波の綾を越えて、明けの岸まで



「帰ってきたぞ~ッ!!」

 カモメの鳴き声と波の音に包まれていた町が、誰かの声とともに一気にざわつきを見せる。それの帰りをたくさんの人が待っていたうちの一人である少年は、地面から数メートル高い塀からぴょんと飛び降りる。
 港に到着した小型船――そこから降りてくる船員を歓迎しようと、町中の人間がどっと押し寄せる。そんな人の波に逆らって、少年は彼らをすいすいと避けながら歩いていく。国のために任務を終えた船員を労う声が上がり、彼らを乗せていた船からは溢れるほどの荷が降りてくる。
 中には、家族で出迎えに来ているところもあった。一人の船員が小さな子供を抱きしめている光景に、少年はじっと見入る。もしかしたら、自分にもああいう頃があったのかもしれない、と。少年は蒼い目をきゅ、と細めて、船から続々と降りてくる船員に目を凝らす。人よりも耳と目が良い彼は、すぐに踵を返した。きっと、自分が待っていた人はすでにあの中にはいないだろう。

 しばらく道なりに歩くと、港近くの市場に着く。今日は出払っていた最後の船が到着する日とあって、船が停泊したのを見に、ほとんどの店はがら空きになっていた。こういうところで盗難被害に遭うと分かっていてもやめられないところが、この国の抜けいるところだと思う。
 そんな中、とある店に人が残っていた。船の煙突から立ち上っている灰色の煙をぼんやり見つめているフルーツ屋の女店主。頬杖をついている彼女に、「こんにちは」と少年は声をかけた。彼女はゆっくりとこちらに目を傾けると、「おや。あんたじゃないか」と気怠げに垂れていた黒い目が僅かに大きくなる。

「たいくつそうだね」
「今だけさ。今に見てみな。あと数分もすりゃあここいらも戦場さね」

 悪いことは言わないから買うもん買ってさっさと帰りな――女店主の言葉に従って、「リンゴを七個」と少年は彼女の手のひらに数枚のコインを置いた。

 リンゴが詰め終わるのを待っているあいだに、港の方から聞こえてくる賑やかな音に耳をすませる。少し音程が外れた歌、リズムだけは整っている楽器の音――国のために任務をこなしてきた船員たちを歓迎する小さなパレードだ。じきにここまで移動してくるだろうから、彼女の言う通り、ここ一帯が人で溢れるのも時間の問題だ。

「行かなくていいのかい。今回はあんたの親父も乗ってるだろう」
「うん。でもきっと、もう家に向かっている頃だろうから」
「親子だねえ。父親の考えなんかお見通しってわけかい」

 そんなことはない。父は無口で、多くを語らない。おまけにめったに家にいることがないので、分からないことの方が多いのだ。最初から少年の答えに期待をしないであろう女店主はくわっ、と大きなあくびを漏らし、紙袋の中にリンゴをガサガサと入れていく。
 傷んでいるものは避け、新鮮なものを紙袋に詰めてくれているその手元を一瞥した少年。いまだに口の形をへの字に曲げている彼女に話しかけた。

「半年ぶりに船が停泊するのに、あまりうれしそうじゃないね」
「そりゃそうさ。店が忙しくなっちまうからね」
「かせぎどきなのに?」
「あいにく、あたしゃ大金より自由が欲しいんだ。必要以上に忙しくなるのはごめんだね」
「そうだね。ここのリンゴは世界一おいしいから」
「……あんた、中身まで父親に似てきたね」

 「その愛想のなさは母親譲りかと思ったが」それが人によっては気分の悪いものに聞こえるかもしれないが、少年にとっては尊敬する両親に似ていると言われれば、それはすべて褒め言葉になる。「ありがとう」と少年が言えば、「褒めたんじゃないよ」とぴしゃりと吐き捨てられてしまった。
 
「あんたの母親……に言っておきな。アップルパイが出来たらうちにも差し入れろって。愛想はないが、パイを焼かせたら町一番だからね」
「ありがとう。伝えておくよ」
「余計なことは言うんじゃないよ。差し入れろってだけ伝えとくれ」

 「うん」リンゴ七個が入った紙袋を受け取った少年は市場を後にする。自分がまだ生まれていなかった頃……母がこの町に来たばかりの時に、この町のことや近所付き合いのことを色々と教えてくれたのは彼女なのだという。「人との繋がりは金と同等の宝だ。お前の母親はとにかく人を信用しないからね。あんたはああいうふうになるんじゃないよ」――面倒ごとは嫌いだと豪語する彼女だが、面倒見の良さは町一番だと有名だった。







 アメリカ西部にある小さな港町――少年は、潮の香りに包まれながらこの町で生まれ育った。ただ、自分の体に流れている血は別の国のものも混じっていて、そのうちの一つは東洋にある日本という国のものらしい。父と母の思い出の地だというその国に去年初めて連れて行ってもらったのは、少年にとって素晴らしい思い出になっている。
 買ったリンゴを一つ齧りながら、少年は帰路を辿る。片手で持っている紙袋を持ち直せば、ようやく家が見えてきた。軍が所有しているファミリー用のアパートメントだ。
 アパートに入る前にある鉄格子扉。壁に設置されている機械にセキュリティコードを入れると、扉のキーが解除された。少年は薄暗いロビーを歩いて、コンクリートでできた階段を上り、三階に着いたところですぐ右に曲がる。そこの突き当たり……普段からあまり来訪者がいない自分の家の前に、男が立っていた。目を大きく開いた少年は、自分がそこまで歩いて行くまで待ち切れずに、声を張った。

Dad父さん

 静かなロビーに少年の声が響くと、男はくるりと振り返った。彼は両腕と両肩に数え切れないほどの紙袋を携えており、背中には大きなリュックサックを背負っている。半年ぶりに見る父は、自分とは似て非なる色をした目を細めて、形の整った口角をうっすらと上げた。

「ただいま」
「おかえりなさい。けがや病気はしていない?」
「もちろんだ。それより、しばらく見ないうちにまた大きくなったな。今は両手が塞がっているので、再会のハグはあとでさせてほしい」

 少年はこくりと頷く。そして、目の前のドアと父を交互に見やって、はて、と首を傾げた。

「家に入らないの」
「うむ。入りたいと思っているのだが、先ほどインターホン越しに、『うちにリオという人間はおりません』と言われてしまった。息子よ、はなにか病を患っているのだろうか。とても心配だ」
「父さんのことを忘れているわけではないと思うよ」

 昨日まで二人で父のことを話していたくらいだ。忘れるなんてことはありえない。少年が首を横に振って否定すると、「ならいいのだが」と父は言う。しかし、その目はドアの向こう側にいる母の身を案じている。
 すると次に、父は少年が持っている紙袋の中のリンゴをじっと見つめた。

「美味そうなリンゴだな」
「旬のものだから。口を開けて」

 少年は、自分が食べかけていたリンゴを前に出し、父に向かって腕をぴんと伸ばす。それでも口元に届かないほど背の高い父は、一度膝を折ってからリンゴに齧りついた。リンゴの甘酸っぱい香りが少年の鼻に入ってきた時、「うむ。美味だ」と咀嚼しながら父は言った。
 父がしゃがんだ拍子に、彼が持っていた紙袋の中身が少しだけ見えた。「おみやげ、今回はたくさんあるね」と言えば、「乗っていた船が日本に立ち寄ったのでな。どれも知人に持っていけと言われたものだ」と父は答えた。

「見るか」
「うん。でも、せっかくだからあたたかい床の上で見るよ」

 そう言って、少年は固く閉ざされた自宅のドアを二回ほどノックした。

Mam母さん。おれだよ。ドアを開けてほしいんだ」

 ドアに向かって声を張る。インターホンを鳴らさなくても、家の主はこの鉄扉を挟んだすぐ向こうにいる。父がインターホンを鳴らしたその時から、きっといるにちがいないのだ。
 ……しばらく待っていると、足音もなしに鍵が開いた。ギギ、と古びた音がすると、そこには、手足がすらりと長い女性がエプロンを付けて立っていた。

「おかえりなさい。おつかいをしてきてくれてありがとう」
「たいしたことじゃないよ。このままキッチンまで運ぶね」

 少年の言葉に、母は薄く笑む。東洋の出身である母の黒髪は、彼女が首を傾けるたびに光に反射して、とても艶やかに見える。外見だけで言えばこの町でお前の母の右に出る女はいない――と酔った父の同僚に言われたことがある。それを聞いていた父は珍しく顰めた顔で、「は中身も素晴らしい女性だ」と強い口調で言った。そんな父を見て、彼の酔いもそこで覚めたようだった。
 愛想がない、と母を知る人は口を揃えて言うが、たまに見せるこの柔らかい表情かおが良いのだ――と、たまに帰ってくる父は言う。少年もそれには同意見だった。父が真顔で口説き、惚気けるほど、母の容姿はとても美しかった。父の話によれば、自分が生まれる前はモデルの仕事をしていたらしい。
 そんな母の好き嫌いははっきりしている。自分には女神のような微笑みを見せたが、その隣に立つ父を下から上までじいっと見つめた母の眼差しは、おとぎ話に出てくる氷の女王のように冷たかった。

「どちらさまですか」

 周りの空気がぴりッと痺れる。少年は思わず父を見上げるが、いつもの、と言わんばかりに彼は顔色一つ変えない。

「貴女の夫の理鶯だ」
「私の夫は五日前には帰宅すると一ヶ月前の手紙に記していたはずでしたが」
「当初の予定より帰宅が遅れてしまったことは詫びよう」
「母さん。リンゴは冷蔵庫に入れておくよ」
「ありがとう。手を洗ってきたらこの人の荷を解いておいてくれる?」

 母の言葉に頷いて、少年は父のリュックサックを預かる。「重いぞ」と言われて持たされたそれは言葉通り本当に重たかった。
 自分の背丈ほどあるリュックサックを引きずりながら家に入った少年は、手を洗ってからチャックを開ける。使用済みの着替えはランドリーボックスの中へ入れ、それ以外は触れていいかどうかも分からない機械や道具だったので、あとで父に渡せるように横へ避けていった。

「行きにあなたと同じ船に乗っていたはずの人たちは一週間前に帰ってきました」
「途中で小官は別の任務を与えられ、出発時とは違う船に乗り込んだのだ」
「なぜそのことを手紙に書かないのですか」
「すまない」
「手紙に書かなかった理由を聞いているのだけど」
「極秘任務に関わることなので、詳細を言うことはできない」
「あなたとの約束を守らせない軍の事情など知りません。言う気がないのなら、このままドアの前に立っていますか」

 未だに玄関の前で話をしている両親の様子をこっそり盗み見る。これは決して喧嘩ではない。少なくとも、父はただの会話だと思っているからだ。
 そんな父と母は仲は良いのか、と聞かれては首を捻ってしまい、では悪いのか、と聞かれても反対の方向に首を捻ってしまう。二人の間に生まれた自分が言うのもなんだが、不思議な二人だと思う。去年出会った父の友人のサマトキが言うには、「理鶯はあの女のケツに敷かれてるからな」とのこと。言葉の意味が分からずにぽかんとしていると、「日本の“ことわざ”ですよ。今度お父さんに教えてもらいなさい」と同じく父の友人であるジュートがにこやかに言った。その日少年は、自分が話している言語よりも、日本語はとても難しいものであることを知った。

「ちょうどその船が日本にも立ち寄ったので、彼女からの土産と文を預かっている。そして、市場でが好きなイチゴを買ってきた。あとで小官がイチゴのクレープを振舞おう」
「気を遣って頂かなくて結構。それに今日はアップルパイを焼くのでクレープはいりません。手紙は机の上に置いておいて」
「小官がに作りたいのだ」
「甘いものは嫌いでしょう」
「たしかに小官は甘いものは好かないが、が甘いものを食べている顔を見るのは好きだ」

 口論に見えるかもしれないが、父の言葉には母に対する愛しか感じられない。以前、父さんと母さんはどうやって知り合ったの、と聞いたら、少し考えた父は、「今思えば、小官の一目惚れだったのだろうな」と言った。それを聞いていた母は父の着替えを彼の顔面に投げつけていたが、その時の母の顔は耳まで赤かった。
 軍を指揮する父の上官にも、よそ者を嫌う意地悪な隣人相手にも億さない母だが、父の言葉にはとても弱い。今もああして、言葉に詰まっている。ついに、ふん、と母は顔を背けてキッチンに引っ込んだ。今日も父に軍杯が上がったらしい。
 ようやく父は、「ただいま」と言って、家に入ることができた。そして、「自由に見ていい」と言いながら、父は持っていた紙袋たちを自分の周りにどん、どん、と置き始める。少年は土産に包囲されてしまった。
 国外の土産に踊る胸を隠せず、紙袋の中身をチェックする少年の手は急く。一方、父はというと、どうにも母と一緒にいたいらしく、母の後ろを大型犬のように着いて回っている。

「とても良い匂いがするな。夕食の支度ならば、小官も何か手伝おう」
「夜まで部屋から出てこなくていいです」
「む。今夜のメインはきのこのパスタか。では小官がメインに合う前菜を作るとしよう」
「話を聞きなさい」

 両親の会話をBGMにしながら、少年は紙袋たちの中身を開けていく。母と自分の服を始め、様々な雑貨類が色々と出てくる。中には食品が入っているタッパーと手紙があり、これはおそらく、父が言っていた“彼女”からだろう。母が言った通り、それはテーブルの上に置いておいた。
 “彼女”とは、母が日本に住んでいた頃、一緒に暮らしていたという女性のことだ。去年初めて会った時、高身長の母とは対象的に小柄で、はきはきとした声は春一番の風のように爽やかだった。ファーストコンタクトから、「かわいいっ!! すっごいかわいいっ!!」と言われ、ずっと抱きしめられたりなどした。彼女と別れるまでは公園で一緒にかけっこをしたり、ブランコに乗ったりしてとても楽しかった。自分は話下手なので、もしも結婚するなら彼女のような人がいいと思った。
 彼女は、日本を出る前に母に料理を教えたのだそうだ。ということは、彼女は母の料理の先生ということになる。二人とも、あまり自分たちのことを話さないので、両親を知る人から二人の話を聞けるのはとても新鮮だった。

「父さん」

 未だに母に邪険にされている父に話しかける。振り向いた父に少年は片手で手招きをすると、彼は少年の後をついてきた。
 そのまま母の目につかないところでぴたりと止まる。少年が父と向き合うと、彼に向かって両手をゆっくり広げた。

「やくそく」

 そう言うと、自分よりも何倍も大きい体が迫り、長く、太い腕に体を抱かれる。濃い潮の香りを纏う父の温もりを感じながら、少年は目を閉じる。筋肉質の父の体はとてもかたいが、今日この頃になってそれが羨ましくも思い始めていた。
 そのまま少年の体が宙に上がると、あっという間に父よりも高い視線になる。まるでダンベルのように体を上下させながら、父は少年と目を合わせて言った。

「先程も思ったが、町を出た時よりも背が伸びたようだ。それに、体も重たくなった」
「成長期だから。あと最近は、体を鍛えることにはまっているんだ」
「なるほど。それは良いことだ。あとで小官が組手の指南をしてやろう」

 そう言うと、父は自分を床に下ろす。靴の裏がフローリングにつくと、「母さんのことだけど」と少年は口を開いた。

「さっき、手伝わなくていいって言ったのは、帰ってきたばかりの父さんに休んでほしいからなのだと思うよ」
「なぜ分かる」
「なんとなく」

 「あと、」母がいるキッチンの方向を一瞥して、少年は続ける。

「日本に立ち寄っていたのは、ほんとうに偶然?」
「ほう。なぜそう思う」

 答えに迷っていた少年だったが、「……なんとなく」とだけ答える。しばらく無言でいた父は、「小官の息子は勘が鋭いようだ」と言って、その大きな手で少年の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。

「物資調達のため、日本に立ち寄ることが急遽決まった。結果、元々一つだった隊が二つに分かれ、小官は物資調達班の配属を上官に申し出た」
「なぜ?」
「土地勘があること。そして、日本語を扱えるのはその場にいた船員の中でも小官が長けていた」
「それはえらい人に言ったことでしょう。おれは父さんの本音を聞きたい」

 少年が言うと、驚いたように目を丸くした父は、「だんだんと物言いがに似てきたな」と言った。それを聞いた少年の体はぽかぽかと温かくなって、ほんの少しだけ口角を上げる。

「日本にはの友人がいる。お前も、昨年日本へ行った時にあの国が気に入ったようだったので、なにか土産を持ってこれば二人が喜ぶと思った」
「そのことを、母さんには言わないの」
のことだ。そう言えば怒ってしまうだろう」

 今も十分怒っていると思うが、父にとってはまだ怒られていない範疇なのだろう。いったい、昔からどれだけ母に怒られているのだろうか。

「父さんが誤解されたままは、いやだな。父さんはこんなにも優しいのに」
「ありがとう。しかしいいのだ。との約束を破った事実は変わらない」
「今度はいつまで家にいるの」
「明後日には再び港へ向かうことになっている」
「そう……。なら、母さんがまたさみしがるね」

 二人きりの時の母を思い出して、少年は目を伏せる。すると、あまり表情を変えない父の顔が崩れる。今日は、父の珍しい顔がたくさん見れる日だ。父は大きく目を開いて、こてんと首を傾げている。

は寂しがっているのか?」
「うん。口にはだしていないけれど、わかるよ」
「そうか」

 途端に、どこか思い詰めたような――よくよく見れば嬉しそうに見えるのはおいておいて――顔になった父。そんな彼の服の裾を、少年はきゅっと引っ張った。

「おれも……父さんがいないと、さみしい」

 少し気恥ずかしくなりながら、少年はもそもそと言う。そんな自分の沈んだ心をすくい上げるようにして、しゃがみこんだ父と目線の高さが合う。
 穏やかな海の水を吸い取ったような父の目の色に見とれていると、少年の両肩においた父の手は、するりと滑って少年の手を優しく握った。

「二人には、心配ばかりかけてすまないと思っている」
「ううん、それはいいんだ。市場の人がフルーツを売るのと同じで、国を守るのが父さんの仕事だから」
「理解のある家族を持って、小官は幸せ者だな」

 どちらからともなく、再びハグをする。強くて優しい、父の愛を受け止める。少年も父と同じ力で抱き返したいが、この小さな体が大人になるにはまだ程遠い。
 もっと大きくなれば、なれるだろうか。父のように強く勇ましく、母のように凛々しく逞しく……二人のような人間に、おれも。

「小官がいないあいだは、お前がを守るのだぞ」
「うん。もちろん」

 「良い子だ」最後に自分の頬にキスを落として、父は立ち上がった。父とのふたりごとを終えてキッチンに戻ると、母は自分が買ってきたリンゴの皮を剥いているところだった。

。小官はなにをすればいいだろうか」
「お風呂に入ってきてください」
「了解した。二分で入ってこよう」

 「一時間は出てこないで」母さんの返答を聞いているのかいないのか、父はささっと脱衣所へ向かってしまった。
 はぁ、と上から深いため息が落ちてくる。少年は手洗い場で手を洗いながら、シンクの前にいる母の隣に立った。

「荷物が解き終わったから、おれも皮を剥くよ」
「ありがとう」

 少年は自分用の短い包丁を取り出して、つまみ食いをした分のリンゴを手に取った。
 皮を剥きながら、市場に行った話をした。馴染みの女店主が母のアップルパイが食べたいと言っていたと伝えれば、「そう。なら、今夜にでも届けないとね」と母は端的に言った。そこから話は広がることはなく、シャリ、シャリ……皮から剥がれたリンゴの実が弾ける音を聞き続けた。
 少年は無言の時間に身を浸す。クールな母とはあまり会話が続かないが、この空気感は少年にとって心地の良いものだった。話したい時にだけ、話せばいいのだから。

「けが、していなくてよかったね」

 そう言って、少年は母を見上げる。父は軍人ゆえに死と隣り合わせの日々を送っている。なので、父が海の上から戻ってくる時に無傷かどうか分からない。そもそも戻ってくる保証もない。父は毎回涼しい顔で帰ってくるが、それは奇跡に近いことなのだと、このあいだ父の同僚の葬儀に参加して、少年は初めて思った。
 すると、母はふーっ、と長く息をついて、リンゴを剥く手を止めた。「ええ……。本当に」

「手紙には、体のことはなにも書いていなかったけれど、この目で見てみないと分からないから」
「父さんのこと、まだ怒ってる?」
「少しだけ。でも、もういいの」

 帰ってくるのが遅くても……あの人が無事なら、それでいい
 少年は、母が父の無事を祈っていたのを知っている。毎日眠れない夜を過ごしていたことも知っている。今日だって、船が到着する報せを突然受けて、「我必须做点什么何か作らなくちゃ……」と独り言を言って、自分を市場に行かせ、リンゴを買ってくるように頼んだ。
 母も、こうして父を想っている。そんな母の優しさを知っているからこそ、父も母に惹かれたのだろう。周囲の人間が母のことをなんと言おうと、自分も父と同じ気持ちだ。

「二人だけの秘密よ。あの人、すぐに調子に乗るから」
「うん。やくそく」

 こういう、ほんの少しだけ照れ屋なところも……きっと愛おしく思っているのだろう。
 母は美しい笑顔を浮かべて、少年の黒い髪を撫でた。すると、奥からがたがたと物音がすると思えば、「やはり船と違い、家のシャワーは気持ちがいい」と下着一枚の姿で父がやってきた。母の機嫌が再び下がる気配がして、少年は早い手つきで残りの皮をシャリシャリと剥き始める。

「濡れた体でキッチンに入ってこないで」
「すまない。ところで、小官の着替えはどこにあるだろうか」
「着替えはおれが出すよ。そのあいだに父さんは体を拭いておいて」
「ありがとう息子よ。とても助かる」
「着替えが終わったら、しばらくこの子と遊んであげてください。夕食ができたら呼びます」
「うむ。では、そのあいだに外で組手でも――」
「汚くなった体で食卓を囲まれるのは嫌です」
「なら、日本語を教えてほしいな。サマトキとジュートと母さんの友だちに、手紙を書きたいんだ」

 「あぁ、もちろんだ」父は柔らかく微笑み、母はほっとしたように息をついた。汚れた体で食卓を囲みたくないのではなく、せっかく綺麗になった父の体を汚してほしくないのだろう。父も父で、母にこう言われるのを分かっているはずなので、少しでも母の気を引きたいように少年の目には見えた。