俺が愛するひかりたちへ
「そういえば、できました」
ある日の夕食の時間――は突然話を切り出した。
が突拍子のない話をするのは今に始まったことじゃない。かと言って、日数を重ねても俺の察しが良くなるわけではなかったので、俺はこれといったリアクションも取れないまま、本日のメインであるチーズグラタンをもぐもぐと咀嚼していた。このグラタンほんとうに美味しいな――ではなくて。今はのことだ。
一体なにができたのだろう。先月から編んでいるというひざかけ? もうすぐプレオープンするという大型ショッピングモール? それとも、実は夕食にもう一品作っていたり? 俺はが作ってくれたグラタンでお腹も心もいっぱいだというのに、はこれ以上俺を満たしてくれるっていうのか。彼女は俺を一体どこまで虜にさせるつもりなんだろう――ではなくて。だめだ。今日のグラタンがあまりにも美味しすぎて、グラタンのことしか考えられない。
まあ、俺があれこれ考えたところでが持っている答えに行き着いたことはほとんどない。俺は早々と白旗を上げて、グラタンを掬っていたスプーンを下ろした。
「えっと……なにができたんだ?」
「赤ちゃんです」
ちょうど口の中に入っていたマカロニの欠片が咽頭をするんっ、と滑る。それが本来食物が入ってはいけない気管に入り込んで、俺は涙目になって噎せ返ってしまった。
がわざわざ食卓を回り込んで俺の背中を叩いたり撫でたりしてくれているときも、俺の頭はずっと“アカチャン”の文字で満たされていた。
そういえばそんなこともあったなぁ――風に身を任せて流れゆく雲を仰ぎ見ながら、俺は感慨に浸る。こうして落ち着いて空を見上げる余裕ができるなんて、数年前の俺は想像もしていなかっただろう。今の俺だって未だに信じられない。
の妊娠が分かってから、社内のブラックな空気がグレーくらいにまで薄らいだように思う。有給休暇は取りやすくなったし、ダメ元だった育児休暇の申請も難なく通った。課長は最後の最後まで渋っていたが、「女だけの育児は時代遅れです。男性の育児休暇取得は社員の義務ですので」と人事のトップに真正面から言われては、あの課長も黙るしかないようだった。おかげで、休んだ日の翌日に俺が出勤をしてきても、不服そうな視線を向けられるだけで、これといった嫌味を言われることはなかった。
その育児休暇も何年か前に終わったが、日付を跨ぐ残業や休日出勤も目に見えて少なくなった。まあ、少なくなっただけで、完全になくなったわけではないのだが。
「パパ」
そう――これもすべて、この子が生まれてからだ。
とたたっ、と駆け寄ってきた我が子は今年で五歳になった。大きな病気や怪我もせずにここまで育ってくれたことについては、俺が外でへこへこと頭を下げている間に家で育児をしてくれているに感謝するしかない。
「もういいのか?」「うん」ばいばい、と散歩の途中で会った友達に手を振る俺の子。近所の公園で散歩をしていたら、幼稚園の友達とその母親に会って、今まで子ども二人が微笑ましく遊んでいたのだ。俺はその子の母親に軽く頭を下げると、彼女もにこやかに会釈をした。この子と一緒にいるときは、俺は何度も頭を下げないように意識している。その理由は後ほど説明したい。
「パパ。おうちかえろ」
「あぁ。そうだな」
きゅむっ、と可愛らしい効果音が聞こえてきたのは俺の幻聴ではないはずだ。当たり前のように、この子は隣に立つ俺の手を握る。他人からしたら、親子なのだから当然と言えばそうかもしれないが、俺にとっては奇跡に近いことなのだ。仕事に復帰してからは家にいる時間が短くなったので、この子の自我が表れ始めるにつれて、懐いてくれないんじゃないか、父親と認識されないんじゃないかと、不安で眠れない日もあったほどなのだから。
しかしそれも杞憂に終わって、今では俺が家にいる時は、「おさんぽ。パパ、おさんぽいこ」とこの子から誘ってくれる。天使のような優しさを持って育ってくれて、俺は心の中で嬉し涙を流した。
「かわいいなぁ……。うちの子はいつ見てもかわいいなぁ……」
「パパはいつみてもかっこいいね」
「はゔぅッ……!!」
この子を見るたびに、俺は無意識に“可愛い”、“天使だ”と言ってしまう。すべて事実なのだから仕方がない。最初はこの子も嬉しそうにはにかんでいただけだったが、最近では返事がくるようになって、この通り、俺がでれでれになるオチが決まっている。娘への溺愛っぷりが本人に筒抜けになっている気恥ずかしさよりも、この子の口から飛びだした言葉一つ一つに、俺の心臓は強く打たれるのだ。
産婦人科でこの子の産声を初めて聞いたとき、俺はその場で泣き崩れた。分娩室から出てきた助産師さんと看護師さんが、生まれたばかりの赤ちゃんよりも部屋の前で待機していた俺を心配するほどだった。あの時は周りを気にする余裕なんてなかったが、今は思い出すだけで恥ずかしい。
なんとか正気を取り戻した俺が分娩室に入ると、汗だくになっているがベッドの上でぐったりとしていた。ありがとう、お疲れさま、ありがとう、ありがとう――再び緩みそうになる涙腺をぐっと締め上げて、俺は似たような言葉をに何度も伝える。涙でぐしゃぐしゃになっているであろう俺の顔を見上げたは、うん、うん、と頷きながら微笑んでくれた。
そんな彼女の腕の中には、まだ目も開けられない大事な我が子。の隣でひとしきり泣いた後、抱いてみてくださいとに促されて、俺は狼狽えながらふにゃふにゃのこの子を両腕で抱き上げた。そして、思ったのだ。
あぁ……この子は、俺の命に代えても守らなければ。
俺は、が退院するまで彼女を全力でサポートした。が退院してからも育児休暇中の俺はほとんど家にいて、二人で育児をしていてもやることがないという時間はなかった。
「ちゃんと一緒にちゃんと育児すんだぞ~っ? 独歩は言われないと何もやらないかんな~っ」と一二三に事前に言われた通り(一二三と暮らしていた時に本当に言われなければ何もやらなかったのでぐうの音も出なかった)、俺は会社の同僚パパのアドバイスを参考にした。水回りの仕事は率先してやったし、出産という大偉業を成し遂げたに息抜きしてもらえるような環境づくりに励んだ。あの会社にいたおかげで空気を読むことだけは得意になっていた俺なので、がやろうとしていることを予測して、家事育児に関わることは俺が先に手をつけた。
から不満の声が出ないかとどきどきしていたが、幸いにもなかった。むしろその逆はあった。ある日、あまりにも俺がこの子に構うものだから、「独歩くんは休んでいてください」と少し頬を膨らませてからこの子を取り上げられてしまったのだ。その時は、「あ……。す、すみません……」と思わず謝ってしまった俺。家の中でに謝るのは久々だった。
そんなこんなで、との二人三脚育児はほぼ滞りなく進み、この子も年月を重ねていくうちに成長する。親としてはとても喜ばしいことなのだが、ここで問題が発生する。
この子が成長するにつれて、顔のパーツが徐々にはっきりしてくる。生まれたての頃は開いていなかった目が開いて、俺と同じ色の目をしていることが分かった。うぶ毛だった髪の毛は徐々に赤みを増して、俺と同じ色の髪がふわふわと生えてきた。ん? と俺は首を傾げる。なんということだろう。と似ているところが一つもない。
は、「独歩くんのいいとこどりですね」と喜んでいたが、俺は愕然としていた。俺の遺伝子が濃すぎる。なぜだ。女の子は父親に似るという噂を聞いたことがあるが、それは本当だったようだ。そして、俺は再び思った。
……中身まで俺に似てしまったらどうしよう。
根暗で、不運で、自信がなくて――俺はそんな我が子ももちろん愛するし、この子の前に立ち塞がるありとあらゆる敵に挑む覚悟だが、それでは駄目だ。この子が生き辛く感じる人生なんて、俺が耐えられない。もしこのまま成長したら、俺に似た、自己肯定力皆無の子どもになってしまう。俺だけならまだしも、この子にまで俺のような苦しい思いをさせるわけにはいかない。
そう思った俺は、俺のようにならないように、ということを肝に銘じながらこの子と接した。言葉の意味が分かるようになってからはママの真似をするように、と言い聞かせて、俺もこの子に真似してほしくないことは極力この子の目の前でしないように意識した。すみません、とすぐに頭を下げて謝る癖、ぶつぶつと独り言を言う癖、何かあると自分を責めてしまう癖――あぁ、こんな俺の遺伝子を半分持ってしまった我が子に申し訳ない。俺が責任をもって人生の道の歩き方をきちんと教えるから、安心してすくすく育ってほしい。
「パパ?」
「えっ? な、なんだ?」
「よんでみただけ」
そう言って、俺の子は目を細めてにこ、と笑った。この子は一日に何度も俺の心臓に電流を流す。弊社オリジナルのペースメーカーもびっくりだ。ちなみに今のは呻き声すら出なかった。今日も俺の子がこんなにも可愛い。
「独歩くん」「なんだ?」「呼んでみただけです」――きっとこの子は、俺とのやり取りを真似したのだろう。俺はそういうのお茶目なところを見るだけでもきゅんとするのだが、その後の、呼んでみただけ、と言いながらふふ、と笑うの顔も堪らなく可愛いのだ。俺が“独歩”という名前で良かったと両親に感謝する瞬間でもある。もっと呼んでくれ。
……話が逸れた。まあ、そんな俺の教育の甲斐あって、この子はに似てくれた。その歳にしては落ち着いていると言われることがあるが、俺と違って幼稚園の友達も多いし、今のところはなんの問題もない。あと、俺よりも肝が座っていて、このあいだ蛇を素手で捕まえてきた時は腰が抜けたし、先生の髪で三つ編みをしていたのを見た時は悲鳴を上げた(先生は笑顔で「いいんですよ」と言ってくれた)。この勇敢さとマイペースさはまさしくの遺伝子だ。できることならば、このまま俺の遺伝子は影に潜んでほしいものだ。
「おかえりなさい」
「ただいま」
「ただいまママ」
家に帰ると、と夕食のいい匂いが俺たちを出迎えた。二人で手を洗ってリビングに戻ってくると、この子は俺が胡座をかいて座ったところにできた真ん中のスペースにちょこんと座った。うぐ……ッ、だめだ顔がにやける……。
「そういえば、お義母さんから電話がありました」
しゃもじを片手には言った。詳しく聞けば、来年小学校に通い始めるこの子のランドセルの話をしていたらしい。の両親は亡くなられているので、うちの親が買うことになっており、来週にでも店に行って下見をしようという話を前々からしていたのだ。
「らんどせる……!」
ランドセル、という単語を聞いただけでこの子の目がきらきらと光る。南国の海みたいでとても綺麗だ。俺たちもランドセルを背負ったこの子の姿を見るのを楽しみにしているが、一番心待ちにしているのはやはり本人だろう。
「ランドセルの色、調べてみるか?」
あまりにもこの子の反応が可愛くて、俺はスマホを片手に尋ねてみた。すると、うん、うん、と首を縦に振る俺の子。何度も言って申し訳ないが、俺の子は本当に可愛い。いくらでも目に入れられる。
スマホを操作しながら、ランドセルを買う予定である店のホームページを見る。ランドセルなら赤か黒しかないと思っていたが、表示されたページには色とりどりのランドセルが並んでいて驚いた。しかも、オーダーメイドにすれば刺繍や縁の色やカバーなど……自分好みにランドセルがカスタマイズができるらしい。す、すごいな……。
「今どきのランドセルはいろんな色があるんだなぁ……」
「あなたはなに色がいい?」
キッチンに立っていたが俺の隣にしゃがみこむ。この子と目を合わせながら質問をすると、一秒もしない間に「くろいろ」とすぐに返事がきた。
「黒色でいいのか?」
「うん。ママといっしょの色にするの」
「えっ。のランドセルは黒だったのか」
「はい。私が入学したときに、赤色のランドセルが余っていなくて」
そっか、そういえばは施設育ちだった。の過去が垣間見えたところで、「黒色でも、今は色々な種類がありますよ」とは言う。言われるがまま、俺は詳細ページをタップしてみた。すると、ランドセル本体の色は黒でも、縁の色が白やピンクなどのものがあったり、刺繍の種類はおしゃれなものからシンプルなものがあったりと、本当に個性が光るランドセルばかりだった。
ランドセルは、どんなものでもいい。お金のことは構わず、この子が気に入ったものを買わせてあげたい。俺の親もこの子を溺愛しているので、財布の紐も緩いはずだ。なんなら俺が出したっていい。
「パパはなにいろ?」
「えっ?」
「らんどせるのいろ」
「パパも黒色だったよ」
すると、この子はにっこり笑って、「パパともいっしょ。うれしい」と言った。本当にこの子は俺の心臓を掴むのが上手い。しかし、逆にこの子が大きくなってから変な男が寄り付かないかとても心配だ。小学校に入学したら何かあった時のためにスマホを持たせなくては。
「お友達とも一緒の色なんだよね」
「うん。いっしょ」
「お友達……? も、もしかして男の子じゃないよな……っ?」
「ううん。おんなのこ」
女の子かぁ……。よかった……。この子の言葉に、俺はほっと息を撫で下ろす。時代が流れるにつれて個性面でも恋愛面でも男女の隔たりはなくなってきているが、それでも心配なものは心配だ。こんな可愛い子を嫁に出す父親はどうかしているとしか思えない。
でも……いざという時に、「パパ。私、この人と一緒に暮らしたい」なんて言われる日が来たら、俺はどうするんだろう。もちろんこの子の幸せを第一に考えたい……考えたいが、俺は小中高大と実家から通ってほしいとさえ思っているので、娘の門出を祝える未来はどうしても想像できない。
あぁ……。ごめんな、ごめんな。「どうして賛成してくれないの」って泣きながら言われたらどうしよう……。くそう。この子の人生を一番に応援したいと思っているのに、俺ってやつは――
「独歩くんに似て、お友達に恵まれてよかったです」
「え……? い、いや、俺の友達なんて一二三くらいだから、きっとに似たんだぞ」
「いえ、私の方がお友達は少ないので」
我に返って、とそんな会話をする。お互いに一歩も引かないでいると、がふっと笑って、「この子だけの魅力ですね」と我が子の頭を撫でた。不思議そうな顔でを見上げるこの子を見て、あぁ、なんて純粋無垢なんだろうと思った。
きっと、この子は俺なんかよりもずっと良い子に育つ。俺と同じ色の目で、俺とは違う景色を……世界の綺麗なものだけを見てほしいと願うばかりだ。
「でもねパパ、おとこのこのともだちともおんなじいろ」
「んなッ……!?」
唐突すぎる言葉が俺の心臓にクリティカルヒットした。お、男の子の友達もいる、だと……? その事実だけで全身から血の気が引いた。
目をかっと開いた俺を見て、「おとこのこのおともだち、だめ?」とこの子は首を傾げた。
「だ、だめじゃない……。だめなんかじゃないぞ……。友達は多い方がいいからな……」
「パパはね、あなたがお嫁さんに行くことを考えて、寂しくなっているんだと思うよ」
何も言っていないのに、はいつものように俺の心を摘み取ってくれる。さすがすぎて言葉も出ない。
すると、この子はぽかんとして、「およめさん」とだけ口にした。そして――
「なら、わたし、パパのおよめさんがいいな」
「うぐぅ……ッ!」
「ごめんね。パパのおよめさんはママなの」
「ぐあ゙ぁッ……!!」
ジェットコースターの座席に縛り付けられて上下左右に揺さぶられている感覚だ。何度急降下してもいっこうに止まる気配がない。もしかしたら、今が人生一番のモテ期なのかもしれない。幸せだ。俺はもう何もいらない。これ以上もらってしまったら、俺の心臓が持たない。
俺が服越しに胸を抑えていると、「パパいたそう」とこの子が顔を覗き込んでくる。違う……違うんだ。俺は君のことが可愛くて可愛くて仕方がないんだ。あぁ、もういい。なんでもいい。この子が生きてさえいてくれたら、俺はそれだけで――
「いいんだッ! 俺はこの子が幸せならそれでいいんだ……っ! ただ無理してどこかの家に嫁がなくていいからな! ずっとここで暮らしていいからな! 俺が一生養うから……っ!」
「ママ、“やしなう”ってなあに?」
「ずっと一緒にいることだよ」
「じゃあ、わたしもパパとママをやしなう」ほのかに笑ったがこの子を抱きしめて、俺もごとこの子を両腕で包んだ。こんな弱い腕の中でも、二人は笑ってくれる。この笑顔を裏切らないように、俺はこれからも歩いていかなければいけない。
辛くても、苦しくても……その先にはきっと、眩しすぎて目も開けていられないほどのひかりたちが、俺の帰りを待ってくれているから。
