いつか美しくなるものがたり
サカエの街中を歩くはひとり、頭を悩ませていた。
とある平日、仕事が休みであるこの日を利用して、彼女はメイエキとサカエの呉服店をひたすらハシゴしていた。和風モダンな店から趣深い老舗まで――店頭に並んでいるパンフレット目当てに、一日中くるくると歩き回っていたのだ。
「(やっぱり、いいものは借りられとるよねぇ……)」
成人式――それは年度内に満二十歳となる人々を激励及び祝福する行事。も今年で成人を迎える。旧友と顔を合わせることももちろんだが、女子にはもう一つ楽しみがあった。そう……晴れ着である。
女子の晴れ着の多くは振袖だ。早い人ならば成人式の二年前からレンタルできる振袖を予約をしている。振袖予約のピークは一月から三月。しかし、今はすでに六月を迎えている。つまり、再来年以降に式に出る人間ならまだしも、来年の式に出席するは準備が遅すぎた。よって、今から探してもデザインに限りがあったのである。
店員に話しかけても、ほとんどの振袖は予約済みとのことで、レンタルが可能な数少ない振袖が載っているパンフレットのみ貰ってきた。去年の冬のうちに予約をしようと思っていただが、色々と忙しない時期だったので結局出来ずにいた。そうしているうちに振袖の存在が頭の隅に追いやられ、つい昨日、そのことを思い出し、今日に至るわけなのだが。
「(オーナーに相談しようかなぁ)」
この時期に振袖を探す――難しい話であることに変わりないが、オーナーならば他店の呉服店とも繋がりがあるはずだ。何かしら糸口が見つかるかもしれない。
となれば、ひとまずは自分にできることを――そう思ったは、ちょうど目の前にあった階段を下り、地下へと潜っていった。
サカエチカのクリスタル広場――名前の由来になったクリスタルのオブジェは改修工事とともになくなってしまったが、広場の名称はそのまま引き継がれている。一定の時間で変化するおしゃれなモニター、それを囲むように人が座れるようなスペースがあるため、以前と変わらず人々の憩いの場となっていた。
たまにこの広場でイベントもやっているようで、が地下に下りた時も、さっそく何かしらあったらしい。若い男女を中心に、広場の真ん中でスマホを傾けていたり、黄色い、もしくは野太い歓声が所々で上がっていた。
「(ラップバトルしとったんだあ)」
モニターに映されていたフライヤーを見上げながら、はぼんやりと思う。ビビットカラーかつ大胆なフォントで、自由参加型のMCバトルという旨が記されている。今回はチームではなく個人戦のようだ。
ラップ、よう分からんのだよねぇ。あれってどういうルールなんだろう。がそんなことをほのぼのと思っていたら、“WINNER”と書かれたボードの横に並んでいたローマ字に、思わず目を張った。
“ Evil Monk ”
邪僧を意味するMCネーム。目を張ったは、人と人の間にその小さな体を滑り込ませながら前方へと躍り出た。
「(あ……)」
空却くん……
特別目を引く赤髪の彼は、得意げに笑っていた。四方八方から写真を撮られても、マイクを片手に嬉々として応じている。清々しいくらいの笑顔を振り撒き、くしゃっと細められた目からは喜楽の色が輝いていた。
「(いいなぁ……)」
わたしも撮りたいなぁ……。でも、こっち向いた時に顔しかめられちゃったら悲しいなぁ……
が持っている空却の写真といえば、中学の行事があるたびにこっそりと購入した、空却が写っているスナップ写真しかない。正直、自分が写っているものよりも枚数が多い。今でも大切に保管して、心が疲れた時にぼんやりと鑑賞している。
……撮りたい。しかし、遠目から見る笑顔だけでこんなにも胸が締めつけられているのだから、そんなものを写真に収めてしまったら、この心臓がどうなるか分かったものではない。そんなことを悶々と考えていた時、空却と観衆の間にスタッフによる壁ができた。彼の赤髪も、スカジャンも、何も見えなくなる。「これ以上の写真撮影はご遠慮ください」――こうでもしないとお開きにならないことは分かるが、空却の姿が見えなくなって、の心は下の方にずん、と沈んでいった。
……明日、おむかえがあったら、また会えるよね。気を取り直したは、パンフレットの入った紙袋をがさっと持ち直す。人を掻き分けながら広場の中心から離れ、東通路へと歩き出したのだった。
サカエチカに存在する、とある和甘味処。休みの日は混んでいるが、平日となるとそうでもない。L字型になっている内装のおかげで、テーブル席は外から見えないような造りになっており、幸いにも一番奥の席に通された。
――さて、そんなは、こじんまりとしたイートインスペースと魅力的なお品書きに心を踊らせていた。
「(白玉にしようかなあ。あっ、どら巻きもおいしそう)」
お品書きを見ながら、は幸せいっぱいに悩んでいる。これを食べながらパンフレットを読む……なんて贅沢な時間だろう。はにこにことしながらオーダーを決めた。うん、じゃあこれとこれに――
「――なあ。どっか席空いとるか」
どきッ、と心臓が脈打つ。聞こえてきた声が鼓膜の奥の方で広がる感覚がして、は思わず店の出入口に目をやった。
店員が応対している客――死角になって見えないが、少しだけ見える赤と先程の声が答えを示していた。
あいにく満席です――店員がその旨を伝えると、店の奥までやって来た声の主と目が合った。彼は……空却は目を見開いて、驚いたようにこちらをじっと凝視している。は咄嗟に席を立って店員の元まで駆け寄った。
「大丈夫ですっ。わたし、もう出るのでっ」
「おい待て」
空却の腕が体の正面に伸びてきて、の行く道を制されてしまう。おそるおそる顔を上げると、そこには、されたら悲しいな、と先程思ったばかりの空却のしかめっ面があった。
「お前が出るまでもねえ。拙僧が出ていく」
「えぇッ」
「悪ぃ。邪魔したな」店員にそう言って、今にも店を出ていきそうな空却を見て、はぐるぐると思考を巡らせた。
空却くん、和菓子が食べたくてこのお店入ったんだろうな、たくさんラップして疲れただろうな、座りたいだろうな、喉も乾いとるだろうなぁ――ヒートしそうな勢いで頭が回る。は余裕がなかった。なので、言葉が出るよりも先に、は空却のスカジャンをがしっと掴む。しかし、ちょうどそこにベルトがあったようで、歩きだそうとしていた空却の腹囲が締まり、彼の体がぐんっ、と後退した。「ぐえッ」
「おいッ! いきなりベルト引っ張ん――ッ」
「すみませんっ。相席でお願いしますっ」
「はあ!?」
空却のリアクションを気にする間もなく、は勢いよくそう言った。すると、店員は快く頷いて、今度は空却と一緒に、改めて奥の席へと案内される。そして、二人分のおしぼりと水をテーブルに置くと、店員はバックヤードへ消えていった。
……残された二人の間に、気まずい空気が流れる。空却が深々と溜息をつきながら渋々椅子に座った時、ようやくがはたと我に返った。
「べ、ベルト、掴んでまってごめんね……」
「別に」
「あの……こっちソファー席だから、もしよかったら――」
「椅子でいい」
空却にそう切り捨てられ、う、との胃が縮んだ。もしかしたら、相席は嫌だったのかもしれない。は突拍子すぎた自分の選択をひどく呪った。
「もう決めたんか」
「えっ?」
「頼むもん」
「う、うん。あっ、お品書き渡すねっ」
さっそくがお品書きを手渡すと、「ん」と空却は短く返事をして、受け取ったそれをさらっと流し読む。そして、一分も経たない間に店員を呼んだ。
「どら巻きセットとグリーンティーフロート」淡々とそう言うと、ちら、と空却がこちらに目配せをしたので、も空却に続けて注文する。「五色白玉と、コーヒーをください」オーダーを承った店員が再び去っていくと、空却はお品書きを隣の椅子に置いた。
手持ち無沙汰になったは店内を横目で観察する。今は年配客や一人客が多く、空却を見てもちら、ちら、と視線を配らせるだけで、それ以上のリアクションはなかった。やっぱり、空却くんって有名人なんだなぁ、とは頭の隅で思った。
「……やけに大荷物だな」
「え?」
気がつくと、空却の目はの隣にある紙袋を捉えていた。
「あ……。う、うん。振袖のパンフレット、いろんなところでもらっとったら、いっぱいになっちゃって……」
「振袖ェ?」
空却が首を傾げる。そして、「お前、まだ準備してなかったんか」と呆れられながら言われてしまった。返す言葉もない。
「で? めぼしいものあったんか」
「ううん。思うようなもの、なかなかなくて……」
「まァ、この時期ならそうだろうな」
「空却くんは、もう準備した?」
「あぁ」
「スーツ? それとも、袴?」
「袴」
そうだよねぇ。なんとなく、スーツよりも袴を選びそうだったので、空却の和装が好きなは嬉しく思う。
別の意味で成人式が楽しみになったは、ぴこんっ、と唐突に閃いた。
「空却くんは、この中でどの振袖がすきっ?」
そう言って、は紙袋から適当なパンフレットを空却に渡す。空却くんがこれって言ったのにしよう――そんな下心を持ちながら。
差し出してから、受け取ってくれるか不安に思っただが、しばらくしたら、片手を伸ばした空却がパンフレットを受け取った。
「……似たようなやつばっかだな」
「そ、そうかなぁ……?」
パンフレットをぺらぺらと捲りながら、空却は独り言のように呟く。時折、一つのページで止まってはこちらを見て、不服そうに唇を尖らせてまたパンフレットを捲る……そんな動作が何回か続いた。
結果、「どれもぱっとしねえ」と言った空却は、ついにパンフレットを閉じてしまい、に返却する。そっかぁ、と残念そうに肩を落としながら、は空却からパンフレットを受け取った。「つかさァ、」
「仕立ててもらやあよくね」
「えっ」
「お待たせいたしましたあ」タイミング良く、飲み物が届いた。テーブルに置かれたコーヒーの匂いも分からないくらいが絶句している中、空却は届いたフロートにストローを差した。
「したてって、お仕立てのこと……?」
「それ以外に何があんだよ」
「空却くん、あの……お仕立てってレンタルよりもすごく高くてね……? 安くても何百万とかで――」
「んなもん知っとるわ。拙僧の袴も一から仕立ててもらったぞ」
えぇっ、とは悲鳴を漏らしそうになった。空却と会話をしていても、金銭感覚については自分と似たようなものを持っている感じはするが、時折あの厳格な佇まいを見せる寺院の跡取りの片鱗を垣間見るのだ。今がまさにそうである。
「わっ、わたし、そんなにお金持っとらんくて……っ」
「お前の母親は」
「え……? おかあさん……?」
「自分の親の火葬に間に合わんかった社畜でも、さすがに我が子の晴れの日に一円も出さんってわけはねえだろ」
少しだけ棘のある物言いだ。なんとなく、その矛先が自身の母親に向かっている気がして、は首を傾げた。
空却くん、わたしのおかあさんと会ったことあったっけ……? カヨの葬式の日、自分達と入れ違いで葬儀場には来ていたらしいが、本当にそれきりで、実際に顔を合わせてはいないはずだ。しかし、空却が顔も知らない人間に対してそんな態度を取るのも珍しい。いくら考えても、の疑問は解消されなかった。
おかあさんかぁ……。はいつぞやにした母との電話で、受話器越しに聞こえてきた声を思い出しながら口を開いた。
「おかあさん、いくらでも出すからねって言っとったんだけど……。お金ちょうだいって言って、出してもらうのもなんだか申し訳ないし、お仕事も忙しいだろうから、成人式の当日も無理して来んくていいよって言って、それきり……」
すると、空却は舌打ちとともに深い溜息をついた。馬鹿かお前、という副音声が聞こえてきた気がして、は体をきゅっと萎縮させる。
「此の親にして此の子ありだな」
「え……?」
「要はお前、親に成人式来んなって言ったようなもんだろ」
「えぇッ。そっ、そんなつもりは――っ」
「そんなつもりなくてもそう聞こえんだよ。晴れの日に親に向かって無理して来んくていいってなんだよ。意味分からん。そういうのは無理しても来るもんだろうが」
たしかに――自分がその旨の言った後、電話の奥の母の声がとても沈んでいたような気がする。自分なりに母を気遣ったゆえの言葉だったのだが、むしろ傷つけてしまっていたとは。謝ろうにも、その電話をしたのは半年前だ。はさあっと顔を青くさせた。
「どっ、どうしよう……っ」
「まァ、言っちまったもんは仕方ねーわな。どうすんのかはお前の自由だが、そんだけのこと言っといて、あとから金出せって言うのも虫がいい話だと思うが」
ごもっともだ。さすが僧侶――いや、こればかりはそもそもの人間性の問題かもしれない。は沈んだ顔でコーヒーにミルクを注いだ。
「ったく……」声を漏らした空却はテーブルに肘をついて、不機嫌そうに頬杖を立てた。
「カヨばあが何か遺してねーのかよ」
空却の言葉にぎく、との肩が震える。「あ、あのね……」そう切り出したは、バッグの中から一つの通帳を取り出した。
「……なんだこれ」
「このあいだ、ばあばのお部屋の整理しとったら、たまたま見つけて……」
このあいだ、といっても一ヶ月前のことだが。それでもカヨが亡くなってから五年以上経つので、このあいだと括っても間違いではないはずだ。
“ちゃん 振袖 花嫁衣裳”――そんな文字が筆ペンで細く書かれている、一冊の通帳。初めてそれを開いた時、記帳された金額には思わず目眩がした。未成年が持つべきではない額のお金が記されていた。
それとは別に、花嫁衣裳……は着る日が来るかどうかはさておき、振袖用の資金を取っておいてくれたカヨに、は感謝の気持ちでいっぱいになった。その日のお供えはカヨの好物である豆大福にした。
は空却に通帳を手渡す。筆ペンで書かれた文字に目をやった空却は通帳を捲り、その金額を見ると、ヘェ、と口角を上げた。
「カヨばあ、結構なもん遺してくれとんじゃねえか。こんだけありゃあ、頭から足の先まで着飾れんだろ」
「あ……。そ、その……」
「なんだよ。まだ何かあんのか」
凄む空却に圧倒されつつ、は視線を泳がせながらぽつぽつと言葉を落とした。
「そんな大金使うのもったいないから、振袖はレンタルにして、余ったお金は老後の生活費にしようと、思っとって……」
……沈黙。後に、あからさまに“馬鹿かこいつ”という目でを見る空却。う、と喉の奥に言葉が詰まる。すると、空却は片方の手をこちらに差し出した。
「紙袋寄越せ」
「へ……?」
「いーから寄越せ」
どことなくご立腹な様子の空却に言う言葉もなく、は忙しなく紙袋を両手で持った。少しばかり重量のあるそれを、空却は片手で軽々と受け取り、隣の椅子にがさがさと置いた。
それから、に何か言うことはなく、すん、と黙ってしまった空却。状況が飲み込めないはこわごわと口を開いた。
「空却くん、そのパンフレットどうするの……?」
「うちで燃やす」
「えぇっ!?」
「お焚き上げ用の紙がちょうど足りんかったんだわ。これで親父の手土産が出来たな」
カラカラと笑う空却に、は紙袋と空却を交互に見やった。
「ぱっ、パンフレットはおうちで見ようと思っとって……っ!」
「晴れ着はカヨばあの金で仕立てるんだろ。レンタル用のパンフ見ても意味ねえだろうが」
有無を言わさぬ空却の言葉に、うぅ、と小さく唸るも、こればかりはは負けじと食い下がった。
「おっ、おばあちゃんになるまでにお金貯まるか分からんから、今のうちにできるだけ貯めておきたくてっ」
「目先のこと出来とらん奴が一丁前に未来のこと考えとんじゃねえよ」
「お仕立てしんくても、レンタルの中で選ぶからっ」
「それでも気に入ったのがなかったんだろ。妥協した振袖借りて、夜中カヨばあに枕元で立たれても知らんぞ」
「え……!」
「おいなんでちょっと嬉しそうなんだよ」
家の柱を齧るあの小動物に比べたら、お化けや幽霊の類はさほど怖くない。身内の霊なら尚更だ。しかしまあ、本題はそこではないので、は話を戻した。
「お仕立ては生地から選ばんとかんし、他の小物との組み合わせとかあるし……。わたし、センスないから、ぜったいにちぐはぐになってまう……」
「知るか。つかそれでも呉服店員かお前」
厳密にいえば、はカフェ側のスタッフである。それに、普段着の着物と振袖のコーディネートは訳が違うのだ。そう言っても、空却に軽くあしらわれる未来が見えてしまって、結局のところ、の口は閉じたままだった。
「そんなに不安ならダチか誰かに決めてもらうんだな」これ以上言うことはないと言わんばかりに、椅子の背もたれに体を預けた空却。がじいっと紙袋を見ても、返してもらえそうな空気にはならなかった。
ダチか誰か――空却の言葉に対して、藁にもすがる思いで、は小さく呟いた。「じゃあ……」
「空却くん、決めてくれる……?」
ぴく、と空却の体が揺れた。そしてははたとする。あれ、いま、すごいお願いしてまった……?
固まった空却がこちらを見ている。するも、自分が今言ったことがじわじわと甦ってきて、の全身に熱が迸った。
「へっ、変なこと言ってごめんねッ。今のは忘れ――っ」
「決めていいんか」
「え……?」
「お前の晴れ着」金色の目がまっすぐを射抜く。その眼差しから目を逸らせるわけもなく、ぽかん、としたは頭が真っ白のまま、ありのままの言葉を口にした。
「空却くん、決めて、くれるの……?」
「拙僧が聞いとんだろうが」
やっとのことで出た言葉もすぐに返されてしまう。ろくに働かない思考の中で、が出来たことは首振り人形のようにこくこくと頷くことだけだった。
「……女の着物、選んだことねえから、流行りとか一切分からんぞ」
「う、うんっ」
「着物と帯だけじゃなくて、細々したもんもあるんだろ。女は。それも決めるんか」
「空却くんが面倒じゃなかったらっ」
空却くんが振袖選んでくれる――そう考えただけで、はだんだんと気分が高揚してくる。もしも今この場で立っていたら、スキップなんかしていたかもしれない。
空却はフロートに手を伸ばして、ストローを咥える。は、みるみる減っていくグリーンティーのかさを見つめていた。すると、ストローから離された空却の口は「気に入らんくても、後で文句言うなよ」と形どる。ぱあっ、と笑顔を咲かせたは、満面の笑みで空却の言葉に応えた。
「空却くんが選んでくれたものなら、わたしなんでも着るよ」
レンタル品に気に入るものがなくてよかった。そうでなければ、空却が振袖を選んでくれるなんてことになっていなかっただろう。
うれしいなあ。うれしいなあ。はえへへ、と心の中で笑いながらコーヒーを傾ける。カフェインの芳ばしい香りと苦味が、幸福で満たされた頭をじわじわと刺激する。空却はというと、先程飲んだばかりのフロートに再度口付けており、そっぽを向いたまま勢いよく飲んでいた。やっぱり、喉乾いとったんだねぇ、とひとりでに思いながら、の口角はしばらく上がったままだった。
趣深い日本家屋としてひっそりと存在しているそこは、大正云年創業の呉服専門店。空却に連れられ、サカエの隣にあるヒサヤまでやって来たは、荘厳な佇まいを見せるそれを見て、血の気が失せたような顔をしていた。
「おい。なに後退りしとんだ」
「こっ、このお店に入るの……?」
「拙僧が袴仕立てた店だ。別に疚しいとこじゃねえよ」
そうではない。そうではないのだ。空却から視線をずらし、は再び店を仰ぎ見る。これは……そう、たとえば、和装を着た仕事を生業としている人達が利用するような、ホテルでいう五つ星のそれなのだ。少なくとも、未成年が利用していいような店ではないことは雰囲気から感じ取れた。
は今の自分の格好を見てみる。メイエキとサカエチカに行くということで、それなりによそ行きの格好をしてみたが、まさかこんなところに来るとは思っていなかったので不釣り合いが過ぎた。場違いという言葉がの脳裏に過ぎる。
なのに、空却は何食わぬ顔ですたすたと店内に入ろうとするものだから、は二重に驚く。もちろん、の足は一歩も動かず、空却の背中を見送るだけしかできない。そんな気配を感じとったのか、空却が勢いよく振り返り、大股でずんずんとこちらに近寄ってきた。「お前なァ……」
「本人が店入んねえでどうすんだよ!」
「くっ、空却くん、好きに決めて大丈夫だよっ……。わたし、採寸の時までここで待っとるから……っ」
「なんで拙僧一人で女の着物選ばなかんのだっ! 他人任せにも程があるわッ」
「ううぅぅ~……ッ」
ど正論をぶつけられてしまい、は勇気をふり絞って歩を進めるしかなくなった。ただ、空却の後ろに隠れるようにして、その足が彼より前に出ることはない。
無意識に、が空却のスカジャンの裾をくい、と掴むと、ほんの少しだけ彼の歩幅が緩やかになった気がした。
ひとたび入ってみれば――というもので。眼前に飛び込んできた反物の数々に、先程までへっぴり腰だったは目をきらきらと輝かせた。
「(わああぁぁ~……っ!)」
衣紋掛けや衣桁にかけてある着物の柄や色味、そして所狭しと並んでいる帯揚げや帯留等の小物を見て、は小走りになりそうになる足をぐっと堪える。それでも、視線だけは四方八方にくるくると回っていた。
あの小紋のお着物きれいっ。あの絞りの色いいなあ。あっ、この帯の柄も今風ですごくかわいい――そう何気なく見ていたら、ちらっと揺れた帯の値札にの背筋がぴしりと凍った。
「(ひゃっ、ひゃくまん……っ!?)」
いち、じゅう、ひゃく、せん……丁寧に数えても、その桁は変わらなかった。高揚していた頭に冷水がかけられて、は平常時以上の冷静さを取り戻した。
の店でも、来訪した作家達が売り物として新作の着物や帯を持ってきてくれることがたまにあるので、それらの相場は何となくわかる。どれもこれも特別な一品もので、この帯も、きっと名のある着物作家が手がけたものに違いない。
帯がこの価格なら、着物はどうなるだろう――店のレベルに圧倒されてしまったは、途端によろよろと後退する。すると、とすん、と背中に何か固いものが当たって、思わず体を揺らすと、空却の平静な眼差しで見下ろされていることに気づいた。
「あ……。ご、ごめんね、空却くん……」
固いものが空却の胸板だと分かって、はそこからさっと退く。空却はの背後から動かないまま、緩く息を吐いた。
「……そんなに嫌なら店変えるか」
「え……」
は言葉をなくす。嫌とかでは、ない。ただ、こんな大層なところで着物を選んでしまっていいのかと、思ってしまっただけで。
誤解、されとるかも……。だめ……ちゃんと、言わんとかん。は頭の中で言葉を組み合わせながら、口を開く。その間、空却は何を言うこともなく、じっと待ってくれていた。
「や、とかじゃ、なくて……」
「なくて?」
「振袖、成人式で一回しか着んのに、無駄遣いじゃないかな、もったいなくないかな、って……」
瞬間、空却にすっと目を細められる。針を刺すようなそれに、は泣きそうになった。
おっ、怒られるかなぁ……っ。怒鳴られる覚悟を半ばをしていただったが、空却の口から漏れた声は比較的穏やかなものだった。
「むしろ、機会が少ねえからそれだけ気合いれんだろ」
「そ、そうなの……?」
「一生に一度しかねえ節目だ。いわば勝負服に近い。二十歳になって、晴れ着に袖通して、これから先の人生を歩む己を鼓舞するもんだろ」
が見ていた帯を見下ろしながら、空却は言葉を続けた。
「住む家と食うものに困るっつーなら話は別だが、そういうわけでもねーのに使うもん使わずに半端な晴れ着にしてみろ。これから先のお前の人生、それなりの道しかできなくなるぞ」
「まぁ、すべからく本人の気の持ちようだが」空却の言葉がじんわりと胸に染みてくるのを感じて、はおそるおそる口を開いた。
「空却くんも、同じ……?」
「あァ。こればっかりは値札見ずに決めた。親父も何も言わんかったしな」
の中にはなかった考え方だ。与えられた言葉に圧倒されている中、空却は、「で、どうすんだ。店変えんのか。拙僧はどっちでもいいが」とに判断を委ねた。
は、改めて店全体をくるりと見回す。遠目から見ただけでも、素敵な柄の半物と小物ばかりだ。この中から自分が着る振袖を仕立てることができると思うと、正直心が踊る。たった一度の成人式……だからこそ、大人になる自分に見合う晴れ着を着る。これから先、今まで生きてきた時間よりも長くなるであろう人生を見据えて。
……うん。は、自分を納得させるように頷いた。
「ここで……みてみる」
「ん」
短く返事をした空却は、店の奥に佇んでいた店員に「振袖用の反物、出してもらえるか」と端的に言った。まるで知り合いのような物言いにはぎょっとしてしまうが、その店員も朗らかに応え、こちらに歩み寄ってきた。
「お色はお決まりですか?」店員である老婦人にそう話しかけられ、空却がちらりとこちらを見下ろす。不自然な沈黙を浴びたは、焦ったように店員と空却を交互に見比べた。すると、「着物の色くらい好みがあんだろ」と空却は言う。どうやら、色は自分は選べ、ということらしい。
はにこやかな店員に対して緊張しながらも、芯の入った声でこう言った。
「赤色で、お願いします」
そうして、の振袖選びが始まった。
畳の間に案内されたと空却。正座をしながら身構えていると、反物を取りに行った店員が奥から戻ってきた。「今の時期ですと、それほどお品物はないのですが……」そう言いながらも、店員が用意してくれた反物は八つもある。八つでもすごい、とは感服した。
すると、空却は顔色一つ変えず、「そん中で無地のものあるか」と店員に言う。無地? という目で空却を見上げると、空却はを一瞥してから、再度反物に視線をやった。
「どうせ他の女の振袖も柄物ばっかだろ」
「う、うん……。たぶん……?」
「なら柄がねえ方が人の目ェ引くだろ。あとは帯なり何なり派手にすりゃあ全体が映える」
目から鱗が落ちた。女子の中で振袖は目立ってなんぼ……大胆な発想の転換には言葉もなく瞬きしかできなかった。
やはり、柄物の方が需要があるらしく、無地は比較的在庫があるようだ。店員は表に出した反物から内三つを除外すると、五つの反物を目の前で広げ始めた。
無地と一言でいっても、刺繍があるものとないもの、色のグラデーションがあるものとないもの……種類は様々だった。色はどれも赤だが、彩度が高い鮮やかな赤だったり、明度の高い薄赤だったりと、各々で微妙に色が違っていた。
どれも素敵で選べん……。があちらこちらに目をやっていると、空却からの視線を感じて、顔を上げた。どうやら、選択を委ねてくれているらしい。空却のやさしさに体が温かくなりながらも、は早々に助け舟を求めた。
「空却くんはどれがいいと思う……?」
「お前、マジで拙僧に全部任せんのかよ……」
呆れたように溜息をつく空却。すると、「一番右」と即答した。理由を聞く暇もなく、店員がその反物を手に持って柄をよく見せてくれた。
それは、黄味の強い鮮やかな朱色だった。グラデーションのない一色だが、上前や袂には、生地と類似色の糸で色蔦模様の細かい刺繍が施されている。近くから見てもさほど目立たないが、遠目から見れば、生地の色と相まって刺繍の柄が際立って見えた。
「すごく綺麗な色だねぇ……」
「普段から枝みてえな色ばっか着とるから余計だろ」
「えっ、枝……っ」
「で、これでいいんか」
空却の言葉に、は頷いた。店員が他の反物を片してくれている中、選んだ反物のお値段いくらだろう、と一抹の不安を抱きながら。
すると、「帯はいかがいたしましょう」と休む暇もなく店員が尋ねる。空却が「なるべく派手なやつが見てえ」と言うと、これはかなりの量の反物を裏から持ってきてくれた。帯用の反物が次々に広げられていくが、どれも柄が大きく、柄の部分は金や銀の糸で織られているものがほとんどだった。
その中で、とりわけの目を引いたものがあった。
「(かわいい……)」
白生地に、光沢のある金糸で花の刺繍が施された帯の反物。名もしれない花だが、白と赤の組み合わせは王道だろう。他の反物が広げられていくが、の目がその帯から離れることはなかった。
「……蓮の花か」
「え……?」
気がつくと、空却も同じ反物に目をやっていた。空却の言葉を受けて、も帯にある柄をよくよく観察すると、たしかに、池によく浮いている蓮の花のように見えた。
「空却くん、ひと目で分かったのすごいねぇ」
「蓮は仏教と縁近い花だからな」
「“池の中に蓮華あり、大きさ車輪の如し”……ってな。経の中にも出てくる」そういえば、空却の寺の池にも蓮の花が浮いている。他の文学作品でも、仏と蓮の花はセットである印象が深かった。
そういえば、学校でもやった気がする。中学の頃に習ったお話、なんだっけ? 悪い事をした人に向かって、お釈迦様がなにかしてくれるお話……なんだったっけ、羅生門だっけ?
「“蜘蛛の糸”」
「あっ」
「分かりやす」く、と薄く笑んだ空却を見て、の顔に熱がぐんっと集中する。しかし、空却はすぐさま真顔になって、静やかに帯を見下げた。
「蓮の花がもつ五つの特徴……それを五つの徳として象り、それらの心を持てば、そいつは極楽に生まれることができるって話だ」
蓮の花の特徴と人間の心を穏やかに語る空却にじっと見入ってしまう。いつも以上に聴覚と視覚に神経が研ぎ澄まされて、も彼の言葉を聞き入った。そして、なによりも――
「(金色だあ)」
蓮の花が描かれている糸は金色。はちら、と空却を盗み見る。静けさを帯びる目には、いつもの鋭い眼光を放たれておらず、柔らかい金色が浮かんでいた。
……これがいいなぁ。下心を孕んだ目でぼんやりと帯を見つめていると、「で、それにすんのか」と不意に声がした。
「あ……。その……」
「いんじゃねーの。選ぶとは言ったが、自分の気に入ったもんがあるならそれに越したことはねえ」
空却の言葉もあって、は「これに、します」と店員に申し出る。すると、着物と同じように帯の反物が店員の傍らに置かれた。自分の気に入った、二つの反物を見るだけでもふわふわと気分が高揚してきた。
「では、ひとまずお着物と帯で併せましょうか」そう言われて、はその場から立ち上がる。反物の状態でも、生地を体に纏わせると、仕立てた状態と同じような姿が見れるのだ。
「空却君。お小物でしたら奥にありますから。気になるものがあったら持ってきて頂いて構いませんよ」
衝立を準備していた店員の声を聞いて、は再び驚いてしまう。一方、店員の言葉を受けた空却は涼しい顔をして、「女の小物って何がいるんだ」と平然と会話を始めた。
「こちらに図説があるのでご参考までに」「おー。さんきゅーな」店員から一枚の紙を渡された空却は畳の間を下りて、店内の中を散策し始めてしまった。
二人のやり取りを見たが呆然としていると、店員は顔の皺を深くしてにっこりと笑んだ。
「空却君とは、七五三さんからの付き合いですからねぇ。七歳の頃からああして自分で歩き回って、お着物を選ばれてましたよ」
「そ、そうなんですね……っ」
どうりで親しげのはずだ。そんな調子で、店員と他愛のない会話――主に空却のこと――をしながら、は手を上げたり、生地を持ったりして併せの補助をしながら、自分の体にくるくると巻かれていく反物を眺めていた。
……そして、振袖と帯がほぼ完成形に近い形で自身に着付けられる。姿見に映された自分を見たは、ぱあっと顔を綻ばせた。
「(きれいっ。すごいっ。きれいっ)」
わあぁぁっ、と心の中で歓声を上げる。「お綺麗ですよ」と店員さんも満面の笑顔だ。
そんな時、ちょうど空却が戻ってくる。足音がして、思わず空却の方を向くと、ばちっと目が合った。空却の足が不自然に静止したかと思えば、再び動き出して、こちらに歩み寄ってくる。その手には、帯締めや伊達衿などの小物を何種類か携えていた。
「流石ですねぇ。目が肥えていらっしゃる」「これとこれで併せてくれ」空却は店員に小物を一式纏めて渡し、彼女はさっそく併せに取り掛かる。そして、空却は再び店内を見て回りに行ってしまった。
「(はずかしい……)」
何か一言言ってくれるかな、と思っていた内なる自分をぽかすかと叩く。正直、は期待していた。馬子にも衣装、くらいの賞賛の言葉を。しかし、空却の口からそんな言葉が飛び出したら最後、その場で蹲ってしまう気がしたので、何も言ってもらわなくて逆に良かったのかもしれない。
が一人で反省会をしていると、店内散策から戻ってきた空却が再び畳の間へ上がった。手には、また新たな小物を携えており、併せが終わった小物達をじっと見つめている。
「抱帯……だったか。これ、片方だけ垂れさせたら駄目か」「いいえ。そういう着こなしをされる方もいらっしゃいますよ」「じゃあそうしてくれ」――が口を挟む隙もないくらい、二人の間で淡々と会話が進行される。はされるがままに着せ替えられ、時折、空却と視線が交じってはさっと俯くばかりだった。
小物をころころと替え、様々な組み合わせを試していく。その度に、空却が首を傾げては店員にああだこうだと注文して、小物が一つずつ、徐々に固定されていく。その間、空却が肩がくっつきそうなくらい近距離にいたので、は緊張と羞恥を顔に出さないようにすることに必死だった。いっそ人形になってしまいたい、と思ったのも一度ではない。
――そして、同じような時間が何十分か続いた。の足がだんだん痺れてきた頃、空却はようやく納得するように、「ん。良し」と声を漏らした。
「わああぁぁ……ッ!」
鏡に映った自分を見て、は思わず震え上がる。隣にいた店員も満足そうに頷いており、は感動のあまり、口をぱくぱくと開閉するばかりだった。
それでも、相変わらず空却からは何の反応もない。がおそるおそる見上げると、ちょうどこちらを見ていたらしい空却の目にばちっと射抜かれた。
「へ、へんじゃないかな……っ?」
「似合わんもの選んだつもりはねえが」
聞くんじゃなかった。真っ直ぐ見つめられたまま空却に真顔で返答されてしまい、の心臓がきゅうぅぅっ、と縮こまる。胸を抑えたくなるも、着物の襟の部分を握ってしまうことになるので、それもぐっと耐えた。皺が出来たら申し訳がない。
代わりに、「あり、がとう……」とは消え入りそうな声で空却に礼を言う。「拙僧はこれでいいが、異論はねえな」という言葉にも、は頻りに頷いた。顔は最後まで上げられなかった。
併せが終わると、店員は振袖の見積書を作りに店の奥へ引っ込んでいった。はというと、立ちっぱなしの状態からからようやく開放されたので、畳の間でへなへなと足を崩していた。洋服でもそうだが、試着というのは中々体力がいる。
店員を待っている間、人ひとり分の間隔を開けて胡座を搔いている空却に対して、はひそひそと尋ねてみた。
「空却くん、このお店の常連さんだったんだねぇ」
「あー……常連っつーか、節目のたびに世話になっとるだけだ。親父が連れてくるもんでよ」
「たしか、親父の晴れ着もここで仕立てたっつっとったな」と続けて言う。すると、ちょうど奥から戻ってきた店員が空却の声を耳に挟んだらしい。「一家揃ってご贔屓にさせて頂いておりますよ」とにこやかに返した。
「空却君のお母様の白無垢も、当店でお仕立てさせて頂きましたからねぇ」
「へー。そりゃあ初耳だな」
すると、店員がこちらを向いて微笑んだ。今までとは違う、どこか意味を含んだような笑みに、ははて、と首を傾ける。
一家揃って、白無垢――散りばめられた言葉が頭の中でパズルのように組み合わさっていき、店員の意図が分かった途端、は全力で首を振ってしまった。
「わっ、わたし……っ! その、そういうのじゃなくてっ……ち、ちがうんです……っ!」
「あらっ。ごめんなさいね、私ったらてっきり……」
二人の間に気まずい空気が流れる中、「あ? なんだよ」と、空却だけが眉を顰めて首を傾げていた。
着物、帯、小物諸々、そしてあの後に選んだ長襦袢。晴れ着一式がすべて揃った時点で、はなんとなく嫌な予感がしていたのだ。
「(ひゃああぁぁ……ッ!)」
電卓に現れた数字を見て、は心の中で叫んだ。カヨの通帳のお金を持ってしても足りないその金額……未成年が見るには刺激が強すぎてしまった。
「お着物は無地でしたので、他のものよりもお値段は控えめなのですが、帯が少々……」の反応を汲んだ店員が、言いづらそうに口ごもっている。分割払いが脳裏を過って尋ねてみたが、「手数料勿体ねーからやめろ」と空却からの横槍が入った。
帯……たしかにあの中で一番高価そうだった。しかし、は一式の中でこの帯が一番気に入っている。他のものはどうしても選べる気がしなかった。
となると、変えるなら小物だ。帯揚げ、帯締め、抱帯、伊達衿、そしてあの後に選んだ下駄――伊達衿と抱帯以外なら、元々持っている私物で何かしら合うものがあるだろう。最悪、購入するのは着物と帯と小物二種類だけでいい。「おい」
「一応言っとくが、着物と小物はいじんなよ」
「ええッ」
「合うのがこれ以外にねえ。変えるんなら帯にしろ。色は白ならなんでもいい」
崖から突き落とされたような衝撃が体に走る。色云々ではなく、この花がいいのだ。空却が穏やかに仏教のことを入り混ぜて話してくれた、この蓮の花がいいのだ。昔から、空却の言葉にめったに否と言わないだが、今回ばかりはぶるぶると首を横に振った。
「わっ、わたしも帯だけはいじれんっ」
「はあぁっ? 白帯なら他にもたくさんあったろうが」
「そ、そうなんだけど……っ。どうしてもこの帯がよくてっ」
「駄目だ。縁がなかったと思って諦めろ」
「空却くん、さっき好きなものに越したことはないって言っとったぁ……っ」
「あ? んなこと言ったか。忘れたわ。つかお前、茶屋にいた時はなんでも着るっつったろ」
「じゃあ、帯だけ買って振袖は別のところで見る……っ」
「この期に及んで訳分からんこと言っとんじゃねーぞッ」
あと一押しされたら負けてしまうところで、タイミング良くカラカラ、と店の引き戸が開いた音がする。「ごめんください」――どことなく聞き覚えのある声に対して、「げっ」と空却が苦い音を漏らした。
「先日依頼した襦袢を取りに来たのですが」
店員さんが声の主を見るなり、「いらっしゃいませ波羅夷様。ただいまお持ちいたしますね」と言う。え、とも後ろを振り返ると、予想通り、そこには灼空がいた。
店員が畳の間から離れていく間際に、ゆっくり悩んでね、とに耳打ちをする。が精一杯の愛想笑いを浮かべている最中も、空却は「クソ煩えのが来た……」とぶつぶつと不満を垂れていた。
「空却……と、ちゃんか。こんにちは」
「こ、こんにちは」
にこやかに挨拶する灼空は相変わらず穏やかな物腰だ。が軽く頭を下げると、灼空は不貞腐れた様子の空却に目をやった。
「それで、お前は何をしとるんだ。袴はこの間仕立てたばかりだろう」
「んなもん知っとるわ。こいつが成人式の晴れ着選んでほしいっつーから、その付き添いだ」
すると、愕然とした顔をした灼空がにおそるおそる言った。
「うちのドラ息子にそんな大事なことを任せていいのかちゃん……。そういう大事なことはきちんと人を選ばなかんぞ……」
「あ゙!?」
「それで、いいものはあったか?」
「シカトすんじゃねえよッ!」空却の怒鳴り声など諸共せず、灼空はにこやかに尋ねる。衝立式の衣桁にかけられた晴れ着一式を見やって、はぼそぼそと答えた。
「これがいいなぁっていうものは決まっとったんですけど――」
「金がねえ」
ストレートに言ってしまった空却に、は体をしぼめる。お金を払えない恥ずかしさが頭を満たす前に、灼空がふむ、と何か考えるように顎に手を当てた。
「ちゃん。ちなみに、晴れ着は全部でおいくらかな」
灼空に言われて、はこわごわと電卓を見せる。金額を見た灼空は、ほう、と声を上げただけで、驚いた様子はなかった。が謎の沈黙を見守っていると、不意に灼空が空却を見下ろした。
「空却。少し外に出ていなさい」
「はあ? なんでだよ」
「いいから早よせい」
ぐぬ、としばらく不服そうにしていた空却だったが、一際大きな舌打ちをして店の外へ出ていった。残ったのはと灼空の二人だけ。灼空は改めて衣桁にある晴れ着を見やって、穏やかに笑んだ。
「とても綺麗な着物だ。当日はさぞかし映えるだろう」
「空却くんが、ほとんど全部選んでくれたんです」
「そうか。脳味噌が小学生のまま成長しとらんくても、飾り事のセンスだけは認めざるを得んなぁ」
前半の言葉はさておき、なんだかんだで灼空も空却のことを認めているのだ。本人の前で言わないだけで。は自分のことのように嬉しくなって、ほのかに笑った。「一つ、相談なんだが」
「この晴れ着は、私に買わせてくれないか」
「え」
決してさらりと言ってはいけないことを、川の水が流れるように言ってのけた灼空。は今日何度目か分からない絶句をして、我に返った後に慌てて首を横に振った。
「だっ、だめですそんなのッ。自分のものは自分でやりくりしますッ」
「しかし、実際問題足りないのだろう」
「分割払いでもできますからっ」
「それは手数料が勿体ないから止めた方がいい」
空却くんと同じこと言われてまった……。はどもどもしながらも必死に言葉を探す。そんなことをしているうちに、灼空が畳の間に上がり、綺麗な所作での前に正座をした。
「ちゃん。例のことだが、あの時、ちゃんが診察代諸々を断ったのを覚えているかな」
例のことと言われて、の体が強ばる。無意識に右の耳に手を当てると、灼空はそのことだ、と言わんばかりに深く頷いた。
忘れもしないあの日……病院に行き、診察を済ませた後、その後の空却がどうなるか展開が読めてしまったは、灼空の前に跪いて許しを乞うた。今思えば、ほとんど泣き落としのようなことをしてしまった気がする。しかし、そうでもしないと、空却に過失があることを認めてしまうようで嫌だったのだ。決して狙ったことではないが、あの場には獄もいたので、大人二人を説得するにはああするしかなかったように思う。
同じ理由で、診察代も自分で支払った。後日、灼空が空却とともに謝罪に伺うとも言われたが、それも同じく。おそらく、通夜のような顔をして来訪するであろう二人を、はどうしても見たくなかった。
「結局、私達はちゃんに何もしていない。……まあ、空却のことは病院から帰ってきた後にタコ殴りにして、一週間ほど堂に閉じ込めたが」
「え」
「ああ、さすがによそ様に訴えられかねんので、水と食事は与えていたよ」家畜を扱うような物言いに、は言葉の処理が追いつかない。たしかに、あの件から久々に空却と会った時、顔や体にガーゼやら湿布やらが貼られていた……ような気がする。もちろん、そんなことは本人から何も聞いていない。
……話が逸れてしまう。今の問題はそこではないのだ。
「な、何もってわけじゃないです。空却くん、お仕事終わったらお迎えに来てくれてますしっ」
「あれはあいつがやりたくてやっていることだから数に入れないでほしい」
そんなぁ……。は為すすべなく肩を落とす。すると、灼空は深く息を吐いて、ふっと目を伏せた。
「こんなことで、件のことを帳消しにしようなどと思っていない。女の子の体に傷をつけたのだ。三百六十五日二十四時間、何十年かかって得を積もうが、到底許されることではないことは重々承知している」
ただ、あいつの保護者として、それくらいのことはさせてくれないだろうか
ひどく悔やんだ表情を浮かべた灼空に、の心が揺らぐ。自分勝手に相手のことばかり考えていたせいで、肝心なものが見えていなかったことに気づいた。相手も、何かしら贖罪を探して日々を生きている。自身の遠慮の心が灼空の首を絞めていたことに、はさっと顔を青ざめさせた。
それでも……それでも、さすがにこの金額は。うう、とは苦しげに言葉を発した。
「全額じゃなくて、二割だけ負担していただくというのは……っ!」
「すまないが承諾しかねる」
灼空に即答されてしまい、はさっそく心が折れそうになる。もう紡げる言葉はろくにないというのに、「でも、でも……っ」とは引き下がる意志を持ち合わせていなかった。
そんなを見かねてか、灼空は「……では、こうしようか」と切り出した。
「来週の日曜に境内の草むしりをするのだが、ちゃんも来てくれないか。ボランティアで近所の小、中学生も手伝いに来てくれるが、なにぶん広いから人手が足りなくてな。終わった後はささやかながらお菓子も用意してある」
「草むしりでもなんでもしますっ!」
前のめりになりながら、は早口で言った。「よし、」と話は決まり、灼空はさっそくスマホを取り出す。誰かと電話をしているようだが、おそらくは空却だろう。案の定、電話が終わった後、膨れっ面をした空却が畳の間に戻ってきた。
ちょうど、店員も奥から出てきて、灼空の襦袢をたとう紙に包んで持ってきていた。灼空が店員とやり取りをしている最中、隣に来た空却が「おい」と声をかけた。
「親父と何話しとった」
「晴れ着のことで……いろいろ……」
「ふーん。で、どうすんだ。帯変えんのか」
「私が全額支払うことにした」
横から入った灼空の言葉に、空却が珍しく豆鉄砲を食らったような顔をする。そしてすぐさま、「へえ! 親父のわりには太っ腹じゃねえか!」とからからと笑いだした。そんな空却を見て、灼空はやれやれ、と肩を落としている。も、落とし所的に喜ぶに喜べない状況だ。
「んで? なんでそんな青い顔しとんだお前」
「いっぱい身売りしんとかん……」
「は?」
「ちゃん。その言い方だと私が極悪非道な男になってしまう」
襦袢の受取書にサインをしている灼空に向かって、空却が詰め寄った。「おいクソ坊主こいつに何言ったッ!」「そう目くじらを立てるな。来週の草むしりを頼んだだけだ」殺気立つ空却にも動じず、灼空は涼やかに言う。すると、途端に怒りの矛先がに向かい、きッ、と空却に睨みつけられたは体を怯ませた。
「草むしり如きで身ィ売るんじゃねえよッ!」
「身を売るつもりでがんばるっていう意味でえぇぇ……ッ」
「ちったあ言葉選んで使えやッ!」
「えと……えと……っ。……あっ、身を捧げる覚悟でがんばるっ」
「同じ意味だわ馬鹿! 国語力ねえくせに難しい言葉使っとんじゃねえぞッ!」
「女の子に怒鳴るんじゃない大馬鹿者ッ!」
ごちんッ。が思わず目を瞑るほどの打撃が生まれる。「ッてェなッ!! 骨と皮しかねえ拳骨かますんじゃねえよッ!!」「まださほど老いとらんわッ!!」始まってしまった壮絶な親子喧嘩。店員はそれを穏やかな目で見守りながら見積書を作っている。きっと何度も見ている光景なのだろう。ちなみに、は何年見ても慣れないし、年々勢いを増していくそれに心臓が縮む思いだった。
振袖代は後日支払いとのことで、その日はもちろんも灼空に付き合う。今日は、あとは採寸が残っているそうなので、は店員とともに別室に行くことになった。
店員が採寸の準備する最中、空却と灼空が未だにがみがみと言い合いをしている。店の奥に行く前に、は空却に向かって声を張った。
「空却くんっ」
「あ゙!?」
「振袖、選んでくれてありがとうっ」
そう言うと、空却が今まで灼空に当てていた怒気がみるみる消沈していったように見えた。そして、そっぽを向きながらも、「……おう」と静かに応える。それだけで、は笑顔を浮かべる理由になった。
えへへ、とひとり笑って、は採寸の支度が整った店員の後についていく。「まったく……。着物から下駄まで自分の趣味に走りおって」「走ってねーわッ!!」途中、そんな二人の声を背中に受けながら、は来たる成人の日に向けてよしっ、と心の底から気合を入れたのだった。
