小さな空気が口から漏れて、ただ息を吐いただけになった。
 なんだこれは。違和感が肥大化して、疑心を作った。口を開けて喉を絞っても、声が出ることはなかった。

「今日が台本の締切だったから、本人に推敲してもらえてよかったよ」

 そう言って、女子高生はようやくチケットを離す。それと同時に、ごうッと激しい風切り音に鼓膜が侵される。幻太郎は顔を歪めるが、彼女は笑顔だ。こんな状況で笑える者など、御伽話に出てくる魔女くらいだろう。
 そんな中、彼女はまだなにか話している。雑音のせいで断片的にしか聞こえないのが憎らしくて、幻太郎は途切れそうになる意識をなんとか繋ぎ止めた。

「H歴――年の二月。――高等学校演劇部、舞台『Stella』」

 ぜったいに観にきてね。――さん
 彼女は手を振っている。その背後で、花吹雪が舞っている幻覚が見えたのを最後に、幻太郎は鉛のように重たくなった目を閉じた。







「――せんせー? 夢野先生~っ」

 地震か? 体が揺れている感覚があって、幻太郎は目を開ける。そこには、複数のマイバックを両腕に提げているが立っていた。

「あっ! よかったあ目が覚めてっ。こんなところで寝たら風邪引いちゃいますよ~っ」

 気づけば、自分は近所にある公園のベンチに腰かけていた。どうやら、ここでうたた寝をしていたらしい。その証拠に、読みかけの本を持っている手は冷たい外気に晒されてひどく悴んでいた。

「先生、徹夜明けのときとおんなじ顔してますねぇ。そんなにお疲れなのにどうして散歩なんてしてたんですか?」
「散歩……?」
「あれ? ちがうんですか? さっき先生から、『散歩に行ってきます。夕食前には戻ります』って連絡ありましたけど……」

 そんなこと、連絡しただろうか。いや、彼女になにか送ったことはなんとなく記憶にあるが、もう少し、なにか……違う内容だった気もする。……だめだ、まだ頭がぼうっとしていて考えがまとまらない。
 幻太郎は溜息をつきながら、重たい頭を片手で支える。するとは、「いやな夢でも見たんですかねえ。顔色もあんまりよくないし……」などとぶつぶつ言いながら、その場にしゃがんで、あろうことかこちらの顔を覗きこんでいる。やめなさい。顔が近い。
 ……いや、そんなことよりも――

「(夢……)」

 そうだ。夢を……見ていた。気がする。内容までは覚えていないが、長いこと別の世界にいたような……そんな感じがした。
 外で寝るなんて、帝統でもあるまいし。それも、締切に追われていない……こんな穏やかな日に。やはり、彼女の言う通り悪夢でも見たのだろうか。どちらにしろ、このまま外にいるのも寒いので、さっさと家に帰ろうと幻太郎がベンチから立ち上がった時だった。

「わあぁッ!?」

 宙に浮くような立ちくらみがして、幻太郎の体はくらっと傾く。
 のマイバックに入っているものががさッと音を立てたかと思えば、幻太郎の上半身は彼女の両手によって支えられていた。足で踏ん張る暇もないほど、俊敏な動きだった。そのせいで、馴染みのない他人の体温が服越しにじわじわと伝わってくる。

「び、っくりしたあぁ……っ! 先生大丈夫ですかっ? マイボトルありますけどお水飲みますっ?」
「っ、結構です」

 から自分の体をひっぺ剥がすようにさッと離れる。徐々に熱くなる自分の顔とは対照的に、「ほんとですか?」と彼女はけろりとしている。どうせそのマイボトルも飲みかけだろう。それを平然と“飲みますっ?”だなんて。色々と意識しているのは自分だけのようだった。くそ。

「本当になんでもないです。さっさと帰りますよ」
「はぁい……」

 そう言って歩き出しても、しばらくの間こちらの顔色をちらちらと窺っていた。しかし、元来彼女は口を閉じることが苦手なので、ぽつぽつと話をし始めるうちにいつもの調子に戻っていった。

「先生っ。今日はお刺身が安かったので海鮮丼なんてどうでしょうかっ」
「いいと思います」
「やった! あったかい豚汁も作りましょうね! あと、おしょうゆが切れてたのでついでに買ったんですけど、それはちょっとお高めのやつにしちゃいました! これでマグロ漬けしたらぜったいおいしいですよ~っ!」

 醤油だけでこんなにも盛り上がれるのは、この星でうちの家政婦くらいだろう。彼女の口から紡がれる話は絶えない。幻太郎は料理のことはよく分からないので、「そうですか」といつものように聞き流していた。
 これでは本を読む暇もない。やれやれ、と肩をすくめた幻太郎は、持っていた本を懐に入れ込んだ。





 ――くしゃっ。普段、本以外に何も入れないはずの懐の中で、薄い紙のようなものが小さな音を立てた。