罪と罰がかぎりなく透明になるところ
「銃兎さーん。起きてくださーい」
うるせえな。こっちは仮眠中だぞ。もう少し寝かせろ――沈んでいる意識が部下の声を跳ね除ける。それでも引き下がらない彼女は、「じゅうとさーん。じゅーとさーん。おとーさーん」と何度も呼びかけてくる。最後のお父さんってなんだ。お前の父親は今牢屋の中だろうが。
「もー。今日は布団干したいから早く起きてって、昨日言ったじゃないですかあ」
布団? なんでお前がそんなことをする。それにお前は昨日非番だったから、俺とは一度も会ってないだろ。浮き上がった疑問が睡魔を揺さぶって、不本意にうっすらと目が開いた。
「おはようございまーす」
視界に朝の光が差し込み、目の前で笑顔のが手を振っている。目を細めながら、ずいぶん眩しいな、と思ったら、なぜか壁は真っ白だった。おかしい。俺が入った仮眠室の壁はグレーだったはずだ。それに――
「なんで……お前、エプロンなんて付けてるんだ……」
「なんでって……汚れるからですよ。朝のキッチンは戦場なので」
なんでそんなこと聞くんですか? と言いたげな顔で、は首を傾げる。普段料理なんてしないお前が、なんで朝からキッチンに立つんだ。いや、そもそもキッチンとはなんだ。給湯室の間違いじゃないのか。
「ほらあっ。顔洗ったら目ぇ覚めるんで、さっさと洗面所行ってくだー、さいっ!」
の声とともに、掛け布団を勢いよくばさッと剥がされた。おい……いくら長い付き合いだからって、やっていいことと悪いことがあるぞ。
しかし、掛け布団はそのままによって回収されてしまったので、起きる以外に選択肢は残されていなかった。くそが、と掠れた声で悪態をつき、渋々上半身を起こす。未だに上手く開かない瞼を両手で覆い、息をつく。冷える外気に無理矢理覚醒させられて、気分は最悪だった。
「(ったく、なんなんだ……)」
奇行に走っているは無視することにした。スマホで時間を確認すると、午前七時半。ほとんど眠らず過ごした三日間を経て、ようやく獲得できた半休(とはいえ、家に帰る時間も惜しかったので、署の仮眠室で過ごすことにしたのだが)。それでも、に起こされなければ少なくとも昼までは眠れたはずだ。
こうなったら、奪われた睡眠時間分だけをこき使うことに決める。ベッドの脇で布団のシーツを剥がしているを恨めしく見つめて、俺は枕元に置いていた眼鏡をかけた。
「……は?」
「銃兎さんが早く起きないから、とっくに朝ご飯冷めちゃってますよ。自分であっためて食べてくださいねー」
そう言って、は布団を抱えて部屋から出ていった。とっとっと、と彼女の足音が遠くなっても、俺はベッドから降りられずにただ呆然としていた。
「(ここは……どこだ?)」
鮮明になった世界。そこはヨコハマ署の薄暗い仮眠室ではなく、七畳ほどの小綺麗な部屋だった。白い壁に木目調のフローリング……。まったく身に覚えがない場所に、流石の俺も状況がつかめない。
「(ヨコハマ……ではあるな)」
ベッドから起き上がりレースカーテンを開けると、窓の外から観覧車が見えた。ようやく馴染み深いものが見られて、ひとまずは胸を撫で下ろす。
とにかく、この場所についてを問い詰めなければ。早足で部屋を出ようとすると、突如別の部屋のドアから人影が現れた。
「親父ー。お袋がもう出かけるからピローカバーも出しておいてってさー」
間延びした声の主と目が合う。もし、この瞬間に背後から撃たれでもしたら、間違いなく俺は即死だった。それほどに虚を突かれた。
「親父?」
そこには、学生の頃の俺とそっくりな青年が立っていた。
「おや、じ……?」
「ん? どうかした?」
青年が首を傾げたところで、また別の部屋から音がする。それがの足音だと分かったと同時に、彼女の顔だけが曲がり角からひょこっと覗いた。
「それじゃあ、お母さんそろそろ出るからー。洗い物は二人でよろしくね~」
「お~。お袋いってら~」
はじっと俺を見つめている。そして、隣に立っている青年がちら、とこちらに目配せをした気配があって、「……いってらっしゃい」となんとか声を絞った。腹の奥から溢れるむず痒さが収まらない。
すると、は満足したようににっこり笑って、「いってきまあす」と手を振った。がちゃん、と閉まったドアの音を聞いて、沈黙が落ちる。
……おかしいだろ。ここはどこだ。意味が分からない。いや、分かるが、認めたくない。夢だとしたら、起きてからの自己嫌悪は必至だ。とにかく、夢なら早く醒めてくれ。
「親父、まだ寝ぼけてる?」
祈りは届かなかった。
俺は青年と一緒に(が作ったらしい)朝食を食べていた。インスタント製品しか作れないが野菜を切り、鍋で煮込み、味付けができるなんて信じられなかった。
夢にしてはなにもかもが現実味を帯びていることに驚きを隠せない。顔を洗った水も冷たく、口に入れた食べ物できちんと腹が満たされている。なにより、自分の意思がしっかりしていた。歩こうと思えば足は前へ出るし、何かを食べようと思えば手は勝手に動く。俺が知る夢とは程遠い感覚だった。
状況理解をいったんは諦めながら、朝食として出されたクラムチャウダーを口に含む。濃くもなく薄くもなく……それでいて細かく切られた野菜の味はしっかりと生きていて、普通に美味しかった。
まあ、これだけならまだいい。
「食欲があるならまだいいけどさあ。親父、ほんとに体調悪いなら病院行ったほうがいいよ。今日って病院やってるっけ」
問題は、俺を“親父”と呼んでいるこいつだ。
正面に座ってクラムチャウダーをスプーンで掬って食べている青年は、どこからどう見ても学生時代の俺だった。しかし、声のトーンは別物なので俺ではない。寝惚けていると思いたいが、これはそんな単純な話ではなさそうだった。
ひとまず、適当に話を合わせてこの場は乗り切ることにする。夢相手にこんなことをするなんて、――俺が知っている、“お袋”ではない方のあいつだ――に腹を抱えて笑われそうだ。
「平気だ。少し、寝惚けていただけで」
「とか言って、まだ寝ぼけてるだろー。親父が敬語じゃないの珍しいなー」
さっそくしくじった。しかし、青年は何も疑っていない顔で牛乳をごくごくと飲んでいる。
こいつが子供でよかった。ふ、と息をついた俺は、平然を取り繕いながら改めて言い直した。
「そうですね。そうかもしれません」
やんわりと笑って、クラムチャウダーを口に運ぶ。あまり彼とは会話はしないでおこう。今はこの夢に従って、時を見てあの部屋に戻る。二度寝でもすれば、このおかしな現実も覚めることだろう。
「嘘だよ」
突如、穏やかな空気が破れた。不覚にもスプーンを止めてしまった手を恨めしく思いながら、俺は顔を上げる。
「自分の子供にまで、敬語使ってるわけないだろ」
あんた、誰?
青年の目は据わっている。の目の色をそのまま写し取ったような色をして、彼は俺を睨んでいた。自身の存在が危ぶまれる感覚を味わって、確信する。
この、現実のような夢は……実際に今、俺の身に起きていることなのだと。
「ふうん……。昔の親父ねえ……」
「その“親父”って呼ぶのはやめてくれ。高校生の親だと思うと複雑な気分になる」
「んじゃあ、銃兎さんで」変な感じだけど、と青年は続けて笑った。
食べながらする話ではないと思い、二人で朝食を済ませて洗い物をし終えた後、俺は青年に事情を説明した。俺ならば頭の異常を疑うところだが、青年はこんな嘘のような話を真剣に聞き、「なるほどなー」とすぐに信じた。さっき見たあの目つきはどこ行った。
「なんだろうなあ。親父、昨晩までは普通だったんだけどなあ」
ん~、と腕を組んで考えているこの青年は、と俺の間に生まれた子供らしい。信じられない。あり得ない。彼の存在を受け入れられないでいると、「なんで? 銃兎さん、お袋のこと嫌いなの?」なんて言うものだから、言葉に詰まった。
「とりあえず、左馬刻さんに電話してみる? 理鶯さんは今海外にいるから連絡とれるか分かんないけど……」
「いや、今はまだいい」
スマホを操作し始めた彼を止める。ここが夢の中なのか、それとも――一番信じたくない可能性だが――未来の世界なのか分からない以上、闇雲に話を広げて、左馬刻に頭がイカれたと思われるのは心外だ(俺が逆の立場ならそう思う)。二人に相談するのは、あらゆる手を尽くしてどうしようもならなかった時の最終手段にしよう。
そもそも……こいつは左馬刻や理鶯と知り合いなのか。理鶯はまだいいとして、左馬刻とは大丈夫なのか。あいつは反社だぞ。まさか“俺”が会わせたのか。いくら左馬刻とはいえ、自分の子供を裏社会の人間と繋がりを持たせるのは如何なものか。もしも“俺”がこの場にいたら、自分自身に説教をしていたところだ。
「そんな顔しなくても大丈夫だって。いつかは戻るんじゃない? 三日くらい経って戻ってなかったら考えればいいじゃん」
青年が言う“そんな顔”というのは分からないが、その言葉を聞き入れるつもりはなかった。「そんな悠長なこと言ってられるか」と彼を一蹴して、壁にかかっている時計を見る。すでに午前九時を回っていた。早くこの状況をどうにかしなければ。
「まーまー、そう言わずにさ。このまま考えても仕方ないし、とりあえずゲームでもしよう」
「は?」
ソファーから立ち上がった青年は、テレビ台の下からいくつかの機器をがちゃがちゃと取り出していく。おい待て。
「俺の話聞いてたか」
「聞いてたよ。でも、今ここでできることなんてないだろ?」
「それに、今日は親父とゲームするって約束してたんだ」それはお前の親父の俺であって俺じゃない――そう言おうとして、現実の俺は今どうなっているんだという疑問が生まれる。現実世界にはいないのか。それとも仮眠室で寝ているのか。それならこいつの“親父”の俺は今どこにいるんだ。考え出したらキリがない。問題が山積みで頭が痛くなってきた。
「まーたそんな難しい顔して~」
「お前のせいだ」
「おーこっわ。じゃあこうしよう。おや……じゃなくて、銃兎さんがこのゲームで一位とったらまた色々考えるってことで」
青年は今からやるであろうゲームのパッケージを見せる。よく街中で見るキャラクターがスポーツカーのようなものに乗っている。どうやらレースゲームのようだ。
正直、こんな遊びに付き合っている暇はない。しかし、目の前でにやにやと笑っている青年の顔を崩してやりたい欲がふつふつと沸き起こってきて、自分の中で天秤が生まれた。
「……お前が勝ったら?」
「ひたすらゲームしまくる。銃兎さんが勝てるまで付き合うよ」
お互いにフェアな条件に見せかけて、ちゃっかり自分の欲求を満たしている青年。様々な種類のボタンがあるコントローラーを一瞥して、俺は呆れたように息をついた。
「お前……に似てるな」
天秤は傾いた。青年の手からコントローラを受け取りながら俺は言う。すると、にっこり笑った彼は、「“親父”にもよく言われる」と言って、俺と色違いのコントローラを手に取った。俺と同じ顔ような顔をしているのに、笑った顔はのものとよく重なった。
「あ゙ーッ! アイテムボックスの下にバナナは卑怯だろ~ッ!」
「俺は犯人を捕まえるためなら手段を選ばない」
「いやこれそういうゲームじゃないから――って、なんか飛んできたしッ!?」
口を動かしながらも、全神経はテレビに集中していた。指先でコントローラーをかちゃかちゃと操作して、テレビの中にいるキャラクターを操り、車を走らせていく。
有名なゲームらしいが、やったことはなかったので青年にやり方を教えてもらった。非現実的なアイテムや障害物があるくらいで、要領は現実世界の車とほぼ同じ。コツはすぐに掴んだ。しかし、現状一位を独占しているのはコンピューターだ。そして、俺の順位は青年より下回っているので、そろそろ勝ちたいところではある。
「おい誰だ変な甲羅飛ばしたやつッ」
「それ、NPCじゃない? レベルやばいやつにしたから」
「どういう意味だ」
「コンピューターがくそ強い」
「はあ!? どうりで外野からの妨害が多いと思ったんだ……ッ。これじゃあいつまで経っても一位取れねえだろッ」
「すぐに終わったら面白くないと思ってさ~っ。……あッ! またゴールされたッ!」
コントローラーをテレビに投げつけたい。いつまで経っても勝てない要因の一つを見つけて、大きく舌打ちをする。なんで夢の中にまでイラつかないといけねえんだ。
「もうやめる?」
「いや、まだだ。どっちかが一位取るまでやるぞ」
中途半端で負かされるのは俺のプライドが許さない。すでに次のステージが用意されているテレビ画面を睨みつけながら、操作するキャラクターを選ぶ。
「お前もさっさと選べ」と早口で青年に促すと、ぱちぱちと瞬きした彼はすぐに笑顔になって、「おー! 二人でNPC負かそうな!」と元気よく言った。コンピューターを負かしたら次はお前の番だ。そうやって笑っていられるのも今のうちだからな。
あれから、どれだけ二人で対戦をしてもコンピューターには勝てなかった。俺としたことがたかだかレースゲームで熱くなりすぎてしまい、当初の目的を忘れつつあった。
「銃兎さん、ちょっと休憩しよ~」そんな青年の声で我に返り、俺はようやくコントローラーから手を離した。青年が淹れてくれたコーヒーを飲みながら、酷使した目を休める。時計を見れば、ちょうど十一時を回ろうとしていた。かれこれ二時間はカーチェイスをしていたことになり、年甲斐もなく夢中になっていた自分自身に呆れた。
こんなにも熱中してファミリーゲームで遊ぶなんて、親が生きていた頃以来かもしれない。いや、そもそもこういうゲームはうちになかったから、きっと初めての経験だ。全世界の子供や大人がこぞってこの会社が開発したゲームを買う理由が分かった気がした。
「銃兎さんってさ、どこでお袋と知り合ったの?」
同じくコーヒーを傾けている青年が尋ねてくる。答えるつもりはなかったが、こういうことになると、「え~っ。いいじゃないですかあ~」と俺が折れるまで聞いてくるを思い出して、渋々口を開いた。
「……職場だ」
「職場……って、銃兎さん警官じゃん。え、まさかお袋も警官だったの?」
「知らなかったのか」
「すごい初耳」青年はかなり驚いているようだった。となると、今のは警察を辞めていることになる。
「から何も聞いてないのか」
「うん。なんも。親父もお袋も、仕事のことはあんまり家で話さないからさ」
「仕事……。なら、は今何をやってるんだ」
「心理カウンセラーだよ」
意外な単語が出てきて、すぐに反応できなかった。俺が黙っていると、「そんなにびっくりした?」と青年は言った。
「専属じゃなくて非常勤だから、いろんなとこに行ってるっぽいよ。学校とか、病院とか……。今日はたしか、更生施設だったかな」
「更生施設?」
「薬物依存更生施設……みたいな?」
“みたいな?”ではなく、きっとそうだろう。今の状況について飲み込めないことの方が多いが、の考えていることは手に取るように分かる。警察を辞めて、あいつなりに考えて決めた、新たな道に歩んでいるらしい。
それがいいことなのか、悪いことなのか……を引き抜いた俺の立場からはなんとも言えないが、今がこうしているのであれば、ここでの俺は特に何も言わなかったんだろう。
「お袋の父親……というか、俺のじいちゃんなんだけど、薬物関係で悪いことしたみたいでさ」
「あ、これって言ってよかったのかな」と青年は苦笑する。言ってから言うな。それに、お前の祖父にあたる人間を牢屋にぶちこんだのは俺だが、話を聞く限り、おそらくそれも伏せられている。賢明な判断だ。身内に犯罪者がいるだなんて、子供に話す内容じゃない。
との出会いから、様々なことがあった。薬物を取り締まることによって、人生が狂わされる人間がいることを知った。あの憎き存在を頼ることでしか生きられない人間がいることを知った。事実、は薬物の忌々しい恩恵に預かって、今こうして生きている。
誰かのための正義は、誰かにとっての悪――それがどうした。その“誰か”を守るために、俺は警官になったわけじゃない。薬物のそのものを滅するために、俺はどんな道であれ突き進んでいく。は、その途中にあった戦利品のようなもので、気まぐれに手入れしてやったら思いのほか手に馴染んで、使い勝手もよく、手放す理由もなくなった……ただそれだけの話だ。
「……まあ、そうだな。色々あった」
「ふーん。やっぱりそっか」
「お前、俺たちは“話さない”ってさっき言ってただろ。なんでの親父のことは知ってるんだ」
「へへ。親父とお袋がいない時に色々と調べたりしてるからさ。……あっ、二人には内緒にしておいて。怒られんの嫌だからさ」
誰が言うか。青年の性格はとことん寄りだ。俺ではない決して。むしろ、怒られた方が今後こいつのためになるんじゃないかとも思う。
「(……くそ、)」
青年と関わるにつれて、この現状を受け入れつつある自分がいる。朝食を食べても、ゲームをやっていても、こうして青年と話をしていても……俺の知る現実に戻る気配はない。俺が仮眠しているあいだに、ヨコハマ署が襲撃に遭ったのか? 違法マイクを持った集団にふざけた催眠をかけられているのか? そうであればまだ幾分楽だと思っている自分が、ひどく情けなく思えた。
――とん、と眉間に何かが触れる。それが青年の人差し指だと分かると、口元を緩めた彼と目が合った。
「すーごい皺寄ってる」
青年に言われてから、俺は顔をさっと伏せる。「大人をからかうな」と言って壁を作るが、彼はいとも容易くその壁を踏み越えて、俺のところまですたすたと歩み寄ってくる。
「まだ信じられない?」
「なんのことだ」
「銃兎さんとお袋があれこれやって俺が生まれたこと」
「その言い方やめろ」
「ごめんって。なんか楽しくてさ」
青年は笑う。言葉通り、本当に楽しいのだろう。それはそうだ。自分の父親が過去の記憶だけをもって目の前にいるのだから。俺は全く楽しくないが。
「詳しいことはまだよく分かんないけどさ。銃兎さんは色々考えすぎなんじゃない? 左馬刻さんもよく言ってるし」
「左馬刻のことは気にするな。それに、お前はまだ子供だからそんなことが軽々と言えるんだ」
「うわっ。今の言い方、親父にそっくり」
茶化すな。顔を顰めれば、「ごめんって」と言って、青年はまた笑う。
俺が見ている彼は、ずっと笑ってばかりいる。逆に言えば、必要以上の不幸も、喪失も、痛みも……なにも知らない、真っ当な子供のように見えた。
きっと、育て方がいいのだろう。彼とは数時間しか過ごしていないが、周りから愛されてここまで育ってきたことは、十分に伝わってきた。両親の罪の重さや罰の苦しみを、感じさせないほどに。
との関係について言葉を濁しながら話していたら、だんだんと微妙な空気になる。それを吹き飛ばすように再びゲームをやり始めた。いつまで経っても倒せないコンピューター相手に二人であれこれと作戦を立てながら試行錯誤をするのは、中々癖になるものがあった。
その甲斐あってようやくコンピューターから奪い取った一位に、「よっし……!」と俺は柄にもなく拳を握った。俺に続いて二位になった青年も、「よっしゃ~っ!」と嬉しがった。彼に求められるがままハイタッチをしてからはっとしたが、青年とともに味わった達成感はそんなことでは消えなかった。
頭を使うと腹が減る。もうすでに昼前になっていたようで、時計を仰いだ青年は「なんか作ったら食う?」と軽く言った。
「銃兎さんはそのまま座っててよ。客人はもてなすものだからさ」
そう言った青年が作ってくれたものはチャーハンだった。変わったものは入っていない、至って普通のチャーハンだ。お椀の形に盛られたチャーハンはぱらぱらとしていて、スプーンで掬えば、端からぽろぽろと米粒が零れる。一口食べればとても懐かしい味がして、「……うまいな」と気がついたら口から感想が漏れていた。
「チャーハンの素とねぎと卵で炒めただけなのにな~」青年は笑って、俺の隣でチャーハンを食べている。もしかしたら、うちの親もそうやって作っていたのかもしれない。お椀に詰めたチャーハンの半球形に喜んでいた……純情だった頃の自分を思い出す。幸福な家族の形を知る……自分自身を。
「銃兎さん、眠い?」
あと数分で十二時を回る。チャーハンで腹が満たされたら、一気に眠気が襲ってきた。ソファーで舟を漕ぎ始めている俺に話しかける青年の声も、だんだんぼやけつつあった。
「飯食うと眠くなるもんなー」もう、彼の言葉に返事をする気力は残っていなかった。肩から膝にかけて暖かいものが被さると、さらに体が重たくなる。
「また一緒にゲームやろうな。銃兎さんが勝てるまで、何度もさ」
なら、今度はコンピューター抜きでやるぞ――そう思っただけで、口から出ることはない。頭の中にいくつもある意識や感覚のシャッターが次々に落ちていき、最終的に残ったのは五感のうちの何個かだけだった。
チャーハンの残り香と、秒針の音。隣にいる誰かの気配を感じながら、こんなにも穏やかに微睡めるなんて、普段の俺からは考えられなかった。
「……おやすみ。銃兎さん」
俺と同じ血を分けた青年は、別れを告げる。まるで、幼子に語りかけるような穏やかな声。笑顔で俺に手を振る彼を、瞼の裏で見た気がした。
「銃兎さん、おはようございまーす」
容赦なく入ってきた光に目をしぼめる。聞き慣れた女の声は、俺の沈んだ意識に遠慮なく土足で入ってきた。
「銃兎さーん。起きてくださーい」
「十二時になったら起こせって言ったの、銃兎さんですよ~」女の……の声を受け入れたくないと、まだ眠り足りないと本能が叫ぶ。睡眠の妨害から逃れようと寝返りを打とうとした時に、彼女の声はぴたりと止んだ。
……なにやら嫌な予感がする。がこんなにも素直に言うことを聞くなんて思えない。俺は睡魔を無理矢理退かして、早々とベッドから起き上がった。
「あっ」
そこには、業務用のスマホを向けている。そのカメラレンズと目が合って、苛立ちの意味も含めて眉を顰める。思った通りだ。
スマホからぽろん、と音がして、それに隠れていたの顔が露わになる。てへ、と声が聞こえてきそうな……むかつくほど清々しい笑顔を浮かべていた。
「今撮っただろ」
「撮ってないです~」
「嘘をつくな」
「写真じゃなくて動画なので」
「消しなさい」
「はぁーい」唇を尖らせてスマホを操作する。油断も隙もあったものじゃない。そのあいだに両腕を伸ばしたりして、凝り固まった体をほぐしていく。ただ寝ていただけなのに、体は眠る前よりも疲れている気がした。
「そういえば、銃兎さんにしては珍しく爆睡してましたねえ」
俺がベッドの縁に腰をかけると、はハンガーにかかっていたスーツを手に取って渡してくる。「いい夢でも見てたんですかー?」と茶化した口調で尋ねてくるに、馬鹿言うな、と返そうとしたところだった。
――「また一緒にゲームやろうな。銃兎さんが勝てるまで、何度もさ」
……今はまだ、明瞭に覚えている。それでもきっと、あと数分もしたら輪郭からぼやけていって、あんな夢を見たことすら、忘れてしまうだろう。もちろん、あの人懐っこい青年のことも。
あんな夢を見ることすら許されないほどのことをしている自覚はあるのに、それを手に取っていつまでも眺めていたいと思うほど……俺は、この期に及んで人並みの安らぎに飢えているらしい。
……それでも。
「……まあ、そうだな」
どうせ、忘れてしまうのであれば――覚えている今だけは、幸福と名のつくものを与えても。そのまま、誰にも知られることなく消失していく分には、神も見過ごしてくれるだろうか。
「へえーっ。ちなみにどんな夢でした?」
「忘れました。さて、業務に戻りますよ」
「ええ~? それってなんか矛盾して――って、銃兎さん待ってくださいよ~っ」
興味津々で聞いてくるをあしらいながら、俺は仮眠室のドアを閉めた。
